千葉でのミニ選対会議
千葉で、小学校・中学校の同級生の集いがあり、駆け付けました。
いつも通り大変楽しい一時になりましたが、話題はゴルフから政治へと移り、ミニ選対会議になりました。
ゴルフは、エージ・シュートをしたT君のお祝いの会をどうするかでしたが、ゴルフには疎いので「エージ・シュート」の意味が分りません。
そして、現在の政治への厳しい批判の声が続きました。そして、野党のどの党かがリーダーになって、今の政治を変えて欲しいということに。例えば、高齢者がどんどん社会の片隅に追いやられていて、年金は減る上、免許は返納しろと迫られる。高齢者の居場所がなくなっているのに、「多様性」とは意味があるのか。高齢者にも権利はあるはずだという声や、アメリカに主導権を握られている政治の大方向を変えなくては未来が見えない等々、皆、意気軒昂でした。
そして、私自身の選挙運動についてもいろいろアドバイスを貰いました。かつて広告業界で活躍したプロも交じっていましたので、とても有益でした。
例えば、プロフィールのところに、小学校・中学校、そして高校の名前を入れること。これは、完全に忘れていました。今までの選挙は全て広島での選挙です。広島の小学校・中学校ではないので、これまでは名前を書きませんでした。でも今回は違います。全国の皆さんに知って貰うのですから、小・中学校、高校も抜かしてはいけないのです。
プロフィールにも追加しますが、小学校は千葉大学教育学部付属小学校、そして中学は、同じく千葉大学教育学部付属中学校です。高校は、東京教育大学(今の筑波大学)付属高等学校で、回数は69回です。
さらに私の父が獣医師で、千葉県獣医師会長や日本獣医師会の理事を歴任したことも書き込むべきだとのアドバイスも貰いました。
となると、私の妹、秋葉京子がオペラ歌手で、ドイツで長い間活躍し、日本でも二期会その他を通して多くの皆さんに歌声を聞いて頂いていたことも、大切なのかも知れません。
さらには、参議院の比例区の投票の仕方も説明してきました。二枚目の投票用紙は比例区の用紙なので、政党名か候補者名どちらを書いても良いこと。でも特定の個人を応援したい場合は、個人名を書くことでしかその応援の意思は伝わらないことを説明しました。
とにかく、参加者一同、立候補には大賛成、頑張れという強いメッセージを頂いて解散しました。
[2022/6/8 イライザ]
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草を抜いて、施肥をし、支柱も立てました
――曇り空の一日、畑仕事には最高の日でした――
フィンランドがNATOに加盟すると言ったからなのでしょうか、ウクライナからのニュースの中身が変ってきたようです。
だからという因果関係はないのですが、久し振りに小さな畑の手入れができました。雨のせいで雑草が蔓延り始めたので、雑草を抜くことと、苗を植えた後、施肥をしたいと思っていたトマト、キュウリ、ナス、トウモロコシの周りに油粕を撒いたこと、そして、少し大きくなった苗のための支柱を立てました。草抜きの技術では、家人に一日の長のあることもハッキリしました。
トマト
雑草の残っているのは私の担当したところです
ナス
一日曇り空、そして気温もあまり上らず、畑仕事 (というのも恥ずかしいくらいの小規模な畑ですが) には、最高の日和でした。
昨日は、昼過ぎに小一時間、新たな助っ人である充電式草刈り機で、伸びてしまった家の周りの草刈りもできました。
その他の時間は、結構忙しく、久し振りに電話で旧友との話も弾みましたし、今週末からの東京と沖縄行きの準備をしたりと充実した一日でした。
[2022/5/16 イライザ]
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京都行き・食事編
――湯豆腐と、友人たちとの宴と――
京都を味わうということは、身体全体を投げ出して、空気も音も含めて「京都」に自分自身が浸ると言ったら良いような気持になることなのですが、食べ物も当然その中に入ります。
南禅寺が好きなのは、庭や疎水や歴史だけでなく、湯豆腐もあるからです。いつも立ち寄る順正です。
そして湯豆腐。まだ蓋は取れない段階です。
日にちは変って、昔からの友人たちに御馳走になりました。尾頭付きの鯛ですが、友人の一人は、とてもお元気な90歳。まだまだ活発な政治活動を続けています。それも含めて、お互い久しぶりに会えたこと自体、とてもおめでたい出来事でした。
これだけの御馳走でお腹は一杯になったのですが、家に帰って秤に乗ると、何と少し減量していたのには驚きました。
[2022/5/11 イライザ]
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亀岡での講演でした
――「憲法9条守ろう亀岡の会」 は全国に先駆けて2004年から活動――
5月7日は、「憲法9条守ろう亀岡の会」主催の憲法施行75年記念講演会で、話をさせて頂きました。2019年に開かれた、「北東アジア平和共存のための江原春川フォーラム(日∙韓友好関係は市民の力で)」で御縁を頂いた原田貞蔵さんの肝煎りの会でした。コロナの蔓延で3年がかりの企画になりましたが、とても熱心にお聞き頂き、講演者冥利に尽きる機会になりました。
改めて原田さん、憲法9条守ろう亀岡の会とスタッフの皆さん、前半の音楽で私たちの心を創造的エネルギーで満たして下さった長野たかし・あやこデュオのお二人、そして会場にお出で下さった皆様に心から御礼申し上げます。
そのお蔭だと思っているのですが、いつもは言い淀むような箇所でも言葉がつながり、私自身も充足感を持つことができました。その雰囲気を二枚の写真でお届けできればと思います。
講演の内容は、このブログで取り上げてきた様々なトピックを1時間30分ほどのパワーポイント・プレゼンテーションにまとめたものです。要約するためにはかなりのスペースが必要になりますので、割愛しますが、亀岡市の雰囲気も少しお伝えしておきます。
会場は「ガレリア亀岡」という、道の駅が併設されれている市民会館なのですが、この町の特徴はこの市民会館の内側からの写真だけで読み取って頂けると思っています。
それとお昼に食べたつけ麺も、とても美味しかったですし、たまたま入った店の接客や感染予防対策など、感心することばかりでした。
その後、神奈川県の藤沢市まで移動して、旧友と久闊を叙し、日曜日は核廃絶についての講演です。
[2022/5/8 イライザ]
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アメリカ人のパール・ハーバー観
――60年前の経験を元に――
アメリカ人のパール・ハーバー観について、1986年に上梓した『真珠と桜』(「ヒロシマ」から見たアメリカの心)での解説を元に整理してお伝えしています。
アメリカ人にとって、パール・ハーバーがどれほど大きな意味を持つのかについて初めて気付いたのは、アメリカ時間1959年12月7日の朝でした。以下、『真珠と桜』からの引用です。
1959年の9月から、私はAFS 交換留学第六期生の一人として一年間をアメリカで過した。落ち着き先はシカゴ郊外のサマーズ家である。高校はエルムウッド・パーク町立高校で、最上級に組み入れてもらい、翌年の六月には卒業証書まで貰うことになった。
エルムウッドパーク・ハイ・スクールのイヤーブックから
書き込みは友達からのサヨナラ・メッセージ
AFSはアメリカン・フイールド・サービスの略。 ここで、 フィールドは戦場を意味する。元元は第一次大戦中、欧州の戦場を駆け巡って救急車を運転したアメリカ人ボランティアの団体である。「すべての戦争を終らせる戦争」と称された世界戦争から帰ったこれらのボランティアは、「戦争を防ぐためには異った 違った文化の間での理解、特に若い人達の間での理解を深める他に有効な方法はない」との認識に立って、学生の交換留学制度を創り出した。
第二次大戦後には新たな決意をもって、留学生として最も感受性の豊かな高校生を選ぶことになった。最近では、交換留学も日本とケニア、 インドとブラジルといった多国間のプログラムができているが、 1959年にはアメリカと他の国々という、第二次大戦後の国際情勢をそのまま反映した留学制度であった。
アメリカ生活は楽しかった。 アメリカ人は親切な上、初めて親許を離れた身軽さで急に大人になったように感じたものだった。12月頃までには、言葉にも一応困らなくなった。そんなある日、朝出掛ける前に (注 ホスト・ファミリーの) サマーズ夫人から注意を受けた。
「今日は何の日か知っているでしょうけれど、学校で何か言われてもいつもの通りユ ーモア精神で受け止めなさい。余りひどいことを言う人もいないでしょうけれど」
実はそう言われても何のことだか分らなかった。夫人は台所から新聞を持ってきて私に手渡した。題字の横に赤と青の星条旗がシンポル・マークとして刷ってある『シカゴ・トリビューン』紙である。紙面にはかなり大きい活字で 「パール・ハーバー」それに 「デイ・オブ・インファミー ](汚辱の日)」と書いてあった。注意された意味は分ったものの、実感は伴わなかった。
その日は、級友やレスリング部の仲間達がよそよそしかったような気もする。 「スニーク・アタック (卑劣な攻撃)」と 「パール・ハーバー」という言葉があちこちで聞えてきたのは確かに憶えている。 なるほど、 アメリカでは太平洋戦争の始りが重要な意味を持っていることは分った。だが、その根の深さにはまだ思いが至らなかった。
「これは大変なことだ」と実感できたのは、春になってからである。 アメリカ史の授業もようやく現代に近づいていた頃だった。
丁度その時間には、第二次世界大戦にアメリカがどういう経緯で参戦するに至ったかを勉強することになっていた。勿論それは日本の真珠湾攻撃から始る。私が反撥を感じたのは教科書の記述も先生の説明も日本を悪の権化として扱っていたからである。卑劣、狡猾、破廉恥、邪悪等々、可能な限りの形容詞を並べて日本を悪罵するのが目的のように感じられた。
歴史を教えていた 先生はずい分年寄に見えたが、今思うと四十代だったのではあるまいか。どことなくパートランド・ラッセル卿のような顔付をしていた。その 先生が、日本を余り好きではないなと感じたことが何回かあった。日本ではなく私個人だったのかもしれないし、両方だったのかもしれない。
真珠湾に事寄せて日本の悪口を並べた後、先生は私に何か言うことはないかと訊いた。その口調から、私には「どうだ、まいったか」と聞えて来た。「おっしゃる通り私は悪人でございます。誠に申し訳ありません」とでも言って私が平謝りに謝るのを期待しているようでもあった。
さて「何か言うことがあるか」と訊かれて反論をしたいものの、何を言うべきなのかはっきりしない。その上、感情が昻ると言いたいことさえきちんと英語で言うことは難しくなる。日本そのものを私自身に重ね合せて卑怯だ破廉恥だと指弾されれば腹の立つのは当り前だ。
結局二つの点についてしどろもどろに反論することになった。
一つはABCDラインと呼ばれた海上封鎖で、それ自身戦争行為だと認める学者がいるという点。もう一つは、モンロー宣言等で自国近くの地域については特別の権利を持つという立場をアメリカが取るのなら・同様の権利を日本にも認めるべきで、西欧諸国がそもそもアジアに進出して来る(正確には「アジアを侵略する」と書くべきだろう) のがおかしいという点である。
これは、あくまでその当時考えたことで、今ならこれに付け加えることはもっとある。更に、一体どのような視点から「真珠湾」を考えるかによって、様々な主張が正当性を持ってくるという点についても昔よりはよく分っているつもりである。
意の十分に伝わらないのは覚悟の上で反論を試みたものの、事態は一向に良くならなかった。先生だけでなく、クラスメートまで手を挙げて、教科書通りの説明を繰り返すのである。多勢に無勢、決定的に旗色が悪くなった。
その時、一番後の列に座っていた。ピートが立ち上った。冬はレスリング、春は陸上と一緒の部に属しており、髪はリーゼント・スタイル。 一年中ほとんど黒い革のジャンパーを着ている。
「君たちは「真珠湾」が卑怯だ、日本が悪魔だとか言ってるけど、今ここでやってることもフェ アじゃない。 タッド (「ただとし」とは言いにくいので友達はこう縮めて私を呼んでいた) と僕はレスリングの選手だ。でも試合はいつも一対一。二十人一緒に一人を攻撃することの方がよっぽど卑怯じゃないか」
喋るのは苦手な彼が、何とかこんな意味のことを言ってくれた。ことによると、彼の考え方も「日本は百パーセント黒でアメリカは百パーセント白」に近かったのかもしれない。政治にはあまり関心がなく、価値観もどちらかというと保守的な彼の口からこんな意見が飛び出そうとは思ってもみなかった。嬉しかったことは確かだが、同時に少々迷惑でもあった。その時はまた、 一人で先生と級友達全員を説得できるつもりでいたからだ。
ピートの発言がきっかけになって、白熱した議論は終った。先生は宿題として、太平洋戦争について教科書の一章を読むように言い渡して、その日の授業は終りになった。
原爆投下と終戦は授業中には取り上げられなかった。教科書の記述は「原爆によって平和が訪れ、日本本土上陸作戦が行われていれば犠牲になったはすの百万もの(だったと思う)人命が救われた」といったものだった。
アメリカでのパール・ハーバーにまつわる経験はまだまだ続きます。1980年代についてのものも次回に。
[2022/3/21 イライザ]
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親友の80歳誕生日
――お祝いのビデオを送りました――
親友のM君が、とは言えアメリカ人ですので通常はファースト・ネームですが、3月に80歳の誕生日を迎えます。娘のCさんから、友人知人たちに作成して貰ったビデオを集めて、サプライズ・ギフトを作りたいというメールが来ました。[という訳で、この記事については口外なさらないで下さい。念のためお願いです。]ウクライナ情勢について、取材を受けたり考えをまとめて発表可能な論考を作りながら、ビデオを撮影して娘さんに送りました。長さは90秒です。
彼は長くバーモント州の住んでいるのですが、ボストンに住んでいた時には家族で頻繁にM家を訪ねていましたので、息子にもビデオを作って貰いました。彼は、M家の庭で遊んだこと、そしてM君のユーモアのセンスについての思い出を短く語ってくれました。
私は、半世紀以上にわたる友情に感謝することから始めて、様々な場面で彼が新しい世界を紹介してくれたことに感謝しました。最初は1968年、大学院に入ってすぐ数学科の3時のお茶の時間に彼が声をかけてくれたことでした。その次の年にはベトナム戦争反対の集会で、彼が後に結婚したJさんに出会ったこと、また、私の核廃絶運動に常に理解を示してくれて、大変な時には激励をしてくれたことについても感謝の意を表しました。
2009年には夫婦で広島を訪問してくれたことも懐かしい思い出ですし、現在は数学や科学についての何冊もの本の著者として売れっ子になっている彼が、最近は、核廃絶についても書き始めてくれて、私にも書く場を提供してくれていることにも当然お礼を言いました。
最後のこれからの20年、私たちが100歳になるまで、友情がさらに発展し輝くであろうことを祈ってビデオを終えました。私も今年80歳になるとは感覚的に信じられませんので、100歳までの予言が現実になる可能性もあり得ます。
[2022/2/28 イライザ]
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