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2019年5月18日 (土)

ブラジル平和記念碑と原爆犠牲新聞労働者の碑

被爆樹木シダレヤナギのことを尋ねるため広島市平和推進課(平和公園の国際会議所の建物にある)を訪れた帰り道、広島市文化交流会館の北西部(本川の左岸緑地)に建立された二つの碑をめぐりました。

ここを訪れるきっかけは、先日ある講演会後に開催された懇親会で同席した中国新聞OBの方から「原爆犠牲新聞労働者の碑」の建立経過などを聞いたことでした。

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前にも何回か訪れた記憶がありましたが、久しぶりの訪問でした。その話の中で、私が一番関心をもったことは、なぜあの地が選ばれてかということです。当初は、中国新聞本社の敷地内ということも検討されたようですが、なかなか会社の了解が得られず、他の場所をということで、当時の建設省に相談したところ、現在の場所ならOKだとの返答があったようです。というような経過があって決まった場所ですが、新聞労働者にとってはふさわしい場所だったようです。被爆当時の状況を調べてみると、戦争末期、職場や地域ごとに国民義勇隊が編成されていたのですが、中国新聞社にも「中国新聞社国民義勇隊」が作られていました。この「国民義勇隊」には、広島にあった他の新聞、通信社の人たちも編入されていたそうですが、原爆投下のあの日は、約40人が広島県庁の建物疎開作業に動員され、全員が死亡死しています。当時の広島県庁は、水主町(現在の中区加古町)にあったのですから、まさに広島市文化交流会館付近が、「国民義勇隊」の作業場所だったということになります。ですから、建立地はいろいろ検討されたようですが、結果としては最もふさわしい場所に建立されたということになったようです。実は、私が関心を持ったのは、もちろん当時多くの地域や職場に「国民義勇隊」が編成されていましたが、「まさかマスコミ関係者までも組織されていたとは」ということです。中国新聞労働組合の調査によると「国民義勇隊」を含め、あの日、広島の新聞、通信社で働いていた人で原爆の犠牲になった人は126人だそうです。またこの碑は、被爆40周年の1985年8月6日に建立されていますが、原爆で犠牲となった人たちを追悼するとともに、2度と戦争のためにペンを、カメラを取らない、輪転機を回さないとの「不戦の誓い」を込めた「不戦の碑」としても建立されました。

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ですから、碑は「ピース」「プレス」の頭文字「P」が、抽象化されてデザインされたようです。と知ったように書いていますが、これらの情報はすべて帰宅後、本棚から見つけ出した中国新聞労働組合が1988年に発行した「『消えたペン』新聞労働者の8月6日」を読んで知ったことです。

ところで、ここを訪れてもう一つよかったことがあります。この碑の数メートル横に在ブラジル原爆被爆者協会(現在は、「ブラジル被爆者平和協会」と名称を変更)などブラジル在住の4団体によって1990年3月に建立された「ブラジル平和記念碑」があるからです。

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この碑は、ブラジルの国土を型どった黒御影石で作られ、真ん中に大きく「祈平和BRASIL」の文字が刻み込まれています。この碑の前に立つと、95歳の高齢となってなお反核平和運動に力を尽くしておられるブラジル被爆者協会の森田隆会長の姿が思い起こされます。ところでこの碑のことを調べていて一つ残念なことがありました。広島市が作成している「原爆関係の慰霊碑等の概要」にこの「ブラジル平和祈念碑」が記載されていないことです。広島市には連絡しましたので、一日でも早く掲載されることを期待しています。

この二つの碑は、平和公園から少し離れた場所に建っているため、訪れる人はまばらですが、ぜひ一同は訪ねてほしい場所です。

いのちとうとし

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