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2019年5月19日 (日)

橋の親柱に刻まれた名称表示の不思議

昨日(5月18日)、電電公社、NTTの退職者組織・電友会の高陽支部の総会が開催されました。毎年のことですが、総会では記念講演や手品などの行事が入っています。今年は、「知っているようで知らない広島」と題して地元在住の地域歴史研究家Hさんの講演がありました。届いた総会案内の中にこの講演があることが記されていましたので、ぜひ聞いてみたいとの思いから2年ぶりに参加しました。総会の次第が少し長引いたため、講演の時間はわずかに40分余りと短くなってしまいましたが、古い安佐大橋や矢口渡し(安佐大橋がかかる前)の写真、高陽町南部に点在する中小田などの古墳群、宇品線敷設の経緯と周辺の軍事関連施設などなど、次々と話題が展開しました。その中で私の関心をひいたのが、京橋川にかけられた京橋の親柱の橋名表示のことでした。Hさんいわく「京橋の名前は、京都に向かう最初の橋だからこの名前が付けられています。」、続けて「橋の親柱には、漢字とひらがなで橋の名が書かれています。東側には『京橋』と漢字表示、西側(お城側)は、『きょうはし』とひらがなで書かれています。」

さらにその理由を「京での学問をめざして渡る西側は平仮名、学問を積んで帰った時は読めるようになっているので東側は漢字」との解説。半信半疑ながら、面白い表現だなと感心ひとしきり。

総会も終わり中深川駅からJR芸備線で、広島駅に帰着。先ほどの話を確認しようと思い、まず駅に近い猿猴橋の親柱を確認。

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Dsc_2888

最近架け替えられましたが、確かに東側の向かって右側(上流側)の親柱の名前は、漢字表記の「猿猴橋」です。橋を渡って西側に回ると同じ橋向かって右側(下流側)の親橋の名前は、ひらがなで表記の「えんこうはし」です。なるほどなるほどと納得。次にいよいよ京橋へ移動。着いてみればびっくり。Hさんの説明とは真反対。

Dsc_2889 

Dsc_2890

前に照明灯の柱があって見難いのですが、東側の親柱は、ひらがなで「きょうはし」と書かれているではありませんか。すぐに反対側(お城側)に移動してみると、こちらは漢字で「京橋」と書かれています。???・・・私の聞き間違いなのでしょうか。猿猴橋と京橋では、全く逆になっていました。どちらも西国街道にかかった橋です。誰かこの疑問を解明してくれる人はいませんか。

どうにも納得がいかず、ついでに同じ西国街道にかかる元安橋を見てみることにしました。ところが元安橋は、猿猴橋とも京橋とも違っています。

Dsc_2892

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西側も東側も、向かって左の親柱には、ひらがなで「もとやすはし」、右側の親柱には漢字で「元安橋」と書かれており、左右の親柱とも橋の名前が、しかもそれぞれ漢字とひらがなで書かれています。猿猴橋と京橋は、橋の名前が書かれているのは右側の親柱一本のみ。左側は、橋を架けた年月日が書かれています。この違いにもびっくりです。

Dsc_2895

さらに帰り道、万代橋に立ち寄ってみました。こちらは、橋を架け変えた時、親柱の表示も一新されて、左右とも漢字表記。ただ橋のたもと(東側も西側も)に、古い橋の親柱が記念のモニュメントとして残されています。このモニュメントでは、左が漢字、右がひらがな表記となっています。ちょっと不思議な橋の親柱の名称表示でした。

いのちとうとし

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