科学者

2024年6月19日 (水)

#コロンブス問題 (その4) ――#広い視野から #コロンブスを見よう――

#コロンブス問題 (その4)

――#広い視野から #コロンブスを見よう――

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「授賞」のイメージ

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シリーズは続きます。江崎玲於奈筑波大学学長の1992年の入学式式辞の中のさびは次の一節です。

大学を出るまでには、独立した人間になってもらわなくてはならない。独立の人間とは「自分自身で価値判断のできる英知」を持つ人間である。今後の人類の平和と繁栄という視点から重要なのは、たとえば大学で教えられる固定されたプログラムに「疑問を持ち、あるときは拒否したり、あるいはそれを改善したプログラムを作成するというような努力」の結果、「卓越したプログラムが創造できるような人間」になり、「グローバルな視野でものごとを考え」られることである。

結論めいた部分に入るのですが、実は次の章のイントロとでも言える一文にしかなりませんでした。とは言え、お読み頂ければ幸いです。

拙著『夜明けを待つ政治の季節に』(1993年、三省堂刊) 298ページから301ページまでの引用です。

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より広い文脈でのコロンブス再発見を

コロンプスの例に関して江崎氏は、重大な(しかし技術的と言って良いだろうと思われる)誤りも犯している。氏は、コロンブスが「地球の円周を過小評価し、一方アジアのひろがりを過大に評価するという重大な誤認」をしたと述べている。その後で、「誤った仮説であろうと」「大胆に試行す」べきだと新入生に薦めている。だが、コロンブスは誤った仮説」』に基づいて行動したのではない。その時点では、真実なのか誤りなのか分らないが、おそらくそうであろうと彼が信じた仮説に従って行動したのである。しかも、コロンブスは当時の最先端の科学技術知識の持ち主であった。その知識に照らしての判断だったと考えて良いだろう。五〇〇年後の世界に住む私たちは、結果として彼の信念が、そして仮説が誤りであったことを知っている。しかし、航海を始めた時点では、そしてアメリカに到達した時点でもコロンブスにはその認識がなかったのである。その仮説を「誤った仮説」と捉えることは、時間という要素を無視しないと成り立たない上、仮説を基に行動すべきかどうか迷っている人の役には立たない。

となると、江崎氏の「誤った仮説であろうと」「大胆な試行」をすべきだというアドバイスの意味を考え直しておく必要がある。コロンブスと同じ立場からち考えれば、自分の信念に自信をもって実行すべきだということだろうし、江崎発言の「誤った」を善意に、「結果として誤り」と解釈すれば、結果として誤りであると判定されるかもしれないが、仮説あるいは前提が正しいかどうかはあまり気にせずに、信念に従ってまず実行することが大切だという意味になる。

もう一点、技術的な指摘を加えでおぉおくと、江崎演説の文脈では「仮説」という言葉より用語としては「前提」が適切なのではあるまいか。それは、コロンプスの目的が彼の「仮説」を証明することより、もっと世俗的な金銀財宝を手に入れることにあったからちである。利益を得るための大前提として、コロンブスは地球が丸いことを信じた。次に、技術的な説得の根換として、つまりより小さな前提として、東洋に至る距離を示し、航海のための資金を得たのである。

確かに、コロンブスの小前提は誤りだった。しかし、コロンブスの航海を「成功例」と考えるなら、成功の第一原因は大前提にあったと考えるのが自然である。地球が丸ければ、仮にコロンブスが「失敗」したとしても、第二、第三のコロンブスが現れて、遅かれ早かれアメリカに到達したと考えられるからである。もっとも、誰よりも早くアメリカに到達することが何より優先されなくてはならないと考える立場を取れば(その場合、全ての「競争者」は大前提を受け入れているという別の前提を設けるのが自然だから)、当然、小前提が大切になる。江崎氏は、この立場から発言したのかも知れない。

これは、江崎氏が次に「報酬」を持ちだしていることからもはっきりする。江崎氏が、コロンブスを役割モデザル、すなわち大学生のお手本として評価し薦めているのは、その結果として、後に続く人が「大いなる報酬を得」るからである。「大胆にいろいろな試行をしてみることがなんらかの報酬を得るという教訓にはなるだろう」と、いわば、セールスポイントにしているのである。もちろん「報酬」にはいろいろな可能性がある。

江崎氏の言う「報酬」が、コロンプスの「発見」に続いて起ったアメリカの侵略とアメリカ先住民族の文化文明の破壊を意味しているのなら、それこそ言語道断である。となると、周知のように、コロンブスの航海の目的が東洋の金銀財宝に代表される物質約な利益にあったこと、またその後の彼に対する評価にも照らして考えると、江崎氏は「報酬」という言葉で物質的な報酬あるいは世俗的な名誉を指しているのかも知れない。もしそうなら、「痩せたソクラテスにはなっても、太った豚にはなるな」と諭した、元東大学長の大河内一男氏と正反対のアドバイスになってしまう。江崎氏がそんな不見識なことを言うはずがない、という意味で「善意」に解釈すると、おそらく江崎氏の「報酬」は、アメリカ到達あるいは「新大陸発見」そのもの、科学の分野で言えばノーベル賞に値するような「新発見」そのものを指しているとしか思えない。この前所の下に議論を進めると、すぐ気が付くことは、「報酬」にも、そしてその具体的な内容である「新発見」にも肯定的な価値・意味があり、それは前にも述べたように西欧の白人の見方なのである。

江崎氏は、コロンブスという、特に今年は彼を取り巻いて様々な議論が行われている歴史的人物をお手本として取り上げ、コロンプスの持つ幅広い「意味」を全て捨象した上で、ノーベル賞獲得競争、挫え目に表現して科学者の業績競争という限られた文脈における意味だけを取り出して、西欧的歴史観を基に新入生へのアドバイスを行っている。ここで一言念のために付け加えておくと、私には江崎氏に悪意があったとは到底考えられない。日本の科学のレベルを上げ、ノーベル賞受賞者数を増やすため、懸命にアドバイスしている氏の声が聞えるような気さえする。

だが、科学の研究さえも教育や社会と切り放せないこと、仮にノーベル賞受賞の数が増えることが良いことだとしても (私は必ずしもそうは思わない。しかし、より重要な改革を行った結果として受賞者数が増えることは十分考えられる)、日本の社会を本質的に変えることがが私こはより本質的な問題だと思えるのである。

現在の世界が直面している大問題、たとえば、人口の爆発的増加も合めた環境の問題、南北間の格差の問題等は、「科学」あるいは「学問」対象を人工的に狭めた結果、長い間見過ごされてきたものがほとんどなのである。コロンブスの喩になぞらえれば、コロンプスの歴史的社会的な意味を無視し、「科学的」な部分だけに焦点を合わせた結果なのである。その反省として当然強調されなくてはならないのは、これまでの人為的な枠を外してより広い問題の把握を行うこと、すなわち、コロンブスの全体像を複数の視点から新たな枠組の中で問題にすることに他ならない。

江崎メッセージでは、現在の日本社会にとって大切なのは、まず視点を狭めた上で、コロンブスのように、前提の真偽にかかわらず大胆に行動することになる。私の違和感は、正にここにある。私の観察では、現在の日本社会が直面している大さきな問題のーつは、私たちの行動の前提に対して厳しい吟味を加えないこと、そして無批判に長いものに巻かれてしまうことであり、仮に前提が誤りだと分っていても、あるいは、それより相対的に良い選択があるにもかかわらず、そうした理性によるる判断は無視して、ことが進んでしまう現実である。具体例を挙げるスペースがなくなってしまった。この点については私の提言と共に次項で取り上げたい。

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次回は、『老うほどに知恵あり』(PHP研究所、1994年刊)の中の「無知論」から、短い引用を掲載します。キーワードは「社会進化論」、英語では「Social Darwinism」です。

 

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[2024/6/19  人間イライザ]

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2024年5月 4日 (土)

#戦争が起きる前に #人が死ぬ! ―― #竹信三恵子さんの #講演――

#戦争が起きる前に #人が死ぬ!

―― #竹信三恵子さんの #講演――

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会場は満杯でした (空席は取材の終ったマスコミ席です)

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「戦争させない・9条壊すな!広島総がかり行動実行委員会」主催の憲法記念日集会に参加してきました。「2024 平和といのちと人権を! 53ヒロシマ憲法集会」です。

今日の講師は、ジャーナリストで和光大学名誉教授の竹信三恵子さんで、タイトルは「憲法9条で生活破壊を止めよう――戦争が起きる前に人が死ぬ!――」でした。

広島弁護士会館のホール一杯の人が集まり、オンライン参加を含めると450人の参加者があったのと事でした。会場が熱気に包まれていたことは付け加えるまでもないでしょう。

講演の内容や採択された決議は、いのちとうとしさんがアップされると思いますので、このブログでは、講演を聴きながら膨らんでいったいくつかのイメージをお伝えします。

講演の柱は、今の政治は軍拡のために私たちの生活を破壊していることですし、特に女性の社会的な地位や経済的状況を為政者たちが操作することで、その現実を誤魔化してきた上に状況を悪化させてきたという指摘です。

数字としては、戦争に明け暮れた戦前の軍事予算は、国家予算の7割も8割も占めていた時代があり、同時に当時の女性たちが自立できないような環境も押し付けてきたこととの関連性についての鋭い指摘がありました。

国の予算のほとんどが戦争・軍隊のために使われている状態で、市民の生活が成り立たないことは誰にでも分ることですが、今という時代がその方向に向かっているという自覚を持つことの重要性にも言及されました。

実は、この視点が都市としてのものであること、だからこそ、平和市長会議が広島市や長崎市の呼び掛けに応じて、核兵器廃絶と世界へ宇和実現のために立ち上がった歴史が頭に浮かびました。

そして、「戦争が起きる前に人が死ぬ!」という言葉からは、「原爆は爆発する前に人を殺す」を思い起こしていました。

この原理から分るように、③の段階で既に大量の放射線が発生し致死量以上が地上に降り注いでいます。その放射線を受けた人たちは、その結果として (その場ですぐではありませんが) 死に至るのです。

爆発後の破壊力が余りにも大きいため、この点が注目されることはほとんどありませんが、でも、人を殺傷するメカニズムの一部ですから知っておくべきことでしょう。

そして、竹信さんが警鐘を鳴らしたことをもう一つ上げておくと、(グラフが再現できませんので、簡単に言葉で説明します) 軍事費が防災費より多くなっているという事実です。この点については、私もこれまで何回も提唱してきた「防衛省防災省に」とも重なります。「防衛省を防災省に」することで、全ての問題が解決される訳ではありませんが、日本人の命を守るという観点からはどうしても必要な方向転換です。

最近の私のブログの記載も御覧下さい。

能登半島地震で年が明けた今年、台風や豪雨等、これ以上の災害が起きないことを祈りつつページを閉じます。

 

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[2024/5/4 人間イライザ]

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2024年5月 3日 (金)

#公的謝罪の歴史 ―― #米政府の「リドレス」が #衝撃でした――

#公的謝罪の歴史

―― #米政府の「リドレス」が #衝撃でした――

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日系アメリカ人の強制収容と言えばこの本でした

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安保法制違憲訴訟の会から頂いた刺激が前向きに作用しているせいだと考えていますが、関連した出来事にまで思いが飛んで、新たなエネルギーが湧いてきている感じです。それらを筋道立てて説明するのは後回しにして、憲法記念日に当って、個人の権利回復のために公的存在、それも強大な力を持つ国家や宗教が、公的に謝罪した実例をいくつか挙げておきましょう。

私が、政治について楽観的な気持を持ち続けている理由はいくつもあるのですが、その一つが、1988年にレーガン大統領による日系アメリカ人への謝罪です。

「ディスカバー・ニッケイ」というブログ中、村川庸子さんが執筆された「アメリカの戦後補償(リドレス)」から引用します。分り易く感動的な考察ですので、一読をお薦めします。

1988810日、レーガン大統領が市民の自由法(Civil Liberties Act of 1988)に署名した。日米戦争中に強制立ち退き・収容された日本人移民および日系アメリカ人に対し公式に謝罪し、各自に2万ドルを支払うというものであった。

賠償も、ただお金を払うというだけではなく、例えば、強制退去によって大学を去らなくてはならなくなった人たちのための特別の卒業式が、2008年にワシントン大学で開かれたりもしています。

村川さんによると、「アメリカの日本人移民および日系アメリカ人の強制立ち退き・収容に対する戦後補償はこのような形で一応の決着をみた」のですが、それでも70年近く掛っています。

私個人にとっては、アメリカ政府が自らの過ちを認めて謝罪すること、さらにその過ちによって被害を受けた人たちへの賠償を行うということが衝撃でした。それは、1980年に「基本懇」と呼ばれる懇談会――いわば日本政府の主張があたかも客観性のあるものの如く被せる衣の役割を果している組織ですが――が、「受忍論」と呼ばれる見解を公表して、「戦争の犠牲は国民があまねく受忍すべきだ」という方針を政府に答申したこととの違いに驚いたからです。

さて、人種差別という共通項からは、当然、奴隷制度と黒人差別に対してはどうなのかという疑問が生じますが、2008年にアメリカの連邦下院は、アメリカにおける奴隷制度とそれに付随した差別的な法律に対しての謝罪決議を採択しています。

また、2009年には上院が、「不当、残虐、野蛮、そして非人間性を具現した奴隷制度」について謝罪する決議を満場一致で採択しています。同時に、この決議が賠償を請求の根拠にはなり得ないことも明示的に謳っています。(Wikiwandの記事から)

最後の点とも関係しますが、これらの決議だけでアメリカ社会の差別主義的な傾向が全て是正されたわけでもありません。2020年のジョージ・フロイド事件とその後の「Black Lives Matter」運動がその証拠です。さらに、奴隷制度が与えた被害に対する補償も議論が始まったばかりです。

時間が掛かると言えば、ガリレオの裁判が頭に浮かびます。1633年に、地動説を唱えたことで裁判に掛けられ有罪になったのですが、1992年、ローマ教皇ヨハネ・パウロ二世が、ガリレオ裁判の誤りを認めて謝罪しました。その間、359年です。

権力や権威が真実を認め、謝罪をするのにこれほど時間が掛かるということを示していますが、もう一つ強調したいのは、それでもこの359年間に科学は進歩していたという事実です。

さて、こうした歴史から、核兵器の廃絶や原爆投下を正当化し続ける日米政府についてどんな教訓を汲めば良いのでしょうか。

 

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[2024/5/3 人間イライザ]

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2023年12月11日 (月)

#科学者の社会的責任 について、#藤永茂 博士の結論 ――#オッペンハイマーを知っていますか?――

#科学者の社会的責任 について、#藤永茂 博士の結論

――#オッペンハイマーを知っていますか?――

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藤永茂氏の著書の問

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唐木、武谷、そして藤永による物理学者の社会的責任についての引用を続けています。その理由の一つは、私たち人間の性として、自分自身を客観的に見ることが難しいからです。三氏の感情的なあるいは冷静な発言に触れることで、私自身、自らの考え方についての指摘であるかのような感慨を持つこともしばしばでした。

ということで今回は、藤永茂著の『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』の「序」からの引用です。

ここで、この三氏だけではなく私たちが同じようなテーマで議論をするときに、何故「科学者」という言葉になってしまうのかという疑問を呈しておきましょう。科学者の中には、例えば生物学者も入るでしょうし、広く考えると数学者も入るという人もいるでしょう。そういう人たちについての記述はほとんどないだけではなく、物理学者と言っても、アインシュタイン、湯川秀樹、朝永振一郎、ロバート・オッペンハイマーくらいしか主要な登場人物がいないのに、「科学者」の社会的責任についての一般論になるのは何故なのでしょうか。

この疑問が主題ではありませんが、答の一部は見付けられます。それも含めて今回はかなり長いのですが、藤永茂博士の考察から学んで行きましょう。

私の世代で、物理学を学び、それを教えることで生計を立ててきた者ならば、核兵器の問題がいつも心のどこかに貼りついた感じでこの50年を生きてきたはずである。原爆を可能にしたのは物理学である。 原爆の開発を政府に進言し、それをロスアラモスの山中でつくり上げたのは物理学者である。 「原爆の父」 ロバート・オッペンハイマーは「物理学者は罪を知った。 これは物理学者が失うことのできない知識である」と言った。 湯川秀樹は核兵器を「絶対悪」であるとしてその廃絶を唱えた。文芸評論家唐木順三は、その「絶対悪」を生んだ物理学そのものも「絶対悪」であると考えた。ガンによる死の床から、唐木順三は湯川秀樹をはげしく糾弾した(遺稿、1980)。湯川が原水爆を絶対悪として平和運動を進める一方で、依然として物理学研究の喜びを語っていることが許せなかったのである。核兵器は悪いが、物理学は悪くない、ということがあり得るか。194510月ロスアラモスを去ったオッペンハイマーは、二度と核兵器の開発を手がけることはなかった。194710月プリンストンの高等学術研究所の所長となり、1948年には湯川秀樹を、1949年には朝永振一郎を客員教授として招いた。湯川(1949)、朝永(1965)のノーベル賞受賞はオッペンハイマーの推薦に負うところが少なくなかったとされている。1967年、オッペンハイマーは、核兵器は悪だが物理学は悪ではないと信じたままで世を去った。

私がロバート•オッペンハイマーに関心を持ってから20年はたつ。オッペンハイマー の名は科学者の社会的責任が問われる時にはほとんど必ず引き出される。必ずネガティヴな意味で、つまり悪しき科学者のシンボルとして登場する。オッペンハイマーに対置される名前はレオ・シラードである。シラードは科学者の良心の権化、「あるべき科学者の理想像」として登場する。このおきまりの明快な構図に、あるうさん臭さをかぎつけた時から、私の視野の中で原水爆問題を執拗に包みこんでいた霧が少しずつ晴れはじめたのであった。

この、大天才でも大サタンでもないただの一人の孤独な男を、現代のプロメテウス、ファウスト、メフィスト、フランケンシュタイン博士、はたまた狡猾な傭兵隊長(コンドティエーレ)、ハッカー・ネドリーのアイドルに仕立て上げ、貶める必要はどこから生じるのか。そうすることで、誰が満足を覚え、利益を得るのか?

私が見定めた答は簡単である。私たちは、オッペンハイマーに、私たちが犯した、そし て犯しつづけている犯罪をそっくり押しつけることで、アリバイを、無罪証明を手に入れようとするのである。オッペンハイマーは「原爆の父」と呼ばれる。これは女性物理学者リーゼ•マイトナーを「原爆の母」と呼ぶのと同じく愚にもつかぬ事だが、あえてこの比喩に乗りつづけるとすれば、オッペンハイマーは腕のたしかな産婆の役を果たした人物にすぎない。原爆を生んだ母体は私たちである。人間である。

「人は人に対して狼なり」という西洋の古い格言がある。人間が人間に対して非情残忍で あることを意味する。しかし狼は非情残忍な動物ではない。狼に対して失礼というものである。「人は人に対して人なり」と言うべきであろうと私は思う。人間ほど同類に対して残酷非情であり得る動物はない。人間が人間に対して加えてきた筆舌に尽くしがたい暴虐の数々は歴史に記録されている。それは不動の事実であり、人間についての、失うことのできない確かな知識である。

オッペンハイマーの生涯に長い間こだわりつづけることによって、私は、広島、長崎を もたらしたものは私たち人間である、という簡単な答に到達した。私にとって、これは不毛な答、責任の所在をあいまいにする答では決してなかった。むしろ、私はこの答から私の責任を明確に把握することができた。唐木順三の声高な非難にもはっきり答えることが出来るようになった。 「物理学を教えてよいのか、よくないのか」という切実な問題に対する答も出てきた。 「物理学は学ぶに値する学問である」。

私がこれからロバート・オッペンハイマーを描くことを試みるのは、オッペンハイマー を知る労もとらずに、オッペンハイマーの名と、彼が口にしたとされるいくつかのキャッチフレーズを勝手な方向に乱用する人たちの退路を断ちたいと思うからである。オッペンハイマーのステレオタイプをつくりあげた評伝の類は数々あるが、それに対しては、最近 亡くなった物理学者ユージン・ウィグナーの言葉を引用しておく。「彼の名は今ではかなり知れわたっているが、彼について一般に思われていることのほとんどは誤っている」。

『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』からの引用は続きます。

 

最後に皆さんにとって、今日一日が素晴らしい24時間でありますよう!  

 [2023/12/11 人間イライザ]

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2023年12月10日 (日)

#武谷三男 博士の結論 ――#科学者の社会的責任 について――

#武谷三男 博士の結論

――#科学者の社会的責任 について――

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武谷三男氏の著書

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昨日の本欄では、武谷(前回に続いて敬称略)による朝永批判まで辿り着きましたが、今回はその続きです。『科学者の社会的責任--核兵器に関して』(勁草書房、1982年)の最後には武谷と哲学者の粟田賢三の対談が掲載されていて、その最後の部分が武谷の一番言いたいところです。その部分を以下、引用します。

粟田 まず価値観についていうと、私たちの価値観、 または価値意識は重層的構造をもっているのだと思います。手近かな例で言えば、 一家の主人にとっては家族の生活を維持することが一つの価値です。その人が会社に勤めている場合、会社を発展させてゆくことが価値になります。 このように一個人の生活の場面は、 つぎつぎにいわば層をなして拡がっていて、個人の価値意識は家族関係、職業上の関係、社会的な関係、国家との関係等々によって重層的になっているわけです。それに対応して家族に対する責任、職業上の責任、社会的責任、国家に対する責任、さらに大きく人類に対する責任という、 いろいろな段階の責任があるわけです。そして、例えば自分の勤めている会社への責任を果すことが、社会に対しては無責任になることもあるし、国家に対して責任をはたすことが、その国家を代表する政府の政策にしたがうことになる場合には、他国民への惨禍を招くことになることもあるわけです。

だから、今日では、科学者の責任はもう国家の枠をこえて、人類全体に対する責任になっていると思います。国家、というよりはそれを代表する政府の政策に反対することが、人類に対する責任をはたすことになる場合があるわけです。

 武谷 大いにあるわけですね。

 粟田 だから科学というものはそういう普遍性をもつようになっているものですから、 一国家の手段や道具になっては困るわけです。核戦争で人類が急速に死減してしまうか、環境破壊や資源の枯渇で人類がしだいに死滅に向かうかという危機に面しているのが現在の状況ですから、今日における科学者の責任、通常の市民とはちがう専門的知識をもつ者としての科学者の責任は、人類の存続にとって危険なことを予見し、それについて警告することだと思います。 またはっきり予見できない場合でも、危険の可能性が考えられる場合には、そのことを指摘することだと思います。

 武谷 ざんげしたりなんかしてもあまり意味がない()

 粟田 意味ないですよ。それより危険を警告することですよね。

 武谷 それがいちばん重大な問題だと思います。

 

後悔したり懺悔したりすることに意味はないという見解ですが、オッペンハイマーも、自分は遺憾の意を表したり後悔したりということは決してしなかった、という点を最後まで強調していました。それに付いては、本ブログの2023926日のエントリーをお読み下さい。

それは、物理学者の藤永茂氏の『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』からの引用だったのですが、次の機会には藤永氏の結論を紹介したいと考えています。

 

最後に皆さんにとって、今日一日が素晴らしい24時間でありますよう!  

 [2023/12/10 人間イライザ]

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2023年12月 9日 (土)

#唐木順三 と #武谷三男 ――#科学者の社会的責任 についての論争です。――

#唐木順三 と #武谷三男

――#科学者の社会的責任 についての論争です。――

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唐木順三・武谷三男両氏の著書(出版されたのは、それぞれ1980年と1982年)

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来年は、アメリカで大ヒットした映画「オッペンハイマー」が日本でも公開されるとのことですので、物理学者、ひいては科学者や文化人・知識人等の社会的責任が話題になるかもしれません。その点について、40年以上前の論争の一部を紹介しておきましょう。私の考えでまとめるのではなく、論争の御本人たちの言葉で要点を知って頂くことに意味がはあると思いますので、以下唐木・武谷両氏の引用です。(以下、敬称は略し、旧漢字・旧仮名は常用漢字・新仮名に書き替えます)

まずは、唐木の著書に収められている1979年の日記の抄録の一部です。(158ページから159ページ)

昨日から、「科学者の社会的責任についての覚え書」を初から読みえしているが、まづまづの出來なり。今日は七十枚まで。

二月三日。

午前中に、「科学者の社会的責任についての覚え書」百十六枚の点検を了る。

なお先へ向つて書きたいが、今の体力ではすぐに書けそうにない。ただこの夏亡くなった朝永振一郎氏についてだけは、少々でもいいから書いておきたい。湯川氏よりも深いところから現代物理学、核物理学を考えている。夏、ガン研で亡くなられたが、その最後の執筆が、『物理学は何であらうか』(下卷)であり、その最後のところに、「罪」の問題が述べられていたと思う。とにかく湯川より一段深いところから発言していた。

 二月十三日。

「科学者の社会的責任についての覚え書」は、七月下旬の入院前に、たしか70余枚まで綴つたが、その後、ちちとして進まず、一週間ほど前、百数枚でペンを置いた。然し、それで終ったわけではない。残るのは、湯川の晩年(京都会議以後)に対する不徹底への批判。例えば「核兵器は絶対悪を信條」としながら、その兵器製造につながる道に、自らつらなったことに反省を欠くこと。簡単にいえば、二十世紀以後の物理学に対する自己批判が淡い。

それに對し、朝永振一郎氏は、その死の後に出た『物理学とは何だらうか』において、最近代科学者の罪の問題に触れている。雜誌『科学』(中公)の朝永振一郎特集号にも某氏がそれについて書いていた。この湯川、朝永両者の間の違いは重要である。このことを実証的に書きたかったが、体力整わず書けなかった。他日書ける狀態戻ったら書きたい。

 

唐木はアインシュタインも朝永同様かそれ以上に高い評価をしているのですが、その違いを表現する際にはかなり感情的になっているように思えます。そしてそれに対する武谷の反論も、感情的という点では引けを取りませせん。以下、武谷の朝永評の一部です。(173ページから174ページ)

学術会議会長朝永氏のやったこと

朝永氏は戦後一貫してサイクロトロンや大加速器をつくることに大変な努力をした第一人者であり、さらに学術会議会長としても努力をしていた。その彼が、核物理学がそんなに悪いものなら核物理学はやめろという提言をすればいい。それを一向にそういう提言も何もしないで、
いいかげんなことを書いている。岩波新書下巻の最後のは講演だ。だから病気になって死を前にして書いたものではない。講演を載せたのだ。いかにも原罪とかなんとか、あの人は洒脱な人だからね。

ところで朝永さんは大物理学者なのだが、どちらかというとテクニカルな人で、そんなに基本的なことを深刻ぶって悩み考える人ではない。大まじめにそんなふうにとられては困る。  「科学の原罪性」なんていう小見出しがついているんで、飛びつくのだろう。朝永氏は知識が原罪というのをいっている。旧約聖書の知恵の実、人間の原罪と同じ。だから科学はもともと原罪だという話につないだのだ。

あの人は秀才だから、ちょっとそういうことをいってみたいのだ。彼が真面目にそうだと思ったのなら、学術会議会長なんかになっているのはおかしい。もし朝永氏が自分の物理学の罪を本気で認めるのなら、それで取ったノーベル賞をはじめとしたあらゆる栄誉を返上しているはすではないか。

南極観測艦を自衛隊にくつつけたのも朝永氏だ。だから、彼のいっていることと彼の行動したこととはまるで違うのだ。それで結局唐木氏たちにほめられたものだから、その本がひどく受けて、朝日出版文化賞だかとった。大宅壮一賞か・・・。私のみるところ、湯川さんのほうが深刻で、朝永さんのほうが知的遊戯でいっているというタイプだ。

時代背景もずいぶん違いますし、人類の直面する課題の見方も変化しています。議論の仕方やその前提(暗黙裡のものも含めて)をどう把握しているのかも大きく変わっています。さらに人類滅亡の可能性についての認識も、環境問題そのものへの理解もまだまだの時代です。しかし、こうした先人たちの言説からも貴重な教訓が学び取れますので、敢えて資料としてお届けすることにしました。

 

最後に皆さんにとって、今日一日が素晴らしい24時間でありますよう!  

 [2023/12/9 人間イライザ]

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2023年12月 8日 (金)

#朝永振一郎 と #学術会議 ――#戒心 がキーワードです――

#朝永振一郎 と #学術会議

――#戒心 がキーワードです――

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朝永振一郎 Wikiwandから(Public Domain)

https://www.wikiwand.com/ja/%E6%9C%9D%E6%B0%B8%E6%8C%AF%E4%B8%80%E9%83%8E#Media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Tomonaga.jpg

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今回は、三人の物理学者の内の一人、朝永振一郎博士に焦点を合わせます。日本学術会議の議長だった時の言葉を「軍学共同反対連絡会」の事務局長、小寺隆幸さんが強調しています。以下、メーリングリストからの引用です。

このウクライナとパレスチナの戦争は改めて科学の在り方を私たちに問うものです。科学の粋を凝らした兵器が、今この時にも市民や子どもたちを殺しています。

1967年の学術会議総会で決議された「軍事目的のための科学研究を行なわない声明」にはこう書かれています。

「現在は、科学者自身の意図の如何に拘わらず科学の成果が戦争に役立たされる危険性を常に内蔵している。その故に科学者は自らの研究を遂行するに当って、絶えずこのことについて戒心することが要請される。ここにわれわれは、改めて、戦争を目的とする科学の研究は絶対にこれを行わないという決意を声明する。」

この声明はべトナム戦争で新たな科学兵器が多くの人々を殺傷している現実の中で発せられました。米軍はナパーム弾や枯葉剤を使用し、その惨状に対し世界中でベトナム反戦運動が広がり科学者も声をあげたのです。

声明をまとめた学術会議会長朝永振一郎は8年後にこう記しています。

「インドシナで科学、技術、軍事工業等々の不吉なリンクから出現したあらゆる種類の複雑化された新兵器による戦争に巻き込まれて、犠牲者たちは家を破壊され家族を失い、廃墟の中を力なくただ平和の再来を望みつつ彷徨っていた状況に心をいためない科学者が一人もいないことを願う。 」

これは今の私たちにも問いかけられています。そして今日本でも、「あらゆる種類の複雑化された新兵器」の開発が始まろうとしている中で、科学者としての深い「戒心」が求められているのではないでしょうか。

「戒心」はそれほど使われている言葉ではありません。でも意味するところは明白ですし、何より「当事者」としての姿勢を示す言葉だという点が重要です。

この朝永振一郎博士について、唐木順三氏と武谷三男氏とでは、(その他の二人についても)、違った見方をしています。紹介すべきかどうかも問題なのですが、追って対比をしておきたいと思います。

 

最後に皆さんにとって、今日一日が素晴らしい24時間でありますよう!  

 [2023/12/8 人間イライザ]

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