#笹森恵子(しげこ)さんの著書 ――#タイトルは『恵子 ゴー・オン』――
#笹森恵子(しげこ)さんの著書
――#タイトルは『恵子 ゴー・オン』――
表紙は、松本六平画伯による
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一日お休みしましたが、92年の生涯を閉じられた笹森恵子さんのエピソードを続けます。
《『恵子 ゴー・オン』》
ボストンのMANA反核コンサートの直後に書かれた本ですが、最初にこのコンサートのシーンが描かれています。エピソードとして微笑ましいのが、笹森さんの前に出演する女性歌手のドレスの色と重ならないように、紫をあきらめて薄緑の着物を着ることになった顛末です。笹森さんの、紫を着たかった気持が伝わってきます。
《講演の時には必ず手料理を持参して下さいました》
笹森さんには、私が教えていたTufts大学での講義の一環として、何度か被爆体験を話して頂きました。また、ボストン地域の平和集会等でも話をして頂きました。何千人もの集会の時は別でしたが、大学での授業の時は学生数も20人くらいです。その度に手料理を携えてお出で下さいました。
体験談の前に、学生たち仲良くなり、その後の被爆証言も学生たちに取っては別の視点も加わり自分たちにも関わりのある問題だという意識で聞いて貰えました。
《ノーマン・カズンズ記念碑》
2003年に、広島市特別名誉市民のノーマン・カズンズさんの記念碑が平和公園のすぐ外側に建立されました
広島平和資料館による説明がありますので、その中からカズンズさんについての説明を引用させて頂きます。
ノーマン・カズンズ氏(Norman Cousins)1915~1990
米国ニューヨークの文芸雑誌『土曜文学評論』の編集長として、1949(昭和24)年8月に広島を訪れ、ルポ「4年後のヒロシマ」を発表しました。そこには、原爆や戦争で肉親を失った子どもたちを育成する「精神養子」の考えも記されていました。
これは、善意のアメリカ人が子どもたちと法的でない養子縁組を結び、養育費を送ることで子どもの成長を支えるというもので、約500人の子どもが精神養子となり、総額2,000万円の援助が行われました。
さらに1955(昭和30)年、被爆女性の米国でのケロイド治療に尽力し、25名がニューヨークのマウント・サイナイ病院で、世界的に著名な形成外科医バースキー博士らの治療を受けることになりました。
これらの功績を称えて、1964(昭和39)年には、広島市特別名誉市民の称号が贈られました。
より詳しい説明が、「ヒロシマの今から過去を見て回る会」さんのウエブ・サイトにありますので、御覧下さい。
そこでも触れられていますが、カズンズさんの記念碑の除幕式で、娘さんを代表して長女のアンドレアさんが挨拶をしました。その中で印象に残っているのは、「父は、墓は立てずに、自分の骨は広島の上空から散骨して欲しいと言っていたのですが、それだけは止めて欲しい、自分たちのお参りに行く場所がなくなってしまうから」と説得して諦めて貰った、ということでした。
アンドレアさんの挨拶を通訳していたのが、カズンズ家の一員、笹森さんでした。でも途中で感極まって泣き出してしまい、通訳どころではなくなりました。会場全体もその気持に寄り添って、シーンとなりました。笹森さんの泣き声はそのまま続いたのですが、誰かが収拾しなくてはならない状況でもありました。
「私が通訳します」と何方かが手を挙げて下さればと見回したのですが、誰も手を挙げてくれません。私なら、その場に立ち尽くしている笹森さんを慰めるのと、通訳と一緒にできそうでしたので、アンドレアさんにそう告げて続けて貰いました。何だか、カズンズ家の準メンバーくらいだと認められたような気がしました。
《忍者》
比較的最近、笹森さんと広島市内でお目に掛かる機会が何回かありました。日常的な話もありましたが、一番盛り上がったのが忍者の話です。笹森さんが忍者の末裔、というより現代に生きる忍者と知り合いになり、忍者のあれこれについて話してくれたのです。一つ一つ詳しくは覚えていないのですが、忍者の日常や訓練、社会生活等について話してくれました。む忍者が現存していることにビックリ、彼らの生活にビックリ、そして笹森さんが知り合いになったことにビックリですが、彼女ならそんな知り合いがいても不思議ではありません。
笹森さんの人生を振り返り、彼女が世界に与えたインパクトを改めて確認しつつ、もし原爆が落とされなかったらと、悔しく思うと同時に、被爆者の生きている内に核兵器を廃絶するという目的を達成するのが私たちの責任であることを改めて言い聞かせていました。
最後に、今日一日が皆さんにとって素晴らしい24時間になりますよう
[2024/12/23 人間イライザ]
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