なぜ「都市」なのか
――必要条件と十分条件、両方あります――

戦争に反対すること、平和を維持するための努力を続けること、この二つは「都市」にとっては正に生死を分かつ重要な仕事です。
「戦争も平和も国際関係だから、国の管轄だ。だから国に任せておけば良い」で済むような生易しい仕事ではないのです。
平和市長会議の加盟都市数は8,000を超えているのですが、それらの都市の市長さんたちが異口同音に繰り返すのは、「戦争の被害を受けるのは都市であり、市民だ」という点です。核兵器も、誰も住んでいない大海の真ん中や、砂漠のど真ん中には落とさないのです。
そして戦災を受けた都市の市民たちは、例外なく「Never Again!」という声を上げています。
戦争を起こさないことは、そしてそのための努力をすることは市民の命を守るために「必要」なのです。敢えてここで付け加えておくと、国は国民の命を守りません。
二つだけ事実を述べておきましょう。まず、昭和20年6月6日付の沖縄方面特別根拠地隊司令官大田実少将が発した海軍次官あての電文から抜粋します。沖縄県知事が報告すべきことなのだが、県には既に通信力がないため、知事の依頼によって大田少将が通知したという断り書きも付いています。その内容が重要です。
その中で、敵軍が沖縄に上陸してからの状況が次のように描かれています。「陸海軍方面、防衛戦闘ニ専念シ、県民ニ関シテハ殆ド顧ミルニ暇ナカリキ。」
その後には、県民が軍と一体になって戦闘に巻き込まれ、軍が県民を守るというよりは民間人が軍を守るとさえ言えるような協力を余儀なくされたことが描かれています。そして、最後の一行は有名です。
「沖縄県民斯ク戦ヘリ。県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ」
にもかかわらず、未だに沖縄県民に犠牲を強いている事実こそ、「国」という存在の真実を伝えています。
もう一つは、1980年に被爆者援護について、識者からなる「原爆被爆者対策基本問題懇談会」が当時の厚生大臣に提出した報告です。何よりも先に記憶しておくべき個所を引用します。
「およそ戦争という国の存亡をかけての非常事態のもとにおいては、国民がその生命・身体・財産等について、その戦争によって何らかの犠牲を余儀なくされたとしても、それは国を挙げての戦争による「一般の犠牲」として、すべての国民が等しく受忍しなければならない」
国は国民に犠牲を求めてはいますが、守るとは言っていないのです。都市が守る他はないのです。
まだまだ続けられますが、もう一点、十分条件として重要なことを指摘しておきましょう。都市は軍隊を持たないという事実です。軍隊を持つ存在は、どうしても軍隊の存在を前提にして物事を考え処理しようとします。「あれば使う」という因果関係に縛られて戦争の是非を考えることになるのです。その呪縛から解放された立場で、国際関係を考える、都市間関係の延長として国と国との関係も捉えた上で外交の力を発揮する、という「パラダイムの転換」ができるのです。
最後に今日一日、皆さんにとって、素晴らしい24時間でありますよう!
[2022/3/24 イライザ]
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