ケネディー大統領と昭和天皇 ――30年前に生前退位を予言――
[皆様への御挨拶] イライザ
昨年8月まで「ヒロシマの心を世界に」というタイトルで、ブログのお世話をしてきましたが、結局かなりの部分を私が書くことになってしまい、当初の目的とは大きくずれた展開になってしまいました。今回は、「新・ヒロシマの心を世界に」とタイトルを改め、「いのちとうとし」さんが編集の責任を負って下さって、新たな方向を目指します。 既にこのブログに登場した記事をお読み頂けると明らかですが、多士済々のライターの皆さんが、多様で素晴らしい内容をアップして下さっています。私も常連の一人として投稿させて頂きますが、毎月、1日、11日、21日の三日間が担当です。 身辺雑記やこちらにはそぐわない内容のエッセイは前のブログ「ヒロシマの心を世界に」の方に、不定期にアップしたいと思っていますので、そちらも宜しくお願いします。 |
《30年前に同僚から問われたのは》
1970年代から80年代にかけて、私はアメリカのボストン郊外にあるタフツ大学という私立大学で教鞭を取っていました。当時の数学科の同僚だったI教授に聞かれたことが切っ掛けになり、昭和天皇崩御について考え、その結果を1989年に三省堂の広報誌『ぶっくれっと』に寄稿しました。後に、三省堂から出版された『夜明けを待つ政治の季節に』の13章として再出版されたのですが、そのタイトルは「「象徴」の意味――ケネディー大統領と昭和天皇――」でした。今回、それを数回に分けてアップしたいのには、いくつかの理由があります。
一つは、1989年、現天皇即位の年に「生前退位」を予言していたことです。即位直後、あからさまにそんなことは言えませんので表現は抑えてありますが、私自身は確信に近い思いで執筆していたことを覚えています。
もう一つは、それが出発点になって、『前広島市長が読む 憲法と天皇』(数学書として憲法を読む)(仮)、という一書を恐らく7月になると思いますが、法政大学出版局から出して頂けることになりました。実は昨年の9月からこれまで、その執筆のための時間として有効に活用させて頂きました。7月上梓予定の新著の中で、上記のエッセイを序章として再掲します。以下、その1です。
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ケネディー大統領と昭和天皇(1)
昭和天皇の亡くなった日、私は、天皇対日本人、ケネディー大統領対アメリカ人という2つの関係を対比しながら、天皇の象徴性、天皇の死の意味を考えている自分を発見した。
《象徴としてのケネディー》
今でも、私と同世代のアメリカ人の多くにとって「あの時どこにいた」という問いはかなり限定された意味を持つ。「あの時」と聞いて、1963年11月22日、ジョン・F・ケネディー大統領が凶弾に倒れた日を頭に浮かべる人が多いからである。
今でも「あの時」が、ケネディー大統領の亡くなった日を意味するのは、この25年間に何度も同じ会話が繰り返されて来たからでもある。60年代の後半から70年代前半にかけてベトナム戦争反対運動が盛んだった頃には、特に頻繁だった。
私たち(とあえて書かせていただきたい。市民権は無いものの、私自身、アメリカの友人たちと共にボストンでベトナム戦争に反対していたのだから)にとって、ケネディー大統領の存在がそれほど大きかったということである。その意味をもう少し詳しく考えてみたい。
そもそも、ベトナム戦争を「始めた」のはケネディー大統領(以下JFKと略す)であり、私たちベトナム戦争に反対し、その中止を願っていた人間が、JFKを反対運動のシンボルとして持ち出すことは、論理的におかしいのである。にもかかわらず私たちは、JFKなら私たちの今の気持を分かってくれるはずだ、ベトナム和平への道を一緒に歩んでくれるはずだ、と信じていた。ベトナム戦争反対運動のリーダーの1人、ロバート・ケネディー上院議員と兄のジョン・ケネディーのイメージがだぶったこともその一因だが、JFKとアメリカ、そして世界、JFKと私たち若者、JFKと未来、といったような組み合わせで、私たち世代の人間はJFKに親近感を持ち、彼との一体感を持っていた。私たち若者はリーダーとしてのJFKに夢を託し、彼は私たちに多くの期待を持っていた。
だからこそ、彼の死が自分の肉親の死の如く、いや、まさに自分の死のように感じられたのである。それは同時に、JFKに託した私たちの夢が残っている限り、私たちが生き続ける限り彼が生きている、と信ずることでもあった。
「あの日君はどこに居たんだ」と問うことで私たちは「今でも」まだ夢を捨てていない自分と話し相手をお互いに確認しあい、「あの日」以後辿った道を振り返る。年を取ったなとも感じ、人の世の移り変わりの激しさにも改めて感慨を催す。この尺度で月日を測れば「ケネディー25年」とか「JFK25年」ということになる。
既にお分かりいただけたはずだが、私にとっては、JFKの方が昭和天皇より、はるかに近い存在であり、誇りを持って私たち世代の象徴だと言い切れる人物なのである。それを基にして考えると、戦争で惨々苦労しながらも年配の日本人が持ち続けている昭和天皇への「敬慕」の念も分るような気がする。私たちがケネディーのベトナム戦争における責任については寛容になるように、天皇の戦争責任については寛容になり、終戦における役割を高く評価する人がいても、その心情は分かるような気がする。ただし、政治的、歴史的、道義的等々の責任は、それとは別である。JFKのベトナム戦争に関しての責任の有無は、彼に対する好悪の感情を抜きにして事実を基に議論されるべきである。天皇の戦争責任についても同じことが言える。(1989年3月記。以下、次回4月21日)
[2019/4/11 イライザ]
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