「広島ブログ」

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2019年4月

2019年4月30日 (火)

4月のブルーベリー農園(東広島市豊栄町)

「四月」という好きな曲から。

「彼方から 季節を超え/ 足音聞こえてきた/ 風の中 ささやかに/ 花が 香ってた/ 待ちわびていたけれど/密かな旅立ちは/ その日まで その日まで/ 光に隠れてる」。作詞は永井理香さん。作曲し歌うのは南こうせつさん。

ブルーベリー農園の4月は地面の野の花がブルーベリーの冬から春まで続く剪定作業を励ましてくれる。

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4月7日(土)

剪定したブルーベリーの枝をうずたかく積み上げた足元に咲くタンポポ。

Photo_84 4月20日。

田んぼからブルーベリーに転作した3枚ある畑の剪定が終わり、もう一か所の20年前に伐採した里山の農園の剪定に移る。そこは小高い所にあるので下にある田んぼが見渡せる。そこに住む雉も見える。ときどき「ケーン!ケーン!」と鳴くのでいることが分かる。

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4月21日(日)。

今年はカラスノエンドウが部分的にはびこっている。ブルーベリー株元を覆うので畑の草を刈る。

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4月27日(土)。

椿の花がたくさん咲いた。花びらもどんどん落ちるし、近くを通る時ポトッと花ごと落ちるのに出くわすこともある。

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4月28日(日)。

自生しているスミレは農園に3種類見ることができる。

里山の東側でひとつ。

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里山の西側でひとつ。

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家の周囲や畑でひとつ。

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4月28日(日)

畑のブルーベリー。草も茂りブルーベリーの花も咲き始める。

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  4月28日(日)。

その地面に咲くキンポウゲ(黄色)とムラサキゴケ。

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4月28日(日)。

里山のブルーベリーの花。北部ハイブッシュ系のジャージー。7月に収穫できる。

安芸の郷の昨年のブルーベリーまつりは7.6豪雨災害で中止になったが今年は7月27日(土)に開催予定だ。順調に育つ農園のブルーベリーは安芸の郷に納品され利用者や多くの地域の皆さんに届けられるはずだ。

2019年4月30日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

 

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2019年4月29日 (月)

被爆の生き証人として

広島市南区にある市内最大級の被爆建物「旧陸軍被服支廠」の保存・活用を巡り、広島県は昨年12月に公表した改修案の実施を先送りすると決めた。1号棟を集中的に補修するほか、敷地内に新たな建物を建てて見学者が被爆証言などを聞く場所とする計画だった方針を転換。所有する1~3号棟について保存や活用の可能性などを固め、改修するかどうかを判断する。2017年に行われた建物安全性等調査結果では、震度6強規模の大地震が発生すると倒壊等の危険性が高いとのこと。

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広島皆実高校から望む「旧陸軍被服支廠」

広島アンデルセン(旧帝国銀行広島支店)は被爆建物であることを考慮し、新店舗に被爆壁の一部を保存し、被爆建物としての登録が継続することとしている。

祖父が勤めていた「旧陸軍被服支廠」。被爆の生き証人としての役割をしっかりと果たすべく、議会はもとより県民・市民も活発な議論をし、早急に方向性を見いださなければならない。

(沖 隆義)

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2019年4月28日 (日)

変な冬でしたね!

今年の冬、季節的には冬といわれる12月~2月までは暖冬で、3月から4月に掛けての時期が、その時期の割には冷えるという状況でしたね。おかげで桜は冷蔵庫に保存しながら、長く楽しめたという感じでした。

 僕が、一番気にしているのは電力使用量のことです。5~6年くらい前までは、年間で一番電気の使用量が多いのは、真夏の時期とされていました。しかし最近は、冬場が大きくなり、一昨年の場合はほんの少しですが、夏より冬場が伸びました。

 理由は、企業も家庭も暖房に電気を使用するのが増えたことが大きいと思います。高齢化の中で安全ということが大きな点でしょうし、賃貸マンションなどでは、灯油は使わせないというところもあるようです。そして、夏場は日照時間が長いので太陽光による発電時間が長く、その分電気の自給自足が増えたことでしょう。

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 中国電力管内で、今年の冬場(18年12月~19年2月)での使用電力がピークになったのは、1月10日(木曜日)の午前の速報値1000万kWという数字でした。確定値では999万kWとされました。この数値は「送電端」でということで、送電所から出る数値です。送電所から会社や家庭に届く間に損失(送電ロス)がありますから、実際に使われた量はこれよりは少し低くなります。

 一方、昨年の冬場(17年12月~18年2月)では、速報値で1000万kWを超えた日数は23日であったとされています。

 確かに、今年の冬は気温が高かったとは思います。平年の気温に比べて2月下旬で、最高で2.4度と高かったと報告されています。もちろん使用電力量は土日はウイークディに比べると、200万kw程度下がります。夏場でもそうです。お盆期間中は休みの企業が多いので、この時期も下がります。家庭での節電は、大きなものではないことです。

 逆に1年間で電気の使用量が最も少ないのは、これまでは1月2日の朝方とされていました。正月休みの二日目は、家でゴロゴロというのがその理由だったようですが、これまた最近は二日目からスーパーなどが開店するので、この傾向が変わりました。

 そのため一番電気の使用量が下がるのは、これから始まる4月の終わりから5月初めにかけての連休期間中です。会社も休み、また寒からず暑からずのこの時期が、一番低くなります。そして、太陽光発電も多く発電してくれます。

ちなみに、この原稿を書いている今日4月26日午前10時30分、中国電力管内での電力使用量は670万kWです。曇り空ですが、太陽光発電からの受電量は約167万kW、使用電力量に対する割合は24%となっています。

 そこで出たのが中国電力の懸念でした。それは太陽光発電が増えてしまうので、太陽光発電の電気を使わない、購入しないということでした。これを専門用語で「出力抑制」といいますが、このことを昨年の秋頃から心配し、太陽光発電事業者に出力抑制のお願いをするとしていました。

 しかし、中国電力はこの連休期間中はやらないですむようです。九州電力は昨年も、今年の1月も出力抑制をしています。再稼働反対の世論を無視して、川内原発も玄海原発も動かして、太陽光発電を抑えるという考え、おかしいと思うのですがね。

 もし今、島根原発2号機が再稼働していたとしたら、中国電力も出力抑制をすることになっていたでしょうね。

木原省治

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2019年4月27日 (土)

4.26チェルノブイリデー座込み

1986年4月26日午前1時23分(現地時間)、ウクライナの北方に位置するチェルノブイリ原発4号炉が大爆発を起こし、破壊されるという大事故が発生しました。当初ソ連政府は、事故を隠そうとしましたが、スウェーデンで高レベルの放射能が検出されたことから、事故は明るみに出されました。放射能を大量の含んだ雲がヨーロッパ各地に流れて行き、各地を高レベル放射能で汚染しました。チェルノブイリ原発事故は、今もなお、ウクライナを中心に深刻な放射能汚染による影響を及ぼしています。

私たち広島県原水禁は、事故があった翌年1987年から毎年、4月26日を「チェルノブイリデー」として、講演会の取り組みや慰霊碑前の座り込みなどを続け、この原発事故を風化させず、原発事故による被害者への支援と連帯の行動を続けてきました。

74年経ってもなお続く核被害を体験した広島には、同じ核被害をこうむったチェルノブイリ被害者に思いをはせる責任があります。そうした思いの中、33周年目となった今年も昨日(4月26日)午後0時15分から30分間慰霊碑前での80名が参加し「4.26チェルノブイリデー座込み」を行いました。

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座込みの最後に、広教祖丸山書記次長から提案されたアピールを全員の拍手で確認し、慰霊碑に向かい黙とうをささげ、この日の行動を終了しました。

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「4・26チェルノブイリデー」アピール(案)

 決して忘れてはいけないチェルノブイリ原発事故から33年が過ぎました。

事故による放射能汚染の被害は、いまも続き人々を苦しめています。

「チェルノブイリのような事故は起きない」と言い続けた日本。

福島第一原発でチェルノブイリと同じレベル7の事故が発生しました。

今も原因は確定していません。

原発事故は、健康被害と不安を引き起こし、住む街を奪いました。 

除染が進んだといっても被災地に帰ることへの不安は、続いています。

原発事故被害者の痛みを私たちは、決して忘れてはなりません。

私たちは、チェルノブイリを、そして福島を忘れてはなりません。

それは、「核と人類は共存できない」ということを改めて教えているからです。

原発事故で起こった事実を忘れた時、再び過ちを繰り返すことになります。

安全神話の行きつく先に原発事故があったことを決して忘れません。

脱原発への道こそ、私たちが歩むべき道です。

安全を強調して原発政策を推進してきたのは、自民党政権です。

安倍政権は、その責任を取ることもなく、国民の過半数超える人々の反対の声を無視し、再び原発政策を推進し、原発の再稼働を強行しています。

私たちは、すべての原発の再稼働・新増設に反対します。

新たなヒバクシャを作らせないためには、「核絶対否定」の道しかありません。

私たちは、人類史上はじめて原子爆弾の惨禍を被ったヒロシマから訴えます。

 ◆チェルノブイリ原発事故を忘れてはなりません!

 ◆福島第一原発のような事故を二度と起こさせてはなりません!

 ◆原発の再稼働・新増設を許してはなりません!

 ◆新たなヒバクシャを生み出してはなりません!

 ◆全ての原発被害者への補償と救済を強く求めます!

 ◆ノーモアヒバクシャ、ノーモアチェルノブイリ、ノーモアフクシマ

                         2019年4月26日

             「4・26チェルノブイリデー」行動参加者一同

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私たちが慰霊碑前で座り込みをして同じ時刻、すぐ横の慰霊碑前では刻茨城県から修学旅行で訪れた中学生たち100人が、折りヅル、献花、メッセージ、コーラスのあと黙祷と続くアピール行動を行っていました。この子どもたちに「チェルノブイリのことを知っていますか」と尋ねたかったのですが、座込み終了時には別の場所に移動し、残念ながらその答えを知ることができませんでした。こうした若い人たちが「チェルノブイリはどれだけ知られているのだろうか」と思わずにはいられなかった今年のチェルノブイリデーでした。

いのちとうとし

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2019年4月26日 (金)

広島平和記念資料館 本館展示リニューアル内覧会に参加して(その2)

内覧会があった日、私は原爆供養塔などを巡ってから資料館に入りました。付近には平和の鐘や被爆した墓石(かつてのこのエリアの地表レベルが分かる)もあって、多くの人が訪れる原爆の子の像の近くながら、比較的人が少なく落ち着ける場所で、私の好きなエリアです。この日も、新緑の中に落ち着いた佇まいを見せていました。このエリアには韓国の原爆犠牲者の慰霊碑もあります。

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(被爆した墓石)

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(韓国人原爆犠牲者慰霊碑)

 リニューアルされた資料館本館の展示では「故郷を離れた地で」とのタイトルで外国人の被爆にも触れて、南方留学生、朝鮮半島出身者などが取り上げられています。

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この部分の展示を見て、原爆があの日広島に居合わせた人たちすべてを傷つけ命を奪い去ったのだと改めて思うと同時に、折角ここ資料館を訪れたからには少し足を伸ばして平和公園を巡り、慰霊碑や遺構を見て欲しいものと思いました。公園内には引き取り手のない遺骨が眠る供養塔があり、外国の人の慰霊碑もあります。また、説明板があってかつてこの地が多くの人々で賑わう街であったことも示しています。

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(本館から原爆死没者慰霊碑、公園を望む)

資料館ではあの日の惨状とそれに続く苦難の日々を凝縮して見ることができます。資料館から出て公園内を歩くと、緑にあふれる公園となっているこの地がかつては繁華な街であったこと、それが一瞬で破壊され、現在は平和を願う象徴的な空間となっていることを実感するでしょう。

現在はインターネットを通じて映像・写真を見、様々なことをリアルタイムで知ることができてとても便利です。このブログをご覧の方もインターネットの環境を利用しているわけですよね。しかしながら他方で、実際のものを見ること、現実の空間に身を置いて自分の意識でその場所の雰囲気を感じ取ることもまた大事なことではないでしょうか。原爆資料館、平和記念公園で、そして広島の街で、自分自身で様々なことを感じ、思いを巡らせて欲しいと思います。

最後に。資料館展示のリニューアルに関しては、新聞やテレビなどで紹介され、また論評もされることでしょう。展示がリニューアルされたとはいえ、これから新たな事実が判明することもあるでしょう。また、展示に関する批判が寄せられることもあるでしょう。資料館にはそれらを真摯に受け止め、状況に応じて展示を変えていくことが求められると思っています。平和記念資料館はそうあるべき、そうあって欲しいと願っています。

リニューアル完成にこぎ着けた関係の方々の努力に敬意を表して筆を擱きます。

 2019年4月24日記 (こういちろう)

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2019年4月25日 (木)

広島平和記念資料館 本館展示リニューアル内覧会に参加して(その1)

広島平和記念資料館(通称:原爆資料館)本館の展示リニューアルに計画の段階で関わった者として、完成内覧会に参加しました。

1556027934375 5月3日からのフラワーフェスティバルの準備が付近で進められる中、原爆資料館本館は耐震工事の仮囲いに囲まれて、遠慮がちに佇んでいるように見えました。

資料館東館の入り口で警備員に案内状を示して、エスカレーターで3階の「導入展示」ゾーンに向かいました。東館は本館に先駆けて2年前にリニューアルオープンしており、今回、本館がリニューアルオープンすることで、原爆資料館の常設展示全体が完全版として完成することになります。導入展示の見せ場は広島の被爆前と被爆直後の様子を示す大型のパノラマ模型。家々が立ち並んだ街が原爆で壊滅した様子が模型の上に繰り返し映し出されますが、ここはリニューアル以降何度か見ているので今日は立ち止まらずに通り抜けて、本館への入り口へ。係の方に再度、案内状を示して本館への渡り廊下に通してもらいました。

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最初に目に入るのは頬に包帯を当てた少女の写真。渡り廊下正面、突き当たり部分で来館者を見つめています。

その写真を通り過ぎたところに直後のキノコ雲や人々の惨状を示す写真があり、さらに進むと、少し広がったところ、以前、被爆後の広島のパノラマ模型があった部分にたどり着きます。ここでは、原爆の途方もない破壊力を示すひび割れた壁や折れ曲がり破断された鉄骨などの大型の被爆資料を背景にして中央部分に大きな展示ケースがしつらえられ、中には被爆した子どもたちが身にまとっていたいくつもの衣類が並べられています。

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さらに進んでいくと、放射線の被害や救護所の惨状、さらには「生きる」と題して体と心に傷を抱えながらも生きていく人々を取り上げたコーナーが続きます。

と記してはきたものの、新しい展示の具体的なこと、印象はきっと新聞やテレビで報道されることでしょう。ですから、ここでは私なりの感想をいくつか記します。

  1. 人を強く意識させる展示になっている。今回の展示のリニューアルでは傷ついた人々、亡くなった人々の遺品がより多く展示され、それにまつわるストーリーも添えられて、原爆による都市の物理的な破壊はもちろんのこと、そこに暮らす人々が被害を受けたということがより強く訴えられているように感じました。
  2. 広島の原爆被害については「ただ一発の原爆により、広島の街は壊滅し、居合わせた人35万人のうち、年末までに約14万人が亡くなった」と説明されます。私は被爆者と交わり、体験記を読む中で、35万人あるいは14万人を数字としてではなく一人一人の存在の積み重ねとしてみるようになっていきました。さらには亡くなった方々それぞれには悲しみに暮れる遺族がいたことにも思いが巡っていきます。以前の資料館の展示でも、学徒の遺品に向き合うと、亡くなった将来ある子の無念や子を失った親の悲嘆に思いが巡り、さらには我が子がこのような目に遭ったらと重ね合わせて考えるといたたまれなくもなったものでした。
  3. 展示資料の入れ替え

資料館には多くの被爆資料があります。かつて展示されていた資料はそれにまつわるストーリーとあわせて写真集などで紹介され、有名になっていました。しかし、特に衣類の場合、展示ケースの中に入れて保護してはいますが、長く展示しているとどうしても劣化してきます。これらの資料を収蔵庫に収めて休ませる必要があると思っていました。今回のリニューアルで3人の中学生の遺品などいくつかを除き、殆どの遺品・被爆資料が入れ替えられていました。資料館の担当者の話では展示資料は時々入れ替えるということなので、被爆資料は時々収蔵庫で休みながら今後とも長く被爆の惨状を伝えてくれることでしょう。少しほっとしています。

ところで、本館への渡り廊下の突き当たりに展示された少女の写真についてですが、何かを訴えかけているようにも見えます。「広島に引き起こされた実際をどうぞご覧ください」とでも言っているのでしょうか。本館の展示を見終わった後、東館の展示に戻る渡り廊下に入る手前に少女のその後についての説明がありました。後障害で亡くなったというのです。その説明を読んで私はもう50年くらい前、当時の資料館の展示の最後の部分で上映されていた映画のワンシーンを思い浮かべました。生き長らえながらも後に原爆の影響で命を落とす姉弟が映し出され、宇野重吉のナレーションが「私たちはもうすぐ死んでいきます」というようにかぶせられていたと記憶します。映画の中の姉弟は自分たちの余命が長くはないことをまだまったく知らないとはいえ表情はどこか虚ろです。今回のリニューアルで使われた少女は痛みをこらえているように、あるいは羞み微笑んでいるようにすら見えますが、同じようにいずれ命を落とすという運命が待ち受けているのです。そのように原爆は人の命をもてあそぶものであることを訴えかけているのかも知れません。

 2019年4月23日記(こういちろう)

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2019年4月24日 (水)

第5回住んでいる町再探訪-「灯台下暗し、比治山再発見」その3

そして雲霓橋を渡り南側の地域へ移動。殉職警察職員の碑、殉職消防職員の碑、忠魂墓碑、馬魂碑などの説明を受け、陸軍墓地に到着しました。ここは何度か訪れていますが、入り口の門が整備され、違う場所に来たような感覚にさせられました。

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もちろん、門を入ると今までと同じように、墓がびっしりと並ぶ景色が続いています。ここでも参加者の関心は、「電信隊」の慰霊碑。

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NTTデータビルは、当時の電信隊の跡地。そして陸軍墓地の南端から宇品方面を眺めるとその真下にNTTデータのビルが見えました。ここも、雑木が刈り込まれていましたので、宇品から似島方面への眺望が大きく開かれていました。NTTデータビルの向こう左奥には陸軍被服廠の被爆建物が目に入り、比治山に隣接する電信隊の跡地とともに、この一帯に軍の施設が、集中していたことが覗えます。

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陸軍墓地から宇品方面を眺める

松永さんも「ここから見ることはできませんが、東側の広大病院は、元の兵器廠の跡です」「ちょっと見えにくくなっていますが、宇品線も走っていました」と付け加えてのガイド。次は、カマボコ型の建物・放射線影響研究所(旧ABCC)についてのガイド。最初に「このカマボコ型は、米軍兵舎として作られたもの。戦後不要となったものが、ここに持ってこられて建設されました」と建物の由来を説明、さらに「日赤病院の一室からスタートし、宇品に移設。その後、平坦地では、水害の被害が心配と、この比治山に移された」との経緯の説明。もちろん、このABCCに当時抱いた広島市民の思いについても解説がありました。ここで探訪と案内は終了しました。比治山は、やはり原爆と戦争を考えさせられる場所でした。

ちょっと残念だったのは、時間がなくて富士見展望台によれなかったことです。というのも、ここは59年前小学校の修学旅行で訪れた思い出の場所だったからです。島根県出雲市の田舎から来た小学生にとって、あの場所から見たまっすぐに伸びた平和大通りは、強烈な印象として今でも残っています。帰宅してからやはり気になり、翌日富士見展望台まで行ってみましたが、私の記憶の中の映像とは、一致しません。移動して現代美術館横のムーアの広場からも眺めてみましたが、こことも違うようです。その移動の途中にあった雲霓橋すぐそばの駐車場付近からからかすかに望める平和大通りの景色が、私の印象に最も近かったように思います。

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富士見展望台から平和大通り方面を望む

しかし、段原公民館郷土史クラブが、1986年(昭和60年)に発行した「比治山をめぐる郷土誌」によると「昭和28年から展望台が整備され、富士見展望台には観光バスがあがり、乗客が下車して、内外の客に説明するところ」とあるので、やはらり富士見展望台からの眺めた景色のようです。しかし、59年も前のことですから記憶もあいまいですし、周囲の木々も大きく育ち、平和大通りの両側にも高いビルが林立していますから、当時の様子を見つけ出せないのは、当然のことだと納得しました。

陸軍墓地を最後にガイドのお二人と別れ、後は恒例のビールを飲みながらの昼食会。そしてまたの再開を約束して午後2時半過ぎに解散となりました。

参加者の感想。「昭和47年から比治山データビルに勤務しておりましたが、ガイドの方からお話を聞いたのは初めてでした。」「毎日の出勤であんな近くに、あんないっぱいの知らない場所があるなんて・・・・・。」本当に「灯台下暗し」でした。

いのちとうとし

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2019年4月23日 (火)

第5回住んでいる町再探訪-「灯台下暗し、比治山再発見」その2

スカイウォークの終点を過ぎれば、後は歩きの山下り。集合場所に着いた時には、すでに20人近くが集合。10時には22人の参加者が、ガイドをしていただく観光アシスタントひろしまの中澤修さんと松永真千子さんの二組に分かれてスタート。私たちのグループのガイドは、松永真千子さん。道中沢山の説明を受けましたが、ここでは私が関心を持ったことを短く要約します。

多門院からスタート。原爆で天井が破損したままの鐘楼、少し上部にねじれがある被爆十三塔、広島郵便局原爆殉職の碑、戦前は逓信省管轄で同じ職場の仲間ともいえる郵便局だけに参加者の思いもちょっと複雑、ここでは初めての場所を見学。境内奥の墓地にある頼家の墓。頼山陽の両親の墓はここにあるが、頼山陽の墓は、京都にあるとの説明。

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頼家の墓

続いて、頼山陽文徳殿へ。被爆前、広島市の戸籍選挙課の分室となり、一部の戸籍が奇跡的に残った。変形した九輪、前庭の被爆桜。きちんとした管理と手入れで若い枝が育ち、すでに花は終わっていましたが、きれいな若葉をしっかりと芽を吹いていました。まだ花の茎は残っており、今年も満開の花をつけた様子がわかります。山陽文徳殿の石段を下り、坂道を150mほど現代美術館方面へ上ると左側に急な石段入り口が見えますが、道の反対側に大きく茂った被爆クスノキがあります。爆心地からの距離は1,950m。何度かこの坂道を通ったことがありますが、初めて知りました。

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被爆クスノキ

後日談です。当日の松永さんのガイドでは、「最も新しく被爆樹木として認定された」とのことでしたが、翌日「いつ頃認定されただろうか」と広島市の担当課に問い合わせたところ、「最も新しい認定は、東区牛田本町一丁目10(二又橋西詰)のシダレヤナギ」と教えていただきました。もちろんすぐに松永さんに連絡しました。その後、松永さんから「シダレヤナギの認定は、2017年8月4日で、被爆樹木は161本」とのメールをいただきました。

そのまま坂道を登りながら、加藤友三郎銅像跡、速水整爾銅像跡の説明。いずれも銅像は戦時中の金属供出で台座だけが残っています。加藤友三郎銅像後の横に設置された「銅像建設由来碑」の大きな空洞にはちょっとびっくり。

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三鈷の松とその松葉

ここで突然松永さんが、松葉を手に「三鈷の松」の説明。弘法大師空海ゆかりの仏具の三鈷杵(さんこしょう)と同じ三つ葉の松(普通は、二本)から「三鈷の松」と呼ばれるようになった由来を知りました。縁起物ということで私も落ち葉を拾ってカバンの中に入れました。そして広島マンガ図書館前の広場に到着。ちょうど、花見用のぼんぼりの撤去作業が進んでいました。比治山は、昔から広島の花見の名所だったようです。ここでは、かつては、広島市民が憩いの場となっていた御便殿広場についての説明を受ける。ここでも新しい発見がありました。

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この広場に設置されたマンホールトイレ(災害用仮設トイレ受口)です。比治山は、大規模な自然災害発生時の避難場所に指定されており、そのための施設として設置されたものです。この場所には、20基が設置されていますが、広島市内全体では、中央公園やマツダスタジアムなど9か所に172基が設置されているようです。次は、ヒロシマ現代美術館。ムーア作の野外彫刻が置かれた広場の西側は、木々が刈り込まれから市内が見渡せるようになっていました。これも最近のことのようです。(明日につづく)

いのちとうとし

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2019年4月22日 (月)

第5回住んでいる町再探訪-「灯台下暗し、比治山再発見」その1

データ同友会中国支部主催の第5回住んでいる街再探訪に参加しました。デー同友会は、私がかつて働いていた当時の電電公社中国データ部(現NTTデータ中国支社)の退職者の会です。私は、早期も早期32歳での退職者ですが、古い友人たちの配慮でデータ同友会への入会が認められ、様々な活動に参加し、旧交を温めています。

5年程前から、自分たちの住む街をもう一度見直そうということで、「住んでいる街再探訪」が始まり、これまでに平和公園、宮島、二葉の里歴史散歩道、三滝地区などを探訪しました。私が参加したのは、平和公園と三滝地区です。いずれもピースボランティアや街ガイドで活躍されている人たちに案内していただきますので、いつも新しい発見があり、楽しみの行事になっています。今回は比治山を散策することになりました。どんな発見がるか今回も楽しみです。

ところで最初に、今回の街再探訪が「なぜ灯台下暗しなのか」について、ちょっと解説が必要です。案内文にはこうありました。「毎日仕事の合間に見上げた比治山、花見で騒いだ比治山、昼休みにジョギングした比治山、通わなくなったどのくらいになるだろうか…?」と。

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陸軍墓地から中国データビルを望む

実は、データ同友会の会員の職場だったNTTデータ中国支社は、比治山の南端の「陸軍墓地」の真下にあるビルです。私が働いていた当時(1974年ころから1981年まで)は、比治山電電ビルの名称で呼ばれていました。当時プログラマーとして私が働いていた6階(だったと思うのですが)のフロアの北側の窓からは、いつも比治山に翻る「日の丸」を見えていましたが、私自身も、そこに何があるか、そしてどんな歴史を持っているかなどについて考えたり見たりしたことは、殆どありませんでした。今回参加された皆さんもそうだったと思います。比治山のふもとにいながら、比治山のことについては何も知らないですから、まさに「灯台下暗し、比治山再発見」なのです。

自宅を自転車で出発し、段原のイオン横の駐輪場に自転車を置き、スカイウォークを使って集合場所の比治山下の交番前へ向かいました。何年振りかのスカイウォークでしたが、利用しているのは私一人。

 

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山頂側の入り口

ちょうど下りのエスカレーターは二人がかりで故障修理中。出口付近では落ち葉の清掃作業。多くの人たちが、維持に努力されています。歩く歩道とエスカレーター、登りの道、確かに楽な思いをしましたが、改めて、当時高価な建設費に「反対の声」も多かったことを思い出し、いったい今は何人ぐらいが利用しているのだろうと考えながらの数分間でした。帰宅して広島市に問い合わせたところ、平成30年度実績で「年間のエレベーター起動回数は、199,702回」「年間維持費は、約2,235万円」ということです。1日の平均利用者数は、単純計算では、約547人ということになります。一時期廃止論議もあったようですが。

前振りが長くなりました。これからが本題です。(明日につづく)

いのちとうとし

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2019年4月21日 (日)

ケネディー大統領と昭和天皇 (2) ――30年前の問題提起――

1989年、現天皇即位の年に『ケネディー大統領と昭和天皇』というエッセイで、天皇と憲法について考え始めました。

その結果としてはずいぶん時間が掛りましたが、『前広島市長が読む 憲法と天皇』(数学書として憲法を読む)(仮)、という一書を恐らく7月になると思いますが、法政大学出版局から出して頂けることになりました。実は昨年の9月からこれまで、その執筆のための時間として有効に活用させて頂きました。7月上梓予定の新著の中で、上記のエッセイを序章として再掲します。以下、それを3回に分けて再録しますが、今回はその2です。

《前回の要約》

昭和天皇崩御に際して、昭和天皇とケネディー大統領とを比較して、私たちの世代そして昭和天皇に近い世代が、それぞれどのような感覚で二人を捉えているのかを考えました。歴史的な評価とは別に、そして矛盾する思いになっても、それぞれ肯定的な面で両者を受け止めている傾向があること、しかし、戦争についての責任は客観的に行われる必要のあることまで、述べています。

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ケネディー大統領と昭和天皇(2)

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《人間の絆》

だが、JFKの死と、天皇の死には大きな違いがあったような気がする。いや、死そのものというより、各々の場合に死を私たちがどう受け止めたのか、その姿勢の違いである。JFKと天皇の死亡時の年齢の違いや、死因ももちろん関係してくるのだが、死を契機として露わになった、死者と生存者との関係、それらがたくさん集まることで出来上がっている社会のあり方の違いである。

JFKの死後 (そして5年後にロバート・ケネディーとマーティン・ルーサー・キングが殺された後はなお深く)、アメリカの若い世代は、Soul Searching を行った。つまり、字義通り、自分の魂がどこにあるのか、自分の存在の本質は何なのか、自分が一番大切だと思っていることはどんなことなのか、真摯に内省したのである。この場合の「自分」は、文字通り個人としての自分でもあり、自分を含むアメリカ社会、あるいは、より広い世界である。

それは、JFKとアメリカの若者たちの間には、本質的なつながりがあったからだ。自分の周りの世界で、また自分の持つ世界観の中の、一番大切な部分を、自分の外の人間として具現化していたのがJFKだったからである(そしてRFK、キング師だった)。

対して、昭和天皇と日本の若者の間にはそのような人間的絆がなかったのではあるまいか。若者だけでなく、年配の人との間の結びつきの本質的な部分にも、人間同士の深い共感はなかったように、私には見える。

だがそれは当然である。いくら人間宣言をしたとは言え、昭和天皇が庶民の言葉で自分の心情を吐露したことなどなかったのではないか。差別されている人間の側に立ち、"We shall overcome "と叫び行動したこともなかったのではないか。青年は未来に希望を持つべきだし、そのために努力するべきだと訴えたこともない。すなわち、自分の言葉で、一体自分がどんな人間であるのかを表現したことがなかったと言えるのではあるまいか。

 

《天皇の人権》

これは、ことによると、天皇個人の人柄や責任に帰されるべきことなのかもしれないが、より大きな原因は、制度・慣行にあると考えた方がよさそうだ。その中で最も重要なのは憲法である。私が言いたいのは、憲法が、天皇を人格のある人間、そして日本国民だとは明記していない点である。人間でなければ人間の言葉で他の人間と語り合うこともないだろう。その上、天皇個人の基本的人権が侵されても救済手段がないことになる。

天皇の人権についての疑問は、私が15年在職したタフツ大学の同僚I氏がかつて投げかけたものである。彼の疑問に答えるために、六法全書を繙いてみたのだが、憲法、皇室典範、国籍法のどこにも、天皇が日本国民なのかどうかは明記されていなかった(いやそれどころではない。昭和22年5月3日に施行された憲法にも皇室典範にも天皇の定義がない。という事は……と論を展開する必要もあるのだが、そのためには本項で提起したい問題とはかけ離れた議論をしなくてはならない。混乱を避けるため、「日本国民としての天皇」のレベルで話を続けたい)。

I氏は、人間としての権利を保障されていない人に、責任(彼は戦争責任を考えていた)だけを問うのはフェアでない点を指摘したのだが、広島修道大学の学生達の意見の中には、責任を取れるかどうかの能力を問題にしたものがあった。仮にアンフェアであっても、天皇は責任を取りたかったのかもしれない。そうだとしても、天皇の権限や権利があまりにも厳しく制限されていて、自主的に責任を取ることなど不可能だったのではないか、今でも不可能なのではないか、というものである。

実際、憲法や皇室典範の規定によると、天皇および皇族の権利は著しく制限されている。人間として当然享受すべき権利という観点からだけでなく、国民の統合の象徴として国民との間の人間的絆、信頼関係を作り出すことが可能かどうか、という視点からも、いくつかの例を見てみよう。

まず、天皇は男でなくてはならない(皇室典範第1条)。皇族として生まれた女性にとっては明らかな差別である。また国民統合の象徴が女性であってはいけないとは、日本の全女性にとって大いなる侮辱ではないだろうか。神功皇后や持統天皇を持ち出すまでもないが、天皇には男性しかなれない法律は、性別にかかわらず法の下では平等であると明記した憲法14条違反ではないだろうか。

次に、天皇及び皇族は、「養子をする」ことができない(皇室典範第9条)。血のつながりのない子供を自分の子供とし(生命を賭けて)育てられる人を、私は尊敬する。しかし、仮に天皇がそのような気持を持ったとしても、「養子をする」ことができないのである。皇族は、絶対にそんな気持は抱かない人々なのだろうか。幸いにも、この点についての救済策はある。皇籍を離脱すれば可能なのである。しかし、それも、自分の意思だけでは駄目なのだ。「皇室会議の議」が必要なのである(皇室典範11条)。天皇を一種の職業と考えれば、辞職することさえ自分で決められないのである。皇長子の場合、生まれた時から(15歳になって皇籍を離脱しない限り)職業が決まっていることにもなる。これは、憲法22条に反しているのではあるまいか。 (1989年3月記。以下、次回5月1日)

 

[2019/4/21 イライザ]

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2019年4月20日 (土)

被爆遺構は誰のもの?Part4-広島平和記念公園被爆遺構の保存を促進する会記念集会

広島平和記念公園被爆遺構の保存を促進する会(以下「促進する会」という)の発足2周年を記念する集会「被爆遺構は誰のもの?Part4-被爆遺構展示整備候補地の原爆で失われた人と暮らしを伝える・旧天神町筋を中心に-」が、4月13日午後広島原爆資料館地下第1会議室で開催されました。

この「促進する会」は、広島市が進める平和公園の地下遺構公開に向けて、「広島平和記念公園の地下に埋もれている被爆遺構が重要であることを広く啓発し、その発掘と保存、ならびに一般公開を促進すること」ことを目的として、市民有志によって2017年4月2日に発足しました。私も、「促進する会」の世話人の一人としてこの活動に参加しています。

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集会の第一部では、広島市が昨年7月に発足させた「平和記念公園における旧中島地区被爆遺構の展示整備に関する懇談会」による試掘調査が昨年12月に終わり、いよいよ本年度実施される「確認調査」へと進むことが報告され、これからの作業により関心を深め、「住民の生活の営みが実感できる」被爆遺構となるように市民の声を届けること、とりわけ旧中島地区住民やそのゆかりの人たちの声がもっと大切にされるよう活動を強めることが確認されました。

第二部では、最初に、旧中島地区の様子を演劇で伝えようとしている若い演劇集団「五色劇場」の山田めいさんが、演劇で使う旧中島地区の模型展示の一部を持参して「なぜ旧中島地区なのか」と自分たちの思いを報告。

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続いてお母さんが旧天神町で生活をされ、今被爆体験継承者として活動を続けられている清野久美子さんから、お母さんから聞いている「旧天神町を中心とする旧中島地区」の被爆前の町の様子や子どもたちの日常風景などが、詳しく紹介されました。

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その後二人の対談。会場からも旧中島地区ゆかりの人たちが発言。中島本通りに面した廿日市屋(かもじの店)で生まれた高松さんは「桜湯につかった後、ミカン水を飲むのが楽しみだった。神戸やパンの前を通るとすごく良いにおいがした」ことなどに触れながら、「生活の跡が出てこなければ、平和公園の遺構としての意味はない」と「どんな遺構を保存すべきか」を強調されました。「材木町96番地、ちょうど資料館本館の階段付近に小学校3年までいました。」という今中さん。資料館本館地下の発掘調査で自分の硯が発見されたことに触れながら「これまで平和公園に来るのが嫌だった。あの発掘を機に証言も始めるようになった。4500人もの住民が犠牲になった場所。地下全体に町があったはずなので、これで終わりでは困る。もっといろいろなところを発掘してここに生活があったことを示したい。」と発言。その背景には、修学旅行で訪れた子どもたちの原爆ドームから平和公園へと移動しながら証言や説明をしていた時、子どもたちの中で「公園だったから犠牲者が少なくてよかったね」と話す言葉を聞いたことが、ショックだったという体験があったからです。

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当然のことですが、原爆で消された街・旧中島地区にも当たり前の日常生活を営む市民がいたということを忘れてはならないということを改めて痛感しました。広島市は、もっともっとこうした旧住民の皆さんや市民の声に向き合って被爆遺構保存の作業を進めるべきです。

「被爆遺構は誰のもの?」ということを重く考えさせられた今回の記念集会でした。

広島県原水禁は、2016年4月、資料館地下の発掘調査でかつての街の様子が見つかったとのマスコミ報道があった直後の5月、広島市に「永久保存と展示」を求める要望書を提出していますが、今後も関心をもって見守りたいと思います。

いのちとうと

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2019年4月19日 (金)

原民喜ゆかりの被爆柳-その3 原民喜旧詩碑-碑銘陶板

今月の6日、14日に掲載した「原民喜ゆかりの被爆柳」でいろいろとお世話になった竹原陽子さんから、今度は「原民喜旧詩碑」についての貴重な原稿を寄せていただきました。全文を掲載します。

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広島県立図書館の「原民喜旧詩碑―碑銘陶板―」について

「広島県立図書館に、原民喜詩碑の陶板が展示されていましたよ」そう金子哲夫さんから教えていただいたのは、2019年1月27日ネバダデーの座り込みのときでした。

現在、平和公園の原爆ドーム東側に建つ原民喜詩碑は、もともとは広島城址にありました。

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1951年3月に原民喜が鉄道自死し、民喜と親交の深かった作家丸岡明や碑の設計に当った建築家の谷口吉郎らが広島を訪れて詩碑建立の用地を探し歩き、広島城で、城壁が原爆に焼かれ変色し触るとぽろぽろと崩れるのをみて、「石が泣いている」といい、その地に決定したそうです。同年11月15日、民喜の生誕日に詩碑は建立、除幕されました。

詩碑の表面には、陶工加藤唐九郎の作、民喜の辞世の詩ともいえる「碑銘」を掘り込んだ陶板が嵌め込まれ、裏面は詩人佐藤春夫の署名入りの「詩碑の記」を刻んだ銅板が嵌め込まれていました。しかし、当時の朝鮮戦争による金属不足から裏面の銅板が盗まれ、表面の陶板も子どもたちの石投げの標的とされ、破損が激しくなり、1967年に現地に移設再建されました。

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県立図書館へ行くと、詩碑の陶板は、レファレンスなどを受け付けるカウンターの一角に展示されていました。重厚感のあるごつごつした赤茶色の陶板に無数の傷痕があり、中央に深い割れ目がみられます。

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この傷ついた詩碑に、作家たちは民喜の人生を重ねて見ていました。戦後の青春期に民喜と出会い、人生と文学に大きな影響を受けたという遠藤周作は「(原さんの人生らしい)とむしろ、これでいいのだ、と感じた」といい、中学時代からの親友であった長光太は、詩碑移設の話を聞いて、「原民喜の碑銘なら、その生身のように石うたれて、ぼろぼろになり何がなんだかわからなくなって、失せて行くほうがふさわしいのにな」というと詩人の草野心平も同意してくれた、と書いています。

 広島県立図書館へ行かれた際は、ぜひ原民喜の旧詩碑に会いにいってみてください。

 竹原陽子

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竹原さん、貴重の情報ありがとうございました。原民喜のことが、また身近になったような気がします。ぜひ多くの人が、県立図書館に行って、旧詩碑も見ていただきたいですね。もちろん、原爆ドーム東側に建つ詩碑も一度じっくり見てほしいと思います。

いのちとうとし

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2019年4月18日 (木)

裁判官を忌避します―安保法制違憲訴訟

昨日(4月17日)、安保法制の違憲判決を求める「安保法制違憲訴訟」の第9回口頭弁論が、広島地裁304号法廷で行われました。

今回、裁判官の一人が交代するということで、裁判の更新手続きが行われ、原告弁護団は、これまでの準備書面による主張を要約し、意見陳述を展開しました。最初に和田森弁護士からは「なぜ提訴したのか」という基本的な主張を、続いて石口弁護士は、憲法の前文なども引用しての「平和的生存権」の侵害について主張、さらに山田弁護団長は、「三権分立による裁判所としての違憲立法審査権の行使」の重要性を主張するとともに、「訴えの利益論や原告適格のみで裁判を進行させるべきでない」ことを強調するなどそれぞれの立場から意見陳述が行われました。さらに前回の公判以降提出した「憲法改正決定憲論」など三つの準備書面についての意見陳述。特に、和田森弁護士は、被告(国)が、本件訴訟の最大の争点である「安安保法制の集団的自衛権と同行使、および関連する箇所について、認否を回避している」ことについて、「通常の訴訟追行の態度としてはあり得ない」ことを主張し、認否を明らかにすることを求めるとともに、裁判所に対しても「請求原因事実に関わる争点に関わる認否をさせないまま判決を下すことは通常考えられない」とし、「被告に認否を明らかにするよう釈明権を行使すべきだ」と求めるとともに「その結果に基づいて争点整理を進めるべきだ」と主張しました。

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しかし、小西裁判長は、これらの原告主張を無視して「権利侵害の立証をすべきだ」「とにかく次回までに立証すべきだ」と繰り返すのみです。しかし、群馬地裁では、原告団の同様の主張が認められ、「被告に認否を明らかにする」ことを求め、「その結果で、争点整理を行う」ことが認められています。

原告の主張を全く無視する小西裁判長の訴訟指揮に対し、山田弁護団長は「そもそも違憲判断を前提としなければならない裁判のはず。このままの裁判官体制では、公正な審理を続けることはできない」と「裁判官忌避」を言い渡し、昨日の公判は終了しました。

今後は、原告弁護団が、忌避の理由を提出し、それに基づいて裁判所が別の裁判官によって妥当かどうかを判断することになります。全国の安保法制違憲訴訟では、広島以外にも東京地裁など二か所で「裁判官忌避」が行われていますが、残念ながらいずれも却下されています。

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「裁判官忌避」の結論がどのようになるかわかりませんが、この裁判で起きている問題は、日本の裁判制度の深刻な状況を提起しているように思います。原告が強く主張しているように、日本国憲法は、三権分立の制度の下、第八一条で「違憲立法審査権」を与え「憲法の番人」としての役割を求めるだけでなく、第七六条で裁判官は、「憲法及び法律にのみ拘束される」とし「裁判官の独立」を認め、第七八条では「裁判官の身分の保証」を明記し、その実行を求めています。しかし、現実の行政裁判では、「訴える資格(具体的な不利益を被っている)があるのか」という「原告適格」がまず問われ、ほとんどの裁判が、結果として具体的な違法性の判断を回避し、国会の立法行為が追認しています。事実上憲法が要請している「違憲立法審査権」という重要な役割を放棄しているのが現実です。安保法制の場合、もし具体的不利益が発生した時ではもう遅いということです。

私もかき船裁判の経験から、いかに行政訴訟のハードルが高いかを実感しています。これでは、主権者である国民のための、国民が求めている裁判制度とはとても言えません。

いのちとうとし

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2019年4月17日 (水)

-許すな!安倍改憲発議―  平和といのちと人権を!5・3ヒロシマ憲法集会のご案内

一昨年の5月3日の憲法記念日、ついに安倍総理が憲法9条の改憲を打ちだしました。このことに対して、東京では毎月19日に国会を取り囲んで戦争法や共謀罪法の反対運動を進めた人たちが国会周辺で改憲反対訴える行動として発展させ、全国へも運動が広がってきました。被爆地ヒロシマの平和運動団体として、広島県原水禁と平和運動センターは、この安倍9条改憲を許してはならないとの強い思いで、県内の平和運動とりわけ9条を守り、人権尊重し平和憲法を活かした政治を求める団体とともに「戦争法」「共謀罪法」廃案の運動に加えて、「安倍9条改憲NO!」の3000万人署名、講演会や学習会、街頭行動を行ってきました。

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第2次安倍政権発足以降、国民の知る権利と表現の自由を奪う法律がつくられてきました。とりわけ、特定機密法、共謀罪法の成立はあたかも国民の安心を確立させるがごとく政権の宣伝に振り回され、テレビも新聞もその危険性を問うことは弱かったと感じます。

東日本の震災と原発事故による被害も時がたてばほとんど実態が報じられません。あたかも原発事故処理や震災による復興が着実に進んでいると思わされているのも事実です。それはマスコミへの権力の介入・支配が強まっているからであろうことは薄々感じてはいました。なかなか真実が報じられない、だから本当のことがわからない、問題と感じ合うことができない社会が進んでいくのは怖いことです。これは民主主意義の危機です。

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5月3日の憲法施行日と11月3日の憲法公布日、別々に行っていた集会は統一して行うようになって4年目を迎えます。昨年までこの憲法集会は屋外で行っていましたが、今年は重要な年ということで屋内で行うこととしました。民主主義の危機をとらえることからの問題意識を深め合おうという企画です。ブログを見てくださった皆さんの集会へのご参加をお待ちしています。

 

〇集会開催日:5月3日(祝)  10:00開場 10:30~12:30

〇会   場:アステールプラザ・大ホール(広島市中区加古町4-17)

〇参 加 費:500円(学生・障がい者の方は無料)(手話通訳あり)

                      広島県平和運動センター・渡辺

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2019年4月16日 (火)

原爆ドームの絵を描き続けてきた原弘司さんを偲んで

原爆ドームの横の元安川の水で溶かした絵具で原爆ドームを水彩画で描き続けてこられた被爆者の原弘司さん(87歳)が、悪性中皮腫で14日永眠されました。心からご冥福をお祈りします。

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原さんが、原爆ドームを描き続けてこられたことは、様々なマスコミが取り上げるでしょうから、ここでは原さんと私のかかわりを振り返ってみたいと思います。

原弘司さんとの最初の出会いの頃は、旧国鉄の広島工場の労働組合の活動家として活躍されている時代でした。そのことが縁となり、1984年、修学旅行生たちに被爆体験を伝えてきたボランティア組織として立ち上げられた「ヒロシマを語る会」のメンバーの一人として証言活動を続けておられた原さんに、毎年夏に開催される青年女性平和友好祭で、被爆証言活動を何度も依頼し、自宅から会場まで送り迎えすることを条件に快諾していただいたことを今でも思い出されます。

「ヒロシマを語る会」の事務局は、広島県被団協の平和会館にありましたので、そこでお会いすることもたびたびでした。ですから原水禁運動を通じての思い出もたくさんありますが、そんな中でも特に忘れることができないことがあります。2010年被爆60周年を記念してドイツ・ポツダムのヒロシマ広場(現在は、「ヒロシマ・ナガサキ広場」と改称)に記念碑設置され、7月25日に開催された完成式の行事に参加した時のことです。現地から「夕方近くの湖だ『灯篭流しをしたい』」と連絡が入り、広島からも持参しようと準備を始めました。どんな絵柄のものを用意しようかと考え、思いついたのが、原さんの原爆ドームの絵を使うことでした。原さんにお願いし許しを得、原さんの「原爆ドーム」の絵と森滝市郎先生が色紙に揮毫された「人類は生きねばならぬ」や「核絶対否定」の文字とを組み合わせた灯篭を20組作成し、持参しました。完成式の夜の灯篭流しに集まった人たちが、喜びながら湖に浮かべたことを思い出します。

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その時には、さらに原さんには無理なお願いし、原爆ドームが描かれた大切な色紙2枚を譲っていただき、ポツダム市長や当時の碑建立委員会の皆さんに贈呈しました。今もどこかに飾られていると思います。

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原弘司さんのお通夜、葬儀は家族葬で行われるということを聞きましたので、長男の広信さんのお許しをいただき、通夜前の葬儀場の親族控えの間に安置された原さんに最後のお別れをすることができました。トレードマークのベレー帽をかぶり、いつものように「よく来たな」と声をかけていただけそうな原さんでした。

原さんの願いであった「核のない平和な世界」を実現させるために、好きだったことば「継続は力なり」を忘れず頑張ることを改めて霊前に誓いました。

いのちとうとし

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2019年4月15日 (月)

おりづる解体作業とリサイクル

平和公園に多く訪れる修学旅行生から公園内にある多くの碑に千羽鶴が捧げられ続けている。

幾月かを経て大切に別の場所に移された千羽鶴は担当する広島市平和推進課のホームページによれば「託された思いを昇華させるための取組を主体的に実施する市民等に折り鶴を配布する」こととされている。

この取り組みに安芸の郷も手をあげ、事業所の一つ森の工房あやめに毎年定期的に運輸業者から千羽鶴が配送されている。

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毎日の作業の合間をぬって、届いた折り鶴は再生利用することを目的として解体選別される。

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利用者の皆さんが一緒になってマニュアル通りに解体選別していく。

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折り鶴の仕訳のために籠を机の上に置いて選別していく。

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銀や金の紙も、黒や濃紺などの色の紙も仕訳られ、

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折り鶴に名前やメッセージなどが書かれているものも仕分けられる。

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この取り組みは    NPO千羽鶴未来プロジェクトと広島就労支援センター(障害者の就労や、仕事のあっせん、紹介、連絡調整などを行っている)が共同して進めている。これに賛同する約30の障害者の事業所が解体作業を経てオリジナルな千羽鶴の再生グッズを製品化して販売するイステムを構築している。

再生されたノートの風合い。

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製品などの紹介は次回に。

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安芸の郷の建物、森の工房AMAの庭のヤマザクラはもう葉桜。(4月10日の昼休み)

2019年4月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2019年4月14日 (日)

原民喜ゆかりの被爆柳―その2

4月6日のブログ「原民喜ゆかりの被爆柳」を書いて、確認のため原民喜文学研究者の竹原陽子さんに松江澄さんのお父さんの原製作所の肩書(大番頭)の確認をお願いしたところ、次のようなメールを送っていただきました。本人の了解を得ましたので、全文掲載します。

―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――

ご紹介いただきました原民喜文学を研究している竹原陽子と申します。このたび、原水禁大会で大変お世話になることになりました。原民喜が原爆被災時に避難した道を歩きながら、松江澄さんも力を尽くされた原水禁運動に学んでいきたいと思っています。どうぞよろしくお願い致します。

さて、松江澄さんと原民喜についてですが、松江澄著『ヒロシマの原点へ 自分史としての戦後50年』(評論社、1995年)に詳しく書かれていました。

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「明治七年、貧乏ざむらいの子に生れた父は、寡黙で小心であるが律気で一徹な人間であった。私が生れたときには遠縁に当るらしい原民喜の父から長兄がひきついだ陸軍用達の網やテントを扱う店で当主を助けて若い人達の監督のようなことをしていた。私より十三も年上の民喜は夏休みに東京から帰省したとき、遠くを見ているような彼の顔を幻のようにおぼえている。戦後その彼が『夏の花』の第一部「壊滅の序曲」のなかで、私の父を「三津井老人」という名で書いていたのを読んでなつかしく当時を思い出した。彼は父の名である正三を自分の名前にして被爆四十八時間前の自分の家と店のありさまをリアルにえがいているが、私の父についての叙述は息子の私がおどろくほど正確であった。」

「民喜の本のなかで、店の者が入営するときの父のことばが書かれている。「『兵隊になられたら馬鹿になりなさいよ。ものを考えてはいけませんよ』と息子に言いきかすように言いだした。」と。まさに父は入営するときにそう言ったのだ。だがこれはあきらかに”偽装”の姿勢である。そうして私はそれに従った、(後略)」

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京橋川土手の原民喜ゆかりの被爆柳があるところには、原民喜の甥・原時彦さんによると、被爆柳を境として、原民喜の持家が二軒あり、原爆被災時、南側の家に民喜の次兄一家が住み、北側の家には、1945年4月から、原商店の大番頭であった松江澄の父・松江正三の一家が居住しており、原爆被災時は、民喜の次兄が松江正三を助け、ともに縮景園まで逃れたといいます。

松江澄の生まれた場所はわかりませんが、前著を読むと、子どもの頃、二、三度転居しており、京橋川土手の家から程近い幟町界隈に住んでいたことがわかります。

夏の原水禁大会のフィールドワークは、原民喜の作品を朗読しながら辿っていきます。どうぞよろしくお願い致します。

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竹原さん、新しい情報ありがとうございました。松江正三さんが、あの地に住まれたのが、1945年4月からのようですから、軍隊入営中の松江澄さんが、あそこの住んで折れたことは勿論、生まれ育たれた場所でもなかったのですね。

いのちとうとし

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2019年4月13日 (土)

被爆二世集団訴訟の原告となって

2017年2月、被爆二世の集団訴訟が、広島と長崎で始まりました。国が二世への援護措置を怠っていることは、幸福追求権を保障した憲法に反するとして起こした訴訟であり、私も原告団の1人です。

現在、平和公園になっている一帯は、当時、多くの人が住み行き交う広島の繁華街でした。私の祖母の実家は、その南側の中島新町にあり、醤油屋を営んでいました。建物疎開(ということは現在の平和大通あたりだったのでしょう)のため、元柳町の本川橋のたもとに転居し、その数日後に原爆に遭いました。爆心地から400メートルの所でした。曾祖母たちは爆死し、大八車を引いて吉島町を歩いていた曾祖父のみが、刑務所の高い塀に遮られて助かったそうです。

当時、9歳だった父は、向原に縁故疎開をしていましたが、広島に新型爆弾が投下されたことを知った祖父に連れられ、8月12日に曾祖母たちの捜索に入り、入市被爆をしています。

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       ↑中国新聞ヒロシマ平和メディアセンターHP「『ヒロシマの記録』―遺影は語る」で見つけた曾祖母と大叔母の遺影

http://www.hiroshimapeacemedia.jp/mediacenter_d/jp/abomb/00abomb/kiroku/motoyanagi/my1.html

幸いなことに父も私も、現在のところ健康を害さずに過ごしていることもあり、私自身、これまで自分は被爆二世だという自覚がほとんどありませんでした。組合の仲間から被爆二世の集団訴訟の話を聞いたときも、自覚もなく健康な自分が原告に加わって良いのかどうか迷いました。しかし、私個人の問題ではないと思い、原告団に加わることにしました。被爆者が高齢化する中、次の「当事者」としてとりくむ責任が被爆二世にあると感じています。

被爆者に対する援護法も、初めからあったわけではありません。先人たちの粘り強いとりくみにより、被爆から12年経った1957年にようやく「原爆医療法」が施行されました。被爆者健康手帳の交付により健診や医療を受けられる施策は、その後も改正を重ね、対象や内容の拡大が図られ、被爆から50年経った1995年に、現行の「被爆者援護法」施行に至りました。

一方で、国は被爆二世については「放射線の遺伝的影響の科学的知見は得られていない」として援護対象とせず、その人数すら確認していません。

科学的知見が得られていないから何もしないという理屈を通してしまうことは、東電福島第一原発事故による被曝者や二世へも何もしなくてよいという理屈につながります。私たちは、この集団訴訟が、福島や世界の核被害者の問題解決、日本の核政策にも影響を与えるものとしてたたかっていきます。

(頼信直枝)

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2019年4月12日 (金)

ようやく春が・・・

 

ささやかな庭に春がやってきました。

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ランの一種で、19年前に亡くなった義父が

山から持ち帰ったもの。10数年前から毎年

花が咲きはじめた。

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ハーブです。

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3年前夫が散歩の途中、川土手から

持ち帰ったスミレ。

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わたしが育てている芝桜。

肥料は、精米後の米ぬかと米のとぎ汁

                       (やすみ)

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2019年4月11日 (木)

ケネディー大統領と昭和天皇 ――30年前に生前退位を予言――

 

[皆様への御挨拶]

イライザ

 

昨年8月まで「ヒロシマの心を世界に」というタイトルで、ブログのお世話をしてきましたが、結局かなりの部分を私が書くことになってしまい、当初の目的とは大きくずれた展開になってしまいました。今回は、「新・ヒロシマの心を世界に」とタイトルを改め、「いのちとうとし」さんが編集の責任を負って下さって、新たな方向を目指します。

既にこのブログに登場した記事をお読み頂けると明らかですが、多士済々のライターの皆さんが、多様で素晴らしい内容をアップして下さっています。私も常連の一人として投稿させて頂きますが、毎月、1日、11日、21日の三日間が担当です。

身辺雑記やこちらにはそぐわない内容のエッセイは前のブログ「ヒロシマの心を世界に」の方に、不定期にアップしたいと思っていますので、そちらも宜しくお願いします。           

 

30年前に同僚から問われたのは》

1970年代から80年代にかけて、私はアメリカのボストン郊外にあるタフツ大学という私立大学で教鞭を取っていました。当時の数学科の同僚だったI教授に聞かれたことが切っ掛けになり、昭和天皇崩御について考え、その結果を1989年に三省堂の広報誌『ぶっくれっと』に寄稿しました。後に、三省堂から出版された『夜明けを待つ政治の季節に』の13章として再出版されたのですが、そのタイトルは「「象徴」の意味――ケネディー大統領と昭和天皇――」でした。今回、それを数回に分けてアップしたいのには、いくつかの理由があります。

一つは、1989年、現天皇即位の年に「生前退位」を予言していたことです。即位直後、あからさまにそんなことは言えませんので表現は抑えてありますが、私自身は確信に近い思いで執筆していたことを覚えています。

もう一つは、それが出発点になって、『前広島市長が読む 憲法と天皇』(数学書として憲法を読む)(仮)、という一書を恐らく7月になると思いますが、法政大学出版局から出して頂けることになりました。実は昨年の9月からこれまで、その執筆のための時間として有効に活用させて頂きました。7月上梓予定の新著の中で、上記のエッセイを序章として再掲します。以下、その1です。

 

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ケネディー大統領と昭和天皇(1)

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昭和天皇の亡くなった日、私は、天皇対日本人、ケネディー大統領対アメリカ人という2つの関係を対比しながら、天皇の象徴性、天皇の死の意味を考えている自分を発見した。

 

 《象徴としてのケネディー》

今でも、私と同世代のアメリカ人の多くにとって「あの時どこにいた」という問いはかなり限定された意味を持つ。「あの時」と聞いて、1963年11月22日、ジョン・F・ケネディー大統領が凶弾に倒れた日を頭に浮かべる人が多いからである。

今でも「あの時」が、ケネディー大統領の亡くなった日を意味するのは、この25年間に何度も同じ会話が繰り返されて来たからでもある。60年代の後半から70年代前半にかけてベトナム戦争反対運動が盛んだった頃には、特に頻繁だった。

私たち(とあえて書かせていただきたい。市民権は無いものの、私自身、アメリカの友人たちと共にボストンでベトナム戦争に反対していたのだから)にとって、ケネディー大統領の存在がそれほど大きかったということである。その意味をもう少し詳しく考えてみたい。

そもそも、ベトナム戦争を「始めた」のはケネディー大統領(以下JFKと略す)であり、私たちベトナム戦争に反対し、その中止を願っていた人間が、JFKを反対運動のシンボルとして持ち出すことは、論理的におかしいのである。にもかかわらず私たちは、JFKなら私たちの今の気持を分かってくれるはずだ、ベトナム和平への道を一緒に歩んでくれるはずだ、と信じていた。ベトナム戦争反対運動のリーダーの1人、ロバート・ケネディー上院議員と兄のジョン・ケネディーのイメージがだぶったこともその一因だが、JFKとアメリカ、そして世界、JFKと私たち若者、JFKと未来、といったような組み合わせで、私たち世代の人間はJFKに親近感を持ち、彼との一体感を持っていた。私たち若者はリーダーとしてのJFKに夢を託し、彼は私たちに多くの期待を持っていた。

だからこそ、彼の死が自分の肉親の死の如く、いや、まさに自分の死のように感じられたのである。それは同時に、JFKに託した私たちの夢が残っている限り、私たちが生き続ける限り彼が生きている、と信ずることでもあった。

「あの日君はどこに居たんだ」と問うことで私たちは「今でも」まだ夢を捨てていない自分と話し相手をお互いに確認しあい、「あの日」以後辿った道を振り返る。年を取ったなとも感じ、人の世の移り変わりの激しさにも改めて感慨を催す。この尺度で月日を測れば「ケネディー25年」とか「JFK25年」ということになる。

既にお分かりいただけたはずだが、私にとっては、JFKの方が昭和天皇より、はるかに近い存在であり、誇りを持って私たち世代の象徴だと言い切れる人物なのである。それを基にして考えると、戦争で惨々苦労しながらも年配の日本人が持ち続けている昭和天皇への「敬慕」の念も分るような気がする。私たちがケネディーのベトナム戦争における責任については寛容になるように、天皇の戦争責任については寛容になり、終戦における役割を高く評価する人がいても、その心情は分かるような気がする。ただし、政治的、歴史的、道義的等々の責任は、それとは別である。JFKのベトナム戦争に関しての責任の有無は、彼に対する好悪の感情を抜きにして事実を基に議論されるべきである。天皇の戦争責任についても同じことが言える。(1989年3月記。以下、次回4月21日)

[2019/4/11 イライザ]

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2019年4月10日 (水)

株主総会の準備-その2

お願い文を受け取った人が、よし協力しようと思って委任状に印鑑を押してということだけでは、株主提案議案の共同提案者にはなれません。「個別株主通知」というややこしい手続きを必要とします。「個別株主通知」というのは簡単に説明すると、株主が「株主としての権利を行使します」ということを、前持って通知するという手続きです。数年前までは、こういうややこしい手続きは必要ありませんでした。しかし、まさに私たちへの嫌がらせのように、ややこしい手続きをすることを行政が決めてしまいました。そして、この手続きを行っても権利を行使することの出来る期限が決まっているために、早くやっても遅くやってもダメなのです。

遅くやってもダメというのは、「個別株主通知」の有効期限があり、一方で株主提案議案は総会開催日の8週間前までに出さなければならないという、決まりになっているからです。

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また、株主提案議案の中で書く「提案の理由」には400字という字数制限が掛けられています。400には句読点も含まれますから、そう簡単なことではありません。400を超えると、もちろんダメですが398とかいう数字だったら、すごく損した気持ちになるので、ピッタリ400になるよう工夫します。

そしていよいよ提案を出す時を迎えます。今年の株主総会はだいたい6月27日と予想してカレンダーを見る限り、5月2日がその日となるのですが、今年は「10連休」の中に入ってしまいます。中国電力の担当者からは、「なるべく4月25日までにお願いします」という連絡がありました。そのために私たち「脱原発へ!中電株主行動の会」は、4月25日に提案することにしました。

ところが関西電力は、大阪市で「G20サミット」が開催されるということで、総会を1週間早めることにしたようです。

こんなややこしい手続きをしてでも、全国9電力会社全てで、今年も株主提案議案を出すことができるようです。

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どこに「株主提案議案」を出すことのメリットがあるのかといえば、まず私たちの議案が株主総会招集通知の中に書かれ、中国電力の場合では約12万4千名の株主に送られます。次に総会の場で、提案議案の補足説明を行うことができます。そして総会で審議に掛けられます。

皆さんの中で中国電力の株式を持っている方はおられませんか?よし「脱原発へ!中電株主行動の会」に協力してやろうと思われる方、是非ともよろしくお願いします。ただし3月末の決算日の6カ月前までに株を持っていることが条件ですから、来年の株主総会を考えれば今年の9月30日までに、購入しておいてください。昨年の株主総会では、107名の株主、9万1200株で株主提案議案を出しました。

木原省治

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2019年4月 9日 (火)

株主総会の準備-その1

「もう株主総会の準備?」と不思議に思われるかも知れませんが、3月期決算の会社の株主総会が開催される6月末に向けて、電力会社の株主総会に脱原発の議案を提出する全国の私たちの仲間は、今大忙しの状況です。

株主の側から、株主総会に議案を提出することを「株主提案議案」と言います。もちろん誰でもがすぐに行える、ということにはなりませんが、会社法に定められた株主としての権利です。3万株以上の株数で、総会に提出するのです。一人でこれだけの株式を持っていると簡単ですが、それほど持っている個人は極少数ですから、全国の株主から賛同を得て、3万株以上の株数の同意を得て議案を提出するのです。法人や自治体では3万株の株式を持っているところは在りますが、そういうところは私たちの脱原発の議案には、まず賛同してくれません。

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ちなみに中国電力の筆頭株主は、山口県です。現在は約3千4百万株を持っています。発行済み株式総数の9.9パーセントとなります。2001年7月に開催された「山口きらら博」までは、山口県振興財団の名義で約5千万株、13.3パーセントを持っていましたが、きらら博費用のために売却しました。 

中国電力は一株当たりの年間配当金は50円ですから、多くの配当金が入ります。機会があれば中国電力と山口県の関係についても、ブログに書かせてもらいたいと思います。

さて本題に戻りますが、「株主提案議案」を出す準備というのは、昨年の9月から始まるのです。株主総会終了の日から3か月間までの間は、株主総会で株主が中国電力の提出した議案賛成したか、私たちの議案に賛成したかということを閲覧することができます。正しくは「議決権行使書閲覧」と言いますが、どこの会社でも株式を持っている人はご存知でしょうが、ハガキで賛否を書いて送る物です。中国電力の場合、2万通くらいのハガキが帰ってきています。それを約1日掛かりで、10人くらいの仲間で閲覧し書き写すのです。株主なら行える権利ですが、たいへん手間のかかる作業です。

その次に私たち世話人が集まって、今年はどんな議案を提案しようかという打合せを行います。だいたい2月から3月の初め頃までに行います。今年の株主総会では五つの議案を出すことになり、それぞれがどの議案の提案の内容、理由などを作成するかの担当を決めます。

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この作業に並行して、「議決権行使書の閲覧」で私たちの議案に賛成していただいた株主の方に、「今年はこんな議案を出します」というのを書いて、お願い文を送るという作業に入るのが次のステップです。

(明日につづく)

木原省治

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2019年4月 8日 (月)

なぜ下がる投票率―統一自治体選挙前半戦を終えて

昨日、投票年齢が18歳に引き下げられて初めての統一自治体選挙前半戦の投・開票が行われました。私が応援に入った安佐北区の広島市議会議員選挙の結果は、7議席を13名で争う激戦区でしたが、多くの皆さんのご支援をいただいて、見事に3位で3期目の当選を果たすことができました。

この選挙結果を受けて、少し考えてみたいことがあります。と言っても議席の問題ではありません。投票率です。広島市内での投票率は、市長選が36.62%、そして市議会議員選挙は、36.53%と、いずれも前回を下回る結果(県議選が41.03%)となりました。私が住む中区では、市議会議員選挙が、定数6に対し9名が立候補し4年前より立候補者数は1名増えての選挙戦となりました。ところが、投票率は32.08%となり、10.72%も下落し過去最低を記録した前回(36.4%)をさらに下回る結果となりました。中区は、県議選が前回に続いての無投票当選ですので、この影響を考えることはできません。なぜ、こんなにも投票率が選挙のたびに下がっていくのでしょうか。

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今回の選挙は、気が付かれた方も多いと思いますが、新たに実施されたことがいくつかあります。一つは、選挙法の改正によって、自治体議員選挙でも枚数には制限がありますが、「個人の政策ビラ」が配布できるようになったことです。ちなみに広島市議会議員選挙では、8千枚が配布できることになりました。もちろん配布方法には制限がありますが。恥ずかしいことですが、この選挙法の改正を私は知りませんでした。出発式後の事務所で、「証紙貼りをすぐ始めよう」という声が飛び交い、この件を初めて知ったのです。もう一つは、市議会議員選挙でも「選挙公報」が、配布されたことです。自治体議員選挙での「選挙公報」の配布は、これまでもそれぞれの自治体で決めることができていました。しかし、広島市ではこれまでに何度も要望は上がっても実現していませんでしたが、ようやく今回から実施されることになったようです。

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これらはいずれも選挙に関心を持ってもらい、投票率を上げようとの工夫だと思います。そればかりではありません。こちらは選挙ごとにアップしている「期日前投票」への周知です。わが家に届いた「選挙のお知らせ」にも裏面に「期日前投票」の「宣誓書」が、記載されるとともに封筒(2名分が入った)にも「期日前投票」利用の呼びかけが書き込まれていました。ちなみに、私が最終日に乗った街宣車での体験ですが、何人もの有権者から「すでに期日前投票で入れたからね」という声をかけられました。行きやすくなった「期日前投票」は、有権者に浸透したようです。

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このように、選挙の投票率を何とか上げようという様々な工夫や努力がされていますが、それでも結果的には、投票率の下げ止まりを防ぐことはできていません。

何故でしょうか。自治体行政への関心が薄くなったことも重要な要因ですが、さらに深刻なことは、衆議院選挙での小選挙区制の導入によって、多数者の意見のみが尊重され、少数者の意見が切り捨てられる政治が当たり前になっていることだと思います。「数さえあれば何をやってもよい」という政治が蔓延しています。それはいまの国会審議の状況を見れば明らかです。そして沖縄県民投票のように、結果を尊重せず民意を無視するという安倍政治が続いていることも重なりながら、有権者の政治への無関心を増大させる結果につながっているというのは言い過ぎでしょうか。

こんなことを真剣に考えさせられる投票率でした。

いのちとうとし

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2019年4月 7日 (日)

一冊の古いパスポート

私の家に一冊の古いパスポートがある。 

1971年2月

沖縄復帰運動に参加していた父は、沖縄を訪れた。

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表紙をめくると、「本土と沖縄との間を旅行する日本人であることを証明する。 

昭和46年2月16日 内閣総理大臣」とある。

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そして、Ryukyu Government

入国のスタンプ

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1984年1月

父は家族を沖縄に連れて行ってくれた。

ひめゆりの塔の周辺は、今ほど整備されておらず、木々に覆われた中に、慰霊碑とガマがあったような記憶がある。

母は、宿泊先のホテルの方に、「家族で来られて幸せですね」と言われたことを今でも覚えている。

4人に1人が亡くなったと言われる沖縄では、祖父母も含めて家族がいるというのはめずらしいことだったのだと思う。

2003年5月

沖縄平和行進に参加した。

学校帰りの2人の高校生が「僕たちも一緒に歩いていいですか?」と一緒に行進を始めた。

広島ではどうだろうか?

 2019年2月

米軍普天間飛行場の名護市辺野古への移設を巡り、埋め立ての賛否を問う県民投票が行われた。

7割以上の県民が、辺野古への基地移設に反対の意を示した。

沖縄県民が自分たちの意思を示した。

しかし、それと同時に、「また沖縄の人たちだけに意思表示をさせてしまった」との思いもどこかにある。

安倍首相は、「沖縄に寄り添う」と言う。

この発言を聞くたび、安倍首相にとって「寄り添う」とは、「沖縄の立場には立たない」という意味ではないかと思ってしまう。

 2019年3月

ようやく、真藤順丈さんの「宝島」を読み始めた。

読んでみたいと思ったのは、本の内容もだが、真藤さんが直木賞に選ばれたときのインタビューを聞いたからだ。確かこのような趣旨のことを言っていたと思う。

「沖縄出身でない自分が、沖縄のことを書いていいのだろうかと悩んだり、腰がひけてしまったりすることもあった。しかし、結局、その腫れ物に触るような扱いをすることが、自分の中の沖縄に対する潜在的な差別感情なのではないかと思った。」

沖縄の問題は、私たちの問題だ。

県民投票で沖縄の人たちは自分たちの意思を示した。

私たちはどうする?

藤原

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2019年4月 6日 (土)

浅緑の芽を吹き始めた原民喜ゆかりの被爆柳

城南通りの京橋川にかかる上柳橋(被爆当時は、この橋はなかった)のすぐ下流の右岸に、原民喜ゆかりの被爆柳があります。この被爆柳が、今年も若葉が芽吹き、元気な姿を見せていました。

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満開となった桜を見ようとパートナーと連れ立って、散歩に出かけました。自宅近くの元安川にかかった万代橋をスタートに、元安川左岸を上流へ。平和公園を対岸に眺めながら、市立中央図書館、美術館前をとおり、広島女学院の桜並木のトンネルを眺めながら、広島駅前まで足を延ばしました。今日は、この桜の話ではありません。

ピースボート報告会でユース特使の森山景さんが、原民喜の「コハ今後生キノビテ コノ有様ヲツタエヨト天ノ命ナランカ」と言葉を紹介しながら、被爆体験継承の決意を話したくれたのを思い出し、久しぶりにこの原民喜ゆかりの被爆柳へ足を運びました。

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この被爆柳は、原民喜ゆかりの柳として紹介されていますが、実は、広島県原水禁とも少しですが、ゆかりのある被爆樹木です。それを知ったのは、数年前に広島市中央図書館が主催したフィールドワーク「原民喜の『夏の花』を歩く」に参加した時です。エリザベート音大のすぐ近くの「原民喜の生家跡」をスタートしたフィールドワークが、次に訪れたのが旧上柳町(現在の橋本町・RCC文化センター裏付近)のこの被爆柳でした。ここには、原民喜の次兄守夫さんの自宅とともに借家があったそうです。その借家に、当時原家が営んでいた原製作所の大番頭だったと思うのですが、松江さんという人が住んでおられてという話を案内人の竹原陽子(原民喜の研究者)さんが、教えてくれました。ここに登場する松江さんは、実は広島県原水禁の常任理事を長く務め、反戦反核運動の理論的なことに中心的役割を果たしてこられた松江澄さんのお父さんだったのです。私も松江さんには、多くのことを教えていただきましたので、意外な関係に、当時びっくりしたことを思い出します。私の想像ですが、松江澄さん(2005年没)は、1919年生れですから、この場所で生まれ育たれたのではないかと思います。松江さんは、富士山ろくの陸軍重砲兵学校教育隊で敗戦を迎えられたようですから、被爆はされていませんが。

今年の夏の原水禁大会では、初めて竹原陽子さんの協力を得て、「原民喜の『夏の花』を歩く」フィールドワークを実施することになりました。多くの人に参加していただきたいと願っています。

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パートナーの万歩計の数字は、10,279歩でした。

いのちとうとし

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2019年4月 5日 (金)

在ブラジル被爆者の渡辺淳子さんを迎えて-第100回ピースボート「おりづるプロジェクト」報告会

昨日のブログの続きです。続きと言っても、「街宣行動」の報告ではありません。この行動の終了時間の午後6時半から市民交流プラザで始まった「在ブラジル被爆者の渡辺淳子さんを迎えて-第100回ピースボート『おりづるプロジェクト』報告会」の報告です。

旧知のブラジル被爆者平和協会の渡辺淳子さんの被爆者証言があるということで、街宣行動を5分前に終え、急ぎ足で会場に移動。会場は、最初のプログラム・映画「ブラジルに生きるヒバクシャ」の上映がスタートした直後でした。この映画は、ブラジルの映画監督ロベルト・フェルナンデスさんが、2011年に作成し、翌年、ブラジル被爆者平和協会の渡辺淳子さんが来日された時、映画監督の有原誠治さんに日本での上映を相談し、有原監督が日本語版を製作し、2014年に日本での上映が開始されました。

映画は、ブラジル被爆者平和協会の森田隆会長を中心とした協会の結成から現在に至る歴史をたどるとともに、サンパウロ市内の学校で証言活動をする姿を紹介しながら、森田会長や盆子国彦原副会長、渡辺さんなどの被爆証言が盛り込まれています。2011年で思い出されるのは、福島の原発事故ですが、そのこともきちんと盛り込まれています。

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印象的だったのは、後半には、ブラジル・ゴイアニア市で起きたセシウム137事故(病院に放置されていたセシウム線源が入った回転照射体が、病院の移転作業をしていた2人の青年によって持ち出された。死者4人・汚染者249人)や、ずさんな放射性物質の保管状況などの問題が紹介され、さらにこの問題に取り組む被害者を励ます森田さんたちの姿が映し出されていることです。森田さんが繰り返し述べています。「核と人間は共存しない。」と。この映画は、世界中どこでも核被害が起こることも教えています。

Dsc_2571映画の上映に続いて渡辺淳子さんの証言です。「2歳の時に広島にて黒い雨を浴びて被爆をしました。黒い雨により生死をさまよった後に奇跡的に生き残りその後広島で過ごしました。25歳の時に『花嫁移住』という移民制度によりブラジルに単身渡りました。13年後38歳の時に広島へ里帰りをした際に初めてご両親から「被爆者」であることを聞かされました。2歳の時に被爆した彼女には当時の記憶はありませんが60歳を契機にブラジル平和協会に関わり平和活動を行うようになりました。」自らの被爆体験の記憶がない渡辺さんを動かしたのは、1987年に実施された南米在住被爆者の「当時の被爆体験が、家族の様子も含め詳しく、生々しく書かれていた」アンケート用紙を何げなく読んだことです。そしてアメリカから返還された当時の原爆被害を映し出した映画を見たこと。この二つの出会いが「被爆体験の記憶がない私が、この姿を伝えなければならない」と証言活動を始める大きなきっかけになったとの報告に、渡辺さんの活動の柱を見た思いがしました。

報告会の最後は、ユース特使森山景さんの南米各地での寄港地での活動報告。森山さんは、広島出身の被爆3世。舟入高校演劇部の経験を活かし、船上で「『原爆の図』を描いた丸木俊さんを主人公にした評伝劇『女絵かきの一生 2019』」を上演したことが、ビデオを上映しながらの報告で終了しました。

いのちとうとし

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2019年4月 4日 (木)

「おかしい」と思ったら声をあげましょうーヒロシマ総がかり行動「3の日・定例街宣行動」

毎月3日に実施している「戦争させない・9条壊すな!ヒロシマ総がかり行動実行委員会」の「3の日・定例街宣行動」を、今月も昨日夕方5時半から1時間、本通電停前で実施しました。

「歌声9条の会」の皆さんの沖縄の弦楽器・三線などの伴奏による沖縄民謡「てぃんさぐの花」の合唱などで始まった今月の「3の日・定例街宣行動」は、参加者が次々とマイクを握るリレートーク方式で実施されました。

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最初のマイクを握ったのは、弁護士の寺西環江さん。「みなさん、おかしいと思うことはありませんか」との呼びかけ。自らが体験した児童館でのすし詰めの子どもたちのことに触れながら、非正規雇用問題など置き去りにしながら「景気は回復している」という安倍首相、「おかしいと思いませんか」と次々のおかしい事例を挙げながら「おかしいと思いませんか」「おかしいと思ったらどうしますか?声をあげませんか」そして「おかしいと思ったら声をあげてください。選挙に行ってください!」「おかしいと思ったらいっしょのこえをあげましょう!」と呼びかけました。

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この元気あふれる訴えに続いて、沖縄・原発・消費税・年金・保育・春闘・景気・従軍慰安婦・徴用工問題等、それぞれが取り組んでいる課題での訴え。やっぱり迫力がありました。あっという間に一時間が過ぎ、4月の定例街宣は終了しました。行動参加者は、54名でしたが、リレートークの弁士以外の参加者は、5月3日の開催する「憲法集会」への参加を呼びかけるチラシ配布。今年の「憲法集会」は、例年と会場と時間を変更し、午前10時30分からアステールプラザの大ホールで、TBS「報道特集」のキャスター、第一線で活躍中の金平茂紀(しげのり)さんを講師に招き、「抗うニュースキャスターが語る“崖っぷちの民主主義”」をテーマにした記念講演を予定しています。この「憲法集会」にもぜひ参加を。

いのちとうとし

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2019年4月 3日 (水)

長崎も寒かった!「しいたけ肉そば」は体が温まる

1日、2日と「被爆74周年原水禁世界大会」の打合せのため、長崎に行ってきました。今年桜の開花が全国で最も早かった長崎ですが、4月とは思えない大変寒い2日間でした。

例年、この時期に広島、長崎両原水禁と原水禁本部の三者が集まり、夏の原水禁大会の主要な課題や分科会の持ち方などについての意見交換を行っています。今年は、すでに2月末に1度東京で開催しましたが、その時の意見をもとにした本部が作成した「概要案」をたたき台として、さらに突っ込んだ論議を行いました。まだ素案の素案の段階ですので、ここで詳しく述べることはできませんが、広島大会では「核兵器禁止条約」を国際シンポジウムのテーマに取り上げることが、確認されました。その他にも「沖縄・辺野古新基地建設」、脱原発課題は、従来の2分科会から3分科会に増やすなど、現在の情勢に合わせた論議を深めていく分科会を設置することとなりました。

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原水禁は、毎年大会を準備するにあたって開催地である広島や長崎の意見を尊重し大切にしていますので、広島県原水禁としてもより実りある原水禁大会とするため、積極的に意見反映を図りたいと思っています。

三者の会合が、今年2度開催することになったのにはもう一つの大きな理由があります。それは、来年国連で開催される「NPT再検討会議」に向けての共同行動をどうするかということです。連合からの呼びかけもあり今回も5年前と同じように「核兵器廃絶1000万署名」を連合、原水禁、KAKUKINの三団体で取り組むことになり、夏の原水禁大会の時期に三者によりキックオフ集会を開催し、スタートすることになるようです。今回の署名の特徴は、原水禁が強く要望したことですが、従来のような提出先を国連のみにするのでなく、日本政府に対し「核兵器禁止条約を早期に批准することを要請する」署名となったことです。当然と言えば当然ですが、そこまで合意するのには、少し時間がかかったようです。詳細が具体的になり次第、また報告します。

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1日で打ち合わせを終わり、2日目の楽しみは、長崎の美味しい麺を食べることです。夏の長崎大会に参加した時必ず食べに寄る「永楽苑」に行ってきました。帰りの列車の時間もあり、開店時間の11時30分前に店を訪れました。店の前に行列ができているので、帰りの時間に間に合うかなとちょっと焦りましたが、よく見るとその列は隣の和食屋のランチメニュー「10食限定 15貫セット あら汁付 700円」を狙った人たち。

「永楽苑」は私が一番乗り。メニューには、長崎名物の皿うどん、ちゃんぽんももちろんありますが、早速お目当ての「しいたけ肉そば」(メニュウ表では、「冬茹麺」)を注文。「しいたけ肉そば」は、この店の一押し。待つこと5分。その間に、次々と来客。カウンターはすぐに満席。あとからの人は、奥の座敷に。美味しそうな「しいたけ肉そば」が登場。とろみのあるスープは、寒さをはねのけるとろみのあるスープ。

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夏もおいしかったけど、やっぱり寒い日の方が。当然スープまで完食。充分に満足して急いで、長崎駅へ向かいました。

いのちとうとし

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2019年4月 2日 (火)

テレビなどで「自衛隊」が何かと話題に…

テレビなどで「自衛隊」が何かと話題に…

○北海道で震度6弱の地震が起きた時、昨年のように酷くなるのではと心配していた時、自衛隊の戦闘機2機を飛ばして、山崩れがないか偵察していました。

○自衛隊と警察官が合同で訓練をしています。

○お笑い芸人が、自衛隊7機で飛行しながら航空ショーをする部隊に誘われ、飛行機の中に入り、おーはしゃぎしている番組でした。

○コマーシャルで、世界遺産の建物の模型などを買って自分で組み立てるものなどいろいろですが、その中の一つで、自衛隊の戦闘機などの模型を毎月購入して組み立てる宣伝です。

○自衛隊に入隊する人が少ないため、自衛隊員になるよう勧誘をするため自治体に対し、「名簿」を出すように強制し、自治体が協力しないと文句を言っています。

○「自衛官募集」のポスターが問題になっています。全国各地域でポスターなどを作成するらしいのですが、漫画の主人公などのキャラクターで、かわいい女の子が短いスカートで飛び上がり、下着が見えるものです。(下記記写真)

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  自衛隊滋賀地方協力本部が作成した自衛官募集ポスター(不適切と指摘され撤去)

                          

○自衛隊内部では、「いじめ」や「性的いやがらせ」などで、精神的に落ち込んだり、自死するなど問題も多く起きています。管理者は、「特に自衛官が多いわけではない」と問題にしていません。

 

身近な生活の場で一つひとつ問題にしよう

安倍政権は、「憲法違反」を、次々とやり続け、憲法改悪の「ハードル」を下げようとしています。身近な、生活の場で、一つひとつ、問題を問題にしていかなければならないと思いました。自治体選挙・参議院選挙で精いっぱい取り組みを強めましょう。

(ゆうこ)

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2019年4月 1日 (月)

「新・ヒロシマの心を世界に」-再スタートにあたって

 

3月18日のブログで予告しました「新・ヒロシマの心を世界に」を3月の助走期間を経て、今日からスタートさせます。

予告でもお知らせしましたが、このブログは、昨年8月26日に「初心に帰る ――執筆陣が揃ってから再出発したいと思っています――」としてストップしていた「ヒロシマの心を世界に」を再スタートさせたものです。ブログ名をそのまま継承する方法もあったのですが、「世話人の交代」、広島県原水禁常任理事を中心とした「新たに執筆陣による寄稿」など新たな決意で再スタートさせるためには、きちんと新しいブログを立ち上げてスタートする方が良いとの判断からブログ名を「新・ヒロシマの心を世界に」としました。

ブログ名は変わりましたが、「新」とついていることに表れているように「ヒロシマの心を世界に」の精神を受け継ぐことは、当然のことです。しかし、昨年8月26日のブログに寄せられた多くの期待のコメントに応えることのできるような内容での再開する自信はとてもありませんが、一人でも多くの執筆者の思いが伝わることを願っています。

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自由なテーマをとおして様々な思いが伝わるブログとなるよう努力しましが、広島県原水禁がこれまで大切にしてきた8つの基本原則を何よりも大切にし、一人での多くの若い人たちに、その精神を引き継ぐことを目標にしたいと思います。

広島県原水禁の基本原則

1、この運動は、ビキニ被災を契機に「ヒロシマを再び繰り返すな・原水爆を禁止せよ」と立ち上がった人々によって生み出されたものであり、思想・信条・製糖・宗派を超えて、誰もが参加できる、民主的で開かれた国民運動である。

2、この運動は、ヒロシマ・ナガサキ・ビキニの被爆体験を原点に、被爆(曝)の実相を世界に広め、核被害者の救援と援護を基礎として、ノーモア・ヒバクシャをめざす。

3、この運動は、いかなる国のいかなる理由による核実験・核兵器の製造、実験・貯蔵、配備、拡散、使用にも反対する。

4、この運動は、世界の人々と連帯しすすめる。いかなる国、いかなる政府によるとを問わず、核と戦争を進める政策と行動に反対し、反核の政策と行動を積極的に支持します。

5、この運動は、核の平和利用が核の軍事利用と一体のものであり、新たな核被害をつくり出していることに注目し核と人類は共存できないとの核告発をつづける。

6、この運動は、平和・民主・人権の確立と環境保護の思想を貫き、民主団体・市民運動と連帯し、共同行動を積極的にすすめる。

7、この運動は、日本の戦争責任を追及しつづけ、原爆犠牲者への国家補償を求め、戦争被害者への戦後補償を求める運動と連帯してすすめる。

8、この運動は、非暴力主義により、平和な世界を達成するため核兵器廃・全面軍縮(軍備の配備)をめざして行動する。

 

そして森滝市郎先生をはじめとする先人たちの努力に学び、「継続は力」となるよう頑張ります。

いのちとうとし

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