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2019年6月13日 (木)

カープの町に行きました

講演依頼を受け、鯉の町として全国的に名前が知られている津和野を訪れました。時間に余裕がありましたので、ゆっくりと街歩きを堪能しました。

最初に訪れたのは、殿町。古い街並みが続いています。分銅屋とのれんのかかったお宅にスマホを向けているとちょうど車で帰って来られたご主人に「どうぞどうぞ中に入ってください」と声をかけられ、遠慮もせずにお店の中に入り、ご夫妻からいろいろと話を伺いました。

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ご主人の話。「この店は、津和野の町の中で一番古い建物ですよ。津和野の町は、ペリーが来広した年の嘉永7年(1984年)に発生した大火事で街が全焼。わが家は、藩の御用商人として明かり用の油などを商っていましたので、とにかく早く再建しろと命じられ、最初にこの家が再建されました。その時の建物がそのまま残っていますので、一番古いのです。」現在は、和ろうそくや熨斗、香具などを販売されています。

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そんな話の中で私が「広島から来た」ことを打ち明けると、奥さんが「今の政府はおかしいですよ。どうして核兵器禁止条約に賛成しなんですか。被爆国でしょ」と。ここでまさかこんな声を聴くとは。「全く同感です」の相槌。椿さん(現姓)宅を後にして、菖蒲が植えられ、鯉が泳ぐ掘割付近に移動。

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菖蒲は、今が見ごろを迎えていました。掘割には、鯉やうぐいが群れを成して泳いでいます。カープ色の緋鯉を探すのですが、なかなか見つかりません。ようやくそれらしい鯉を見つけパシャリ。

津和野の古い町並みは、殿町の通りだけではありません。殿町から横に伸びる住宅街にも趣を感ずる路地が広がっています。ちょっと横道に入るのも楽しみの一つです。

少し時間がありましたので、JR津和野駅裏手の乙女峠・マリア聖堂まで足を延ばしました。谷川の音を聞きながらちょっと坂道を200mほど登るとマリア聖堂が目に入ります。

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平日の午前中でしたので、見学に訪れる人の姿を見ることはありませんでしたが、マリア聖堂の清掃のために殿町にあるカトリック教会から上がってこられたシスターにお会いすることができました。この地で起きたキリシタン信徒の受難したことなどを教えていただきましたが、その出来事が明治の時代におきたと説明され、不勉強な(キリシタン弾圧は江戸時代のことと思っていた)私はびっくりしました。ここでもまた私が「広島から来た」と話すと、シスターは「浦上でとらわれて信徒は、広島の廿日市から津和野街道を歩かされ、ここまで連れてこられたのですよ。」と広島とのかかわりを教えてくださいました。

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その後、隣の谷筋にある「森林太郎墓」(森鴎外の墓)を訪ね、鯉のお米屋として有名な「吉永米店」の中庭の池で群を成して泳ぐ鯉を見て、カープの町を後にしました。

いのちとうとし

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