#平和記念式典への招待基準 (2) ――#何故、特定の日だけ排除するのか――
#平和記念式典への招待基準 (2)
――#何故、特定の日だけ排除するのか――
閻魔大王の意味は本文で
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《核兵器が国際法違反ではないという価値観を、基準の元にしてはいけない》
平和記念式典に誰を招待し誰を招待しないのかの議論について基本的な問題提起をしてきました。元々、「基準は要らない」のですが、広島市は招待基準を作ると表明してしますので、その立場の人たちへの反論をまとめました。論点は三つにまとめてあります。
前回、第一回では、広島の場合、基準を作る基礎となる価値観が、「核兵器は国際法違反ではない」という、長い間日本政府・外務省が守り続けてきたものになる可能性の高いことを指摘しました。
その大前提として、このシリーズではずっと確認し続けてきた「基本命題」主張を再度、掲げておきます。
結論として、アメリカ人 (そして敢て付け加えますが、どこの国の人であっても) 広島に来ることには大きな意味があるのです。きちんと勉強をしてから来てくれた方がその効果はより大きくなると思いますが、それも含めて、どのような条件も一切付けずに「広島に来て下さい」と、誰にでも自信を持って勧めるべきだと、敢て言い切りたいと思います。
《基準は何故、特定の日だけに限定されるのですか?》
さて、特定の国を式典から排除するということは、その日、8月6日に排除するということなのですが、その他の364日間には排除するとは言っていませんので、恐らく排除はしないのでしょう。
特定の国に対して特定の日に、政治的意思を表示するということであれば、その他の日、例えば、ここではランダムに9月9日にしますが、その日を選んで、その国に対する特別の行動を取るという可能性はないのでしょうか。
例えば、その国の大使を特別に広島に招待して、市長自ら資料館を案内し、被爆者の証言を聞いて貰った上で、核兵器の先制使用はしないという国際行動への協力や、核兵器禁止条約の批准を依頼すれば、建設的でありかつ教育的価値もあると思われます。
その上で、8月6日は、いわば「ヒロシマ休戦」というような意味を持たせて、招待する招待しないといった、排除の論理は捨てる日にする、という可能性も考えられます。
そうではなく、364日間は何もせず、突然8月6日には、「お前は排除する」とあたかも閻魔大王の如く振る舞うのは何故なのでしょうか。一つには、その日には特別の意味、多くの人が認めざるを得ないような力がある、と言って良いでしょう。
それは、被爆の実相や被爆者の持つ「平和の原点」としての力を、あたかも「閻魔大王」として使うことにより、政治的な「排除」のメッセージに権威を与えることになるのではないでしょうか。
地方自治体であっても、その他の団体、あるいは個人が政治的メッセージを発信するのは自由ですが、その権威付けのために被爆者を利用してはいけないことは自明の理なのではないでしょうか。
堂々と、そのメッセージを正面から発信し、9月9日でも良いですし、その他の複数の日でも良いですから、高みからの「判決」ではなく、教育と説得という手段で自らの信条への支持を取り付けるべきなのではないでしょうか。
《一度できた基準は覆し難い》
そしてこれも自明のことですが、そもそも基準が必要ではなくても、あるいは必要だがその内容がおかしいような場合でも、一度基準ができてしまうと、それを覆すことも修正することも至難の業になってしまいます。基準作るべきではない場合は、とにかく基準は作らない、あるいは作らせない、しか選択肢はないように思うのですが---。
さらにもう一点、排除の基準の一つに、式典の会場が混乱することを避ける、という技術的なものもありました。これは本末転倒なのですが、この点についても、一度取り上げましょう。
今日一日が皆さんにとって素晴らしい24時間になりますよう
[2024/9134 人間イライザ]
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