「旧呉海軍工廠砲熕部火工場機械室」見学―つづき
昨日のつづきです。
旧呉海軍工廠砲熕部火工場の航空写真です。
1947年に米軍が撮影したものです。呉海軍工廠砲熕部火工場は、空襲の被害を受けなかったようで、戦前のままの建物が残っています。この写真のどの建物かは分かりませんが、多くの建物の中で、「旧呉海軍工廠砲熕部火工場機械室」だけが現存していることになります。
ところで、ここを訪れたとき、同窓生から渡された資料があります。
1979年12月発行の「文化評論」に掲載された「秘録原子爆弾ー三十四年目の証言―」のコピーです。前文に次のように書かれています。「1945年8月6日朝、広島に投下された一発の『新型爆弾』―。“これは原子爆弾だ”と喝破した一技術将校とこれを掘り起こした科学者の証言」。二人の対談が掲載されていますが、そのうちの一人が、広島に原爆が投下された当時、呉海軍工廠砲熕部火工部長だった三井再男さんです。三井さんは当時大佐、この呉海軍工廠砲熕部火工場から広島に立ち上るキノコ雲の一部に赤い炎色反応が出ているのに気づき「これは原子爆弾だ」と直感した人です。その時のことが書かれているのがこの資料です。詳しく書くことはできませんが、当時三井さんがこの地から見たと思われる原子雲の写真です。撮影場所は、呉海軍工廠砲熕部火工場の敷地内です。
「原子爆弾だ」と直感した三井大佐は、その日のうちに呉鎮守府の5人の技師からなる調査団を派遣し、自らは翌日隊長として広島に入ります。興味ある内容なので少し長くなりましたが紹介しました。
「旧呉海軍工廠砲熕部火工場機械室」がある地名を、昨日「呉市若葉町」と書きました。ここに海軍施設が建設されたころは「吉浦村池濱」と呼ばれていましたので、当時は呉市ではありませんでした。吉浦が、呉市に合併したのは,1928年(昭和3年)ですが、現在「若葉町」と呼ばれている地域は、吉浦地区といってよいのです。
なぜこの地名にこだわるかといえば、次に訪れたのが、呉市吉浦町狩留家にある吉浦中学校だからです。
ここは戦時中、女子動員学徒の宿舎があり,学生達はここに宿泊しながら「呉海軍工廠砲熕部火工場」に隊列をつくり通っていたのです。距離はおおよそ3kmです。
現在、吉浦中学校の校門を入って左手奥に「呉海軍工廠女子動員学徒寄宿舎跡」の石碑が建っています。
「平成七年十二月八日」の日付が刻まれています。
下部にはめ込まれ銅板は、少し読み難くなっていますが、次のような碑文が刻まれています。
「この地は、昭和19年6月から昭和20年8月終戰まで、広島・島根・愛媛三県の女学生(現在の中学二年三年高校一年生)約四千人が学業半ばにして,呉海軍工廠に動員された際の寄宿舎跡である。私達女学生は、学徒勤労令の下,何の疑心も抱かず困苦に耐え真摯な努力を傾けた。このことは教育の及ぼす影響が大なることを痛感させる。 よって平和教育の一助となることを願い、ここの記念碑を建立する。」
その左側に「寄宿舎から出勤の風景」と昨日紹介した「防空壕での作業風景」の2枚の写真が刻まれています。両方とも銅板が傷み見にくくなっていますので、ここでは呉市発行「呉の歩み」に掲載された「呉工廠狩留家宿舎朝礼」の写真を使います。
写真は、「昭和19年秋」となっています。
さらにその左隣には、協力校の名前が刻まれています。この寄宿舎で寝泊まりしていた女学校名だと思われます。島根は、「津和野、浜田、益田、益田家政」の4校の名前が刻まれています。ここの宿泊していた女学生は、終戦直後、ここから帰郷する途中で広島駅を通過したため、入市被爆することになったのです。
同窓生のお陰で、島根から学徒動員された生徒の足跡の一部を訪ねることができました。
いのちとうとし
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