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2019年7月21日 (日)

核廃絶運動は歴史的厳しさに直面している (3) ――憲法の復権と民主主義の再生が必要――

前回は《被爆者を無視する外務省》に焦点を合せて、被爆者を排除し、被爆者の主張には耳を傾けず、それだけでは足らずに被爆者を「バカ」呼ばわりまでする外務省の態度を検証しました。

これが、外務省の究極目標ではないはずなのですが、より「大きな目標」達成のために、このような態度を録っていると考えるのが普通でしょう。ではその寄り「大きな目標」とは何なのでしょうか。もう少し日本政府の核政策を吟味してみましょう。

《核抑止論が鍵》

ここで思い起して頂きたいのは、2016年にオバマ大統領が核兵器の先制不使用宣言を行うべく検討をしていたときに、安倍総理大臣が、明確にそれに反対したことです。安保条約により日本に保障されている「核の傘」の効果がなくなってしまうというような理屈が持ち出されたようですが、元々、「核の傘」などというものはないに等しいのです。

先制不使用をしないという立場は、相手が核兵器を使わなければ、こちらも核兵器を使わないということです。ここで「相手」の代りに「敵」と言っても良いのですが、もう少し穏やかに議論をするために「相手」と呼ぶことにします。核兵器の先制不使用に反対ということは、先制使用を推進するということです。つまり、相手が核兵器を使わなくてもこちらは核兵器を使うということになります。「核の傘」で守られているという前提をそれに加えると、相手が日本やアメリカに対して核兵器を使わなくても、アメリカが日本の利益を守るために先に核兵器を使う、というシナリオになります。

核兵器の悲惨さ、つまり核兵器がどれほど非人道的な兵器であるのかは、世界中に広まっています。アメリカという国が仮に自国民の利益を守るために使おうとしても、世界の世論を考えると、それさえかなり難しい時代になっています。つまり、先に核兵器を使うという可能性は非常に低くなっているのです。ましてや、自国民ではなく、日本の利益のために核兵器を使うなどというシナリオはまず考えられないのです。

冷静に考えれば、この結論は当り前のことなのです。役に立たない「核の傘」ではなく、核兵器には依存しないで国際関係を築いていこうという「非核兵器地帯」こそ、より現実的な選択しなのです。にもかかわらず、日本政府はなぜ「核の傘」などという「張り子の虎」を宝物のように扱い、その上でオバマ政権の先制不使用宣言を邪魔したのでしょうか。

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「核の傘」を拒否している「非核兵器地帯」

それは、より一般的な「核抑止論」を、後生大事に守り続けるためだと考えて良いのではないかと思います。核抑止論とは結局のところ、「核兵器が存在するから戦争は起きず平和なのだ」、という主張です。もっと短くまとめると、「平和を保障しているのは核兵器だ」ですし、その一部として「自国の平和も核兵器が保障している」ことになります。

それに加えて、岸内閣から安倍内閣まで、歴代の自民党内閣が口を揃えて主張し続けてきた、「核兵器の保有や使用は、それ自体が憲法違反ではない」 (自衛のためとか小型といった制限の付く場合もあります) も同時に視野に入れる必要があります。このような主張の続きとして、しかし、違憲ではないとしても非核三原則があるので、今は核を持っていない。それは政策的な選択であるといった言い訳が付きます。

《究極的には核兵器を持つことが目標》

これで材料が揃いました。日本政府がこれまで採用してきた核兵器についての様々な政策や国内外での発言は皆、「日本政府の究極的目標は核兵器の保有にある」という命題実現のためなのだと結論できるではありませんか。仮にそう結論付けるための論証が今までの議論では不十分だとしても、これを一つの「仮説」として、これまで取り上げて来た日本政府の言動を解釈すると、ピッタリ平仄が合います。その点を簡単に確認しておきましょう。

被爆者の意向を尊重すれば、当然、核兵器の廃絶に向わなくてはなりませんから、被爆体験も被爆者のメッセージも無視することになるのですし、核兵器が国際法違反になってしまえば、日本だけが新たに核兵器を保有することはできません。だから「違反ではない」と声高に言い続けなくてはならないのです。アメリカに対する態度は「忖度」ではあるのですが、アメリカをなだめたりすかしたりしながら、核大国として核抑止論の守護神としての立場を堅持して貰うことが日本の利益に適っているからです。

そのカギになるのが「核抑止論」です。現実的な立場から考えても、これほど無理な主張がこれほど長く「信奉」され続けているのが不思議なのですが、それは、核抑止論を短く要約することで簡単に理解できるようになります。つまり、核兵器を持つことが世界の平和を保障しているのですから、それなら、全ての国が核兵器を持つべきだ、という簡単な結論になります。

日本政府が核兵器の開発・保有に歩を進めるとき、この理屈を根拠として使うはずです。論理的には、この主張に対抗することは無理ですので、核兵器を持とうとする国はどこもこの言い訳に依拠してきました。日本が核保有という選択をする場合も同じことになるでしょう。

しかし、未だ、その段階には至っていないではないかという反論が出てくるかもしれません。それなのに何故、日本の核廃絶運動が歴史的厳しさに直面していると考えられるのか、それはどんなことを指しているのか、次回、説明したいと思います。

[なお、ここでの議論をより詳細かつ具体的な資料によって論じているのが、槌田敦、藤田裕幸等による『隠して核武装する日本』(影書房刊・2007年)です。そちらもお読み下さい。]

[2019/7/21 イライザ]

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