#教育勅語 と #御真影
―― #どう扱われたのか も #一緒に考えないと――
#山中恒 ・ #山中典子著 の #間違いだらけの少年H
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教育勅語も軍人勅諭も、「暗記」というより「丸暗記」が基本的には押し付けられました。そして、まず教育勅語に焦点を合わせると、学校行事の大切な節目節目には、最大限の威厳と畏怖の念を伴った行事として、厳粛裡に執り行われました。
その様子を垣間見るためには、「YAHOO!JAPAN知恵袋」の回答の中の「ベストアンサー」が分り易い説明をしてくれています。
そして回答者の「ya1****」さんが最後に触れている、「人間の生き方を示したよい面も含まれていました。」が、教育勅語問題を解く一つのヒントを与えてくれているのです。
恐らく「ya1****」さんにはそのような意図はないだろうと思いますが、それは、最近話題になった広島市長が新人研修のために教育勅語を使ったり、稲田朋美元防衛大臣が教育勅語を正当化したり、日本会議がその普及に熱心だったりするときの「口実」としても使われている言葉だからです。
その口実を受け入れることは、実は軒を貸すことになるのですが、その結果として母屋までというのが、教育勅語推進派の目的だとしてもおかしくはありません。
そんな術中に陥らないために、教育勅語がどう扱われたのか、もう少し詳しく見てみましょう。そのために、私の尊敬する「歴史家」、山中恒さんと山中典子さんに登場して貰います。お二人の書かれた『間違いだらけの少年H』です。副題は「銃後生活史の研究と手引き」で、1999年に勁草書房から出版されています。
この本の53ページから54ページ、そして58ページに興味深い記述があります。まず53から54ページです。
4年生以上の使用する修身教科書の冒頭にはすべてに「教育ニ関スル勅語(一般に「教育勅語」とよばれたが、これは略称)が掲載されていて、4年生になると授業で暗唱させられた。
ばかばかしい話だが、私はいまだに教育勅語が全部暗証できるし、ついこの間までは旧漢字で書き取りもできてしまった。先日も私よりわずか年長の方の話をきいていたら、この方はなんと「ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク、コウショウ、コウアン、コウレイ、コウゲン、カイカ・・・・」とまるで御詠歌でもうたうように、歴代天星の贈り名を百二十三代の大正天主までをみごとにやってのけたのである。教学大旨(明治12=1879年)に「仁義忠孝の心は人みなこれあり、しかれどもその幼少のはじめに、その脳髄に感党せしめて培養するにあらざれば、他のものごと、すでに耳に入り、先入主となるときは、後いかんともなすべからず」(引用者註=原文は旧漢字、句読点無し、カタカナ)とあるように、仁義忠考のことは忘れてしまったが、教育勅語の文句だけは経文のように「脳髄に感覚せしめ」られてしまったのである。
さて第1章の年表を見ていただけばわかるが、昭和十五年といえば、昭和十年の天皇神格化の先がけとなった[国体明徴運動」があり、さらには昭和十二年、教育現場における天皇神格視の強化をはかった『国体の本義』編纂配布があり、しかも皇国史観によって、人皇第一代の神武天皇が即位してから二千六百年というので、大々的に「皇紀二千六百年祭」が開催される年にも当たった。それだけに学校教育の現場では子どもたちに、いっそう天皇景仰の臣民感覚をインプリンティングさせるために徹底した天皇崇拝のしつけが行われていたのである。
その「天皇景仰と天皇崇拝」の気持を植え付けるために、大掛かりな式典が挙行されていたのです。山中の58ページに載せられている式次第を見るだけでもその様子が絵見てくるような気がします。
『日本の教育課題1「日の丸」「君が代]と学校』(1995年・佐藤秀夫編・東京法令出版)および『続・現代史資料8・教育―御真影と教育勅語1』(前出)には昭和十三(一九三八)年に山形の北村山郡小学校長会が編纂した【三大節明治節其の他儀式次第並に其の作法」というのを紹介している。
もちろんこれは、小学校令施行規則第28条によるもので、各学校の式次第もこれとほぼ同じであったし、私の在籍した小学校・国民学校も全くこれと同じであった。原文はカタカナなので、ひらがなになおして引用しておく。
第四 三大節及び明治節拝賀式次第
ー、 職員児童着席
二、 来賓着席
三、 校旗入場(引用者註 = 私の国民学校では、校旗はあらかじめ濱壇の下にかざってあった)
四、 敬礼 一同楽器を以て合図
五、 始式の挨拶
六、 開 扉 一同俯首低頭 学校長奉仕
七、 唱歌 君が代 二回 一同合唱 楽器伴奏回
八、 御影に対し最敬礼 1、学校長及び職員/2、児童生徒/3、管理者及び参列者
九、 勅語奉読>
一〇、 唱歌勅語奉答 一回 一同合唱 楽器伴奏>
一一、 閉扉 一同俯首低頭 学校長奉仕
ー二、 学校長誨告 (引用者註=教え告げるの意)
一三、 当日の唱歌 (引用者註=それぞれの式歌) 一回 一同合唱 楽器伴奏
一四、 終式の挨拶
一五、 敬礼 一同 楽器を以て合図
ー六、 校旗退場
一七、 退場
御真影と教育勅語はいわば一体化された存在であり、教育勅語に「良い面もありました」と言うことは、天皇の存在やその絶対性さえも認めることになるというトリックを御理解頂けたらと思います。そして、一体生かされた御真影と教育勅語は、教員の命を賭けてさえ守らなくてはならない存在だったのです。
例えば、2017.6.10 教育史学会シンポジュウム「教育勅語の何が問題か」(於お茶の水女子大学)での、小股 憲明(大阪芸術大学短期大学部)氏による報告、「教育勅語・御真影をめぐる不敬事件と学校儀式」には、教育勅語についての多面的な解説と、多くの不敬事件や殉職事件の詳細が載せられています。一二を抜き書きしておくと、
- 明治 40[1907]年 1 月 仙台市県立第一中学校の御真影・教育勅語謄本焼失事件=大友元吉書記の御真影・教育勅語謄本殉職事件~校舎火災の際、取り出そうとして逃げ遅れて殉職。
- 大正 12[1923]年 9 月 関東大震災時の御真影殉職~関東大震災での殉職者 41 名(神奈川県 27、東京府 13、千葉県 1)。うち東京 13 名中の 8 名までが、「御真影を守護」「御真影奉遷のため奮闘中」の殉職であった。
戦後かなり経った頃でも、少し古い家に行くと、鴨居の上に天皇と皇后の写真が飾られていたことを思い出しますが、「御真影」の意味がハッキリ伝わってきたのは、実に意外な場所からでした。
[当然、続きます]
2024年も言葉を大切にして、知的にも情緒的にも誠実さが輝く年にすべく頑張りましょう。
[2024/3/19 人間イライザ]
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