#内灘闘争の歴史を学ぶ ――#JR総連中国地方協議会第38回定期委員会2部――
#内灘闘争の歴史を学ぶ
――#JR総連中国地方協議会第38回定期委員会2部――
#内灘村の西尾雄次町議の挨拶に耳を傾ける
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JR総連中国地方協議会第38回定期委員会2部で、被爆80周年に当たる来年からの核廃絶運動の可能性について話をさせて頂きました。講演会も盛り上がったのですが、この会に来賓として出席されていた西尾雄次内灘町議会議員の短い御挨拶とその後の会話から多くのことを学ばせて頂きました。
「内灘闘争」については、内灘町の公式ホームページに詳しく記されていますが、その冒頭、概略を先ずはお読み下さい。
内灘闘争は、砂丘を舞台に取り組まれた戦後初の基地反対闘争です。1952(昭和27)年在日アメリカ軍は、朝鮮戦争を背景に日本での砲弾試射場の提供を要求、政府は内灘を候補地としました。これに対し、地元住民は反対運動に立ちあがり、政党、労働団体、学生、知識人などの支援を得て、全国的に注目される基地闘争へと拡大しました。しかし、1953(昭和28)年3月からは試射が始まり、政府は試射場の永久使用を決定、これに対する住民の陳情や座り込みが繰り返されました。その後、村内の分裂、試射の強行などによって運動は次第に弱まり、1953(昭和28)年9月、内灘村は試射場として使用を認めました。この闘争は、全国の基地反対闘争に大きな影響を与え、「草の根民主主義への出発点」と高く評価されています。
西尾議員は温厚で、芯が強く、筆の力で多くの人を感動させることのできるまれな政治家です。議員が2013年にお書きになった、「内灘闘争の概要と労働組合支援の背景」(「風と砂の館資料から探る内灘闘争傘下の諸組合活動」内灘闘争60周年記念事業)をお読み頂きたいのですが、回を改めてこのブログに掲載させて頂く積りです。
市民運動の草分けとも言われる内灘闘争は、元々生活の糧を突然奪われることになった内灘村民の「浜返せ」や、「金は一年、土地は千年」の合言葉そしてむしろ旗が象徴する、素朴な運動でした。集会やデモには、赤んぼを背負った多くのお母さんたちが参加していたことでも有名です。
西尾議員の報告には、1953年7月に東京で開かれた総評大会に参加して闘争への支援を訴えた「内灘での主婦5人による挨拶」を、大会参加者が度受け止めたかが記録されています。
「この大会を通じて最も感動的な場面は、内灘の婦人代表による挨拶であった。この5人のおばさんたちを見たとき、議場の人々はその思想と立場の如何を問わず人間として、日本人として内灘米軍基地化の全ての問題を諒解したのであった。簡明素朴なしかも切々たる訴えを聞き、心の底からの共感と憤りを持って、まさに熱狂的な拍手を送った。」
こうした内灘村民と、「再軍備反対」、「平和国家建設」、そして「民族の独立」を唱える労働組合員・学生たちという三つのエネルギーが合わさり新たなエネルギーを創り出す運動になったのでした。
特に、「民族の独立」の位置付けが重要でした。デモや集会では、赤旗に並んで日の丸がはためくいていたことが印象的だったとのことです。
私自身、内灘闘争は政治的に大切な存在であることをおぼろげながらに感じ取った、ある意味「原点」になった出来事でした。JR総連中国地方協議会第38回定期委員会は、その原点に戻る試みでもあったのではないかと考えています。
今日一日が皆さんにとって素晴らしい24時間になりますよう
[2024/10/6 人間イライザ]
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