「広島ブログ」

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2025年3月17日 (月)

「旧呉海軍工廠砲熕部火工場機械室」見学―つづき

昨日のつづきです。

旧呉海軍工廠砲熕部火工場の航空写真です。

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1947年に米軍が撮影したものです。呉海軍工廠砲熕部火工場は、空襲の被害を受けなかったようで、戦前のままの建物が残っています。この写真のどの建物かは分かりませんが、多くの建物の中で、「旧呉海軍工廠砲熕部火工場機械室」だけが現存していることになります。

ところで、ここを訪れたとき、同窓生から渡された資料があります。

1979年12月発行の「文化評論」に掲載された「秘録原子爆弾ー三十四年目の証言―」のコピーです。前文に次のように書かれています。「1945年8月6日朝、広島に投下された一発の『新型爆弾』―。“これは原子爆弾だ”と喝破した一技術将校とこれを掘り起こした科学者の証言」。二人の対談が掲載されていますが、そのうちの一人が、広島に原爆が投下された当時、呉海軍工廠砲熕部火工部長だった三井再男さんです。三井さんは当時大佐、この呉海軍工廠砲熕部火工場から広島に立ち上るキノコ雲の一部に赤い炎色反応が出ているのに気づき「これは原子爆弾だ」と直感した人です。その時のことが書かれているのがこの資料です。詳しく書くことはできませんが、当時三井さんがこの地から見たと思われる原子雲の写真です。撮影場所は、呉海軍工廠砲熕部火工場の敷地内です。

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「原子爆弾だ」と直感した三井大佐は、その日のうちに呉鎮守府の5人の技師からなる調査団を派遣し、自らは翌日隊長として広島に入ります。興味ある内容なので少し長くなりましたが紹介しました。

「旧呉海軍工廠砲熕部火工場機械室」がある地名を、昨日「呉市若葉町」と書きました。ここに海軍施設が建設されたころは「吉浦村池濱」と呼ばれていましたので、当時は呉市ではありませんでした。吉浦が、呉市に合併したのは,1928年(昭和3年)ですが、現在「若葉町」と呼ばれている地域は、吉浦地区といってよいのです。

なぜこの地名にこだわるかといえば、次に訪れたのが、呉市吉浦町狩留家にある吉浦中学校だからです。

ここは戦時中、女子動員学徒の宿舎があり,学生達はここに宿泊しながら「呉海軍工廠砲熕部火工場」に隊列をつくり通っていたのです。距離はおおよそ3kmです。

現在、吉浦中学校の校門を入って左手奥に「呉海軍工廠女子動員学徒寄宿舎跡」の石碑が建っています。

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「平成七年十二月八日」の日付が刻まれています。

下部にはめ込まれ銅板は、少し読み難くなっていますが、次のような碑文が刻まれています。

「この地は、昭和19年6月から昭和20年8月終戰まで、広島・島根・愛媛三県の女学生(現在の中学二年三年高校一年生)約四千人が学業半ばにして,呉海軍工廠に動員された際の寄宿舎跡である。私達女学生は、学徒勤労令の下,何の疑心も抱かず困苦に耐え真摯な努力を傾けた。このことは教育の及ぼす影響が大なることを痛感させる。 よって平和教育の一助となることを願い、ここの記念碑を建立する。」

その左側に「寄宿舎から出勤の風景」と昨日紹介した「防空壕での作業風景」の2枚の写真が刻まれています。両方とも銅板が傷み見にくくなっていますので、ここでは呉市発行「呉の歩み」に掲載された「呉工廠狩留家宿舎朝礼」の写真を使います。

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写真は、「昭和19年秋」となっています。

さらにその左隣には、協力校の名前が刻まれています。この寄宿舎で寝泊まりしていた女学校名だと思われます。島根は、「津和野、浜田、益田、益田家政」の4校の名前が刻まれています。ここの宿泊していた女学生は、終戦直後、ここから帰郷する途中で広島駅を通過したため、入市被爆することになったのです。

同窓生のお陰で、島根から学徒動員された生徒の足跡の一部を訪ねることができました。

いのちとうとし

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2025年3月16日 (日)

「旧呉海軍工廠砲熕部火工場機械室」見学

先月末、高校の同窓生の車に同乗させてもらい呉に行ってきました。目的は、呉市若葉町にある海上保安大学校の敷地内に残る旧呉海軍工廠の建物を見学するためです。

同窓生は、私が2021年2月ころにこのブログに連載した「学徒動員と原爆被爆」を読んでくれていて、私が関心を持っているだろうと誘ってくれたのです。

当日朝、広島市内で待ち合わせをし、車で呉市若葉町にある海上保安大学校に行きました。あらかじめ予約していましたので、事務所を訪れ最初に敷地内にある海上保安資料館を見学しました。

その後、主目的である敷地内の少し奥にある「旧呉海軍工廠砲熕部火工場機械室」のレンガ造りの建物を訪れました。ちなみに「砲熕」とは大砲のことです。この建物は、現在は、海上保安大学校煉瓦ホールとして使用されています。

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「旧呉海軍工廠砲熕部火工場機械室」は、1914年(大正3年)に建造されたレンガの建物で、「海軍第一の製造所」と言われた呉海軍工廠の建物の主要構造部, 外観部分など建設当時の意匠をよく残しており、呉市の有形文化財に指定されています。

中に入ると当時の様子がしのばれます。がっちりした天井の骨組み。

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よく見ると、碍子も沢山残っており、当時機械室だったという面影を感じます。

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おしゃれな出入り口。

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建物の裏側です。

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気になったのは、レンガの積み方です。

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一段おきに大きさのちがうレンガが、積まれています。これまで訪れたレンガ造りの建物では,こうした積み方は見たことがない気がします。

珍しい積み方だなと思いましたので帰宅後調べると、このように「一列目は小口だけ、二列目は長手だけというふうに一列ごとにレンガの向きを変える積み方」は、イギリス積みというようです。明治に入ってレンガ造りの建物が建ちはじめた最初のころは、同じ列で長手と小口を交互に積むフランス方式だったようです。しかし、その後イギリス積みはフランス積みと比較すると強度が高く、使うレンガが少なくて済むので経済的とも言われ、イギリス積みが取り入れられるようになりました。

レンガの積み方はこれぐらいしに、肝心なことは、ここに学徒動員された生徒たちが、どんな作業をしていたかです。

1935年(昭和10年)に「呉海軍工廠火工部」として「砲熕部(ほうこうぶ)」から独立したこの工場では、主に火薬や砲弾の製造をする工廠となりました。

ですから動員された学徒は、火薬や砲弾をつくる作業に従事させられていたと思われます。呉市が2006年(平成18年)に発行した「呉市の歩みⅡ」に、その作業の様子を映した写真があります。

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キャプションには、「防空壕内で砲弾部品の製造にはげむ女子動員学徒(呉工廠火工部)」と書かれています。「防空壕内」と書かれていますので、レンガ造りの建物内での作業ではありませんが、「呉海軍工廠火工部」での女子動員学徒の作業の様子の一部に間違いありません。周囲には防空壕跡がある(私は、帰宅後調べて知ったので、当日は見ていない)ようですから、建物以外でも作業が行われていたものと思われます。

もう少し紹介したいことがありますが、今日はここまでにし、つづきは明日にします。

いのちとうとし

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2025年3月15日 (土)

2025年3月のブルーベリー農園その2

サクラの開花情報が話題に上る季節になっているが東広島市豊栄町のブルーベリー農園の早春はあまり変わり映えのしない景色が広がっている。田んぼの畔起こしがちらほらと行われ、農耕用のトラクターが道路を走るのを見かける。町内にあるイセキの展示会が開催されており農家の方の車がたくさんとまっている。会場の紅白の幕が花見ではないがちょと春めいた空気を作っている。そんな中ブルーベリーの手入れは今が剪定のまっさい地中で農作業もなにかと気ぜわしい日々。

37日(金)イノシシが来たようでブルーベリー畑のそばの道を掘り起こしていた。すぐに土を固めて直した。来たのは久しぶりだったが大きな被害はなかった。

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ブルーベリー畑の水路の向こうののり面に広がるススキは今年の重たい雪のせいばたばたと倒れている

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ブルーベリーの剪定作業では株元からヒコバエを出そうとこぶから写真のように小指大の太さの根が舌のように伸びてその先きヒコバエを出す。これはよくないので切ってやる

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39日(日) 午後から農作業開始。気温も上がり剪定作業がはかどる

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310日(月) 春らしい穏やかな天気つづく。ブルーベリーの剪定を続ける

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311日(火) この日もいい天気。ブルーベリーの花芽も日に日に膨らむ

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小さいブルーベリーの木のある畑で肥料をまく。株元にはモグラの掘った空洞ができているのでかかとで踏み固めながらの作業となる

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大きな木の株元のヒコバエの除去作業では写真のような根がありその途中からひげ根を生やすのがブルーベリーの根の特徴。根の深さは浅い。

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312日(水) 小さい木の枝に葉芽から若々しい葉が出てきた

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地べたにの野の花の咲き具合も広がりを見せている。

①オオイヌノフグリ

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②ホトケノザ

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野の花はこれくらいで、花木も農園のウメの花はまだ咲かずツバキもまだ

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2025年3月14日 (金)

ふくもとまさお著「原発の町から普通の町に」

ドイツ在住の友人福本まさおさんから自著「原発の町から普通の町に」が送られてきました。本には「ドイツはなぜ、脱原発できたのか?」というサブタイトルがついています。

出版社は、東京のアケビ書房で今年3月1日が発行日となっています。

この本は、もともと電子書籍として出版されたものですので、本のあとがきは「紙の本出版に当たり」となっています。その中で福本さんは次のように記述しています。

「ドイツが脱原発できた要因を検証して、しっかり伝えていこう。そう思って、ホームページで連載した記事をまとめて出したのが電子書籍だった。フクシマ原発事故で脱原発を止めたドイツとか、倫理から原発を止めたドイツと、日本においてやたらにドイツの原発が美化されている。ドイツにいるぼくには、それに抵抗がある。ドイツはそれだけでは、脱原発は実現できなかった。

原子力発電をはじめると、原発はすぐに止めることのできるものではない。脱原発にも長いプロセスが必要となる。長い過程においては、いろいろなことが起こる。それに屈せずに、何が起ころうと脱原発を貫徹するには、ドイツの体験から見るといくつもの要因があった。

脱原発は、政治的、法的、経済的、社会的要因が揃わないと実現しない。長い脱原発のプロセスにおいて、社会は原発を必要としない社会へと変化していかなければならない。それは同時に、原発に依存せずに、社会を脱炭素化させていくプロセスである。」

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筆者は、ドイツで30年以上にわたって原発問題について取材してきた一つの集大成としてこの本をまとめています。

この本は、23のタイトルから成り立っています。「出版に当たって」にも書かれていることですが、その1は「ドイツはフクシマ原発事故で、脱原発を決めたわけではない」となっており、ドイツの脱原発政策が、フクシマ原発事故によって決められたことではなく、長い政治的プロセスの中で進んだことを2以降で詳細に記述しています。第2章では社会の変化を記述しています。

私がより興味を持ったのは「第3章これからの課題」です。3章のタイトルの最初の部分を並べてみます。

「12原発が止まれば脱原発を達成できたのか 13ドイツから見た日本の最終処分地選定への疑問 14日本でも脱原発はできる 15脱原発における独日の根本的な違い 16ドイツで原発が復活する可能性はあるか」

以下23まで続きますが「21」は「ドイツの脱原発から何を学ぶ?」です。

このタイトルを見ただけでもこの本への興味がわくはずです。さらにこの3章には、「ドイツの最終処分地選定の試み」「急激な原発拡大は自殺行為」の二つの読み応えのあるコラムが掲載されています。

日本とドイツの脱原発運動の現状をよく知っている福本さんならではの内容と言えます。

「脱原発には長いプロセスが求められる そのために必要なのは何か? 原発が止まっても、原発の遺産からは解放されない」

約100ページ余りの本ですので容易に読むことができますし、脱原発をめざすものにとってとっても興味深い内容となっていますので、ぜひ多くの人に読んで欲しいと思います。

定価は、1,320円で、Amazonで購入できます。

いのちとうとし

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2025年3月13日 (木)

久しぶりに縮景園に行きました。

梅の開花便りが報じられていますので、少し暖かくなった10日のお昼前、縮景園を訪れました。

夫婦とも65歳を超えていますので、入場料は無料です。

今回の入園では、二つも目的がありました。

もちろん一つは、開花が始まった梅林を見ることです。

表門を入ると左手の泉水亭の北側の通路を西に進みます。少し進むと足下に紫の小さな花が目に入ります。

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寒アヤメの名札がついています。寒アヤメの開花は、1月下旬から3月上旬ですので、最後の一輪のようです。

すぐ隣の椿では、鳥(名前は不明)が蜜をついばんでいました。

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最初の目的は、梅の花ですから、縮景園西側に広がる梅林に歩を進めます。カメラを構える人の姿が目に入ります。

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私も何枚か撮りました。梅林の南側入り口付近に「楊貴妃」の名札がついた木があります。その名にふさわしいきれいなピンク色の花を今を盛りと咲かせています。

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梅林の中程にある広島気象台の「うめ」の植物季節観測用標本木です。

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根元左下にその表示板が見えます。

梅林の北側には、紅梅が集まっていました。

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梅の花を眺めた後は、もう一つの目的の被爆樹木を見に行きます。

被爆樹木のことを特集したNHKの番組の中で、「ほぼ枯れ死状態だ」と言われていた被爆樹木が縮景園にありますので、まずその木を見に行きます。園内北西の塀際にあるムクノキです。

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数年前にもこの木を見に来ましたが、その時よりずっと弱っていて、私の目にも枯れてしまったなと映る残念な姿です。

もう一本の被爆樹木は、イチョウです。園の東側に進みます。こちらは、元気な姿を見せています。

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よく見ると根本付近から沢山のヒコバエが育っています。

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葉になる芽もふっくらと膨らんでいますので、今年も沢山の葉をつけ、元気な姿を見せてくれるはずです。

その後、ゆっくりと園内を巡りながら、最後にサクラの植物季節観測用標本木を見ましたが、つぼみは堅く、開花までにはまだ相当時間がかかりそうです。

この標本木を見終えて出口に向かうと目につくのが、大きく育ったミモザの木です。

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少し黄色くなっていますが、満開とまでは言えません。

余談ですが、38日の「国際女性デー」の日がなぜか「ミモザの日」になっています。その由来は、イタリアで、男性から女性に向けてミモザの花が贈られるようになったことからこの名がついたと伝えられているようです。

いろいろと楽しむことのできた久しぶりの縮景園訪問でした。

いのちとうとし

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2025年3月12日 (水)

3・11フクシマを忘れない さようなら原発ヒロシマ集会

14年目を迎えた3月11日、秋葉忠利さん、箕牧智之さん、森滝春子さん、山田延廣さん、岡田和樹さんの呼びかけで、今年も「3・11フクシマを忘れない さようなら原発ヒロシマ集会」が、午後6時から広島弁護士会館で開催されました。

集会は、大月純子さんの司会でスタートし、呼びかけ人を代表して山田延廣弁護士があいさつ。

最初に「福島からの訴え」が、鈴木薫さん(いわき放射能市民測定室たらちね理事長)から届いたビデオ・メッセージで紹介されました。

続いて、上関原発止めよう!広島ネットワーク・島根原発再稼働止めよう広島連絡会の溝田一成さんが、「島根原発は廃炉へ、上関中間貯蔵施設計画撤回へ」と訴えました。

いよいよ今年のメインとなる講演です。講師は、龍谷大学の大島堅一教授。タイトルは「原子力政策の無責任構造」でした。

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大島さんは、原発コストの問題について、図表を明示しながら、政府の説明がいかに欺瞞であるかを詳しく解説されました。政府が、「脱炭素」の名目で、将来性の全く見えない原子力発電に依存したエネルギー計画を立てたことへの問題点を鋭く指摘しました。

最後に、まとめとして「・第7次エネルギー基本計画は、原子力の『最大限利用』が方針化された。・原子力を推進するのは、衰退する原子力産業を救うためである。・原子力は建設コストが高く、建設期間が長いため、資金調達ができなくなっている。原子力維持のため、巨額の国民負担をともなう原子力補助政策が構築されている。・原子力ではなく、省エネ・再生可能エネ中心の新しいエネレギーシステムへの革新的移行が必要となっている」ことが強調されました。もう少し時間があればと思えた講演内容でした。

最後に實光由人(さねみつ・よしと)さんが集会アピールを提案し、全員の拍手で確認しました。最後に、呼びかけ人の一人である森滝春子さんが『核と人類は共存できないー広島から政府の原子力政策に対決していきましょう』と閉会のあいさつを行い今年の3・11集会は、終了しました。

集会の参加者は、130人、会場での福島支援カンパは4万883円集まりました。

アピールの一部を下記に掲載します。


3・11フクシマを忘れない!さようなら原発ヒロシマ集会 集会アピール 

 東京電力福島第1原発の大事故から14年、私たちは、再び原発事故を起こしてはならない。 原発被災地の一日も早い復興を願って「原発ゼロ」を訴えてきた。 今、被災地、福島からの避難者は公式には2万5千人だが、実際は4万5千人を超える人たちが避難生活を余儀なくされている。農業、漁業、産業の復興も道半ばだ。14年経った今も復興 の道筋は遠い。福島第1原発の廃炉も全く見通せない。燃料デブリの取り出しは0・7グラム、 耳かき1杯に過ぎない。除染土の処分も先が見えない。福島第一原発から出た汚染水も、漁業者 をはじめ私たちの声に耳を傾けることなく、海上放出し続け、新たな汚染を拡大している。福島 原発事故以降、福島の子どもたちに甲状腺がんが急増しているにも関わらず、福島県は原発由来ではないと主張しており、原発事故の被害が矮小化されている。ひとたび過酷な原発事故を起こせば取り返しが付かないことを改めて実感する。

(略)

中国電力は、地元住民の反対の声を無視して、2024年12月7日に島根原発2号機を再稼働し、1 月10日に営業運転を開始した。しかし、福島原発事故のような事故が起きたときの避難計画も明らかとなっておらず、即時停止を求める。さらに中国電力は島根原発3号機も稼働し ようとしている。島根原発の廃炉と原発に依存しない社会を実現しなければならない。

 政府は、福島の復興が足踏み状況の中で3年に一度見直される第7次の「エネルギー基本計画」を2月18日閣議決定した。これまで福島の事故を受けて「可能な限り原発の依存度を低減する」としてきたが、またも「最大限活用」と方針が変更されてしまった。(略)

 使用済み核燃料、いわゆる「核のゴミ」問題の解決も全く見通しが立っていない。政府はすでに破綻した核燃サイクルに依然として固執し、青森県六カ所村の再処理工場の完成を前提に「中間貯蔵施設」の建設を進めている。世界が放棄した核燃サイクル事業もきっぱりやめることである。

私たちは、中国電力に対し、上関原発の建設計画と中間「貯蔵」施設計画の白紙撤回を求め続けていかなければならない。

 (略)

 私たちは、福島第一原発事故を忘れず、福島復興はもちろん原発ゼロと再生可能エネルギーに依存し、地気球温暖化対策を推進し、持続可能な地球をもとめるために引き続き努力する。


集会参加者の意思として、後日「島根原発2号機即時停止、上関原発、中間貯蔵施設建設計画の撤回」を求める要請書を中国電力に提出します。

いのちとうとし

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2025年3月11日 (火)

三原の3月「19日行動」

春らしくなった3月8日(土)午後1時30分、三原駅前において15人が参加して定例「19日行動」を行いました。

スピーチを行った弁士からは、「ウクライナやパレスチナなど世界での戦争、破壊を生み出すもので何一つ建設的なものはない。なぜ日本はそのような戦争する道を歩もうとしているのか」。「今、国会で2025年度予算案が審議されているが、軍事費が過去最大の87000億円にのぼる軍備拡大を推し進められている。また、高額医療費の引き上げは国民の命を奪う暴挙である」などと石破政権の政策を批判。「私たちはがんこに平和、徹底して平和を求めてこれからも頑張っていきますので、私たちと手を携えて平和な社会をつくっていきましょう」と市民のみなさんに呼びかけました。

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弁士のM町在住の中西さんは、ニューヨーク国連本部で開催されている核兵器禁止条約第3回締約国会議について意見を述べました。▲「今回の内容は核兵器廃絶とともに核抑止力、このリスク・戦争を世界の人びとにどう訴えるのか。さらに核被害に対する保障や核被害による環境破壊をどうするのか具体的に話されている。会場では広島の胎内被爆者濱住治郎さんが『原爆は本人の未来を奪い、家族も苦しめる悪魔の兵器です。被爆による悲劇を繰り返してはなりません』と訴えられた。また、広島県選出の参議院議員立憲民主党の森本真治さんも発言された。今、世界が非常に不安定な社会で核兵器が使用される可能性がある時だけに今回の締約国会議でどういう見解を出すのか、世界の人びとにとって大きな希望になるのでぜひ成功に終わってほしい」。▲「日本政府の態度。被爆者や日本の多くの人が望まれていた。三原市議会においても昨年12月に日本政府は締約国会議にオブザーバー参加すべきだと意見書を採択したが、政府はそうしたことを無視して今回も会議に参加しなかった。のみならず、8兆円もの予算をつぎ込んで沖縄南西諸島へ敵基地攻撃ができる基地をつくるなど益々、東アジアで緊張を作り出そうとしている。日本は日米同盟の強化やアメリカの核抑止力に依存するのではなく、アジアと平和の安定のための外交を行うべきだ。今年は被爆80年です。被爆者の体験を受け継ぐとともになんとか核の抑止力を乗り越えて、平和な世界をつくることの声をみなさんとともに上げていきましょう」と訴えました。 

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終わりに、戦争をさせない三原市民行動の藤本講治が改憲問題について「自民党は結党70年を迎えて、党是である憲法改正について、憲法改正実現本部で結党70年となる今年、国会の憲法審査会での議論などを通じて、改正に向けた機運を高めたいという考えを強調するとともに、「憲政史上初の大事業である国民投票による憲法改正の早期実現をめざす」と明日(9日)に開催される自民党大会の2025年度運動方針に明記しています。こうした情勢を踏まえて私たちは戦争、軍備拡大、憲法改悪の流れにストップをかけるため、これからも声をあげていきます」と述べて行動を終了しました。

藤本講治

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2025年3月10日 (月)

あの日がやってくる!

14年目の「3・11」がやってきます。「3・11」と言っても、最近解らない人が多くなったとも聞きます。

あの日は金曜日で、広島市はとても良い天気で、地震が発生した時刻の午後2時46分は職場の休憩室でテレビを観ながら同僚と雑談をしていました。

この週初めの日曜日に京都で反原発新聞の会議があり、そのまま茨城県東海村で知人に会い、福島県に向かう予定の旅行を計画していましたが、しかし東京で政府交渉を行うという連絡があり、東海村を終えて東京経由で帰広しました。広島に着いたのは、3月9日の水曜日だったと記憶しています。水戸駅からの常磐線に乗り、電車が走りだすと同時に、右側の車窓に偕楽園の梅林が見えたのは鮮明に覚えています。計画通り福島に行ってたら、どういう経験をしたのかは分かりません。

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あれから14年、ルポライターの鎌田慧さんが、さようなら原発1000万人ニュースの第37号に、『まるでほとぼりが冷めるの待っていたかのように、というべきか、それとも臆面もなく、というべきか。政府は昨年末にまとめた新しい「エネルギー基本計画」の原案で、最大限活用」に転換した』と書いておられました。

3・11後、民主党政権から自民党安倍晋三政権に変わった後のエネルギー基本計画でも「可能な限り原発依存度を低減する」と書き、第4次までフクシマの反省の上に立った計画となっていました。この度の「最大限」への大転換は、まさに究極の裏切りとしか言えません。

こんなことでは、子どもたちへの(しつけ)も教育もできません

計画では新規原発の建設費用を7203億円としていますが、近年海外で建設されている費用は数兆円とされています。島根原発の安全対策費は現時点でも1兆円を超えると言われます。発電コストについても、追加安全対策費、核燃料サイクル費用、事故リスク対応費を入れると1キロワットアワーあたり24円程度になるという数字を、原子力市民委員会の大島堅一さんは指摘しています。

再生可能エネルギーによる発電コストは、1キロワットアワー当たりの単価で事業用の太陽光で8.17円、陸上風力で12,73円という数字も出されています。

14年目を迎え、避難地域の一部解除が報じられますが、原子力資料情報室通信に「2022年秋の航空機モニタリングに基づく、現在・将来のセシウム137汚染マップと面積」というのが掲載されていました。このマップによると、198年後の2222年に、セシウム137の4万~50万ベクレルの地域が2平方㌔㍍残されていました。

今後198年間、事故が起きなければ、その時は「終息」と言えるかもしれませんが、そういうことはあり得ないことだと思っています。

原発回帰は福島原発事故の再来を招く、最も危険な選択といえます。14年目のあの日を迎え、こんなことを考えていました。

木原省治

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2025年3月 9日 (日)

「放射能とともに歩む」-平和記念資料館ボランティアスタッフ研修会

原爆資料館が主催する「広島平和記念資料館ボランティアスタッフ研修会」が、7日の午後1時45分から原爆資料館地下ホールで開催されました。

講師は、明星大学教授の竹峰誠一郎さんです。竹峰さんの話しは、何度か聞いたことがありますが、タイトルの「放射能とともに歩む マーシャル諸島 折り重なる気候危機」に惹かれて、私も参加しました。

竹峰さんは、マーシャル諸島の被爆問題に関しては第一人者といってもよい人で、今回の講演もいろいろと学ぶことのできる内容でした。

竹峰さんは、初めにで、次の四つの問題提起をされました。


・2025年とは?被爆80年であるが、それだけの視点で良いのか。

・広島・長崎の原爆を語るとき「人類初」「最後」「唯一」←それでいいのか

・核兵器は「安全保障」、外交問題だけ・・・?あるいは「歴史」の問題だけ?

現代そして未来の問題、地球環境問題とどう繋がっているのか?

・広島から発する、核兵器問題とは?

 原爆投下とともに、核の危機として、戦争で核兵器が使われること、その可能性が高まっていることへの警鐘だけでいいのか?

→マーシャル諸島をはじめ世界各地の核被害者に想像力の射程を広げて展開していきます。

この4つの問題提起を見れば、竹峰さんの今の広島の反核運動をどう見ているのかが見えてくる講演だったことが分かると思います。

そのさわりを紹介します。

「最初の犠牲者だというのは誤りだ」―広島、長崎の原爆投下前

・先住民の土地を収奪して建設された米ニューメキシコ州ロスアラモス研究所

・広島原爆の原料 ウランはどこからやってきた?

・長崎原爆の原料 プルトニウムはどこからやってきたのか?

・1945年7月16日 核爆発実験 トリニティー

 →ニューメキシコ州 先住民族 環境正義を求める活動。終わりのない除染作業

「長崎を最後の被爆地に」というが?

1946年7月マーシャル諸島での核爆発実験開始 今も続く核汚染

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気づかれたかと思いますが、竹峰さんは、「核実験」を「核爆発実験」と表現することで、核被害が続いていることを認識しなければならないことを教えていることです。今回の講座は、主に碑めぐりなどを行っているボランティアスタッフが対象となっていますが、この竹峰さんの「ブローバルヒバクシャ」「人類みなヒバクシャ」という提起をどう受け止めたか、興味あります。

講演の中で私がもっとも興味深く聞いたのは「1975年フィジーで開催された非核太平洋会議」の話です。森滝市郎先生は、この「非核太平洋会議」に参加され、オーストラリアの先住民アボリジニーの女性との出会いが、その発言を聞いて「核と人類は共存できない」の理念を決定づけ、その年の被爆30周年原水禁大会で打ち出されたのです。

竹峰さんは、この「非核太平洋会議」が「非核独立太平洋運動」へと発展したことを指摘されました。私も「核問題」の講演では、必ずといってよいほど、この1975年の「非核太平洋会議」について触れてきましたが、もう少し「非核独立」という視点に広げなければということを教えられました。

「被爆80年」と簡単に使っていますが、広島、長崎の原爆投下は「点」であるととらえるのではなく、その後の核拡散=核兵器拡散が、核被害の拡散でもあったという問題に意識的に向き合うことが大切だと強く感じました。

核問題、とりわけ核被害の問題にどう向き合わなければならないのかを学ぶことの大切さを教えられた竹峰さんの講演でした。

いのちとうとし

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2025年3月 8日 (土)

2025年3月のブルーベリー農園その1

3月に入って雨の日が続いたので東広島市豊栄町のブルーベリー農園に安芸区の自宅から通うことができない日がつづいた。間をおいて農園に3月6日に行って農園のブルーベリーや地べたの野草、花木などを見て回った。その変化を確認しながら初春の空気を感じながら農作業を再開した。

2月25日(火) 八重咲のツバキの蕾は

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36日(木) には開花。木全体ではこの花ひとつだけ春を誇示

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36日(木) ブルーベリー畑でいつも咲いてくれるスイセンの場所を見に行くと葉がたくさん地べたから顔を出している

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別の場所では1本だけ蕾がのぞく

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野の花も、もこもこと5mmほどの白い花がさきだした(名前知らず)

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里山の杉林とブルーベリー園の間の空間に昨秋アジサイを植えた場所の巡回で

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植えたアジサイは小さいが葉芽が確実に出てきた。初夏どこまで伸びるか?

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ブルーベリーの木の中には、ひときわぷくっと膨らんだブルーベリーの花芽もある

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ウメの蕾はまだ開かない

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3月のこれからの農作業は

①里山の灌木の伐採(写真は228日に切った場所)

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②今は3段あるブルーベリー畑の2段目の剪定作業中で8列中3列がすんでだところ。長雨でしばらく中断していた(写真は31日)

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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