#敵味方仮説 ――#数学や物理の力は良く知られている――
#敵味方仮説
――#数学や物理の力は良く知られている――
#英語嫌いとの違いはどこに?
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《数学に人生を否定される》
前回、問題にしたのは、数学を学ぶ過程で、数学嫌いになった人たちがことによると経験したかもしれない気持の問題です。
学校の先生とか試験結果から、あるいは友人たちかもしれませんが、その人たちの言葉や、テストの結果が元になって、自分の人生が否定されたような気持になった経験があり、それがトラウマになっているのではないか、という疑問を前提にしました。
議論を簡単にするために、数学のテストの結果が原因でこのような気持になったという場合を考えましょう。「このような気持」と書きましたが、その場ですぐ「人生が否定された」と意識的に感じる場合だけではなく、心の中に大きな影を落していて、ある程度の人生経験を経てから、「数学ができなくても、自分の人生は誇れるものだった」というような気持として現れるような場合も含めています。
《敵味方仮説》
その上で一つ参考になるのは、他の科目との比較です。例えば理科や社会のテストが原因でこれほど大きな自己否定の気持が生じることは少ないのではないでしょうか。その理由の一つとして、ある特定の時期の歴史は不得意でも、世界地理はそれとは別だということが自然に分っているからかもしれません。
もしそうだとすると、次のような解釈ができるように思うのですが、皆さんにも一緒に考えて頂ければ幸いです。
そのために、私たちの世界観とでも言ったら良いように思われることについて、一つの仮説を設けます。それは、私たちには、世界を「敵」と「味方」という二分法で分けてとらえる傾向がある、という仮説です。これを、「敵味方仮説」と呼んでおきましょう。
横道に逸れると、国際関係とか安全保障というような「難しい」議論では、この仮説が全ての場合の前提として、さらに、それ以外の考え方はナイーブだとか甘い等、素人の議論として排除されますので、それなりの正当性はあるのではないかと思います。
しかし、私たち、一人一人が世界を見たり、社会生活を送る中では、この仮説を日常的に大前提として行動しているのではないことも大切です。
つまり、この仮説が私たちの思考や感覚の全てをいつも支配するという意味ではなく、意図的にではなく何となく自分の周りについて思いを巡らせているとき、あるいは感情に駆られて冷静・客観的な判断より、自分を守るという本能的な力が強く働いているときなどに、この枠組みに従っての感情の整理やそれに基いての発言などとして機能することがある、とでも説明できるような気がしています。
《社会科には否定されない》
そう断った上で続けると、社会のテストで悪い点を取っても、「社会科」そしてこの科目の「味方」である先生や学校、大人社会や未来等が、自分の「敵」という存在にはならないことが分っているので、「自分の人生が否定された」という結論には至らない、と考えられないでしょうか。これを、テストの出来の悪さが「絶対的」な意味を持たない、と表現したいのですが、それは数学の場合と比較するとかなりハッキリ分ります。
数学の点が悪いことで、子どもが感じるであろう「現実」の一つは、社会科の場合と違って、「数学全体」が自分を否定していると考えてしまう環境が整っているせいではないでしょうか。それは、社会科の場合のような歴史と地理のバランスの取れた全体像が、数学という科目の場合、見えにくいせいなのかもしれません。つまり、ある段階で数学の点が悪いということは、数学全体への扉が閉ざされてしまった、という受け取り方が強いからだと説明できそうです。それは、テストの結果が、数学全体との対立とい「絶対的」な意味を持ってしまうということです。
《数学や物理の力》
絶対と相対という二分法で明らかになるのは、私たちの世界観の中で、数学や物理に象徴される「力」とでも言えば良いのでしょうか、その力の大きさについて、ほぼ絶対的とでも言えるような畏怖の念があるのではないかという点です。
科学技術の持つ力は、特に戦後の私たちに取っては「絶対的」な意味を持っていました。原爆がその典型ですし、アメリカの進駐軍を取り囲む全てがその科学技術の産物のように見えました。原爆を創ったのは物理学者でしたし、日本で初めてノーベル賞に輝いたのも物理学者の湯川秀樹さんでした。そして、その物理学は数学が分らないと近付くことさえできないのですから、物理学と数学は一体のものとして畏怖の対象、何よりも力のある存在として私たちの世界観の中に鎮座していたのです。
「末は博士か大臣か」という言葉で示されている立身出世の序列の中で、こうした背景からは、博士が上位に来ていた時代です。それが今、続いているのかどうかは別にして、絶対的序列のほぼトップにあることは疑いもありません。
そんな序列も重なって、数学の点が悪いことが、こうした大きな「力」によって否定されてしまったのだと感じてしまっても不思議ではありません。逆に、自分のテストが悪かったのは、相手がこれほど大きな存在なのだから仕方がないという正当化としても使えるのですから、その両面から、世界における自分の位置付けとして心の奥に居座ってしまっていたのかもしれません。
絶対的な存在としての位置付けが確固としてある数学だからこそ、試験の点数が自分の人生を否定してしまう存在になり得るのです。
《英語との比較》
最後に、もう一つ、科目として好きな人も多い半面、苦手な人も多い英語と比べてみましょう。英語の場合は、点が悪くても「人生が否定される」という受け止め方は少ないように見えるのですが、それは、大人になっても通える「英語教室」や「英会話教室」の多いことと無関係ではないのではないでしょうか。つまり、勉強すれば身に付けられる科目という相対化がされているということです。
そんな状況が生まれる背景として、英語が苦手な人への応援歌として、「英語なんか難しくはない、アメリカに行けば幼子でも英語を喋っている」という趣旨の言葉が広く知られていることを挙げておきましょう。英語という科目は、自分を否定してしまうほどの絶対的な存在ではないのです。
ここからは、半分ほど本気で読んで頂けると有り難いのですが、これまでの論考から考えられる一つの処方箋は、小学生やその前の段階で例えば微分積分ができたり、数学の難問題を解決したりした場合、「天才少年」「天才少女」と誉めそやす代りに、あるいは誉めそやすのと同時に、「子どもでも分るのが数学なのだ」、「だから君もできる」というメッセージをもっと広めることだと言いたいのですが、如何でしょうか。
今日一日が皆さんにとって素晴らしい24時間になりますよう
[2024/10/11 人間イライザ]
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