人権

2024年3月19日 (火)

#教育勅語 と #御真影 ―― #どう扱われたのか も #一緒に考えないと――

#教育勅語 #御真影

―― #どう扱われたのか #一緒に考えないと――

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#山中恒 ・ #山中典子著 の #間違いだらけの少年H

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教育勅語も軍人勅諭も、「暗記」というより「丸暗記」が基本的には押し付けられました。そして、まず教育勅語に焦点を合わせると、学校行事の大切な節目節目には、最大限の威厳と畏怖の念を伴った行事として、厳粛裡に執り行われました。

その様子を垣間見るためには、「YAHOO!JAPAN知恵袋」の回答の中の「ベストアンサー」が分り易い説明をしてくれています。

そして回答者の「ya1****」さんが最後に触れている、「人間の生き方を示したよい面も含まれていました。」が、教育勅語問題を解く一つのヒントを与えてくれているのです。

恐らく「ya1****」さんにはそのような意図はないだろうと思いますが、それは、最近話題になった広島市長が新人研修のために教育勅語を使ったり、稲田朋美元防衛大臣が教育勅語を正当化したり、日本会議がその普及に熱心だったりするときの「口実」としても使われている言葉だからです。

その口実を受け入れることは、実は軒を貸すことになるのですが、その結果として母屋までというのが、教育勅語推進派の目的だとしてもおかしくはありません。

そんな術中に陥らないために、教育勅語がどう扱われたのか、もう少し詳しく見てみましょう。そのために、私の尊敬する「歴史家」、山中恒さんと山中典子さんに登場して貰います。お二人の書かれた『間違いだらけの少年H』です。副題は「銃後生活史の研究と手引き」で、1999年に勁草書房から出版されています。

この本の53ページから54ページ、そして58ページに興味深い記述があります。まず53から54ページです。

4年生以上の使用する修身教科書の冒頭にはすべてに「教育ニ関スル勅語(一般に「教育勅語」とよばれたが、これは略称)が掲載されていて、4年生になると授業で暗唱させられた。

ばかばかしい話だが、私はいまだに教育勅語が全部暗証できるし、ついこの間までは旧漢字で書き取りもできてしまった。先日も私よりわずか年長の方の話をきいていたら、この方はなんと「ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク、コウショウ、コウアン、コウレイ、コウゲン、カイカ・・・・」とまるで御詠歌でもうたうように、歴代天星の贈り名を百二十三代の大正天主までをみごとにやってのけたのである。教学大旨(明治12=1879)に「仁義忠孝の心は人みなこれあり、しかれどもその幼少のはじめに、その脳髄に感党せしめて培養するにあらざれば、他のものごと、すでに耳に入り、先入主となるときは、後いかんともなすべからず」(引用者註=原文は旧漢字、句読点無し、カタカナ)とあるように、仁義忠考のことは忘れてしまったが、教育勅語の文句だけは経文のように「脳髄に感覚せしめ」られてしまったのである。

さて第1章の年表を見ていただけばわかるが、昭和十五年といえば、昭和十年の天皇神格化の先がけとなった[国体明徴運動」があり、さらには昭和十二年、教育現場における天皇神格視の強化をはかった『国体の本義』編纂配布があり、しかも皇国史観によって、人皇第一代の神武天皇が即位してから二千六百年というので、大々的に「皇紀二千六百年祭」が開催される年にも当たった。それだけに学校教育の現場では子どもたちに、いっそう天皇景仰の臣民感覚をインプリンティングさせるために徹底した天皇崇拝のしつけが行われていたのである。

その「天皇景仰と天皇崇拝」の気持を植え付けるために、大掛かりな式典が挙行されていたのです。山中の58ページに載せられている式次第を見るだけでもその様子が絵見てくるような気がします。

『日本の教育課題1「日の丸」「君が代]と学校』(1995年・佐藤秀夫編・東京法令出版)および『続・現代史資料8・教育―御真影と教育勅語1(前出)には昭和十三(一九三八)年に山形の北村山郡小学校長会が編纂した【三大節明治節其の他儀式次第並に其の作法」というのを紹介している。

もちろんこれは、小学校令施行規則第28条によるもので、各学校の式次第もこれとほぼ同じであったし、私の在籍した小学校・国民学校も全くこれと同じであった。原文はカタカナなので、ひらがなになおして引用しておく。

 

第四 三大節及び明治節拝賀式次第

ー、  職員児童着席

二、  来賓着席

三、  校旗入場(引用者註 = 私の国民学校では、校旗はあらかじめ濱壇の下にかざってあった)

四、  敬礼                                 一同楽器を以て合図

五、  始式の挨拶

六、  開 扉                  一同俯首低頭 学校長奉仕

七、  唱歌  君が代                   二回  一同合唱  楽器伴奏回

八、  御影に対し最敬礼 1、学校長及び職員/2、児童生徒/3、管理者及び参列者

九、  勅語奉読>

一〇、  唱歌勅語奉答    一回  一同合唱  楽器伴奏>

一一、  閉扉                 一同俯首低頭  学校長奉仕

ー二、  学校長誨告  (引用者註=教え告げるの意)

一三、  当日の唱歌  (引用者註=それぞれの式歌)    一回 一同合唱 楽器伴奏

一四、  終式の挨拶

一五、  敬礼                 一同  楽器を以て合図

ー六、  校旗退場

一七、  退場

御真影と教育勅語はいわば一体化された存在であり、教育勅語に「良い面もありました」と言うことは、天皇の存在やその絶対性さえも認めることになるというトリックを御理解頂けたらと思います。そして、一体生かされた御真影と教育勅語は、教員の命を賭けてさえ守らなくてはならない存在だったのです。

例えば、2017.6.10 教育史学会シンポジュウム「教育勅語の何が問題か」(於お茶の水女子大学)での、小股 憲明(大阪芸術大学短期大学部)氏による報告、「教育勅語・御真影をめぐる不敬事件と学校儀式」には、教育勅語についての多面的な解説と、多くの不敬事件や殉職事件の詳細が載せられています。一二を抜き書きしておくと、

  • 明治 40[1907]年 1 月 仙台市県立第一中学校の御真影・教育勅語謄本焼失事件=大友元吉書記の御真影・教育勅語謄本殉職事件~校舎火災の際、取り出そうとして逃げ遅れて殉職。
  • 大正 12[1923]年 9 月 関東大震災時の御真影殉職~関東大震災での殉職者 41 名(神奈川県 27、東京府 13、千葉県 1)。うち東京 13 名中の 8 名までが、「御真影を守護」「御真影奉遷のため奮闘中」の殉職であった。

戦後かなり経った頃でも、少し古い家に行くと、鴨居の上に天皇と皇后の写真が飾られていたことを思い出しますが、「御真影」の意味がハッキリ伝わってきたのは、実に意外な場所からでした。

[当然、続きます]

 

2024年も言葉を大切にして、知的にも情緒的にも誠実さが輝く年にすべく頑張りましょう。

[2024/3/19 人間イライザ]

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2024年3月18日 (月)

#成田悠輔 の #ジェノサイド #提唱 ――#政府 も #一流企業 も その #本質が分っていないのか?――

#成田悠輔 #ジェノサイド  #提唱

――#政府 も #一流企業 その #本質が分っていないのか?――

240317

#高齢者

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成田悠輔 (彼の発言内容の非人道性・犯罪性を強調するために、敢えて敬称は外します) 発言については、一年ほど前に大きく取り上げられました。高齢者の「集団自決」や「集団切腹」以外に、我が国の問題を解決する方法はない、と言いっ切っています。この解決方法を仮に「成田プラン」と呼んでおきましょう。

その後、ニューヨーク・タイムズの取材では、「メタファー」だと言い訳をしていますが、それ以前に彼自身が「メタファーではない」と明言していますので、「メタファーではない」のです。そして子どもたちとの対話では、この趣旨を強調し敷衍しています。「集団自決」ゃ「集団切腹」の提唱に止まらず、煽動をしていると言っても良いのではないでしょうか。

それほど酷い「成田プラン」については、多くのマスコミ報道がありました。大多数の皆さんがその本質を理解したと思っていました。その結果として、成田が発言を撤回し、根本的な反省をして、人権や人間の尊厳、そして未来を創る上での希望の役割等について新たな認識を持つようになることを期待していました。それまでは「猶予」期間とでも言えば良いのでしょうか、公的な役割とは関係ないところにしか登場しないだろうと考えていたのですが、甘過ぎました。

まず、キリンが「集団自決」や「集団切腹」発言のあったことを承知の上で、成田をテレビのコマーシャルに起用したと聞いて、言葉を失いました。それ以上に許せないのは、3月15日に、山本太郎議員の参議院質問の中で明らかになった、政府による成田起用です。政府機関である農水省や財務省が、これまた「集団自決」や「集団切腹」発言を知っていながら、公費で成田を雇っていたのです。

詳しくは山本太郎議員の参議院での追及を御覧下さい。

これは、官民ともに、高齢者の「集団自決」や「集団切腹」を核とする「成田プラン」を、少なくとも容認はしていることを示していることになるのではありませんか。高齢者である私は、それこそ他人事ではないという感覚でとらえました。でも多くの皆さんにとっては、「集団自決」とか「集団切腹」という言葉自体が抽象的過ぎて、その実体が伝わらなかったのかもしれません。

「成田プラン」の中身をより身近に感じて頂く上で、一年前の私のブログ記事が少しはお役に立てると思いますので、簡単な紹介とリンクを貼り付けます。(なお、各記事中に貼り付けてあるリンクの中には削除されてしまっているものもあります。この機会に復活して貰えると良いのですが。)

(1)  昨2023年2月23日には「集団自決や集団切腹のリアルな記憶を大切に」というタイトルで、成田発言の概要と、太平洋戦争や赤穂浪士という現実に起きた集団自決や切腹を思い起こすことの重要性を提起しました。

(2)  その翌日24日には、「立ち止まって考え始めたら、怒りで震えが止まらなくなりました」と題して、小学生を相手に成田が提案した「自動死亡装置」についての思考実験をしてみました。(リンクを貼った『女性自身』のサイトはもう削除されていました。)

(3)  さらに2月28日には、「1,000万人もの人をどう殺すのですか?」というタイトルで、もう一つの思考実験をしてみました。そもそもこんな提案は憲法違反ではないかという問題提起もしています。

今回はそれにもう一点付け加えて、成田発言が国際的にも糾弾されるべき事柄である点を指摘しておきます。昨今、ウクライナやガザでの戦争行為について、「ジェノサイド」という言葉が盛んに使われています。もっとも日本はこの条約を批准していませんので、関心は低いのかもしれません。

成田提案の「高齢者の集団自決、集団切腹しかないんじゃないか。(略) 僕はこれを大真面目に言っていて、(略) これがこの国の明らかな問題だ。」という提案内容は、「ジェノサイド」の勧めです。

まず、「ジェノサイド」の定義を振り返りましょう。ジェノサイド罪の防止と処罰に関する条約(ジェノサイド条約) の第2条です。(国連広報センターのホームページから)

この条約において、ジェノサイドとは、国民的、民族的、人種的または宗教的な集団の全部または一部を、それ自体として破壊する意図をもって行われる以下のいずれかの行為を指す。

a. 集団の構成員を殺害すること、

b. 集団の構成員に重大な身体的または精神的な危害を加えること、

c. 集団にその全部または一部の身体的破壊をもたらすよう意図した生活条件を故意に課すこと、

d. 集団内の出生を妨げることを意図した措置を課すこと、

            e. 集団の子どもを他の集団に強制的に移すこと。

成田プランの対象は、我が国の高齢者ですので、「国民的集団」の「一部」という範疇に入ります。そして、「それ自体として破壊する意図」は、明白です。しかもその「破壊」の内容は「自決」、「切腹」ですから、a.またはc.を満たすことも明らかです。

ある年齢に達すると、自動的に死亡する装置を埋め込む、というのは、a.に該当するでしょうし、ある年齢に達すると、崖から飛び降りる慣習を作るのは、c.でしょう。

ジェノサイド条約では、ある国が自国民に対してこのような行為を取ることは想定されていないのかもしれませんが、農水省や財務省から始まって政府全体がこんな考え方に汚染されてしまったと、これも大胆な思考実験ですが、考えると、国際機関に訴える可能性も出てきますので、ジェノサイドかどうかも検討しておく必要があるのです。少なくとも、ジェノサイドの定義に当てはまるほどの非人道的行動を容認してはならないはずです。そしてそのような行為を公にし、子どもたちにまで広めている行為も看過できません。

サントリーが、桜を見る会に酒類を無償提供していたことが明るみに出て、サントリー製品は使いたくないと感じるようになり、今回のことでキリンも駄目。ことによると、日本製のビールは飲めないというようなことになったら悲劇です。せめて、これほど酷い言説に対しての配慮をするくらいの良識は、利益追求を至上目的とする営利企業にも持っていて欲しいと思うのは、甘いのでしょうか。

そして少なくとも、キリンはコマーシャルを止めたのですから、農水省や財務省もそれと同じレベルの対応くらいはしないと、憲法15条違反になります。「全体」の中には、高齢者も含まれるのですから。

 

2024年も言葉を大切にして、知的にも情緒的にも誠実さが輝く年にすべく頑張りましょう。

[2024/3/18 人間イライザ]

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2024年3月 9日 (土)

#最高裁 は #最高法規 を #超えた存在か? ――#世論 が #憲法解釈 を #左右して良いのか?――

#最高裁 #最高法規 #超えた存在か?

――#世論 #憲法解釈 #左右して良いのか?――

240308

#最高裁 は 何時から #世論調査 の #権威になったのか?

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前回は、婚外子差別について、最高裁判所が5回も合憲であるという判断を示した後、2013年になってようやく「違憲」であることを認めたことを取り上げました。その続きです。

それと全く同じパターンが8日には繰り返されました。8日が国際女性デーにちなんで、「夫婦別姓の選択肢を認めないのは個人の尊重などを求める憲法に違反する」ことを掲げて、12人の勇気ある市民が東京地裁と札幌地裁に提訴したのです。しかも、今の制度である、「強制的夫婦同姓制度」が合憲であるという最高裁判決も複数回出されているのです。

死刑制度は、旧・刑法が定められる以前から存在していましたが、夫婦同姓は、1898年施行の民法で初めて法律的に強制されるようになりました。その点に注目すると、私の主張している「明治刑法や明治民法を守るために、今の憲法が蔑ろにされている」ことを裏付けていると言って良いでしょう。

この例示も含めて、私が問題にしているのは最高裁の果している役割です。婚外子に戻ると、「本人が全くコントロールできない出生の事情を理由に、法的な差別を行ってはいけない」のです。そんな差別が(差別を禁じている)憲法14条違反であることは誰にも分ります。

にもかかわらず、最高裁が複数回にわたり差別が合憲だと言い続け、最後には行けであることを認めたのですが、その理由をWikiwandに求めると、「戦後の家族の形が国民意識が多様化し、諸外国でも差別撤廃が実現していることなどを総合的に考慮し、「子が自ら選択・修正できない事柄を理由として、その子に不利益を及ぼすことは許されないという考えが確立されてきた」と指摘し」たからなのだそうです。

この点について、指摘しておきたいことがいくつかあります。まず、当然の権利が認められずに苦しんだり損をしたりしながら、自らの権利を守るために、諦めずに法廷で問題提起をしてきた婚外子の皆さんや、支援者の皆さんの勇気と遵法精神に敬意を表します。それは憲法12条の義務を果すという私たちの義務を憲法の精神通りに実行したことでもあるのです。

12この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。(後略)

それと対照的に、5回も婚外子差別が合憲だと断定した最高裁には御咎めがないのでしょうか。被害者の側から訴訟を起すといった形ではなくても、最高裁の側で謝罪するなり、被害を受けた人たちに対する一言があっても良いように思うのですが、そのような常識は通用しないほどの意味を、憲法81条(最高裁が法令についての終審裁判所であることを規定)は持っているのでしょうか。

これに関してもう一言付け加えると、81条で最高裁判所に与えられている権限は、98条の規定している、憲法が「最高法規」であることを超えてはいけないはずなのです。つまり、14条の差別禁止条項を無視して、婚外子であれ他の存在であれ、「差別が合憲だ」と憲法に反した判断を下してはいけないはずなのです。

特に、2013年の最高裁判決では、結局のところ、世界の情勢や国内世論が婚外子差別を許さない雰囲気になってきたから差別は違憲にする、と言っているに等しいのですが、これも問題です。

憲法11条と97条では、基本的人権が永久に保障された権利であること、人類が長い間掛って手にしたものであり、侵すことの出ない権利だと宣言しているのですから、それを侵しても良いということを世論を理由に主張することなどできないはずです。

さらに、仮に最高裁が世論の動きに従った決定をすることが許されたとしても問題は残ります。何時から最高裁は、正確に世論を判断する能力を獲得したのでしょうか。世論調査機関を子会社化したとでも言うのでしょうか。恐れ多くも人権についての判断をするに当っては、誰にもとまでは言いませんが、多くの人にとって説得力のある客観的時事を元にして「このように世論が変ったので、それを元に判断する」という結論を示すべきなのではないでしょうか。

 

こう書いて来る内に、死刑について、また最高裁の他の判決について、言いたいことが溢れ出て来てしまいました。少し整理して続けます。

 

2024年も健康に留意しつつ、少しでも良い年にすべく頑張りましょう。

[2024/3/9 人間イライザ]

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2024年3月 8日 (金)

#憲法より #民法を #優先する #最高裁 ―― #婚外子差別 には #5回も #合憲判決を出しています――

#憲法より  #民法を #優先する #最高裁

―― #婚外子差別 には #5回も #合憲判決を出しています――

240307

#2013年 に ようやく #違憲 になりました。その #理屈は #小学生にも分ります。

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前回のタイトルは分り難くなってしまいましたが、明治時代に作られた刑法をそのまま受け継ぐことが、新憲法の遵守より優先されていることを強調したかったのです。今回は、刑法だけではなく、最高裁は、民法も憲法より優先していることを指摘しておきましょう。

その例として、婚外子の人権が無視されてきたことを挙げておきましょう。同じ趣旨のことを4年前にも取り上げていますのでそこからの引用ですが、今回は『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』の改訂版の一部としてどの活用するのかが目的ですので、再度お付き合い下さい。

前回は、1880年に原型、特に刑罰の概要が出来上がった刑法の価値観が、昭和23年の死刑についての最高裁判決のバックボーンであることを確認しました。何故、その姿勢が今でも貫き通されているのかを最終的には解明して、その対策を考えなくてはいけないのですが、今回はその前の段階として、民法も憲法より優先されていることを確認しておきましょう。

一つ注意しておくと、「旧民法」として知られている法律は、1898年に施行されています。新憲法の制定に従って、特に家族法の部分が大改正されていますので、改正後の法律を「民法」と呼びますが、ここで問題にしたいのは、改正されずに残ったところにこそ、刑法の優先と同じ価値観が残っていることです。それは、日本式の家族制度を優先するという考え方です。

日本式の家族制度を保存して行こうという考え方は、当然、民法の骨組みに使われています。たとえば、婚外子 (かつては非嫡出子と呼ばれた) は、相続に当って嫡出子の半分しか遺産を相続できないという差別的な民法900条があったのですが、これは新憲法施行の際には全く顧みられませんでした。

それから60年以上経って、2013年に、この規定が制定されてから115年振りにようやく削除されたのです。「家長」が妻以外の女性との間にもうけた子どもに対する家族の憎しみ等の感情もこの差別を助長していたのですが、「家長」は非難の対象にはならず、親を選べない子どもの人権が認められないという状態が戦後60年以上続いていたのです。

それだけではなく、婚外子の人権を守るために、何度か訴訟が起こされ、婚外子差別は違憲であるという主張が行われたにもかかわらず、そのたびに最高裁は、この差別は「合憲」だという判断を下していたのです。つまり、憲法より優先される価値や世界観が日本社会の動きを左右していたことが明らかに示されているのです。

1995年には、最高裁の大法廷が「合憲」判決を出し、その後、2000年、2003年、2004年、2009年と、頑なに5回も回を重ねて、差別を合憲だと言い張ってきたのです。

その理由は概ね次の通りです。

日本の婚姻制度は法律婚を建前としている。そして相続権のある子どもとは、その法律婚の中で生まれた子どもを意味することが当然である。しかしながら、婚外子の存在することも事実であり、法律婚を尊重する立場と、婚外子の権利を保護する立場を調整しなくてはならない。その結果が、相続額を「半分」にするということであり、その違いは「合理的理由のない差別」とは言えない――というものです。

それに対する反論はストレートで、誰にでも分ります。つまり、出生の事情は本人が全くコントロールできないことであり、それを理由に法的な差別の行われるのは、(差別を禁じている)憲法14条違反である。

死刑が違憲であることの「証明」と最高裁の判決の比較をした際にも同じ理由を掲げましたが、専門家がその権威に依って正当化することより、小学生が理解できて、その結果、説明することで納得できる事柄の方が真実である可能性は段違いに高いのです。

(ここで「小学生」にしたのは、知的な能力と発達段階を考慮して、論理的な議論のできる最低年齢はこのくらいかな、という意味での言葉です。詳しく条件化すると飛んでもない手間が掛かりますので。)

 

2024年も健康に留意しつつ、少しでも良い年にすべく頑張りましょう。

[2024/3/8 人間イライザ]

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2024年3月 7日 (木)

#昭和23年 #最高裁判決 は #刑法を受け継いでいる ―― #1880年 に #時を移して #考えると良く分ります――

#昭和23  #最高裁判決 #刑法を受け継いでいる

―― #1880 #時を移して #考えると良く分ります――

240306

#憲法 は 変っても #刑法 は #そのまま に!

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「憲法99条は法的義務ではない」という主張が、ほとんどの人には知られないまま静かに日本社会全体に広まり、公権力や大きな経済力を持つ人々の間では「法治国家」とも思えないような腐敗が進み社会や政治の劣化は止まるところを知らない。片や、もう一方ではそんな底流には気付かず、腐敗については慨嘆しつつも、半ば以上諦めてしまっている人が大多数を占めている――誇張とともに単純化して描くとこれが日本の現状だと思われます。大変悲観的な状況に見えるのですが、それを変えるために何ができるのかを考えています。

これを言い換えると、20年、30年というスパンで賃金は上がらず、ジェンダー・ギャップも世界最低の線を彷徨っていることに象徴される我が国の政治状況に対して、革命はもとよりストライキも起らない不思議さをどう理解し、それをどう変えて行くのか、ということを問題にしています。

一つの国としてあるいは社会として、憲法以上に大切な「何か」、つまり価値なり存在があり、それを守るために自然に行動してしまうことになっていると考えると、今の日本の状況に当てはまるようにも感じられます。となると、その「何か」は何なのでしょうか。

このような問題意識は、「数学書として憲法を読む」ことから生まれたのですが、その原因に近付く上でも、「素直に憲法を読む」姿勢から得られる視点が役立ちます。

その結果の一つとして、「憲法マジック」、つまり憲法には「○○である」と書いてあることを、最高裁判所の判決では「○○ではない」と判断している事例を分析して、その背景や歴史、そしてその目的等を理解するという作業に至りました。

憲法マジックの典型は、死刑です。そこに焦点を合わせて、「何か」を探って行きましょう。

憲法では複数の条項の簡単な論理的帰結として、死刑は禁止されていることが分ります。でも昭和23年の最高裁の判決では、死刑は合憲なのです。それが如何に非論理的なのか、また常識とはかけ離れているのかを『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』では詳しく説明しましたし、ブログでも何回かに分けて、アップしました。

今回は、その一連の考察を元に、「時代錯誤」ではないかとまで思った記述から学べる点を取り上げます。最高裁判決の最後の部分です。

将来若し死刑について火あぶり,はりつけ,さらし首,釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば,その法律こそは,まさに憲法第36条に違反するものというべきである。前述のごとくであるから,死刑そのものをもつて残虐な刑罰と解し,刑法死刑の規定を憲法違反とする弁護人の論旨は,理由なきものといわねばならぬ。

本ブログの2月12日の説明を繰り返すと、

さて、ここで引っ掛かるのは「前述のごとくであるから,死刑そのものをもつて残虐な刑罰と解し,刑法死刑の規定を憲法違反とする弁護人の論旨は,理由なきものといわねばならぬ。」です。

つまり、この段落の前半の部分で述べたことから、「死刑そのものを残虐な刑罰」だと考えたり、「死刑の規定を憲法違反」だと主張する弁護人の論旨は「理由なきもの」だと言っています。

しかし、もう一度この段落を読んで下さい。確かに、火あぶり等、残虐な死刑執行事例は挙げられています。でも、死刑そのものが「残虐ではない」のはなぜかという理由はどこにも述べられていないのです。また、死刑が憲法に違反しないという理由も、この後段にも述べられていません。

これまで取り上げてきた最高裁判決の前段では「公共の福祉に反しない限り」という必要条件が述べられていることだけを理由に、死刑は「予想されている」と述べ、後段では、何の理由も示さずに、死刑が憲法違反だという論旨は「理由なきもの」だと断定しています。

結局、最高裁の判決では、理由を示さずに死刑が合憲だと主張しているに過ぎないのです。

最高裁の主張は、野崎昭弘著『詭弁論理学』(1967年、中公新書)に依れば、「強弁」だということになるのですが、詳しくは野崎先生に任せます。

しかし最高裁としては、この判決が論理的かつ法的にも問題がないと考えたのでしょうから、そう考える上での、隠された前提といったものが何であるのかを明らかにすることで、私たちには不可解な言説の意味が解き明かされるはずです。

そのためには、刑法の簡単な歴史が役立ちます。明治憲法が制定されたのは、明治22年(1889年)です。一方刑法は、現在「旧・刑法」または「明治15年刑法」として知られている「明治13年太政官布告第36号」として、1880年に成立し、1882年(明治15年)に施行されています。それが、より近代的な形になったのが、1907年に公布、翌年に施行された「刑法典」です。

ただし、刑罰の部分の骨格は、旧・刑法で固められ、刑法典ではそれを受け継いでいますので、死刑についての考え方は、既に、1880年の時点でまとめられているのです。

それ以前の措置として、1868年(明治元年)には焚刑が廃止され、1871年に磔刑が廃止されています。これらは「刑罰を簡略化し残酷な刑罰を廃止した」ことの一部ですが、梟首(または獄門、晒し首)、そして斬首は、旧・刑法によって廃止されるまで続きました。

[以上、詳しくは、Wikiwand の刑法を参照して下さい)]

そして、旧・刑法が成立した1880年の時点では、死刑が合法であることには議論の余地さえなく、問題は「残酷な刑罰」の廃止でした。

それに昭和23年の最高裁の判決を重ねると、ぴったり一致します。つまり、この判決は、旧・刑法そしてそれを受け継いだ刑法の考え方・価値観をそのまま述べているのです。

新たに日本国憲法が成立して2年、明治憲法を改正する形で憲法そのものは新憲法になったとしても、明治憲法以前に成立していた旧・憲法に盛り込まれた我が国固有の価値観こそ守り通さなくてはならない、という暗黙裡の願望が潜んでいたとすると、この判決の位置付けがなおハッキリするような気がします。

 

2024年も健康に留意しつつ、少しでも良い年にすべく頑張りましょう。

[2024/3/7 人間イライザ]

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2024年3月 6日 (水)

#京都地裁 は #嘱託殺人 との #判決 ―― #憲法12条 や #憲法27条 とも #関係があります――

#京都地裁 #嘱託殺人 との #判決

―― #憲法12 #憲法27 とも #関係があります――

240305

#安楽死 についても #さらなる議論が必要です

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全身の筋肉が徐々に衰えるという症状のでる難病、ALS (筋萎縮性側索硬化症) 患者林優美さんに依頼され、2019年に、薬物を投与してこの患者を殺害した罪に問われていた医師、大久保愉一(よしかず)被告に対する判決が、京都地裁から出されました。求刑23年に対して18年の懲役でした。(YAHOO! JAPANニュース、3月5日配信の「8カンテレ」と、毎日新聞の同日配信による)

「8カンテレ」によると、京都地裁の川上裁判長は、「主治医でもなくALSの専門医でもなく、SNSのやり取りがあったにすぎず、これまでの経過や現在の症状も把握せず、主治医や近親者等にも知らせることなく秘密裏に、その日初めて会ったばかりの被害者の十分な診察や意思確認ができるとは思えない」などと指摘。 そして「130万円の報酬の振り込みがあってから行動したのを考えれば、被害者のためを思って犯行に及んだものとは考え難く、利益を求めた犯行であったと言わざるを得ない。被告人の生命軽視の姿勢は顕著であり、強い非難に値する」と断じたとのことです。

被告は、起訴内容は認めていましたが、「林さんの願いを叶えるために行った」と自らの行為の正当性を主張し、さらに弁護側は、嘱託殺人罪を適用するのは、林さんに「望まない生」を強いることになり憲法に反するとして、無罪を主張していました。

安楽死か嘱託殺人かをどう判断するのかは難しい問題ですし、ALS患者の皆さんの気持が最優先されるべきだと思います。

同時に、「数学書として憲法を読む」立場からは、それとは別の見方があることもお伝えしておきたいと思います。詳しくは『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』の154ページを参照して頂きたいのですが、憲法は自殺を禁止しています。根拠は27条と12条です。ここでは、12条だけを取り上げておきましょう。

12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

憲法の13条と25条、そしてこの12条は論理的帰結として、それぞれ独立に死刑を禁止しているのですが、12条は自殺も禁止しています。それは、「国民の不断の努力」が義務として規定されているからです。「不断」とは、途絶えてはいけないことです。自殺をしてしまっては、不断ではなく、正に努力を断ってしまうのですから、それは12条違反です。

嘱託殺人は、憲法で禁じられている自殺を、他人の手を借りて実行することを意味しますから、二重の意味で禁じられている行為だということになります。出来れば、そこまで踏み込んでの議論をして貰いたかったのですが、憲法そのものを蔑ろにしてきた日本社会としてはこれが精一杯だったのかもしれません。

同時に、改めて安楽死の是非を考えて見ると、こうして、論理だけに依拠して憲法を読んできても、それだけでは、「情理」を尽くす結論にはなかなか行き着けないような気もします。そこから短絡的に、字義通りに憲法を読むことは止めてしまっては、残るのは誕生論になってしまいます。素直にあるがままに憲法を読みながら、より広い見地からのインプットを生かして考え続け、思い続けることが大切だという平凡な結論になりますが、今回はこの辺で。

 

2024年も健康に留意しつつ、少しでも良い年にすべく頑張りましょう。

[2024/3/6 人間イライザ]

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2024年3月 4日 (月)

#五ノ井里奈さん に #勇気ある国際女性賞 ――これを #日本の未来 に #つなげる責任は私たちにある――

#五ノ井里奈さん #勇気ある国際女性賞

――これを #日本の未来 #つなげる責任は私たちにある――

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Credit: “The Sirota Family and the 20th Century” at Japan Society, NYC | Joel Neville Anderson from New York & Rochester, NY, USA; cropped by Beyond My Ken (talk) 02:43, 3 January 2013 (UTC)

#ベアテ・シロタ・ゴードンさん の #志を受け継がなくてはなりません

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日本社会を覆う、なんとも言えない「モヤモヤ」について、その正体を理解するために格闘していますが、五ノ井里奈さんの「勇気ある国際女性賞」受賞が、一つのヒントを与えてくれているような気がしています。

朝日新聞DIGITALの3月2日の報道によると、アメリカの国務省は、元自衛官の五ノ井里奈さんに、勇気ある国際女性賞を授与することにしたそうです。

受賞理由は、「セクシュアルハラスメントと説明責任を国民的議論に押し上げ、伝統的な日本社会でタブー視されてきた問題に光を当てた。性被害を受けた無数のサバイバーたちが、沈黙の中でこれ以上苦しむことがないよう、自らの体験を名乗り出ることを後押しした」こと。そして、彼女の勇気ある行動の結果、「自衛隊はジェンダーを問わず日本人が尊厳を持って国を守れるよう、より安全な職場の構築を進めている」ことになったとも述べています。

五ノ井さんの勇気について、また我が国のジェンダー・ギャップについて詳細に論じることは他の方々にお任せします。

折角の機会ですから、この賞の他の受賞者たちも一緒に世界という枠組みの中で考えると、この賞を機会に、私たちが改めて日本の未来に責任を持ち、新たな決意で社会全体を変える努力をしなくてはならないことに気付きます。「モヤモヤ」があっても努力を続けなくてはならないのです。

そのために、アメリカ国務省のホームページを見ると、この賞の今年の受賞者は12人です。国別には、アイウエオ順に、アフガニスタン、イラン、ウガンダ、エクアドル、ガンビア、キューバ、バングラデシュ、ミャンマー、ベラルーシ、ボスニアヘルツェゴビナ、モロッコ、そして日本です。

2023年の世界ジェンダー・ギャップ・レポートのジェンダー・ギャップ・ランキングの順だと、次の通りです。

41位 ベラルーシ

51位 エクアドル

59位 バングラデシュ

78位 ウガンダ

86位 ボスニアヘルツェゴビナ

119位 ガンビア

123位 ミャンマー

125 日本 

136位 モロッコ

143位 イラン

146位 アフガニスタン

キューバ (ランキングには掲載なし)

改めてこのランキングと受賞者の一覧を見て、日本人一般のジェンダー・ギャップについての認識が甘いことを再認識しています。人権意識と言い換えても良いでしょう。それは取りも直さず、憲法が日本社会に生かされていないことの証拠です。

ジェンダー・ギャップについては、昨年の6月に世界経済フォーラムの発表をマスコミが取り上げています。でも、その結果が政治の世界を揺るがしもせず、社会全体としての対応も悪化の一途を辿るだけで、経済面での30年間の賃金の停滞とともに、何事もなかったのかのような扱いをされてきました。

ジェンダー・ギャップの指数の推移と、賃金の推移のグラフを見て下さい。

240303-20240303-205136

ジェンダー・ギャップ指数の推移

240303-g7-20240303-205447

賃金の推移国際比較

20年、30年という長い間、女性が虐げられ賃金の面でもこれほどの停滞が続いているのですから、「革命」が起きてもおかしくはありません。しかし、日本の国民は動かなかった。だから20年、30年と続いたのです。社会全体が取り組むべき大きな問題について、毎年数字は公開されていても、それを自分の問題として、「当事者」として受け止めて来なかったということなのではないでしょうか。

その意味で、五ノ井さんの勇気ある行動がアメリカの国務省にさえ認められたということは、逆に我が国の社会の持つ闇の部分が如何に深いのかということを示してはいないでしょうか。

そして、その闇を理解する上で、もう一人の勇気ある女性が頭に浮かびました。終戦直後、女性の権利を日本国憲法に24条として追加するために頑張ってくれたベアテ・シロタ・ゴードンさんです。彼女はGHQという軍組織、そして占領軍という日本側からは従うしか選択肢がなかった存在の中で、日本で一番弱い存在だった女性のために勇気を奮った人だったのです。

もう一つ、これは米国務省というもう一方の公権力の力が生きるかもしれないという点です。五ノ井さんという一人の人間の勇気が元になって、社会全体が大きく変るという良い結果になればそれは素晴らしいのですが、その逆の可能性も残っています。戦前からの軍隊の体質が、今でも自衛隊に残っているとしたら (そしてその可能性は否定できないのですが) 、やがて、五ノ井さんという個人がその大きな力に飲み込まれたり、逆に恨まれたりする可能性さえあるかもしれません。

そんな逆反応を抑えるために、日本社会にはかなりの影響力のある「外圧」、特に「米国務省」からの外圧として、この賞が役立つかもしれないではありませんか。それは、今ようやく始まった (と、少なくとも信じたい) 社会全体での人権、特に女性やマイノリティーの位置付けの見直しを確実にする上で、当然大きな役割を果すはずです。

執拗に、憲法の精神を否定しようとする勢力に対抗するためには、五ノ井さんのような勇気ある人たちを応援し、時間枠や空間枠に捉われずに、至る所で頑張っている「同志」を見付け、連帯し激励し合い、エネルギーを分け合いながら、当り前のことかもしれませんが、努力を続けることが、やはり基本になるのではないでしょうか。

 

2024年も健康に留意しつつ、少しでも良い年にすべく頑張りましょう。

[2024/3/4 人間イライザ]

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