#1945年3月10日 の #東京空襲 は #ジェノサイドだった ――#一晩 に #10万人が虐殺された日 #忘れられた日――
#1945年3月10日 の #東京空襲 は #ジェノサイドだった
――#一晩 に #10万人が虐殺された日 #忘れられた日――
#我が家は焼け出されました
ブログ激励のために、上のバナーをクリックして下さい
最高裁の判決の根っこを確定して、これからの時代への影響力を減らしたいという作業をしていますが、今日は3月10日ですので、1945年のその日の意味を振り返りましょう。
他人人に、「東京大空襲」と呼ばれますが、それは「虐殺」でした。今の言葉ならジェノサイドと言っても良いかもしれません。、罪のない子供や女性・高齢者が空爆で一晩に約10万人も殺されたのです。その全ては「民間人」でした。
B29の編隊329機が襲来して、木造家屋を焼き尽くす最も効果的な「焼夷弾」を約2時間の内に33万発も落して、東京の中心部を焼き払ったのです。それも、深川地域を中心に、香華対象の地域の外辺部にまず焼夷弾を落し、火事を起して、その内側に住んでいる人は外に逃げられないようにしてから、中心部を爆撃するという「皆殺し」戦法を取ったのです。カーペット・ボミングとも呼ばれました。そして、この作戦を計画、実行、指揮したのが、カーチス・ルメイ司令官でした。[出典はWikipedia https://www.wikiwand.com/ja/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%A4]
次に別のサイトからルメイの回想録の中の言葉を引用しておきましょう。私も他の他の文献でも読んだ記憶があるのですが、それについては確実な出典が見付かり次第アップします。 [出典はユダヤ館 「ヒロシマ・長崎への原爆投下と東京大空襲について」http://www1.s-cat.ne.jp/0123/Jew_ronkou/america/atomic_bomb_holocaust.html]
さて戦後、カーチス・ルメイは回想記の中で次のように述べた。
「私は日本の民間人を殺したのではない。 日本の軍需工場を破壊したのだ。 日本の都市の民家は全て軍需工場だった。 ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。 木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。 女も子供も老人も全て戦闘員だった。 これをやっつけて何が悪いのか」。
カーチス・ルメイは東京大空襲を初めとする無差別爆撃、及び、広島・長崎への原爆投下の直接の責任者であった。 しかし、1964年12月6日、日本政府はカーチス・ルメイに勲一等旭日大綬章を授与した。 授与理由は「カーチス・ルメイは日本の航空自衛隊の育成に協力した」というものである。 この時の総理大臣は後にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作である。
ウクライナもガザも大変非人道的な状況が続いています。一刻も早く戦闘を止めさせなくては、ウクライナでもガザ地区でも犠牲者は日に日に数を増やしています。
それほどの悲劇を前にして世界は憤っています。それは当然です。でも、1945年3が11日には、世界は東京に関心を持ちませんでした。一晩に非戦闘員が10万人も殺されたことが、世界的にはほとんど知られてはいなかった上、知っていた人たちの間から強い抗議の声が上がることもありませんでした。
ウクライナやガザの戦闘を止めさせる努力とともに、1945年3月10日についての私たちの記憶も大切にして、このようなジェノサイドが繰り返されることのないよう、私たちが未来に向けた対応プラン、再発予防計画を立てておかなくてはなりません。
2024年も健康に留意しつつ、少しでも良い年にすべく頑張りましょう。
[2024/3/10 人間イライザ]
[お願い]
文章の下の《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
最近のコメント