憲法

2022年12月29日 (木)

この一年(2022年)を振り返る (2) ――「9条」を広げる素晴らしいギフト――

この一年(2022)を振り返る (2)

――「9条」を広げる素晴らしいギフト――

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一年を振り返りつつ、多くの皆さんに支えられ助けられてきたのかに思いが至ります。改めて感謝の気持ちで一杯です。有形無形のギフトやプレゼントもたくさん頂きました。その中でも、今日届いた、日本酒「九条」には度肝を抜かれました。赤抜きの字で「洛中発」と書いてあり、しかも京都からということは分っていましたので、九条通りの酒屋さんのお酒かなと一瞬思ったのですが、もっと深い意味がありました。

九条は九条でも、憲法九条だったのです。このお酒のアイデアは、左下にある「憲法を活かす日本酒「九条」の会」の皆さんが発案されたようです。憲法9条についての分り易い冊子とともに、9条支持の輪を広げる目的で販売したり贈り物にしたりしている貴重なお酒です。私もその輪に加わりたいと考えています。

お贈り下さったHさん、有難う御座います。この一年、言葉にできないほどの応援をして頂き、2022年の最後を締め、そして2023年の初めを飾るおめでたい日本酒までお贈り下さり、感謝の言葉もありません。そして「9条」の注文の仕方も教えて下さい。

 

それでは今日一日が、皆様にとって素晴らしい24時間でありますように。

[2022/12/29 イライザ]

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2022年12月28日 (水)

似非(えせ)日本語を追放せよ!

似非(えせ)日本語を追放せよ!

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昨日のブログで主張した、「説明責任」という言葉を追放せよ、をもう少し一般化すると、「似非日本語を追放せよ」になります。

昨日のこのブログの記事を簡単に復習しておくと、政府が「説明責任」という言葉を使うのは、「責任を取る」という表現を避けるためです。そして「責任を取る」の意味は、辞任することや賠償することです。さらに、「説明責任」の意味も薄めて、何かゴニョゴニョと言葉を並べればそれが説明責任を果したことになる、という雰囲気を作ってしまった結果が今の政治です。

「説明責任」という言葉が出てきたら、「説明責任ではなく、責任を取ると言うべきだ」と直截に反駁しなくてはなりません。それが「説明責任を追放する」の意味です。

そして昨日は、「任命責任」を取らない方便として、またまたおかしな表現が飛び出してきました。岸田総理の言葉、「大臣が辞任したことについては、私自身の任命責任について重く受け止めております。」です。簡単に「任命責任を重く受けてめています」と表記しましょう。

何度も繰り返しますが、「責任」は与えられた側が果たさなくてはならない事柄を指しています。そして、憲法に縛られる公務員(国会議員は特別公務員です)の場合は、責任を果すことができなければ、辞任とか賠償といった形で「責任を取る」というのが順序なのです。

それを「受け止める」で誤魔化してはいますが、実質的には、「そんな責任は取らないよ」と突っぱねているのです。分り易い例で「受け止める」の意味を示しておくと、プロポーズをされた側が(前回のブログではBさんと言っています)、「受け止めました」と言って何もしなかったら、それは、プロポーズを拒否したことになります。

野球でも同じです。キャッチャーがボールを受け止めて、ボールを持ったまま何もしなければ、ゲームは止まってしまうことと同じです。受け止めた側が何か行動を取らなくてはならない状況なのに何もしないばかりか、それが全てであるかのように振る舞うことは日本語の常識としてはあり得ないのです。

つまり、「任命責任を重く受け止める」という表現は、日本語のように聞こえますが、日本語ではないのです。だから「似非日本語」なのです。これも「説明責任」同様、追放しなくてはならない言葉です。

そして、「任命責任」を回避するためのもう一つの「似非日本語」が、「出処進退は自ら判断」、あるいはそれに類した言い方です。河合案里議員について、または寺田元総務大臣の責任について等、問題があると誰かが必ず使うことになる表現です。しかし、憲法99条で憲法遵守義務を負っている公務員としては、憲法に照らして判断すべき案件を「私物化」することを許している表現であることに注目すると、一聞、日本語のように聞こえるかもしれませんが、実際には「似非日本語」です。

政治の世界では日常的に、「似非日本語」が製造され、それに従って醜い現実が生み出される傾向があります。日本語として意味のある言葉なのかどうか、私たち主権者が常にチェックをして、マスコミにも働き掛け、意味のある言葉による政治の復権を実現して行きましょう。

 

それでは今日一日が、皆様にとって素晴らしい24時間でありますように。

[2022/12/28 イライザ]

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2022年12月27日 (火)

「説明責任」という言葉を追放せよ!

「説明責任」という言葉を追放せよ!

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劣化し続ける我が国の政治を救うための簡単な方法があります。「説明責任」という言葉を追放することです。

特にマスコミがこの言葉を使わなくなり、その結果として政治家たちが「説明責任」を使えないようにすることが大切です。そのための第一歩は、私たちがこの言葉を聞いたらすぐ、頭の中で、「説明責任」ではなく「責任を取る」という言葉に変換する習慣を身に着けることです。そして、そんな使い方をしているマスコミに、「使い方が間違っているから訂正すべきだ」という抗議を行いましょう。以下、なぜ「説明責任の追放」なのか、の解説です。

「ボッタクリ政権は退陣せよ」で、問題提起したのは次のような状況です、と敢えて極端な形で糾弾しておきましょう。「ボッタクリ」が続いているのは、「悪いことをしたら責任を取る」あるいは「責任を果せなかったら辞任する」という、当り前の因果関係が日本社会から消えてしまったからなのです。

問題は、「責任を取る」という概念が、あたかも英語の「accountability」の訳であるかのような思考の操作を行い、いや「accountability」の正確な訳は「説明責任」だよ、という誤った印象を作り出してしまったことにあります。

我が国の世論を操作する上で、しばしば使われてきた手法の一つが、日本語の概念を英語に訳して、それをさらに日本語に訳し直すときに生じる違いを利用して詭弁を正当化することです。死刑が合憲だと断定している昭和23年の最高裁の判決がその一例ですが、詳細は小著『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』(法政大学出版局)の240ページ以下をお読み下さい。

「accountability」を「説明責任」と訳すことで生じる問題点については、2年半前に5回のシリーズで詳説しています。それぞれの回の内容は最後にリンクとともに紹介しますが、今回は、それを「responsibility」と「accountability」の比較から分り易く解説してくれているサイトを見付けましたので、それを元に、再度問題提起をしておきます。(Huff Post 中のブログで、著者は大柴ひさみさんです。)

この中で大柴さんが強調しているのが次の点です。

  • 「responsibility:「誰の責任であるのか?」という時に使われる。
  • 「accountability:「誰が責任を取るのか?」という時に使われる。

これだけだと、違いが十分に見えてこないかもしれませんので、江戸時代の「傘連判状」まで遡っての大柴さんの解説を是非お読み下さい。ここでは、それを踏まえての私の問題提起です。

大切なのはもう一点、「誰に対して責任を取るのか」という点も視野に入れないと全体像が見えてこないことです。

大胆にまとめておくと、「accountability」の文脈までも含めた正しい訳は、次のようなことになるのです。

「accountabilty」とは、自らの責任について疑義が生じたときに、被説明者(誰に対して責任を取るのかというその相手)に対して説明を行うことであり、被説明者――政治の場合は主権者である国民ですが――に説明しても納得して貰えなければ、責任を取るという意味を持つ。政治の場では、「辞任する」「賠償する」等が「責任を取る」ことの意味である。

岸田総理が、スキャンダルを犯した閣僚に対して求めたのは「説明責任」ですが、言葉の上で何かを言えばそれが「説明責任」を果したことになるという、薄められた意味での「説明責任」という言葉の使い方でした。それを多くの市民が感じ取っていたために、批判は止まなかったのです。

そして、「任命責任」とは、人をあるポジションに任命した結果として、満足な結果を残せなかったのであれば、任命した人間が謝罪するだけでなく、辞任するあるいは賠償するといった行動を取ることを意味します。特に、人事は総理大臣の「専権事項」だと主張して何もしないことを正当化する人たちが多いことを勘案すると、その責任を取るのが総理一人であることも明白なのではないでしょうか。

さらにマスコミ等の論調で問題なのは、憲法上、主権者に対してとるべき責任問題を、政局の一局面としてしか捉えない、あるいは総理大臣の慢心の問題としてしか捉えないメンタリティーです。政治の場面でも常に原点に戻って考えて行かないと、最悪の結果にしか到達しないのは、歴史を顧みれば明らかなのではないでしょうか。

以下、2020年の6月以降のブログ「新・ヒロシマの心を世界に」で分り易く説明していますので、順を追って紹介します。

(1) 「無責任」の論理構造 (1)――「令和の無責任男」を解剖する――では、因果関係という視点から「説明責任」と「任命責任」を論じています。

(2) 「無責任」の論理構造 (2)――総理大臣も、主権者たる私たちの「使用人」――憲法99条を元に、誰に対して説明をするのが、「被説明者」に対する政治家も含む公務員の責任を論じています。

(3) 「無責任」の論理構造 (3)――「憲法マジック」と「一億総白痴化」――憲法に書かれている意味とは正反対の解釈が正しいと受け止められている、政治と当時の安倍総理の「任命責任」についての論考の前半です。

(4) 「無責任」の論理構造 (4) ――「一億総白痴化」の具体例としての「説明責任」―― 後半は本論です。読み応えはあるはずですので、是非お読み下さい。

 (5) 「無責任」の論理構造 (5) ――「説明責任」が「責任」の意味を変えてしまった―― 大岡裁きでの「申し開き」が「説明責任」の意味であることを指摘しています。

岸田政権が倒れても、自民党内での政権のたらい回しが続けば今の状態が続くことは、安倍政権が倒れても何も変らなかったことから明らかです。

変えるためには、「説明責任」という言葉を追放しましょう。何か言葉にすれば「説明責任」を果したことになっている現状に警鐘を鳴らしましょう。ほとんどの場合、その詐欺的用法でしかこの言葉を使っていないマスコミに、その度に抗議しましょう。

 

それでは今日一日が、皆様にとって素晴らしい24時間でありますように。

[2022/12/27 イライザ]

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2022年12月23日 (金)

ボッタクリ政権は退陣せよ!

ボッタクリ政権は退陣せよ

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昭和時代の価値観をお持ちの方には納得して貰える比喩だと信じていますが、防衛力強化のための「増税」には、大きな違和感があります。「プロポーズもされていないのに、豪華な披露宴の費用はお前が払えと言われている」のと同じくらい、いやそれ以上の違和感です。

そもそも結婚をする手続きで一番大切なのは、お互いの同意のあることです。どちらでもよいのですが、多くの場合、男性(Aと呼びましょう)から女性(Bと呼びましょう)にプロポーズをして、「Yes」という返事を貰ってから次のステップに移ります。

結納等のしきたりもありますが、結婚式が執り行わなれ、その後、披露宴という順番で事が進むというのが昭和の時代の「常識」でした。それに加えて、披露宴の費用はA、つまり男性側が出すというのも昭和の常識の一部だったような気がします。

ところが、岸田軍拡政権のシナリオでは、政権を支配するAが、国民Bにプロポーズもしないままに、結婚式についての相談もなく、いきなり、Bに金を出せと要求しています。これが、結婚についての話であれば、「プロポーズもされていな私に、いきなり披露宴の費用を出せと言ってくるなんて、人を馬鹿にするにもほどがある。こんなことが平気で出来るAとは、即座に絶交」という結論になるでしょう。

でもこれって、岸田政権で輪を掛けて露骨になった、独裁政治の姿そのものですよね。つまり、独裁政権が政治的決定をする。その決定については、主権者である国民には図らずに、そして国民の納得がないにもかかわらず、生活・金・権利・命・民主政治という私たちにとって一番大切なものを権力側に差し出せと要求し、奪い取る、という手法です。

そのたびに説明するのも大変なので、このようなやり口を一言で「ボッタクリ」と表現することにします。何の説明もなく命を差し出せ、金を出せと要求する政権、つまりボッタクリ政権には、憲法15条、公務員の任免権が国民にあることを盾に、退陣を要求しましょう。

例えば、国葬がその一例です。何度も指摘していますが、新憲法が成立した直後、憲法にそぐわないからと廃止された「国葬令」でも元にしない限りは実現できなかったはずの国葬を「国葬儀」という名称で強行したことを思い出して下さい。まだ3か月しか経っていないのですよ。法の支配の「ボッタクリ」です。

原発の再稼働や稼働期間の延長、新設についての検討開始等も同じことです。問題はたくさんありますが、ここでは、何万年も毒性の続く放射性廃棄物が未来永劫の世代への負担となることだけを指摘しておきましょう。これも未来世代に対しての「ボッタクリ」です。

安倍内閣から顕著になった統一教会のやり口も同じパターンですね。「信者」の思考を支配して、合理的な判断ができない状態で、多額の寄付や高価な買い物をさせる、というのも「ボッタクリ」です。

それとほぼ同じ手口になりますが、特殊詐欺、「オレオレ詐欺」等の名前で呼ばれる詐欺も「ボッタクリ」です。嘘で善意の人を騙して、金品を巻き上げるのですから。

再度、強調しておきましょう。憲法99条で遵守義務を負わされている内閣が、憲法違反を繰り返して「ボッタクリ」をしているのですから、その責任を取って退陣するのが、憲法の想定しているシナリオです。

それが話題にさえならないのには理由があります。「説明責任」という言葉のまやかしです。次回にはその説明をしますが、まず今回は、「説明責任」という言葉の意味を正確に使って、状況を理解しておきましょう。

今回取り上げたケースに共通しているのは、お金や生活、命まで差し出すことになる側、つまりB側に対して、A側が説明責任を果していないことです。ここでの「説明」とは事実に基づいた合理的説明を指しています。それがないのです。

嘘を吐くことは論外ですが、それも事実に基づいていないという点で同じ範疇にくくります。それなりの説明らしきものがあったとしても、B側の納得が行かなければ、説明責任を果したことにはなりません。そこで、A側は、自らの主張を取り下げるというのが、例えば結婚のプロセスでは当たり前のことなのです。それ以外のシナリオは考えられません。

これが「責任を取る」という意味ですが、そんなに簡単なことが、政治の世界から消えてしまっているのです。それは「説明責任」という言葉のまやかしに、多くの人々そしてマスコミも騙されてしまっているからです。それは次回に。

[註: 今日のブログを結婚の話から始めたのは、12月23日がもうかなり前に亡くなった両親の結婚記念日だからです。]

それでは今日一日が、皆様にとって素晴らしい24時間でありますように。

[2022/12/23 イライザ]

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2022年12月17日 (土)

独裁政治を繰り返すな 修正版

独裁政治を繰り返すな 修正版

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二月前にお知らせしたように、「面白いプロジェクトを始めていますので、ブログとツイッターはしばらく休んでいます。」という状態なのですが、でも、社会的関心が「ゼロ」になったわけではありません。

我が国にとって歴史的な日となった1216日、岸田内閣は安全保障関連3文書を閣議決定して、「戦後安全保障政策の大転換」を宣言しました。国民的議論が全く存在しない形で国の基本的な姿勢を変えてしまうことを宣言したのですから、「独裁」以外の形容詞でこの大転換を表現することはできません。

戦後の安全保障政策」を簡単にまとめると、最初の逸脱は、「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」そして、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定した憲法に反して、軍隊を保持したこと。

第二に、その言い訳として「専守防衛」という苦しい説明を続けてきたこと。つまり軍隊は日本という地理的な範囲から外には出さないことですが、それは「海外派遣」でいとも容易に破り捨て、最近の例を挙げると、それさえ踏みにじって「集団的自衛権」を認め「専守」を反故にしたことを挙げておきましょう。

そして、ウクライナ戦争で明らかになっているように、最近の戦争は敵国の軍事施設・民間施設を問わず、ミサイルで攻撃するのが主流になってきています。それを、取り繕うために、「敵基地」を攻撃しているのだというのが、何度もロシアの使った言い訳です。

それこそ「敵基地攻撃能力」なのですが、日本もその力を公然と使うぞと宣言したのです。つまり、ロシアのような攻撃ができるし、そうするぞと言ったのも同じです。それが今回の閣議決定です。

戦争を鼓舞する政策にはお金が掛かりますが、それを増税で賄うことになるのは好戦指向を持つ人たちにとっては当然の理屈です。税についての議論は回を改めて論じますが、今回は、政治の理非を論じる上で二つの重要な「事実」を指摘しておきます。

一つは、総理大臣が「独裁」的な行動を取った場合の決着の付け方です。19946月、自民党や新党さきがけと連立政権を樹立し、総理大臣になった村山富市氏は720日の衆議院本会議手、当時の社会党員にはほとんど相談もなく、当然、より多くの市民への説明や相談もなく、「自衛隊は憲法の認めるものだ」と断定しました。

私はこれを「独裁」的手法の一例だと考えています。総理大臣になったからといって国民的には多数の支持があった考え方を、数秒でひっくり返したのですから、そう言われても仕方がないでしょう。

そんな内閣を実現するために私も骨を折りましたので反省を込めて、その後、社会党の改革に取り組みました。詳しくは、機会を改めて説明します。

敢えて村山内閣の評価を続けると、総理大臣として、これほど大きなマイナス行動をした村山氏は、終戦後50年に当る翌1995年には、第二次世界大戦・太平洋戦争そして戦後の総括を行う「総理大臣談話」で、保守派から妥協を勝ち取り、それなりに意味のある内容に踏み込んだ文書を作っています。一方では「自衛隊合憲」と歩み寄り、もう一方では我が国の「戦争責任」について歩み寄らせたのだという解釈も可能です。この「取引」をどう評価するのかも大切ですが、岸田内閣で「総理大臣談話」に相当するものは何になりそうなのかについて、何方かに教えて頂ければ幸いです。

第二の点は「敵基地反撃能力」についての心配です。

この言葉を聞いたとき、何より先に私の頭に浮かんだのは「真珠湾攻撃」です。高校生の時にアメリカに留学して、アメリカ人の世界観の基本には、一つの国家が取り得る最悪の事例として194112月7日の日本による「真珠湾攻撃」が定着していることを何度も体で感じた経験があったからです。そしてそれは多くのアメリカ人の心の中に今でも生きています。

日本が経済的にアメリカの脅威であると恐れられていた1980年代とは違い、影の薄い我が国ではありますが、「Black Lives Matter!」と叫ばないと人権を守れないという側面も持つアメリカで、日本に対して無条件で突き付けることのできる謳い文句を与えるような施策をわざわざ声高に採用する意味も考えなくてはなりません。老人の杞憂に過ぎないことを祈りつつ。

次回は増税について取り上げます。

 

それでは今日一日が、皆様にとって素晴らしい24時間でありますように。

[2022/12/17 イライザ]

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2022年10月10日 (月)

「行動」・「現実」を表す「言葉」の重み

「行動」・「現実」を表す「言葉」の重み

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言葉と現実との関係はかなり複雑です。でも、多くの場合、「現実」あるいは「物」が先にあって、それを表現するために「言葉」が発明されています。例えば、「リンゴ」は恐らく人類が言葉を持つ前から存在していたと思われます。それを、「ミカン」とは違うものであることを示すためという理由もあり、つまり多くの理由があって名前が必要になり、人類が言葉を獲得してから「リンゴ」という名前が付けられたのでしょう。

ヘレン・ケラー女史が「水(water)」という「言葉」が、冷たい、流れる物質を指していることを理解したエピソードも、まず「現実」があり、それを表現する手段としての「言葉」がそれに付いてくるケースです。

「座り込み」についても、抗議の意味を込めた言葉としては恐らく江戸時代には使われていなかったのではないでしょうか。戦前に今のような意味で使われていたのかどうかも疑問です。借金取りが座り込む、という場合はあったかもしれません。

私の記憶では、戦後に良く報道されたストライキの際の「座り込み」を覚えていますし、被爆者たちが核実験に反対して慰霊碑の前で行う行為も「座り込み」ですが、行為が先にあり、その後に名前が付けられたような気がします。

アメリカに目を転ずると、ベトナム戦争反対運動や公民権運動などで行われた「sit-in」があります。「座り込み」はその訳語として使われていました。カウンターの椅子を占拠する行為も入りますが、これも実質的には「座り込み」と同じ抗議行動です。語源的には、1941年の学生による抗議行動の際に使われていた例があるようですし、それ以前には労働運動でも「sit-in」は使われていたようです。

つまり、この言葉は様々な形の抗議行動とともに生まれ、その内容も変わりつつ成長してきた「生きた」言葉です。人権や平和、そして正義を貫くための行動を表している点が重要です。そうした行動を忍耐と情熱を持って行ってきた人たちが、その行動を共有し広げるために、そして目標を実現するための旗印として愛し使ってきたことを忘れてはならないのです。

言葉と現実の関係では、言葉が先にあって現実がそれに付いてくる場合も当然あります。例えば、日本国憲法と政治の場合です。憲法98条は「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない」と明言していますので、憲法は言葉として先に存在し、政治は憲法に従う形でしか行えないのです。

「言葉の意味が大事だ、現実がそれと乖離していてはいけない」と論じる場合、その一環として憲法と政治に思いを巡らせて欲しいと考えるのは、ないものねだりなのでしょうか。個人的には、憲法に違反して行われている死刑や、存在してはいけない軍隊を論じて欲しいと願っています。そのどちらも人間の生死に直接関わることなのですから。

憲法の言葉を文字通り素直に読むとどんな結論になるのか、拙著『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』では、「丁寧に」説明しましたので、御一読頂ければ幸いです。(とは言え、ちょっと難しいという声も聞こえてくるのですが――)

 

それでは今日一日が、皆様にとって素晴らしい24時間でありますように。

[2022/10/10 イライザ]

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2022年10月 5日 (水)

「国葬反対」記者会見を『週刊金曜日』が報道

「国葬反対」記者会見を『週刊金曜日』が報道

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9月30日発売の『週刊金曜日』に、私たち元議員有志が9月16日に開いた記者会見の様子が掲載されました。大きな見出しは「現職議員よ、もっと怒れ!」で、その前に「「安倍国葬」直前、元国会議員らが反対声明」という説明が付いていました。

一ページを充ててしっかりと (岸田総理のペット・フレーズですが、『週刊金曜日』の場合は、文字通りの意味があります) 当日の発言を報告してくれています。出席者一人一人の言葉を簡潔にまとめてくれていますので、私たちの伝えたいことが立体的に伝わって、説得力ある記事になっています。

冒頭に司会の中川智子氏が、元議員に届いた案内状の杜撰さと「無視するより明確な反対理由を表明しよう」という決意を述べました。

続いて辻恵氏は根拠法がないことを指摘、瀬古由起子氏は財政民主主義違反を糺し、吉川春子氏は安倍元総理が統一教会と国会議員を結びつけるキーパーソンだった点を問題視、黒岩秩子氏は性教育を歪めた統一教会と自民党との関係を糾弾しました。

私の考えとこのグループ全員の声明は、9月17日のブログにアップしましたので、省略しますが、『週刊金曜日』の記事最後に取り上げてくれた点が今、重要ですのでそれを繰り返します。

「国葬の終了後もこの問題を議論し続けていく必要がある」です。

既に、岸田総理はじめ日本政府もそしてマスコミも、「国葬」を既成事実として認め、次の段階の議論に移っています。これと同じパターンで、これまでの政治は動いてきました。それが「自己破壊」のプロセスです。そして私たちは今、ウクライナ戦争報道と同じように、日本政治の「自己破壊」、つまり劣化と崩壊を「リアル・タイム」で見ているのです。それを押し留めるためには、私たちも「リアル・タイム」で対抗する必要があります。時間もお金もありませんが、知恵を出し合って、「今後こそは」という気持で頑張りましょう。

「安倍国葬」についての疑念が国中に渦巻いている今、息子を秘書官にすることとも何か関係があるのでしょうか。

 

それでは今日一日が、皆様にとって素晴らしい24時間でありますように。

[2022/10/5 イライザ]

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2022年9月30日 (金)

10月1日に「横浜市非核兵器平和都市宣言市民のつどい」で話します

「横浜市非核兵器平和都市宣言市民のつどい」で話します

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明日、10月1日の午後1時半からかながわ県民センターの2階ホールで、「都市から核のない世界へ」と題して講演をします。

そのために、改めて「平和市長会議」のこれまでの活動や、なぜ都市が世界平和に関わるのかについて考え直してみたのですが、面白いことに気付きました。

それは、これまで「国家の時代」が終り「都市の時代」が訪れている意味を、都市がどのような貢献ができるのかという立場を中心に考えていたのですが、正反対の視点から捉えることで今まで見えない「真実」が見えてきたのです。

正反対の視点とは、「国」が市民から何を奪うのかを考えることでした。その出発点は、27日の本ブログ「「国葬儀」は「棄民」政策の成れの果て」でも取り上げた基本懇の答申です。

「国」が市民から奪うものは、

① お金 (憲法30条)--「納税の義務を負ふ」

② 権力 (憲法前文)--「権力は国民の代表者がこれを行使し」

③ 命 (基本懇の答申)--「戦争という非常事態のもとで、国民が何らかの犠牲を余儀なくされたとしても、それは国をあげての戦争による「一般の犠牲」として、全ての国民が等しく受忍しなければならないものである。」

それぞれ、説明しなくてもお分り頂けると思いますが、それに対して「都市」は、「国」から市民、私たち一人一人の命やお金を守る役割を果せます。詳細は、10月1日の講演会でお話しした後、このブログにも載せる積りです。

 

それでは今日一日が、皆様にとって素晴らしい24時間でありますように。

[2022/9/30 イライザ]

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2022年9月23日 (金)

The Mainichiが、英語版・「国葬反対」声明を掲載してくれました

The Mainichiが、英語版・「国葬反対」声明を掲載してくれました

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The Mainichi に掲載された写真です。

The Mainichi が「Ex-Hiroshima mayor sounds alarm to attendees at former PM Abe's state funeral」という見出しで、つまり「前広島市長が安倍元総理の「国葬」出席者に警告」というタイトルで紹介してくれた記事の説明です。

まず22日に、「国葬」に海外から参列する人のリストが公開されました。35人の首脳級の方々もその中に入っています。このブログ、そして記者会見で発信してきたことの一つは、旧統一教会の主要イベントに、自民党国会議員や旧統一教会と深い関係を持つ著名人が参加することで、旧統一教会やその酷い活動についての「お墨付き」を与えたことからの教訓です。

それと全く同じ形で、「国葬」に著名人が参加することで、「国葬」そのものやその開催が正当であるという「お墨付き」を与えることになりかねませんし、安倍元総理の行った憲法違反や、国会の形骸化、さらには、政治の「私物化」等にまで「お墨付き」を与えてしまう可能性です。

安倍元総理についての超マイナスの評価は、恐らく海外では知られていないでしょうし、特に国会で118回以上嘘を吐いていることも、知られていないでしょう。国民の圧倒的多数が「国葬」に反対していることも、実感としては分って貰えていないと考えるべきでしょう。

その結果として、「善意」で「国葬」に参加した海外の要人自身が吃驚したり、あるいは、「エンドーサー」、つまり、お墨付きを与える人としての役割を担ってしまったことに違和感を持つことになるかもしれません。

その可能性がありますよということを、事前に知らせておく必要があると私は考えています。それは私たち日本人が「フェア」であることを重んじるなら、どうしても必要なことなのです。

その「フェア」であるべきという点を買って、毎日新聞の英語電子版であるThe Mainichiが私のメッセージを掲載してくれました。「志を同じくする」立場の記事は、次のサイトでお読み頂けます。

https://mainichi.jp/english/articles/20220922/p2a/00m/0op/015000c

 

そこから、英文の声明に飛べるようになっているのですが、日本語は、先日の記者会見報告の中に挟んであります。

https://kokoro2016.cocolog-nifty.com/blog/2022/09/post-65cda1.html

 

できるだけ多くの海外からの参加者の目に触れることを期待しています。

 

コロナについてもまだまだ油断はできません。感染しないよう努力を続けましょう。

それでは今日一日が、皆さんにとって素晴らしい24時間でありますよう。

[2022/9/23 イライザ]

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2022年9月22日 (木)

“NO” to Abe’s State Funeral

“NO” to Abe’s State Funeral

Ex-Diet Members Concerned with Unruly Government

September 21, 2022

Prime Minister Fumio Kishida sent ex-Diet members invitations to the State Funeral of Former Prime Minister Abe, certifying that ex-Diet members are active stakeholders in the matter. As such, we now make public our reasons for demanding that the government cancel holding the State Funeral.

Before we begin, we pray for the repose of the spirit of Former Prime Minister Shinzo Abe. We also wholeheartedly deny all violence. We do not condone murder under any circumstances. To eradicate violence from our society, we emphasize the necessity that members share the value of non-violence and the will to create a peaceful one.

We realize that many, including intellectual leaders, have already argued eloquently to oppose the State Funeral logically, legally, historically, and from the standpoint of preserving democracy.  However, let us list our reasons even if there are redundancies: 

(A) “The State Funeral” is unconstitutional (The sin of the current administration) 

Bundling up people’s senses of respect and mourning as one “State Funeral” by negating the diversity of such individual feelings is against Article 19. Picking up Former PM Abe, just one individual among all Diet members is against Article 14. Praising a public official who has ostensibly violated Articles 15 and 99 without any legal basis is again a violation of Article 99.

This fact alone should be enough to cancel the State Funeral. However, even if we attach a hypothesis that the State Funeral is allowable and continue observing what the State Funeral entails, we conclude that cancellation is the answer. Let us trace the reasoning:

(B) Even if the “State Funeral” is allowed to exist, the the reality of it compels us to conclude that it should not occur.

 Even if the “State Funeral” takes place, it will demonstrate the antipodal reality of the purposes the government wishes to accomplish. 

     The government purports to accomplish three objectives by holding the “State Funeral”:

  1. To publicly honor Former PM Abe’s accomplishments.
  2. To protect and preserve democracy.
  3. To conduct funeral diplomacy.

As for (a), what we and the general public seek is not to “honor” and “praise” Former PM Abe but to condemn his unconstitutional acts, as we explain in below. 

(b) If democracy has any relevance to the “State Funeral,” bulldozing to hold it while the public opinion is divided into two clear parts is against the principle of democracy.

(c) “Funeral diplomacy” is a typical example of putting the cart before the horse and, therefore, is not acceptable as a basis for holding the “State Funeral.” If the present cabinet lacks the diplomatic capability to the degree that it must rely on the funeral to properly discharge its responsibility, rather than holding the State Funeral, the resignation of the entire cabinet is in order.   

 We should first condemn Former PM Abe’s acts violating the Constitution. 

We should be condemning the crime of Former PM Abe, who ridiculed, scoffed at, and reduced the Diet to just a nominal existence instead of the “highest organ of state power” stipulated by Article 41.

The fact that Abe lied in the official Diet sessions more than one hundred times and mocked members of the Diet at the speaker’s stand from the PM’s seat with fake statements is grave enough for disciplinary action because his actions did destroy the citadel of discourse. (as reported by The Mainichi, https://mainichi.jp/english/articles/20201222/p2a/00m/0na/002000c)

The truth behind the purported scandals such as the “Moritomo Case,” “Kake Scandal,” and “Sakura Problem” became impossible to reach because of bureaucratic misbehaviors that doctored relevant documents and hid or discarded them. We see no hope that would shed light on these matters. The conscientious worker, who committed suicide after trying to serve the whole community according to Article15 while suffering from the pressure that the superiors applied, left us a huge homework. However, the government has not discharged its responsibility, which violates Article 99.     

 “Peer Review” by fellow Diet members should also count.

Ex-Diet members are likely to become the object of the “State Funeral.” Consequently, “peer reviews” by colleagues and former colleagues in the Diet should have a place in making the final decision.  

We believe the minimum requirement is that a candidate should be a former colleague whom we can “respect.” Without such a condition, most citizens of this country would not accept the final decision. 

The criteria most of us uphold (sometimes implicitly) can be summarized as follows: 

(a) someone determined to respect and uphold the Constitution (Article 99), (b) to work as a servant to the whole community (Article 15), and (c) who is trustworthy, in other words, someone who does not lie to oneself. It is unreasonable to expect that anyone would consider someone who openly told lies in the Diet more than one hundred times and got away with it worthy of respect.

(C) We must be “fair” to the participants from overseas.

Practically everyone in Japan knows Abe’s acts of violating the Constitution, trivializing the Diet, and numerous scandals surrounding him, especially those related to the Unification Church. However, that is not the case overseas. That is, we need to inform them beforehand of the unique background behind the State Funeral in Japan to the dignitaries who intend to participate.

A couple of facts might be relevant and noteworthy. One is that Abe made false statements in the Diet 118 times over the party expenses scandal (as reported by The Mainichi, https://mainichi.jp/english/articles/20201222/p2a/00m/0na/002000c)

The other is that by participating in the Unification Church’s significant events, Abe and his cronies gave a stamp of approval, diverted the general public’s attention from its wrongdoings, and endorsed its activities. For example, Daishiro Yamagiwa, Minister for Economic Revitalization, admitted on September 20 that he attended such meetings and, by his attendance, gave a seal of approval to the Unification Church. (As reported by the Mainichi Shimbun digital, https://mainichi.jp/articles/20220920/k00/00m/010/087000c

By participating in the State Funeral, dignitaries from overseas, would unknowingly play the same role as Minister Yamagiwa. They would give a stamp of approval to Abe’s acts of violating the Constitution, trivializing the Diet, and numerous scandals surrounding him, especially those related to the Unification Church.”

The Japanese public might interpret their role as carrying water for those who wish to sweep Abe’s negative legacy under the rug.

Perhaps, this scenario is the result of the lack of sensitivity on the part of those who ended up legitimatizing and endorsing the Unification Church. However, it is only fair that we warn the foreign dignitaries of the situation before they arrive in Japan.

[Members and endorsers] (alphabetically)

Tadatoshi Akiba, Kazue Fujita, Kenichi Hamada, Ryoichi Hattori, Hideo Hiraoka, Satoru Ienishi, Eiko Ishige, Tetsuo Kaneko, Etsuko Kawada, Shokichi Kina, Kimiko Kurihara, Chizuko Kuroiwa, Nobuo Matsuno, Hiroko Mizushima, Tomoko Nakagawa, Kinuko Ofuchi, Hiromi Okazaki, Masako Owaki, Yukiko Seko, Megumu Tsuji, Kenichi Ueno, Masahiko Yamada,Wakako Yamaguchi, Haruko Yoshikawa (24 members)

 

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