死刑

2024年3月 9日 (土)

#最高裁 は #最高法規 を #超えた存在か? ――#世論 が #憲法解釈 を #左右して良いのか?――

#最高裁 #最高法規 #超えた存在か?

――#世論 #憲法解釈 #左右して良いのか?――

240308

#最高裁 は 何時から #世論調査 の #権威になったのか?

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前回は、婚外子差別について、最高裁判所が5回も合憲であるという判断を示した後、2013年になってようやく「違憲」であることを認めたことを取り上げました。その続きです。

それと全く同じパターンが8日には繰り返されました。8日が国際女性デーにちなんで、「夫婦別姓の選択肢を認めないのは個人の尊重などを求める憲法に違反する」ことを掲げて、12人の勇気ある市民が東京地裁と札幌地裁に提訴したのです。しかも、今の制度である、「強制的夫婦同姓制度」が合憲であるという最高裁判決も複数回出されているのです。

死刑制度は、旧・刑法が定められる以前から存在していましたが、夫婦同姓は、1898年施行の民法で初めて法律的に強制されるようになりました。その点に注目すると、私の主張している「明治刑法や明治民法を守るために、今の憲法が蔑ろにされている」ことを裏付けていると言って良いでしょう。

この例示も含めて、私が問題にしているのは最高裁の果している役割です。婚外子に戻ると、「本人が全くコントロールできない出生の事情を理由に、法的な差別を行ってはいけない」のです。そんな差別が(差別を禁じている)憲法14条違反であることは誰にも分ります。

にもかかわらず、最高裁が複数回にわたり差別が合憲だと言い続け、最後には行けであることを認めたのですが、その理由をWikiwandに求めると、「戦後の家族の形が国民意識が多様化し、諸外国でも差別撤廃が実現していることなどを総合的に考慮し、「子が自ら選択・修正できない事柄を理由として、その子に不利益を及ぼすことは許されないという考えが確立されてきた」と指摘し」たからなのだそうです。

この点について、指摘しておきたいことがいくつかあります。まず、当然の権利が認められずに苦しんだり損をしたりしながら、自らの権利を守るために、諦めずに法廷で問題提起をしてきた婚外子の皆さんや、支援者の皆さんの勇気と遵法精神に敬意を表します。それは憲法12条の義務を果すという私たちの義務を憲法の精神通りに実行したことでもあるのです。

12この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。(後略)

それと対照的に、5回も婚外子差別が合憲だと断定した最高裁には御咎めがないのでしょうか。被害者の側から訴訟を起すといった形ではなくても、最高裁の側で謝罪するなり、被害を受けた人たちに対する一言があっても良いように思うのですが、そのような常識は通用しないほどの意味を、憲法81条(最高裁が法令についての終審裁判所であることを規定)は持っているのでしょうか。

これに関してもう一言付け加えると、81条で最高裁判所に与えられている権限は、98条の規定している、憲法が「最高法規」であることを超えてはいけないはずなのです。つまり、14条の差別禁止条項を無視して、婚外子であれ他の存在であれ、「差別が合憲だ」と憲法に反した判断を下してはいけないはずなのです。

特に、2013年の最高裁判決では、結局のところ、世界の情勢や国内世論が婚外子差別を許さない雰囲気になってきたから差別は違憲にする、と言っているに等しいのですが、これも問題です。

憲法11条と97条では、基本的人権が永久に保障された権利であること、人類が長い間掛って手にしたものであり、侵すことの出ない権利だと宣言しているのですから、それを侵しても良いということを世論を理由に主張することなどできないはずです。

さらに、仮に最高裁が世論の動きに従った決定をすることが許されたとしても問題は残ります。何時から最高裁は、正確に世論を判断する能力を獲得したのでしょうか。世論調査機関を子会社化したとでも言うのでしょうか。恐れ多くも人権についての判断をするに当っては、誰にもとまでは言いませんが、多くの人にとって説得力のある客観的時事を元にして「このように世論が変ったので、それを元に判断する」という結論を示すべきなのではないでしょうか。

 

こう書いて来る内に、死刑について、また最高裁の他の判決について、言いたいことが溢れ出て来てしまいました。少し整理して続けます。

 

2024年も健康に留意しつつ、少しでも良い年にすべく頑張りましょう。

[2024/3/9 人間イライザ]

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2024年3月 8日 (金)

#憲法より #民法を #優先する #最高裁 ―― #婚外子差別 には #5回も #合憲判決を出しています――

#憲法より  #民法を #優先する #最高裁

―― #婚外子差別 には #5回も #合憲判決を出しています――

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#2013年 に ようやく #違憲 になりました。その #理屈は #小学生にも分ります。

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前回のタイトルは分り難くなってしまいましたが、明治時代に作られた刑法をそのまま受け継ぐことが、新憲法の遵守より優先されていることを強調したかったのです。今回は、刑法だけではなく、最高裁は、民法も憲法より優先していることを指摘しておきましょう。

その例として、婚外子の人権が無視されてきたことを挙げておきましょう。同じ趣旨のことを4年前にも取り上げていますのでそこからの引用ですが、今回は『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』の改訂版の一部としてどの活用するのかが目的ですので、再度お付き合い下さい。

前回は、1880年に原型、特に刑罰の概要が出来上がった刑法の価値観が、昭和23年の死刑についての最高裁判決のバックボーンであることを確認しました。何故、その姿勢が今でも貫き通されているのかを最終的には解明して、その対策を考えなくてはいけないのですが、今回はその前の段階として、民法も憲法より優先されていることを確認しておきましょう。

一つ注意しておくと、「旧民法」として知られている法律は、1898年に施行されています。新憲法の制定に従って、特に家族法の部分が大改正されていますので、改正後の法律を「民法」と呼びますが、ここで問題にしたいのは、改正されずに残ったところにこそ、刑法の優先と同じ価値観が残っていることです。それは、日本式の家族制度を優先するという考え方です。

日本式の家族制度を保存して行こうという考え方は、当然、民法の骨組みに使われています。たとえば、婚外子 (かつては非嫡出子と呼ばれた) は、相続に当って嫡出子の半分しか遺産を相続できないという差別的な民法900条があったのですが、これは新憲法施行の際には全く顧みられませんでした。

それから60年以上経って、2013年に、この規定が制定されてから115年振りにようやく削除されたのです。「家長」が妻以外の女性との間にもうけた子どもに対する家族の憎しみ等の感情もこの差別を助長していたのですが、「家長」は非難の対象にはならず、親を選べない子どもの人権が認められないという状態が戦後60年以上続いていたのです。

それだけではなく、婚外子の人権を守るために、何度か訴訟が起こされ、婚外子差別は違憲であるという主張が行われたにもかかわらず、そのたびに最高裁は、この差別は「合憲」だという判断を下していたのです。つまり、憲法より優先される価値や世界観が日本社会の動きを左右していたことが明らかに示されているのです。

1995年には、最高裁の大法廷が「合憲」判決を出し、その後、2000年、2003年、2004年、2009年と、頑なに5回も回を重ねて、差別を合憲だと言い張ってきたのです。

その理由は概ね次の通りです。

日本の婚姻制度は法律婚を建前としている。そして相続権のある子どもとは、その法律婚の中で生まれた子どもを意味することが当然である。しかしながら、婚外子の存在することも事実であり、法律婚を尊重する立場と、婚外子の権利を保護する立場を調整しなくてはならない。その結果が、相続額を「半分」にするということであり、その違いは「合理的理由のない差別」とは言えない――というものです。

それに対する反論はストレートで、誰にでも分ります。つまり、出生の事情は本人が全くコントロールできないことであり、それを理由に法的な差別の行われるのは、(差別を禁じている)憲法14条違反である。

死刑が違憲であることの「証明」と最高裁の判決の比較をした際にも同じ理由を掲げましたが、専門家がその権威に依って正当化することより、小学生が理解できて、その結果、説明することで納得できる事柄の方が真実である可能性は段違いに高いのです。

(ここで「小学生」にしたのは、知的な能力と発達段階を考慮して、論理的な議論のできる最低年齢はこのくらいかな、という意味での言葉です。詳しく条件化すると飛んでもない手間が掛かりますので。)

 

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2024年3月 7日 (木)

#昭和23年 #最高裁判決 は #刑法を受け継いでいる ―― #1880年 に #時を移して #考えると良く分ります――

#昭和23  #最高裁判決 #刑法を受け継いでいる

―― #1880 #時を移して #考えると良く分ります――

240306

#憲法 は 変っても #刑法 は #そのまま に!

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「憲法99条は法的義務ではない」という主張が、ほとんどの人には知られないまま静かに日本社会全体に広まり、公権力や大きな経済力を持つ人々の間では「法治国家」とも思えないような腐敗が進み社会や政治の劣化は止まるところを知らない。片や、もう一方ではそんな底流には気付かず、腐敗については慨嘆しつつも、半ば以上諦めてしまっている人が大多数を占めている――誇張とともに単純化して描くとこれが日本の現状だと思われます。大変悲観的な状況に見えるのですが、それを変えるために何ができるのかを考えています。

これを言い換えると、20年、30年というスパンで賃金は上がらず、ジェンダー・ギャップも世界最低の線を彷徨っていることに象徴される我が国の政治状況に対して、革命はもとよりストライキも起らない不思議さをどう理解し、それをどう変えて行くのか、ということを問題にしています。

一つの国としてあるいは社会として、憲法以上に大切な「何か」、つまり価値なり存在があり、それを守るために自然に行動してしまうことになっていると考えると、今の日本の状況に当てはまるようにも感じられます。となると、その「何か」は何なのでしょうか。

このような問題意識は、「数学書として憲法を読む」ことから生まれたのですが、その原因に近付く上でも、「素直に憲法を読む」姿勢から得られる視点が役立ちます。

その結果の一つとして、「憲法マジック」、つまり憲法には「○○である」と書いてあることを、最高裁判所の判決では「○○ではない」と判断している事例を分析して、その背景や歴史、そしてその目的等を理解するという作業に至りました。

憲法マジックの典型は、死刑です。そこに焦点を合わせて、「何か」を探って行きましょう。

憲法では複数の条項の簡単な論理的帰結として、死刑は禁止されていることが分ります。でも昭和23年の最高裁の判決では、死刑は合憲なのです。それが如何に非論理的なのか、また常識とはかけ離れているのかを『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』では詳しく説明しましたし、ブログでも何回かに分けて、アップしました。

今回は、その一連の考察を元に、「時代錯誤」ではないかとまで思った記述から学べる点を取り上げます。最高裁判決の最後の部分です。

将来若し死刑について火あぶり,はりつけ,さらし首,釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば,その法律こそは,まさに憲法第36条に違反するものというべきである。前述のごとくであるから,死刑そのものをもつて残虐な刑罰と解し,刑法死刑の規定を憲法違反とする弁護人の論旨は,理由なきものといわねばならぬ。

本ブログの2月12日の説明を繰り返すと、

さて、ここで引っ掛かるのは「前述のごとくであるから,死刑そのものをもつて残虐な刑罰と解し,刑法死刑の規定を憲法違反とする弁護人の論旨は,理由なきものといわねばならぬ。」です。

つまり、この段落の前半の部分で述べたことから、「死刑そのものを残虐な刑罰」だと考えたり、「死刑の規定を憲法違反」だと主張する弁護人の論旨は「理由なきもの」だと言っています。

しかし、もう一度この段落を読んで下さい。確かに、火あぶり等、残虐な死刑執行事例は挙げられています。でも、死刑そのものが「残虐ではない」のはなぜかという理由はどこにも述べられていないのです。また、死刑が憲法に違反しないという理由も、この後段にも述べられていません。

これまで取り上げてきた最高裁判決の前段では「公共の福祉に反しない限り」という必要条件が述べられていることだけを理由に、死刑は「予想されている」と述べ、後段では、何の理由も示さずに、死刑が憲法違反だという論旨は「理由なきもの」だと断定しています。

結局、最高裁の判決では、理由を示さずに死刑が合憲だと主張しているに過ぎないのです。

最高裁の主張は、野崎昭弘著『詭弁論理学』(1967年、中公新書)に依れば、「強弁」だということになるのですが、詳しくは野崎先生に任せます。

しかし最高裁としては、この判決が論理的かつ法的にも問題がないと考えたのでしょうから、そう考える上での、隠された前提といったものが何であるのかを明らかにすることで、私たちには不可解な言説の意味が解き明かされるはずです。

そのためには、刑法の簡単な歴史が役立ちます。明治憲法が制定されたのは、明治22年(1889年)です。一方刑法は、現在「旧・刑法」または「明治15年刑法」として知られている「明治13年太政官布告第36号」として、1880年に成立し、1882年(明治15年)に施行されています。それが、より近代的な形になったのが、1907年に公布、翌年に施行された「刑法典」です。

ただし、刑罰の部分の骨格は、旧・刑法で固められ、刑法典ではそれを受け継いでいますので、死刑についての考え方は、既に、1880年の時点でまとめられているのです。

それ以前の措置として、1868年(明治元年)には焚刑が廃止され、1871年に磔刑が廃止されています。これらは「刑罰を簡略化し残酷な刑罰を廃止した」ことの一部ですが、梟首(または獄門、晒し首)、そして斬首は、旧・刑法によって廃止されるまで続きました。

[以上、詳しくは、Wikiwand の刑法を参照して下さい)]

そして、旧・刑法が成立した1880年の時点では、死刑が合法であることには議論の余地さえなく、問題は「残酷な刑罰」の廃止でした。

それに昭和23年の最高裁の判決を重ねると、ぴったり一致します。つまり、この判決は、旧・刑法そしてそれを受け継いだ刑法の考え方・価値観をそのまま述べているのです。

新たに日本国憲法が成立して2年、明治憲法を改正する形で憲法そのものは新憲法になったとしても、明治憲法以前に成立していた旧・憲法に盛り込まれた我が国固有の価値観こそ守り通さなくてはならない、という暗黙裡の願望が潜んでいたとすると、この判決の位置付けがなおハッキリするような気がします。

 

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2024年3月 6日 (水)

#京都地裁 は #嘱託殺人 との #判決 ―― #憲法12条 や #憲法27条 とも #関係があります――

#京都地裁 #嘱託殺人 との #判決

―― #憲法12 #憲法27 とも #関係があります――

240305

#安楽死 についても #さらなる議論が必要です

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全身の筋肉が徐々に衰えるという症状のでる難病、ALS (筋萎縮性側索硬化症) 患者林優美さんに依頼され、2019年に、薬物を投与してこの患者を殺害した罪に問われていた医師、大久保愉一(よしかず)被告に対する判決が、京都地裁から出されました。求刑23年に対して18年の懲役でした。(YAHOO! JAPANニュース、3月5日配信の「8カンテレ」と、毎日新聞の同日配信による)

「8カンテレ」によると、京都地裁の川上裁判長は、「主治医でもなくALSの専門医でもなく、SNSのやり取りがあったにすぎず、これまでの経過や現在の症状も把握せず、主治医や近親者等にも知らせることなく秘密裏に、その日初めて会ったばかりの被害者の十分な診察や意思確認ができるとは思えない」などと指摘。 そして「130万円の報酬の振り込みがあってから行動したのを考えれば、被害者のためを思って犯行に及んだものとは考え難く、利益を求めた犯行であったと言わざるを得ない。被告人の生命軽視の姿勢は顕著であり、強い非難に値する」と断じたとのことです。

被告は、起訴内容は認めていましたが、「林さんの願いを叶えるために行った」と自らの行為の正当性を主張し、さらに弁護側は、嘱託殺人罪を適用するのは、林さんに「望まない生」を強いることになり憲法に反するとして、無罪を主張していました。

安楽死か嘱託殺人かをどう判断するのかは難しい問題ですし、ALS患者の皆さんの気持が最優先されるべきだと思います。

同時に、「数学書として憲法を読む」立場からは、それとは別の見方があることもお伝えしておきたいと思います。詳しくは『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』の154ページを参照して頂きたいのですが、憲法は自殺を禁止しています。根拠は27条と12条です。ここでは、12条だけを取り上げておきましょう。

12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

憲法の13条と25条、そしてこの12条は論理的帰結として、それぞれ独立に死刑を禁止しているのですが、12条は自殺も禁止しています。それは、「国民の不断の努力」が義務として規定されているからです。「不断」とは、途絶えてはいけないことです。自殺をしてしまっては、不断ではなく、正に努力を断ってしまうのですから、それは12条違反です。

嘱託殺人は、憲法で禁じられている自殺を、他人の手を借りて実行することを意味しますから、二重の意味で禁じられている行為だということになります。出来れば、そこまで踏み込んでの議論をして貰いたかったのですが、憲法そのものを蔑ろにしてきた日本社会としてはこれが精一杯だったのかもしれません。

同時に、改めて安楽死の是非を考えて見ると、こうして、論理だけに依拠して憲法を読んできても、それだけでは、「情理」を尽くす結論にはなかなか行き着けないような気もします。そこから短絡的に、字義通りに憲法を読むことは止めてしまっては、残るのは誕生論になってしまいます。素直にあるがままに憲法を読みながら、より広い見地からのインプットを生かして考え続け、思い続けることが大切だという平凡な結論になりますが、今回はこの辺で。

 

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[2024/3/6 人間イライザ]

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2024年2月18日 (日)

#説明なしに #死刑 が #合憲 だと #断定して良いのか? ――#98条 の #最高法規 が #決定権 を持ちます――

#説明なしに #死刑 #合憲 だと #断定して良いのか?

――#98 #最高法規 #決定権 を持ちます――

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憲法マジックに騙されるな

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月初めから始めたシリーズでは、2019年に上梓した『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』の改訂版ではどのような改善点があるのかをお知らせするのが本来の目的でした。とは言え、旧版のサワリくらいはお浚いをした上でないと伝わらないところもありますので、まず、なぜこんな本を書いたのかの説明から始めました。

それは、憲法の解釈が「100円のトマトに200円払え」に等しいような非論理性に満ちているからなのです。憲法には「○○である」と書いてあるのに、現行の解釈の多くは「○○でない」になってしまっているのです。これを「憲法マジック」と呼んでいるのですが、その良い例が死刑です。

「憲法は死刑を禁止している」のです。その簡単な「証明」は、2月7日のブログで取り上げました。続いて、死刑は合憲であるということの根拠になっている、昭和23年の最高裁判所の確定判決の批判をしてきたのですが、今回はそのまとめです。

クリックする手間を省略するために、最高裁判決を再掲します。下線と番号は筆者が付けました。

死刑制度を合憲とした判例(最高裁判所大法廷昭和23年3月12日判決)

憲法第13条においては,すべて国民は個人として尊重せられ,生命に対する国民の権利については,立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする旨を規定している。しかし,同時に同条においては,⓪公共の福祉に反しない限りという厳格な枠をはめているから,①もし公共の福祉という基本的原則に反する場合には,生命に対する国民の権利といえども立法上制限乃至剥奪されることを当然予想しているものといわねばならぬ。そしてさらに,②憲法第31条によれば,国民個人の生命の尊貴といえども,法律の定める適理の手続によつて,これを奪う刑罰を科せられることが,明かに定められている。すなわち③憲法は,現代多数の文化国家におけると同様に,刑罰として死刑の存置を想定し,これを是認したものと解すべきである。(中略)弁護人は,憲法第36条が残虐な刑罰を絶対に禁ずる旨を定めているのを根拠として,刑法死刑の規定は憲法違反だと主張するのである。しかし死刑は,冒頭にも述べたようにまさに窮極の刑罰であり,また冷厳な刑罰ではあるが,④刑罰としての死刑そのものが,一般に直ちに同条にいわゆる残虐な刑罰に該当するとは考えられない。ただ死刑といえども,他の刑罰の場合におけると同様に,⑤その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には,勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬから,将来若し死刑について火あぶり,はりつけ,さらし首,釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば,その法律こそは,まさに憲法第36条に違反するものというべきである。前述のごとくであるから,死刑そのものをもつて残虐な刑罰と解し,刑法死刑の規定を憲法違反とする弁護人の論旨は,理由なきものといわねばならぬ。

(中略)と書かれているところより後、後半を先に考えると、ここでは、「残虐」な死刑執行の典型例を挙げて、そのような執行方法は禁止されている、でも36条は、死刑そのものを禁止しているのではないという「断定」が述べられているだけで、死刑が合法だという説明はしていませんので、合法か否かの議論に関しては、この後半部分は無関係です。

となると、(中略)より前、つまり前半だけを問題にすれば良いことになります。そこで取り上げられている13条の解釈ですが、鍵になるのは「公共の福祉」の位置付けです。これは、基本的人権を剥奪する上での必要条件なのですが、最高裁判決では、これを十分条件だと解釈した上での結論が述べられています。これは論理的には無理がありますので受け入れられません。

となると、結局、31条の解釈だけが問題です。最高裁の解釈では法律があれば死刑が許されるという主張になってしまっています。これも、必要条件と十分条件との違いから論じると、31条では、法律的な手続きさえあれば死刑は許されるとまでは言っていないのです。

仮に一歩譲って、死刑は合憲だという法律があることを前提に議論しましょう。最高裁の判決はそれで、死刑が合法になると言っています。でも憲法98条と合わせて考えると、この結論は間違っています。

具体的に考えて見ましょう。明治憲法下では法律によって死刑が認められていたのですから、最高裁の主張は、明治刑法が定めている通り、既に法律も存在しているのだから死刑は合法なのだということになります。

しかし、憲法98条をもう一度読んで見ましょう。

第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

つまり、明治時代に制定された法律があっても、その内容が新憲法の意図と違うのであれば、その法律は無効だと言っているのです。この点についてはさらなる説明を次回以降したいと考えています。

となると問題は、最高裁の判決の問題点は、98条の意図する、死刑そのものが新憲法の意図するところに合致しているのかどうかという検討を行わなかったことなのです。そしてその検討を行えば、2月7日の記事で証明したように、つまり「定理A」の証明通り、死刑は違憲なのです。

次回は、憲法98条の持つより大きな意味の解明を始めます。

[続きます] 

 

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2024年2月12日 (月)

#残虐ではない #死刑 とは? ――#最高裁判決 には #説明 が #ありません――

#残虐ではない #死刑 とは?

――#最高裁判決 には #説明 が #ありません――

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大きな疑問符が付きます

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今お届けしているシリーズでは、2019年に法政大学出版局から上梓して頂いた『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』 (旧著と略します) の中身を簡単に紹介した上で、出版後に私が積み重ねたさらなる思考の一端を披露しています。

その中には、内容としては旧著に含まれているのですが、2019年当時の説明をより分り易く改善した部分もありますので、それも御披露しています。

中でも、我が国の憲法解釈では「合憲」にされている死刑制度は重要です。2月4日から数回に分けて論じていますが、お暇な時にそちらも御覧頂ければ幸いです。第一回目のリンクを貼り付けておきます。

今回は第8回目ですが、昭和23年の最高裁判決の後段に注目しています。

以下、今日のブログで一番大切なところです。この「後段」を以下掲げますので、注意深く読んで下さい。

弁護人は,憲法第36条が残虐な刑罰を絶対に禁ずる旨を定めているのを根拠として,刑法死刑の規定は憲法違反だと主張するのである。しかし死刑は,冒頭にも述べたようにまさに窮極の刑罰であり,また冷厳な刑罰ではあるが,④刑罰としての死刑そのものが,一般に直ちに同条にいわゆる残虐な刑罰に該当するとは考えられない。ただ死刑といえども,他の刑罰の場合におけると同様に,⑤その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には,勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬから,将来若し死刑について火あぶり,はりつけ,さらし首,釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば,その法律こそは,まさに憲法第36条に違反するものというべきである。前述のごとくであるから,死刑そのものをもつて残虐な刑罰と解し,刑法死刑の規定を憲法違反とする弁護人の論旨は,理由なきものといわねばならぬ。

さて、ここで引っ掛かるのは「前述のごとくであるから,死刑そのものをもつて残虐な刑罰と解し,刑法死刑の規定を憲法違反とする弁護人の論旨は,理由なきものといわねばならぬ。」です。

つまり、この段落の前半の部分で述べたことから、「死刑そのものを残虐な刑罰」だと考えたり、「死刑の規定を憲法違反」だと主張する弁護人の論旨は「理由なきもの」だと言っています。

しかし、もう一度この段落を読んで下さい。確かに、火あぶり等、残虐な死刑執行事例は挙げられています。でも、死刑そのものが「残虐ではない」のはなぜかという理由はどこにも述べられていないのです。また、死刑が憲法に違反しないという理由も、この後段にも述べられていません。

これまで取り上げてきた最高裁判決の前段では「公共の福祉に反しない限り」という必要条件が述べられていることだけを理由に、死刑は「予想されている」と述べ、後段では、何の理由も示さずに、死刑が憲法違反だという論旨は「理由なきもの」だと断定しています。

つまり、最高裁の判決では、理由を示さずに死刑が合憲だと主張しているに過ぎないのです。次回、これをもう一度整理しておきましょう。

[続きます] 

 

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[2024/2/13 人間イライザ]

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2024年2月10日 (土)

#生命権 に #枠 を #はめるのは #憲法違反 ――#憲法13条 の #読み方 その2――

#生命権 # #はめるのは #憲法違反

――#憲法13 #読み方 その2――

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文部省発行の『憲法読本』から

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本稿は、⓪に対する反論です。この判決では、国民の権利、その中でも基本的人権そしてその中でも、生命権が無制限で認められている訳ではなく「枠」がはめられていること、それだけでは止まらずに、「厳格な」枠であることが強調されています。その部分を再掲しておきます。

公共の福祉に反しない限りという厳格な枠をはめているから,①もし公共の福祉という基本的原則に反する場合には,生命に対する国民の権利といえども立法上制限乃至剥奪されることを当然予想しているものといわねばならぬ

このような「枠組み」で、基本的人権を捉えること、特に生命権を捉えている点で、この判決には大きな問題があるというのが本稿の主張です。(以下、死刑がテーマですので、生命権を中心に論じます。生命権だけに言及することが多くなりますが、他の権利についても同様の議論が成立します。)

言葉の意味から考えましょう。「枠をはめる」ということは、生命権が勝手に広がると害をなす、といったニュアンスでないと意味がありません。世界中に笑顔が広がっている、嬉しいですね、といった文脈の中で、その状態に「厳格な枠」をはめよう、と考える人はいないでしょう。でも、⓪では、生命権にはそれがはめられているというのです。しかもそれに、「厳格な」が加わるのですから、生命権に対して厳しい制限が付けられているのです。

そもそも「生命権」を考える上で、このような「予断」を持つことが許されるのでしょうか。基本的人権の広がることの意味をせめて「中立」の立場で表現できる「枠組」を用意した上で議論すべきなのではないでしょうか。

「厳格な」の意味もお浚いしておきましょう。ネットで見付けた「CoCoSiA」というサイトでは、「厳格」を「不正、怠慢、ごまかし、失策などを全く許さない厳しい態度」だと定義しています。

結構情緒的な定義ですので、もう少し客観性のある二三の条件を掲げて、「厳格」または「厳格な」を考えて見ましょう。「枠」も一緒に取り上げた方が分り易いかもしれません。一つには、この枠の境界がはっきりしていることを挙げても良いでしょう。昨日はここまでは良かった、でも今日は駄目だよではなく、誰の目にもはっきりとわかる「枠」でないと「厳格」であれとは言えないことになり兼ねないからです。

二つ目には、この枠が簡単には揺れ動かないことです。誰かが何かを言ったから枠の範囲が変わるとか形が変わらないという条件も付いていると考えて良いのではないでしょうか。

三つ目は、強制力が伴っているという条件です。子どもの躾について、「厳格な父」とは言っても、自分のお小遣いが貰えるまで泣きせがむ子どものことを、父に対して「厳格な子」だとは言いません。それは、この点も大きな要素だからなのかもしれません。

イメージとしては、法律が「厳格な」を体現していると考えられます。もっとも法律の中には、「○○基本法」とか「××推進法」といった形の法律もあります。となると、「厳格な」が当てはまるのは、その法律に何らかの刑罰が伴う場合だと限定できそうですが、実際にはもう少し広いのかもしれません。とは言え、「厳格な」の覆う範囲は法律より広く、しかもその境界は、法律のようにきちんとは決められていない点に注目すべきでしょう。

法律との比較をしましたので、もう一歩進めて、「厳格な枠」とは法律だと考えてしまったらどうでしょうか。⓪と①で言っていることは、「生命権には法律という厳格な制限が付いている」ということになります。

これはどこかで見たことがありますよね。明治憲法、または大日本帝国憲法です。その22条では、居住と移転の自由が、「法律の範囲内」で認められていますし、29条では言論著作印行集会そして結社の自由がこれも、「法律の範囲内」で認められているように、基本的人権には、法律という厳格な枠がはめられていました。

それを改正して、基本的人権が柱の一つとなったのが新憲法のはずなのですが、その解釈としては、明治憲法と全く同じ範囲の人権しか認められていなかった、というのはショッキングな出来事だと思うのですが、如何でしょうか。

司法の最高権威であり、憲法の解釈も最高裁判所に最終的に依存するという現行の我が国のシステムでは、このような解釈があってもそれに従うしか選択肢がないのかもしれませんが、一応、憲法では生命権を含む基本的人権をどう考えているのかを確認しておきましょう。

11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

「すべての基本的人権の享有を妨げられない」のですから、法律による制限があること自体問題だと読めるのではないでしょうか。また、「侵すことのできない永久の権利」を一篇の法律で制限することも憲法違反になるのでないでしょうか。ましてや、憲法内では無定義術語として現れていて、誰が主体になるのかも分らない「公共の福祉」によって制限されると考えるのはかなりの無理があるのではないでしょうか。

確かに、12条には「公共の福祉」が出てきますが、それは、国民の責任として権利を「公共の福祉のために利用する」ことであって、公権力が「公共の福祉」を理由にして国民の権利を奪って良いと言っている訳ではないのです。

このような状況を、「公共の福祉に反しない限りという厳格な枠をはめている」とは言えないでしょう。そればかりではなく、⓪と①を合わせて、憲法違反だと言わざるを得ないのです。何故なら、98条の規定では、この憲法が最高法規であって、この憲法にそぐわない解釈は許されないからです。

98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

再度、その理由を確認しておきましょう。一つには、⓪と①で述べている実質は、明治憲法の基本的人権についての規定と同様に、それも、「法律」というきっちりとした条件を示さずに「公共の福祉」という曖昧な基準によって基本的人権を制限しているからですし、二つ目としては、上記11条と12条では、基本的人権についてのいかなる制限も認めていないからです。

このような反論を反駁するための議論があるのかもしれないのですが、昭和23年の最高裁判決では、そのような説明は一切なされていません。ただ単に、「厳格な枠」がはめられているという宣言だけなのです。それが、一人の人間の命を奪う根拠になってしまって良いのでしょうか。

[続きます] 

 

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[2024/2/10 人間イライザ]

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2024年2月 9日 (金)

#憲法 は #死刑 を #予想していません ――#憲法13条 の #読み方――

#憲法 #死刑 #予想していません

――#憲法13 #読み方――

20170503-22-13-08

日本国憲法

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昭和23年の最高裁判決を詳しく分析して行く訳ですが、以前、引用した部分に言及する際、クリックして別のぺーじに移る手間を省くために、再度このページに掲載しておきます。今回、俎上に載せるのは次の部分です。 

憲法第13条においては,すべて国民は個人として尊重せられ,生命に対する国民の権利については,立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする旨を規定している。しかし,同時に同条においては,⓪公共の福祉に反しない限りという厳格な枠をはめているから,①もし公共の福祉という基本的原則に反する場合には,生命に対する国民の権利といえども立法上制限乃至剥奪されることを当然予想しているものといわねばならぬ

ここでは憲法13条の解釈が述べられていますので、まずは13条を読み直しましょう。

第13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

最初に、傍線を付けた上で、⓪と印した文章について考えて見ましょう。この13条を読んで、これが、⓪で強調している「厳格な枠」だと感じた方はどのくらいいるのでしょうか。その判断基準になるのは、13条の主目的は何かという点でしょう。

「数学書として読む」立場からは、第3章で、13条を次のように分解して考えることを提案しています。

「公共の福祉」を理解する上で大切なのは、憲法の柱の一つである「基本的人権」を「本則」と捉え、その上で、「公共の福祉」が「例外規定」として現れる13条の形です。その論理性を強調するために、次のような「分解」を行います。

 

[絶対則13.0] すべて国民は個人として尊重される。

[本則13.5]     生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

[例外規定13.6]             但し、公共の福祉に反する場合には、この (本則13.5の) 限りではない。 

 

一言断っておきたいのは、13条を分解した結果、最初の文章が [絶対則13.0] であることです。これは、[例外規定13.6] が影響を及ぼすのは[本則13.5] だけで、[絶対則13.0] には掛らない、つまり「絶対」的に素直にこのまま読めば良いことを示しています。

それは、一つの条文が一つの完結した「公理」であると考えれば自然のことです。「すべて国民は個人として尊重される」にまで例外規定の縛りを掛けたいのであれば、「公共の福祉に反しない限り」を最初に持って来て、二つの文章を一つにまとめるといった形が簡単に取れます。つまり、「公共の福祉に反しない限り、すべて国民は個人として尊重され、生命自由及び幸福追及に対する国民の権利についても、その限りにおいて、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする」です。これなら、最初の文章にも例外規定が掛ります。しかし、文章が二つに分れていて、二つ目の文章だけに例外規定が置かれているのですから、それは、素直に二つ目の文章だけに掛ると読むべきでしょう。

また、一つの条文中の例外規定が他の条文にまで掛ると解釈する可能性もありますが、それは、「公共の福祉」という制限が必要な条文には、明示的に「公共の福祉」という言葉が使われていることから否定されます。つまり、明示的に「公共の福祉」が現れない条文については、「公共の福祉」という制限が及ばないと考える方が自然です。

つまり、13条の主目的は、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」を権力者に守らせることなのです。ただし、そうすることが「公共の福祉」に反する場合には、「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」の最大限の尊重をしなくても良いという、バランスの必要性は認めて、権力者に対しての配慮も示しているのです。

しかしながら、それを超えて、権力者が「生命に対する国民の権利」を制限したり剥奪できたりするという、免許証・許可証になるのだという説明は全くありません。

[長くなりましたので続きます] 

 

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[2024/2/9 人間イライザ]

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2024年2月 8日 (木)

#最高裁 の 死刑合憲判決 は #間違っています ――#判決 を #読み直しましょう――

#最高裁 死刑合憲判決 #間違っています

――#判決 #読み直しましょう――

240207

最高裁判所

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前回は、憲法が死刑を禁止していることを憲法の条文から明らかにしましたが、でも今の日本では死刑が合憲であることになっています。その根拠は、昭和23年の最高裁判決です。

専門家によるより丁寧な解説を期待していますが、私たち市井の人間としては、判決を読み直したうえでその意味を素直に考えることから始めたいと思います。

『数学文化』での説明は短か過ぎますので、『数学書として憲法を読む』の第五章をお読み頂くのも一つの可能性なのですが、別の雑誌『数学教室』に掲載した記事から引用しながら説明を続けます。

最高裁の昭和23年判決を次に掲げます。参照する際に便利なよう、最高裁判所の判決に番号を振り下線を施したものを掲げます。

死刑制度を合憲とした判例(最高裁判所大法廷昭和23年3月12日判決)

憲法第13条においては,すべて国民は個人として尊重せられ,生命に対する国民の権利については,立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする旨を規定している。しかし,同時に同条においては,⓪公共の福祉に反しない限りという厳格な枠をはめているから,①もし公共の福祉という基本的原則に反する場合には,生命に対する国民の権利といえども立法上制限乃至剥奪されることを当然予想しているものといわねばならぬ。そしてさらに,②憲法第31条によれば,国民個人の生命の尊貴といえども,法律の定める適理の手続によつて,これを奪う刑罰を科せられることが,明かに定められている。すなわち③憲法は,現代多数の文化国家におけると同様に,刑罰として死刑の存置を想定し,これを是認したものと解すべきである。(中略)弁護人は,憲法第36条が残虐な刑罰を絶対に禁ずる旨を定めているのを根拠として,刑法死刑の規定は憲法違反だと主張するのである。しかし死刑は,冒頭にも述べたようにまさに窮極の刑罰であり,また冷厳な刑罰ではあるが,④刑罰としての死刑そのものが,一般に直ちに同条にいわゆる残虐な刑罰に該当するとは考えられない。ただ死刑といえども,他の刑罰の場合におけると同様に,⑤その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には,勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬから,将来若し死刑について火あぶり,はりつけ,さらし首,釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば,その法律こそは,まさに憲法第36条に違反するものというべきである。前述のごとくであるから,死刑そのものをもつて残虐な刑罰と解し,刑法死刑の規定を憲法違反とする弁護人の論旨は,理由なきものといわねばならぬ。

論理的には、この判決は二つに 別れます。前半は、(中略)以前の部分です。結論としては「刑罰として死刑の存置を想定し,これを是認したものと解すべきである」なのですが、数学書として憲法を読む立場からは、そう読んではいけないのです。そして、後半は憲法36条からは、死刑を禁止しているとは解釈できないという趣旨が述べられています。この点についても反論しますが、まずは、前半をどう読むべきか、「数学書」としての立場からはどう読めるのかを示しておきます。

実は、判決のこの部分は全て削除するのが一番手っ取り早いのですが、判決に沿って少しだけ変えつつ、憲法に書かれていることの説明、という形で書き換えてみました。その一例として次のような表現になってもおかしくはありません。

憲法第13条においては,すべて国民は個人として尊重せられ,生命に対する国民の権利については,立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする旨を規定している。また、同条においての例外規定である,公共の福祉に反しない限りという言葉は、公共の福祉に反した場合には自動的にそれらの権利を制限ないしは剥奪することを認めているのではなく、単なる必要条件を述べたに過ぎない。極端な場合、公共の福祉に反した場合に、それらの権利の制限や剥奪を行わなくても論理的には矛盾しない。すなわち、生命に対する国民の権利を立法上制限乃至剥奪されることを当然予想しているとは読めない。

そしてさらに,憲法第31条によれば,国民個人の生命の尊貴を考えると、仮にこれを奪う刑罰を科するような場合が出来したとしても,それは法律の定める適理の手続によつて行わなくてはならないことを述べている必要条件であり、法律を作りさえすればそのような刑罰を科して良いという十分条件を述べているのではない。すなわち憲法は,現代多数の文化国家におけると同様に,刑罰として死刑の存置を想定しているとは言えないし、就中,これを是認したものとは解せない。

こう見てくると、最高裁の23年判決の中で論理的に意味のあるのは、それに続いての36条の解釈だけなのです。この点についても追って、取り上げますが、その前に前半の読み方について、基本的人権について復習しながら説明します。

[続きます] 

 

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[2024/2/8 人間イライザ]

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2024年2月 7日 (水)

#憲法 は #死刑を禁止 しています ――#証明 は #誰にでもできます――

#憲法 #死刑を禁止 しています

――#証明 #誰にでもできます――

240206-constitution_of_japan_origin_sign

日本国憲法

(Wikiwandから)

https://www.wikiwand.com/ja/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95#Media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Constitution_of_Japan_origin_signatures_20140506.jpg

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100円のトマトに200円払え」と言われたら、という問題提起で、「200円払え」に相当する憲法上の問題点を例示していますが、今回は二つ目です。

多くの皆さんは、死刑が合憲だと考えていると思いますが、憲法のいくつかの条項からの論理的な帰結は、憲法は死刑を認めていないということです。

トマトの例で再度確認しておくと、私たちの多くは、「トマトは200円」だと信じ込まされているのですが、トマトの本当の値段は「100円」だということなのです。この点を、再び『数学文化』から引用して説明しておきましょう。今回は「証明」付きです。

2. 憲法は死刑を禁止している

憲法を「数学書として読む」ことから比較的簡単に得られる結論の一つは、「憲法は死刑を禁止している」です。これを「定理 A」と呼んでおきましょう。

実は憲法12条、13条、25条のそれぞれが、独立した形で死刑を禁止しています。しかし、昭和23年の最高裁判所の判決 ( 以下、「判決」と略す) は、死刑が合憲だと述べています。(最大判昭和23年3月12日 刑集2巻3号191頁)。以下、憲法13条を根拠にして(定理A)を証明します。

13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

以下の証明では、「すべて国民は、個人として尊重される」に注目します。後半部分の意味と、それを切り離して考えて良いことは、『数学書』の4章に詳しく説明してあります。

3. [定理A]の証明

①「個人」とは「生きている」人である。

②「個人として尊重する」とは、「生きている人として尊重する」と言い換えられる。

③「生きている人」の「生命」を奪うことは、「生きている人」の存在を無にすることである。

④それは「尊重」の正反対の行為である。

Q.E.D. (注3)

その他の条文についても同様の議論が成立します。

かくして、死刑については、素直に字義通りかつ論理的に憲法を読む立場と、最高裁判所による確定判決という立場から、それぞれ正反対の結論が出てきました。では、どちらを採用すべきなのでしょうか。

通常の法的枠組を尊重すれば、当然「判決」が最終的判断になります。同時に、憲法を字義通りに、そして「論理的に」読むこともゆるがせにしてはいけないはずです。

その視点から、(定理A)の証明と「判決」とを比較してみましょう。 (定理A)の証明は今お読み頂いた通り、簡単明瞭です。そして、死刑が違憲であるという「証明」は、誰が証明しても、誰がその趣旨を説明してもその論理的筋道や結果には全く影響がありません。小学生がこの証明を掲げて、その正当性を訴えられることにこそこの立場の強さがあると言って良いのではないでしょうか。それは、この「証明」が純粋に客観的存在だからなのです。

このように、誰にでも分る形で死刑が禁止されていることを憲法は示しているのですから、それとは正反対の結論を主張する側からは、最低限、何故、(定理A)の証明をそのまま認めることができないのかを、論理的に説明する義務があるのではないでしょうか。これは今からでも遅くはないはずです。

(注3) Q.E.D. とは、ラテン語のQuod Erat Demonstrandum(かく示された)の略で、多くの数学書では、証明が終ったことを示す記号として使われている。

 

[続きます] (次回は最高裁判所の判決の批判です)

 

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[2024/2/7 人間イライザ]

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