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2024年5月19日 (日)

ベトナムの歴史(その30-6) ― “エージェントオレンジDay”2024 in ヒロシマ ―

エージェントオレンジDay

この夏、ヒロシマは79回目の「原爆の日」を迎え、その4日後の8月10日、ベトナムで初めて枯葉剤がまかれて63年目を迎えます。1961年8月10日、アメリカはケネディ大統領の命令で猛毒ダイオキシンを含む枯葉剤を散布する「枯葉剤作戦(ランチハンド作戦)」を始めました。まかれた場所は、皆さんよくご存知の“ベトちゃんドクちゃん”の生誕地、ベトナム中部高原のコントウム省です。

枯葉剤は1971年に中止されるまでの10年間、ベトナム国土(主に南ベトナム)と人々の頭上に降り注がれ、数百万のベトナム人と参戦したアメリカをはじめ韓国、オーストラリア、ニュージーランドなどの兵士が浴びました。白血病や皮膚癌などで多くの死者を出し、第一級の発癌物質であるダイオキシンは遺伝子の損傷を引き起こすとされ、数多くの先天障害児が今でも生まれています。

ベトナム政府は8月10日を「エージェントオレンジDay(枯葉剤被害者の日・祭日)と制定し、幾世代にわたり深刻な障害をもたらす化学兵器枯葉剤の残虐さと被害者の救済を世界に訴えています。

なぜ枯葉剤のことをエージェントオレンジと呼ぶのか

よく、「なぜ、“エージェントオレンジ”って言うの」という質問をいただきます。

ベトナム戦争でアメリカは約9万1千㎘の枯葉剤を散布したといわれていますが、その種類は数種類あり、それぞれの容器(ドラム缶)に付けられる縞の色で、エージェント・オレンジ、エージェント・ホワイト、エージェント・ブルー、エージェント・パープル、エージェント・ピンク他に分けられていました。

その中で散布量全体の62%を占めていたのがダイオキシン中でも最も毒性が強く、発癌性、催奇形性の高い2.3.7.8T-CDD(テクラトトロジベンゾ--ダイオキシン)を持つエージェント・オレンジ剤だったことから、枯葉剤を総称してエージェント・オレンジと呼ばれています。

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ランチハンド作戦出撃のためドラム缶から積み込まれる枯葉剤

“エージェントオレンジDay” 2024 in ヒロシマ

私たち広島ベトナム平和友好協会(HVPF)は、「枯葉剤60周年」の2021年にベトナムと世界で取り組まれている“エージェントオレンジDay”に呼応して、このイベントを始めました。それは、20世紀の戦争被害の象徴である核被害を受けたヒロシマと化学兵器被害を受けたベトナムの共通する“ノーモアヒロシマ・ナガサキ”、“ノーモアエージェントオレンジ”、“ノーモアウオー”という固い意志をつなぎ合い、平和で豊かな持続可能な地球社会を築きたいとの思いからです。

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2021年、ホーチミンからOnline出演いただいたドクさん

今年、3回目の「“エージェントオレンジDay”2024 in ヒロシマ」を企画しています。

ポイントは次の3つです。第一に、“枯葉剤とは”、“ベトナム戦争と枯葉剤作戦”、“今なお続く被害”など枯葉剤の実態と実相。第二に、グエン・ドクさんのパネルとドキュメント映画を通して“生きる”枯葉剤被害者の姿。第三に、来年の「被爆80周年」を前に、ロシアのウクライナ侵攻でイスラエルによるパレスチナ自治区ガザ攻撃で、既に化学兵器が使用され、核兵器使用の懸念が高まっている中で即時停戦と和平・復興・共生に向けたプローチへの強いヒロシマからのアピールです。

 「被爆80周年」の前年、ヒロシマから発する平和メッセージに是非ご参加ください。

明日、具体的なイベント内容を紹介します。

2024年5月19日(あかたつ)

【編集者】アメリカの臨界前核実験に抗議する座り込みは、20日月曜日の午後0時15分から、慰霊碑まで行ないます。その様子は、報告します。

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2024年5月18日 (土)

つぼみを付けたキョウチクトウ

今日も散歩の途中で目にした話しです。

平和記念公園の西側の本川沿いに南北約600メートルにわたって植わり夏になると見事な花を咲かせていたキョウチクトウが、一昨年12月、翌年5月に開催されるサミットのテロ対策だとして,当時腰の高さまで、無残に伐採されました。

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中国新聞2023年1月17日紙面より

当然のことですが、昨年夏は花を見ることはありませんでした。

昨日、散歩コースを少し変更し、平和公園から本川橋をわたり本川右岸を上流に向かって歩きました。目に入ったのは、新しい枝を伸ばしきれいな葉を付けているキョウチクトウです。

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上の中国新聞の写真とほぼ同じような位置から撮った写真です。大人の背丈より新しい枝が伸びていますので、向こうの景色は見えません。当時、西区の樹木医の堀口力さん(77)は、中国新聞のインタビューに答えて「キョウチクトウは暖かい地域で育つ樹木。寒くなる時期の剪定は木の成長を弱め、ダメージを与えかねない」と指摘されていたようですが、無事に成長したようです。

枝先に少し赤い色が目に付きます。

近づいてみるとまだまだ小さいのですが、間違いなくつぼみです。

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元の木の高さ、花の数に戻るには、2から3年かかるとも指摘されていますので、以前のような見事な花を咲かせるのには、もう数年かかるようですが、今年は、少ない数でも花を見ることができるのではと期待できます。

道路を挟んだ本川小学校には、もっと大きなキョウチクトウが育っていましたが、このキョウチクトウも同じように伐採されました。

こちらのキョウチクトウも新しい枝と葉を付けているようですが、川沿いほどには繁っていません。

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遠くから眺めただけですので、はっきりとは言えませんが、こちら側のキョウチクトウは、今年も花を付けないのではと思われます。

同じようにサミット警備のために伐採された東区牛田本町の京橋川左岸の被爆シダレヤナギは,私もその後何度も見に行ったのですが、新しい芽を見ることはできませんでした。ついに今年3月「枯れ死した」として、広島市は被爆樹の登録を取り消しました。

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サミット当時の警備(本川右岸は、金網で覆われた)状況を振り返ると、原爆投下後の焦土にいち早く咲き、市の花としても親しまれているキョウチクトウの伐採が本当に必要だったのか、何故被爆シダレヤナギは枯れ死しなければならなかったのか、という思いにあらためてかられました。

いのちとうとし

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2024年5月17日 (金)

一枚のプレート

白島九軒町の病院に行った帰り、白島線の電車通りを八丁堀方面に向かって歩いている時、そういえばと思って写したのが、下のプレートです。

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このプレートは、南向きに取り付けられていますので、白島から八丁堀方向に歩いている時には、気をつけないと見過ごします。場所は、県立美術館の電車道り側の北の境界にある塀に取り付けられています。

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 プレートには、「西晋一郎博士旧宅後」と書かれ,次のように記されています。

「文学博士・西晋一郎(1873年―1943年)は、・・・・明治35年(1902)創設の広島高等師範学校教授となり、昭和4年(1929)広島文理科大学教授を併任。同15年(1940)に依願退職するまで、当地・広島において哲学や倫理学を教授をしました。西博士は、わが国古来の神道,儒教、仏教の伝統に、西洋哲学の精密な思索による理論を結びつけ、これらの思想を実践哲学に体系化した学者として知られています。

記念碑は、この通路を約20メートルは入った左側にあります。」

私が、西晋一郎博士のことはまったくといってよいほど知識がありません。知っていることと言えば、森滝市郎先生の岳父,つまり先生の奥さんしげさんのお父さんだということです。1931年の3月に森滝先生は、京都帝国大学大学院を卒業、広島高等師範学校に就任され,同年の12月27日にしげさんと結婚されました。

以前に森滝春子さんからこのプレートに関わることで「小さい頃、縮景園の隣にあったおじいさんの家によく遊びに行ったことがあります。垣根の隙間から縮景園に入り込んだことがありますよ。ですからあの位置だったと思います。」と教えていただいたことがあります。

ですので、「この通路を約20メートル入った」場所に、西晋一郎さんの旧宅があったのは間違いないことのようです。

ただ、このプレートの右側は、現在はビルとビルの谷間になっており、柵では入れなくなっていますので、記念碑が本当にあるのかどうかを確かめる術はありません。

さらに不思議なことは、森滝春子さんにも確かめたのですが、誰がどんな意図でいつ頃このプレートを取り付けたのか、全く不明だということです。

ただ、私には森滝先生ゆかりの地と言うことで、気になる場所です。

なんとも不思議なプレートです。

いのちとうとし

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2024年5月16日 (木)

ライラックの花が咲いていますー被爆者の森

今日も散歩の途中で目にした話です。

今日は、わが家から東の方を目指しての散歩です。

最初の気になったのは、宝町バス停前に立つ本陣の建物とその脇に置かれた石柱です。

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写し方が悪く、この写真には写っていませんが、建物の一番東端に道標の石柱が立っています。

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左側面には,左方向を示す矢印と「日田道」の文字、右側面には,右方向への矢印と「友枝道」の文字が刻まれています。

「日田って九州大分の地名だよな。何故その石柱がここに」と不思議な気持ちになります。気になりますので、本陣跡の右側の古美術商「むさし堂」を覗いて、「前の石柱は、ずっと以前からあったものですかね」と尋ねてみました。「この店も20年ほど前に段原から移ってきたので、はっきりしたことは言えないのですが、今の本陣は以前料亭だったので、その時に別のところから移されたもののようですよ。」「そうですよね。いくら何でもこの場所に『日田』の道標を建てることはないですよね」

これで一件落着。さらに比治山方面を進みます。

京橋川には、比治山橋が架かっています。被爆した橋柱が、残っています。

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何度も渡った橋ですが、今まで被爆した橋と思って通った記憶がありません。広島市が被爆50周年の事業として発刊した「ヒロシマの被爆建造物は語る」には、欄干の一部が落下した写真に橋柱もはっきりと写っています。

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爆心地から1.71キロの距離ですが、爆風で欄干が落下したようです。この写真は、1945年11月頃、西詰の下流側から撮影されたものです。私が写したのは、同じ西詰ですが上流側の橋柱です。

比治山橋を渡り、京橋川の左岸を上流に向かいます。鶴見橋の東詰で、被爆ヤナギの写真を撮りました。

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この被爆ヤナギには思い出があります。何年頃だったかはっきりとは覚えていませんが、もちろん鶴見橋が掛け替えられる前です、今は枯れてしまった曲がった幹が、元気な頃です。1993年5月に撮影された写真が「ヒロシマの被爆建造物は語る」に掲載されています。

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「この被爆ヤナギが、爆心地方向に曲がったのは、揺り戻しの強い爆風の影響を受けたからだよ」と先輩から教えられ信じていたことを思い出します。

最近、被爆樹木めぐりで樹木医の堀口力さんの話を聞くようになってから、原因は違うのではないか(樹木の被爆側の成長が遅れるため)と思うようになりました。それを証明しているのが、説明板の写真です。

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1945年9月頃に撮影された被爆ヤナギですが、やや下流寄りの傾いてはいますが、1993年に写された上の写真のように爆心地方向には傾いてはいません。揺り戻しの爆風で曲がったのであれば、この時すでに曲がっていたはずです。

被爆ヤナギを見た後は、鶴見橋をわたり平和大通りを西進します。東詰を過ぎると被爆者の森があります。今年3月に植栽された木も元気に育っていました。そして、ようやく今日のタイトル「ライラックの花が咲いています」に出会いました。

この木のことは、ずっと気になっており、被爆者の森を訪れるたびに見続けてきました。このブログでも何度も取上げた北海道のライラックです。近づいて、びっくりしました。花が二つ付いていたのです。

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今までは、紫の花だったのですが、今咲いているのは白い花です。見え難いので拡大します。

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今年は,ヒコバエが伸びた枝で、あまりにも細すぎてとても花は付かないだろうと思っていましたので、感激です。すぐに広島市中区維持管理課に電話を入れました。

思いがけずうれしい発見が出来た散歩でした。

いのちとうとし

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2024年5月15日 (水)

2024年5月のブルーベリー農園その2

豊栄町のブルーベリー農園から夕方帰るときに田んぼのそばを通るが、傾いた日差しで水の張った田んぼがキラキラ光り木々や草花がぽっかり浮かび上がって輝きを増す景色を見ながら安芸区の自宅に帰る日々が続く。スズメバチの捕獲器をブルーベリー畑と里山のブルーベリー園に吊り下げているがこの時期はオオスズメバチがよくかかる。ペットボトルの中でもがいているハチの顔はちょっと怖い。

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5月10日(金)

農園の周囲の早苗田とスイバの花穂

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5月11日(土)

今年は里道に植えたジャーマンアイリスがたくさん咲いた

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5月13日(月)

農園の花壇のアヤメ

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農園につくと最初の作業はブルーベリーの枝を燃やした後の炭の片付け。一輪車に乗せてブルーベリー畑にまいていく

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剪定したブルーベリーの枝は積み上げてから細かく切る作業をしていく

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ミツバチの活躍で受粉がすすむ

①レンゲの受粉(5月8日)

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②晩生のブルーベリーの受粉

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③早稲のブルーベリーの受粉

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里山のブルーベリー園の周囲

①アザミ。今年は少ない

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②スズメバチの捕獲器にはオオスズメバチが2匹入ってうごめいていた。この時期はオオスズメバチがよく捕まる

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農園の周辺の道沿いに咲くマーガレット

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社会福祉法人安芸の郷

理事長 遊川和良

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2024年5月14日 (火)

平和大通りのバラー散歩の途中で

平和大通りは、散歩のときよく通る道です。雨がりの昨日の散歩コースの中心は、平和大通りでした。

NHK前の交差点を東進し、並木通りの手前の北ブロック(移動演劇さくら隊原爆殉難の碑の西側)の真ん中ほどにバラ園があり、40本あまりのバラが見事な花を咲かせています。

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ずっと以前になりますが、周りのロープ囲もなく、こんなにキチンとは整備されていなかった記憶があります。

最初の目に付いたのは、一番の背高のっぽの黄色いバラです。黄色いバラは1本だけですが、存在感がありました。

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バラは2列並んで植えられています。車道寄りには、この黄色いバラと鮮やかな深紅のバラが並んでします。

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北側の一列は、ピンクのバラです。一番多い種類です。

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数日前に、消毒されたようで、注意の看板が立てられています。

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広島市中区維持管理課の話しでは、アレルギーの人もおられるので、注意喚起のため数年前から、薬剤散布後は看板を立てるようにしたとのことです。

この時一緒に教えていただいたのですが、ここに植わっているバラは,旧東ドイツやオランダから送られ,当初平和公園に植わっていたようですが、平和公園が整備された時、その一部が,この場所に移植された樹木です。

ただ平和公園に植わっているバラのように、どこから送られたバラなのかは、はっきりとは分からないようです。少し残念です。

何枚かの写真を写した後、散歩を続けます。

帰り道に、確かNHKビル横の平和大通りの南側のゾーンに、長崎ゆかりのバラがあることを思いだし、寄り道をしました。

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このバラも見事に咲いています。

前に立てられた説明板には、「広島・長崎平和のバラ このバラは永井隆博士の庭から贈られたものです。」と書かれ、その下に小さな字で永井隆博士の略歴が記されています。しかし、このバラが、いつ植えられたかなどの来歴は記されていません。

見にくいのですが、上の写真の左奥をよく見ると石碑が建っているのが分かります。

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この石碑の銅板には、このバラの由来が書かれています。

「世界最初の原爆を体験した広島と長崎の青年たちが、昭和二十四年十一月十二日、広島市で原爆都市青年交歓会を開き、反戦と反核のために立ち上がることを決意したとき、原爆症のため如己堂で病臥中の永井隆博士は、世界恒久平和の願いを込めて、庭に咲いていたこの薔薇を樹を贈ってこられた。」

新しく設置された説明板には、何故この由来が書かれていないのか、ちょっと不思議です。永井隆博士の来歴も確かに大切ですが、昭和24年(1948年:私が生まれた翌年)という早い時期に広島・長崎の青年が交流し、「反戦・反核のために立ち上がる決意」した時に記念植樹されたことも伝えるべきではないかと思います。

天気に恵まれ、より鮮やかな花の色をみせてくれたバラたちでした。

いのちとうとし

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2024年5月13日 (月)

中国人の爆買い?

並木通りにある「ギャラリーたむら」で陶芸家内田鋼一さんの個展が、11日から始まりました。最終日は、19日。

内田さんは人気の陶芸家で、個展には多くの中国人が買いに来ると言われています。ギャラリーたむらでは、毎年この時期に内田さんの個展が開催されますが、これまで中国人と思われる人の姿を見せることはありませんでした。

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 ところが今年は、少し違った様子で個展がスタートしました。ギャラリーたむらの開店時間は、午前11時ですが、開店前から16人もの行列が出来ています。一昨年、陶芸家若杉聖子さんの個展では、前日に中国人と思われる人から何度も電話が入ったり、他のお店での若杉さんの個展では、多くの中国人が買いに訪れるということがあったため、ギャラリーたむらでも同様の事態が予想されると言うことで、その年の初日に整理のため手伝いをしたことがあります。

今回も気になったので、開店時間前に私も店に行き、入店者の整理の手伝いをすることにしました。

開店前に並んでいた16人は、すべて中国人というわけではありません。先頭は、早朝に車で大阪から来た人たち(内田さんにきくと料理人の仲間)、どこの個展にも駆付ける名古屋の人なども並んでいます。

午前11時、一回の入店者を7人に制限し、一人1個限りの販売と言うことで、スタートしました。並んだ人にその条件を指示するのが私の役割でした。

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手前に写っている人は、日本人

中国人と思われる人の何人かは、スマホで写真を撮り、誰かと連絡を取りながら購入作品を決めています。「複数はダメですか」と念押しをする人は、他の作品をスマホで写しています。それでも、何とか一時間あまりで、一段落しましたので、私は一端帰宅しました。

その日は、内田さんと夕食を一緒にすることになっていましたので、午後6時過ぎに再び店を訪れると、すべての作品に売約済の赤い丸が付いています

「えー、どうなったの」と問うと、午後に別の中国人が次々と訪れ、スマホの写真を手に作品を決め、購入していき、全部完売になったということです。

決して安い価格ではありませんが、内田さんの話しによれば、中国では数倍、場合によれば一桁大きい金額で販売できるので、交通費やアルバイト料(京都から来た人も居る)を払っても、充分におつりが来るようです。

中国人の爆買い、ということが良く言われますが、内田鋼一さんの個展で見た景色もその一つだったようです。

来年は、少し工夫をしなければと話しながらの夕食会でした。ちなみに、若杉聖子さんの個展では、初日、二日は、DMを持参した人しか入店できないようにしたため、翌年からの混乱は解消することが出来ました。

いのちとうとし

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2024年5月12日 (日)

水俣病問題と私

5月1日に行なわれた水俣病被害者団体と伊藤信太郎環境大臣との懇談会で、水俣病被害者の発言中に環境省職員が、マイクの電源を切ったことで、大臣が謝罪に追い込まれたことの報道が続いています。

被害者の発言を遮断するなど言語道断のことで有り、絶対に許されるものではありません。

何故こんな事態が起こったのか?いくつかの原因があると思いますが、私がこのニュースに接したとき、一番に感じたのは「環境省職員に『水俣病問題では国も加害者の一人だ』という認識が欠けている」と言うことです。

そう指摘するのは、私もわずかですが水俣問題に関わってきたからです。

1995年の政治決着によって多くの水俣病裁判の原告が提訴を取り下げる中で、唯一この『政治決着』を認めず、訴訟を継続したのが水俣病関西訴訟団(団長川上敏行)でした。

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最高裁判決後の川上団長・私も向かってすぐ左側にいました。

2001年大阪高裁が、「国や県の責任を認める」判決を出し、最高裁の上告されたいた時期、当時衆議院議員を務めていた私の部屋に水俣病関西訴訟団の支援者が訪れ、裁判への支援とともに「水俣病に認定基準である77年判断基準について、国会で取上げて欲しい」と資料を持って要請されたことがあります。後で分かったことですが、当時私が、在外被爆者問題に関わっていることを知り、この議員ならひょっとすると協力してくれるのではないかと、要請に来られたようです。

充分に水俣病問題を理解していたわけではありませんが、私の政策秘書の「ぜひやってみようではありませんか」との声もあり、所属する環境委員会で質問することにしました。1995年の政治決着以来、国会の場で水俣病問題が取上げられることはありませんでしたので、政治決着後初めて国会で水俣病問題を取上げた議員になりました。

この委員会での質問は、ずいぶんがんばりましたので、その時の委員会質疑のDVDが、支援者の間で視聴されたと聞いています。

そうした経過があったので、水俣関西訴訟の最高裁判決が出された2004年10月15日には、支援者の理解を得て、法廷内(少人数しか入れない)で勝訴判決を聞くことが出来ました。

私の関わりはさておいて、重要なことは、この最高裁判決は、大阪高裁の判決を認め「国が水俣病による健康被害の拡大防止のためにいわゆる水質二法に基づく規制権限を行使しなかったことが国家賠償法1条1項の適用上違法となる」としたことです。水俣病の一番の加害責任は、水銀を垂れ流したチッ素にあることは当然ですが、「健康被害の拡大を防止しなかった」国の加害責任も認めたと言うことが重要です。

ですから、この最高裁判決が出されたその日の夕方、原告団と環境省の面談の場(最高裁の隣にあった社会文化会館)に小池百合子環境大臣が出席し、原告に対し謝罪したのです。小池大臣はすぐに退席しましたが、その後原告団から国に対して「問題の早期解決を図るよう」要望が1時間以上にわたって行なわれました。

私もこの場で原告団と一緒に席に着き、国に対し「加害者の国が中心になって決めた77年判断基準は、新たに検討会を設置し見直しをすべきだ」と繰り返し指摘しました。その後、数回の原告団と環境省の話し合いの場に参加し、「国の加害責任の明確」を追求しました。

最近の報道では、「水俣病問題は、環境省が生まれた原点だ」ということは強調しますが、国も加害者だと言うことが、あまり報道されません。

もし環境省の職員がこれらの歴史をきちんと認識し、「国が加害者」だという自覚がもっと強く持っておれば、今回のような対応はなかったはずだと私は思っています。

そしてもう一つ指摘しておきたいことは、水俣病関西訴訟団(団長川上敏行)が、政治決着を認めず「被害を拡大させ、患者を切り捨てる行政への憤り」を根底にした裁判の継続がなければ、その後の水俣病問題の進展はなかったと言うことです。

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2024年5月11日 (土)

在ブラジル被爆者と岸田首相の面談

去る5月4日に行なわれた在ブラジル被爆者と岸田首相の面談の様子について、在ブラジル被爆者の渡辺淳子さんからメールが届きました。本人の了解を得ましたので、そのまま全文を掲載します。


この4日の岸田首相サンパウロ訪問での我々被爆者との面会については、各新聞社が掲載記事を出していますので様子はご存知の事と存じます。

只、この件が決まるまでは、中々はっきりとした日程・時間が変わりまして最後まで落ち着きませんでした。

一度は、キャンセルと言う事までありましたが、岸田首相の思いと考えますが、どうにか短い時間での面会が出来ることが決まり安堵しました。

こちら秋とは言え連日の真夏日でした。

私は、息子が車で会場まで送ってくれましたが、会場に入る為に道一杯に並んで大勢の人達がいるので離れた所で車を降りて会場に行きました。

私達招待者は、別入口より責任者が誘導して下さり入りました。

一般の人は、セキュリチーチェックが行われていました。

会場は大勢の人と熱気であふれ日伯の国旗を持ち、岸田首相の到着されると、両国旗を振りながら声を出してお迎えし、しばし平和ムードがあふれていました。

歓迎セレモニーが終わるまで私達(森田隆氏、盆子原国彦氏、渡辺淳子、斎藤綏子さんの招待4人)は、特別設置スペースで待っていました。

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左から盆子原さん、森田さん、渡辺さん

 当日は、被爆者4名、と広島県人会4人ずつの招待者で、最初に我々4人の被爆者が先に面会いたしました。私達の面会が終わってから、広島県人会の招待4人が入りました。

そのルームには、赤白の幕が内部に張られて前中央に岸田首相様の椅子が有り右横に私達4人の椅子と左横に椅子が同じくありました。

岸田首相が入ってこられまして私達は立ち上がりまして挨拶致しました。そのまま、皆座らずに首相が話され始めて(面会時間は2分と綏子さんには領事館よりと言われていたそうですが、私は只短いと言う事しか知りませんでした)。結局、5分くらいの時間だったそうです。

首相のお話は、まず、我々が今まで被爆者として、ブラジルでの平和活動を続けて来られた事を自分は聞いて存じていますと言われ、我々への労いのお言葉を頂きました。

次に、森田さんが自分のポルトガル語の自伝本を渡され、綏子さんがその内容の説明をされました。

次に渡辺が、在ブラジル被爆者協会30周年記念として出版しましたと言う事をお話して、「南米在住ヒバクシャ魂の叫び」の本をお渡ししましたら、ぱらぱらとめくってくださって、「日本語ですね、これなら読めるから後で読ませて頂きますと仰いました。

次に、盆子原さんから、お願いが有りますと問いかけて、「核兵器禁止条約への加入をお願い致します」と言うと、首相は、「まずは、核保有国を条約に入れる努力をする必要があるので努力しています」等のお話をされました。

そして、首相より、森田さんもう一度と言われ、握手されました。

そして、これからも健康に気をつけてお暮しくださいと言うようなお話をされたと思います。

その後、私は、首相にお体には気をつけて下さい、そしてもう一度お目にかかりたいと思いますと言いましたら微笑んで頂きました。

その後皆がそれぞれ同じような事を言われたように思います。

それで我々4人は外に出ました。

入れ替わりに、広島県人会4人が入室しました。

ルーム前に総合写真を撮るための椅子がそろえてありました。

中央に岸田首相の名前が有り、向かって右側我々被爆者4人が座り、左側に広島県人会4人が座り記念撮影がされました。

それで終わりました。

以上が岸田首相面会時の流れです。

総合写真は、先ほど領事館へ問い合わせましたら、連絡が来たらお知らせしますとの返事が来ましたので、

写真が届きましたら又、ご連絡いたします。

只、面会前、特別スペースに入る前に私達3人が撮った写真が有りますのでお送り致しますのでご覧頂ければと思います。

会場となった建物は、名称「ブラジル日本福祉協会」と言い、我々は普通「文協」と言って親しんでいます。

1955年に創立されました。移民資料館、大講堂、など色々な活動の場が設けられています。


【編集者】文中の「斎藤綏子さん」は、森田隆さんの娘さんで、掲載した写真は斉藤さんが写されたと思われます。

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2024年5月10日 (金)

喜代子姉ちゃんのこと

 地球上にはそっくりな顔・性格をしている人が3人いるということを、誰かが話していました。先日広島電鉄の電車の中で、実姉である喜代子さんに、まさに「瓜ふたつ」という女性を見かけました。

顔つき、眼から鼻にかけてと頬の膨らみ具合、しゃきっとしている背中、着ている服装、履いているスニーカー、もちろん品の良さもです。じっと見ていると「変なおじさん、嫌、変なジジイ」と思われるのではと感じながらも、やはり見ていました。

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喜代子姉ちゃんは、ぼくより3歳年上で1946年2月に生まれました。原爆が投下された時には、お母ちゃんのお腹の中にいて胎内被爆者でした。その後、弟であるぼくが生まれ、そして4年後に父親が40歳代の若さで亡くなりました。まだ若かった母は、もう一人の姉を入れて3人の子どもたちを育ててくれました。

そして喜代子姉ちゃんは、59歳の誕生日を前にした2005年2月に急死したのです。夫が帰宅した時、姉は自宅で亡くなっていました。医師は食道動脈溜の破裂ではなかろうかと伝えたそうです。

ぼく達3人の姉弟は仲が良いというよりも、お互いに助けあって、仕事に行っていた母が帰るまでに七輪に火をおこし、カマドでご飯を炊き、リーダー役の一番上の姉が、ぼく達を指導していました。

広島市内の家は原爆で壊滅したので、親戚の人が持っていた五日市町(現・広島市佐伯区)のわら屋根の古い家に住まわせてもらいました。まともにお客を入れられる部屋は一部屋しかなく、雨漏りする部屋もありました。ぼくは姉二人から勉強を教えてもらいました。

その喜代子姉ちゃんは、子どもの頃からバレエを習っており、幼稚園のようなところで教えるとともに、自らもずっと習っていました。そして広島大学にある原爆放射能医学研究所で働いてもいました。そこで同じ大学にいた大学院生と結婚し、夫の卒業とともに実家のある徳島市に戻ったのです。

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喜代子姉ちゃんは、なんといっても気前が良く、趣味もたくさんあって、亡くなる前には徳島阿波の人形浄瑠璃を勉強し、娘が米国人と結婚した関係から英会話も勉強して得意でした。

徳島の名産品であるカンキツ類のスダチや、スダチ焼酎も何十箱も送ってきました。誕生日には電話を掛けてきて、前置きなしに「ハッピーバースディ ツー ユー」を唄い出すことは何十年続いたでしょうか。内緒ですが小遣いもくれました。その時にいう言葉は「省ちゃん、誰にも言わないこと。お礼の電話などしないこと」が鉄則でした。

若気の至りでか、ぼくは参議院選挙の全国比例候補者に名前を連ねたことがあります。全国から得て総得票数のなかで、徳島県から得た票数が一番多かったのでした。可愛い??弟が立候補しているからと、みんなに声を掛けたのでしょうね。

今年は原爆から79年、生きていたら、まだ78歳です。しかしその喜代子姉ちゃんが亡くなって、20年という年が流れました。せめてもの救いは、お母ちゃんが先に亡くなったことでしょうか。

電車の中で出会った人、どこの誰かも知りませんが、たぶん喜代子姉ちゃんのような前向きで明るい人だと思いながら、ぼくの方がその人よりも早く電車を降りたのでした。

木原省治

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