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2019年4月13日 (土)

被爆二世集団訴訟の原告となって

2017年2月、被爆二世の集団訴訟が、広島と長崎で始まりました。国が二世への援護措置を怠っていることは、幸福追求権を保障した憲法に反するとして起こした訴訟であり、私も原告団の1人です。

現在、平和公園になっている一帯は、当時、多くの人が住み行き交う広島の繁華街でした。私の祖母の実家は、その南側の中島新町にあり、醤油屋を営んでいました。建物疎開(ということは現在の平和大通あたりだったのでしょう)のため、元柳町の本川橋のたもとに転居し、その数日後に原爆に遭いました。爆心地から400メートルの所でした。曾祖母たちは爆死し、大八車を引いて吉島町を歩いていた曾祖父のみが、刑務所の高い塀に遮られて助かったそうです。

当時、9歳だった父は、向原に縁故疎開をしていましたが、広島に新型爆弾が投下されたことを知った祖父に連れられ、8月12日に曾祖母たちの捜索に入り、入市被爆をしています。

Photo_40

       ↑中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターHP「『ヒロシマの記録』―遺影は語る」で見つけた曾祖母と大叔母の遺影

http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter_d/jp/abomb/00abomb/kiroku/motoyanagi/my1.html

幸いなことに父も私も、現在のところ健康を害さずに過ごしていることもあり、私自身、これまで自分は被爆二世だという自覚がほとんどありませんでした。組合の仲間から被爆二世の集団訴訟の話を聞いたときも、自覚もなく健康な自分が原告に加わって良いのかどうか迷いました。しかし、私個人の問題ではないと思い、原告団に加わることにしました。被爆者が高齢化する中、次の「当事者」としてとりくむ責任が被爆二世にあると感じています。

被爆者に対する援護法も、初めからあったわけではありません。先人たちの粘り強いとりくみにより、被爆から12年経った1957年にようやく「原爆医療法」が施行されました。被爆者健康手帳の交付により健診や医療を受けられる施策は、その後も改正を重ね、対象や内容の拡大が図られ、被爆から50年経った1995年に、現行の「被爆者援護法」施行に至りました。

一方で、国は被爆二世については「放射線の遺伝的影響の科学的知見は得られていない」として援護対象とせず、その人数すら確認していません。

科学的知見が得られていないから何もしないという理屈を通してしまうことは、東電福島第一原発事故による被曝者や二世へも何もしなくてよいという理屈につながります。私たちは、この集団訴訟が、福島や世界の核被害者の問題解決、日本の核政策にも影響を与えるものとしてたたかっていきます。

(頼信直枝)

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コメント

被爆二世集団訴訟の原告になられた勇気に敬意を表します。被爆者援護の歴史を振り返ると、行政の足踏みを裁判による真実によって前進させて来たことがハッキリ分ります。被爆二世訴訟も、核による被害の究明と被害者救済のために、同じような役割を果してくれるのではないかと期待しています。

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