#ベトナム戦争収拾を提案した #国防長官 ―― #マクナマラは #戦争推進を後悔して #行動に移した――
#ベトナム戦争収拾を提案した #国防長官
―― #マクナマラは #戦争推進を後悔して #行動に移した――
ロバート・マクナマラ (Wikipedia)
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前回は、ベトナム戦争反対運動が所期の目的を達成する上で、マスコミの象徴であったウォルター・クロンカイト氏の果たした役が大きいことを取り上げました。そして、その背後に全国各地の小さな教会で、聖職者たちがその地域地域の人々に同じようなメッセージを届けていたことも大事だったという事実もお伝えしました。
それに加えて、やはりマスコミそのものがクロンカイト氏という存在を生んだという、マスコミの健全性、マスコミの性格そのものも大変重要だったと思います。
その上で最終的に大きな権力を持つ、時の政権が最終的にはベトナム戦争を諦めるという決断に至る上では、やはりその政権内で力を持っていた人物、より広くは社会全体を動かす人物たち、当時の言葉を使うとエスタブリッシュメントと呼ばれる人たちがその気にならなければ何もできないわけですから、そのエスタプリッシュメントの果たした役割にも言及しておきたいと思います。
ベトナム戦争で最初に頭に浮かぶのが、ケネディー政権そしてジョンソン政権で国防長官を務めたロバート・マクナマラです。
今ネットでマクナマラという言葉で検索をすると、マクナマラの誤謬という項目がたくさん出てきます。それは、物事を定量化して考えること、測定可能な事柄にだけ限って物事を非常に狭く見てしまい、その結果として状況の全体像を把握できないために陥る過ちに陥ってしまうと言う傾向を指す言葉です。それが経営や経済に大きな影響を与えたために、この事象が特に抜き出されて注目されてきました。
「マクナマラの誤謬」の定義は、「量的な観察結果(または測定基準)のみに基づいて意思決定を行い、それ以外を無視することである。」なのですが、より詳しくはWikipediaの記事をお読み下さい。ここで問題なのは、量的には測定できない事象を扱う際に徐々にこの定義が力を以て、最終的には存在しないことにされてしまい、「現実」を正確に把握する上では、その正反対とまでは行かなくても、大変歪んだ記述が「現実」として罷り通ってしまうことです。
特に、ベトナム戦争の遂行に当っては、量的観察結果を元にして作戦が立てられ、その場その場での評価も人間や社会という当たり前の存在さえ無視した枠組みの中で行われる結果になったことが致命的でした。
ベトナム戦争を推進してきたマクナマラですが、戦争が泥沼化する中、66年ころから戦争そのものに対する疑念がマクナマラはじめ戦争推進者たちの間に生まれ、日本大百科全書(ニッポニカ)によると、「マクナマラは同年、米政府が将来二度と同じ失敗を繰り返さぬ教訓とするため、できるだけ客観的な戦争の分析記録をつくるように命じた。」のです。
この記録は、『合衆国・ベトナム関係、1945~67年』と呼ばれる公文書ですが、71年にその内容をダニエル・エルスバーグがニューヨーク・タイムズ紙を通して公開し、大センセーションを巻き起こしました。このことが世論をさらに盛り上げることにつながり、ベトナム戦争を終結させる上で、大きな役割を果しました。
機密文書であったこの記録をスッパ抜いたダニエル・エルスバーグ氏の役割は確かに大きなものだったのですが、そちらが脚光浴びる中、文書そのものを作った人がいたという事実には、なかなか思いが至らなかったという現実にも今こそ光を当てておくべきだと思います。
《権力者がどう責任を取るか》
私がここで評価したいのはマクナマラが国防長官でありながら、自分が推進してきたベトナム戦争が誤りだったということを認識し、その認識の上に立って、国語長官としての責任ある行動を起こしたことです。
ジョンソン大統領に対して戦争を収拾するように進言したこともその一つです。ジョンソンはその進言を退け、そのことがマクナマラの国防長官辞任につながっています。
もう一つは、アメリカという国家がベトナム戦争と同じ過ちを将来再び犯さないように、権力と組織の中で、きちんとした記録を残しておくことを決め、国防長官として指示を出しその記録が残されたことです。
権力を持つ側の人たち、つまり為政者たちが自分たちの権力の行使について、一つには権力も過ちを犯すと言う事実を認めることはなかなかできないことです。最近の日本の政治を見れば責任回避の言い訳ばかりですから、この点はすぐにお分り頂けると思います。
このことだけでも賞賛に値するのですが、それに加えて、過ちがあった場合には、それに対して何らかの責任を取らなくてはいけないという責任感があったことが、同じように重要です。さらにはそれを実行したことは特筆に値します。「私に任命責任はあります」と言いながら、それ以上は何もしない某国の総理大臣とは大違いです。
これら三つがとても大事なのですが、敢えてもう一つ付け加えておきましょう。責任を取るための行動を、自分が権力を持つ立場にあるときに実行するという点です。
アメリカでも日本でもお役人を辞めてから、正義の発言をする人は多いのですが、辞める前には何も考えなかったのでしょうか。
アメリカの核政策に関してしばしば感じていたのは、お役人としてあるいは軍人として核政策に積極的に貢献した人たちが、退職して政府における影響力がなくなってから、核政策に批判的な行動を取るケースが一般的だということなのです。
確かに現職にあった時と同じように、核政策を推進し続けるよりは、何らかの反省を元にしてそれに反対する反核の立場を取ってくれる方がありがたいですし、大事なのですが、なぜ退職後にしかその行動が取れないかという疑問は残りました。
しかしながら、マクナマラ国防長官の場合には退職後に行動したのではなくて、国防長官としてペンタゴン・ペーパーズを作成するように命じたのです。
少し一般化した言葉にしておくと、最終的にベトナム戦争が収拾されたのは、それを推進していた側、つまりエスタブリッシュメントの側に、自分たちが過ちを犯したことを認識し、それに対して自分たちは責任を取らなくてはいけないと感じた、良識を持った人たちがいたからなのです。
ベトナム戦争反対運動が成功した要員やその背景について考えてきましたが、ハーバード大学に向けられたトランプ大統領の理不尽な攻撃に対しての教訓がいくつか汲み取れます。また、ベトナム戦争の場合は、国としてはアメリカ一国が戦争当事国でした。アメリカの要請に応じて軍を派遣した国もありましたが、あくまでもアメリカが主役でした。今回のハーバード大学に対する攻撃は、日本における学術会議潰しの画策や軍事研究の積極的奨励策等、その他の国々における同様の施策に共通しています。こうした点も勘案しながら、ハーバードが本気で対決しようとしている姿を確認し、私たちにできることはあるのかも模索したいと思います。
皆様にとって、きょう一日が素晴らしい24時間になりますよう!
[2025/6/7 人間イライザ]
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