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2019年4月24日 (水)

第5回住んでいる町再探訪-「灯台下暗し、比治山再発見」その3

そして雲霓橋を渡り南側の地域へ移動。殉職警察職員の碑、殉職消防職員の碑、忠魂墓碑、馬魂碑などの説明を受け、陸軍墓地に到着しました。ここは何度か訪れていますが、入り口の門が整備され、違う場所に来たような感覚にさせられました。

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もちろん、門を入ると今までと同じように、墓がびっしりと並ぶ景色が続いています。ここでも参加者の関心は、「電信隊」の慰霊碑。

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NTTデータビルは、当時の電信隊の跡地。そして陸軍墓地の南端から宇品方面を眺めるとその真下にNTTデータのビルが見えました。ここも、雑木が刈り込まれていましたので、宇品から似島方面への眺望が大きく開かれていました。NTTデータビルの向こう左奥には陸軍被服廠の被爆建物が目に入り、比治山に隣接する電信隊の跡地とともに、この一帯に軍の施設が、集中していたことが覗えます。

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陸軍墓地から宇品方面を眺める

松永さんも「ここから見ることはできませんが、東側の広大病院は、元の兵器廠の跡です」「ちょっと見えにくくなっていますが、宇品線も走っていました」と付け加えてのガイド。次は、カマボコ型の建物・放射線影響研究所(旧ABCC)についてのガイド。最初に「このカマボコ型は、米軍兵舎として作られたもの。戦後不要となったものが、ここに持ってこられて建設されました」と建物の由来を説明、さらに「日赤病院の一室からスタートし、宇品に移設。その後、平坦地では、水害の被害が心配と、この比治山に移された」との経緯の説明。もちろん、このABCCに当時抱いた広島市民の思いについても解説がありました。ここで探訪と案内は終了しました。比治山は、やはり原爆と戦争を考えさせられる場所でした。

ちょっと残念だったのは、時間がなくて富士見展望台によれなかったことです。というのも、ここは59年前小学校の修学旅行で訪れた思い出の場所だったからです。島根県出雲市の田舎から来た小学生にとって、あの場所から見たまっすぐに伸びた平和大通りは、強烈な印象として今でも残っています。帰宅してからやはり気になり、翌日富士見展望台まで行ってみましたが、私の記憶の中の映像とは、一致しません。移動して現代美術館横のムーアの広場からも眺めてみましたが、こことも違うようです。その移動の途中にあった雲霓橋すぐそばの駐車場付近からからかすかに望める平和大通りの景色が、私の印象に最も近かったように思います。

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富士見展望台から平和大通り方面を望む

しかし、段原公民館郷土史クラブが、1986年(昭和60年)に発行した「比治山をめぐる郷土誌」によると「昭和28年から展望台が整備され、富士見展望台には観光バスがあがり、乗客が下車して、内外の客に説明するところ」とあるので、やはらり富士見展望台からの眺めた景色のようです。しかし、59年も前のことですから記憶もあいまいですし、周囲の木々も大きく育ち、平和大通りの両側にも高いビルが林立していますから、当時の様子を見つけ出せないのは、当然のことだと納得しました。

陸軍墓地を最後にガイドのお二人と別れ、後は恒例のビールを飲みながらの昼食会。そしてまたの再開を約束して午後2時半過ぎに解散となりました。

参加者の感想。「昭和47年から比治山データビルに勤務しておりましたが、ガイドの方からお話を聞いたのは初めてでした。」「毎日の出勤であんな近くに、あんないっぱいの知らない場所があるなんて・・・・・。」本当に「灯台下暗し」でした。

いのちとうとし

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