「広島ブログ」

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2025年7月10日 (木)

変わるか、消えるか?!

「変わるか」「消えるか」この言葉、中国電力で働いている人に読まれている広報紙にあった言葉です。今の役員たちの「ノホホン」とした体質が続くと、消えてしまう可能性が大だと思うのです。

6月26日の株主総会前日の株価終値は、681円でした。20年以上前から、株主として中電を見続けてきました。思い出したくもないのですが、初めて中電株を買ったときの値段は、2000円を超えていたと記憶しています。 

当時友人から「中電株を持ちたいが、いくらぐらいになれば買い時だろうか」と訊ねられたことがあります。「まあ、1500円よりは下がることはないだろうから、それぐらいで買えば損はないと思うよ」と答えたのを思い出します。

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「小さく産んで大きく育てる」とか「谷深ければ、山高し」という言葉、素人が株を始める時の鉄則だと思っています。株価に「一喜一憂」しないことも大切だとは思いますが、ここまで下がると、この会社の無責任体質というか考える尺度を持たない感覚に疑問を持たざるを得ません。

中国電力など旧電力会社の株価は、「3・11」によって下がり始めました。あの日は金曜日でした。14時46分に地震発生、残り14分で株式市場は閉まりますが、この短い時間に東京電力の株は下がり始め、時間切れで取り引きは終わりました。

土日を挟んで月曜日、この週は、まさにジェットコースターの急降下という勢いで東電の株価は下がり始め、当然ですが、電力株の下がり傾向は他の電力会社にも波及しました。その結末が今の状況に通じていると思っています。

小さな島国で、且つ世界中でもっとも地震多発列島であるこの国に、原発を作り続けた政治や電力会社の責任は許されるものではありません。当然問われるものであると思いますが、最近の裁判では、その責任すら否定しているのはご存知と思います。

3・11の反省から、脱原発の声は大きくなりました。本音は別にしても自民党でさえ脱原発を言い出していていました。あの時、本気になって原発ゼロ政策を進め、再生可能エネルギーの推進をしていたら、福島原発事故の責任はしっかり問うことにしても、電力株の今の状態はなかったのではと思うのです。

株価の低迷とともに、株式配当も少なくなり、来年はもっと下がるということです。何よりも腹が立つのは配当に回す金を、2030年の運転開始を目標とする、島根原発3号機の設備投資に使うというのです。

これだけの事態になっても、莫大なお金を使って島根原発2号機の再稼働を進め、また3号機も稼働させたいと言い、上関原発もやるというのです。

計画発生から40年以上が経過しても、「必要だ」と言い続ける上関原発の計画、中電すら本気度がないにも関わらず、地元住民に謝罪すらしない。原発推進の人にも反対の人にも謝罪することを求めたいのです。

707億円を超える課徴金を支払わされたカルテル事件、顧客情報の漏洩事件、度重なる不祥事にも関わらず「ノホホン」としている幹部たちの姿。今、中電株の買い時を訊ねられたら、2000円を超えた時と伝えようかな。あり得ない話ではありますが、その時は僕がすぐに売ります。

これからも地域に必要とされ続けるために、中電は変わるしか道はない。凝り固まった考えも、見えない組織の壁も取り払い、今までの中国電力から、“はみ出す”勇気を持とうと言いたいです。

中国電力はもっと変わろう!今年の株主総会、2時間32分という時間が掛かりましたが、大きなヤジが飛びかうこともなく、参加株主からの発言も、中電の今の状態を憂う声がたくさん出ました。株主は感覚的に「変わるか」「消えるか」の節目を感じたのではないでしょうか。   

木原省治

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2025年7月 9日 (水)

「ヒロシマ平和絵画展」

旧日銀広島支店で13日までの日程で「ヒロシマ平和絵画展」が開催されています。

知人の藤登弘郎さんから案内のはがきが届いていましたので、昨日観に行ってきました。

最初の掲示された「ごあいさつ」には、次のように書かれています。

「被爆80年を機に、本展の趣旨に賛同する広島在住のプロとアマチュアの作家が“ヒロシマ”をテーマにした作品を持ち寄り、絵画展を開催します。本展覧会を通して平和と核廃絶の思いを共有し、さらに創作活動を高めあい“ヒロシマの心”を未来に繋げていきたいと思います。」

会場に入ると今年89歳になられた藤登さんが元気な姿で受付をされていました。少しだけあいさつを交わして、すぐに作品を見ます。

会場には、画家15人の作品23点が並んでいます。

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最初の展示は、陸軍被服支廠の半開きになった鉄の扉が題材となっています。題材として一番多いのは、原爆ドームです。

藤登さんは、3枚の水彩画を出展されています。3枚とも原爆ドームが題材となっています。タイトルは「ユネスコ世界遺産原爆ドーム」です。

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説明文には「1996年、原爆ドームが核兵器の脅威を物語る証人、平和のシンボルとしてユネスコ世界遺産に登録された。核兵器廃絶を世界に訴える広島の声が国際社会に届いたものと考えている。原爆ドームは無言であるが、生き証人としていつまでも立ちつづけていくよう願っている。」

もう一人の知人、西村不可止さんは、「平和・希望」のタイトルで、紅いカンナの花を描いた作品を出展しています。

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説明文には次のように書かれています。

「被爆40日後には咲いていたという真っ赤なカンナ。焦土に咲くこの花を見て、被爆者は復興に向けてどんなに希望を見いだせただろう。」

野尻純三さんの「核兵器禁止条約」をテーマにした2点の作品には、興味を引かれました。一点のタイトルは「被爆電車 核兵器禁止条約締結行」です。よく見ると、原爆ドームの横を走る電車のヘッドに表示された行き先は「核兵器禁止条約」となっていますし、ボディには「日本」という文字も描かれています。

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日本政府に「すぐに核兵器禁止条約に締結せよ」との思いが込められています。

この展覧会は、5年ぶりの開催です。

絵を通して平和を考えるのも、平和創造の一つの道だと思います。

暑い日が続いていますが、ぜひ会場に行ってほしいと思います。

いのちとうとし

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2025年7月 8日 (火)

2025年7月のブルーベリー農園その1

6月末に梅雨が明けてとても暑い毎日がつづいている。東広島市豊栄町のブルーベリー農園も毎日30度以上の暑さなので体調管理が慎重になる。農作業の時間を短くする。キンキンに冷やした保冷剤を首に巻いて作業する。昼寝をして一番熱い時間を避けるなどなどして農作業を続けている。でも生き物はブルーベリーも含めてとても元気。ブルーベリー畑の草刈りがすんで一山超えたので早生のブルーベリーの摘み取りと安芸の郷への納品を続けている。

71日(水) ブルーベリー畑の中は草が茂っているので草を刈る作業が続いている

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73日(木) 午後軒先で一休みしていると花壇のグラジオラスの花穂にトンボ(名前知らず)がとまっているのでデジカメを望遠にして撮影

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ブルーベリー畑のブッシュの中にジョロウグモらしき蜘蛛が元気に巣をかけている

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74日(金) ブルーベリー畑ののり面に居ついて大きくなったネムノキに花がたくさん咲いた

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友人2人がブルーベリーの摘み取りで援農。午後の休憩で取れたてのブルーベリージュースを頂く

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首に巻く保冷剤は使った後によく乾燥させてから冷凍庫に入れる。摘み取ったブルーベリーを安芸の郷の事業所さくらに納品した。10キロを超えていた

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76日(日) 早生のブルーベリーを栽培しているエリアは防鳥ネットを設置しているので草を刈る下ごしらえでネットの裾をあげてから草刈り機を使う

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別のブルーベリー畑で草刈りが終わったので防草シートを敷く作業を始める

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里山東側のブルーベリー園の草刈りは今年初めてのエリア。笹が多い

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昨日は蕾だったヤブカンゾウが今日は開花

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里道沿いに植えているヒマワリがコスモスに続いて開花

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2025年7月 7日 (月)

ウリ民族フォーラム2025INヒロシマ

昨日、午後1時から広島国際会議場で、在日朝鮮青年商工会主催の「부흥(プフン)-チャレンジ! ヒロキョレ」をテーマとした「ウリ民族フォーラム2025INヒロシマ」が開催されました。ちなみに「부흥(プフン)」とは「復興」という意味です。

広島での開催は、24年ぶりということで、地元広島青年商工会を中心に、現地実行委員会が結成され、一年間かけて先輩の話しを聞き、碑めぐりをし、研究会を実施し、演舞や歌、劇の稽古を繰り返しながら準備が進められ、その成果が披露されました。

地元はもとより全国の青商会のメンバーが参加し、会場一般となり盛り上がった集会となりました。

日朝友好広島県民の会も出来るだけ多く参加しようと申し合わせ、取り組みを進めてきました。

集会の第1部は「復興<広島同胞社会-受け継ぐ歴史と・切り開く未来->で、被爆80年、そして民族解放80年の歴史を振り返る内容です。

最初は、在日朝鮮人にとって被爆80年は何を意味するのか、なぜ多くの朝鮮人が被爆しなければならなかったのか、被爆者の体験をもとに、舞踊、歌、映像で表現します。

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民族解放の歴史は、1955年5月25日に結成された在日朝鮮人総連合会、それに呼応して広島県本部も結成されました。しかし、民族教育への着手は、それよりも早い1946年から。その後の強制解散命令による朝鮮学校の閉鎖。しかし、それを乗り越えて続けられた民族教育の歴史が回想されました。そしてそれは、同時に差別との闘いでもあったのです。

その困難な道を乗り越えてきた在日朝鮮人の人たちの歩みを改めて知ることが出来ました。それは同時、この集会開催に向けて取り組んだ若い人たちが、先人の歴史を知ることにつながる活動となったことが報告されました。

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第2部は、「富興<民族教育100年に向けて>と題して、広島・中国四国民族教育100年に向け手、朝鮮学園の子どもたちのステージとパネルディスカッションが行なわれました。

来年創立80周年を迎える朝鮮学園が置かれている状況、特に入園する子どもの減少などの問題点を率直に語りながら、民族教育、そして在日朝鮮人のよりどころとしての朝鮮学園を100周年に向けてどう改善するのか、が討論されました。

第1部から、共通することですが、在日朝鮮人の人たちにとって朝鮮学園、民族教育がいかに大切なものか、そしてみんなの力で存在し続けさせなければならないとの思いが、強くつよく伝わってきました。

フィナーレは、活力ある新時代!と題し、「オール広島」で、歌、踊り、楽器演奏、太鼓演奏、集団演舞で活力あるパフォーマンスが繰り広げられました。

熱い思いが伝わる「ウリ民族フォーラム」でした。

いのちとうとし

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2025年7月 6日 (日)

「核も戦争もない世界へー被爆80周年のヒロシマから訴えるー集会」」成功裏に終了

広島県原爆被害者団体協議会(以下「県被団協」)と原水爆禁止広島県協議会(以下「県原水禁」)が共催し県内4カ所で開催した「核も戦争もない世界へー被爆80周年のヒロシマから訴えるー集会」は、昨日の三原会場を最後に、成功裏に終了しました。

県被団協と県原水禁の2団体は、これまでもつよいきずなで行動を共にしてきましたが、私が知る限りでは、共催して集会を開催したのは、これが初めてだと思います。

広島市での集会ではなく、各地域で開催することで、その地域の被爆者の皆さんとの連携を強化しようという目的も達成することが出来ました。

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最後の三原会場

 各地の被団協、そして地区労センターなどの積極的な取り組みによって、会場いっぱいとなる参加者を得ることが出来ました。特に、各会場とも地元の被団協から予想を上回る参加があったことに感謝の気持ちでいっぱいです。

被爆者の証言は、福山会場は平逸男さん、三次会場は岡本忠さん、廿日市会場は畑口實さん、昨日の三原会場は中岡穂子(ひでこ)さんに、それぞれの被爆体験(親の体験も含め)を語っていただきました。

平逸男さんの証言については、623日付中国新聞「ヒロシマドキュメント被爆80年」で「継承に危機感 証言紡ぐ」と題して取上げられました。

中岡穂子さんは、一週間前に96歳になられたばかりですが、80年前を思い起こし、明瞭の証言をしていただきました。証言の最後に繰り返し「戦争がなければ核兵器が使われることはない、戦争をさせてはならない」と訴えられたことが強く印象に残りました。

一つとして同じ話のない被爆体験は、参加者一人一人の胸に残ったと思います。みなさんありがとうございました。

高校生平和大使の活動報告は、福山と廿日市会場が甲斐なつきさん、三次会場が沖本晃朔さん、三原会場が佃和佳奈さんが行なってくれました。「微力だけど無力じゃない!」を合い言葉に、この一年間繰り広げた活動、一万人署名活動やジュネーブの国連欧州本部訪問を中心にした活動内容とともに、その活動を通じて得た思いや学んだことが報告されました。

集会の最後は、各会場とも私が「被爆80年 原水禁運動の歴史と私たちの課題」と題して、第1回原水禁世界大会以降の運動の歴史を振り返りながら核兵器をめぐる情勢に触れ、「核兵器廃絶運動の強化」や「世界のヒバクシャとの連帯」の運動課題について問題提起しました。

特に強調したことは、「国の戦争責任を問い続けること」「原爆投下責任を明確にすること」が大切なことを改めて確認し、第1回原水禁世界大会の宣言で約束した「原水爆が禁止されてこそ、真に被害者を救うことが出来ます」を実現させるため「被爆80年を機にヒロシマから声をあげよう」と呼びかけました。

この集会成功の力を、非核平和行進、そして8月4日~5日に開催される「被爆80周年原水爆禁止世界大会広島大会」に結びつけたいと思います。

いのちとうとし

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2025年7月 5日 (土)

ヒロシマとベトナム(その71) ―「昭和100年」と父― その3

6月26日付けの『読売新聞』に「『戦時版よみうり』全容確認」の見出しとともに、「『のらくろ』幻の連載も」という記事が掲載されていました。『戦時よみうり』は、本土防衛と戦争継続に必要不可欠とする領土・地点である「絶対防衛圏」が破綻し、本土決戦の準備が始まった1944年3月から翌年3月までの間、戦意高揚を担い総動員体制下で働く勤労者向けに発行された全4頁タブロイド判の新聞です。

人気の少年誌『少年倶楽部』(講談社)に「のらくろ」の連載が始まったのは、関東軍が中国軍の仕業に見せかけ満州で巨大な勢力を持つ軍閥・張作霖を爆殺し、満州での日本の勢力拡大を狙って起こした1928(昭和3)年の張作霖爆殺から3年後、満州事変の引き金となった柳条湖事件(これまた関東軍による謀略)が起きた1931(昭和6)年です。

天涯孤独の野良犬(のらくろ(・・・・))が軍隊に入り、ヘマを繰り返しながらも手柄を立てて出世します。1941(昭和16)年10月号で大尉に出世した「のらくろ」は除隊し、大陸の鉱山掘りの仕事に就くところで連載が終わります。10年に及ぶ連載で「のらくろ」ブームが起き、『少年倶楽部』は「昭和11年には75万部に達し、日本最大の児童雑誌になる」(日本近代文学大事典)に至ったそうです。

ズッコケな「のらくろ」の軍隊生活も、盧溝橋事件による全面的な日中戦争に入る1937年頃から「現実の戦争がトレース」され、「戦意高揚漫画とレッテルされても仕方ない」(映画プロデューサー、西村崇)漫画として、他の戦意高揚プロパガンダととともに「軍国少年」「軍国少女」を作り出す役割を果たしました。

かつて少年たちの人気を博した「のらくろ」が復活したのは、1944(昭和19)年という一段と厳しくなった戦局のもとで創刊された『戦時よみうり』の4コマ漫画でした。

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出典:読売新聞 2025年6月26日

上左の4コマは『戦時よみうり』の創刊号に掲載された1回目、上中は最終回前、上右は最終回の「のらくろ」です。1回目の文字は鮮明でなく、読み辛いかもしれませんので紹介します。除隊後に「死に物狂いで満州の自分の山もすっかり掘りつくし」、「久しぶりに帰って見る故郷の風物は決戦に張切ってゐる」、「ことに産業戦士の血のにじむ努力」、「今こそ のらくろの真価を見てもらふ時が來た、ヨウシ ヤルゾッ」

そして、1年後、「貯蓄戦線」の「社会見学」帰りを待ち受けていた「召集令状」で「のらくろ」の掲載は終わっています。

『少年倶楽部』に「のらくろ」が連載されたのは父が3歳から13歳までの10年間です。おそらく父も読んでいると思いますが、近々父の施設に行く予定があるので聞いてみたいと思います。『戦時よみうり』が発行されたのは予科練を志願する16歳でしたが、これは手にすることはなかったと思います。

戦意高揚と「軍国少年」「軍国少女」を作り出すためのポスター(出典:「プロパガンダ・ポスターにみる日本の戦争)

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「みんなが受けたんじゃけぇ」と予科練を「志願」し、飛行訓練もままならない戦況下で、「特攻に志願するもの一歩前」の号令に、自ら「百死零生」の特攻攻撃を「志願」した父。月1回の通院で会うと、「一つ上の者はようけぇ死んだ。97になって生き残っとる。不思議なことじゃ・・・」と繰り返す。

次号から、その特攻攻撃についてみてゆきたいと思います。

(2025年7月5日、あかたつ)

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2025年7月 4日 (金)

被爆者清水弘士さんの訃報

被爆者清水弘士さんが、一昨日午前10時頃亡くなられました。

私は、昨日午前11時頃、遺体が安置された本願寺広島別院の西隣にあるびはーら葬儀社に行き、お別れをしてきました。読経による葬儀は行われず、親族や身近な人たちが集まり、それぞれが清水さんとの思い出を語りながらのお別れでした。

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広テレの映像から

1942年6月生まれの清水さんは、3歳の時爆心地から1.6kmの吉島町の自宅でお母さんとともに被爆。倒壊した家の下敷きになりましたが、お母さんの必死の努力によって、生きのびることが出来たそうです。お父さんは被爆の影響で10月8日に亡くなられました。

そんな家族環境ですから、清水さんは、特に被爆者の「空白の10年」について究明し語り継ぐことを課題としてこられました。

また、同じ被爆者である切明千枝子さんの被爆体験をまとめる活動を続けてこられ、冊子「切明千枝子 ヒロシマに生き抜いて」3冊の発行に尽力されました。

清水さんが県被団協の役員になられて以来、特に親しくしてきました。

昨年の原水禁大会では、直前になって無理にお願いをして分科会での被爆証言を行っていただきました。ありがとうございました。

二月ほど前、紙屋町方面でばったり出会ったのが、お会いした最後になりました。その時は、お元気な姿だったのですが、パートナーの話によると、その後急速に体調を崩され、帰らぬ人となられてしまいました。

清水さんは、今年10月に開かれる「世界核被害者フォーラム」で、証言を行うことになっていましたが、それもかなわぬこととなりました。

被爆80年、訴え続けてきた核兵器の廃絶の実現を見ることなく、また大切な被爆者のお一人とのお別れになりました。

思いを引き継ぎ、がんばらなければと誓ったお別れでした。

いのちとうとし

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2025年7月 3日 (木)

第44回反核平和の火リレーがスタート

1982年に始まって今年で44回目となる「反核平和の火リレー」の出発式が、昨日午前7時55分から平和公園・原爆慰霊碑前で行われました。

出発式は、「反核平和の火リレー」の主催者である広島県青年女性平和友好祭実行委員会の笠松丈人事務局長の司会で始まり、献花、原爆犠牲者への黙祷、そして坂井心哉自治労県本部青年部長の手で「平和の灯」からの採火が行なわれ、原爆慰霊碑前で待つ実行委員長で第1奏者の辻大輝さんの持つトートに点火されました。

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その後、激励のあいさつ。広島県原爆被害者団体協議会からは熊田哲治事務局長、広島県平和運動センターからは高橋克浩議長、広島県原水禁は私が、あいさつを行い、社民党広島県本部福山権二事務局長、新社会党広島県本部三木郁子委員長が紹介されました。

さらに、松井一實広島市長からのメッセージが紹介されました。

激励のあいさつが終わると、いよいよ反核平和の火リレーの出発です。

第一走者の一人、辻大輝実行委員長が、「広島の青年女性が『語り継ごう、走り継ごう、ヒロシマのこころを』のスローガンをもとに、被爆体験や反核平和運動の継承者として、被爆の実相、ヒロシマのこころを大切に、県内を走り継ぎます」と決意を表明。

そして、80年前の原爆投下時間と同じ8時15分に、坂井心哉自治労県本部青年部長など6名のランナーとともに、参加者の大きな拍手に見送られて原爆慰霊碑前をスタートしました。

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今年は、今月22日までの土日祝日を除く14日間、県内23全市町548区間602.2キロを走り継ぐことになっています。通過する各自治体では、「被爆者援護法を国会補償法に改正させる」ことや「日本政府に核兵器禁止条約を批准させる」ことなどを求めての働きを強めることを求める要請を行うことにしています。

昨年は、豪雨被害などにより区間を451に、距離を484.3キロに短縮せざるを得ませんでしたが、今年は、ぜひ完走してほしいと思います。

また連日30度を超える暑さが続いていますので、体調に気をつけた走り継ぎ、22日の夕刻に無事到着式が迎えられるよう祈っています。

出発式が終わり、帰途につくとき資料館の地球平和監視時計を見ると、広島への原爆投下からに日数は「29185」になっていました。

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「平和の灯」は、核兵器が廃絶されたとき消されることになっていますが、その日を迎えたとき、この日数は何日になっているだろうかと、と思いつつ平和公園を後にしました。

いのちとうとし

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2025年7月 2日 (水)

「あー」

「島根方言集成」で最初に登場することばは「あー」です。意味、わかりますか。

出雲弁がよくわかっていると思っていた、私にもすぐには、意味が思い浮かびません。

「島根方言集成」には次のように書かれています。

あー ①ある。②会う。出雲」

確かに、と納得です。私が使っていたのはこんなふうです。

「そこにあーがね」とは、「そこにあるよ」という意味で、よく言っていたように思います。「あーに行くけんね」とも言っていました。これは②の「会いに行くから」と言うことを伝えるために使っていたことばです。

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「島根方言集成」を手にする川上正夫君(山陰中央新報より)

 川上君は、2007年頃から「土地ごとに、消えることなく生きてきた言葉がある。方言は『暮らしの言葉、言葉の民衆芸術』と、方言が失われない」ことを願って準備を進めてきたそうです。

私が、「出雲蕎麦ふなつ」で、この本を紹介されたとき、一番に引いたことばは「はしま」です。

小学生だったころのわが家は、農家が15軒ほどが集まる集落(周囲は全て田んぼ)の離れ家を間借りして住んでいました。農繁期と言われる田植えの頃、秋の米の取り入れの頃には、友達と一緒に手伝いというか農作業中に近くで遊んでいて、「はしま」を一緒に食べさせていただいたことを思い出します。

午後の農作業では、午後3時頃になると短い時間ですが、持参した大きなヤカンの番茶?を飲みながら、重箱いっぱいに入ったむすびや漬物や簡単な煮染めなど食べ、雑談をして休憩をします。

その時休憩しながら食べること「はしま」と呼んでいました。麦ご飯を食べていた私には、白米のむすびが食べられることは、忘れることのできない思い出です。

ですから、「はしま」ということばが載っているか、気になったのです。もちろんありました。次のように説明されています。

「昼食と夕食との間食。出雲。大田市。邑智郡美郷町・川本町・邑南町。江津市・浜田市。」

出雲だけのことばかと思っていましたが、石見地方でも使われていたようです。後で川上君に尋ねると「主に石見で使われていた」と教えてくれました。

書くのが遅くなりました、「島根方言集成」は、出雲地方の方言だけでなく、島根県全域、つまり出雲地方、石見地方、そして隠岐地方で使われていることばを集成していますので、訳の後に必ず、どの地域で使われていたことばかが、きちんと書かれています。

これは大変な作業だったはずです。よくぞまとめたものと、わらためて感心します。

私には、もう一つ気になることばあります。

「ばんじまして」です。このことばを読んで、どんなイメージが浮かびますか。

「ばんじました」は、外での農作業を終え、日が落ちうす暗い時期に頃帰宅途中ですれ違った人たちが交わすあいさつの言葉です。

私の記憶どおり、昼間の「こんにちは」と暗くなってからの「今晩は」との中間的に時間帯で夕闇がせまる頃から暗くなるまでのごく限られた時間帯で使われたことばです。広島には、こんな時間帯で使われるあいさつことばがあるのでしょうか。

こんな微妙な時間帯を使い分ける言葉を持っているのが出雲の人たちです。なんとも言えない思いのこもったことばだと忘れるいことの出来ない懐かしいことばです。

「島根方言集成」を手にして、懐かしい出雲のことばを思い出しながら、小さかった頃の遊び回っていた懐かしい頃を思い出しています。

いのちとうとし

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2025年7月 1日 (火)

「島根方言集成(出雲・石見・隠岐)―人間愛のことば-」

今日は、6月17日の松江に帰りました。: 新・ヒロシマの心を世界にで少し触れた島根の出版社ワンラインが5月30日の発行した「島根方言集成(出雲・石見・隠岐)―人間愛のことば-」の紹介です。

出版を通して出雲の文化的魅力を発進し続けてきた友人の川上正夫君が、久方ぶりに出版したのが「島根方言集成」です。地方で出版活動を続けるのは本当に難しいことです。一度は会社を閉鎖したと聞いていましたので、先日「出雲蕎麦ふなつ」でこの本を紹介されたときには、「エッ、まだがんばっているんだ」とびっくりしました。

しかも、自著(これまでに何冊か発刊していますが)として総頁数946頁にも及ぶ大作(辞書であれば、当然のページ数かも知れませんが)ですのでなおさらです。

収録された方言を紹介する前に、「ふなつ」で手渡されたフリーペーパーをもとに、この本の全体像を簡単に紹介します。

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見出し語は、20717語収録されています。そのことばは、方言によって索引するのは当然のことですが、この方言集成がユニークなのは、標準語から方言を探すことが出来るようになっていることです。

方言本文が755頁、標準語索引が149頁です。

このフリーペーパーには、小泉八雲の孫で小泉八雲記念館館長の小泉凡さんの推薦のことばがありますので、それを紹介します。

「同書には、自然を畏怖し人や動植物を愛する島根の人々が、古来、語り継いだ言語芸術が満載です。柳田圀男いわく『語源の詮索は本源にこそ必要』で、方言を知ることは自分や日本を知ることだ。八雲一家も、セツを筆頭に、書生さん、お手伝いさんの多くが島根県東部出身で、もちろん家庭内の共通語は出雲弁。セツが語った明治の出雲ことばもきっと本書に収録されているはず。川上さんが心血を注いだ労作を、多くの方が手に取っていただきと願っています。」

私もその通りだと思っています。その地方で育まれた文化、風土を伝えているのが、方言だと言えます。ですから、私は今も、こよなく出雲弁を愛しています。

ところで「島根方言集成」を手にしたとき、私の頭の最初に浮かんだのは、NHK朝ドラの今年後期に予定されている「ばけばけ」です。

この朝来らのモデルこそ、小泉凡さん推薦文に登場する松江藩の没落士族の娘で、小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の妻となった小泉セツです。

川上君は、長い間準備してようやく出版にこぎ着けたのですから、まさか出雲弁が登場する朝ドラがこの出版と合わせるように放映されることになるとは、当然想像もしていなかったことと思いますが、天の助けのような朝ドラ「ばけばけ」の放映です。

さて肝心の方言の紹介です。この本を手にしたとき、まず浮かんだのが二つの方言ですが、そのことは明日紹介することにします。

いのちとうとし

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