#小坪則子さん #有難う御座いました ―― #御冥福をお祈り致します――
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追悼の言葉
2025年6月14日
小坪則子様
こんなに早くお別れすることになるとは夢にも思っておりませんでした。
小坪さんとはもう30年以上のお付き合いになりますね。1989年、被爆教師の会の会長石田明先生に説得され、衆議院議員に立候補することになって、初めて小坪さんのお宅に御挨拶に伺ったときのことをまだ鮮明に覚えています。二階の玄関から入りざま、最初の一言が明るさとパワーに満ちた激励のお言葉でした。それは、自立したお人柄に裏打ちされていました。
また当選後、国会の議員会館までお出で下さった時も、他の皆さんとともに私学助成のための陳情をされてきたという、まさに有言実行そのものの人という印象でした。そして秘書になっていただき、本当に家族同然、いやそれ以上に献身的な仕事をしてくださいました。
公的には、「秘書」としての仕事がありました。例えばスケジュールの管理、その中にはアポの調整、交通手段の確保、送り迎え、時には食事の世話、来客時の接待等々が含まれます。それに加えて、著名人たちに伍しての式典等での挨拶や参列、選挙の際の事務所の統括、市民・有権者の皆さんからの要望を聞きお役所との橋渡しを行い、お金の出し入れも含めていつも懐の苦しかった事務所のやりくり、また、小さかった子どもたちを相手に子守りまでさせてしまいました。一言でまとめると、私の政治家としての人生、いや私の人生そのものは、小坪さんなしでは考えられないほど大切な存在でした。
特に選挙のときの小坪さんの獅子奮迅の働きは見事でした。お陰様で選挙では負けることがありませんでした。(最近の立憲や社民を救うための選挙は別です) 影になり表に出たりとその時々の状況であらゆる場面での小坪さんの仕切りがなければ、選挙そのものが不可能でした。選挙の中心になった後援会の維持や運営、そして事務、また後援会の皆さんとのお付合いもとにかく多くの皆さんがいらっしゃる訳ですから、小坪さんでなくては務まりませんでした。そして保守系の政治家も含めて、広島での様々な人たちとのお付き合いも、私の限られた能力では、とても円滑にこなす事はできませんでした。
もちろん色々と喧嘩もたくさんしましたし、小坪さんから見たらまだまだ至らない点がたくさんあるとは思いますけれども、その一つ一つが私という人間を形作る上でとても重要な要素になっていました。
御家庭にあっては、御主人とのおしどり夫婦振りは、誰もが羨むほどでしたし、お子さんたちも立派に成長され、お孫さんにも囲まれての日々が小坪さんの晩年の幸せの形だったのではないでしょうか。政治家の秘書としては大変助かりましたが、その分、御家族との時間を取り上げてしまったのではないかと、申し訳なく思っています。
小坪さんは大変お強い人ですので、おそらく私よりも長生きされるであろうと想像していました。私が広島に対してそして世界に対して発信し続けたメッセージを、周囲の皆さんに少しずつ伝えていただければ大変有り難いというお願いを遺言の一部として考えていたくらいです。
私の人生の中で本当に大切な存在だった小坪さん、そして小坪さんの傍にいつもいて下さったご主人と御家族に心からの御礼を申し上げます。
もう叶わなくなった夢の一つは、御家族や何人かの楽しい方たちと一緒に、カラオケで小坪さんの「珍島物語」をもう一度聞かせて頂くことでした。私の「MY Way」も「小坪’s WAY」として聞いて頂きたかった。
まだまだ申し上げたいことは多くありますが、その思いは「千の風」に託します。
心からの敬意と感謝の気持ちを込めて、
皆様にとって、きょう一日が素晴らしい24時間になりますよう!
[2025/6/15 人間イライザ]
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