「広島ブログ」

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2019年6月

2019年6月30日 (日)

6月のブルーベリー農園(東広島市豊栄町)

ブルーベリー農園の6月はブルーベリーの畑の草刈りと施肥と防草シート貼りの作業に移行する。

後半になると早生(北部ハイブッシュ系)が実り始めるので防鳥ネットの設置も行われる。

キジもカエルもチョウやクモなど色々な生き物が元気になる。

安芸の郷への早生のブルーベリーの納品も始まる。梅雨入りは遅く26日だった。

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6月16日(日)。里山に植えてあるブルーベリーの草は田んぼを転作したブルーベリー畑とは植生が違う。アザミがあちこちに咲いている。7月に入ると下草を刈るので今が見納め。

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6月16日(日)。2人がかりで里山に植えてある早生のブルーベリーの一角に防鳥ネットをかける。

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6日29日(土)。防鳥ネットをかけて2週間後。ネットの足元をしっかり固めているので鳥は入ってこない。甘味がのっておいしい状態になるまで安心。

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6月17日(月)「ケーン!」の鳴き声のする方向にそーっとたどっていく。オスのキジがゆっくり里山に入っていくところだった。

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6日17日(月)。庭の花の上をひらひら舞うツマグロヒョウモンチョウ(メス)。とまっている花の名前はヒペリカム。

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6月22日(土)。庭には池もある。ブロックを置いた上にプランターごと沈めてる花菖蒲が開花(家の廊下からみえるアングルで)

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6月23日(日)。早生(北部ハイブッシュ系)のスパルタン。一番大きい実がおいしく、小さいのはまだ酸味が強い。

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6月23日(日)。摘み取ったブルーベリーで今シーズン最初のジュースを作る。

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6月23日(日)。畑のブルーベリーの列間に防草シートを敷く作業がつづく。

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6月29日(土)。里山のふもとに咲くのは草刈りから除外されたホタルブクロの小さい群落。

*お知らせ 安芸の郷のブルーベリーまつりが7月27日(土)午後4時から8時まで開催されます。天然酵母パンやブルーベリージャムやジュースの販売は4時半から。駐車場はあります。利用者有志によるステージ発表もあり、地域の皆さんとお会いできる賑わいあるまつりです。今年で16回目となります。昨年が豪雨災害で中止になったので2年ぶりの開催となります。

2019年6月30日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2019年6月29日 (土)

日本という国の不平等さー在日朝鮮人や外国籍の人たちは

4月に行われた統一自治体選挙期間中,私は職場で同僚とおしゃべりをしていました。同僚から「もう期日前投票行った?」と聞かれた瞬間,私は思わず「あっ,しまった!」と思い,「ごめんなさい」と謝りました。その同僚は,「大丈夫」と笑顔でうなずいてくれました。彼は10数年前に来日し,私と同じ職場で働く外国籍の人です。選挙権がないことも,当然知っていたはずなのに…。

ある学校現場での話ですが,あめを食べながら登校してきた子どもがいましたので,担任が「朝ご飯を食べてないのか?」と尋ねたところ,「食べてないよ。あめは近所のおじさんがくれたんだ」と答えました。その子どもは外国籍で,保護者は入院中。朝ご飯が食べられないこともよくあり,外国籍のコミュニティの中で支え合い生活していました。登校中,そのコミュニティの知り合いが,朝ご飯がわりに,その子にあめを渡していたのです。

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また先日,私はある学習会で年金制度について話を聞きました。障害年金の受給の認定についてですが,初診日の前々月までに被保険者期間があるときは,そのうちの3分の2以上保険料を納付済みか,保険料免除期間でないと,認定されません。新採用の人には,「国民年金保険料を払ってた?そうじゃなかったら学生の特例の免除申請してた?」と,声をかけてあげましょうという内容でした。私は,もし重い障害を負った人が,保険料全額未納で,免除申請の手続きもしてなくて,障害年金に認定されなかったら,どうやって生活していけばいいのかと質問しました。講師の方は「その場合は,生活保護があるから大丈夫。憲法25条で,最低限度の生活は保障されている。でも在日朝鮮人は対象外です」と答えられました。私はまたかと驚きました。このブログを書くことで,改めて日本という国の不平等さを実感しました。私が知らないことは,きっとまだまだたくさんあるのだろう。

(F&M)

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2019年6月28日 (金)

さようなら!フライデーサービス

基町のNTTクレドビルの8階にある「とんかつの和幸」には、ヒレカツご飯とロースかつご飯を値引きするフライデーサービスがあります。フライデーサービス(金曜日)となっていますが、なぜかチューズデー(火曜日)にも「フライデーサービス」として同じサービスが提供されています。ちょっと不思議な気もしますが、利用する側からすれば、回数が多いにこしたことはありませんから、歓迎です。だからといってしょっちゅう行けるわけではありません。買い物に出かけた時、月に1,2度このサービスを利用してきました。

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「来ました」と過去形になっているのは、このフライデーサービスも6月末日をもって終了するというお知らせが店頭に張り出してあったからです。6月末日といっても、6月最後の金曜日は今日(28日)ですので、本当に最後の日になってしまいました。残念です。

昼食時にこのお店を利用するのは、フライデーサービス(このサービスは一日中提供されていました)だけが目的だったわけではありません。フライデーサービスを知る以前から、お昼定食を目的に利用していましたので、これからもお世話になることがあると思います。

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「御飯、味噌汁、キャベツのお替り自由」は、とんかつ屋さんならどこにもあるサービスです。しかし、妻の御飯が私の茶碗に移されるのが毎度のことですので、御飯のお替りをすることはありません。お替りを頼むのは、キャベツと味噌汁です。キャベツのお替りでは、「どれぐらい入れましょうか」「山盛り一杯お願いします」これがいつも店員さんとかわす定番のやり取りです。最近では顔も覚えられ、私たちがお願いしなくても、キャベツは山盛りになります。でも時々「もうちょっと」と催促することもありますが。そしてこのキャベツをより美味しく食べさせてくれるのが、和幸特製の「ゆずドレッシング」です。ドレッシングはたっぷりかけます。このドレッシングは、レジで販売されています。

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もう一つのお替りは味噌汁です。これが私にとっては重要です。味噌汁のことですから「重要」というのは大げさですが。それでも私にとっては、やはり重要です。というのも、このお店で提供されているお味噌汁は、シジミ汁だからです。シジミといえば、直ぐに思い浮かぶのが、宍道湖です。松江で過ごしたわが家の朝食は、シジミ汁が定番で、毎日のようででました。わが家で食べるシジミ汁は、味噌仕立てではなく、塩味の「すまし汁」でした。今でも松江の実家に帰ると、義姉さんが、必ずシジミ汁を作ってくれます。ですから、和幸さんで出てくるシジミのお味噌汁は、故郷のことを懐かしく思い出させてくれるのです。和幸の味噌汁のシジミはかなり小粒ですが、それでもやはりシジミの香りはきちんと鼻に来ます。私は、今までの習慣でどんなに粒が小さくても身をひとつずつつまみだして全部食べます。

ひれかつご飯(1330円)、ロースかつご飯(1230円)が、いずれも880円になるフライデーサービス。今日が最後ですから、どうしても行かなければと思って出かける準備をしています。私たちが注文するのは、いつもひれかつご飯。今日もおいしくいただきます。

いのととうとし

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2019年6月27日 (木)

国会閉会―参議院選挙へ 総がかり行動実行委員会街頭から訴える

今年の通常国会は、150日の会期を終え、昨日6月26日に閉会し、参議院選挙が7月4日公示、21日投開票で実施されることが決まりました。

「戦争をさせない!・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会」は、国会の閉会日となった昨日午後5時半より本通電停前で街宣活動を行いました。

雨が降り始める中、50名の参加者がそれぞれチラシを配布するとともに、代表して7名が次々とマイクを握り、仕事終え帰宅を急ぐ市民に訴えました。

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「今国会で、本当に私たちの声が論議されたと思いますか。老後資金2000万円問題もそうですが、選挙に都合が悪いことにはホウカムリして、国民には説明しない」「国会での論議を尽くさず、国民に背を向け続けてきた安倍政治に終止符を打つため、今度の参議院選挙が重要です」「仕方がないとあきらめるのではなく、選挙で必ず投票することで、自分たちの意思を明らかにすることで必ず政治は変わります」「今度の選挙で、自公など改憲議席の三分の二割れに追い込むことが、憲法改正をストップさせることになります」などなど。

それにしても今国会ほど、国会審議がないがしろにされたことはありません。参議院選挙を意識した政府・自公政権は、論議を呼びそうな重要法案はすべて先送りにし、野党から強い要求があった予算委員会も4月以降は全く開催しませんでした。テレビでの国会中継は、予算委員会や重要法案を審議する委員会などしか行われませんので、今国会のように4月以降の約3か月間も予算委員会が開催されない場合は、国民が国会審議の状況を間近に見ることはできません。年金問題だけでなく、例えば、いま深刻な問題となっているペルシャ湾情勢などに政府がどう対応するのか、アメリカトランプ大統領の「船舶への攻撃はイランが行った」という主張は本当にそうなのか、などなど国民が知りたいことはたくさんありました。こうしたことに正面から向き合って徹底して論議することこそ、国会の役割だったはずです。かつて国会改革だといって導入された党首討論もしかりです。今国会では開催されたのは、1回だけです。しかも45分間。こうした国会状況を招いているのは、六年以上続く長期政権の弊害そのものです。まさに自民党内に広がった安部忖度政治の結果です。自民党内国会論議を避け、頻繁に数の力で採決を強行してきた安倍政権には、終止符を打つしかありません。そのチャンスが今度の参議院選挙です。

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参議院選挙の日程も確定し、いよいよ7月21日の投開票日をめざした運動が、待ったなしでスタートしました。参議院の広島選挙区は、定数が2名です。今自民党は定数2名の選挙区のうち全国で唯一2名を擁立しているのが、ここ広島選挙区です。私たちが訴えてきた、憲法改悪阻止、平和と民主主義を守ろうとする力が試される選挙となっています。決して自民党に2議席独占を許すことはできません。その決意も固める昨日の街宣行動でした。

いのちとうとし

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2019年6月26日 (水)

新聞各紙が伝える沖縄慰霊の日

沖縄慰霊の日の6月23日、沖縄を考える「6.23沖縄慰霊の日集会」が「広島・沖縄をむすぶつどい」の主催で広島YMCAで開催されました。犠牲者に対する黙とうから始まった集会は、最初に慰霊式の模様をビデオで鑑賞。続いて、「童神」と「サトウキビ畑」の2曲を沖縄の民族楽器三線の伴奏で全員での合唱。このあと中村盛博さん(広島沖縄県人会顧問)の話や会場での意見交換などが予定されていましたが、私は全員合唱が終わったところで退席ましたので、集会の報告はここまでです。

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ところで、沖縄慰霊の日の様子を新聞各紙はどう伝えているのだろうか。と関心を持つ出来事(は大げさかもしれませんが)がありました。24日の朝、自宅に届いた中国新聞の記事を読んでいた時です。1面トップに「沖縄戦74年 平和への決意」4段抜きの見出しで書かれた「慰霊の日記念式典」の記事の最後にある点線の囲み記事に記載された「沖縄知事の平和宣言、安倍首相のあいさつ、平和の詩全文は、ホームページ『中国新聞デジタル』に掲載しています。」が目に飛び込んだからです。えー?。広島と沖縄は密接な関係にあるのに中国新聞は、本誌では沖縄知事の平和宣言を全文載せないのか?なぜ?と率直に疑問を感じました。中国新聞に電話でをしようかとも思ったのですが、全国紙三紙はどんな扱いか調べてからでも遅くないと思い、昨日(25日 24日は休館日で図書館は閉館)、広島市中区図書館に行って調べてみました。調べてみると面白いことが発見できます。調べた結果は次のとおりです。

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まず朝日新聞です。ちょっと意外でした。1面のトップ記事は、「かんぽ生命 不適切な販売」の記事です。沖縄慰霊の日の記事は、2番目の記事として、その下に掲載されていました。2面の関連記事は、大きく紙面を割いています。この2面に知事の平和宣言と首相あいさつは、要旨のみの掲載とされています。社会面では、糸満市兼城小6年の山内怜奈さんが朗読した「平和の詩」が掲載されています。紙面をめくると朝日新聞だけ他紙にない記事が見つかりました。広島県版にも沖縄慰霊の日関連の記事があったことです。最初の書いた「6.23沖縄慰霊の日集会」のことがかなり紙面を割いて掲載されていました。広島支局の記者の良識を感じます。そういえば、当日会場で私の隣に座っていた参加者が朝日新聞の記者を見て「中国新聞は来ないのか」といっておられてことを思い出します。

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次に毎日新聞です。ここの紙面が最も充実しています。もちろん1面のトップ記事は、沖縄慰霊の日です。タイトルは4段抜きで「沖縄74年 願う対話」となり、大きく紙面を割いています。毎日新聞で驚かされるのは、社会面の1面全紙が「沖縄慰霊の日」の記事となっていることです。もちろん知事の平和宣言も首相のあいさつもこの面に全文掲載されています。さらに玉置知事が平和宣言の最後で述べた方言の部分も英文の部分もそのまま掲載され、訳も付けられています。

最後は、読売新聞です。1面にも2面にも沖縄慰霊の日の記事は見つかりませんでした。ようやく見つけたのは、3面の社説です。見出しは、「沖縄の負担軽減へ対話を重ねよ」です。

これが全国紙三紙の沖縄慰霊の日の報道記事の様子です。私が疑問に思って「知事の平和宣言」の全文が掲載されなかったのは、中国新聞だけではありませんでした。でも戦争の痛みを共に身をもって感じた広島の新聞社として中国新聞には「平和宣言」を全文を載せてほしかったと思うのは、私だけでしょうか。6月24日の新聞記事を調べた時、昨年の6月24日の中国新聞も倉庫から出していただき調べてみました。残念ながらそこにも同じように「ホームページで」と記載されていましたので、今年編集方針が変えられたということではないということがわかりました。しかしやはり、「ホームページに掲載」では、新聞社としてあまりに寂しすぎるように思います。まして広島の。

いのちとうとし

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2019年6月25日 (火)

広島県原水禁、秋葉忠利代表委員の講演

 6月19日、被爆74周年原水爆禁止世界大会第1回広島県実行委員会(結成総会)が西区横川町の自治労会館で開催されました。6月20日の、このブログで「いのちとうとし」さんが、その内容は書いておられます。

この会の中で、秋葉忠利代表委員が話されたことが、ずっと頭の中に残っています。秋葉さんは「核兵器禁止条約採択以降の世界の日本の状況」というタイトルで約1時間話されました。

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頭の中に残っているもの一つは、今日の状況について「戦後、もっとも厳しい状況にある」という分析です。にもかかわらずこの国の人間は、怒らないということへの、秋葉さんの「怒」が伝わってきました。まったく同感ですし、これに対して「じゃあ、どうすれば良いのか」と考えても、答えが出てきません。

経験からいえば、私たちが活動に関わり始めたキッカケは、労働組合の存在です。労働組合が大きく平和運動に影響を与えていました。そして特に広島では、被爆者として素晴らしい先輩が多くおられました。当然のことですが、74年という年月の経過はあの世に逝かれるということで、別れるという宿命が訪れてしまいました。

二つ目は、僕自身も経験していることですが、かつて特に米国人に原爆のことを話した時、「真珠湾を最初に攻撃したのは日本だ」、「原爆投下によって戦争を早く終わらせた」という反応と、「今でも日本人は米国を憎んでいるのか?」という問いかけがほとんどでした。秋葉さんの話しによると、戦争直後では米国人のこの反応は90%を超えていたそうです。それが09年には67%となり、15年には56%、16年には45%に低下しているそうです。

この数字が表わす理由には、オバマ大統領の誕生、どこにでも核戦争が起きる可能性があるという世界状況、世界中で発生した原発事故、そしてなんと言っても、被爆者の人たちが自らの体験を語り、書き、という形で「二度とヒバクシャをつくらない」ということを世界中に訴えている努力だと思います。

厳しい厳しいと、どうしても落ち込み気味になりますが、日本では395の自治体で「核兵器禁止条約を批准すべし」という決議が行われているそうです。  

僕が調べたのですが、米国でも同じ内容の自治体決議が複数されています。

秋葉さんは次の7点を、この国の状況を見る中での「動き」のポイントとして提起されました。

  ①核兵器の「国際法違反」を否定する動き

  ②自前の核兵器保有を目指す動き

  ③そのために原発をやり続ける動き

  ④そのためにロケット開発を目指す動き

  ⑤憲法改悪で法的根拠を固める動き

  ⑥選挙制度を変えない動き

 ⑦五月蠅い(うるさい)老人は排除する動き

この五月蠅い老人とは、現在平和運動に中心にいるとされる高齢者を指します。

最後に、There is still time brotherと話されて講演を閉めました。この英語、「兄弟たちよ、まだ時間はある」という意味です。

木原省治

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2019年6月24日 (月)

被爆した南方特別留学生

毎年7月に実施される「クリーン太田川」の清掃作業で、私の住む大手町4丁目町内会は元安川左岸の万代橋から新明治橋の間で実施しますが、その真ん中ほどに「興南寮跡碑」があります。「興南寮」は、戦前広島文理大(現在の広島大学)に留学していた南方特別留学生が住んでいた寮です。その「興南寮」で暮らしていた留学生も、1945年8月6日に投下された原子爆弾によって被爆をし、うち1名は二日後に、もう一人は9月になって死亡しています。

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この「被爆した南方留学生」についての講演が、広島大学千田キャンパス東千田みらい創生センターで開催されました。講演会は、第2回市民・被爆者交流公開講座「ヒロシマの再考察・外国人被爆者(非軍人)」の第1回講座のテーマとして取り上げられてものです。私も、主催されている新見博三先生(元広島大学学生部長)から電話をいただき、22日午後1時半からの始まったこの講座に参加しました。

講師は、現在広島大学大学院生(博士課程)として「南方特別留学生に関する研究」を行っておられる平野裕次さんでした。平野さんの話は、2013年に広島大学がこの南方留学生に名誉博士号を授与した時、その発掘作業に関わった経験を基にした貴重な情報提供でした。

このブログでも講座の最初に話された「南方留学生とは」から報告すべきですが、とてもすべてを語ることはできません。ここでは私の印象に特に残ったことだけを書いておきます。

被爆した留学生は、8名。うち2名が死亡。死亡したのは、いずれもマライから留学していたサイド・オマールさんとニック・ユソフさんの二人。この二人のことについては、すでに1982年に発行された「天の羊 被爆死した南方特別留学生」(中山士朗著)で紹介されていますので、ぜひ読んでみてほしいと思います。Amazonでは現在見つけることはできませんが、広島市図書館では蔵書されていますので読むことができます。

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ここではニック・ユソフさんのお墓とのかかわりです。「興南寮」で被爆したニック・ユソフさんは、広島市西部方面に逃れ、翌7日に楽々園駅近くで瀕死の状態で水を求めていたことが確認されているようです。その後死亡。後に五日市町の職員が、光善寺に3つの遺骨を運び込み、住職に保管を依頼したようですが、そのうちの一つにニック・ユソフの名が記載された紙があったためユソフさんの遺骨と判明したようです。後に日本人有志によって、光善寺にユソフさんのお墓が作られ埋葬されたそうです。実は光善寺は、私たち原水禁にとってもゆかりのある寺です。参道には、五日市原爆犠牲者慰霊碑が建っていますが、その碑文「原爆犠牲となった人々を忘れず、原水爆のない平和な世界を築こう」という文字は、森滝市郎先生が揮毫されています。そしてその碑の前では、がかつて五日市地区が行っていた核実験抗議の座り込みを行っていました。講演を聞きながら、当時、座り込みをしていた人たちの中でどれぐらい、ユソフさんのことが知られていたのかなと思いました。

もう一つは、生き残り帰国された被爆者のことです。「興南寮跡碑」に立てかけられた木札を見ると帰国後は、その国で首相や大学教授として活躍されたことがわかります。この方たちは、何度か日本訪問され、その都度、被爆者健康手帳を取得されたようです(私の質問への平野さんの答え)が、健康管理手当など取得はどうなったのかが分からないとのことでした。在外被爆者問題を取り組んできましたが、支援者の間でもこの南方留学生のことが話題となったことは、ほとんどなかったように思います。調べてみるべき課題になりました。

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貴重なお話をしていただいた栗原さんと佐久間さん

また今回の講座では、あの日8月6日の夜から14日まで広島文理大で留学生たちと一緒に野宿したという92歳の栗原明子(めいこ)さんや母が興南寮の炊事婦をしていて一緒に過ごした体験を持つ東広島在住の佐久間さん(女性)などの話もあり、74年経っても新たに事実が見つかるのだなということもあらためて痛感させられました。

次回は、6月22日に「在米・在ブラジル」のタイトルで田村和之広大名誉教授の講座が開かれます。

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2019年6月23日 (日)

被爆樹樹木めぐり

中区公民館共催の「被爆樹木めぐり」に夫婦で参加しました。爆心地からほぼ2キロ以内で生存し広島市が被爆樹木として登録している樹木は、現在161本ですが、当然のことながらそのほとんどは中区内に存在します。

以前に参加した広島市平和推進課主催の被爆樹木めぐりでは、事前のレクチャーもないまま直ぐに被爆樹木を訪ねて回りましたが、今回は中央公民館で原爆慰霊碑ボランティアガイドの玉置さんから、「被爆樹木について」のレクチャーを受けてからの出発となりました。

玉置さんの話は興味あるものでした。「私は、被爆証言を続けてこられた久保浦寛人さんの役を引き継ぐ気持ちで、この活動をしています。久保浦さんはこう言いながら碑めぐりなどをしておられました。『道端に立っていても誰にも知られずにいるもの言わぬものたちがいます。慰霊碑、被爆建物などです。被爆40年目に4km以内の木造の被爆建築物も被爆建物として認められるようになりました。こうした被爆したものたちの痕跡をたどるうちに被爆樹木に行きついた』と。この言葉を大切にしたいと思っています。」

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説明が始まります。「なぜ2km以内か、それは当時全焼したこの地域の中でも生き残っていることに意味があます」。さらに被爆樹木の研究の歴史。被爆樹木を世界に広げる活動が推進されていること。被爆樹木の特徴は、焼けたものがある、真っすぐ立っていない、爆心地側の成長が遅いなどの特徴があるが、その原因は、原爆の影響と思われる爆心地から反対の方向は根がしっかりとなっていることが、理由ではないかと考えられること。残っている被爆樹木の多くは、学校や寺院にある。その理由はわからないが、そうした場所を探せばもっと多い可能性があることなど、示唆に富んだレクチャーでした。その後、今日は訪ねることのできないが現在登録されて被爆樹木がパワーポイントで紹介されました。私がすでに訪れたことのある被爆樹木がほとんどでしたが、初めて知る被爆樹木も多くありました。その中には、わが家から100m以内にある大手町3丁目の長遠寺や本逕寺境内の被爆樹木の紹介もありましたので、直ぐにも訪ねてみなければと思いました。

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1時間ほどのレクチャーが終了し、いよいよ外に出ての被爆樹木めぐりのスタートです。今回は、時間の都合で中央公民館から原爆ドームまでの間にある被爆樹木4本をめぐりました。基町交番横にあるクスノキ、そして基町市営住宅南西側駐車場内のクスノキ、中央公園を超えてハノーバー庭園内子ども科学館東側のシダレヤナギ、青少年センター西側土手のシダレヤナギです。最後の訪れたシダレヤナギが爆心地から最も近い被爆樹木です。

どの木も元気な姿で立っていますが、近づいてよく見ると少し曲がったり、焼け跡と思える傷口があったり、片方向だけに根が張った様子がはっきりと見えるなど、その樹木ごとに被爆樹木だなと思える姿が確認できました。

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現存する被爆樹木ではありませんが、かつて基町小学校の子どもたちが大事に育てながら、台風で倒れ枯れ死した被爆エノキも訪れました。そこで玉置さんが「被爆樹木をどう語り継ぎ、継承していくのかが重要です。その意味で、このエノキは枯れてはしまっていますが、ここで子どもたちが平和学習として取り組んできたことを忘れないためにも、この状態を残すことに意味があると思っています」と話されたことが強く印象に残っています。

いのちとうとし

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2019年6月22日 (土)

原水禁運動の歩みをどう伝えるか

6月7日のこのブログで報告しました「写真展『グローバルヒバクシャの肖像』」の会場で、私とオーストラリアのマードック大学のミック・ブロデリック教授の話を通訳していただいた服部さんに「森滝先生の思想」について話す機会を持ちました。会場は、私の自宅近でいつもお世話になっている平和会館を使わせていただきました。

最初の話は、リニューアルされた原爆資料館の感想です。世界各地の戦争被害を伝える資料館を回った経験を持つ、服部さんの話に教えられることがありました。「原爆資料館の展示の模様は、各地の資料館の良さが取り入れられているということを感じた」ということを指摘しながら、「どうして展示が、女性、子どもに限っているのでしょうかね」「ヒロシマの心が最後のところで小さく出ているのにちょっと疑問を感じました」「ヒロシマの市民が何を伝えようとがんばって来たのか、そのメッセージが伝わってきません」などなど。当たり前のことですが、原爆資料館を見ての感じ方も受け止めも一人ひとりによって大きく違うのだなということを改めて感じさせられました。今度資料館を見学するときには、この日聞いたことも思い出しながら観なければと思わされるような話でした。もちろん、この意見を聞きっぱなしにしたわけではなく、私の感想も言いながら意見交換をしましたが、少し違った角度から物事を見、考えることの必要性を学んだ気がします。

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写真は、第1回核被害者世界大会のデモ行進前 右下の写真は森滝先生とサーロー節子さん

服部さんは、平和文化センター元理事長のスティーブン・リーパーさんから、何度も森滝先生のことを聞き、もっと深く森滝先生のことを知りたかったようです。私が「写真展『グローバルヒバクシャの肖像』」の会場で、原水禁が早くから「世界の核被害者」の問題を取り上げ、1987年には「第1回核被害者世界大会」を行い、森滝先生がその基調演説を行われたことを話したところ、服部さんから「その英文はありませんか」と問われたのが、昨日のような場を設けるきっかけでした。基調演説原稿の英文は、先生の米寿を祝う会で発刊した「いのちとうとし」に載せていましたので、直ぐにコピーを手渡しました。

そんな縁で、私の話を聞いてもらいました。私の話は、森滝先生が「核と人類は共存できない」「核絶対否定」の理念を確立への最後の一押しとなったオーストラリアの先住民族アボリジニーの女性との出会いや、第1回核被害者世界大会を実現させるために、世界の核被害者と何度も何度も交流を重ねてお互いの信頼を得るための努力を続けた原水禁の取り組みなどでした。もう一つは大事なことですが、第1回原水禁世界大会の宣言文も紹介しながら「被爆者救援と核兵器廃絶」が原水禁運動の車の両輪となっていることや1955年に初めて海外での証言活動のため訪欧された日詰忍さん、その後何人もの被爆者が困難な中で海外を訪問し「被爆体験を語り、核兵器の廃絶」を粘り強く訴えてきたことが、2017年に採択された「核兵器禁止条約」に結実させる原動力となっていることなどを話しました。

服部さんに話しをしながら、私自身も改めて先人たちの努力があって今の原水禁運動があることを痛感するとともに、今この時代にも、いやこんな時代だからこそ、こうした原水禁運動の歩みから学ぶ必要があるのではないかと感じました。そして不十分とはいえ、その運動の中に身を置き、多くを学んできた私の役割かなと思った昨日でした。

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日本テレビの映像から

ところで、この話と直接関係がありませんが、先日の原水禁世界大会広島県実行委員会に二人の高校生平和大使がアピールしたことを紹介しましたが大事なことを失念していました。広島県で選ばれた高校生平和大使は、3人です。参加できなかった松田小春さん(広島大学付属高等学校2年生)は、ローマ法王に会うためイタリア訪問中でした。そのニュースを見て大事なことを伝え忘れていたことを思い出し、いま報告しています。

いのちとうとし

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2019年6月21日 (金)

戦争をさせないための二重のブレーキ ――Elaine Sacrry (エレイン・スカーリー) 教授の講演から (2)――

「核時代平和財団」(英語名は、Nuclear Age Peace Foundation)主催の2019年記念講演会でのスピーカー、ハーバード大学教授のElaine Scarry さんの話の内容を紹介しています。前回は南北戦争で北軍が勝った理由の一つは、南軍の脱走兵の数が25万人もいたことだったという、意外な事実を取り上げましたが、今回はその続きです。

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スカーリー教授によると、アメリカ合州国憲法には、戦争をさせないための二つのブレーキが組み込まれているのだそうです。

一つには、宣戦を布告するのは議会だと決められていることです。これが第一のブレーキですが、議会が戦争開始についての拒否権を持っているということです。その条文です。

第8 条[連邦議会の立法権限]

[第11 項]戦争を宣言し、船舶捕獲免許状を授与し、陸上および海上における捕獲に関する規則を設 ける権限。

そしてもう一つが、実際に戦争に駆り出される市民が拒否権を行使できるという仕組みが備わっているそうなのです。その根拠が、通常は、個人が銃を持つことを認めていると、誤って解釈されている修正第二条なのです。念のため修正第二条を掲げておきます。

修正第2条[武器保有権] [1791 年成立]

規律ある民兵団は、自由な国家の安全にとって必要であるから、国民が武器を保有し携行する権利は、 侵してはならない。

 

スカーリー教授の主張は、この条文を根拠にして、市民が戦争に参加しない拒否権を持っているというものです。

彼女が強調したいポイントはその先にあります。

    通常の戦争においては、これら二つのブレーキが機能を果たして、戦争の抑止や早期の終結に役立ってきた。例えば、二番目のブレーキの変形  である「脱走」という行為が平和をもたらす上で大きな役割を果してきた。南北戦争の事例はこのことを示している。

    しかし、核時代になって、この二つのブレーキが全く機能しなくなってしまった。議会が宣戦布告をしてもしなくても、自分がボタンを押せば、敵国の何百万人もの命が消えてしまう時代に、わざわざ議会の承認を得る必要はあるのか(ニクソン大統領の言葉)、という理由で、第一のブレーキは利かなくなった。また、戦争をするには何十万、何百万の人間の兵士が必要だったのは昔のことで、核時代には、大統領がボタンを押すだけで戦争に勝てるのだから、第二のブレーキも利かなくなった。

 

逆に、これら二つのブレーキを復活させること、そのために市民の力を結集することが核兵器廃絶への未知だ。

日本においても、このような視点からの現状分析、そしてそれに基づいた行動計画は効果的なのではないかと思います。それについては、次の機会に。

[2019/6/21 イライザ]

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2019年6月20日 (木)

被爆74周年原水禁世界大会広島県実行委員会が発足

被爆74周年原水爆禁止世界大会を成功させるための広島県実行委員会結成総会が、昨日午後6時から自治労会館で開催されました。この結成総会には、被爆者や原水禁会員、労働組合員、市民団体代表など80名余りが参加し、8月4日から始まる原水禁世界大会広島大会の日程やそれぞれの役割分担などを話し合いました。

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金子哲夫県原水禁代表委員の開会あいさつで始まった総会は、最初に先日全国の仲間と結団式を終えた高校生平和大使のうち、北畑希美(のぞみ)さん(広島県立広島県立広島高等学校2年生)と牟田悠一郎さん(広島市立基町高等学校2年生)のふたりが参加し、元気に決意を述べてくれました。二人のあいさつは、6月17日のこのブログで紹介していますので、今日は省略しますが、間違いなく参加者に二人の熱い思いは伝わったと思います。同時に若い二人に期待をかけていることが、あいさつ後に送られた参加者の力強い拍手に表れていました。

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その後今年は秋葉代表委員から「問題提起のための講演」がありました。タイトルは「核兵器禁止条約採択以降の世界の日本の状況」で、これまでの国際社会の核兵絶運動の歴史や方向性を解説しながら、私たちの運動の「本丸」である日本政府の政治姿勢をわかり易く解説するとともに、今年の私たちの活動の舞台は、「日本国内」だと強調されました。特に、都市の力が重要であること、そしてそれを動かすのが私たち市民の力だと指摘するとともに、具体的には395自治体に広がった「核兵器禁止条約支持決議・日本も批准すべし決議」をさらに広げることが重要だという課題提起がありました。最後に「原水禁大会の役割」として「『未曽有鵜の厳しさ』への対策を練る、そのためには、全国の怒りを顕在化させ大きくまとめる、『新しい』アプローチを作る」ことなどが強く訴えられました。

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秋葉代表委員の講演の後は、渡辺事務局長からの「大会のスローガン(案)」の解説や「組織の構成・役割」「大会の日程、分科会のテーマ」などを中心に現地実行委員会としてこれから取り組むべき課題が提起され、それらを全体で確認し、結成総会は終了しました。

なお全国からリレーされた「被爆74周年原水禁 非核・平和行進」は、東部コースは7月27日に、西部コースは8月1日に広島入りする日程が提起され、それぞれの地区で例年通りに取り組むよう要請しました。なお毎年広島県独自で実施している北部コースも例年通り、7月30日に庄原市を出発することになっています。

今年のメインスローガンを書いておきます。

核も戦争もない平和な21世紀に!

憲法改悪反対!沖縄辺野古に基地をつくるな!

めざそう平和と核兵器廃絶・脱原発社会!

 詳しい大会の日程などは、後日このブログで紹介しますが、毎年関連行事として取り組まれている「反核平和の火リレー」は、今年は7月3日に平和公園慰霊碑前を出発し、26日まで走り継がれることになっています。

いのちとうとし

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2019年6月19日 (水)

古本「廣島大本営」

紙屋町の地下街シャレオで恒例の「古本まつり」が、17日から23日まで開催されています。

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三越の食パンを買っての帰り道、ほんのちょっと回り道をしてこの「古本まつり」に寄りました。最近少しずつ蔵書を整理していますが、やはり「古本まつり」開催と聞くと、寄らずにはおられません。買いたいなと思う本も何冊かあり、開いて中を確認したりしながら古本が並べられた棚と平台を一応くまなく見て回りました。しかしどうにも我慢できずについに本を手にし、レジに行くことになりました。

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その本のタイトルは「廣島大本営」です。奥付を見ると「著者 畑耕一、発行年 昭和一八年九月二五日、発行所 天佑書房」となっています。「定価二円八〇銭」その横に「特別行為税相当額拾銭」そして「合計弐円九拾銭」となっています。いずれも漢字は古い字で書かれています。「特別行為税」とは聞きなれない税の名前ですが「戦局が悪化した昭和十八年に導入された間接税」で、当時、本も「奢侈的(ぜいたく)特別行為」として課税されていたようです。

私がこの本を購入したのは、以前から日清戦争の時広島に設置された「大本営」ことが書かれた当時のものはないのかと探していたからです。戦後に発行された出版物にも「広島大本営」について書かれたものはありますが、戦前の雰囲気の中でどう書かれていたのかということを知りたいと思っていたからです。

筆者の畑耕一さんは、この本を書くことになった思いを「小序」で「大東亜戦争の戦史は、多くの人々によって書かれるであろう。その銃後史もまた現れるであろう。日清戦争の戦史も多い。だが、銃後史に欠けている」と記し、さらに「日清戦争の臨戦地境と定められた廣島に私は生まれたのである。・・・この欠けているものを補うべく任務を果たしたい」と述べています。私が特に興味を持ったのは、「『臨戦地境』である『銃後』の廣島のこと」を書いたと記されているからです。当時、広島で何が起きていたのかを少しでも知ることができればとの思いが、この本を購入させたのです。6月16日のこのブログ「声を出すのを止めたとき」にも、日清戦争当時のことが触れられています。

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まだすべてを読んだわけではありませんが、ここではパラパラとめくって目についた二つのことを紹介します。現在広島中央図書館北側歩道上を少しふさぐ形で、竹垣で囲われた「明治天皇の聖跡」とされる場所にある井戸です。この本では、この井戸と関係することが書かれています。大本営の設置にあたって「殊に係員の苦心したところは、大本営における御膳水用の井戸の穿鑿と警護であった。赤痢の流行は決して衰えていない。まったく恐懼してことにあたった」と。当時赤痢の流行は深刻な問題となっていたようです。もちろん明治天皇が東京から移動する様子や大本営での生活ぶりも詳しく書かれています。

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もう一つは、臨時帝国議会の模様です。これもかなりのページを割いて詳しく記載されています。仮議会の議事堂は、9月28日に着工し、10月14日には、「仮議院工事は成った」と記されています。わずか16日間の工事です。宇品線工事を思い起こします。先に私は「臨戦地境」という言葉を使いましたが、実はこの言葉には重要な意味がありました。この本の中にこう書かれています。「5日(金子注10月)はまた特に廣島として記憶されるべき日であった。戒厳令が宣告せられ、廣島県下、廣島市全部及び宇品は『臨戦地境』とさだめられたのである」と。廣島は戦場に隣接する場所として戒厳令が宣告されたのです。そしてこの戒厳令下で、臨時帝国議会が開会され、戦争遂行のための「臨時軍事費予算案」が、「衆議院貴族院全会一致をもって、忽ちに原案可決となったものであった。可決された軍事費は、1億5千萬円」となったのです。

興味をそそられる内容が続いています。この本は、きちんと読み、軍都廣島の歴史をもう一度学びなおしたいと思います。

いのちとうとし

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2019年6月18日 (火)

被爆者のコスタリカ訪問報告会

「広島平和記念公園被爆遺構の保存を促進する会」で一緒の活動している被爆者の森川高明さんのコスタリカ訪問報告会が、16日(日曜日)の午後7時から「ソウシャルブックカフェ ハチドリ舎」で開催されました。ハチドリ舎のイベント一覧を見ると、イベントタイトルは「被爆者が歩いたコスタリカの今 ~森川さんの証言の旅報告会~」となっています。毎月6の付く日は、被爆者話を聞く企画となっているようで、今月16日は、森川さんの話を聞く会となってようです。会場の「ハチドリ舎」の名前はこれまで何度も聞いていましたが、訪れたのは今回が初めてでした。

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報告会の最初は、いつもイベントの開始時の恒例となっているようですが、ハチドリ舎のあびこさんの「ハチドリ舎」の紹介です。「ブックカフェの前にソーシャルと付けたのは、単なる本というのではなく、社会的課題に役立つ本を読めるカフェという思いが込められています。そしてその社会的課題を当事者から話を聞くことで解決の道を考えるため、イベントを開催しています。まじめな話がはしにくくなっていますが、対話を通じてバランスをとっていく。今話すことが大切だと思い、その場所になればと思いこのハチドリ舎を開きました」。前置きが長くなりました。

森川さんの訪問報告(5月17日から27日)のスタートです。コスタリカまでは、飛行機に乗っている時間だけでも16時間35分。国の旗は、市民旗と国旗の二種類。国章が入った国旗は、民間で使用が禁止されていることなど、コスタリカの興味ある話が続きましたが、ここでは森川さんのコスタリカ訪問の主目的で会った被爆証言を中心に報告します。

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森川さんの被爆証言は「、①日本大使館が主催し毎年行われている「ヒロシマ・ナガサキ原爆ポスター展」の会場となっているコスタリカ国立大学②国連平和大学③SGI(創価学会インターナショナル)コスタリカ」の3会場で行われました。それぞれの会場の参加者は、①110名、②75名、③60名。報告会の終了後、森川さんに「聴衆の反応はどうでしたか」とたずねたところ「涙を流して聞いてくださった女性の姿などがありました。一人ひとりの感想は聞いていませんが、私が持参しお願いした『ヒバクシャ国際署名』が、①の会場では109筆、②の会場では68筆、③の会場では56筆が集まりました。3つの会場合わせて参加者245名で228名の皆さんが署名していただいたので、私の思いはよく伝わったと思っています。」との答えでした。この他にも大学の昼食会が準備され、若者たちとの交流もあったそうです。

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この署名は、この会場で広島県被団協の前田事務局長に手渡されました。

森川さんがコスタリカ訪問で見てきたかったといわれる「軍備を持たない国・積極的平和主義の国・コスタリカ」の姿についての報告の一部を紹介します。「国の大小にかかわらず、へつらわないリーダーの姿勢が、街行く人たちの顔つきに強く感じた。それは屈託のない明るくさわやかなものとして」「平和文化の重要性は、話し合いによる解決をめざすということが、子どもから大人まで浸透しています」。言葉は同じでも安倍さんが言う「積極的平和主義」とでは中身は全く違うということを感じさせられて報告会でした。

森川さんのコスタリカ報告は、環境保護、エネルギー問題などなどもっと盛りだくさんの内容でしたので、「これだけか」と森川さんからおしかりを受けそうですが、今日の報告はこれで終わりです。

いのちとうとし

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2019年6月17日 (月)

第22代高校生平和大使結団式

第22代高校生平和大使結団式が、昨日広島市アステールプラザで開催されました。

高校生平和大使の運動は、インド・パキスタンが相次いで核実験を行った1998年、核兵器廃絶と世界平和を国連に訴えていくことを目的に長崎からスタートした運動です。今年は、1月から募集が始まり、全国16都道府県で選考会が行われ、過去最多の23名が選出され、この結団式に集まりました。広島からは、3名が選出されました。これまでに延べ200名を超える高校生が選出されています。

第18代高校生平和大使の井上つぐみさんの司会で始まった結団式は、最初に派遣委員会の共同代表の一人である平野伸人さんのあいさつ。

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続いて新たに選ばれた高校生平和大使一人ひとりに小早川健さんから「任命書」が手渡されました。そして高校生平和大使の決意表明。一人ひとりの決意を聞くと、それぞれに強い思いをもって応募したことがわかります。「私は、被爆3世です。祖父が被爆をしています。伝えられた体験を広げていきたいと思います。しかし、祖父の母は、死ぬまで体験を語ることはなかったそうです。その意味を考えながら、高校生平和大使として頑張りたいと思います。」「平和学習や被爆者の体験を聞いてきました。そのことを被爆3世として訴えていきたいと思います。平和のために何かできることは?ぜひ被爆者の心を伝えていきたいと思います。そして1万人署名活動を続けていきます。」「祖父が被爆者です。小学校6年生の頃、祖父から被爆の体験を聞きました。いつも明るい祖父でしたが、体験の中では体の中にわいた蛆を取り除いたことなど、想像できない体験を話してくれました。こうした過去に学びながら平和な未来を実現するために、出来ることをやります。」これは、いずれも広島で選ばれて3人の決意表明です。最後に来賓のあいさつで、結団式は終了しました。

一昨日、昼過ぎに広島に集まった高校生平和大使は、その日はすぐに被爆者の原田浩さん(元原爆資料館館長)の被爆体験を聞き、平和公園慰霊碑への献花、広島原爆資料館の見学、碑めぐりなどの広島研修を行い、平和大使としての活動に必要な知識などを学び、結団式へと臨んでいます。

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今年の高校生平和大使は、8月18日から23日までの日程で、国連欧州本部を訪れ署名簿を手渡すとともに、NGO交流や現地での署名活動を行うことになっています。

今年は、この結団式に参加して思いがけないひとつ嬉しい出来事がありました。それは福島県から選ばれた赤沼優希さんとの出会いです。私は、ここ数年8月4日の夜(原水禁世界大会会総会終了後)、友人の依頼を受け「生活協同組合あいコープふくしま」の広島訪問団と交流を続けているのですが、赤沼さんは、昨年の代表団の一人でした。申し訳ないことに私は失念していたのですが。赤沼さんから「昨年8月に話を聞いて、高校生平和大使の応募しようと思いました。」と伝えられ、ちょっとびっくりしましたが、こんな出会いもあるのだと嬉しい気持ちになりました。

そんな今年の高校生平和大使結団式でした。

いのちとうとし

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2019年6月16日 (日)

声に出すことを止めた時

突然ですが、自分が住んでいる広島市南区の戦前戦中の、とある遺構を紹介します。

【宇品線跡】 

広島南警察署の交差点北側にある。道路傍に線路の軌道と、遮断機が置かれている。広島駅から軍港宇品までを結んでいた宇品線跡です。宇品線は1894年8月に軍の専用線として開通しました。日清戦争の開戦直後、山陽鉄道が開通した広島駅から宇品港までの約6キロ。17日間の突貫工事で結んだとされています。諸説はあるようですが、当時17日間という短期間で工事をしたことは、驚異的なスピードでした。

日清戦争開戦後より、数えきれないほどの兵士、武器、食糧が宇品港へ集められ、戦地へと送られました。8月6日以降は、宇品港へ負傷者を運ぶ手段としても用いられ、敗戦後は、通勤、通学としても使用されていたと聞きます。(義理母談)

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広島市南区 旭町ポンプ場前 

 【広島陸軍糧秣支廠倉庫】 現広島競輪場南側

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宇品線の終着場には、巨大な倉庫がいくつも建てられ、食糧や馬の飼料などが保管されていました。調達するための事務所や、加工のための工場は、宇品港の周辺にありましたが、保管のための倉庫は、宇品線が終着する場所へ建てられていました。そのほかにも、宇品線沿岸に広島陸軍被服支廠、広島陸軍兵器支廠と相次いで軍事施設が建てられ、軍都廣島へと変貌していきました。

さて、私の住んでいる町には、まだまだ遺構はたくさんあります。

似島の陸軍検疫所跡や、陸軍運輸部跡碑など、数多くのものが点在しています。

これらの遺構は、言うまでもなく戦争をするための施設です。

1894年に大本営が広島に移されました。それとともに国会が広島に移された臨時帝国議会が開催され、軍都化への予算が最優先で可決されました。この臨時帝国議会では、軍都化する予算案に反対の声を挙げる人はいなかったそうです。これ以降、広島は、「廣島」へと突き進み、そして1945年8月6日を迎えました。

いま、この国は、どこか再び「来た道」をたどっていないか?

憲法改正をもくろむ安倍政権は、間違いなく「来た道」を辿っています。

しかも、強力に、巧妙に。

あの時、臨時帝国議会で、予算を否決していたら。

主導権を、権力を軍へ渡していなければ。

「たら」「れば」論ですが、きっと違った未来がありました。

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「だめだ」と声にだすことを止めた時、いつもの暮らしが変わった

「反対だ」と意志表示することを止めた時、世界は恐ろしくファシズムへと傾いていった

全部、経験済みではなかったか?

幸いなことに、私たちは今、「だめだ」の声を挙げることもできるし、「反対だ」と意志表示することができます。

来る参議院議員選挙では、憲法を護り、平和と民主主義と、働く者の代弁者を国会に送らなければなりません。そして、未来の子どもたちの事をしっかりと考える代表を、国会へ送らなければなりません。

必ず、投票に行きましょう。

 声に出すことで、「反対だ」の意志表示をすることで

私たちの未来は必ず良い方向へ変わる

そう信じています

  (熊雄)

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2019年6月15日 (土)

7.6の豪雨災害からまもなく1年 生きて咲いた植物に励まされる

土砂に埋もれても翌年の夏に花を咲かせるフランネル草と八重咲きのドクダミ草の話。

2018年7月6日の集中豪雨で安芸の郷の建物「第2森の工房AMA」の裏山から大量の土砂が敷地と建物に流れ込んできた。夜7時30分だったので人的被害はなくてすんだ。もうすぐ発生から1年になる。土砂の撤去は広島市が行い第2森の工房AMAの建物に隣接する同市の管理する運動場に運ばれた。そのあとは細かいと所の泥の撤去などを根気よく進めていった。

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2018年7月9日(月)。

この日一日だけ安芸の郷のみみずく、あやめ、やのの3つの事業所を休所して被害を受けた第2森の工房AMAの建物、庭の土砂の撤去作業をして利用者が通所できる環境と整える作業を行い、一方で送迎ルートの再構築を図って10日(火)からの開所をしたのだが、庭の植物も、畑(温室横)も泥流に埋もれてしまった。

196152翌年2019年6月、写真上のブルーシートのかかった法面から大量の土砂が押し寄せたのだが、庭の見回り中に写真右下の柿の木の側に濃い桃色の花が目にとまった。

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フランネル草で、泥に埋もれ、ショベルカーにかき混ぜられたであろうに元気に草丈が伸び、花を咲かせた。この花は冬を越す宿根草のタイプだが、ここに植えたかどうか定かでない。でも生き延びた。

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2018年7月15日(日)。となりの運動場と第2森の工房AMAの水路確保のための土砂の撤去作業が行われたが、写真右下のフェンスの場所に八重咲きのドクダミ草を植えてあった。土砂の高さは70㎝くらいある。

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2019年6月11日(火)。同じ場所にはブルーベリーの挿し木育苗箱が並べられている。水路のフェンス沿いには背の高いヒメジョオンの白い花と背の低い八重咲きのドクダミ草の白い花が咲いている。

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数年前にCafeさくらにいつもお見えになるお客さんからの頂いた株で、八重咲きは珍しいのとたくさんの株があったので鉢植えとこの場所への地植えにしていた。鉢植えは全滅した。思いがけず開花した様子を見て気が付き、歩みを止めずに生きている自然に励まされた。

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6月11日に撮影したフランネル草。広島地方では一人娘という名前で親しまれている。

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6月7日に雨中で撮影した八重咲きのドクダミ草。

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そして土砂に埋もれていて休耕していた畑にもサツマイモの苗を植えて畑を再スタートさせた。

6月はヒロシマに原爆が投下されてなお花の咲いたキョウチクトウのように、第2森の工房AMAの庭に咲く植物に励まされている。

今年の7月6日は災害1年を迎える日で、被害にあった矢野地区では追悼イベント「シタマチ×キャンドル」が地元主催で夕方から行なわれる予定だ。18:00~21:00で場所は梅河団地(メイン会場)、西崎、神崎、宮下、大浜、中央の公園と矢野小学校の7か所。

2019年6月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2019年6月14日 (金)

朝鮮半島の非核問題をどう解決する―2019広島韓日関係シンポジウムにまなぶ

昨日、韓国国際交流財団と世宗研究所が主催し広島市立大学平和研究所の後援する「2019広島韓日関係シンポジウム」が、国際会議場で開催されました。私は、主催団体のことについての知識は全くありませんでしたが、広島市立大学平和研究所からの案内メールが届いていたことと、このシンポジウムのサブタイトルが「北東アジアの安保及び平和と日韓関係」となっていましたので、ちょっと興味を持ち参加しました。さらにメインの発表者の一人に旧知の太田昌克さん(共同通信社編集委員)の名前があったのも参加した理由の一つです。

シンポジウムに参加して知ったのですが世宗研究所は、韓国国内で全く国の支援を受けない唯一の民間のシンクタンクとして政府から独立し「国の安全と南北統一及び対外関係に必要な研究と教育・研修を通じて国と社会の発展に貢献すること」を目的として設立された組織でした。また、韓国国際交流財団は「韓国の文化や歴史を世界の人々に知ってもらおうと、さまざまな分野で交流事業を進めている」組織のようです。

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ところで、このシンポジウムで一番印象の残ったことは、最初の問題提起者として発表された崔完圭信韓大学校碩座教授の報告です。発言の主な内容は印刷され資料と配布されていましたが、タイトルは「北朝鮮非核化(問題)をどのように解決すべきか?:北朝鮮の側の視点を中心に」です。崔さんが発言は、こういう言葉から始まりました。「こういう場で、北朝鮮の側からの視点での話は、全くありません。すべて日・米・韓の側からの視点での話だけです。ですから私は、北朝鮮の側からの視点で発表します。」そして「北朝鮮は、核問題に関連して韓国や米国と締結または合意したどのような文書においても終始一貫して、朝鮮半島の非核化という表現をも守ってきた」と。そうして歴史的な流れを説明しながらの提起でした。その上で「この問題を解決するには、その道は長く厳しいだろう」と指摘しながら、最後に「南北、米朝をはじめとする朝鮮半島当事国が、同水準のカードを一つ一つ段階的に与え、それに相応する水準のカードを受けるならば双方の信頼が積み重なり、北朝鮮の完全な非核化は成し遂げられるはずだ」と協議のあり方を強調されました。

配布された資料を見ると崔完圭さん肩書が「前北朝鮮大学院大学総長」とも記載されています。聞きなれない大学の名前でしたので、会場で韓国側の出席者に聞いたところ「北朝鮮問題を中心に研修する大学で韓国統一相の多くがこの学校の出身者です」とのことでした。また本人が発言の中で紹介されましたが、崔さんは、昨年9月の文在寅韓国大統領の北訪問にも同行し、さらに11月にも訪問されるなど、北朝鮮の実情を十分に把握しての報告でしたので、発言に重みを感じました。

日本で北朝鮮問題が報道されるときのコメンテーターは、実際に北朝鮮を訪問したこともない人がほとんどで、発言内容もあまりにも偏りすぎていると常々感じていましたが、今日のシンポジウムでは韓国国内の論議の懐の深さを感じさせられました。

シンポジウムの第2部はラウンドテーブル方式で進み、10人を超える発言者がいたため、発言は一人7分という短い時間となり、もう少し聞きたいなという思う内容もありました。しかし、時間の制約もあり論議を深めることができなかったのは残念でした。「北側からの視点での話」を聞く機会はほとんどありませんので、もう少し参加者が多ければよかったのに感じました。

いのととうとし

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2019年6月13日 (木)

カープの町に行きました

講演依頼を受け、鯉の町として全国的に名前が知られている津和野を訪れました。時間に余裕がありましたので、ゆっくりと街歩きを堪能しました。

最初に訪れたのは、殿町。古い街並みが続いています。分銅屋とのれんのかかったお宅にスマホを向けているとちょうど車で帰って来られたご主人に「どうぞどうぞ中に入ってください」と声をかけられ、遠慮もせずにお店の中に入り、ご夫妻からいろいろと話を伺いました。

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ご主人の話。「この店は、津和野の町の中で一番古い建物ですよ。津和野の町は、ペリーが来広した年の嘉永7年(1984年)に発生した大火事で街が全焼。わが家は、藩の御用商人として明かり用の油などを商っていましたので、とにかく早く再建しろと命じられ、最初にこの家が再建されました。その時の建物がそのまま残っていますので、一番古いのです。」現在は、和ろうそくや熨斗、香具などを販売されています。

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そんな話の中で私が「広島から来た」ことを打ち明けると、奥さんが「今の政府はおかしいですよ。どうして核兵器禁止条約に賛成しなんですか。被爆国でしょ」と。ここでまさかこんな声を聴くとは。「全く同感です」の相槌。椿さん(現姓)宅を後にして、菖蒲が植えられ、鯉が泳ぐ掘割付近に移動。

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菖蒲は、今が見ごろを迎えていました。掘割には、鯉やうぐいが群れを成して泳いでいます。カープ色の緋鯉を探すのですが、なかなか見つかりません。ようやくそれらしい鯉を見つけパシャリ。

津和野の古い町並みは、殿町の通りだけではありません。殿町から横に伸びる住宅街にも趣を感ずる路地が広がっています。ちょっと横道に入るのも楽しみの一つです。

少し時間がありましたので、JR津和野駅裏手の乙女峠・マリア聖堂まで足を延ばしました。谷川の音を聞きながらちょっと坂道を200mほど登るとマリア聖堂が目に入ります。

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平日の午前中でしたので、見学に訪れる人の姿を見ることはありませんでしたが、マリア聖堂の清掃のために殿町にあるカトリック教会から上がってこられたシスターにお会いすることができました。この地で起きたキリシタン信徒の受難したことなどを教えていただきましたが、その出来事が明治の時代におきたと説明され、不勉強な(キリシタン弾圧は江戸時代のことと思っていた)私はびっくりしました。ここでもまた私が「広島から来た」と話すと、シスターは「浦上でとらわれて信徒は、広島の廿日市から津和野街道を歩かされ、ここまで連れてこられたのですよ。」と広島とのかかわりを教えてくださいました。

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その後、隣の谷筋にある「森林太郎墓」(森鴎外の墓)を訪ね、鯉のお米屋として有名な「吉永米店」の中庭の池で群を成して泳ぐ鯉を見て、カープの町を後にしました。

いのちとうとし

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2019年6月12日 (水)

「被爆動員学徒の生きた時代」-職域被爆者組織の結成の経緯

先日、いつもお世話になっている被爆者から「小畑さんという人が、近藤幸四郎さんのことについて書かれた本があるそうですが、知っていますか。本の正式なタイトルと出版社名を教えていただけませんか?」と尋ねられ、「どうされたのですか。その本ならよく知っていますよ」と答えたところ、「在外被爆者のことも書かれているようなので、購入しようと思っているのです」。「私の手元に、数冊ありますので、贈呈しますよ。」こんなやり取りがあり、久しぶりにこの本を読み返しています。

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この本の正式なタイトルは「被爆動員学徒の生きた時代―広島の被爆者運動―」で、著者は小畑弘道さんで「近藤さんが残されたメモに被爆者運動関係の資料の一切を小生に託す」(本書のあとがきより)とされた人です。その小畑さんが、近藤さんが亡くなって5年後の2007年に近藤さんの一生をたどりながら、「被爆者たちがその折々にあたって当事者として邁進していくなかで直面した問題や思想として築き上げて来たものが何であったか知ろうとして」(これもあとがきより)まとめたものです。一人の被爆者が歩んできた歴史をたどりながらも、それにとどまらずむしろ被爆者運動の歴史をたどったともいえる中味になっています。私が何よりもこの本に惹かれるのは、被爆者運動の歴史を、近藤さんが常々言い続けていた視点からたどっているからです。

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右が近藤幸四郎さん、左は盟友の宮崎安男さん

この本では、原水禁運動について触れられている様々な書籍の中で全くといってよいほど触れられることのない被爆者運動について書かれています。それは本書の「Ⅳ 広島の運動から」の章の「一、職域に被爆者組織」です。近藤さんが当時働いていた電電公社(現在のNTT) の職場に、1968年10月結成された「全電通被爆者連絡協議会」を作るまでの経緯が書かれています。被爆者組織といえば、それまで地域組織のみでしたが、この当時相次いで職域の被爆者組織が結成されるようになりました。結成されるまでには、労組被爆者ごとに様々な経緯がありますが、全電通の職場にも特別の事情がありました。そのことを私も何度も近藤さんに聞いたことがありますが、ここではちょっと長くなりますが本の中から引用します。「1968年、全電通中国通信局分会執行委員だった(筆者注:私の労働運動もこの中国通信局分会執行委員がスタート)近藤は、夏期手当の差別問題で通信局側と交渉を続けていて、ある女性が異常に手当てが低いのに疑問を抱く。局側の答えは『上司にも黙ってよく休んでいる』。そこで近藤は本人にこっそり会い事情を聞いてみる。原爆に遭い肉親を失い、彼女自身、肝臓の機能障害や無力症候群で広島原爆病院に入退院を繰り返しており、被爆者であることが知れたら首になる、と深刻に悩んでいた。これは近藤にはショックなできごとであった。労働組合は毎年、8月6日を中心とした原水禁運動に参加し一定の役割を担っていたが、考えてみればその多くは、会場設営や警備、署名やカンパ活動などの『動員』にほかならず、最も身近な被爆者のことを置き去りにしていた。この女性のような悩みを抱えた被爆者はまだほかにもいるに違いない。何かしなければと思い立つ。」ここからが近藤さんの真骨頂。「結成準備会」を立ち上げ、最初に行ったのが被爆者がどれだけいるのかの調査。・・・しかし残念なことに、今こうした歴史が語られることはほとんどありません。

 

近藤幸四郎さんの運動の歩みには「国立原爆追悼祈念館」のことなど語らなければならないことが多すぎるほどありますが、近藤さんに教えられてことの中でも、私が学ばされたできないできごとの一つとなっています。そしてことは、私の原水禁運動の原点の一つでもあります。

いのちとうとし

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2019年6月11日 (火)

脱走兵の平和貢献 ――Elaine Sacrry (エレイン・スカーリー) 教授の講演から (1)――

カリフォルニア州のサンタ・バーバラ市に、「核時代平和財団」(英語名は、Nuclear Age Peace Foundation) と呼ばれる平和団体があります。1982年に、デービッド・クリーガー博士により設立されたNPOですが、この財団が最終目標として掲げているのは核兵器のない世界の実現です。

クリーガー博士は弁護士でもありますので、この財団の核兵器の廃絶のための活動には、法律面からのユニークなアプローチが特徴だと言っても良いでしょう。さらに、出来るだけ多くの人々に的確な情報を提供して、核廃絶のための声が大きくなる努力をしてきた事でも知られています。

その一環として、毎年この財団の本部で核廃絶のための運動で注目されている著名人を招待して講演会を開いています。今年のスピーカーはハーバード大学教授のElaine Scarry さんでした。2014年に『Thermonuclear Monarchy』(熱核兵器王朝)という著書が話題になったのですが、二回にわたって彼女の考えを紹介しておきたいと思います。

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クリーガー博士からのメールに添付されていたURLから、今年の5月9日の講演の様子をYouTubeのビデオで見ることが出来たのですが、その中には、今まで全く知らなかった情報も盛り込まれていました。まずはそれから取り上げます。

皆さんは、アメリカの南北戦争でリンカーン大統領の率いる南軍が、奴隷制度の維持を目指していた南軍に勝ったことは御存知だと思います。それでは、その理由は何だったのでしょうか。

一般的には、北と南の経済格差や技術格差が挙げられます。北軍に志願した黒人の兵士数が多かったことなども理由の一つだとも言われています。でも、スカーリー教授が挙げたのは脱走兵の数でした。通常の統計では、北軍は250万人の兵士の内、約20万人が脱走し、南軍では100万の兵士の内、約10万人が脱走したということになっているのですが、スカーリー教授によると、南軍の脱走兵は、25万人に上るのだそうです。これでは士気にも関わりますし、「戦力」という点からもどちらが勝つのかは時間の問題だったということになるでしょう。

しかも、脱走した理由の多くは、兵士たちがいなくなった家族の困窮だったということですから、これは最初の南北の経済格差とも連動しています。

ベトナム戦争でも多くの脱走兵が戦地を離れましたし、脱走兵の支援をするボランティア組織もべ平連との連携でできました。その後のイラク戦争等でも脱走兵の数の多さは、大きな問題になっています。

しかしながら、どの国の政府も脱走兵についての情報をできれば隠したいと考えていることも事実です。日本政府もその点では人後に落ちませんし、それを防ぐために戦陣訓を作り「生きて虜囚の辱めを受けず」といった大規模な洗脳作戦まで実行したのです。

さて、このことと各兵器とがどう結び付くのでしょうか。次回までに、皆さんにも考えてみて貰いたのですが。

[2019/6/1 イライザ]

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2019年6月10日 (月)

祝島でビワ狩り

 祝島へビワ狩りに行ってきました。祝島はビワをたくさん作っています。この時期の定期船の荷物置き場には、「祝島 びわ」と書かれた箱が山積みという感じです。農協にも出荷していますが、祝島をふる里にしていて、都会に住んでいる子どもや親せき、友人などに送る物が多いようです。

 「祝島は元気だよ」「ふる里の味を楽しんで」というメッセージがこもった物だと、その荷物を見るとジーンと感じます。

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僕は、ビワの木のオーナーをしています。オーナーになると「僕のビワの木」というのがあって、その木からのビワは取り放題です。そしてパックに入った贈答用の物を8パックほどもらえます。

ビワの実が数ミリという段階の3月頃に、袋かけという作業が行われます。そして木の周辺の草刈りなどの作業を経て、5月~6月のこの時期に収穫の時を迎えます。オーナーは袋かけのような面倒な作業は、祝島の方にお任せです。

ビワは1年の内、収穫できる時期というのは、ほんの2週間程度です。去年は友人を誘って計画していましたが、行く日の調整がなかなか決まらず、管理して下さっている人に電話をしたら「もう時期が終わった」と言われ断念していました。

祝島のビワは甘くて、とても美味しい味です。祝島では実だけでなく、葉っぱを使った「ビワ茶」も有名で、健康茶ブームもあり全国に愛飲者がいます。無農薬ですから特に人気のようです。

今回も友人と行く予定でしたが、これまた日にちの調整が決まらず、一人で行きました。オーナー活動の中心的な役割をしている方の車に乗って、透き通った海を右側に見ながらの道を走り、そしてビワの木の在る所へ到着。

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ここでは袋かけされている物から獲りはじめました。これは贈答用の箱の中に入れました。そして袋かけのされていない木に移動しました。ここのビワは、見かけは悪いが獲り放題です。その場で食べて味見をしながら、箱いっぱいになった物を持って、祝島事業組合の作業場へ到着しました。ここで見かけの良い物と、そうでない物とに分ける作業を行いました。

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見かけの良い物も、そうでない物も味はまったく変わりませんし、当然のですが見かけの良いのが美味しいとは限りません。しかし消費者が選ぶのは見かけです。色、キズ、形、大きさ、もちろん少しでも腐りそうな物は廃棄です。贈答用になるのは、30個の内の1個くらいでしょうか。まさに厳しいハードルです。作業をしながら、人生の無情も思いました。

帰りの船の中は荷物置き場も、乗客もビワを持っていました。僕は贈答用の8パックと、持ちきれないばかりの「見かけの悪い」という物を、車に積んで帰宅しました。そして近所の方に、おすそ分けしました。

ビワの木のオーナーになるというのも、上関原発を止めるための一つの活動ではないでしょうか。ビワを通じて祝島のファンになること、原発反対の思いを共有することです。来年は誰か一緒しませんか、今が収穫時という時に何をさておきです。

木原省治

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2019年6月 9日 (日)

写真展「グローバル・ヒバクシャの肖像」

9日から旧日本銀行広島支店で開催されている「写真展『グローバル・ヒバクシャの肖像』」の会場を訪れました。

この写真展は、オーストラリアのマードック大学のミック・ブロデリック教授が広島市立大学平和研究所のボー・ジェイコブズ教授と共に、世界の大気圏核実験の影響に関する研究に取り組み、その中で撮ってこられた写真をもとにして構成されています。

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ミック・プロデリック教授は、2002年からオーストラリアの先住民族のコミュニティ、退役軍人やその方々にインタビューし、2007年からは、「グローバル・ヒバクシャ・プロジェクト」を実施されているそうです。その中で、冷戦下においてアメリカ、旧ソ連、イギリス、フランス、中国などが、植民地的な直接統治と支配のもとに行われた核実験によって、人々がどのような影響を受けたかを研究されているようです。そして、「この写真展を通じて、世界各地で行われた核実験によるヒバクシャ・コミュニティの存在とその多くが遠隔地の先住民族であること、彼らが他のヒバクシャから学び、国際的な核兵器開発・配備・使用の広い視点から自分たちの状況と歴史を理解したいと望んでいることを知っていただきたい。」(会場に置かれたチラシから引用)との思いを持っての写真展です。

私もそんな思いを受け止めながら、会場入り口に置かれていたA4判の写真説明文を手にしながら、30枚の写真を見て回りました。カザフスタン、マーシャル諸島共和国、オーストラリア、フィジー、クリスマス島、イギリス、フランス領ポリネシア/パペーテ、フランス、スペインなどなどのヒバクシャ。スペインはちょっと説明がいります。1966年初頭に米軍の核爆撃機から落下し、プルトニウムに汚染されたパロマレスの元町長の顔写真。オーストラリアの写真の中には、おばあさんが広島で被爆した被爆3世の日本人女性の写真もあります。

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私の足が止まったのは、オーストラリアのアボリジニの被曝2世の女性の写真の前。かつて1975年、森滝市郎先生もこうしたアボリジニの女性の訴えに耳を傾けられたのだなと思いを巡らしました。

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もう一枚は、フランス領ポリネシアのローランド・オルドハムさんの写真。原水禁大会や3.1ビキニデーなどで私たちの集会のため何度も来日してくれ、フランス政府とモルロアの被害者のことを訴えてくれました。私も何度も直接会話を交わしたことのある顔見知りです。帰宅して探し出した原水禁の資料では、ロラン・オルダムとなっているが間違いなく同一人物です。説明文の最初にこう書かれていました。「最近亡くなった」と。びっくりです。会場におられたミック・ブロデリック教授に「ロランさんは、何時亡くなられたのですか。」と尋ねると、「数週間前です。小さな記事でしたが、外国でニュースにはなっていました」との答えでした。まさかの訃報です。そしてこの写真展の会場で聞くことになろうとは。私よりも若かったはずです。何かの縁を感じざるを得ませんでした。

 

自国(オーストラリア)のことのみでなく、世界の核実験被害者と向き合っている人を知ることができた写真展でした。この写真展は、12日(木)まで開催されています。開催時間は、午前10時から午後7時までです。(最終日は、午後4時まで)一人でも多く観ていただければと思います。

いのちとうとし

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2019年6月 8日 (土)

上関原発埋め立て免許の延長申請を行うなー中国電力への申し入れ

上関原発計画が、一つの山場を迎えています。それは、7月6日に期限切れを迎える「上関原発計画の公有水面埋め立て免許」が、どうなるのかということです。

昨日、中国5県で脱原発運動を取り組んでいる市民団体31団体の連名で「①本年7月6日に期限切れを迎える、上関原発計画地の公有水面埋め立て免許について延長申請を行わないこと②上関原発の建設計画を白紙撤回すること。」の2点を求める申し入れを中国電力に行うとともに、約1時間の話し合いを行いました。

申入れ団体を代表して「原発はごめんだヒロシマ市民の会」代表の木原省治さん(広島県原水禁常任理事でもある)が、まず申し入れ書を読み上げて手渡し、話し合いに入りました。今回の中国電力との交渉は、特に喫緊の課題である「免許申請」問題に絞り意見を交わしました。最初に木原さんは「昨年7月に閣議決定された『エネルギー基本計画』には、原発の新設が盛り込まれていない」ことを指摘するとともに、かつて最初の「免許申請」を認めた仁井山口県知事(当時)のその後の発言「福島原発事故で安全確保の大前提が崩れた」「地元の意見も聞かずに手続きを進めるのなら、原発事故の教訓が生かされていないことになる」を紹介しながら、「今回は、いったんは失効させ、白紙に戻し、ありえないことではあるが、世論が上関原発を必要とする時が来た時点で、改めて再申請すればよいではないか」と迫りました。しかし、中国電力の答えは、「地元の皆さんや利用者の皆さんの声に真摯に耳を傾ける」といいながら、「バランスの取れた電源構成として必要。だから延長申請を行う」という従来の主張を繰り返すだけという全く誠意のないものでした。

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山口から参加された二人からは、「祝島の人びとが、絶対ダメといっているのになぜ強行するのか」という厳しい指摘がありました。

私は、「エネルギー基本計画に新設が盛り込まれていないのだから、申請し仮に許可が降りたとしても、これまでの3年間と同じように工事の着工はできないはず。少なくとも次回のエネルギー基本計画の策定を持ってから、新た得て申請するのが普通ではないか」と指摘しました。

さらに「中国電力の社内での検討の中で、次期エネルギー基本計画策定まで先延ばししようという意見は、出なかったのか。」と質しました。中国電力の回答は、「私はその重要な会議に参加していませんので、どのような意見が交わされたのか承知していない」というものでしたので、「この延長問題で社内でどのような議論が行われたのか、ぜひ期限切れまでにもう一度私たちと会ってその点を明らかにしてほしい」と求め、「そうした場を持つ」ことを約束させ中電との話し合いは終了しました。

最初に「埋立て免許の交付」が行われてから今年で11年になります。この間に東京電力福島第1原発事故が起こり、原発を巡る環境は大きく変わっています。安全神話が崩れてしまった今、中国電力も一歩踏みとどまって原発問題を考えるべきです。この間の経緯は、当ブルグの5月25日付で詳しく記載されています。

なお、「上関原発計画の公有水面埋め立て免許」問題を巡っては、今月5日に山口県原水禁などが、65,978筆の署名を山口県知事に提出し「免許の延長を許可しないように」という申し入れを行っています。広島県原水禁・平和運動センターもこれに協力し、22、209筆の署名を山口県原水禁に送っています。6日に送付していますので、5日の数字にさらに加わることになると思います。

いのちとうとし

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2019年6月 7日 (金)

ベルリンから届いた石彫家藤原信(まこと)先生の訃報

 ベルリン在住の友人福本まさおさんから、ノルウェーを拠点に活動を続けておられた石彫家藤原信さんが亡くなられたという悲報が、届きました。81歳、静かに眠るようだったとも記されていました。

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藤原先生(元ベルリン芸術大講師、元ハノーバー専門大学芸術学部の教授)と私の出会いはちょうど10年前。ドイツのポツダム市にあるヒロシマ広場に建立する記念碑へのカンパのお願いがあり、日本でのカンパ集めに協力をしたことがきっかけでした。藤原先生は、友人の外林秀人さん(ドイツ在住のヒロシマの被爆者で被爆体験を語りながら記念碑建立に努力された)からのお願いを受け、このヒロシマ広場の構想を考え、記念碑建立作業の中心として活躍されました。ノルウエー産の約36tの石を中心とした構想を聞いた私が、広島の被爆石もモニュメントに使ってはどうかと提案したことが、藤原先生と出会う直接のきっかけでした。

2009年の秋、日本に帰国された機会に、モニュメントに使う被爆石を求めて、広島電鉄が保管されていた被爆した電車の敷石を一緒に見に行ったのが最初の出会いでした。翌年ドイツに送ったその石が、ヒロシマ広場のモニュメントの一部として広島を伝えるためにがんばっています。藤原先生は、広島で被爆石を見つけた後、長崎の被爆石を探すため、長崎に移動されました。長崎での被爆石探しでは、なかなか見つけることができず大変苦労されたようです。しかし最終的には山王神社(片足の鳥居で有名)の境内にあった被爆石を見つけることができ、モニュメントには、広島、長崎の被爆石が並ぶことになりました。長崎での被爆石探しの苦労を考えると、広島、長崎の被爆石が一緒に並んでいるのは、このポツダムにある「ヒロシマ・ナガサキ広場」しかないと思います。

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いつの間にか広場の名前が「ヒロシマ広場」から「ヒロシマ・ナガサキ広場」に代わっていることにお気づきだと思います。この経緯について藤原先生は、外林秀人さん(2011年12月30日逝去)への追悼文の中で、当時のことを振り返りながら次のように記されています。

「半年後(筆者注:初めて現地を下見されたのが2009年3月)、秋分の日、ベルリンにいる広島市立大学芸術学部の卒業生数人と日本食堂で会食中、同席の長崎生まれのルンバこと、平野薫さんが、”長崎が聞こえてこない”と。”長崎”の名前が登場するのは、外林先生はじめ皆々の悲願だ。今まで原爆の悲劇は"広島"で代弁されていたのだ。二ヶ月後、この重い一言で長崎に向かった。長崎電鉄で職務中に被爆され、いま語り部としてもご健在の和田耕一さんのご配慮で山王神社を訪ねた。新嘗祭に集まっておられた50人ほどの氏子さんたちの快諾。広島では帰国中の外林先生夫妻、原水禁の金子哲夫氏と広電の敷石保管所で石を探した。」

さらに追悼文には、2010年の現地での作業風景も記されていますので、そこも掲載します。「7月15日、ボンから、ハノーバーからベルリンから石の仲間が馳せ着けてくれた。プランどおりに計測、整地、みなスコップや鍬、すべて手仕事。コンテナー2杯の掘り土、そこに時間どおり解説文の刻まれた銘板が届く。はるばるノルウエーから大きな石がトレーラーで届く。200トンの起重機はドスンと腹の底に応える。市の倉庫にとどまっていた広島と長崎の被爆石が持ち込まれる。役者が勢揃いした。快適な設置現場は木漏れ日が快い。配置のバランスは皆の目で決められていく。石という原材料の強さは空気を引き締め、最初のモンタージュ写真が頭の片隅をよぎる。 設置は無事終了。 大きな石は威厳と格式を持って神格化される。 次の日から銘板上に双方の被爆石をしっかりと埋め込む作業になる。細心を持って作業できる仲間を持つのは心強い。途中、外林先生もアストリッド奥様も来ていただいた。通りすがりの人たちとも対話をされていた。」

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藤原先生の努力で無事に完成したモニュメントの除幕式のことが、今も思い起こされます。藤綿先生の熱意と発想がなければ、「ヒロシマ・ナガサキ広場」は、実現できなかったでしょう。

でも藤原先生には、一つやり残したことがありました。それは、あの広場に「ソメイヨシノ」の桜を植えることでした。しかし、いろいろな事情で未だ完成していませんが、いつか必ず実現すると確信しています。

もう一度必ず語り合えると思っていましたので、もうふたたび先生のお話が聞けないのは残念ですが、ご一緒できたことは、決して忘れません。藤原先生、どうか安らかにお眠りください。

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<追記>藤原先生のことをネットで調べていたら、2015年7月(私の2度目の訪問の直前)にサーロー節子さんが、ここを訪れ献花されていることを知りました。その時の写真です。

いのちとうとし

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2019年6月 6日 (木)

被害者の訃報相次ぐ―日本軍「慰安婦」問題

日本軍「慰安婦」問題解決ひろしまネットワークが、毎月実施している街頭行動が、今月も第1月曜日である昨日の昼休みの1時間、本通電停前で実施されました。私がこの街頭行動に初めて参加してからでもちょうど3年が経過していますが、女性を中心に粘り強く継続されています。昨日の行動は少し参加者が少なかったようですが、私も本当に久しぶり(一年ぶりかな)に参加し、ビラを配布しながら道行く市民への訴えを行いました。ただ残念なことですが、ビラを受け取る人は少なく、だんだんと関心が薄れているのかなということも感じました。

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1991年に金学順さんが韓国で初めて元「慰安婦」として名乗り出て、自らの体験を語ってからすでに28年という時間が過ぎようとしています。この間に多くの被害者が無念のうちに逝去されています。今年に入ってからだけでも、これまでに韓国で4名、中国で1名の5名が次々と逝去されています。韓国の生存被害女性は、21名になったといわれています。広島の被爆者と同じように、いやそれよりも早く、被害女性がいなくなる時期を迎えることになります。今、日韓関係は、強制連行の賠償問題などを巡って、日本政府の強硬な姿勢により、最悪ともいえるような状況にあります。しかし、私はその多くの責任が日本側にあると思っています。戦後補償問題を解決するのは日本政府の責任です。そのためには、歴史の事実を事実として認めることから出発しなければなりません。自らの語りたくない日本軍「慰安婦」としての体験を語り続ける被害者の思いがなぜ受け止められないのだろうかと腹立たしい思いを抱くのは、私だけではないと思います。問題解決までの残された時間はわずかです。一人でも多くの被害者が生存されているうちに、被害者が望む解決への道を開くことが、今私たちに求められています。そのことを改めて感じた昨日の行動でした。

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昨日の行動で私が配布したビラは、「日本軍『慰安婦』問題解決ひろしまネットワーク」が主催し、6月30日(日)14時からと17時からの2回上映される「アイキャンスピーク」映画会の案内チラシでした。韓国では300万人が観賞したといわれていますが?

ところで6月には、横川シネマで、1日から23日間のロングランで慰安婦問題の論争をテーマにしたドキュメンタリー映画「主戦場」も上映されています。

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この映画「主戦場」に、従軍慰安婦の人数や強制連行の有無などの論点について日米韓の30人以上へのインタビューで構成されているそうですが、このうち「新しい歴史教科書をつくる会」の藤岡信勝副会長などが「商業映画として一般公開するならインタビューは受けなかった」などとして上映中止や、ポスターからの名前や顔写真の削除を求めているそうです。これに対し、監督のミキ・デザキさんは3日に会見を行い、「出演者は全員、撮影した映像を私が自由に編集し利用することに合意する合意書や承諾書に署名した。映画の配給や上映、販売を承諾する項目もあり、出演者は商業公開の可能性も知っていた」「藤岡氏ら2人は公開前に確認を求めたので、昨年5月や9月に本人の発言部分の映像を送った。その後連絡がなかったので問題ないと判断した」と述べたといわれています。このことだけでも、興味をもたされる映画のようです。

いずれにしても2本とも日本軍慰安婦問題への理解を深めるうえでも、ぜひ見てほしい映画だと思います。

いのととうとし

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2019年6月 5日 (水)

ヒロシマとベトナム(その1)

今月から「あかたつ」さんが執筆陣に加わりました。毎月5日にベトナムのことについて書いてくれます。今日は、その第1回です。

 

ベトナムとの最初の出逢いは1960年代の初め頃、家族と行った田舎劇場でベトナム戦争のニュース映画を見た時だったと思います。幼いながらも強烈な印象は無意識にもベトナム(戦争)への関心へとつながり、70年代初め労働組合運動(全電通)を通してベトナム反戦運動にも参加するようになり、1975年4月のサイゴン解放のニュースに感動したことを40数年経た今も鮮明に憶えています。

その後、ベトナムは私の意識から長く遠ざかっていましたが、1991年に初めてベトナムを訪問し、そこで再び衝撃的なベトナムとの出逢いがありました。ハノイを流れるホン川に架かるロンビエン橋は北爆に傷ついた姿をさらし、近郊には幾つもの大きなクレーターが残っていました。「(バイクの)洪水」は見られなかったものの、バイクが急速に普及しはじめ、活気と喧噪に溢れる街路で目に付いたのが、多くのストリートチルドレンと戦傷者の物乞いの姿でした。そして、枯葉剤被害児との出逢いでした。

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その時はじめて、ベトちゃん・ドクちゃんが決して特異な例でなく、結合性双生児のほか無脳症や手足の奇形、目などの感覚器官の奇形、繊毛症などの皮膚障害、口蓋裂・・・・。

猛毒ダイオキシンが世代を超え、あらゆる器官に影響を与えていることを知りました。米軍による最後の枯葉剤爆弾攻撃(1971年1月)から48年経た今なお、この枯れ葉剤被害は続いています。

ベトナムの人々は、日本軍のインドシナ侵攻とモミ種まで収奪する強引な現地挑発と飢饉が重なり200万にも及ぶ餓死者を出した悲惨な体験や、米軍の後方補給基地としてベトナム戦争に加担した日本であるにもかかわらず、親日的な人が多くいます。都会でも地方都市でも、山岳の少数民続村でも、大人も子どもも「ヒロシマ」を知っています。

 

人類史上初めて戦争による原子爆弾(核兵器)の被害を受けたヒロシマ、枯葉剤爆弾(オレンジエージェント)という科学兵器の被害を受けたベトナム。20世紀の象徴的な戦争被害を受けたヒロシマとベトナムの願いは共通しています。“ノーモアヒロシマ・ナガサキ”は“ノーモアベトナム”であり、「核も化学兵器もない平和な世界を」というものです。10年前、広島ベトナム平和(・・)友好協会(HVPF)を設立したときに、二国間交流団体としては異例とも言える「平和(・・)」を冠に付けた所以(ゆえん)もここにあります。

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ベトナム中部に広島県の約56%の面積に62万人余りが暮らすクアンチ省という「ベトナムで最も貧しい省」(日本の県にあたる)があり、2009年から交流を続けています。旧南北ベトナムの国境線(17度線)が引かれ、ベトナム戦争が最も激しく戦われた地域です。1972年5月~9月、民族解放戦線と北ベトナム軍兵士、住民が1万人余り犠牲になった「クアンチ古城」の81日間の戦いは、ベトナム戦争の帰趨を制し「パリ和平協定」、「米軍撤退」、そして75年の「サイゴン解放」へとつながりました。そのクンチ古城に佇む「慰霊塔」と「チュオンソン戦没者墓地」には線香や花束を手に参拝に訪れる人が絶えません。

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ベトナムの人々にとって「クアンチ」は、ベトナム戦争勝利と民族開放(統一)の象徴的なキーワードであり、単なる地域を表す固有名詞ではありません。

「ベトナムの『クアンチ』は、日本の『ヒロシマ』と同じで、平和を表すものです」とは、2008年に東広島を訪れたグエン・フー・ビン元駐日ベトナム大使(現越日友好協会副会長)の言葉です。ここから、私たちHVPFとクアンチ省との交流もスタートしました。

2019年6月5日 あかたつ

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2019年6月 4日 (火)

ヒロシマ総がかり行動実行委員会の6月定例街宣

憲法を変えるな 政治を変えよう!」と呼びかけた「戦争をさせない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会の6月定例街宣が、今月も昨日(3日)の午後5時半から1時間、本通電停前で行われました。

歌声9条の会のメンバーによる歌声で始まった行動は、チラシを配布しながら、署名への協力を呼びかけました。帰宅途中の時間帯ということもあり、なかなか足を止めて署名に協力していただく人は少なかったのですが、石口新事務局長をはじめ参加者が次々とマイクを握り、「安倍政権による9条改憲は絶対に許さない」「国民の暮らしを無視して戦争への道を突き進む安倍政治の退陣を求めよう」などなど、それぞれの思いを訴えました。

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その中で強調されたのが、7月の参議院選挙への訴えでした。「市民一人ひとりの力で、選挙によって安倍政権を退陣に追い込みましょう」「いま全国でそのための野党共闘が進んでいます。広島も力を結集しましょう」

演説の最後となった私は、二つのことを訴えました。「丸山議員の『戦争発言』は決して許されないが、もっと重要なことは同行された大塚団長の『戦争なんて言葉使いたくないです、使いたくない』『戦争は必要ない』と答え続けられたことです。先日聴いた被爆者の証言の中でも『原爆が落とされたのは戦争があったから。戦争は絶対にしてはならない』と訴えられました。戦争を体験された人たちのこの声をしっかり聴かなければならないのです。憲法9条を変えることは、戦争をする国を作ることです。このことを考えてください。」と。二つ目は今の国会の問題です。国会が開会中なのかどうかもわからない状況が続いています。ですから「トランプ大統領とどんなことを話したのか国民に説明しなければなりません。それを行うのが国会です。また5月のNPT再検討準備会議は、意見をまとめることができませんでした。これからの一年間、日本政府は来年のNPT再検討会議でどんな役割を果たそうとするのか、果たすべきかを真剣に国会が議論することを私たち広島は強い関心を持ってみています。論議すべき課題は山積しています。こうした重要な課題をしっかり論議することこそが、国会の役割のはずです。」と市民に訴えました。

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マイクを握りながら、改めて考えたことがあります。

丸山発言は、もちろん憲法違反ですから厳しく責任が問われるのは当然のことです。しかし、私は強く思います。大塚団長の発言にこそ、もっと耳を傾け、国会議員一人ひとりが向き合わなければならない大切なことだと。ましてや与党の議員に至ってはなおさらです。なぜなら自分たち自身が、憲法違反の集団的自衛権を認めた安保法制に賛成したのですから。その意味では、丸山議員を責める資格はありません。しかも、野党が要求する予算委員会も全く開かず、逃げの一手に終始する姿勢は、責任ある政党とは言えません。安倍総理は、憲法審査会が開かれないことに度々文句を言っていますが、その前に予算委員会をはじめとする各委員会での審議にもっと誠意を持って対応すべきです。そしてこのような国会状況になっていることに、国会議員一人ひとりがもっと責任を感じてほしいということです。

いのちとうとし

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2019年6月 3日 (月)

語りつごう 走り続けよう ヒロシマ・ナガサキの心を-第30回ヒロシマの旅

全国各地で続いている反核平和の火リレーを主催している平和友好祭実行委員会が、毎年この時期に実施している「ヒロシマの旅」が、30回目を迎えた今年も、5月31日から6月2日までの3日間開催されました。

今年は、全国から青年・女性50名(スタッフを含め)が参加し、資料館見学、講演「ヒロシマの旅30年を迎えての課題」、大久野島の見学、被爆証言を聞く、平和公園の碑めぐりなど、様々な企画に参加し、有意義な3日間をこの被爆地広島で過ごしました。

「ヒロシマの旅」が始まったのは、1982年に広島で始まった「反核平和の火リレー」が全国各地に広がる中で、「語りつごう 走り続けよう ヒロシマ・ナガサキの心を」というのであれば、反核平和運動の原点である「被爆の実相」をしっかりと学び、運動をより広げていこうということでスタートしたものです。ですから、毎年全国で原水禁大会や8月6日を前にして実施される反核平和の火リレーが出発する前の、この時期に実施されています。今年は、30回目の節目の開催ということで、当時この運動に関わっていた私に声がかかり、初日の講演を引く受けることになりました。

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2日目の大久野島の見学には参加することができませんでしたが、最終日の行事には私も参加しました。「被爆証言」は、12歳の時建物疎開の動員中に皆実町の元広島師範学校の校庭で被爆された平野貞雄さんの話。平野さんは、近所に住む豊永恵三郎さんに強く勧められて10年ぐらい前から証言を始められてそうです。平野さんのお話は「一瞬のうちに大やけどを負い、すぐ後に襲った物すごい爆風に吹き飛ばされた体験」とともにその後「ケロイドが残り」差別を受けながらの人生となった自らの被爆体験を語るとともに、むしろ愚かな戦争への道を突き進んだ当時に日本のあり様を厳しく批判されたのが特徴的でした。さらに、「核廃絶」を訴え続ける被爆者の声を無視する日本政府に対しても「許せない」と訴えかけるとともに、参加者に「核廃絶を訴え続けてほしい」と呼びかけ、平野さんの話は終わりました。参加者の感想の中でも「原爆被爆は勿論だが、戦争ということを本当に考えさせられるヒロシマの旅になった」という声が多くありました。ところで、その2時間後に豊永さんにお会いした時教えられたのですが、平野さんは、広島県被団協が呼びかけて2009年に発刊された「『空白の十年』被爆者の苦闘」にも貴重な体験を寄稿されています。私も自宅に帰ってすぐにこの本を探し出し、平野さんの手記を読みました。もし手元にあれば、ぜひ読んだほしいと思います。

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「ヒロシマの旅」参加者は、平野さんから証言を聞いた後、平和公園碑めぐりへと移動しました。3班に分かれた参加者への案内は、事前学習を積んだ地元広島実行委員会のメンバーが行いました。こうした企画は、広島の青年が学ぶ機会を作ることにもなっています。約1時間半余りの日程での碑めぐりでした。

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碑めぐり終了後は、慰霊碑前に全員が集合し、この「ヒロシマの旅」のもう一つの目的である「平和の灯」からの採火が行われました。この日採火された火は、全国の参加者がそれぞれ持参したカイロなどに移し、地元で実施する平和の火リレーの種火として持ち帰りました。「反核平和の火リレー」や「ヒロシマの旅」のスタートに関わったものの一人として、全国で若い人たちに運動が受け継がれていることに感謝するとともに、これからも継続してほしいと願わずにいられません。

いのちとうとし

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2019年6月 2日 (日)

2019年度広島県被団協総会で考えたこと

一昨日(5月31日)、広島県被団協の2019年度総会が開催され、私も来賓の一人として出席しました。

坪井直理事長の姿を見ることができなかったのは、残念でしたが昨年12月に理事長代行に就任された箕牧さんを中心に新たな運動方針が決まりました。

私も来賓としての短いあいさつの中でも触れたことですが、広島県被団協と広島県原水禁(発足当時は、原水爆禁止運動広島協議会の名称)は、ともにビキニ水爆実験を契機に始まった署名運動の中から生まれた組織として、常に連携しあってきた関係にあります。今総会に出席し、改めてそのことを思い起こし、「被爆者援護」「核兵器廃絶」の共通の課題に向けた運動の強化を決意しました。

「総会」の中で特に印象に残っていることがあります。「総会」の冒頭には、毎年「原爆で犠牲となった人たち」に対する黙とうから始まりますが、その後の植田雅樹副理事長(呉市原爆被害者の会)の開会のあいさつで言われた「黙とうをするといつも私の頭の中には、あの日の情景が思い起こされます。」という一言です。私たちの運動の原点は、被爆の実相だということを決して忘れてはならないということを改めて教えていただきました。

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今年もまた私は来賓の皆さんが退場された後も会場に残り、討論を最後まで聞きました。特徴的だったことは、その多くが、被爆者の高齢化が進む中で、どう組織を維持していくのか、運動を展開していくのかという大きな課題についての発言だったことです。その中で一様に触れられたのが、二世の組織化についてでした。福山市原爆被害者友の会では早くから被爆二世を中心とした組織に改編されていますが、他の多くの地区でも会長や事務局長の役割を二世が担うようになったことが報告されました。新たに選ばれた県被団協の役員体制の中でも、二世の人たちが、副理事長や理事に就任されており、今後の組織の方向性もより明確になってきたように思います。また、この総会では、組織の維持のための「寄付」を行うことが決まりました。広島県被団協は、私たち原水禁の運動にとっても一緒に頑張っていかなければならない、大切な組織です。今回の寄付の呼びかけ文の冒頭は「会員の皆さま」となっていますが、私たちも支援の輪を広げていかなければと思います。ところで、広島県被団協総会の様子を伝えるマスコミ報道では、「被団協の統合」問題が、なぜか大きく取り上げられています。総会後の箕牧理事長代行へのインタビューでのやり取りがニュースとなったようですが、この問題は、総会の論議では全く触れられることはありませんでした。「統合問題」を考えるとき、箕牧理事長代行もそのインタビューの中で答えておられるのですが、「過去の歴史」にこだわりがあることは、やむを得ないことだと私は思っています。ここでは過去の経過について触れることはしませんが、当時日本被団協の理事長だった森滝先生が、日本被団協の分裂を防ぐためにどれだけ努力されたのかを学んでみる必要があると思います。

原水禁もそうですが、結成されてからわずか8年余りで組織が分かれ、その後すでに55年という長い年月が経っています。その長い時間には、それぞれの組織が歩んできた歴史があります。そして、関わりを持つ団体も全く違っています。そうした様々な条件を克服し組織を統一することは並大抵のことではないと思います。私自身、組織の統一を否定するものではありませんが、今この時期に組織を統一することに大きなエネルギーを割くことよりも、共同行動の幅をより広げていくことに力を注ぐことが、むしろ今私たちの運動の求められていることだと思います。

いのちとうとし

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2019年6月 1日 (土)

子どもの権利条例があったら (3) ――条例で子どもの権利を守ろう――

野田市の少女虐待死事件のような悲惨な出来事を繰り返させないために何ができるのかを、憲法・子どもの権利条約・子どもの権利条例といった視点から3回に分けて考えていますが、その3回目です。前回までは、憲法が子どもも守っていること、国際的には子どもの権利条約があり、世界規模で子どもたちを守る動きが定着していることを強調しました。特に国連の取り組みは大切なのですが、その国連による評価では、日本はまだまだ問題を抱えています。その点も含めて改善する上での鍵を握るのが自治体です。つまり都市です。

 《国連の子どもの権利委員会による警告》

条約締約国は5年毎に報告書を提出し、国連の子ども委員会がその報告についての評価を公表します。2010年の日本の報告に対する評価では、次のような指摘がありました。多岐にわたるのですが、スペースの関係で、家庭でも学校でも子どもに対する虐待の口実に使われる「体罰」についての見解だけを引用します。

体罰

 47. 学校における体罰が明示的に禁止されていることに留意するが,委員会は,体罰の禁止が効果的に履行されていないとの報告に懸念を表明する。委員会は,全ての体罰を禁止することを差し控えた1981年の東京高等裁判所によるあいまいな判決に懸念をもって留意する。さらに,委員会は,家庭及びその代替的監護環境において,体罰が法律上明示的に禁止されておらず,特に民法及び児童虐待防止法が,適切なしつけの行使を許容し,体罰への許容性について不明確であることを懸念する。

  1. 委員会は,締約国に対し以下を強く勧告する;

    (a) 家庭及びその代替的監護環境を含む全ての環境における,体罰及び児童の品位を下げるあらゆる形態の扱いを法律により明示的に禁止すること,

    (b) 全ての環境において,体罰の禁止を効果的に行うこと,

    (c) 家族,教師,児童とともに又は児童のために働くその他の職業的従事者に対し,代替の非暴力的形態によるしつけについての教育を行うための,キャンペーンを含む広報プログラムを実施すること。

 

  2010年の時点でこれだけ明確に、日本社会における「体罰」のあり方についての問題提起がなされているにもかかわらず、それを受けて2016年には児童福祉法の質的大改正(福祉の「対象」から「権利の主体」へという転換)が行われたにもかかわらず、結果として今回のような事件が発生してしまったことについて、日本国政府として真剣に反省すべきだと思うのですが、国レベルでの今回の事件に対する「反省」が無きに等しいことが、実はもう一つの大きな問題です。「仏作って魂入れず」の状態なのですが、それは何故なのか、子どもの権利条例を巡る日本社会の現況を見ることがヒントになります。

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  救いになるのは、子どもの権利を守るための効果的な施策が全国の自治体で展開されているということです。「子どもの権利条例」を制定することで、子どもたちに一番近い市や町、村が頑張っているのです。その先進的な試みをしている川崎市の子どもの権利条例 (2000年12月制定) では、次のような条文が輝いています。例えば、虐待があった場合の対応についての条文です。

(虐待からの救済及びその回復)

第20条 市は,虐待を受けた子どもに対する迅速かつ適切な救済及びその回復に努めるものとする。

2 前項の救済及びその回復に当たっては,二次的被害が生じないようその子どもの心身の状況に特に配慮しなければならない。

3 市は,虐待の早期発見及び虐待を受けた子どもの迅速かつ適切な救済及びその回復のため,関係団体等との連携を図り,その支援に努めるものとする。

 

  しかも、この条文の解説部分には、次のような一節もあるのです。

      緊急時のシェルター的な機能や第1項で述べたような迅速性を確保するためには,児童相談所のような公的機関だけでは物理的・時間的に制約があります。この分野ではとりわけ関係団体等と市との相互の連携が必要となっています。このため第3項では,救済にあたっての市と関係団体等との連携とその支援につき規定しています。

      関係団体等としては,民間のシェルターや弁護士会,医師,駆け込み寺的な個人宅等を想定しています。

     なお,本市では,平成12年6月1日より,家庭や地域における児童虐待に関する相談を夜間や休日にも受けることができるようにし,緊急対応が必要と思われる場合には,児童相談所と連携し,緊急保護等の対応も可能な川崎市児童虐待防止センター事業をスタートさせています。

 

  川崎市のような条例が野田市にも制定されていたら、今回のような事件は起こらなかったであろうと言い切れるほど単純な状況ではありませんが、それでも社会全体としての取り組みが、虐待を受けている子どもの救済に役立つことは勿論、一人一人の父や母にも何らかの影響を与えるであろうことを視野に入れれば、自治体レベルでの取り組みの大切さについて、お分り頂けるのではないかと思います。

  残念なことに、全国で1700以上ある自治体で、子どもの権利条例を制定しているのは50に満たない自治体なのです。仏に魂が入っていないことの証拠です。その理由の一つは、社会全体の無関心という背景がある中で、子どもの権利条例制定に反対する大きな政治的な動きがあることです。これまではそれに対抗することが出来なかった日本社会が未来のために一大決意をして、子どもたちの命を守るために力を結集しなくてはならないのです。

  これは、市長在任中に子どもの権利条例を制定できなかった私自身の大いなる悔恨と反省の気持の表明でもあります。

[2019/6/1 イライザ]

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