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2023年12月 4日 (月)

ヒロシマとベトナム(その53-1) ~日越外交関係樹立50周年記念訪問―その2-1~

「クアンチ省地雷処理支援センター(QTMAC)」視察

ヴォ―・ヴァン・フン省知事との会見、少数民族寄宿高等学校での奨学金授与式、省教育訓練局との交流というミッション(公式行事)を終えた翌日、11月3日は「訪問団」2つ目の目的、終日「ホアビンTour(平和の旅)」です。

クアンチ省は旧南北ベトナムの軍事境界線だったベトナム戦争最大の激戦地。全面積4,745.7㎢の82%に不発弾や地雷が残る、ベトナムでも高い「地雷・不発弾・枯葉剤の汚染地域」です。中でもクラスター爆弾による汚染は、最も高い地域の一つと言われています。訪れたのはドンハ市内にある地雷や不発弾処理と被害防止や支援を行っている「クアンチ省地雷処理支援センター(QTMAC)」。

下の地図の赤色が地雷や不発弾が残っている場所を示しています。センターでいただいた地図を分かり易くするために地名と説明を入れました。地図上部(北)のグリーンベルトが軍事緩衝地帯で、これを挟んでベトナムは南北に分断されていました。右(東)は南シナ海、左(西)はラオスです。南シナ海からラオス国境まで最も短いところで約50㎞です。ラオス国境近くの赤い部分は1968年1月から4月にかけて、米軍ケサン基地をめぐる「テト攻勢」が戦われたところです。

地図を見ると、クアンチ省全域が赤く地雷と不発弾に汚染されていることが分かります。中でもクアンチ町を見てください。白丸で囲んでいる町の全域が真っ赤に塗りつぶされています。

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地雷と不発弾に汚染されたクアンチ省

ベトナム戦争最大の激戦地 = ベトナム最大の地雷・不発弾の汚染地

1972年3月、南ベトナム解放民族戦線と北ベトナム軍が、アメリカ軍と南ベトナム軍が支配するクアンチに攻勢をかけました。軍事境界線に接し、北ベトナム侵攻の足掛かりとなる最北端の米軍基地をめぐる歴史的な攻防が始まったのです。幾度かの激闘の末、5月1日、クアンチは北ベトナム・南ベトナム解放民族戦線に明け渡され、人民軍はクアンチのシンボルであるクアンチ古城に陣を構えました。

ところが、南ベトナム大統領グエン・バン・チュウは失地回復に向けて米軍とともに総攻撃をかけ、6月28日から9月16日までの81日間にわたる激戦が繰り広げられました。センター長は、「わずか3平方キロメートルのクアンチ古城に、32万8千発もの砲弾が撃ち込まれ爆弾が投下された。その威力は広島の原爆7発分に相当する」と説明。実に、1平方メートルに110発という凄まじい数の砲爆弾が撃ち込まれたことになります。

ほぼ省全土が激しく汚染されている中でも、とりわけクアンチ町が最も汚染度が高く真っ赤に塗り潰されている理由が頷けます。クアンチ古城の戦いで亡くなった人数は、「正確には把握されていないが、チュオンソン戦没者墓地に約1万名が葬られていることから、犠牲者は1万名余りとされている」とのことです。

81日間に及ぶ激戦を通しクアンチ古城を守り抜き、米軍と南ベトナム軍を撃退したこの戦いが、その後のベトナム戦争の帰趨を制します。翌年の1973年、「パリ協定」に基づき米軍が撤退、1975年4月30日の「サイゴン解放」による祖国統一へと、大きな転換となったのがクアンチ古城の戦いです。

(2023年12月4日、あかたつ)

【編集者】毎月5日に掲載している「ヒロシマとベトナム」ですが、その53「~日越外交関係樹立50周年記念訪問―その2」は、長編ですので、今日から3回に分けて掲載します。今日はその第1回です。

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2023年12月 3日 (日)

パレスチナ・イスラエル問題へのつぶやき

イスラエル・ハマスの双方が人質解放に向けて動き出し、暫定的に停戦に入った。中東のこの地域の問題は遥か昔の歴史から現在にわたって続いている。

うちの子どもの学校のクラブ活動で、ちょうどガザ地区の子どもたちと交流した翌日の10月7日にハマスがイスラエルを攻撃し始めた。現在交流したガザ地区の子どもたちの消息は不明だそうだ。うちの子どもは衝撃を受けて、なけなしのこづかいをはたいて、ガザ地区支援募金をした。また、11月19日に広島国際会議場で開催された国際フェスタにもクラブでブースを出して、ガザ地区との交流を紹介し、ガザ地区の子どもたちが描いた絵を配っていた。

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国際フェスタにて

 ただ、なぜこのような事態になってしまったかをうちの子どもに問うてみたが、ぼんやりと領土問題くらいにしか理解していない。過去に長い歴史的に迫害されたユダヤ人がイスラエルを建国し、そのため今度はパレスチナ人が迫害された。どちらもその地は自分たちの国のはずだった。そのイスラエル建国さえもイギリス・アメリカの身勝手な政策のために利用されたものだった。子どもはクラブ活動で学んだり、あらためて私が説明してみたが、理解は難しい。ユダヤ人=ホロコーストの被害者という構図ができてはいるが、1945年以降の中東戦争では必ずしもその構図ではない。どちらも正義をかざし何度も泥沼の戦争を続けている。一時期ラビン首相たちがオスロ合意を結び和平に歩み寄っていたが、結局暗殺された。和平に向けて動くと反対派に抹殺される。うちの子どもは、来年から学校の社会科では世界史を選択するそうだ。多くの「〇〇の戦い」とうものを学ぶだろう。国と国、民族と民族の対立を、ただの受験勉強の一単語としてとらえることなく、その歴史的背景を理解し、現在にも通じるものとして学んでほしいものだ。

Mumei

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2023年12月 2日 (土)

パレスチナ国際連帯デーー「パレスチナに涙を」

11月29日は、「パレスチナ国際連帯デー」でした。

今から76年前の1947年11月29日、国連総会が決議181により、イスラエルとパレスチナの二国間共存というビジョンを決めたことから、シオニストによるパレスチナ人の追放作戦が始まり、パレスチナは内戦状態となりました。現在イスラエルという国は存在しますが、パレスチナという国は存在しておらず、パレスチナの人々は、民族自決の権利を求め続けています。1977年、国連総会で11月29日が「パレスチナ人民連帯国際デー」と定められ、国際的に連帯の行動が行われています。

この日、国連の欧州本部(スイス・ジュネーブ)では、特別会合が開催され、グテレス事務総長が声明を寄せ「一致団結して、パレスチナ自治区ガザの占領と封鎖をなくすよう求めなければならない」と訴えた上で「長期的な人道停戦」を実現するよう呼びかけたことが報道されています。

広島でも、広島パレスチナともしび連帯共同体」(毎日交代で原爆ドーム前でスタンディングをしている人たちのゆるいネットワークです)の呼びかけで、原爆ドーム前でパレスチナの人々との国際連帯デーの行動を取り組まれました。

この日の行動を田浪さんのメールから紹介します。

12時から15時まで、「ガザ・モノローグ」を英語と日本語で朗読。ここで朗読される証言は、第一次イスラエル・ガザ紛争(2008-2009)後、アシュタール劇場の若者たちが書いたものです。このモノローグは今日もなお、正しく状況を伝えています。

15時から17時まで、パレスチナの犠牲者14,843人を追悼する「Tears for Palestine」を開催します。キャンバスに赤い涙を描き、彼らの生を想い、追悼します。ボランティアが犠牲者の名前を読み上げ、一人一人の命に敬意を表します。

17時から19時まで、キャンドルナイトとオープンダイアローグ。 黒い服を着てご参加ください。

私が参加したのは、午後3時から午後5時まで行われた「キャンパスに赤い涙を描き、犠牲者の名前を読み上げる」パートです。

現地に着くと、犠牲者の名前と年齢が次々と読み上げあれていました。

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この「Tears for Palestine」という行動は、東京のパレスチナ・オブ・ジャパンが東京で企画したもので、東京ですでに犠牲者の名前が読み上げられています。広島ではそのつづき(田浪さんの話し)の犠牲者の名前が、読み手を交代しながら読み上げられていました。

その前には、巾およそ5メートルの大きな白い布が広げられ、誰でも自由に「赤い涙」を描くことができるようになっています。

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読み上げられる犠牲者の中には、3才、5才という年齢の子どもたちもたくさんいます。涙なしでは聞けません。私も犠牲者への思いを共有しながら、「赤い涙」を5つぐらい描きましたが、私は、広島県原水禁常任理事会に参加するため、4時半過ぎにこの場を後にしました。

その後の様子を貴田月美さんが、写真とともにメールで知らせてくれました。

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赤い涙で、白い布がほとんど一杯になっています。

この間に読み上げられた犠牲者の名前は、約4000人だったようです。

最終的に赤い涙で一杯になった布は、午後5時からのキャンドルナイトとオープンダイアローグで掲げられました。

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戦闘が再開されれば、さらに犠牲者の数は多くなります。パレスチナの人々の命を守るためには、戦闘の停止は絶対の条件です。

そのための広島からの行動が、さらに求められていると改めて感じました。

いのちとうとし

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2023年12月 1日 (金)

広島県原水禁常任理事会と被爆78周年原水爆禁止世界大会広島県実行委員会

広島県原水禁は、一昨日(29日)午後5時から、11月の県原水禁常任理事会、午後6時から被爆78周年原水爆禁止世界大会第3回広島県実行委員会を開催し、被爆78周年原水禁大会広島大会の総括を行いました。

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以下、提案された総括案の一部を紹介します。

「大会の概要」では、

①コロナ禍で縮小を余儀なくされていた大会が、3年ぶりに制限なしで開催され、2,100人の参加があった。

②日本政府に「核抑止力論から脱却し核兵器禁止条約にたただきに署名・批准を求める」とともに福島原発の汚染水の放出強行を強く批判した。

③山口県上関町への使用済み核燃料中間貯蔵施設建設の動きに反対する「特別決議」を採択した。

④大会会場での高校生平和大使の活動および広島県被団協への支援を呼びかけたカンパが、477,557円集まった。

「分科会」では、6つの分科会に合計960人、国際シンポジウムは42人、2つのフィールドワークには、118人の参加があった。

全体として、事務局の予想を超える参加があり、資料不足や入りきれない会場があり、今後の課題となった。

「内容的課題」として

①様々な運動的な課題とともに、次世代への運動の継承という大きな課題を背負った大会だった。特に参加者の半数以上が初参加者であり、参加者がもう少し主体的に関われないか(聞くばかりでないものに)との感想も出されており、全国の議論に反映する。

②高校生平和大使やカクワカへの評価が若い層からも高いものがありました。子どもの広場に関わった大学生も含め、引き続き、開会総会・分科会問わず活動に参加してもらえるよう取り組んでいく。

「非核平和行進」では、

コロナ禍で久しぶりの開催となったこと、さらには酷暑の中、また参加人数の減少もあり、行進を中止した地区やコースもあった。また、行進はしたものの参加者から見直しも含めたあり方を問う厳しい声も出されている。来年は、コース・距離・時間等大幅な見直しも行いながら取り組むことが必要だ。

他にも事務局運営や「分科会会場での任務分担の問題」など大会運営上の課題が、大瀬事務局長から提起され、議論に入りました。

議論では次の二つの課題について、積極的な意見が出されました。

一つは、二日目の午後、参加者に対しどのようなプログラムを提供するかです。大会二日目は、全国からの参加者に広島の実相を学んでもらうため、分科会は午後0時30分で終了していますが、初めての参加者が非常に多いので、広島県実行委員会が「碑めぐり」などのプログラムを提供し、広島にまなぶ場をつくってはどうか。

二つは、「非核平和行進」についてです。特に酷暑が続く中での平和行進となるので、これまでの歴史を尊重しながら、各地区との意見交換をしながら、さまざまな工夫し、継続して実施する。

いずれも来年の世界大会に向けた積極的な意見の提起ですので、さらに論議を深め実現に向けて努力することを確認し、二つの会議は終わりました。

なお、広島県原水禁として来年の5月27日から29日の日程で、福島原発事故に関わる現地視察を行うことを確認しました。

いのちとうとし

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2023年11月30日 (木)

2023年11月のブルーベリー農園その4

2000年からブルーベリー農園を営んでいる。東広島市豊栄町のブルーベリー農園まで安芸区の自宅から週末に通うのだが、夏場と違って朝は遅く、帰りは日が暮れるのが早いので作業は午後が中心になってしまう。夏の賑わいはすっかりなく、近隣の農作業もみることはなく、生き物の動きは落葉のかさかさする音くらいで、寒くはないがしんみりとした気配が漂うなか、早生のブルーベリーの葉が落ちて枝だけになってきたのでブルーベリーの剪定作業を始める。

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11月23日(木)

祝日なのでこの日も農園に行く。剪定したブルーベリーの枝を野焼きしたり、里山の早生のブルーベリーの剪定を続ける。

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3段あるブルーベリー畑の一番下の畑と隣の休耕田。紅葉したブルーベリー畑と、夏の草がすっかり枯れた休耕田と。

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11月25日(土)

里山のブルーベリー園の剪定作業を続ける。早生のブルーベリーでまだ葉のついている木は落葉するまで剪定をもう少し先にする。

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里山の早生のブルーベリーのエリアは2002年に植えたので木が古くなってきており思い切って根元から切っていく。中にはシンクイムシの被害で穴の開いた枝もありそこに細い枝を差し込んでおいた。

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11月26日(日)

ブルーベリーの剪定作業の前に、数年ぶりに農園の花壇のスイセンの球根を掘り上げた。株分けをしてブルーベリー畑に植えた。

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畑にはもう花の咲く野の花はホトケノザくらいしかない。

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里山の早生のブルーベリーの剪定を続ける。切った後枝が乱れないようにビニールハウスで使われるハウスバンド(マイカ線ともいう)で数か所くくる。これまで使ってきた麻ひもは夏の実がたわわにつくと重さで切れることがあるので今シーズンはこれで縛っていく。

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農園の周囲の晩秋。

①ブルーベリー畑の紅葉。赤みが一段と増してきた。

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②里山のカエデの紅葉

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③里山の里道沿いのサンショウの紅葉

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④5時10分頃の農園に出た月。5時半には辺りはすっかり暗くなる。

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2023年11月29日 (水)

広島市主催「被爆建物めぐり2023」―広島高等学校講堂

「被爆建物めぐり2023」の最後は、広島高等学校講堂(広島大学付属中・高等学校講堂)です。

広島陸軍被服支廠からは約1キロ、団体で歩きましたので、15分ぐらいかかり、広島大学付属中・高等学の正門に着くと、日曜日でしたが学校の職員の方が待っておられます。個人で見学しようと思えば、事前(10日前)に連絡しなければならないようですが、今回は広島市の主催の行事でしたので、学校側が準備していただいたのだと思います。

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被爆建物の講堂は、正門の正面に位置しています。爆心地からの距離は、2.69kmです。

講堂前で、山下さんの説明を受けた後、「自由に見学してください」と学校側から許可が出ましたので、それぞれ思い思いに講堂の中に入り見学をしました。

玄関には装飾が施されています。

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タイル張りの講堂の入り口には、竣工時を示す数字「2587」が、描かれています。竣工は、1927年(昭和2年)ですので、この数字は「皇紀」の年数です。

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当時の時代状況をあらわしています。このタイルを踏んで、中に入ります。二階から写した講堂の内部です。

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 並んでいる椅子は、新しくなっていますので、現在も使われていることがわかります。左右の柱は、最近塗り替えられてそうです。竣工時の写真には、天井にはシャンディリアがあったようですが、今はLEDに代っています。

いろいろと改修されていますが、それでもはっと思うような建築当時の装飾がいたるところに残っています。

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 爆心地から2.5km以上離れていますので、鉄筋コンクリート造りだった講堂(他に図書館、化学教室も鉄筋コンクリート造り)は、被爆の影響を見ることはできませんが、古典様式を取り入れた建築物として貴重なもののような気がします。もちろん木造造りだった校舎本館や雨天体操場などは、全壊、半壊、大破などの被害を受けたことが、広島原爆戦災史に記載されていますが、その中に講堂は書かれていませんので、ほとんど無傷だったようです。

広島原爆戦災史には、広島高等学校も即死者は、教職員4人、生徒約24人の即死者を出たと書かれていますが、いずれも動員先での被爆です。当時学校には、教員2人、生徒約60人がおり、被爆時朝礼が行われていたようですが、即死者や重傷者はいなかったようです。

広島高等学校講堂の見学を最後に今年の「「被爆建物めぐり2023」は終わりになったのですが、帰宅しようと正門に向かうと、左手に気になるものが目に入りました。

正門の横(正門入って右)に建つ「原爆死没者および戦没者 慰霊碑」です。

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最下段に刻まれた「アカシア会」は、広島大学付属中・高等学校の同窓会の名前ですが、気になるのは、碑の上段に刻まれている「原爆死没者および戦没者」の文字です。戦没者の文字が刻まれている慰霊碑は、きちんと調べなければなりませんが、少ないのではないかと思うからです。裏に回ると、建立年月日が「平成17年4月17日」と刻まれています。平成17年は西暦2005年ですが、広島大学付属中・高等学校の前身でである広島高等学校が創立されて100周年という節目の年ではありますが、被爆から言えば60周年という時期です。なぜこんなに遅く建立されたのか、こちらも気になります。

いつか、遅くなった理由を調べてみたいと思っています。

いのちとうとし

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2023年11月28日 (火)

広島市主催「被爆建物めぐり2023」

今月19日、広島市が主催する「被爆建物めぐり2023」がありました。こちらは、何とか抽選に当たり、参加者のひとりに加わることができました。

今回の被爆建物めぐりのサブタイトルは「南区の被爆建物を通じて、ヒロシマをさがそう」ですので、巡る被爆建物は、南区にある広島陸軍兵器補給廠(広島大学医学部資料館)、広島陸軍被服支廠(旧日本通運出汐倉庫)、広島高等学校講堂(広島大学付属中・高等学校講堂)の3カ所でした。

何度も見学した被爆建物が二つ入っていますが、興味を持ったのは最後に訪れた「広島講堂学校講堂」です。ここは、何度か訪れようと思いながら実現していなかった被爆建物です。

集合場所は、広島大学医学部資料館前。午前10時前に全員がそろい、被爆建物めぐりがスタートしました。

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今回のガイドは、都市計画プランナーの山下和也さんです。山下さんは、広島平和記念資料館が被爆50年事業として発刊した「ヒロシマの被爆建造物は語るー未来への記録」(1996年3月発刊)の作成スタッフの一員です。また当時のメンバー三人と2006年9月に「ヒロシマをさがそう 原爆を見た建物」を出版されていますので、被爆建物についてのスペシャリストです。

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当日配布された資料に被爆建物について次のように記されています。

被爆建物・・・ヒロシマの道標(しるべ)

・被爆前の町の姿と暮らしを伝え、被爆前後の歴史をつなぐ道標。

・被爆時において、逃れ、人を探した道標。

・被爆直後の救援や復興を支えた道標。

・建築・空間を通じて被爆の実相と体験を伝える道標。

・刻み込まれた記憶を読み解き、想像して、未来を考える道標。

道標を頼りにヒロシマを歩こう。ヒロシマをさがそう。

帰宅後、「ヒロシマをさがそう 原爆を見た建物」を開いてみると、上記「ヒロシマの道標」が、この本のまとめ的に記載されていました。今後の被爆建物見学では、この道標を指標にしたいと思います。

被爆建物見学の最初は、集合場所でもある「広島大学医学部資料館」です。この建物については、すでに何度もこのブログでも書いていますので、なぜこの建物が被爆建物なのかなどは省略します。

山下さんのガイドのうち2点を紹介します。下の写真を見ながら、読んでほしいと思います。

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前にも紹介したことがありますが、上側の朱色っぽいレンガのうち、白っぽいレンガが被爆建物で使われていたレンガで、広島県産で廿日市の地御前や能美の高田などで焼かれた広島県産です。

レンガの積み方は、小口と呼ばれる小さなものと長手と呼ばれる長めのものが、横一列づつ順番に積み重ねられています。この積み方は、イギリス積みと呼ばれ、日本にあるレンガ造りの建物の9割以上は、この積み方でつくられています。後で訪れた被服支廠も同じ積み方です。この他にフランス式と呼ばれる積み方があり、こちらは小口と長手を混ぜて積む積み方です。

以前から気になっていた足下の黒っぽいレンガについてです。この黒っぽいレンガは、地面に近いということで、吸水性の低い素材や釉薬を塗って、吸水率を下げるように作られものです。ちょっとだけ知識が増えました。何度訪れても、いつも新たな発見があります。

広島陸軍兵器補給廠の見学を終え、広島陸軍被服支廠(旧日本通運出汐倉庫)に移動します。

陸軍被服支廠についても、すでに何度も紹介していますので、省略したいと思いますが、一つだけ初めて聞く話がありました。

それは、西側に並ぶ鉄扉の変形具合です。

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以前の見学でも鉄扉が変形していることはよくわかっていましたが、山下さんの説明によれば、「3棟ある建物のうち北側の建物ほど変形具合は小さく、南側にある鉄扉ほど変形が大きくなっている」とのことでした。その説明を受けてよく見ると、確かに南側の建物ほど鉄扉の変形が大きいように見えました。

この説明は、私は初めて聞く話です。爆心地から遠い方に影響が大きくなっていることが不思議な気がしますが、北西にある比治山が風の流れに何らかの影響があったように思われます。

これで、二つの被爆建物の見学は終わり、いよいよ次は、私が今回の見学会で一番期待している広島高等学校講堂(広島大学付属中・高等学校講堂)へ移動しました。少し距離がありますので、このつづきは明日報告します。

いのちとうとし

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2023年11月27日 (月)

届けキャンドルメッセージ

HANWAが呼びかけた「ガザ無差別大量虐殺の即時停止、核戦争阻止」を訴えるキャンドルメッセージ行動が、26日夕方原爆ドーム前で行われました。

今回1500本のキャンドルで描かれたメッセージは、「STOPGENOCIDE in GAZA  NO NUKES NO WAR!」です。

ガザの無差別大量虐殺の即時停止を求める「STOPGENOCIDE in GAZA」の文字は、市民団体によって11日に同じ場所で描かれたキャンドルメッセージと同じです。「NO NUKES NO WAR!」の文字には、27日から国連本部で始まる核兵器禁止条約の第2回締約国会議に共闘する思いを込めたメッセージでもあります。

午後4時から賛同する人たちによって、文字作りが始まり、日が沈みはじめた午後5時20分過ぎから点火され、文字が浮かび上がりました。

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全員で黙祷の後、森滝春子さんが最初のこの行動の趣旨を説明。続いて、田浪亜央江さんが、アピール。続いて、パレスチナ留学生のレベッカさんがアピール。

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最後に「ガザ無差別大量虐殺の即時停止、核戦争阻止 ヒロシマ・キャンドルアピール緊急行動声明」をHANWAの足立修一代表が読み上げて、この日のキャンドルメッセージによるアピール行動を終了しました。

この行動の要旨を紹介するため、アピール文の一部を紹介します。

「24日、イスラエルは圧倒的な国際世論に迫られてガザ・ジェノサイド攻撃を4日間休止せざるを得なくなった。ハマスは約束通り人質を解放している。イスラエルは[政治犯]として捕囚しているパレスチナの女性、子供を一部開放するところまで追いつめられている。

しかし、ネタニヤフ首相は、一時停戦後には直ちにハマスを殲滅する迄パレスチナ人への攻撃を再開すると宣言している。

イスラエル・ネタニヤフ政権のこれまで行ってきた、決して許されない病院への攻撃、国連経営の学校や避難施設まで壊滅状態にしてきた。ガザ地区の住民の電源を奪う強制停電、外部との連絡網、水、食料、電気、燃料、移動の自由の供給を遮断している。

(略)

今回さらに前例のない激しさで、ガザ地区のへの地上侵攻による爆撃と空爆を続けている。命がけで患者の治療に当たる医師たちや国連、国際NGOまで犠牲にして極悪非道の残虐な仕打ちをしている。このような一国家による他民族へのいわれなき侵略、収奪、虐殺行為が現代において許され良いというのか!

ネタニヤフ首相は、冷然と言い放った!「パレスチナ人は人間ではない、動物だ。すべてをせん滅しなければならない」と。まさに民族浄化だ!

(略)

ナチスによるユダヤへのホロコースト、Nuclear Genocideと言われるアメリカによるヒロシマ・ナガサキのへの無差別大虐殺の非人道的な歴史的事実は、人類が決して再び犯してはならない重大な国際犯罪である。

2021年にやっと人類が到達した核兵器禁止条約TPNWが2回目の締約国会議を迎えている。

そこに、原爆投下国米国や被爆国日本政府の姿はないのみならず、TPNWを否定している。そのことが、ロシアのウクライナへの核使用の威嚇、イスラエルの核保有を自認する核兵器使用発言まで許す誘因となり、核戦争の危機を招いているのではないのか?!

私たちは、無差別に不当な力によって殺戮され傷つけられ、愛する家族を奪われ、環境を破壊されているすべての人々に連帯する。

私たちは、世界で隠蔽されてきたすべての核被害者に連帯する。

私たちはヒロシマから世界に訴える! 

イスラエルによるパレスチナ・ガザ殲滅、ジェノサイド攻撃の即時停止を!

ウクライナ戦争の即時停止を!

核被害者、核被災地への完全援護を!

核と人類は共存できない!

(以下略)」

この声明と写真は、ニューヨークの反核団体を通じて、拡散されることになっています。また、首相、アメリカ大使館、イスラエル大使館にも送付されます。広島からのメッセージが世界に届くことを願っています。

急きょの呼びかけでしたが、100人の参加がありました。

いのちとうとし

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2023年11月26日 (日)

2023ピーススクールと第五福竜丸展示館見学

一週間ほど前になりますが、17日から19日の三日間、東京の自治労会館で平和フォーラムが主催する「未来はワタシが決める 2023ピーススクール」が開催されました。

このピーススクールは、今年で4回目となりますが、私も昨年に引き続き「原水禁運動の歴史に学ぶ」をテーマに、二日目の講師を務めました。

二日目は、朝食後夢の島にある「BnmB 東京スポーツ文化館」に移動して、原水禁運動に関わる講座二つが行われました。最初は、第五福竜丸展示館学芸員の市田真理さんの「第五福竜丸物語~核兵器廃絶の祈り~」で、その講演を受けて私が話すことになりました。

市田さんは、今年6月に開催した「被爆78周年原水禁世界大会広島実行委員会結成総会」で「第五福竜丸を知っていますか?」と題した記念講演を行っていただきました。その時の様子は、記念講演「第五福竜丸を知っていますか?」: 新・ヒロシマの心を世界に (cocolog-nifty.com)で紹介しました。

市田さんの講演を受けて私の講演を行いました。二日目の午前中は、この二つの講演で終了し、昼食後すぐ近くにある「第五福竜丸展示館」の見学が行われました。

私も一緒に参加しました。「第五福竜丸展示館」は、これまで訪れたことがありませんでしたので、ピースフォーラによい機会を与えてもらうことになりました。

BnmB 東京スポーツ文化館」から移動しての入館でしたので、正面からではなく裏口からの入館になりました。

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入るとすぐに第五福竜丸の舳先が目に入ります。

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周囲には、ビキニ水爆実験の様子や世界のヒバクシャも紹介されており、核被害の問題を学ぶことができます。

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館内の見学を終え、館外に出ると、周囲にたくさんのモニュメントがあります。そのいくつかを紹介します。

ビキニ水爆実験の犠牲者となった久保山愛吉さんの言葉「原水爆の被害者は、わたしを最後のして欲しい」が刻まれた石碑。

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1996年12月に海中から引き上げられた第五福竜丸のエンジンも有ります。

第五福竜丸は、1967年に廃船になりましたが、エンジンは買い取られ貨物船「第三千代川丸」の取り付けられたのですが、その船が座礁・沈没し、海中に沈んでいた者が引き上げられたそうです。

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すでにかなり劣化が進んでいますので、今後のさらなる劣化が心配です。

もう一つは、敷地の東端にある「マグロ塚」です。

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ビキニ水爆実験によって多くのマグロが汚染されました。水揚げされたマグロは、消費者の手に届く前に、全て中央卸売市場の築地市場の一角に埋められ処分されました。そのことを忘れないようにと、この「マグロ塚」が建立されました。本来は築地市場に建てたかったようですが、築地市場の移転問題などもあり、この地に建立されたようです。

見学を終えて帰路につくとき、ようやく正面の入り口の写真を撮りました。

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こちら側には、きちんと「第五福竜丸展示館」の看板が取り付けられています。

「第五福竜丸展示館」の最寄り駅、新木場駅までは、東京駅から京葉線でわずか10分で行くことができ、新木場駅から展示館までも徒歩10分という近さです。何度も東京を訪れていながら今回が初めての見学でしたので、大きなことは言えないのですが、ぜひ少し時間を取って行ってみてほしいと感じました。

展示館の見学を終えると、ピーススクール参加者は、地下鉄有楽町線・新木場駅から自治労会館に移動、私は、同じ駅からJRを利用し、東京駅を目指しました。

ピーススクールの参加者は、41名、うち5名が広島からの参加でした。

いのちとうとし

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2023年11月25日 (土)

中国電力、上関町での中間貯蔵施設調査地の森林伐採出来ず!

11月19日、中電は上関町での中間貯蔵施設建設に向けての調査予定地6900平方メートルの森林伐採を行わないまま、この日を向かえました。8月21日に上関町に申請していた伐採終了の期限でした。

中電は、「改めて再度申請をすることになるが、その時期は未定」としました。今の状況では、当分は行わないだろうというのが私の考えです。

8月2日、急に浮上したとされている上関町への中国電力と関西電力による中間貯蔵施設建設に向けた調査の申し入れ、実は長年にわたる周到な準備によってなされてきたことは、いろいろな場で話しておりました。

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特に原発内の使用済み核燃料貯蔵プールに余裕の無い関電が、福井県知事から今年中に県外搬出の目途が立たないと、美浜原発などの再稼働を認めなないと言われ続けられたことから、形だけでも方針をつけないとという気持ちを持っていたのは事実だと思います。

しかし頑なだった福井県が、10月10日に関電と資源エネルギー庁の幹部が福井県を訪れ、話合いを行ったら、その3日後に福井県知事は県外搬出をしなくても、再稼働を認めるとしました。再稼働を認めた具体的な内容はマスコミ報道でしか知りませんが、まさにズッコケでした。

このことは関電にとって、上関町への中間貯蔵施設ということの意欲が薄くなったのは事実でしょう。また中国新聞が実施した山口県内自治体へのアンケート調査では、中間貯蔵施設に賛成なのは上関町だけという結果となり、当事者の西哲夫上関町長もあてが外れたと想像しています。特に賛成してくれるものと思っていた、福田良彦岩国市長の反対表明は、西町長には大きく響いたようです。

 こんな状況の中では、調査OKとは言わないのが村岡嗣政山口県知事のスタンスです。11月7日に中電の中川賢剛社長が山口県を訪れ、村岡知事と面会した後、報道陣に発言した内容について村岡知事は「ミスリードになる遺憾だ」と不快感を示したのです。

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画面中央が中国電力上関原発の建設予定地(共同)

新聞記事から、中川社長と村岡知事の発言を再現してみます。

中電社長(7日の山口県知事との面会後に報道陣に対し)

「知事からは丁寧な対応を行うように、周辺の市町にしっかり理解を得るように指示をいただいたので、指示に従って丁寧な説明をこれから続けてまいりたい」と話しました。

山口県知事(8日の記者会見で)

「理解を得るようにという指示はしていない。あたかも推進の立場と捉えられかねない。理解したかどうかは各市町が判断することで、私の基本的な姿勢ともまったく相いれない」と話したのです。

山口県知事から「ミスリード」「遺憾」と言われ、中電社長になってからの最初の大仕事にケチがついたのですから、中川賢剛くんも当分はおとなしくしているでしょうね。一方の西哲夫くんは10月31日、国に対し中間貯蔵施設調査受け入れによる交付金の申請を行いました。

彼らしいやり方です。

とは言いながらも、この問題は政治の動きに大きく左右されることです。今後の動きに注目しながら監視していくことが大切だと思っています。

木原省治

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