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2019年4月14日 (日)

原民喜ゆかりの被爆柳―その2

4月6日のブログ「原民喜ゆかりの被爆柳」を書いて、確認のため原民喜文学研究者の竹原陽子さんに松江澄さんのお父さんの原製作所の肩書(大番頭)の確認をお願いしたところ、次のようなメールを送っていただきました。本人の了解を得ましたので、全文掲載します。

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ご紹介いただきました原民喜文学を研究している竹原陽子と申します。このたび、原水禁大会で大変お世話になることになりました。原民喜が原爆被災時に避難した道を歩きながら、松江澄さんも力を尽くされた原水禁運動に学んでいきたいと思っています。どうぞよろしくお願い致します。

さて、松江澄さんと原民喜についてですが、松江澄著『ヒロシマの原点へ 自分史としての戦後50年』(評論社、1995年)に詳しく書かれていました。

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「明治七年、貧乏ざむらいの子に生れた父は、寡黙で小心であるが律気で一徹な人間であった。私が生れたときには遠縁に当るらしい原民喜の父から長兄がひきついだ陸軍用達の網やテントを扱う店で当主を助けて若い人達の監督のようなことをしていた。私より十三も年上の民喜は夏休みに東京から帰省したとき、遠くを見ているような彼の顔を幻のようにおぼえている。戦後その彼が『夏の花』の第一部「壊滅の序曲」のなかで、私の父を「三津井老人」という名で書いていたのを読んでなつかしく当時を思い出した。彼は父の名である正三を自分の名前にして被爆四十八時間前の自分の家と店のありさまをリアルにえがいているが、私の父についての叙述は息子の私がおどろくほど正確であった。」

「民喜の本のなかで、店の者が入営するときの父のことばが書かれている。「『兵隊になられたら馬鹿になりなさいよ。ものを考えてはいけませんよ』と息子に言いきかすように言いだした。」と。まさに父は入営するときにそう言ったのだ。だがこれはあきらかに”偽装”の姿勢である。そうして私はそれに従った、(後略)」

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京橋川土手の原民喜ゆかりの被爆柳があるところには、原民喜の甥・原時彦さんによると、被爆柳を境として、原民喜の持家が二軒あり、原爆被災時、南側の家に民喜の次兄一家が住み、北側の家には、1945年4月から、原商店の大番頭であった松江澄の父・松江正三の一家が居住しており、原爆被災時は、民喜の次兄が松江正三を助け、ともに縮景園まで逃れたといいます。

松江澄の生まれた場所はわかりませんが、前著を読むと、子どもの頃、二、三度転居しており、京橋川土手の家から程近い幟町界隈に住んでいたことがわかります。

夏の原水禁大会のフィールドワークは、原民喜の作品を朗読しながら辿っていきます。どうぞよろしくお願い致します。

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竹原さん、新しい情報ありがとうございました。松江正三さんが、あの地に住まれたのが、1945年4月からのようですから、軍隊入営中の松江澄さんが、あそこの住んで折れたことは勿論、生まれ育たれた場所でもなかったのですね。

いのちとうとし

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