ケネディー大統領と昭和天皇 (3) ――30年前の問題提起――
1989年、現天皇即位の年に『ケネディー大統領と昭和天皇』というエッセイで、天皇と憲法について考え始めました。
その結果としてはずいぶん時間が掛りましたが、『前広島市長が読む 憲法と天皇』(数学書として憲法を読む)(仮)、という一書を恐らく7月になると思いますが、法政大学出版局から出して頂けることになりました。実は昨年の9月からこれまで、その執筆のための時間として有効に活用させて頂きました。7月上梓予定の新著の中で、上記のエッセイを序章として再掲します。以下、それを3回に分けて再録しますが、今回はその3、最後の部分です。「生前退位」の勧めです。
《前回の要約》
昭和天皇崩御に際して、昭和天皇とケネディー大統領とを比較した上で、アメリカの大統領なら当然保障されている国民としての人権を考えることになりました。天皇には人権があるのかという、日米比較の視点からも天皇制を考えてみる必要があるのではないかと考えたからです。
天皇には与えられていない権利が沢山あるのですが、それではどうすれば良いのかを観がなくてはなりません。
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ケネディー大統領と昭和天皇(3)
《親としての天皇》
天皇は、養親になれないどころか、自分の子供がいても、親としての楽しみを奪われている。子供が成長し、自分の能力に合った仕事を見付け、1人の独立した人間として社会に有益な貢献をしている様子を見ることは、親としての喜びの最たるものではないだろうか。しかし、天皇はその喜びを与えられていない。それは、皇太子に職業選択の自由がないからでもあるが、慣行では、天皇が生存中に譲位することはないからだ。
庶民でも、高齢になれば隠居して、仕事は若い人に譲るのが常識である。元気のあるうちは仕事に励んでも、例えば、70歳にでもなったら退位し、余世は自分の好きなこと(生物学の研究でも、社会福祉のためのボランティアでも良い)を自分のペースで楽しんでも良いのではないか。皇室典範でも、譲位を禁止してはいないのだから、ちょっと手直しをすれば天皇が堂々と退位できる制度に作り変えられるような気がする。
天皇の死に際しても、これが退位後の上皇(と仮に呼んでおこう)であれば今回のような混乱はなくて済んだのではあるまいか。それは、たとえ日頃から後継者の育成を心がけている人でも、具体的にバトンタッチをする人や時が決まってからでないと、何を伝えておくべきか身を入れて考えられない例が多くあるからだ。
このことは、より一般的に、だれが死ぬ際にも言えることではないだろうか。あと何ヶ月しか生きられないとしたら、身近の人たちに伝えたいこと、生きている間にしておきたいこと等を整理して、その間に何とか済ませてしまいたいと考える人は多いだろう。昭和天皇も、ガンだと知らされていれば、国民の多くに残しておきたい言葉があったのではないだろうか。
それが「済まなかった」であれば、多くの人々の心の傷が癒えたはずである。他の言葉としても、これからの時代を迎えるに当っての一つの方向が打ち出されたのではあるまいか。
天皇には、そして国民にも、天皇の病がガンであることを知らせるべきだった、と私は考えているのだが、その理由は、誰にもあてはまるものである。死に行く人を囲んで、嘘で塗り固めた「劇」を演じることで、私たちは、人間の一生の内、ことによると一番大切な期間を無駄にしている。自分にとって一番身近な人々が、自分にとって一番大切なことについては何も喋らずに数カ月過ごすーーそれが私たちの描く理想的な人間関係なのだろうか。そうではないはずだ。
それはまた、天皇と多くの国民との間についても言えることである。数カ月の間、嘘を心から信じて「平癒」を祈って来た人々が多くいる。その人たちが真実を知らされていれば、別の祈りがあり、別のコミュニケーションが可能になったのではあるまいか。
だが、私がそれと同じくらい大切な問題だと思うのは、嘘をデッチ上げ、何も知らない庶民に伝え続けてきた人々が、そのことに何の責任も感じていないらしいことである。事実を、真実を伝えるのがマスコミの務めではなかったのだろうか。
ガンの告知はまだ社会的に受け入れられ難い事は認めても良い。しかし、嘘八百の報道をすることとの間には一線が画されて当然だろう。もちろん、一線をどこに引けば良いのか、簡単に決められることではない。昭和天皇亡き今、衆知を集めて議論すべきことなのではあるまいか。
また昨年9月以来、私がここで触れた点も含めて、一体「象徴」とは何を意味するのかについて万人の納得できる解釈が存在しないことも明らかになった。それをよりはっきりさせて行くのは国民である。そのための問題提起をし、論点を整理して、議論を沸き起すのは「知識人」そしてマスコミの役割だろう。
《新天皇への期待》
私だけの思い込みでないことを祈るのだが、仮にマスコミが重い腰を上げなくても、事態が改善されそうな兆候がある(そうした芽が出たときに、それを摘んでしまうことだけは避けてもらいたい)。
2月24日、いくつかの弔辞の中で際立っていたのが、新天皇の言葉だった。竹下首相が「昭和天皇は、世界の平和と国民の幸福を心から願われ」と述べたのに対し、新天皇は「ひたすら国民の幸福と平和を祈念され」と表現した。新聞報道によると、原稿には「国民の幸福と世界の平和」と書かれていたのだが、24日、新天皇は「『世界の』をはぶかれてお読みになった」のだそうである。
これを私は、新天皇の「知的誠実さ」の表現だと考えている。側近の準備した原稿をそのまま読まずに、歴史に忠実に、かつ自分の言葉に直して伝えたいと、新天皇は考えたのではあるまいか。もしそうなら新天皇には、これからも知的に誠実であって欲しい。表現の自由をも含めて、日本国民の持つすべての権利を獲得するように努力を続けて欲しい。
天皇が、権利についても義務についても、日本国民の一人となり、大多数の国民との間に、人間的なつながりができた時、はじめて彼(または彼女)は本当の意味で日本国民の象徴になるのではないだろうか。(1989年3月記)
[2019/5/1 イライザ]
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