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2019年7月

2019年7月31日 (水)

7月のブルーベリー農園(東広島市豊栄町)

梅雨入りが遅くて、梅雨明けも遅くて、太陽の出る時間が少なくて、その結果ブルーベリーの味は甘味が少なくて7月27日(土)の森の工房AMAの第16回ブルーベリーまつりに向けて摘んだ農園の7ブルーベリーも例年より少ない納品となってしまった。それでもまつりは暑い中2年ぶりに開催され約1300名の地域の皆さんと利用者家族の皆さんで賑わった。

以下は7月の農園と周辺の夏の花、夏の稲田、夏の昆虫の抜け殻、夏のブルーベリーの摘みとり、出会いと別れなどの様子。

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7月6日(土)。近所のため池に薄曇りの空を水面に映して咲くコウホネ。

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7月13日(土)。ヤブカンゾウ。

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7月21日(日)。カクトラノオ

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7月22日(月)。農園に行く途中の段状に連なる青い稲田とヒメジョオンの花。

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7月15日(月)。トンボの抜け殻。

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7月28日(日)。セミの抜け殻。

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7月21日(日)。摘み取りする人たちを横目に防草シートの列の間の敷いていない場所の草刈りを行う。

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7月28日(日)。日独平和フォーラムから派遣された広島市に来ているドイツの若者6名がブルーベリーの摘みとり援農に参加。スマホで記念撮影の合間の談笑。みんな背が高い。8月には1年間のボランティア活動を終えて帰国する。真ん中のTシャツ姿が安芸の郷でボランティア活動をしているレヴィンさん。

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7月28日(日)。自分たちで摘み取ったブルーベリーで作ったジュースで休憩。来日のお別れのいい思い出になればいいのだが。

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7月29日(月)。安芸の郷でボランティア活動をする「フレンドベリー」の皆さんプラス友達の摘みとり援農。おかげで安芸の郷で30日から販売が始まるのでブルーベリーの実が2日間でたくさん確保できた。無事納品できた。8月が摘みとりの最盛期で日照時間が増えるので味も甘くなる。

2019年7月31日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2019年7月30日 (火)

広島一中の追悼式と広島二中の祈念コンサート―その2

昨日のつづきです。午前中の「広島一中原爆死没者慰霊祭」につづき、午後は県民文化センターで開催された観音高校音楽部OB合唱団第18回祈念コンサート「レクイエム碑(いしぶみ)」に行きました。このコンサートに行くきっかけは、7月25日に開催された別のコンサート会場で、旧知の増田遥先生に出会ったことです。「広テレが放送したことがある『いしぶみ』を知っていますか。」「観たことがありますよ。確か綾瀬はるかさんが出演していましたよね。」「あれはリメークですが、それを題材にした『レクイエム碑(いしぶみ)』のコンサートをするので、もし時間があったら是非聞きに来てください。」とお誘いを受け、入場券を手渡していただいたのです。

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本川河畔に建つ広島二中の慰霊碑

入場の際配布されたパンフレットからこの混声合唱のための「レクイエム碑」が生まれた経緯を紹介します。「1969年、広島テレビにより、広島二中の被爆を描いた番組『碑』が放映されました。爆心地に程近い本川土手で建物疎開の作業中に被爆した広島二中1年生3百余名の悲劇がドキュメンタリーとして構成され、杉村春子さんにより朗読されたものです。(略)被爆時に二中の2年生だった山本定男氏は、このドキュメンタリー番組に感銘を受け、作曲家の森脇憲三氏とともに広島テレビに働きかけ、番組をプロデュースした薄田純一郎氏の作詞による合唱組曲『レクイエム碑』が完成しました。」ということです。初演は、1970年10月です。

県立広島二中は、戦後広島観音高校と校名が変わりました。2001年に広島観音高校音楽部OB合唱団が結成され、2002年8月に「第1回祈念コンサート」が開催されて以来、「レクイエム碑」が歌い続けられています。この「祈念コンサート」は、その後も毎年開催され今年で18回目を迎えています。その間ずっと指揮者は増田遥先生です。

私が、開場時間の午後1時半に会場に着くと、すでに半分以上の席が埋まっていました。結局公演が始まった午後2時には、立ち見も出るほどの入場者となりました。

コンサートは、一部「唱歌メドレーなど」の後、15分間の休憩があり、いよいよ二部「混声合唱のためのレクイエム『碑』」のスタートです。

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昨年のコンサート風景:プログラムから転載

出演者も、一部の私服姿からがらりと変わり、皆さん盛装での合唱です。曲は、広島に投下された原爆により全滅した広島二中の1年生の被爆の瞬間から全滅までの惨状を、少年らの学校生活の様子も交えつつ描かれており、全9章で構成されています。全部の詩を紹介することはできませんので、まず章の紹介をします。「1 序章、2 点呼、3 爆発、4 川の中、5 時間割、6 さちゃんお母さんよい、7 船の中で、8 全滅、9 終章」です。

終章の最後の三節だけ詩を紹介します。「広島を思う 人あれば 広島は永遠にあり  子らの声聞く 人あれば 広島の心が聞こえる  広島を思う 人あれば 広島は永遠にあり」

合唱が終わると、会場のあちこちからすすり泣きの声が聞こえてきました。私の隣に座っておられた高齢の女性は、歌の半ばからずっとハンカチで目頭を押さえたままでした。きっと誰か縁の人が犠牲になられたのだと思います。そして会場は、大きな拍手に包まれました。

コンサート終了後、益田先生にあいさつしようと待っているロビーで故高橋昭博元資料館館長の奥さんに出会いました。高橋昭博さんは、広島二中2年生の時に被爆。「主人が亡くなって以来このコンサートを聞きに来ていますが、今回は最高でした。本当はスタンディングオベーションをしたかったのですが、周りを見ると」高橋さんの感想です。本当に私も感動しました。こんな機会を与えていただいた増田遥先生ありがとうございます。

最後にもう一つ紹介しておかなければならないことがあります。毎年、この「祈念コンサート」当日の午前中には、観音高校生のための「碑鑑賞会」が、1年生を対象に行われているそうです。今年は、昨年が台風で中止になったため1年生2年生、一緒の鑑賞会となったそうです。次の世代に引き継ぐ努力もされているのです。

奇しくもこの日は、二つの旧制中学校の慰霊・祈念の行事に参加させていただくことができ、広島の市民によって被爆体験継承のための努力が続けられていることを知る機会となりました。

いのちとうとし

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2019年7月29日 (月)

広島一中の追悼式と広島二中の祈念コンサート―その1

昨日28日は、原爆によって多くの犠牲者を出した旧制広島一中と広島二中の追悼の行事に参加することになりました。今日は、この一週間余りの間に何度かブログに書き、今年は参加すると言っていました「広島一中原爆死没者慰霊祭」について書きたいと思います。

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今も国泰寺高校に残る広島一中の門柱

私が会場(国泰寺高校の『追憶の碑』前)について時には、遺族や同窓会役員、そして在校生などで、ほぼ準備されていた椅子は埋まっていました。午前10時、開会の辞とともに「慰霊祭」がスタート。次に3人から追悼の辞。最初は、国泰寺高校の佐藤隆吉校長。佐藤校長のあいさつでは、遺族の手記集「星は見ている」の題名となった藤野敏江さんの手記の一部が紹介されました。「『座布団を敷いておいたよ、お母さん』と言いました。『有り難う、有り難う。まるで千両桟敷ね。なんと素晴らしい星空でしょうか、綺麗だね、戦争があっているみたいでないわね』と申しましたら、『だからお出でと呼んだんですよ』『博ちゃん北極星を知っていますか』『知っているよ、それくらい。それじゃお母さん、オリオン座知ってるの』『知らない』と申しますと『あそこよ、あそこよ』と指す彼方を見つめた時、二台の飛行機が赤と紫の火をつけて高く南へ南へと飛んでおりました」と。

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続いて鯉城同窓会広島一中遺族原爆死没者遺族会担当参与の福間俊吉さん。福間さんの追悼の辞は、「校歌絶唱」と題された自作の短歌八首の朗読でした。うち四首を紹介します。

「慰霊碑に佇てば聞こえてくるんです被爆学徒の校歌絶唱」

「とこしえに十三歳と十五歳三百余名を刻む被爆碑」

「憧れの校門くぐり四月後に被爆死と記す高史の一章」

「中2にも工場動員令が出たあれは8・6一週間前」

次に在校生代表の追悼の辞。そして献花です。その二番目は広島一中一年生で現在出た一人の生存者の兒玉光雄さんです。その胸の内はどんなものだろうかと思いを巡らします。指名献花につづいて、参加者全員が次々と献花台へ。長い列が続きます。献花が終わると、国泰寺高校保護者会の女性コーラス隊「鯉城ステアコール」の献歌。

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最後に広島一中原爆死没者遺族会会長秋田正洋さんのあいさつ。秋田さんのあいさつは、「35級とよく呼ばれますが、それは3年5組のことです。死没者名簿には3年生54人の名前があります。被爆後二十数年経って、県女の3年生だった大西さんから手紙をもらいました。」と、そしてその手紙が読み上げられました。手紙の中味は、「己斐の広島航空機製作所で一緒に仕事をしていた一中の3年生が、8月5日に出された命令によって8月6日土橋付近の建物疎開に従事し、被爆。その日の朝電車の中から元気な一中性の姿を見たこと。原爆投下時には、自分たちの工場のすぐそばに爆弾が落ちたと思っていたので、一中生は土橋にいてよかったと思っていた。しかし夕方になると大やけどをした人異様な姿で男女の区別もできない人たちがどんどんと近づいてきた。」ことなどが書かれていたようです。関千枝子さんがよく「生死を分けたのは運」と言われていますが、そのことを思い起こさせる話で、何とも胸を打たれるあいさつでした。

原爆の非人道性とあの日のわずかな違いで命の分かれ目に向き合わなければならなかった悲劇があったことをこの慰霊祭でも痛感しました。初めての参列でしたが、改めて多くを学ばせていただきました。

明日は、広島二中の祈念コンサートについて、報告したいと思います。

いのちとうとし

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2019年7月28日 (日)

非核平和行進(東部コース)広島入り

被爆74周年原水禁大会の「非核平和行進」が、岡山県内のリレーを終え、昨日正午、広島県入りをしました。

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正午少し前、県境から230Mぐらい広島よりに設けられた引き継ぎ場所で待機する広島県の行進団の耳にもようやく街宣車の声が届き始め、岡山県平和センターの梶原議長を団長とする岡山県行進団の姿がだんだんと大きくなり、予定通り正午には、広島県行進団が待ち受ける引き継ぎ場所の野々浜バス停に到着。梅雨明けとともに、一気に厳しい暑さとなった昨日でしたが、すぐに引継ぎ式を開始。

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最初に岡山県行進団を代表し、梶原議長が、日本政府の「核兵器禁止条約を否定する政策」を厳しく糾弾するとともに、「つながれてきたすべての人たちの思いをしっかりと広島平和公園慰霊碑前まで引き継いでほしい」とあいさつ。

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続いてリレーされてきた「非核平和行進」の横断幕が、岡山県から広島県側に引き継がれました。

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そして広島県側を代表し広島県原水禁金子代表委員が「これまでつないでこられた皆さんの思いをしっかりと受け継ぎ、平和公園慰霊碑前に届けます。今日はちょうど、被爆74周年原水爆紳士世界大会福島大会の開催日、これから広島、長崎と続く原水禁世界大会を成功させるため、全力で頑張ります。」とあいさつ。

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これで引継ぎ式は終了し、受け渡された「横断幕」を先頭に、福山地区の皆さん約100名の広島県行進団が、今日の中継地・福山市役所をめざして元気よく出発しました。私もわずか1.6km余りですが、大門駅前まで行進しました。本当に暑かったです。この東部コースの「非核平和行進」は、各地区をリレーしながら、8月3日の午後3時に平和公園慰霊碑前に到着する予定です。昨年は、西日本豪災害の影響もあり、県内の何か所かで中止を余儀なくさせられましたが、今年は無事に広島まで到着することを祈っています。

いのとうとし

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2019年7月27日 (土)

第38回反核平和の火リレー無事到着

今月3日に、平和公園慰霊碑前を出発し、県内23市町を走り継いだ「反核平和の火リレー」が、昨日午後6時に無事慰霊碑前に帰り着きました。

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今年は初めて、最後の自治体庁舎前集会となった広島市役所前の集会に参加しました市庁舎前の原爆資料館が設けられた広場でセレモニーがスタート。この場所には、広島市役所職員慰霊碑が建立されていますので、そこに向かって全員で黙とう。

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そして最初に市長の代理として出席された政氏昭夫市民局長が市長のメッセージを代読。続いて市議会の山田春夫議長のあいさつ。市議会の市民連合の太田憲二議員、若林新三議員、山内正晃議員などが出席し、山内議員が代表してあいさつ。

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その後実行委員会からの要望書が、広島市政氏市民局長、山田議長にそれぞれ手渡され、庁舎前集会は終了しました。

「平和の火」のトーチを手にした最終ランナーが、平和公園原爆慰霊碑をめざして走り出しました。

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そして、午後6時外国からの訪問者も多い原爆慰霊碑前に新田康博実行委員長を中心に10名のランナーがトーチを掲げ、到着しました。その中には、私の電電公社時代の職場仲間のお孫さんが姉妹二人(下のお孫さんが、今年小学生となり始めて参加)で参加していました。また今年初めてですが、車いすの障碍者も最終ランナーとして参加していただきました。最終ランナーの名前を紹介したかったのですが、現地で渡された資料を自宅に帰る間(途中用事があり寄り道)に紛失してしまい、紹介することができません。申し訳ありません。

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到着式では、最初に新田実行委員長が、全23市町を走破したことの報告。残念ですが、今年も大雨の影響で一部、実施不能となったようです。しかし、「平和の火リレー」により広げられた「平和の灯」は確かに県内に燃え広がったと思います。

私も到着式では、広島県原水禁を代表してあいさつ。「今年は、被爆75周年を来年に控えた非常に重要な年。なんとしても『核兵器禁止条約』の発効を実現しなければなりません。皆さんの思いを受け止め、8月4日から始まる被爆74周年原水爆禁止世界大会でしっかりと討論し、運動を前進させます。」

「反核平和の火リレー」は、今年で38回目を数え、改めて「継続は力」ということを感ずるとともに、今年もまた参加者に強い思いを残したことを実感することができました。

このブログでもっと詳しい到着式の模様を書く予定でしたが、肝心の資料を紛失し、不十分な報告となってしまいました。お詫びします。

いのととうとし

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2019年7月26日 (金)

「星は見ている」の初版に「読後感」が掲載された経緯

 22日付ブログ「広島一中の犠牲者数」を読んでいただいた原民喜研究者の竹原陽子さんからこんなメールをいただきました。「ブログで、広島一中の原爆犠牲者数についての記事、拝読しました。新しく知ることばかりで、学んでいます。広島一中は、原民喜の甥、原邦彦の出身校です。邦彦は、時彦さん(いのちとうとし注:原民喜の甥として現在活躍中)の兄で、原爆被災時、一中の一年生、生き残った19人のうちの1人です。邦彦については、広島大学文書館に関連の資料が寄せられており、その目録の『はじめに』に詳しく書かれています」。このメールには、原邦彦さんの関連資料に関するアドレスも添付されていましたので、早速検索しました。

この広島大学文書館の論文で、今月20日付のブログ「『星は見ている』全滅した広島一中一年生父母の手記集」を書きながら「なぜ『星は見ている』の初版から読後感が掲載されているのだろう」という疑問が解明されました。

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竹原さんから教えていただいた資料は、広島大学平和科学研究センターの研究報告で、タイトルは「『ゆうかりの友』関連 原邦彦資料目録」で、研究者は「松尾雅嗣 谷整二」のお二人です。少しこの中から引用することをお許しください。その「はじめに」には「この資料目録は、『ヒロシマ県立広島一中被曝生徒の会』が1974年に発行した被爆の記録文集『ゆうかりの友』の資料収集、編集、発行の中心となって活動した原邦彦が保管していた関連資料の目録である。本資料は、わが子を失った遺族と被爆し友を失った生徒の生の声を記録したものとして貴重なものであるとともに、被爆の実態を後世に伝えるべく努力した一人の被爆者の記録として重要である。」と書かれています。その後に「資料について述べる前に、まず原邦彦の活動を中心に略歴を記す。」と書かれ、原邦彦さんが生存された経過など興味あることが書かれていますが、ここでは省略します。

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広島一中俯瞰図(「星は見ている」から転載)

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被爆後の広島一中

その後に「星は見ている」に関わる記述が出てきます。少し長いのですが、引用します。

「広島一中の原爆による死者は、1954年に広島一中遺族会が発行した『追憶』に記載されている名簿によると、(いのちとうとし注:詳細は略)計359名である(この名簿については、その後若干の変動がある。)これら三百数十名の教職員と生徒の遺族によって構成される広島一中遺族会は、終戦の翌年1946年の秋、宮島沿線の地御前において、わが子の消息を求め、あるいは思い出を語り、慰めあい、励ましあったのをはじめとして、以後60余年間途絶えることなく慰霊祭を催してきた。その間、記録集『追憶』が発行され、同じ1954年に、この『追憶』の25万1000余字の原稿が、再編集されて『星は見ている-全滅した広島一中一年生・父母の手記集-』(秋田正之(編)、鱒書房)として出版され、現在第 3 刷が出版されている(原稿の所在は定かでない)。」

これで私の疑問は解けました。1954年に最初は「追憶」の名前で、遺族会の記録集は発行され、きっと誰かが、その記録集を著名人に読んでいただき「読後感」をお願いされたのです。そして再編集されて発行された「星は見ている」には、その読後感も一緒に掲載されることになったようです。と書いてから、ちょっと気になったので、「星は見ている」をもう一度開いてみました。「星は見ている」の前に「記録集『追憶』」が発行されていることが「はじめに」にきちんと書かれていました。そして書名の由来も。うかつなことでした。

ところでこの研究報告には、次のような興味深いことが記載されています。「1945年12月に就任した数田猛雄校長は、翌年の1946年に、校舎内で被爆したのち脱出して生存し2年生に進級していた18名(19名のうち一名は転校)に、手記を書くよう求めたところ、16名が書いて提出した。これらの手記は『倒壊校舎脱出手記』として1962年に発行された」。広島一中では、遺族の手記とともに「校舎内で生存した生徒」の手記集も発行されていたのです。この手記集の存在を初めて知りました。この手記は、「ゆうかりの友 広島一中原爆被災史」(1974年発行)に掲載されているようです。「ゆうかりの友」は、広島市立図書館が所蔵していますので、早速借りて読もうと思います。

いのちとうとし

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2019年7月25日 (木)

皆さんへお願い

上関原発の建設計画が公けになったのは、今から37年前の1982年、昭和でいえば昭和52年のことです。僕は33歳の青年でした。

上関原発は海を埋め立てなければならない建設できないものです。その面積は約14万平方メートルとされています。14万といわれても、ピンとこないかもしれませんが、広島市の平和公園の面積は原爆ドームや動員学徒の像がある部分を含めて12万平方メートルです。

こう書けば、上関原発でいかに多くの海面が埋め立てらえるかというのが、実感できると思います。

2008年中国電力が山口県に埋立て免許の申請を行い、当時の知事が許可しました。免許許可から1年以内に工事に着手し、着手から3年後には工事を完了するようにとの条件で免許が交付されました。しかし当然ですが工事は、出来ませでした。2011年3・11の福島原発事故が発生し、山口県知事らが工事の凍結を中国電力に指示しました。

福島原発事故によって、ますます世論は原発NOになってきました。国のエネルギー基本計画でも、原発の新設は行わないことになっています。上関原発の計画は、国内唯一の新設計画です。上関原発は建ててはならない原発です。

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このような状況を無視して、中国電力は埋め立て免許の延長申請を繰り返し、2016年8月山口県知事は免許の延長を許可しました。その時の工事完了期限はこの夏までの3年間でしたが、これまた当然埋め立ては何一つできませんでした。

その期限が迫っている中で、中国電力は去る6月10日に4度目になる延長申請を行いました。この申請に対して、8月1日までに山口県知事が判断を行うことになっています。知事が免許を許可しなければ、実質的に上関原発を止めることができます。

そのために皆さんへお願いです。山口県知事に埋め立て免許の延長申請を許可しないようにとの声を届けるための要請を皆さんにお願いします。

 なお知事は、村岡嗣政(むらおか つぐまさ)さんという人です。

 山口県知事への要請は、下記の通りでお願いします。

      電話:083-933-2570

         FAX:083-933-2599

         Mail:teigen@pref.yamaguchi.lg.jp

要請の例文を3~4点書いてみました。

①37年間、多くの人たちを苦しめた上関原発計画を撤回させるために埋め立ての延長を許可しないでください。

②埋め立て免許を失効させることが、政治家としての正しい判断ではないでしょうか。埋め立ての延長を許可しないでください。

③エネルギー基本計画では、新設原発は行わないことになっています。それに従えば、免許の延長を許可することはあり得ないことだと思います。

④上関原発建設反対!知事の賢明な判断を求めます。

この例文にこだわらず、皆さんの思いを伝えていただきたいと思います。

私たちが定期的に発行している中国地方ニューズレターの7月号は、上関原発問題を特集しています。もし読んでいただきたいと思われたら、連絡ください。メールアドレスを教えていただければメールで、郵送希望の方は郵送します。

木原省治

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2019年7月24日 (水)

広島朝鮮学校高校無償化裁判第6回控訴審傍聴記

広島朝鮮学校高校無償化裁判第6回控訴審が、昨日午後2時から朝鮮学校の生徒や保護者、日本の支援者によって傍聴席が埋め尽くされた(満席で入れなかった人も多数いました)302号法廷で開廷されました。

日本政府は、すべての子どもたちの平等に教育を受ける権利を保障するため2010年から「高校無償化制度」(2013年からは「高等学校就学支援制度」)をスタートさせました。しかし外国人学校や各種学校がすべて対象となっている中で、唯一、朝鮮学校だけが除外され続けています。政治的な意図によって、全く何の責任もない子どもたちが差別されているのです。これを不当として2013年8月1日に、広島では、学校法人朝鮮学園と当時の卒業生・在校生110人が原告となり、「国の行政処分を取り消しと適用」を求めるとともに、損害賠償を求めて裁判を起こしました。残念ながら、第1審では広島地裁小西裁判長よって、2017年7月19日に「朝鮮学園に学ぶ子どもたちの民族教育を受ける権利を認めない」不当な判決が出されました。原告は、直ちに控訴し、今日までに5回の控訴審が開廷されてきました。

昨日の第6回控訴審は、いつものように提出された書面の確認が終わった後、今後の審理の進め方が協議されました。その中で、控訴人側(原告)弁護士から、朝鮮学校の歴史を紹介する映画をこの法廷で上映することを求めましたが、これについては今後協議することになりました。そして、協議の中心議題に入りました。1審の時から原告団が求めていた原告への尋問をどうするかです。まず裁判長から「学校長、原告1名、保護者の尋問を行う」との発言があり、被控訴人である国側弁護団もこれを認めたため、次回以降の法廷で原告尋問が実施されることになりました。次回(10月10日午後1時30分から)は、原告の一人である広島朝鮮初中高級学校の金英雄校長への尋問(原告側1時間、被告国が40分、裁判長)が行われます。そして次々回(11月20日の同時刻)には、原告で卒業生1名と保護者1名の尋問が行われます。

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少しだけ道が開けた思える第6回控訴審となりましたが、私は予断は許さないと思っています。1審で全く原告や証人尋問を行っていませんので、このまま控訴審でも尋問を全く行わず判決を書くというのをちょっと躊躇したのではないかというのが私の感想です。そうは言いながらも、原告、証人の尋問が実施されることは、より問題点を明らかにすることができるのですから、大きな意味があります。次回以降の控訴審が、非常に重要となりました。

閉廷後は、弁護士会館に場所を移し、報告集会が開催されました。私は、別件があり遅れて参加しましたので、弁護団の説明を聞くことができませんでしたが、きっと以上のようなことが報告されたのではないかと想像しています。今回の法廷には、朝鮮高校を卒業し朝鮮大学校に行っている原告たちも、夏休みを利用しこの控訴審に参加していました。私が参加したのは、その一人が訴え始めた時です。「朝鮮大学で、この裁判は人類史的な闘いだと言われました。東京で毎週行っている金曜日行動(広島では、毎月19日)に参加していますが、日本人も韓国人も参加してくれています。少しずつ輪が広がっているように思います。これからも勝利まで手を取り合って頑張りましょう」。そして、最後に次回公判で尋問を受ける金校長が「いよいよだという思い、ちょっと緊張しているが、10月10日をめざして、きちんと準備し、朝鮮学校の正しさ、正当性を訴えていきたい」との決意が述べられ、報告集会は終わりました。

次回10月10日の公判は、この裁判の大きな山場とも言えます。もちろん全員が法廷内で傍聴することはできませんが、一人でも多く広島高裁に駆け付けることが、裁判を支援する力になると思います。ぜひ一人でも多くのご参加を!

いのちとうとし

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2019年7月23日 (火)

岡本三夫先生を偲んで

参議院選挙投票日の早朝、元日本平和学会長で広島修道大名誉教授の岡本三夫さんの訃報が届きました。享年、86歳でした。岡本先生の葬儀は、昨日午後1時から牛田教会で行われましたので、私も参列しました。ここ数年は、体調も悪く運動に参加されることはありませんでしたが、広島にとっては本当に大切な存在でした。

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岡本さんが、香川から広島に移動されたのは、「ヒロシマとの運命的出会いがあった」からだそうですが、1990年に広島に来られてからの活躍ぶりは、本当に精力的でした。1992年の「第9条の会ヒロシマ」や2001年の「核兵器廃絶をめざすヒロシマの会」の立ち上げに参画され、いずれも世話人代表や共同代表を務め、いつも活動の中心として頑張ってこられました。広島修道大学を退職後の2007年に自身で設立された「岡本非暴力平和研究所」は、単に平和学の研究にとどまらず、活動家が集まり様々な運動を相談し計画する拠点としての役割を果たしてきました。まさにヒロシマの良心的活動の拠点でした。

昨日の葬儀に参列しながら先生との出会いをいろいろと思い浮かべました。その中でも私にとって最も忘れられない出来事は、2004年7月の参議院選挙を一緒に候補者として戦ったことです。この時の選挙は、護憲運動にとって、重要な選挙となっていました。2000年1月から衆・参の「憲法調査会」が活動を開始し、改憲への動きが始まり、護憲運動にとって正念場を迎えはじめた時期でした。そしてそれ以上に大きな政治課題となっていたのは、小泉政権の強行採決によって成立した「イラク特措法」によって、憲法違反の「自衛隊のイラク派兵」の第1陣が、2003年12月に派遣された直後だったからです。当然のように「こんな大事な時に実施される参議院選挙に『ヒロシマの心』を代表する候補者がいないのはおかしい」という意見が強まりました。しかし、なかなか誰からも快諾が得られない中で、最終的に岡本三夫先生が立候補を決断され、候補者を擁立することができたのです。岡本先生にとっては、青天の霹靂のような出来事だったと思いますが、候補者に決まってからは、本当に全力で戦っておられた姿を忘れることができません。実は、私は、この時の参議院選挙では比例選挙の候補者となっていましたので、広島では、岡本先生と一緒に集会に参加したり、演説したりするなど、いわば二人三脚の選挙戦を展開したのです。残念なら、二人とも厳しい選挙結果となったのですが、選挙後岡本先生の大学仲間の人たちが開かれた「ご苦労さん会」に私も同席させていただいきました。その場で、先生が何度も私の演説をほめ、参加された皆さん一生懸命話していただいたことが、選挙戦での出来事共に、忘れられない思い出です。

今回の参議院選挙、何とか改憲勢力の3分の2超えは阻止することができたのですが、もし岡本先生が元気だったら、この結果をどう評価されるのか聞いてみたい思いがします。「これぐらいで、安心てはだめだよ。もっともっと頑張らなければ」という声が聞こえてくるようです。

「運命的出会いの地」であるこの広島で、まさに「反核・平和運動」の推進役としての役割を果たしてこられた岡本三夫先生の意思をしっかりと引き継ぐことが、私たちの役割だと改めて強く決意を固めた昨日でした。

いのちとうとし

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2019年7月22日 (月)

広島一中の原爆犠牲者数

国泰寺高校同窓会事務所を訪問した続きです。

同窓会の事務所の隣の部屋には、同窓会に関する資料が展示されていました。その中には、広島一中の被爆に関するいくつかの貴重な資料がありました。その一つが、広島一中生徒が、どこで原爆の犠牲になったのかを調査し、図示した地図がありました。

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紙の赤茶け具合や記された漢字に旧漢字が使用されていますので、古い資料だということが分かります。この地図を見ると校内だけでなく、建物疎開作業に従事していたと思われる場所(土橋付近)でも犠牲者がいたことがわかります。ところで地図の中に書かれた犠牲者の全部を足すと367人になります。一昨日紹介した「星は見ている」の「はじめに」には「生徒三百五十九名と渡辺豊市校長、桑田清教頭以下十名の職員の命を奪い去った。」とあります。この人数(合計369人)と地図に書き込まれた人数には、数字が若干違いますので、地図は調査途中で書き込まれたもののように思われます。一応手元にある再版を重ねた「星を見ている」の「はじめに」に記載されている人数を全部調べたのですが、当然のことですが数字は変わっていません。この数字の違いがちょっと気になったものですから、ネットで検索して見ました。最初に、中国新聞の2018年1月29日の記事がヒットしました。それは、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館が、昨年一年間にわたって企画展示した「星は見ている」の紹介する記事でしたが、そこには冒頭「353人の生徒が原爆で犠牲になった旧制広島一中(現国泰寺高)。」と記載されており、「星は見ている」の「359名」と違うのです。さらに別の情報を検索すると「在学生の351、教職員15名の合計366名」という数字も出てきます。

本当の犠牲者数は?疑問がわきます。国泰寺高校に電話で問い合わせたところ「そのことについては、同窓会が管理されていますので、そちらで確認してください」とのこと。そこで同窓会事務所に電話を入れました。先日お会いした久保木事務局長から詳しく教えていただきました。「確かに過去色々な犠牲者数があったものですから、再調査しました。平成21年(2009年)11月11日現在で生徒の犠牲者は、353人、教職員16人の合計369人が、きちんと名前も確認できた犠牲者数です。」そして生徒の353人の犠牲は「1年生が288人、2年生2人、3年生56人、4年生6人、5年生1人です。この調査で新たに名乗り出られた遺族もありました。一年以内に亡くなった犠牲者の数です。」と丁寧に教えていただきました。今はこの「369人」が広島一中関係の犠牲者ということになっているそうです。

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地図のほかにも貴重な資料がありました。被爆後一周年の1946年8月に写された写真です。下部の説明文には「1946年(昭和21年)8月、息子を亡くした父母等を中心に、広島一中関係者が慰霊塔に集まった」と書かれていますので、翌年にはすでに追悼式が行われていたことがわかります。市内でも最も早い時期に行われた慰霊祭のようです。「ようです」というのは、確認できる資料が見当たらないからです。

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現在は、校門を入ってすぐ右に、石造りの「追憶之碑」があります。この碑は、1948年に建立されていますが、当時はまだ占領下で「原爆」という言葉がつかえず「追悼」という文字になったと言われています。そしてその後ろには、全犠牲者の名前が「原爆による」という言葉とともに刻まれた「原爆死没者の碑」があります。こちらは、1958年に建立されました。この碑の前では、毎年7月の第4日曜日に慰霊祭が行われており、今年は、7月28日に実施されるということです。近くですので、今年は参列しようと思っています。

いのととうとし

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2019年7月21日 (日)

核廃絶運動は歴史的厳しさに直面している (3) ――憲法の復権と民主主義の再生が必要――

前回は《被爆者を無視する外務省》に焦点を合せて、被爆者を排除し、被爆者の主張には耳を傾けず、それだけでは足らずに被爆者を「バカ」呼ばわりまでする外務省の態度を検証しました。

これが、外務省の究極目標ではないはずなのですが、より「大きな目標」達成のために、このような態度を録っていると考えるのが普通でしょう。ではその寄り「大きな目標」とは何なのでしょうか。もう少し日本政府の核政策を吟味してみましょう。

《核抑止論が鍵》

ここで思い起して頂きたいのは、2016年にオバマ大統領が核兵器の先制不使用宣言を行うべく検討をしていたときに、安倍総理大臣が、明確にそれに反対したことです。安保条約により日本に保障されている「核の傘」の効果がなくなってしまうというような理屈が持ち出されたようですが、元々、「核の傘」などというものはないに等しいのです。

先制不使用をしないという立場は、相手が核兵器を使わなければ、こちらも核兵器を使わないということです。ここで「相手」の代りに「敵」と言っても良いのですが、もう少し穏やかに議論をするために「相手」と呼ぶことにします。核兵器の先制不使用に反対ということは、先制使用を推進するということです。つまり、相手が核兵器を使わなくてもこちらは核兵器を使うということになります。「核の傘」で守られているという前提をそれに加えると、相手が日本やアメリカに対して核兵器を使わなくても、アメリカが日本の利益を守るために先に核兵器を使う、というシナリオになります。

核兵器の悲惨さ、つまり核兵器がどれほど非人道的な兵器であるのかは、世界中に広まっています。アメリカという国が仮に自国民の利益を守るために使おうとしても、世界の世論を考えると、それさえかなり難しい時代になっています。つまり、先に核兵器を使うという可能性は非常に低くなっているのです。ましてや、自国民ではなく、日本の利益のために核兵器を使うなどというシナリオはまず考えられないのです。

冷静に考えれば、この結論は当り前のことなのです。役に立たない「核の傘」ではなく、核兵器には依存しないで国際関係を築いていこうという「非核兵器地帯」こそ、より現実的な選択しなのです。にもかかわらず、日本政府はなぜ「核の傘」などという「張り子の虎」を宝物のように扱い、その上でオバマ政権の先制不使用宣言を邪魔したのでしょうか。

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「核の傘」を拒否している「非核兵器地帯」

それは、より一般的な「核抑止論」を、後生大事に守り続けるためだと考えて良いのではないかと思います。核抑止論とは結局のところ、「核兵器が存在するから戦争は起きず平和なのだ」、という主張です。もっと短くまとめると、「平和を保障しているのは核兵器だ」ですし、その一部として「自国の平和も核兵器が保障している」ことになります。

それに加えて、岸内閣から安倍内閣まで、歴代の自民党内閣が口を揃えて主張し続けてきた、「核兵器の保有や使用は、それ自体が憲法違反ではない」 (自衛のためとか小型といった制限の付く場合もあります) も同時に視野に入れる必要があります。このような主張の続きとして、しかし、違憲ではないとしても非核三原則があるので、今は核を持っていない。それは政策的な選択であるといった言い訳が付きます。

《究極的には核兵器を持つことが目標》

これで材料が揃いました。日本政府がこれまで採用してきた核兵器についての様々な政策や国内外での発言は皆、「日本政府の究極的目標は核兵器の保有にある」という命題実現のためなのだと結論できるではありませんか。仮にそう結論付けるための論証が今までの議論では不十分だとしても、これを一つの「仮説」として、これまで取り上げて来た日本政府の言動を解釈すると、ピッタリ平仄が合います。その点を簡単に確認しておきましょう。

被爆者の意向を尊重すれば、当然、核兵器の廃絶に向わなくてはなりませんから、被爆体験も被爆者のメッセージも無視することになるのですし、核兵器が国際法違反になってしまえば、日本だけが新たに核兵器を保有することはできません。だから「違反ではない」と声高に言い続けなくてはならないのです。アメリカに対する態度は「忖度」ではあるのですが、アメリカをなだめたりすかしたりしながら、核大国として核抑止論の守護神としての立場を堅持して貰うことが日本の利益に適っているからです。

そのカギになるのが「核抑止論」です。現実的な立場から考えても、これほど無理な主張がこれほど長く「信奉」され続けているのが不思議なのですが、それは、核抑止論を短く要約することで簡単に理解できるようになります。つまり、核兵器を持つことが世界の平和を保障しているのですから、それなら、全ての国が核兵器を持つべきだ、という簡単な結論になります。

日本政府が核兵器の開発・保有に歩を進めるとき、この理屈を根拠として使うはずです。論理的には、この主張に対抗することは無理ですので、核兵器を持とうとする国はどこもこの言い訳に依拠してきました。日本が核保有という選択をする場合も同じことになるでしょう。

しかし、未だ、その段階には至っていないではないかという反論が出てくるかもしれません。それなのに何故、日本の核廃絶運動が歴史的厳しさに直面していると考えられるのか、それはどんなことを指しているのか、次回、説明したいと思います。

[なお、ここでの議論をより詳細かつ具体的な資料によって論じているのが、槌田敦、藤田裕幸等による『隠して核武装する日本』(影書房刊・2007年)です。そちらもお読み下さい。]

[2019/7/21 イライザ]

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2019年7月20日 (土)

「星は見ている」全滅した広島一中一年生父母の手記集

昨日のブログの続きです。国泰寺高校同窓会事務所を訪れた時、帰り際に、日本ブックエース発行の平和文庫の一冊として発行(2010年)された「星は見ている 全滅した広島一中一年生父母の手記集」を寄贈していただきました。「星は見ている」を読まれた方も多いと思います。今回私が寄贈を受けた本にはコピー印刷された小冊子が入れ込まれていました。市販されているものには、この小冊子は入っていないと思いますが、大切なことが書かれていますので、ここで紹介します。

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小冊子には、「『星は見ている』の再発行にあたってのお詫び」が記されています。そのお詫びの一部を掲載します。「原爆で死んだ県立広島第一中学校生徒の遺族により書かれた手記集『星は見ている』は、昭和二十九年八月に初版発行後、昭和五十九年十一月及び平成十七年七月に遺族により再版が行われ、さらに昨年、平成二十二年十二月に株式会社日本ブックエースにより初版本の再版が行われました。日本ブックエースによる再版においては、著作権の関係があり、阿部知二さん、石川達三さんら著名な方々十一人による読後感がカットされ、昭和五十九年及び平成十七年に再版した際に加筆された部分も加えられていないので、その部分をコピーしてお届けするのをお許しください」。確かに「平和文庫」版の最終ページには、小さな字で「読後感」が削除されたことが書かれています。しかし、再版時に加筆された四人の遺族の手記が、削除されたことは書かれていません。

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ところで、この本に記載されていることでちょっと気になること(犠牲者の数)があったので、それを調べようと広島市中央図書館に行ってきました。昭和二十九年、昭和五十九年、平成十七年発刊の三冊を比較して、少し新しいことがわかりました。「新しいこと」といってもすでに周知のことかもしれませんが、私にとっての新しいことです。

まず「読後感」のことです。「読後感」というのですから、当然再販以降に加えられたものだと勝手に考えていました。ところが初版となる「昭和29年発刊」のものにすでに「読後感」が掲載されているのです。これはどういうことなのでしょうか。よく読むと「はじめに」の末文にこう書かれています。「貧しいこの一巻のため身に余るお言葉の数々をお寄せ下さった諸先生に、心からお礼を申し上げる」と。ゲラか原文かを読んでいただき、感想をお願いされたのだなということが分かりました。そうであるなら、著作権の問題があったとしても、今回の発行(2010年)でも、そのまま載せればよかったのにと思います。

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もう一つの疑問は、「昭和五十9年及び平成十七年に再版した際加筆された部分」のことです。小冊子では、最初の再販(昭和五十九年版)から加筆されたように読み取れるので、その本と初版を比べてみたのですが、全く同じでした。実際に加筆されたのは、平成十七年版からです。この版は、広島の「フタバ図書」から出版されています。しかし、5編が加筆されたことは、どこにも記載がありませんので、気づかずに読み過ごしてしまいそうです。

加えられた5編のうち4編は、遺族の手記です。残りの1編は、遺族ではありませんが広島第一中学校在学中の校舎内で被爆しながら生存し、現在も証言活動を続けておられる兒玉光雄さんの手記が短い文章ですが掲載されています。確かに出版社には、シリーズ発行の場合、決められた編集方針があると思いますが、特に遺族や生き残った被爆者の貴重な手記が削除されたことは残念なことだと感じました。

私の書棚にも1冊あるはずですが、すぐに見つけることができません。どの判を所有しているのか、探すのが楽しみです。

次回(22日)には、広島一中の犠牲者数について、書こうと思っています。

いのちとうとし

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2019年7月19日 (金)

鈴木三重吉の碑めぐりと「赤い鳥」

鈴木三重吉の碑めぐりをするきっかけとなったのは、昨日のブログで紹介した長遠寺の訪問です。長遠寺の前住職長崎昭憲さんにお話を伺っている時、「お父さんが何か書かれたものはないですか」とお尋ねしたところ「国泰寺高校の同窓誌に確か書いていたような気がします」と聞いたような気がする(確かではないが)したので、午後思い立って国泰寺高校の同窓会事務所を訪ねたのです。結論から言えば、事務所におられた久保木さんが役員の方に電話をかけたり事務所の中を一生懸命に探していただいたのですが、該当するようなものを見つけることはできませんでした。この件は、改めて長遠寺をおたずねし、聞くしかないなと思っています。

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ここからが、鈴木三重吉の話です。国泰寺高校同窓会の事務所が入っている建物の玄関に、鈴木三重吉展示コーナーがありました。普通なら気にすることなくすぐに事務所のある2階に上がるのですが、長遠寺で鈴木三重吉の墓を訪ねた後でしたので、ちょっと足を止める気になりました。まず目に飛び込んだのが色鮮やかな「赤い鳥」の表紙画ギャラリーでした。後で広島市中央図書館で聞いたところ、昨年「赤い鳥」創刊100周年の記念展示で中央図書館が作成し、展示終了後、鈴木三重吉ゆかり(国泰寺高校前身の広島一中の卒業生)の国泰寺高校に展示されることになったようです。1918年(大正7年)に創刊された「赤い鳥」は、鈴木三重吉が死去した1936年(昭和11年)に196号で終刊しています。展示された表紙画を数えるとぴったり196枚ありました。当時の子どもたちは、どんな夢を見ながらこの本を読んだのでしょうか。発行部数1万部からスタートした「赤い鳥」は、最盛期には、3万部を超えたこともあったそうです。

表紙画ギャラリーの右側には、経歴や写真などの展示がありました。事務所では、久保木さんからこんな情報もいただきました。「鈴木三重吉の生誕地は、猿楽町です。今のエディオンのあたりです。エディオンのビルには、そのことを表示する碑がありますよ」と。

当初の予定であった資料を見つけることはできませんでしたが、せっかくの機会だからとそのまま鈴木三重吉の碑めぐりをすることにしました。

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最初が、久保木さんに教えていただいた生誕地を示すエディオンのビルです。ありました。新築されたエディオンビル東館の電車通り側の壁面の東端に「鈴木三重吉生誕の地碑」がきちんと取り付けられていました。そういえば、旧館の時代にも見たような記憶があります。

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次に原爆ドーム方面に移動。相生橋東詰原爆ドーム横に「『赤い鳥』の文学碑」が建っています。説明版にはこう書かれています。「昭和39年(1964年)6月、鈴木三重吉顕彰会建立。肩に鳩を乗せた三重吉の胸像の台座は本を模しており、『赤い鳥』の文字と三重吉の好きだった馬が彫られている。右側の少年と少女が座る台座には三重吉の筆で『私は永久に夢を持つ。他繰り返し年少児のごとく、ために悩むこと亜先のみ』の碑文がある。円鍔勝三氏作。」

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その後、広島市中央図書館に寄って、国泰寺高校の鈴木三重吉コーナーの経緯を聞き、最後に訪ねたのが、中区基町「こども図書館・こども文化科学館」前に建つ「鈴木三重吉記念碑『夢に乗る』」です。この碑の説明版を見つけることができませんでしたので、中央図書館ホームページから引用します。「昭和30年(1955年)5月、鈴木三重吉顕彰会建立。彫刻家 円鍔勝三氏によるブロンズ像で、小鳩を抱えた子どもが魚に乗っている。台座の『鈴木三重吉記念碑』は、小宮豊隆氏による。円鍔勝三氏の出身地尾道市御調町の円鍔記念公園には、同じく『夢に乗る』と名付けられた像があり、こちらはラッパを吹く少年が魚に乗るモチーフとなっている。」碑めぐりはこれで終わりです。

被爆樹木を訪ねた長遠寺から、思いがけず鈴木三重吉を訪ねることになりました。

最後に一言。私は、「長遠寺」の名前を「ちょうえんじ」と思っていましたので、中央図書館を訪ねた時にも「ちょうえんじ」と繰り返し言っていたら、ちょうどそこにおられた方から教えていただきました。「『ちょうえんじ』ではなく『じょうおんじ』ですよ」と。「長遠寺」のホームページにもきちんとそう書かれていました。ありがとうございました。

いのちとうとし

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2019年7月18日 (木)

文学と平和を伝える寺長遠寺の被爆樹木と被爆石

今日は、一昨日の「本逕寺の被爆樹木」につづいて、同じ大手町3丁目10番にある「文学と平和を伝える寺 日蓮宗 無量山長遠寺」の被爆樹木の話です。「文学と平和を伝える寺」の意味は、ブログを最後まで読んでいただければ理解できると思います。

長遠寺もわが家からは直線距離で180m、歩いて3~4分という近いところにあります。毎日のようにお寺の前を通っていたのですが、訪ねるのは初めてでした。

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長遠寺には、被爆樹木のソテツがあります。境内の本堂に向かいあう場所に長崎歯科医院の建物がありますが、そこの壁面に沿う形で、二株のソテツが元気に育っています。写真を撮っている時、奥様(後で聞くと前住職の)が、出てこられたので、「移植されたようですが、被爆時はどこに植わっていたのですか」とお尋ねしたところ、「被爆時は、本堂の前に植わっていたのですが、本堂の建て替えや病院を建てるときに、現在の場所に移したんですよ」と丁寧に説明していただきました。そう話しながら、今出てきた家(本堂)に引き返し、被爆前の本堂が写った写真を手にして、再び出てきていただき、いろいろと話を伺うことができました。

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まず、被爆樹木であるソテツのことです。広島市の被爆樹木として登録されているのは、先に述べた二株ですが、境内の奥にはさらに二株のソテツが植わっています。これらのソテツも、広島市の被爆樹木としては登録されていませんが、被爆樹木だそうです。

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ところでこの長遠寺は、由緒ある大きなお寺だったようです。今年は、1619年に浅野家が広島城に入城して400年という節目の年です。お城を中心に、様々な行事が行われたり、中国新聞の文化欄には連載記事が掲載されたりしていますので、ご存知だと思います。

「長遠寺は、広島浅野家の初代藩主である浅野長晟(あさの ながあきら)公と、紀伊和歌山で親交があり、広島入城に際し、一緒に来広氏、現在の場所に1261坪もの広大な敷地を賜り、建立されたお寺です。」この情報は、見せていただいた資料からの転載です。1261坪といわれてもどれぐらいの広さか直ぐには想像できませんが、ずいぶん広かったことだけは、想像できます。現在は、戦後の区画整理によって寺域も小さくなったそうです。

さらにいろいろと尋ねていると、奥様が「ちょっと待ってくださいよ」と奥に引っ込まれ、ご主人(前住職で、歯科医院の院長)を呼んで一緒に出てこられました。前住職とは、さらに話が弾みました。玄関先での立ったままでの話でしたので、残念ながら話の中味をここで伝えることはできません。前住職には、改めてきちんと話を聞かせていただく約束をしましたので、その時このブログで詳しく紹介したいと思います。

ここでは、前住職の名前の由来だけ紹介しておきます。いただいた名刺には「長崎昭憲」と書かれています。「私が生まれたのは、昭和21年(1946年)11月3日です。ご存知ですよね、憲法が発布された日に生まれたのです。だから父が、昭憲と付けてくれたのです。父は日教組の活動家だったんです。」そして続いた言葉は「私が先に亡くなるか、憲法が先かと本当に危惧しています」。思いがけない話ばかりです。被爆樹木めぐりから、憲法の話にまで広がりました。前住職との話は、とりあえずここまでにします。

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話しが終わり、ふたたび境内をめぐりました。墓地の入り口左手には童話作家鈴木三重吉の墓があります。墓石に刻まれた「三重吉永眠の地・三重吉と渋の墓」という文字は、三重吉が生前に自書したものだそうです。前ご住職は、「鈴木三重吉『赤い鳥の会』会長」を務められており、会事務局も長遠寺に置かれています。

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左が修復前、右が修復後

右手を見ると、被爆した時大きく割れ、修復された碑もあります。この碑は広島藩の武家でありながら文化人だった「飯田篤老(いいだあつおい)」(1778~1826)の句が刻まれています。この日の修復前の姿は、広島市が被爆50周年に発行した「広島の被曝建造物はたかる」にも掲載されています。この碑以外にも、境内には原爆で壊れたと思われる墓石が、沢山修復された跡を残したっています。本堂には、被爆した鬼瓦がきちんと保存されているそうです。

今回の「文学と平和を伝える寺」長遠寺の被爆樹木めぐりは、思いがけず前ご住職夫妻のお話を伺うことができ、またまた新しい発見をする日となりました。

いのちとうとし

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2019年7月17日 (水)

「核兵器禁止条約」の早期発効を求めるキャンドルメッセージ

 「核兵器禁止条約」が国連で採択から2周年を迎えた昨晩、午後7時から原爆ドーム横で、「今こそ核兵器禁止条約の批准・発効を!」を求めるヒロシマ市民の声を世界に届けようとキャンドルメッセージのつどいが開催されました。夕方から、雷雨による雨が心配されましたが、今回は、少し雲はかかったものの無事実施することができました。

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渡部朋子さんの司会で始まったつどい。

少し薄暗くなり始めた午後7時15分、午後5時過ぎから準備し整然と並べられているキャンドルへの点火がスタート。皆さんの協力で20分ほどで、用意した約1200本のキャンドルに火がともり、メッセージが完成。

「RATIFY BAN NUKES NOW! 2019」

の文字(今こそ核兵器禁止条約の批准を!2019)がくっきりと浮かび上がりました。

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完成したキャンドルメッセージを前に、被爆者と若者のリレーメッセージ。

被爆者は、箕牧智之さんと、佐久間邦彦さんのお二人。若者の代表は高校生平和大使の牟田悠一郎さん(市立基町高校2年生)。

ようやくあたりが薄暗くなったので、全員での記念写真の撮影。

全ての撮影も無事終了し、最後に主催者であるHANWAの共同代表森瀧春子さんが、「キャンドルメッセージのつどいの声明」を発表。参加者全員(約50名)の大きな拍手で採択され、集いは終了しました。

このキャンドルの火に込められたヒロシマの思いとメッセージが世界に広がることを強く願っています。

採択された「核兵器禁止条約の発効を求めるヒロシマ声明」は以下のとおりです。

――――――――――――――――――――――――――――――---------

2年前の2017年7月7日に、122か国の賛同によって核兵器禁止条約が国連で採択されました。核兵器は、存在も使用も威嚇も許すことのできない非人道的兵器であり、法的に禁止することによって人類が生きのびる可能性を圧倒的多数の国々が選んだのです。

核保有国や核抑止力政策を採る国々が核兵器禁止条約の実現を妨害しようとも、核兵器廃絶のために最も短い道である核の法的禁止は世界中の共通認識となりました。

 私たち広島市民は、核兵器禁止条約制定2周年に当たり核兵器禁止条約の発効に必要な

批准国を50カ国以上に拡げなければと世界中に、市民の描くキャンドル・メッセージで

アピールします。

核利用サイクルの過程で引き起こされ、今なお拡大している甚大な核被害の問題、核戦争の危機を見据えることがヒロシマの課題です。

 核開発による人類生存の危機を根っこから断ち切るべく、ウラン採掘、核兵器、原発、劣化ウラン兵器など核利用のサイクルによりもたらされている非人道的被害の原点から、あらためて「核と人類は共存できない」ことを確認し、国際的な連帯のネットワークを築くことを推進していきます。

「唯一の戦争被爆国」を名乗る日本政府は、核兵器禁止条約に反対し、核兵器廃絶への道を阻みつつ「核保有国と非保有国の溝を埋める橋渡し役を」果すと言います。しかし、自らは核依存政策を維持し、「橋渡し」どころか米トランプ政権などの核保有国の側に立ち、国際的溝を深め妨害しているのが実態ではありませんか。

同時に他方では、被爆の安全神話を振り撒き福島の核災害を封印し、原発被害者を棄民にしようとしています。原発の再稼働、海外への原発輸出、自国の核保有の意図をも持つ使用済み核燃料再処理によるプルトニウムの備蓄など核利用サイクル政策を推進して国際的な疑念と不信を拡げています。

核兵器禁止条約が制定され支持する国際的潮流は押し戻すことのできない大勢となっています。

ヒロシマ市民は、広島市長が被爆74年の原爆被曝の日に世界に発する広島平和宣言において日本政府に対し核兵器禁止条約の賛同国となることを要求するよう、私たち市民を代表して高らかに宣言することを求めます。

核兵器廃絶のための核兵器禁止条約発効の早期実現のため、国際的連帯を更に強める民衆の連帯の力こそが、核兵器廃絶のための最も有効な核兵器禁止条約の発効を実現するものだと信じます。                  2019年7月16日

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いのちとうとし

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2019年7月16日 (火)

本逕寺の被爆樹木

わが家のマンションの玄関から道路を挟んで反対側にコンクリート造りのお寺「法華宗 松栄山 本逕寺」(中区大手町3丁目)があります。

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先月中区公民館共催の被爆樹木めぐりで、本逕寺に被爆樹木があることを知りましたので、昨日訪ねてみました。訪ねるというより、ちょっと寄らせていただいたといった方が良いかもしれません。

本逕寺の裏手には駐車場がありますが、そこの管理をされている人が、以前から顔見知りでしたので、「被爆樹木はどこですか」と尋ねたところ、現場まで案内していただきました。

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駐車場東側の小高くなった墓地の一角に2本の被爆樹木が並んで植わっていました。爆心地から980mの距離での被爆です。1本は、シロダモの木。もう1本は、というよりもう一株はといって方が良いかもしれませんが、ボタンです。

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シロダモは、地上部が焼けたようですが、そこから新しい芽が発芽し、立派な気に成長しています。根元をよく見ると、切り株と思える部分が目に入ります。シロダモは、この場所で被爆したそうです。

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もう一つの被爆樹ボタンは、シロダモのすぐ東隣に植えられています。植えられているというのは、お寺の方に教えていただいたのですが、被爆したところから現在の場所に移植されたからです。こちらも元気な姿を見せていました。お話を聞いていると、ボタンは、株分けがされ墓地の別の場所の墓石の間2か所にも植樹され、元気に育っているとのことでした。

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私もさらに墓地に入り、そのことを確認し写真を撮ってきました。どのボタンもしっかりと育っていますので、立派な花をつけるとのことでした。実は、この被爆樹のすぐそばには、立派なシダレザクラがあり、春の時期にはそれが楽しみで見に来ていましたが、来春からはボタンを見るという楽しみが増えました。

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被爆樹木が植わっている小高い場所の北隣には、もう一つ珍しいものがあることも教えていただきました。水琴窟です。新しく作られたもののようです。この水琴窟は、小さな穴の周囲に水をまき、しばらくすると「キーン ピチャ」と澄んだ音が聞こえるようになっています。最初は、なかなか聞き取れなかったのですが、何度が水を撒くうちにようやく聞き取ることができました。きれいなその音色は、癒しとともに涼しさを呼び込んでくれるようでした。これからも何度でも訪れて楽しみたいと思います。

  いのちとうとし

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2019年7月15日 (月)

反核平和の火リレーの「火」安芸地区を走る

7月3日のこのブログで紹介された第38回反核平和の火リレーは7月3日平和公園をスタート。県内をリレーされた「平和の火」は、県内全自治体を走り継ぎ、今月26日夕方に再び、平和公園慰霊碑前に到着する予定。

スタート翌日は安芸の郷の所在地安芸区を走るので4日の10時過ぎに安芸区役所前でランナーの引き継ぎを兼ねたセレモニーがあるので激励する一人として参加した。

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「平和の火」到着前の安芸区役所玄関入口。リレーをつなぐ若い皆さんが待機。

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府中町から走り継いだ「平和の火」が安芸区役所前に到着。

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出迎えをする広島市安芸区役所の区長をはじめ職員の皆さんの前に立つ。

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広島市安芸区役所の区長をはじめ職員の皆さんの前で簡単なセレモニーが行われる。事務局からリレーの趣旨を紹介する。そののち区長からの激励の挨拶を受ける。

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次のランナーがトーチをもって隣に立つ。

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前のランナーのトーチから次のランナーのトーチに「反核平和の火」を引き継ぐ。

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次のランナーがバイクを先頭にゆっくりと走りスタート。

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海田町に入りJR海田市駅前の交差点手前で次のランナーに引き継ぎがあり、海田町役場に向かって走る。そこから坂町にむかってリレーが走り継がれる。

私の同じ方向の安芸の郷に自転車で帰るのでランナーに追いつき後姿を撮影。

県内のあちこちでこのような「平和の火」のランナーが26日まで走り継がれているのだが、第一回目の反核平和の火が始まったときにかかわったものの一人として思い出されるのがこのリレーに賛辞を寄せられた当時の県被団協の理事長、県原水禁代表委員の故森滝市郎さんの言葉。「私たちの運動の形には歩く、座る、があるが走るという形もある。特に走るという形は若者にしかできない形だと思う。頑張ってほしい」という趣旨の励ましの言葉をたしか第一回の出発式で述べられたと記憶している。反核平和の意思表示として継続されている反核平和の火リレーの次は平和行進だがこの地域には8月2日になるので坂町から安芸区役所、府中町まで今年も歩く予定だ。

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ところで、安芸の郷の2つの建物の屋上ではブルーベリーの摘み取りが6月初めから始まっている。第2森の工房AMAの屋上で摘み取りをする利用者。積んだ後はジャムなどの加工、cafeさくらでのフレッシュブルーベリージュースや

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たっぷりとブルーベリーをのせたワッフルコーンスイーツなどが人気。

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8月いっぱい摘み取りが続き7月27日(土)の午後4時半からはブルーベリーまつりが開かれ多くの地域のひとで賑わう。

2019年7月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2019年7月14日 (日)

「広島平和記念都市建設法」制定70周年

今年は、広島の復興に大きな役割を果たした「広島平和記念都市建設法」が制定されて70周年です。その70周年を記念するシンポジウムが、昨日原爆資料館メモリアルホールで開催されました。毎週土曜日に開催されてきた 「ヒロシマの再考察・外国人被爆者(非軍人)」の第4回講座が同時刻で開催されており、どちらに行こうかと迷ったのですが、講座を欠席しこのシンポジウムに参加しました。

シンポジウムの内容を紹介すべきですが、最初にこの法律が制定されるまでの経緯を簡単に触れてみたいと思います。

一発の原子爆弾の投下によって一瞬のうちに廃墟と化した広島市をどう復興させるのか、様々な人たちが知恵を絞りたどり着いたのが「広島平和記念都市建設法」という法律でした。当時全国に110余りの戦災都市がり、国には広島市のみを特別な財政援助を与える余地が全くありませんでしたが、要望活動を繰り返す中で考え出されたのが、憲法第95条を活用した「特別法」の制定でした。広島市と長崎市が、初めて国会に特別の援助を請願したのは、1946年(昭和21年)8月29日でした。当時は、具体的な反応はなかったと記録に残っているようです。その後も請願書の提出などの働きかけがあったようですが壁は厚く、それを乗り越える方法として考え出されたのが、特別立法という手法でした。この方法を提案したのは、当時の参議院議事部長の寺光忠さんでした。最終的には、議員立法として提案され、1949年5月に衆議院、参議院とも委員会の審議を省略し、討論なしで満場一致で議決されました。急転直下の成立だったと記録されています。そして、憲法95条の条文「一の地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することはできない。」に基づいて、7月7日に全国で初めての住民投票が実施されました。その結果は、圧倒的多数の賛成を得ることができ、被爆4周年の8月6日に公布されました。

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法案作り中では、広島市に「平和都市」という名称を使うことについての論議があったようです。1986年に広島市が主催し、当時の関係者による「広島平和記念都市建設法の制定の当時を振り返って」という座談会が開催されたのですが、その中で先に紹介した寺光忠さんが、長崎市との関係について次のように発言されています。「私が断った(いのちとうとし注:長崎市も平和という名称を付けることを希望していた)一番大きな理由は、世界にただ一つの国際平和の象徴都市をつくろうという法の大精神がですね、長崎が加わることによって壊れる、それじゃだめだと。広島だけがただ一つの平和都市だとしなければ、法の精神が成り立たないということで、長崎の執拗な申し入れは断ったのです。・・・長崎は、国際平和都市法ということで、これでいいと決定したわけですよ」。これを読むと、広島市につけられた「平和都市」という名称の重みと責任が改めて感じさせられます。

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法律の制定経緯について長くなりましたが、最後に、シンポジウムで印象に残ったことにも少し触れておきます。基調講演を行われた篠田英朗東京外国大学大学院教授は、その後のパネルディスカッションの中で次のように話されました。「ある意味で復興という意味では、この法の目的を達成していると言えます。それとともに広島が歩んできた実績がすごいと思います。・物理的には美しい街が作られたこと。 ・平和の概念が驚くほど浸透していること。世界平和ということが広島では当たり前のことになっている。 ・最大の特徴は、証言文化です。世界に平和博物館がたくさんあるが、証言ということがほとんどない中で、体験を積極的に語りテーマ性があるということはすごいこと」。そして「平和都市とは、平和について考える人が出会う場」だと締めくくられました。

広島が本当にそうなっているのかと自問自答しながら、これからの私の運動でどんなことが必要になっているのかをもう一度考えさせてくれたシンポジウムでした。

いのちとうとし

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2019年7月13日 (土)

自然放射線よりも低い?

中国電力本社の玄関を入ると左手に島根原発についての大きなパネルが目に入ります。

地震対策など、こんなに安全対策を行っていますよと言うピーアール用のパネルです。

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その真向かい(本社玄関を入ってすぐ左手)にも小さなパネルとベンチが置かれています。小さいものですから、気を付けてみないと見逃がしそうです。先日、上関原発計画埋立て申請の取り消しを求めて中国電力本社を訪れた時、ちょっと時間がありましたので、じっくりと見てみました。パネルに記載された文字を負っているうちに「えー」という表現に出くわしました。

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このパネルは右下にあるベンチ「クリアランスベンチ」についての説明文です。「クリアランスベンチ」とは、説明文によれば「このベンチの金属部は、原子力発電所(日本原子力発電株式会社東海発電所)を解体した時に発生した金属です。」で作られたベンチということです。さらにご丁寧に「人体への影響が無視できるほど低いレベルであることを確認したうえで作っています。」との説明が続いています。次に「クリアランス制度とは・・・」の解説です。繰り返し述べられているのは、この「クリアランスベンチ」がいかに安全なものかということです。中にはこんな文章もあります。「クリアランス制度による再利用は、地球への負荷を軽減し、環境社会の形成に寄与します。」ここまでくると、ちょっと待てよという気になります。再利用の前に考えなければいけないこと「そもそも原発は?」があるんじゃないですか言いたくなりますが、もう少し我慢して次に進みます。次は「日常生活の放射線とクリアランスレベル」です。その解説文を読みます。「クリアランス基準である0.01mSv(クリアランスレベル)は、年間自然放射線量2.4mSv(世界平均)の1/100以下と、放射能レベルが自然放射線と比べて極めて低く、人体等への影響が無視できるレベルとなっています。

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ここまでくるとまさに?です。確かに数字を単純に比較すれば、クリアランスレベルが自然放射線量と比べて低いことは、事実でしょう。数字はそうなっているのですから。でもこの二つの数字は比較すべきものなのですかと問いかけたいのです。この「自然放射線と比べて」という言葉は、福島の原発事故時に何度も聞いた言葉だったことを思い出します。私は、その時からずっと違和感を持っていました。それは、原発事故や原発の廃棄物から出ている放射能は、私たちを自然放射能にプラスした余分な放射線量によって被爆させることになるからです。たとえクリアランスレベルがどんなに低かったとしても、自然放射線量以上の被曝をさせることには変わりがないはずです。ですから、この数字を比較して、低かったからといっても何の意味もありません。こんなまやかしは終わりにすべきです。

その日、中国電力との交渉が終わった後、玄関まで一緒についてきた中国電力の広報担当(交渉担当者でもある)に「このパネルの表現はおかしいよ」といったところ、最初は「どうしてですか」と意味が理解できずきょとんとしていました。プラスされる被曝線量のことを繰り返し説明しているうちに何となくわかったような顔になったのですが、果たしてこのパネルの説明文が変えられるかどうか、時々のぞいてみなければと思っています。

いのちとうとし

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2019年7月12日 (金)

今年は「平和の火リレー」が無事にやって来ました

平和公園を出発した「反核平和の火リレー」のランナーが、今朝、伴走車から「平和の火よ走れ」の音楽を背に受け、自宅の前を通過しました。

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少し前から降っていた小雨も上がり、元気よく走り去りました。きょうのアナウンスは市役所勤務のNさんです。昨日の「八の日平和行動」ビラ配りに参加したとき、「明日、アナウンスをするんです」と言っていました。

「37年前からリレーが続いているんよ」と言うと、大きな目をくるくるさせていました。

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昨年は、豪雨災害で竹原市もたいへんな被害がありやむなく、リレーは中止となりました。復旧災害もようやく始まった実感があります。

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今年は1週間まえからブルーベリーは色づいています。

やすみ



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2019年7月11日 (木)

核廃絶運動は歴史的厳しさに直面している (2) ――憲法の復権と民主主義の再生が必要――

――憲法の復権と民主主義の再生が必要――

 前回復習したように、日本国政府は、これまで、リーダーとして核兵器廃絶のための運動を引っ張って来たのではなく、「他所事」としてしか関与して来なかったと考えて良さそうです。前回の結論部分を繰り返しておくと、核実験禁止条約や核不拡散条約を「まとめたりICJに働き掛けたり、という作業があって初めてこのような結果になる訳ですが、日本政府はどのように関与してきたのでしょうか。「唯一の被爆国」最近は「唯一の戦争被爆国」と世界に向けて発信して来てはいるのですが、その使命を果すべく各国の先頭に立って核廃絶のために汗を流し、難しい利害関係を調整し、その結果としてこのような成果を挙げる上での立役者だったのでしょうか。そう評価する専門家も市民もいないでしょう。「核兵器は国際法違反だ」という趣旨の条約のみならず、意見であれ、会議であれ、何でも妨害してきたのが日本政府、つまり外務省なのですから。」としか言いようがありません。

今回は改めて、核兵器は「国際法違反」であることを世界に認めさせるための動きを妨害してきた日本政府の姿を、被爆者との関連も含めてみておきましょう。

《被爆者を無視する外務省》

1988年、国連の軍縮特別総会に広島からも代表団が参加した時のことです。もう広島に腰を据えて活動していた私も一員として参加しました。慣例として、私たちは、被爆者とともに国連の日本政府代表部に表敬訪問に行きました。対応した外務省の職員は怒りを露わにして、「あなた方がアメリカに来るのは大きな迷惑だ。しかもアメリカが嫌がる被爆者を連れてくるなど以ての外だ」と言い放ったのです。

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2013年、国連での会議

1996年には、国際司法裁判所が「核兵器の使用ならびに威嚇は、一般的には国際法違反である」という趣旨の勧告的意見を出しました。その前の年1995年には、その審議のために、多くの国々や国際的NGOがハーグまで出掛けて陳述を行いました。広島・長崎両市長も陳述を行いましたが、もちろん、核兵器は国際法違反であるという主張でした。しかし、外務省は最後まで、両市長に「国際法違反ではない」と言わせようと圧力を掛けました。私は国会議員、しかも外務委員としてこの外務省の考え方が間違っていることを指摘し続け、両市長が誠実に被爆者の代弁ができるよう、援護射撃をしていました。

それと軌を一にして、外務省の高官がとんでもない発言をしていました。「核兵器が国際法違反だなどと言う奴はバカだ」という内容でした。「被爆者はバカだ」と言っているのと同じことです。これは早速外務委員会で取り上げましたが、誰の発言かは特定できないまま、妥協案が出てきました。外務省の事務次官はじめ若手の職員が広島を訪れて被爆者と膝を交えて交流する機会を設けること、そしてこのような機会に被爆体験や被爆者のメッセージについてより深く理解して貰うという合意です。それが今も続いていれば、外務官僚の考え方にも少しは変化が生じたのではないかと思います。

以上を要約すると、外務省、つまり日本政府が被爆者を無視していること、それと関連してアメリカへの忖度が顕著であること、政府の基本的スタンスとして、「核兵器は国際法違反ではない」という主張を国際的に流布していることの三つは確認できました。

しかし、私たちが知りたいのは、日本政府が、なぜこのような姿勢を貫き通して来たのかという理由です。もっと大きな目標といったものがあって、それを実現するためには、上記のようなスタンスが必要になるという形での説明が欲しいのです。「もっと大きな目標」とは何を指すのか、もう少し日本政府の核政策を吟味してみましょう。それは次回に。

[2019/6/21 イライザ]

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2019年7月10日 (水)

山口県知事は政治家として判断してほしい

県知事は、有権者の選挙によって選ばれた政治家であると思います。ある筈ですし、あらねばならないと思っています。

6月10日、中国電力は上関原発の埋立て免許の4度目の延長申請を山口県知事に行いました。これを受けた村岡嗣政(むらおか つぐまさ)山口県知事は「要件を満たせばルール上認める」と述べ、「法律上、許可しないといけない」と説明し、淡々と判断するような感じです。

そこには政治家として、上関原発にどう向き合うのかという考えの尺度が感じられません。知事に尺度があるとしたら、それは国の思いに忖度するということしかないのではと思ったりもします。

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上関原発は「新設」の原発計画で、全国でもここだけです。昨年7月に閣議決定された第5次エネルギー基本計画では、その決定にいたる論議の中で「新増設はどうするか」が最大のものとなりました。

2014年の第4次エネルギー基本計画の時、政権は安倍政権となっていましたが、この時も「現時点では新増設はしない」でした。経済界や政権は3年後の基本計画では、新増設を認めるようになることを「期待」していたようですが、世論はますます「原発NOー」となりました。

そして17年夏から始まった基本計画の論議の中でも、新増設が最大の課題になりましたが、結果は「新増設はない」で決まったのです。

第4次も第5次もエネルギー基本計画では「新増設無し」としながらも、「2030年、原発比率を20~22%」「原発はベースロード電源」としているのです。このつじつまの無さを、中国電力は「上関原発は必要」という言いわけにしているのです。しかし「新増設はしない」ことがエネルギー基本計画の中心であるし、それで閣議決定したのですから、上関原発をまだ必要というのは、明確な閣議決定違反だと思います。

村岡知事が本当に政治家であるならば、埋立て免許の延長について「単なる法的手続き」というのは、山口県政を預かるリーダーの姿勢として許せるのでしょうか。

中電は中電でも中部電力が、三重県の太平洋側の熊野灘芦浜地区に原発建設計画を公表したのは1963年のことでした。それから37年が経った2000年2月22日に、当時の北川正恭(きたがわ まさやす)三重県知事は芦浜原発計画の「白紙」を表明し、事実上芦浜は終わりました。

北川正恭さんは当時を振り返り「県がこのまま原発を進めれば、地域破壊がさらに進み、住民を苦しめ続ける。権力がそこまでしていいのか」と悩んだ末、白紙撤回を表明したと話しています。その年の2月県議会で白紙撤回を表明すると、中部電力は断念を決定しました。白紙撤回を表明して半年後、自民党の閣僚から「よく決断してくれた」との言葉ももらったそうです。誰もが無理と思っていながら、止められなかったというのです。北川さんは「権力者はその行使に抑制的でなければと考えた」とも話しています。中部電力は、海洋調査のためとして漁業補償金2億円を漁協に前払いして反対派を賛成に変えようとしたのですが、その返還も求めませんでした。

芦浜原発の反対運動に長年係わってきた友人が、久しぶりに電話を掛けてきました。「芦浜は37年間の反対運動で止めた。これまで一番時間を要した反対運動だったが、上関も37年だよね。芦浜より長くならないように頑張って!」と話しました。芦浜では来年2月、白紙撤回から20年の集まりを開催するそうです。

上関の白紙も村岡知事の決断で決まるのですが、彼にそれが出来るでしょうか。政治家として判断して欲しいと思っています。    

木原省治

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2019年7月 9日 (火)

広島市長に「平和宣言」への要望書提出

昨日広島県原水禁は、広島市長に対し8月6日の平和宣言に「日本政府に対し、核兵器禁止条約早期発効のため日本政府がまず署名・批准することを強く求めること」を盛り込むよう要請を行いました。

広島県原水禁からは、佐古正明代表委員、金子哲夫代表委員、渡辺宏事務局長の3名が参加し、広島市市民局国際平和推進部津村浩部長に、下記の要望書を手渡し、今後の「平和宣言」策定にあたって、充分私たちの意見が反映されることを要望しました。

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少し長くなりますが、原水禁の思いが込められていますので、要望書の全文を掲載します。

――――――――――――――――――――――――――――――――

8月6日の「平和宣言」についての要望

本年の平和宣言の中で、次の二項目について日本政府に強く求めて下さい。

・核兵器禁止条約早期発効のため日本政府がまず署名・批准すること

・早期発効のため日本政府が各国政府に働き掛けること

  連日、広島市民の生活向上と核兵器廃絶に向けて努力されていることに敬意を表します。

 間もなく、広島は74回目の8月6日を迎えます。しかし、広島市民の願いにもかかわらず、核兵器廃絶への道はいまだ明確となったとは言えません。

そうした中にあって一昨年国連で「核兵器禁止条約」が圧倒的多数の賛成で採択されたことは、核兵器廃絶を現実のものとさせる大きな道筋を与えるものとして、被爆者はもちろん広島市民、世界の人びとは心から歓迎しました。

広島県原水禁も、こうした世界の動きと連動し、かつ被爆地「ヒロシマ」の運動体として、核兵器禁止条約の早期発効こそ、今世紀という時代に意味を与えるための有効な手段だと信じています。

私たち広島県原水禁は、1955年に開催された第1回原水爆禁止世界大会で採択された「ヒロシマアピール」の「原水爆が禁止されてこそ、真に被害者を救うことができます。」を運動の柱として、一貫して「核兵器廃絶」を訴え続け、その実現のため様々な取り組みを続けてきました。また被爆者の皆さんもその実現のため1955年2月様々な困難を克服し、被爆体験を証言するためイギリス、西ドイツを訪れた日詰忍さんをはじめ多くの被爆者が、世界各地を訪れ被爆体験の証言を通じて「核兵器の非人道性」を告発するとともに、「私たちのような思いを他の誰にもさせたくない」と訴え続けてきました。その被爆者のあきらめない努力が、世界の人々の心をとらえ、核兵器廃絶運動の推進力となったのです。

さらに「核兵器が非人道性兵器」であり、国際法に違反するものであることを明らかにすることができたのは、たとえば胎児にまでその影響が及ぶことを隠していたABCCの情報を白日の下にさらした市民やジャーナリストの力がありましたし、被爆後献身的に治療に当たった広島の医療関係者たちの活動のお陰です。こうした被爆者や広島市民の様々な活動と願いが、「核兵器禁止条約」採択の大きな力となったことは、条約の前文からも明らかです。

そして、1995年の国際司法裁判所において、被爆都市である広島市長・長崎市長が、政府の意向に反して「核兵器は国際法違反である」旨の発言したことによってより明確になりました。これは、市長個人の見解ではなく、広島市としての公的な発言のはずです。それは、市民への約束でもあったのですから、このことは、誰が市長になったとしても、後世に受け継がれなくてはならない重みを持っています。勝手に変更できることではないはずです。

広島市の訴えが、国際司法裁判所の勧告的意見として結実し、核兵器禁止条約へとつながったのですから、広島市としてより積極的な役割を果たす責務があります。

すべての被爆者や広島市民は、日本政府が「核兵器禁止条約の署名・批准」することを強く求めるとともに、広島市長がそのための役割を果たされることを強く望んでします。それ以上に、広島市長がそのために、歴史に残る大きな役割を果たされることを強く望んでします。

被爆地広島の市民を代表する貴職に置かれましても今年8月6日の平和宣言において明確に力強く「日本政府に対し、核兵器禁止条約の署名・批准」を求められるよう衷心からお願い致します。

以上

―------------------------------------

多くの平和団体や被爆者団体も同じ要望を行っていますので、8月6日の松井広島市長の「平和宣言」で明確に日本政府への要望となることを願い、見守っていきたいと思います。

いのちとうとし

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2019年7月 8日 (月)

旧中島地区被爆遺構確認調査の一般公開

広島市が被爆75周年の来年公開を目指して作業を進めている「旧中島地区被爆遺構」の確認調査の実施状況の市民公開が、昨日実施されました。

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私も12時半頃現地に行ったのですが、関心の高さを示すように沢山の見学者が訪れていました。正午に第1回の説明があったようですが、その時には100人ぐらいの参加があったようです。その後も参加者が多いということで、毎正時ごとに予定されていた一般公開を急きょ12時半にも見学できることになり、私も見学することができました。

いくつか現場の写真を掲載します。ちょっと私の映した写真では、よく判別できませんが、今回の確認調査では、いくつかの遺構が確認できています。

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①炭化した板材、角材など 太いイ草と藁の繊維―畳と思われる

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②敷地の境界(石材の列)

③焼土の層 一部白く灰も出ている

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④敷地の境界(石列)

などです。

広島市は、一般公開のあと「平和記念公園における旧中島地区被爆遺構の展示整備に関する懇談会」を現地で開催し、今後の進め方を協議したようですが、現在の確認調査だけでは、不十分ということでさらに面積を広げて、確認調査を進めることが決まったようです。

私が、この問題にかかわって以降常に考えてきたことは、展示されようとしている「被爆遺構」は、原爆資料館と密接な関係の中に作られなければならないということです。昨日もブログでも紹介しましたが、資料館のリニューアルの基本的考え方である「一人一人の被爆者の被害の実態、失われた命の尊さ、被爆者や遺族の苦しみ・悲しみなどを紹介する」「原爆の非人道性、原爆被害の甚大さ・悲惨さ、被爆者や遺族の苦しみ・悲しみなどを、これまで以上に伝えることを目的とする」というコンセプトが、この被爆遺構の展示でも非常に重要なことだと思っています。今回確認された「被爆遺構」では、残念ながら当時の生活や被爆による被害の実相を伝えるのには不十分だというのが、見学した私の感想です。

今回の確認調査で発掘された現場は、直ぐに埋め戻されるようですので、これからの見学することはできませんが、8月以降に実施される拡張した発掘の結果についても市民に公開されるようきちんと働き掛けていきたいと思っています。より良い遺構展示するためには、旧住民の人たち、関わりのある人たちの声が反映されることが大切です。その意味でも今後もしっかりと見守っていきたいと思っています。

いのちとうとし

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2019年7月 7日 (日)

「故郷を離れた地で」資料館リニューアルで新設された外国人被爆者コーナー

「ヒロシマの再考察・外国人被爆者(非軍人)」の第3回講座が、会場が変わり資料館地下第1会議室で、7月7日に実施されました。今回のテーマは「資料館リニューアルと”外国人被爆者コーナー“新設の経緯と意図」で、講師は広島記念資料館学芸課の学芸員落葉裕信さんでした。

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第3階講座は、一年前の西日本豪雨災害、さらに2年前の福岡豪雨災害の日と重なり、被害者への黙とうから始まりました。

「戦争体験がない人たちが増える中で、どう継承していくのかを考えながらの資料館リニューアル作業でした」という言葉から始まった落葉さんのお話。過去2回の資料館の展示替えの経過を説明しながら、今回のリニューアルが2007年の「更新計画策定」2010年の「基本計画」、そして展示検討会議などの論議を経ながら進んだこと。入館者の動線をどう変更するのかが大きな課題だったこと。それは、それまでの入館者の観覧時間は平均45分32秒だが、東館に52%、西蒲に48%と東館に多くの時間が割かれていた調査結果に基づき、どう本館の観覧に時間をかけてもらえるような動線に変えることが重点的に論議されたことが説明されました。このブログでも一度書いたのですが、今日の講演で今回のリニューアルの意図がより理解できました。大切なことですので正確を期すため、パワーポイントで映し出されてものをそのまま記載します。まず「展示の内容」は「・最初に『8月6日のヒロシマ』を紹介し、被爆直後の広島の全体像をありのまま伝える。・原爆被害の全体像を一望した来館者に対して、『被爆者』に主眼を置いた展示により、一人一人の被爆者の被害の実態、失われた命の尊さ、被爆者や遺族の苦しみ・悲しみなどを紹介する。」ものとしていること。「被爆の実相(人間の視点から)」を伝える「目的は」は、「当館の使命を果たすための中心的な展示であり、被爆者が高齢化し、どのように被爆体験を継承・伝承していくかが大きな課題となっている中で、原爆の非人道性、原爆被害の甚大さ・悲惨さ、被爆者や遺族の苦しみ・悲しみなどを、これまで以上に伝えることを目的とする」。それは「統計的なものでなく、一人ひとりの痛みが実感できるという意味である」ことを落葉さんは強調されました。「広島の原爆犠牲者は、その年の年末までに14万人±1万人」と言われていることに、「14万人±1万人」では、そこに一人ひとりの犠牲者の姿が見えてこないと非常に違和感を持っている私としても、この解説には全く同感の気持ちを持ちました。

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そうした被爆者・被害者一人ひとりと向き合うという考えの中で「・市民の被害のみならず、当時、広島にいた朝鮮半島や中国大陸からの人びとなど、外国人被爆者の存在についても紹介する。」こととして、「外国人被爆者コーナー」が新設されたとのことです。かつての本館の展示では「外国人被爆者もいた」という表現はあったようですが、資料は全く展示されていませんでした。そんな反省からだと思いますが、落葉さんが強調されたのは「基本計画から外国人被爆者を紹介することは盛り込まれていた」とのことで、今回初めて、資料を明示した展示が実現したようです。

そんな経過から新設された「外国人被爆者コーナー」。最初に紹介されている外国人被爆者は、私もよく知っている韓国人被爆者「郭貴勲」さんです。そして、日系アメリカ人、米兵、ドイツ人神父さんと続きまし。「本館の被爆の実相を伝える締めくくりの展示として『外国人被爆者コーナー』がありあす」(落葉さんの言葉)、そして「被爆者一人ひとりの消えぬ思いを持ち買ってほしい」(検討会の中で出された意見)を思い出しながらじっくりと見たいコーナーです。

こうした本館のコンセプトは評価できるのですが、東館に展示されたキャプションなどには、問題だと思える点も散見されますので、問題提起する必要があると思っています。

いのちとうとし

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2019年7月 6日 (土)

“知らない=他人事”に終わらせない

少し前のことですが、映画「アイたちの学校」を見ました。

映画の中では、朝鮮半島の植民地化、朝鮮学校閉鎖の強行や、現在も高校授業料無償化から除外され続けていることなど、当然の権利を守るために闘い続けてきた歴史や現在の闘いの様子が描かれている映画でした。

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朝鮮学校だけが高校授業料無償化から除外されていることの不当性を訴えるために、毎月19日に街頭行動を行っています。「がんばって」と声をかけてくださる方もいますが、ひどい言葉を言って去っていく人もいます。朝鮮学校のことをたくさんの方に知ってもらいたい。今を少しでも変えていくために政治も変えていかないといけない。私も、まだまだ知らないことがたくさんあります。”知らない=他人事”で終わらせないようにしていきたいと思っています。

(M.I)

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2019年7月 5日 (金)

ヒロシマとベトナム(その2)

一万人を超したベトナム籍市民

広島県には5月1日現在、47,508人の外国籍の人たちが暮らしています。この一年間に、日本人が15,112人減少し、外国人が4,632人増加しました。日本人が減少した人数の約31%を外国籍の増加がカバーし、トータルでは10,480人の減少です。

国籍別では中国籍がトップで1万6千人余り、次いで2番目がベトナム籍で1万人を超えました。

東広島市に住んでいる外国籍市民数は6月末時点で7,502人と人口比4%を超えています。国別ではやはりベトナム籍が中国に次ぐ2番目、1,263人です。

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私が専務理事を務める一般社団法人広島ベトナム平和友好協会(HVPF)を設立した10年前(2009年6月)の7.3倍と群を抜いて増加しています。

大学などへの留学、「ものづくり県」広島での技能実習に加え、4月に「特定技能1」「特定技能2」という新たな在留資格による単純労働者の受け入れが始まったことから、ベトナムをはじめ外国籍市民は、今後さらに著しく増加すると思います。(右グラフは東広島市在住のアセアン諸国出身市民の推移、2019年5月末時点)

 

ヒロシマとベトナム ―過去・現在・未来―

先月の「ヒロシマとベトナム(その1)」で、ヒロシマとベトナムが20世紀を象徴する戦争被害を受けたという類似性(・・・)を持つとともに、核も化学兵器もない平和な世界を希求しているという共通性(・・・)について触れました。「戦争被害」といっても、侵略戦争と民族解放戦争とその性格は異なりますが、それは別として、核兵器と化学兵器という残虐かつ幾世代にも被害が及ぶ非人道的兵器が多くの無垢の人々の尊い生命を奪い、そして今も被害が続いていることは同じです。そこに「核や化学兵器の廃絶」という共通の願いがあります。

「ヒロシマとベトナム」を考える際、日本とベトナムとの関係、そして広島との関わりを、過去・現在・未来を貫いて捉える必要があると思います。

そこで、過去・現在・未来をコンセプトに、何回かに分けて書いてみたいと思います。

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~過去~

歴史的なベトナムとの関わりでは、それ以前にもあったと思いますが、717年(奈良時代)に遣唐使船で唐に渡った阿倍仲麻呂が、753年の帰国時に嵐で遭難しベトナム北中部ヴィンに漂着。唐に戻った阿倍仲麻呂がその後、鎮南都護(総督)として安南都護符(ハノイ)に赴任したことが知られています。また同じ奈良時代、ベトナム中部のチャンパ王国(フエ)から渡来した仏僧、佛哲が東大寺の大仏開眼供養会でベトナム舞楽を奉納したと伝えられています。この1200年以上も前のお礼にと3年前、東大寺の住職がダナンの寺院を訪れ、観音菩薩像を奉納したことが報じられたことも記憶に新しいと思います。

時代は下がって鎌倉時代。見られた方もいると思いますが、7年前に放映された「NHKスペシャル発見!幻の巨大軍船 ~モンゴル帝国 VS 日本 730年目の真実~」によって、元寇とベトナムとの関わりが知られるようになりました。ベトナムの勇将チャン・フン・ダオがハノイ近くの白藤江(バクダン川)の戦いでモンゴル軍を破ったことで、日本侵攻に使う予定だった多くの艦船を失ったフビライ・ハーンに3度目の日本侵攻を諦めさせたというものです。

 

さらに時代は下って16世紀末から17世紀のはじめ、朱印船がハノイ、クアンガイ、ホイアンなどと交易を重ねました。中でもホイアンは日本人町が築かれ、「遠来橋」とも呼ばれる「日本橋」が今もその名残を残しています。

 日本と中国、中国とベトナム、そして日本とベトナム、古くから大陸文化と様々な技術を享受し、ときに争闘を見ながらも人々の往来と交易によって互恵の歴史が刻まれてきたのだと思います。それは決して直接的な二国間(相対)関係だけでなく、周辺の国々とも互に関連し合い結びつていることにも気づかされます。

 

 今回は、過去・現在・未来というコンセプトに「過去」の歴史から考えてみました。

次回(8月)は近代から現代にかけての広島を含めたベトナムと関わりから考えてみたいと思います。

あかたつ

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2019年7月 4日 (木)

在米被爆者―私も被爆者協会設立に関わりました(その2)

一昨日の続きです。

荒井さんが話されたことは、袖井さんの本にも「荒井さんから聞いた話」として詳しく書かれていますので、より正確にするため、ちょっと長いのですが本から引用します。

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「ハワイ生まれの三世ヒバクシャ アーネスト荒井(日本名は覚(さとる))氏の話によると『飲み友達をつくる』ということにあったという。被爆の後遺症は、酒を飲めばなおる、なおらないでも軽くなる。荒井氏の父親も体に斑点が出かけて死ぬ間際まで行ったが、一升酒を飲んだら元気になってまだ生きている、というのである(1976年夏現在の話)。酒の功徳はともかくとして、ヒバクシャ同士にしかわかりあえない問題を、集まって語ることによって、『異国』での生活も、少しは胸のつかえが降りるというものであったろう」。これからは、再び荒井さんの話です。そんな会話から、荒井さんの言葉によれば「クスリを飲む会」(薬は酒のこと)を開くということで、日本語新聞2紙に「つどいへの参加を呼びかける」広告を掲載したところ、20人ぐらいが集まったそうです。しかし、うち半数は女性だったようです。「同じきのこ雲の下で死に損なった連中でヤケ酒でも飲もう」(袖井さんの本から)というのが、そもそもの主旨だったようですが、荒井さんたちの思惑をこえて、参加者の半数が、女性では「飲む会」ではまずいので「友の会」を作ろうとなったと、荒井さんは話されました。ところが、帰宅して先に引用した袖井さんの本を開いたところ、そこに紹介された新聞広告には「広島・長崎原爆体験者の皆さま ここに二十周年目を迎えるにあたり、体験者のつどいとして仮称”体験者友の会”を組織したいと思いますので、・・・・」と記載されていますので、初めから会の名称としては「友の会」が予定されていたようです。今度荒井さんに会う機会があったら確認してみようと思います。

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ここからが本論とも言えますが、講座の会場で、荒井さんのこの話を聞きながら、思い出したのは私に原水禁運動の本質を教えていただいた大先輩の一人で被爆者の近藤幸四郎さんのことです。近藤さんとは忘れることのできない沢山の思い出がたくさんあります。特にお酒の付き合いは、数え切れないほどあります(何時も私の分は近藤さんが支払ってくれました)。その中でも忘れられないのが、毎年8月6日の夜、毎年のように電話で呼び出されて遅くまで飲み続けたことです。原水禁大会の行事が終了し、自宅に帰りゆっくりしようと思っているところに決まったようにかかってくる電話。「金子直ぐ出てこい」「疲れているから」といっても決して許されない電話でした。店に入ると近藤さんは必ず言いました。「酒を飲むことが俺の追悼なんだ。わかるかお前に」と。近藤さんには、忘れることのできない被爆体験があったのです。8月1日から建物疎開作業に従事していましたが、5日担任の先生から「君たち一年生はよく頑張った。疲れているのであす6日はゆっくり休め」と言い渡され、被爆死を免れたのです。代わりに作業した2年生、183人は全員死亡したのです。電話局で働いていたお兄さんは、ついに帰ってこず、遺品一つ見つかっていません。近藤さんの無茶な(といつも私が思っていた)8月6日が、「死に損なった連中でヤケ酒でも飲もう」という荒井さんたちの気持ちと共通するものなんだと、荒井さんの話を聞きながら、思い返されたのです。

今年もし近藤さんと一緒に8月6日の夜を迎えることができるとしたら、こんな話をしながら飲み屋さんをはしごするのにと、懐かしく思いながらも、もうそれは決して実現しない現実を思い知ることになった今回の講座でした。

いのちとうとし

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2019年7月 3日 (水)

第38回反核平和の火リレー 今日スタート

広島県青年女性平和友好祭実行委員会が主催する第38回反核平和の火リレーが、「語り継ごう 走り継ごう ヒロシマの心を」のスローガンを掲げ、今日午前8時15分、平和公園慰霊碑前を出発します。県内をリレーされた「平和の火」は、県内全自治体を走り継ぎ、今月26日夕方に再び、平和公園慰霊碑前に到着する予定です。

この反核平和の火リレーは、1982年に行われた「3.21平和のためのヒロシマ行動」で開催された「若者の広場」の成果を引き継ぎ、8月に開催される原水禁世界大会を成功させるための青年・女性の行動として始まりました。世界から核兵器がすべてなくなった時に消されるといわれる平和公園原爆慰霊碑北側で燃え続ける「平和の灯」から採火された「平和の火」が、手作りのトーチに移され、青年、女性、被爆者、子どもたちなど多くの人々にリレーされ、県内全自治体をめぐります。

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昨年の出発の様子

今では、全自治体をつなぐリレーとなっていますが、82年の開始時点では、島しょ部にも沢山の自治体がありましたが、そこをつなぐだけの力がなく、本土側の自治体だけをリレーするコースでスタートしました。始まって4年ぐらい過ぎてから、ようやく全市町村をつなぐリレーへと成長しました。1982年当時の県内の自治体数は87でしたが、全市町村をつなぐようになった時の自治体数は、86になっていたと記憶しています。調べてみると86年3月に五日市町が広島市に合併していますので、全市町村を回ることになったのもやはりその年からだと思います。82年の開始時から毎年出発式に参加された森瀧市郎広島県被団協理事長が「みなさんの行動は必ず燎原の火のように広がっていきます」と激励されたことが思い出されます。森滝先生の予言通り、その後だんだんと広がりを見せ、コースが2000キロと伸びただけでなく、ランナーも1万人を超えるほどに成長し、沿道からの応援、被爆者の皆さんの支援など原水禁大会前の一大イベントとなりました。現在は、一般公募によるランナーの募集も行われていますので、もし参加を希望される方は、携帯080-9997-3587に連絡を入れてみてください。

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広島県被団協事務所・平和会館の玄関に張り出されたポスター

反核平和の火リレーは、市役所や町役場前でセレモニーを行いますが、その時各自治体へ「平和への取り組み」を求める要望書を手渡しています。開始当初の要望は、もちろん「核兵器廃絶」と「国家補償の被爆者援護法の制定」は欠かせない要望として提出しましが、自治体に求める具体的に要望としては「非核自治体宣言」の実施がありました。82年の時点で「非核自治体宣言」を行っていた自治体は、府中町だけでしたが、反核平和の火リレーが始まって最初に「非核自治体宣言」を行ったのは大崎町(現在は、合併して大崎上島町)でした。その後順次拡大していきました。これもこの運動の大きな成果の一つです。

今年は、①核廃絶と平和行政の推進、核兵器条約の批准②日本の原子力政策の転と脱原発社会の実現③「被爆者援護法」の国家補償法への改正と二世・賛成への保証体制の整備など(チラシから引用)を自治体に求め、走り継ぐことになっています。

昨年は、西日本豪雨災害との重なり、中止を余儀なくされた区間もあったようですが、今年はぜひ天候に恵まれ、無事に走り継ぐことができるよう祈らずにはいられません。

例年、反核平和の火リレー出発式の模様は翌日のブログに掲載してきましたが、今日は原水禁本部の学習会のため上京するため、残念ながら参加ができませんので、出発式当日の記事となりました。

また昨日のブログで今日掲載するとしていました「在米被爆者―私も被爆者協会設立に関わりました」のつづきは、明日掲載します。

いのちとうとし

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2019年7月 2日 (火)

在米被爆者―私も被爆者協会設立に関わりました

 「ヒロシマの再考察・外国人被爆者(非軍人)の第2回講座が、6月29日に実施されました。今回のテーマは、「在米・在ブラジル被爆者」で、講師はこれまで在外被爆者裁判に法学者の立場から支援してこられた広島大学名誉教授の田村和之先生でした。

田村先生の話は、1992年春頃に初めて在外被爆者に関わった経緯から始まり、世界各地に居住する広島・長崎原爆被爆者の状況の解説がありました。具体的な数字もありますので、ちょっと紹介しておきます。世界の約30カ国に3千数百人(2017年3月現在で厚生労働省の発表では3209人)の被爆者が確認されています。大まかな国別は、2015年に厚生労働省が行った「原子爆弾被爆者実態調査」(5年に1度国勢調査と合わせ実施)によれば、調査対象の3406人のうち2758人から回答があり、内訳は韓国2064人、アメリカ508人、ブラジル94人、カナダ25人、台湾11人、オーストラリア10人、その他46人となっているようです。もちろんここには、在朝(北朝鮮)被爆者の数は含まれていません。しかし、おおよその国別の被爆者の数は推測できえます。

田村せんせいの話は、これからが本題です。まず在米被爆者についての報告でした。①なぜアメリカに広島・長崎の被爆者がいるのか②被爆者のアメリカ社会における生活③在米被爆者の組織・運動についてでした。次に在ブラジル被爆者についてですが、これも同じように①なぜブラジルに被爆者がいるのか②ブラジルにおける被爆者の生活③在ブラジル被爆者の組織、運動について、わかり易く話されました。

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田村先生は、在米被爆者組織の活動について、袖井林二郎著「私たちは敵だったのか 在米被爆者の黙示録」(初刊は1978年 現在は岩波書店の同時代ライブラリー)と倉本寛治著「在米被爆者五十年 私とアメリカの被爆者」(1999年刊)を紹介しながら、在米被爆者協会が設立(1971年)以来の取り組みを話されました。興味を引いたのは、主要な取り組みです。一つは、「広島の医師に診てもらいたい!」という強い願望による「広島からの専門医の派遣」です。それは1977年に初めて実現することになります。もう一つが、アメリカ政府に対する要求でした。1972年10月以来、「ヒバクシャ医療援護法案」が提出されました。1974年5月のカルフォルニア州議会の公聴会が開催され、その最初の証言者は、この後紹介するアーネスト荒井さんでした。様々な経緯があった中で、その後開催された上院財務委員会の議員の討論の中で発せられたのが「彼らは敵国人だった。そのエミネー(敵)をどうして保護する必要があるのか」という厳しいものだったそうです。結果法案は、否決されましたが、それ以上に倉本さんたち被爆者に応えたのは、「エネミー」発言であり、そこにひそむ日本人への差別意識だったそうです。この時の経過や様子は、袖井さんの本「私たちは敵だったのか」に詳しく書かれています。もちろんすべてのアメリカ人がこうした考えだったわけではなかく、ヒバクシャを支援したくれた人たちもいたこともこの本には書かれています。田村先生の話を聞きながら、改めてかつてこの本を読んだ時のことを思い出しました。関心のある方は、ぜひ袖井さんの本を読んでください。

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実は今日書きたかったことは、このことではありません。書きたいことは、田村先生の講演が終わり質問の時間になった時のことです。参加者の一人がマイクを握り次のように切り出されました。「私は、袖井さんの本で、在米被爆者協会設立時の一人として紹介されている荒井です。」びっくりしました。在外被爆者問題を取り組んでいる時、倉本寛治さんとは何度かお会いしたことがあったのですが、まさかこの会場に他の当事者がおられるとは想像もできなかったことですから。「私は日系三世です。父と一緒にハワイに住んでいましたが、日本で教育を受けるということで戦争の始まる前、日本に帰っていました。小学校5年生の時、比治山橋の近くで被爆しました。そして21歳の時帰米しました」。話が続きました。いよいよ被爆者協会設立に至る経過に話が進み、私に強い関心を持たせる話が出てきました。

少し長くなりますので、つづきは、明日報告します。

いのちとうとし

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2019年7月 1日 (月)

核廃絶運動は歴史的厳しさに直面している ――憲法の復権と民主主義の再生が必要――

 核兵器禁止条約採択以降の世界と日本の状況、特に日本国内の状況をどう考えれば良いのかがテーマです。それについては、「新・ヒロシマの心を世界に」の中で、木原さんが、報告と感想を書いてくれていますが、私なりに補足をしておきたいと思います。

https://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2019/06/post-7317cc.html

 ① 第一に、現在の核廃絶運動を一言で表現すると、タイトルに書いたように、「歴史的厳しさ」に直面していると思います。そう「断定」するのにはいくつかの理由があります。それをこのスライドで示しておきましょう。

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(ア)ヒロシマ・ナガサキ以降、核廃絶の方向に向っての大きな出来事をいくつかピックアップすると、1963年の部分核停条約、1963年に採択され1970年に発効、そして1995年に無期限延長された核不拡散条約、1996年の国際司法裁判所 (ICJ) による勧告的意見の採択、そして2017年の核兵器禁止条約の採択くらいになるでしょうか。

(イ)さて、こうした条約をまとめたりICJに働き掛けたり、という作業があって初めてこのような結果になる訳ですが、日本政府はどのように関与してきたのでしょうか。「唯一の被爆国」最近は「唯一の戦争被爆国」と世界に向けて発信して来てはいるのですが、その使命を果すべく各国の先頭に立って核廃絶のために汗を流し、難しい利害関係を調整し、その結果としてこのような成果を挙げる上での立役者だったのでしょうか。そう評価する専門家も市民もいないでしょう。「核兵器は国際法違反だ」という趣旨の条約のみならず、意見であれ、会議であれ、何でも妨害してきたのが日本政府、つまり外務省なのですから。

(ウ)このような日本政府の姿勢が続いてきた理由があるはずです。それは何でしょうか。一つとして、日本政府にとっては、核廃絶のための努力の結果が、どのような状態を生み出したとしても、「他所事」として、あまり関与しなくても良かったからなのかもしれません。ただし、後で述べるように、日本政府にとって核兵器禁止条約はそれとは一線を画さなくてはならない「重大事件」です。

(エ)「他所事」で済ますことが出来たのは、まず部分核停では、制約を受けるのは核保有国だけなのですから、日本は関係ありません。核不拡散条約も、有名無実な条約だとも考えられますので、日本政府の本音から判断すると、余り心配しないで良い条約なのです。それは、この条約が本当に効力を発揮するためには、核保有国と非核保有国それぞれに課されている義務をそれぞれが真摯に受け止め、果さなくてはならないからです。

(オ)それを理解するためには、核不拡散条約の三つの柱を知る必要があります。

  ①米、英、ロ、仏、中の5つの核保有国以外の国が核兵器を持つことを禁止する(不拡散)。

  ②すべての国に核エネルギーの平和利用の権利を認める(平和利用の権利)。

  ③すべての国は核兵器全廃のための条約を誠実に交渉しなければならない(誠実な交渉義務)。

(カ)しかし、第三番目の誠実な交渉義務を核保有国が果していないのですから、非核保有国が、不拡散の義務を果さなくても良いという理屈は成り立ちますし、インドやパキスタン、イスラエルそして北朝鮮の例が示しているように、核を持ちたいのならこの条約から脱退すれば良いだけですので、不拡散の義務は存在しないと解釈しても問題はないのです。

(キ)この中で、二番目にある「核の平和利用」さえ使えれば、日本政府としては文句がないという考えだったとしてもおかしくはありません。

国際的な大きな出来事が、日本政府にとっては「他所事」である理由を説明してきましたが、核兵器禁止条約については、日本政府は今までとは違った対応をしなくてはならないことを知っています。この点について、そしてそれでは日本政府はどういう態度をこれからとるのかについては、次回に。

[2019/6/21 イライザ]

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