憲法

2024年2月27日 (火)

#憲法98条 は #憲法改正 を #禁じている ―― #96条 の #改正条項 との #矛盾――

#憲法98 #憲法改正 #禁じている

―― #96 #改正条項 との #矛盾――

240226

矛と盾

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『数学書として憲法を読む』改訂のための作業シリーズです。

憲法98条についての考察を続けますので、再度、個々の議論には関係のない第2項を除いた条文を掲げておきます。

98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

前回は、98条の言い直しともいうべき、次の二つの定理を証明しました。

[定理98・自己完結定理 (九大律の8番目である自己完結律) ] 憲法を読むに当り、(普通の言葉を使えば)その解釈のために、他の法律や文書を根拠にしてはいけない。

[正文定理 (九大律の①正文律)] 「憲法」として読む対象は、1946113日に公布され、194753日に施行された(日本語の)日本国憲法である。

[定理98]の論理的帰結としては、次の二つの系もあります。

[系1 (九大律の③一意律)] 憲法内に現れる同一の字句は、同じ意味を持つ。

[系2 (九大律の②素読律)] 憲法を読むに当って、一つ一つの字句は素直に字義通り読まなくてはならない。

[証明] これまでの説明で十分だと思いますので、省略します。

前回も言及しましたが、98条の「最高法規」の意味を曲げる「へそ曲り」が出て来ないとも限りませんので、念のため、②の「素読律」は強調のために残しておきましょう。ということで、九大律の内、省略するのは、①、③、⑤、⑧です。⑤については、96条との関係で論じます。

さて今回は、それに負けずとも劣らない論理的帰結を確認しておきます。証明は[定理98]から明らかなのですが、念のため、表現を変えて添えておきます。この定理の名称、「改竄」を見てドッキリする方がいらっしゃるかもしれませんので、事前に説明をしておきます。

「改竄」ではなく、「変更」とか「改変」でも論理的意味は伝わりますので、本来はそちらの方の中立的な表現を採用すべきかもしれません。敢えて、「改竄」という表現を使ったのには意味があります。

安倍政権時代に顕著になった政治腐敗の中でも、「モリ・カケ・サクラ」と並び称された事件が象徴的だったのですが、財務省の幹部が安倍政権に不利になる公文書を改竄していたことが明らかになりました。それに対して抗議したのが赤木俊夫さんでしたが、彼が自らの命を賭けて守ろうとした「公僕」としての義務が、官僚や政治家、そして司法からも余りにも軽々しく扱われてきました。このような権力に対しての抗議として、敢えて「改竄」を使うことにしたのです。特に、99条で憲法遵守義務を負わされている「公務員」に対しての警告という意味も込めています。

[改竄禁止定理 (憲法に関しての改竄禁止律) ] 憲法を読むに当り、その字句を改竄することは禁止されている。また、字句は変えずに、字句の意味を変えることは禁止されている。さらに、字句から論理的に導かれる結論も字句同様に、改竄されてはならない。

 [証明] 憲法内の字句が改竄されたとしよう。すると、憲法そのものと、憲法の一部が違う、「憲法ダッシュ」という二つの文書が存在することになる。「一部が違う」ということは、「憲法ダッシュ」が元々の憲法に「反する」存在であることを意味する。従って、「憲法ダッシュ」は98条によって効力を持たない。Q.E.D.

ここまでは問題がなかったのですが、改竄禁止定理は憲法の全条文に対しての禁止即ですので、それを次のような「定理」として掲げておきます。本来は「系」と呼ぶべき位置付けなのですが、その重みを考えて定理と名付けます。これは98条と96条の間には大きな矛盾があることを示しています。

 [改憲不可定理] 憲法を改正することは許されない。

[証明] 改竄禁止定理の証明と同じ。つまり、改憲後の憲法を「憲法ダッシュ」と呼ぶと、それは元の憲法に反する内容が盛り込まれていることになり、効力を持たない。Q.E.D.

 ちょっと困った状況になりました。96条には改憲の手続きが規定されていますので、憲法では改憲が想定されています。にもかかわらず、改憲は禁止されているという矛盾が生じたのですから、矛盾解消のための何らかの「解釈」が必要になります。

答は次回に回しますので、皆さんも考えて見て下さい。

長くなりますので、次回に続きます。

2024年も健康に留意しつつ、少しでも良い年にすべく頑張りましょう。

[2024/2/27 人間イライザ]

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2024年2月26日 (月)

#憲法98条 から #導かれる 重要な #定理 ――#現行憲法 #以上に #優先される #法はない――

#憲法98 から #導かれる 重要な #定理

――#現行憲法 #以上に #優先される  #法はない――

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こちらも分り易い憲法書です

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本題に戻って、『数学書として憲法を読む』改訂のための作業を続けます。

まず、訂正です。23日には、「メタ条項が三つある」ということを書きましたが、良く見直すと四つです。もう一つは96条、憲法改正についての条項です。

96この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

上諭と前文についても一言付け加えておきましょう。上諭は「メタ」に属しますし、前文の前半は「メタ」、後半はそれ以降に憲法で詳述される内容についての決意ですので、「メタ」には属さない、と考えられます。

この通り、老化現象も加わり、かつ私自身まだ実験的に考察・記述を続けていますので、これ以外にも私の主張や論述に間違いや反論等があれば、是非御教示下さい。宜しくお願いします。

さて98条です。再度条文を掲げておきます。

98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

「最高法規」という規定の重さは、この条文から論理的に導かれるいくつかの結論を見れば明らかなのですが、個々の「証明」は同じ形を取りますので、最初に一つの「定理」としてまとめておきます。98条から導かれる定理ということで、[定理98]と名付けておきます。ただし、これは、九大律の内の8番目の「自己完結律」と同じことです。重要性に鑑み、二つの名称があっても良いでしょう。

[定理98・自己完結定理(九大律の8番目である自己完結律)] 憲法を読むに当り、(普通の言葉を使えば)その解釈のために、他の法律や文書を根拠にしてはいけない。

[証明] 98条の規定している「最高法規」とは、我が国を縛っている法体系の中で、憲法による縛りが他の縛りより優先されることを意味する。その解釈に、仮に憲法に反する文書Aという根拠を持ち出すと、その文書Aは、憲法に反するにもかかわらず、その力が認められ、憲法より優先されるという結論になる。それこそ正に憲法98条により禁止されていることである。ここで、98条中の言葉「反する」は、広義には「異なる」 (新潮国語辞典、集英社国語辞典等) を意味するので、それに従った。Q.E.D.

再度、訂正です。2月21日のこのブログでは、この八番目の律を抜かしていました。つまり「定理98」から導かれる律は五つあります。ということは、九大律として九つの命題を前提として読む、という方針を貫くには、四大律あれば良く、論理的には他の律は必要ないということになります。

ただし、そもそも98条の「最高法規」の意味を曲げる「へそ曲り」が出て来ないとも限りませんので、念のため、②の「素読律」は強調のために残しておきましょう。

その上で、98条から導かれる、九大律の内の残りの四つの律の証明です。四つとは、(1) の[正文律]、 (2) の[素読律]、 (3) の[一意律]、そして (5) の[論理律]が憲法98条の「最高法規」という位置付けから、導き出されるからです。

[正文定理 (九大律の①正文律)] 「憲法」として読む対象は、1946113日に公布され、194753日に施行された(日本語の)日本国憲法である。

 [証明] 定理98から自明。そもそも、公布されたのは日本語の憲法なので、わざわざ断るまでもないのだが、問題は、憲法解釈に当って、英文で書かれた憲法が憲法解釈を左右するといった主張が行われてきたことだ。念のため「定理98」を繰り返す形で、日本語が正文である理由を述べておく。仮に、憲法の英文訳を「憲法」として読むことにすると、英文と日本語の二つの「憲法」が存在することになる。しかし、日本語の方が「最高法規」であり、それとは違う内容を持つもう一つの憲法があるとすると、それは、元の憲法に反するものになり、効力は持たないからだ。Q.E.D.

長くなりますので、次回に続きます。

 

2024年も健康に留意しつつ、少しでも良い年にすべく頑張りましょう。

[2024/2/26 人間イライザ]

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2024年2月25日 (日)

#憲法 は #お休み 晴耕雨読の #耕し の日でした ――#耕運機 が #想像以上 に #強力でした――

#憲法 #お休み 晴耕雨読の #耕し の日でした

――#耕運機 #想像以上 #強力でした――

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#畑の面積 を #広げることになりそう

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『数学書として憲法を読む』改訂のために、追加する内容や、これまでの記述の改善点などをまとめて、皆さんに読んで頂いています。多くの方の目に触れることで、ハードコピーとして世に出る前に問題点を指摘して頂けるだろうという期待 (甘え?) もあります。

そして、折角田舎に住んでいるのですから、その利点を最大に生かす生活をしたいとも考えています。つまり、「晴耕雨読」です。でも正面切って、それが目標ですとは言い難いですし、気障ったらしいのであまり使ってこなかったのですが、今日は、胸を張って「晴耕雨読」の前半の日だったと言いたい気持です。

注文していた耕運機が届いたからです。耕運機では自分で耕したことにはなりません。それが今日は、「耕した」と感じたのです。

今までも、シャベルや鍬で追歳畑を耕していました。今年もこの通りの出来です。

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でも、休み休み一時間半ほど掛った割には、「耕した」という達成感が持てなかったのです。今回は、30分も掛からずに、面積は少なかったのですが、簡単に耕せました。耕運機が想像以上に強力で、「耕した」と感じることができたのです。

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今年は少し畑を広げて、もう少し野菜の種類も増やそうかなとさえ思い始めています。

 

2024年も健康に留意しつつ、少しでも良い年にすべく頑張りましょう。

[2024/2/25 人間イライザ]

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2024年2月24日 (土)

#日本国憲法 の #メタ条項 の #優先性 ――#憲法全体 の #持つ力 を #生かそう――

#日本国憲法 #メタ条項 #優先性

――#憲法全体 #持つ力 #生かそう――

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#六法全書 では #義務を否定

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『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』を改訂するための準備として、出版後に気付いた重要な点をまとめています。その中でも、特に98条を優先すべきだと強調しています。でも実は、98条を含む「メタ条項」が重要なのです。「メタ条項」の意味は前回の説明でお分り頂いたとして、今回はこれら「メタ条項」が重要な訳を簡単にまとめておきましょう。

その重要性・優先性を理解するためには、まず、憲法全体の姿を大雑把でも描いておかなくてはなりません。幸いなことに、憲法「のみ」を読み込むことで、つまり憲法内の言葉だけに依存して、我が国の歴史をどう総括し反省し、これからどのような国を目指すのかについてはハッキリ分ります。

特に、97条については前文と97条とで繰り返し同じことを述べ、かついくつもの条文にその具体的な応用が描かれているのですから、その重要性については言うまでもありません。これが憲法の目的であり、憲法が必要不可欠であるということの証明だと言っても良いでしょう。

そして、「押し付け憲法だから改正せよ」という声に対する答にもなっています。仮に押し付けられていたとしても、そこが問題なのではありません。押し付けられたもの自体は、基本的人権は「人類普遍の原理」なのです。さらに97条では、「侵すことのできない永久の権利として信託された」ことが述べられています。「信託」したのは、「人類」です。しかも過去・現在の人類からという含意は明白でしょう。

もしこれを「押し付け」だと感じるのであれば、それは押し付けられたと主張している側が、人類の一員ではないことを「語るに落ちて」いるのです。

次に、憲法が法律的には国内の最高の法律であるという98条ですが、それは、憲法の定義と役割から当然のことです。つまり、一国内に存在する様々な事柄の処理に当って、全ての法律がそれに従うような基本的な存在としての法律を作っておかないと大きな混乱が生じます。その基本法が憲法であるという憲法そのものの定義によるものだということです。これは当然ですし、この点についての少々の妥協でも許してしまえば、憲法存在の意義がなくなってしまいます。

最後に99条は、公務員の憲法遵守義務を規定していますが、それは前文の「その権力は国民の代表者がこれを行使し」に呼応しています。そして、義務遂行者の筆頭が天皇であるのは、これまでの我が国の歴史の反省を踏まえて、新憲法では再び、明治憲法下と同じ過ちを繰り返さないように、という警告でもあります。

これら三つの条項を並べて見ると、随分強力な布陣であることも一目瞭然です。9条や36条等、個々の条文に注目して憲法の力を活用することは勿論大拙なのですが、憲法全体の力を上手く使う知恵も育てて行くことも大切なのではないかと考えています。

残念なことに、99条は「法的義務」ではない、というのが法曹界の定説になってしまっているようです。六法全書の注釈にもその点が記述されているほどなのですが、これが問題であることは、『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』に詳述してありますので、御参照下さい。

ことによると、「今すぐここで読みたい」とお感じの方もいらっしゃるかもしれません。これでにブログでも取り上げてきたサイトをリストしておきますので、クリックして頂ければ幸いです。

[99条について] 2021年10月26日から、5回にわたって、取り上げています。

第2回は2021年の11月6日

第3回は2021年11月11日。

第4回は2021年11月16日。

第5回は、2021年11月21日

 

これに続いて、98条の「最高法規」についての考察もシリーズでアップしています。

第1回は2021年12月6日です。

第2回は2021年12月11日

第3回は2021年12月16日。

第4回は2021年12月21日。

第3回と第4回の内容は、これからアップすることとかなりの部分重複しますが、改訂版の準備という視点から、少しでも分り易い説明に改善したものをお届けしたいと考えています。

 

2024年も健康に留意しつつ、少しでも良い年にすべく頑張りましょう。

[2024/2/24 人間イライザ]

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2024年2月23日 (金)

#日本国憲法 には三つの #メタ条項 があります ――#この一つでも #蔑ろにする と #憲法の存在 そのものが #否定されます――

#日本国憲法 には三つの #メタ条項 があります

――#この一つでも #蔑ろにする #憲法の存在 そのものが #否定されます――

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もう一つの標準的憲法書

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『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』を改訂するための準備として、出版後に気付いた重要な点をまとめています。その中でも、特に98条を優先すべきだと強調しています。でも実は、98条を含む「メタ条項」が重要なのです。

まず、「メタ条項」とは何かから説明しましょう。そのためには、「メタ」の定義から始める必要があります。

「メタ」はもともとギリシャ語で「上に」を意味します。と言っても分り易い概念ではありません。上手い日本語訳のないこととも関連があるのですが、例をいくつか挙げて説明するのが、手っ取り早いと思います。

「三角形の内角の和は180度である」は数学における命題の一つですが、「数学の体系に矛盾がない」は「メタ数学」における命題です。「メタ憲法」に属する命題としては、「現在の憲法は押し付け憲法だ」、「現在の憲法は世界に誇る平和憲法だ」などがあります。

つまり、考えている対象を全部ひっくるめて一段上の対象として記述するときに「メタ」を付けます。「メタ」をあえて日本語に訳すと「超」を付けることが多く「超数学」というコトバも存在します。しかし「スーパー」とか「ウルトラ」と混同しないためにはそのまま「メタ」の方が無難かもしれません。

という訳で、「メタ憲法」という用語を使います。三つとは、憲法97条、98条、そして99条です。条文は次の通りです。

 

〔基本的人権の由来特質〕

97条  この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

〔憲法の最高性と条約及び国際法規の遵守〕

98条  この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。

〔憲法尊重擁護の義務〕

99条  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 

この中で、98条の2項は、メタ条項ではありません。その点を明らかにするためにも、ここには掲げておきました。

98条と99条が「メタ条項」であることは問題ないと思いますが、97条については、基本的人権の由来をと特質を述べているのですが、特質と由来との関係を考えると「メタ」であることも明白です。

この条文では、基本的人権が人類史においてどのような位置付けなのかについての記述があり、それが「侵すことのできない永久の権利として信託された」先の具体的な形が憲法なのだと言っています。つまり、人類がこれまで努力して獲得してきた基本的人権を、我が国では憲法という具体的な器で受け止めた、という意味です。しかも、それを国民の総意を以て受け止めたと言っているのですから、憲法そのものの本質が何に由来しているのかを示しています。従って「メタ条項」です。

特に重要なのは、これらの3条項とも、憲法が成立する上で必要不可欠な内容だということです。

97条は、憲法の存在意義そのものを述べています。98条は「最高法規」としての憲法位置付け、そして99条はこれを守らなくてはならないことを「義務」付けているからです。この点についてはこれからもさらに詳細に論考します。

「メタ条項」で注意すべき点としては、これらの条項が自己言及文であることです。論理的には、自己言及が矛盾を引き起こすことがあります。例えば、「この文は嘘を書いています」が矛盾の例です。この文が正しければ、その内容から「嘘」になり、正しくなければ嘘ではなくなってしまうからです。

ただし、今私たちが注目している三つの条項にはそのような矛盾はありません。しかし、同じ憲法の中に位置付けるのではなく、一段高い位置付けの文書として明示した方が論理的には混乱が少ないと考えられます。その点を考慮して、これらの3条項が、97条から99条として憲法の一番後ろにまとめられているのだと考えられます。(100条から103条は手続的な条項ですので、本来の憲法とは性格が違いますので、「補則」として最後にまとめてあることには納得が行きます。)

次は、これらの条文からどのような「定理」が生まれるのかを見てみましょう。特に98条に注目します。

 

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[2024/2/23 人間イライザ]

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2024年2月21日 (水)

#憲法98条 は #偉大です・その1 ――#文書を読む ことは #改竄された文書 を読むことではありません――

#憲法98 #偉大です・その1

――#文書を読む ことは  #改竄された文書 を読むことではありません――

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標準的憲法書の一つ

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前回は、『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』の出版後に気付いたこととして、憲法98条の偉大さがあると述べました。

その理由の一つは、前回出発点として披露した九大律の内、(1)の[正文律]、(2)の[素読律]、(3)の[一意律]、そして(5)の[論理律]が憲法98条の「最高法規」という位置付けから、導き出されるからです。

別の言葉を使うと、九大律の「九」は「五大律」で良いことになるのです。

遅まきながら、憲法を「最高法規」として認めている98条を読み直してみましょう。まず条文です。(第2項は性格的な違いがあるので略します。)

第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

この条文の奥深さを伝えなくてはならないと考えた理由の一つに、「改竄禁止律」と名付けたルールがあります。九大律の依って立つ土台といった感じのルールなのですが、雑誌『現代の理論』2022年冬号でこのルールを取り上げました。そこでは大人しく「置換禁止律」という名称を選んだのですが、その後の安倍政権・菅政権・岸田政権での権力者たちの傲岸不遜振りを忘れないためにも、今回は何が起きたのかを正確に想起させる「改竄禁止律」と呼ぶことにします。

《改竄禁止律》

「文字通りに」文書を読む上で、最低限守らなくてはならない規則を、誰であっても反対できないであろう基礎的なところから始めて箇条書きにして整理しておきます。

① 数学では、何を読むのかという対象を定めることが重要です。憲法で言えば、ここで対象にしているのは、日本国憲法です。それは、国会の議を経て、1946年11月3日に公布、1947年5月3日に施行された、我が国の最高法規を指します。物理的には、どの六法全書にも記されている、日本語によって書かれた文書です。

② 憲法を「論理的に読む」上ではもちろん、どのような文書を読む上でも「素直に読む」のであればどうしても譲れないのは、条文中の個々の文字や句をそのまま読むことです。数学の等式で考えると分り易いので、一つの例を示します。[1+1=2]という式の中で、[1]を勝手に[3]と変えて読んではいけないのです。そんなことをすれば、等式は成り立たなくなってしまいます。当り前のことですので、これはどなたにも認めて貰えるはずです。つまり、憲法中の特定の字句は憲法という存在の必要不可欠な構成要素であり、それを物理的に変更することは許されないのです。たとえば、「国民」という字句を「臣民」という字句に訂正することは当然、許されないのです。これを、「改竄禁止律」と呼びます。

③ 次に取り上げるのは、字句そのものは変えずに、その意味を変える読み方です。字句の意味を変えるということは、「論理的」には、その字句を変えることと同じだからです。たとえば11条で使われている「永久の権利」の「永久」の意味を、「長期にわたって」という意味なのだ、と変えてしまうことは許されないのです。それでは書かれている言葉とは意味が違ってしまうからです。

④ 加えて、字句の意味から論理的に導かれる結論も同じように変更は許されません。結論はそのまま受け入れなくてはならないのです。つまり、論理的帰結を勝手に変更することも「改竄」と見做すのです。その理由も数式で説明しておきましょう。②の等式[1+1 = 2]の両辺に、[3]を足しましょう。すると等式は[3+1+1 = 3+2]になります。これもそのまま受け入れなくてはならないのです。

大切なのは、これらの「改竄」を許すことは、憲法を「尊重する」という99条の規定に反しているという事実ですし、かつ憲法が「最高法規」であるという98条にも反します。証明は次回に回します。皆さんも考えてみて下さい。

 

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[2024/2/21 人間イライザ]

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2024年2月20日 (火)

#数学書として憲法を読む とは ――#読む上での #前提 を #九大律 としてまとめました――

#数学書として憲法を読む とは

――#読む上での  #前提 #九大律 としてまとめました――

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分り易い憲法書の一つ

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『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』の出版後に気付いたことの内、やはり98条の偉大さに勝るものは少ないような気がしています。それは、「数学書として読む」こと自体にも関係していますので、まずは出発点からお浚いです。

通常、私たちが文章を読む上での基本は、字義通り、素直に読むことですが、特に、「数学書」として読む場合には、言葉の定義をきちんと確かめること、その上で、論理的に読むことを強調しています。

『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』(以下、『数学書』と略します)の読み方は、その延長線上で、憲法の条文を数学における「公理」と見立てた上での読む試みです。もちろん本来の公理系は「何の矛盾も存在しない文書」を指すますが、憲法内には矛盾があります。「論理性」という面では完璧とは言えない文書である憲法を、できるだけ「論理的」に読むために、自らに課すいくつかのルールを「律」、全体を、語呂の良さから「九大律」と呼んでまとめておきました。

  1. [正文律] 対象とする日本国憲法の正文は日本語とする。
  2. [素読律] 書かれていることを字義通り素直に読む。定義される順序に意味のある場合にはそれも尊重する。
  3. [一意律] 一つの単語、フレーズは、憲法の中では同じ意味を持つと仮定する。
  4. [公理律] 憲法を「公理」の集合として扱う。
  5. [論理律] 憲法解釈は論理的に行う。法律やそれに準ずるものは、公理からの論理的帰結であると位置付け、論理的に考えて憲法と整合性があるかどうかの判断をする。
  6. [無矛盾律] 条文間には矛盾がないという前提で読み、解釈を行う。
  7. [矛盾解消律] とは言っても現実問題として、憲法内には文言上、一見、矛盾している記述が存在する。条文間の矛盾や使われている概念間の矛盾について、「論理的」で憲法の趣旨が生きるような、かつ出来るだけ無理のないしかも説得力のある解釈を探し、可能であれば「矛盾」を解消する。最低限、「矛盾度」が低くなるように読む。
  8. [自己完結律] 憲法は、基本的には自己完結的な文書であると仮定する。つまり、書かれていることにはすべて意味があると仮定し、書かれていないことには依存しない。また、立法趣旨等も条文に掲げられていないものは無視する。
  9. [常識律] 定義されていない言葉や概念が使われている場合は、日本語の常識で解釈する。それもできるだけ自然な解釈による。

一つ一つの説明は必要ないかもしれませんが、次回は、(1)と(2)から始めて、念のために別の言い方で、それぞれの意味を共有したいと思います。

今回もう一つ、数学書を読む上で、あるいはそれ以前の数学的なことを表現する上で役に立つ手法を紹介しておきます。それは、「abuse of language」という寛容的な表現法です。論理的に、そして数学的にきっちりと表現し続けると、言葉の数が多くなり過ぎてその論理を追うことが煩雑になり過ぎ、結局理解度が落ちる場合が結構あるのです。

そんな時に、「言葉の濫用」を許して、論理的には問題があることを前提としつつ、最終的な理解度を高める方法です。「好い加減に読む」こととの違いは、「濫用」であることを意識して、その背後にある論理は尊重しながら、煩雑さを避けるという便法です。

[続きます] 

 

2024年も健康に留意しつつ、少しでも良い年にすべく頑張りましょう。

[2024/2/20 人間イライザ]

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2024年2月18日 (日)

#説明なしに #死刑 が #合憲 だと #断定して良いのか? ――#98条 の #最高法規 が #決定権 を持ちます――

#説明なしに #死刑 #合憲 だと #断定して良いのか?

――#98 #最高法規 #決定権 を持ちます――

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憲法マジックに騙されるな

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月初めから始めたシリーズでは、2019年に上梓した『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』の改訂版ではどのような改善点があるのかをお知らせするのが本来の目的でした。とは言え、旧版のサワリくらいはお浚いをした上でないと伝わらないところもありますので、まず、なぜこんな本を書いたのかの説明から始めました。

それは、憲法の解釈が「100円のトマトに200円払え」に等しいような非論理性に満ちているからなのです。憲法には「○○である」と書いてあるのに、現行の解釈の多くは「○○でない」になってしまっているのです。これを「憲法マジック」と呼んでいるのですが、その良い例が死刑です。

「憲法は死刑を禁止している」のです。その簡単な「証明」は、2月7日のブログで取り上げました。続いて、死刑は合憲であるということの根拠になっている、昭和23年の最高裁判所の確定判決の批判をしてきたのですが、今回はそのまとめです。

クリックする手間を省略するために、最高裁判決を再掲します。下線と番号は筆者が付けました。

死刑制度を合憲とした判例(最高裁判所大法廷昭和23年3月12日判決)

憲法第13条においては,すべて国民は個人として尊重せられ,生命に対する国民の権利については,立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする旨を規定している。しかし,同時に同条においては,⓪公共の福祉に反しない限りという厳格な枠をはめているから,①もし公共の福祉という基本的原則に反する場合には,生命に対する国民の権利といえども立法上制限乃至剥奪されることを当然予想しているものといわねばならぬ。そしてさらに,②憲法第31条によれば,国民個人の生命の尊貴といえども,法律の定める適理の手続によつて,これを奪う刑罰を科せられることが,明かに定められている。すなわち③憲法は,現代多数の文化国家におけると同様に,刑罰として死刑の存置を想定し,これを是認したものと解すべきである。(中略)弁護人は,憲法第36条が残虐な刑罰を絶対に禁ずる旨を定めているのを根拠として,刑法死刑の規定は憲法違反だと主張するのである。しかし死刑は,冒頭にも述べたようにまさに窮極の刑罰であり,また冷厳な刑罰ではあるが,④刑罰としての死刑そのものが,一般に直ちに同条にいわゆる残虐な刑罰に該当するとは考えられない。ただ死刑といえども,他の刑罰の場合におけると同様に,⑤その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には,勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬから,将来若し死刑について火あぶり,はりつけ,さらし首,釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば,その法律こそは,まさに憲法第36条に違反するものというべきである。前述のごとくであるから,死刑そのものをもつて残虐な刑罰と解し,刑法死刑の規定を憲法違反とする弁護人の論旨は,理由なきものといわねばならぬ。

(中略)と書かれているところより後、後半を先に考えると、ここでは、「残虐」な死刑執行の典型例を挙げて、そのような執行方法は禁止されている、でも36条は、死刑そのものを禁止しているのではないという「断定」が述べられているだけで、死刑が合法だという説明はしていませんので、合法か否かの議論に関しては、この後半部分は無関係です。

となると、(中略)より前、つまり前半だけを問題にすれば良いことになります。そこで取り上げられている13条の解釈ですが、鍵になるのは「公共の福祉」の位置付けです。これは、基本的人権を剥奪する上での必要条件なのですが、最高裁判決では、これを十分条件だと解釈した上での結論が述べられています。これは論理的には無理がありますので受け入れられません。

となると、結局、31条の解釈だけが問題です。最高裁の解釈では法律があれば死刑が許されるという主張になってしまっています。これも、必要条件と十分条件との違いから論じると、31条では、法律的な手続きさえあれば死刑は許されるとまでは言っていないのです。

仮に一歩譲って、死刑は合憲だという法律があることを前提に議論しましょう。最高裁の判決はそれで、死刑が合法になると言っています。でも憲法98条と合わせて考えると、この結論は間違っています。

具体的に考えて見ましょう。明治憲法下では法律によって死刑が認められていたのですから、最高裁の主張は、明治刑法が定めている通り、既に法律も存在しているのだから死刑は合法なのだということになります。

しかし、憲法98条をもう一度読んで見ましょう。

第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

つまり、明治時代に制定された法律があっても、その内容が新憲法の意図と違うのであれば、その法律は無効だと言っているのです。この点についてはさらなる説明を次回以降したいと考えています。

となると問題は、最高裁の判決の問題点は、98条の意図する、死刑そのものが新憲法の意図するところに合致しているのかどうかという検討を行わなかったことなのです。そしてその検討を行えば、2月7日の記事で証明したように、つまり「定理A」の証明通り、死刑は違憲なのです。

次回は、憲法98条の持つより大きな意味の解明を始めます。

[続きます] 

 

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2024年2月12日 (月)

#残虐ではない #死刑 とは? ――#最高裁判決 には #説明 が #ありません――

#残虐ではない #死刑 とは?

――#最高裁判決 には #説明 が #ありません――

240213

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今お届けしているシリーズでは、2019年に法政大学出版局から上梓して頂いた『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』 (旧著と略します) の中身を簡単に紹介した上で、出版後に私が積み重ねたさらなる思考の一端を披露しています。

その中には、内容としては旧著に含まれているのですが、2019年当時の説明をより分り易く改善した部分もありますので、それも御披露しています。

中でも、我が国の憲法解釈では「合憲」にされている死刑制度は重要です。2月4日から数回に分けて論じていますが、お暇な時にそちらも御覧頂ければ幸いです。第一回目のリンクを貼り付けておきます。

今回は第8回目ですが、昭和23年の最高裁判決の後段に注目しています。

以下、今日のブログで一番大切なところです。この「後段」を以下掲げますので、注意深く読んで下さい。

弁護人は,憲法第36条が残虐な刑罰を絶対に禁ずる旨を定めているのを根拠として,刑法死刑の規定は憲法違反だと主張するのである。しかし死刑は,冒頭にも述べたようにまさに窮極の刑罰であり,また冷厳な刑罰ではあるが,④刑罰としての死刑そのものが,一般に直ちに同条にいわゆる残虐な刑罰に該当するとは考えられない。ただ死刑といえども,他の刑罰の場合におけると同様に,⑤その執行の方法等がその時代と環境とにおいて人道上の見地から一般に残虐性を有するものと認められる場合には,勿論これを残虐な刑罰といわねばならぬから,将来若し死刑について火あぶり,はりつけ,さらし首,釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば,その法律こそは,まさに憲法第36条に違反するものというべきである。前述のごとくであるから,死刑そのものをもつて残虐な刑罰と解し,刑法死刑の規定を憲法違反とする弁護人の論旨は,理由なきものといわねばならぬ。

さて、ここで引っ掛かるのは「前述のごとくであるから,死刑そのものをもつて残虐な刑罰と解し,刑法死刑の規定を憲法違反とする弁護人の論旨は,理由なきものといわねばならぬ。」です。

つまり、この段落の前半の部分で述べたことから、「死刑そのものを残虐な刑罰」だと考えたり、「死刑の規定を憲法違反」だと主張する弁護人の論旨は「理由なきもの」だと言っています。

しかし、もう一度この段落を読んで下さい。確かに、火あぶり等、残虐な死刑執行事例は挙げられています。でも、死刑そのものが「残虐ではない」のはなぜかという理由はどこにも述べられていないのです。また、死刑が憲法に違反しないという理由も、この後段にも述べられていません。

これまで取り上げてきた最高裁判決の前段では「公共の福祉に反しない限り」という必要条件が述べられていることだけを理由に、死刑は「予想されている」と述べ、後段では、何の理由も示さずに、死刑が憲法違反だという論旨は「理由なきもの」だと断定しています。

つまり、最高裁の判決では、理由を示さずに死刑が合憲だと主張しているに過ぎないのです。次回、これをもう一度整理しておきましょう。

[続きます] 

 

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2024年2月10日 (土)

#生命権 に #枠 を #はめるのは #憲法違反 ――#憲法13条 の #読み方 その2――

#生命権 # #はめるのは #憲法違反

――#憲法13 #読み方 その2――

Photo_20240209144601

文部省発行の『憲法読本』から

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本稿は、⓪に対する反論です。この判決では、国民の権利、その中でも基本的人権そしてその中でも、生命権が無制限で認められている訳ではなく「枠」がはめられていること、それだけでは止まらずに、「厳格な」枠であることが強調されています。その部分を再掲しておきます。

公共の福祉に反しない限りという厳格な枠をはめているから,①もし公共の福祉という基本的原則に反する場合には,生命に対する国民の権利といえども立法上制限乃至剥奪されることを当然予想しているものといわねばならぬ

このような「枠組み」で、基本的人権を捉えること、特に生命権を捉えている点で、この判決には大きな問題があるというのが本稿の主張です。(以下、死刑がテーマですので、生命権を中心に論じます。生命権だけに言及することが多くなりますが、他の権利についても同様の議論が成立します。)

言葉の意味から考えましょう。「枠をはめる」ということは、生命権が勝手に広がると害をなす、といったニュアンスでないと意味がありません。世界中に笑顔が広がっている、嬉しいですね、といった文脈の中で、その状態に「厳格な枠」をはめよう、と考える人はいないでしょう。でも、⓪では、生命権にはそれがはめられているというのです。しかもそれに、「厳格な」が加わるのですから、生命権に対して厳しい制限が付けられているのです。

そもそも「生命権」を考える上で、このような「予断」を持つことが許されるのでしょうか。基本的人権の広がることの意味をせめて「中立」の立場で表現できる「枠組」を用意した上で議論すべきなのではないでしょうか。

「厳格な」の意味もお浚いしておきましょう。ネットで見付けた「CoCoSiA」というサイトでは、「厳格」を「不正、怠慢、ごまかし、失策などを全く許さない厳しい態度」だと定義しています。

結構情緒的な定義ですので、もう少し客観性のある二三の条件を掲げて、「厳格」または「厳格な」を考えて見ましょう。「枠」も一緒に取り上げた方が分り易いかもしれません。一つには、この枠の境界がはっきりしていることを挙げても良いでしょう。昨日はここまでは良かった、でも今日は駄目だよではなく、誰の目にもはっきりとわかる「枠」でないと「厳格」であれとは言えないことになり兼ねないからです。

二つ目には、この枠が簡単には揺れ動かないことです。誰かが何かを言ったから枠の範囲が変わるとか形が変わらないという条件も付いていると考えて良いのではないでしょうか。

三つ目は、強制力が伴っているという条件です。子どもの躾について、「厳格な父」とは言っても、自分のお小遣いが貰えるまで泣きせがむ子どものことを、父に対して「厳格な子」だとは言いません。それは、この点も大きな要素だからなのかもしれません。

イメージとしては、法律が「厳格な」を体現していると考えられます。もっとも法律の中には、「○○基本法」とか「××推進法」といった形の法律もあります。となると、「厳格な」が当てはまるのは、その法律に何らかの刑罰が伴う場合だと限定できそうですが、実際にはもう少し広いのかもしれません。とは言え、「厳格な」の覆う範囲は法律より広く、しかもその境界は、法律のようにきちんとは決められていない点に注目すべきでしょう。

法律との比較をしましたので、もう一歩進めて、「厳格な枠」とは法律だと考えてしまったらどうでしょうか。⓪と①で言っていることは、「生命権には法律という厳格な制限が付いている」ということになります。

これはどこかで見たことがありますよね。明治憲法、または大日本帝国憲法です。その22条では、居住と移転の自由が、「法律の範囲内」で認められていますし、29条では言論著作印行集会そして結社の自由がこれも、「法律の範囲内」で認められているように、基本的人権には、法律という厳格な枠がはめられていました。

それを改正して、基本的人権が柱の一つとなったのが新憲法のはずなのですが、その解釈としては、明治憲法と全く同じ範囲の人権しか認められていなかった、というのはショッキングな出来事だと思うのですが、如何でしょうか。

司法の最高権威であり、憲法の解釈も最高裁判所に最終的に依存するという現行の我が国のシステムでは、このような解釈があってもそれに従うしか選択肢がないのかもしれませんが、一応、憲法では生命権を含む基本的人権をどう考えているのかを確認しておきましょう。

11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

「すべての基本的人権の享有を妨げられない」のですから、法律による制限があること自体問題だと読めるのではないでしょうか。また、「侵すことのできない永久の権利」を一篇の法律で制限することも憲法違反になるのでないでしょうか。ましてや、憲法内では無定義術語として現れていて、誰が主体になるのかも分らない「公共の福祉」によって制限されると考えるのはかなりの無理があるのではないでしょうか。

確かに、12条には「公共の福祉」が出てきますが、それは、国民の責任として権利を「公共の福祉のために利用する」ことであって、公権力が「公共の福祉」を理由にして国民の権利を奪って良いと言っている訳ではないのです。

このような状況を、「公共の福祉に反しない限りという厳格な枠をはめている」とは言えないでしょう。そればかりではなく、⓪と①を合わせて、憲法違反だと言わざるを得ないのです。何故なら、98条の規定では、この憲法が最高法規であって、この憲法にそぐわない解釈は許されないからです。

98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

再度、その理由を確認しておきましょう。一つには、⓪と①で述べている実質は、明治憲法の基本的人権についての規定と同様に、それも、「法律」というきっちりとした条件を示さずに「公共の福祉」という曖昧な基準によって基本的人権を制限しているからですし、二つ目としては、上記11条と12条では、基本的人権についてのいかなる制限も認めていないからです。

このような反論を反駁するための議論があるのかもしれないのですが、昭和23年の最高裁判決では、そのような説明は一切なされていません。ただ単に、「厳格な枠」がはめられているという宣言だけなのです。それが、一人の人間の命を奪う根拠になってしまって良いのでしょうか。

[続きます] 

 

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[2024/2/10 人間イライザ]

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