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2023年9月26日 (火)

姉妹公園協定のために投下責任を「棚上げ」? ――「棚上げ」して、誰が得をするのか?――

姉妹公園協定のために投下責任を「棚上げ」?

――「棚上げ」して、誰が得をするのか?――

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藤永茂著『ロバート・オッペンハイマー』です

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ここで連日取り上げているのは、広島市議会での市側の答弁です。念のために繰り返しておきましょう。中国新聞によると、21日の広島市議会の一般質問で、広島の平和公園とホノルルのパールハーバー国立公園との姉妹公園協定が取り上げら、市側の答弁が、「協定は、原爆投下に関わる米国の責任の議論を現時点で棚上げにし、まずは核兵器の使用を二度と繰り返してはならないという市民社会の機運醸成を図るために締結した」だったのだそうです。

口実として使われた、「市民社会の機運醸成」を省略しても、[何のために] [何をする] の関係は損なわれませんし、論理的な関係がはっきりします。広島市の主張は、姉妹公園協定を結ぶために、原爆投下の責任論は棚上げにした、ということになります。

でも、これって事の重さの判断が逆ですよね。広島市とパールハーバー国立公園が姉妹都市協定を結ぶことが、原爆投下の責任論に関わるような重大事なのでしょうか。そうだとしたらそれは何故なのでしょうか。この点については、再度取り上げますが、今日はこの棚上げで得をするのは誰かを考えます。

一つは、映画「オッペンハイマー」の日本公開で得をする人たちです。例えばこの映画を見たいと願っている人たちも多いかもしれません。興行成績のよさから得をする人たちも含まれます。

もう一つ、広島市と広島市長も得をする側なのかもしれません。長くなりますので、この点は次回以降に回します。

さてオッペンハイマーに戻って、もう一度、オッペンハイマーを今取り上げる意味について、一つの問題提起をしておきたいと思います。私自身この映画を見ていませんし、当分は見る気もないので、それがフェアではないという考え方もあるかもしれませんが、大切な問題提起であることには変りがありません。

まず、東京新聞の22日の記事から引用します。

 日本では公開されていない本作を鑑賞した米カリフォルニア州在住の映画評論家町山智浩さんに聞いた。

 町山さんによると、全体で3時間の長作で、前半はオッペンハイマーが研究者として原爆開発にのめり込む姿が中心。後半は原爆投下後の広島の写真を見せられて下を向く描写や、共同研究者たちの体が原爆によって焼けただれる幻視のシーンがあるなど、主に開発者としての苦悩が描かれている。そして、最後は原爆開発を後悔するせりふで幕を閉じるという。

 マスコミ等の見解として私が読んだものには、この中で、実際には被爆の実相には触れられていない点が問題なのではという指摘が多くありました。つまり、写真は見せられても、その写真そのもの、あるいはその被写体についての描写がないという点です。

それも大切な点なのですが、私が注目したのは最後のシーンです。「最後は原爆開発を後悔するせりふで幕を閉じるという。」なのだそうですが、これはオッペンハイマー本人に取っては聞き捨てならない点なのです。

映画の原本になったカイ・バードとマーティン・シャーウィンの『オッペンハイマー』にも、昨日のこのブログで紹介した藤永茂著『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』(1996年、朝日新聞社。2021年、筑摩学芸文庫)にも同じ点が強調されているのですが、オッペンハイマーは「後悔していない」ばかりではなく、「後悔した」という内容の戯曲の上演を訴訟を起こしてまで阻止しようとしたほどなのです。以下、藤永氏の著所からの引用を中心に、その点をまとめておきましょう。

1964年、西ドイツの作家キップハルトの戯曲『オッペンハイマー事件』が発表され、各国で評判になました。日本でも1966年に俳優座劇場で上演されたそうです。

この作品は、作者によると資料に基づいて厳密に事実に密着したものだということなのですが、藤永氏は、多くの資料に基づいてこれは文学作品だと断定しています。

オッペンハイマーはこの戯曲を嫌悪して、プロデューとーを告訴してまで上演を阻止しようとしたと、物理学者のフリーマン・ダイソンが書いていると、藤永氏は述べています。それは、戯曲の最後の部分にある「告白」がオッペンハイマーには我慢できなかったようです。

キップハルトの戯曲についての感想を、オッペンハイマーがボームに書き送った手紙の日付は1966125日、喉頭ガンのため、話すことも、食事をとることも困難になっていた。二カ月半後には世を去る。

 「私がロスアラモスでしたこと、することができたことについて遺憾の意を表することを、私はこれまで決してしなかった。事実、 いろいろな場合、何度も同じような場合に、書きものにもして、あのことを私は後悔しなかったという気持の確認をつづけてきた。 キッブハルトの書いたことで、特に気分が悪くなるのはあの最後の告白だ。そこでは、まさにそうした後海を私がしたことになっている。責任と罪についての私自身の気持は、今まで常に過去よりも現在により強くかかわるものであったのであり、これまでの私の人生で、現在にかかわることだけで私の手に余るものがあった」

にもかかわらず、映画では、後悔したということにしたのか、そう誤解されるような撮り方をしたのかは分りませんが、オッペンハイマーは、普通の意味での後悔はしていないのです。そして、原爆を考えるときにこの点は、無視しては通れない問題を提起していると私は感じています。

 

最後に皆さんにとって、今日一日が素晴らしい24時間でありますよう!  

 [2023/9/26 人間イライザ]

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2023年9月25日 (月)

アメリカを見ずに広島は語れない ――「パール・ハーバー」⇒原爆という「岩盤的」信念を守りたい人々――

アメリカを見ずに広島は語れない

――「パール・ハーバー」⇒原爆という「岩盤的」信念を守りたい人々――

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アメリカの「岩盤的」信念を理解しないと分らないこともあります

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「原爆の責任議論は棚上げ」が、日本政府・外務省の、「原爆投下は合法」という考え方に沿うものであることはお分り頂けたと思いますが、まだ半信半疑の方々、そしてなぜ今なのか等、次の疑問をお持ちの方に参考にして頂きたいのは、いまアメリカで起きていることです。上のスライドには、その内の三つの事実を掲げました。

一つ目は、世界的に「空前のヒット」(東京新聞ディジタル版9月22日号の見出し)策としてもてはやされている映画「オッペンハイマー」です。この記事によると、興行収入は世界で9億1,200万ドルを超え、伝記映画では過去最高の興行成績だとのことです。

その点からだけもこの映画が、「原爆の父」として知られ、「アメリカの理論物理学を偉大にするために誰よりも大きな貢献をした」(*1)と、ノーベル賞受賞物理学者のH.ベーテが述べたようなオッペンハイマーのイメージを損ねるものでないことは明らかでしょう。

となると、原爆の製造と使用の正当性に否定的ではなかった多くのアメリカ人が、「原爆の父」であるオッペンハイマーを改めて思い起こすことが、原爆の投下は間違いだったと考える切っ掛けにはなり難いと考えるのが自然でしょう。それどころか、原爆投下は正しかったという考え方を補強する好材料にはなると考えても問題はなさそうです。

そんな目的のためにこの映画が作られたという積りは全くありませんが、例えば、2015年のYouGovという世論調査会社の調査では、46%ものアメリカ人が原爆投下は正しかったと回答しています。

ここで、「もの」に下線を付けましたが、それは、99日の、9条連近畿地域連絡会主催の講演会で質問された方の意図を反映しています。「被爆者の体験を聴いたり、資料館を見学すれば原爆が如何に残酷で、非人間的なものだということは誰にも否定できないはずなのに、何故、半分ものアメリカ人が原爆投下は正しかったと信じられるのでしょうか?」というものでした。

その通りなのですが、アメリカでは1945年の秋の世論調査では85%とか90%もの人が原爆投下は正しいと考えていたのですから、そこを出発点にすると、その数字が半分以下になったという事実は、大変に憂うべきことだと受け止める人々がまだ多く残っていても不思議ではないのです。

その傾向を押し止めるために、この映画が作られたとは言えないでしょうが、結果としてこの映画が少しはその役割を果していると考えられることは否定できないでしょう。

それは、20世紀後半のアメリカという国家の依って立つ、「勧善懲悪」観を守ることに他なりません。その価値観は未だにアメリカ社会の「岩盤」として残っています。つまり、「パール・ハーバー」という「絶対悪」を、「善」の代名詞であるアメリカが原爆によって破ることで、世界の秩序を守ったというシリオです。加えて、ナチス・ドイツまで懲らしめたのですから、アメリカ社会にとって第二次世界大戦は「Good War」なのです。

広島の平和公園と、パール・ハーバー国立公園の姉妹公園協定は、「Good War」を信奉する「岩盤的」信念の持ち主たちから見れば、このシナリオの確認だとしてもおかしくはありません。

終戦時、そして終戦後の日本側は、天皇制を維持するため、また昭和天皇を東京裁判の被告にしないために、このシナリオを受け入れた、さらにそれが今でも生きているというのが、矢部宏治著『日本は何故「基地」と「原発」を止められないのか』(2014年、集英社)の解釈です。

となると、これで全てがつながることになります。

しかしそれなら、「棚上げ」ではなく、「原爆投下は合法」を強く打ち出した方が分り易いはずなのですが、これにも理由がありそうです。それは、次回、考えたいと思います。

 (*) 藤永茂著『ロバート・オッペンハイマー 愚者としての科学者』(1996年、朝日新聞社。2021年、筑摩学芸文庫)の後者438ページから引用。

 

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 [2023/9/25 人間イライザ]

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2023年9月24日 (日)

原爆の責任議論を「棚上げ」したのは何故か ――一つは、外務省が広島の平和行政を仕切っているから――

原爆の責任議論を「棚上げ」したのは何故か

――一つは、外務省が広島の平和行政を仕切っているから――

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資料館も平和文化センターの所管です

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昨日の問題提起を再録します。

「政府・外務省が原爆投下は合法だと考えていることはお分り頂けたとして、「被爆地には米国の投下責任を問う声が根強くあり」と言われる、その広島の声を代弁すべき「広島市」がなぜ、「米国の責任の議論を現時点で棚上げにし」たのでしょうか。」

答は、広島市の平和行政が外務省に乗っ取られているからです。

それは、人事を見ることで納得して頂けるはずです。広島市の平和行政を中心になって回しているのは、公益財団法人の広島平和文センターです。広島平和記念資料館もこの広島平和文化センターの所管です。その理事長の仕事が2013年から今まで、全て外務省の天下りポストになってしまっているのです。

このセンターは1976年の発足以来、理事長職には、広島で原爆記者と呼ばれるような活動をしてきたジャーナリスト出身者や、広島の平和運動についての理解者が選ばれました。私が市長の時には広島の世界的な発信力を強めるために、アメリカ人の平和活動家に理事長をお願いしました。

この人たち全て、「棚上げ」を許容することなど考えられない人たちばかりです。

そして、天下り人事の決定としか思われないことの一つは、2017年と2018年の広島の平和宣言です。2017年に国連総会で、核兵器禁止条約が採択されましたが、その直後に外務省は、「日本政府は署名も批准もしない」と明確に意思表示をしました。

それを尊重したせいでしょうか、広島の平和宣言は2017年と2018年の平和宣言では、日本政府に対して「署名すべきだ」とも「批准すべきだ」とも主張していないのです。2019年になってようやく「核兵器禁止条約への署名・批准を求める被爆者の思いをしっかりと受け止めていただきたい。」という形ですが、署名と批准を求める立場を取りました。

しかし、それは2年掛けて私たち市民が広島市に強力に働き掛けた結果です。それでも2年も掛かったのですから、相手の手強さは尋常ではありません。

誰の差し金も受けないで、広島市がこのような姿勢を取ること考えられない、と思ったのは私だけでしょうか。

さらに、今年になってからは、『はだしのゲン』や第五福竜丸についての記述を平和読本から削除し、それまでは「核廃絶」を提唱していたにもかかわらず、それを「核軍縮」に弱めてしまいました。また、広島の平和公園と、ホノルルのパールハーバー国立公園との姉妹公園協定を結んだのも、一連の流れに沿っています。

では改めて、平和公園とパールハーバー国立公園の姉妹公園協定がなぜ浮上したのかを考えると、必然的に今年5月のG7広島サミットと関連しているのだろうと思わざるを得ないのですが、同時にアメリカで何が起きているのかも参考になりそうです。

次回はその視点から考えて見たいと思います。

 

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 [2023/9/24 人間イライザ]

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2023年9月23日 (土)

今、広島で起きていること (2) ――大阪講演報告5・「原爆の責任議論は棚上げ」した広島市――

今、広島で起きていること (2)

――大阪講演報告5・「原爆の責任議論は棚上げ」した広島市――

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「米国の責任議論は棚上げ」の意味を考えよう

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昨日のブログの最後に、「日本政府が「原爆投下は合法」だと考えているなどとは、ほとんどの人が知らないことらしいのですが、実は私はそのことにも吃驚しているのです。」と書きましたが、改めて、日本政府の意図を踏まえた事件が起きました。

一昨日、21日の広島市議会の一般質問で、広島の平和公園とホノルルのパールハーバー国立公園との姉妹公園協定が取り上げられました。

その件についての市側の答弁が、「協定は、原爆投下に関わる米国の責任の議論を現時点で棚上げにし、まずは核兵器の使用を二度と繰り返してはならないという市民社会の機運醸成を図るために締結した」(*)だったのだそうです。

これについての中国新聞の報道では、「被爆地には米国の投下責任を問う声が根強くあり、波紋が広がっている。」(*)とのことですが、意地悪くこの部分を読むと、被爆地以外では投下責任を問う声があまり大きくないという含意さえ読み取れます。

[ここで引用している二つの言葉には(*)を付けましたが、中国新聞のディジタル版からです。]

でもこのような報道も、日本政府が「原爆投下は合法だ」と考えており、多くの日本国民がそれを許しているという前提を設ければ、全く問題はありません。

しかしながら私には、国民が許しているのではなく、単に政府の姿勢を知らないだけなのではないかと見えますので、改めて、日本政府の考え方を、9月9日の大阪講演では資料としてのみお渡しした、下田判決の概要を示すことで知って頂きたいと思います。

東京地方裁判所は1963年12月7日に、「下田判決」として知られる判決を下しました。1955年(昭和30年)4月、広島の下田隆一さんら3人が、国を相手に東京地裁に損害賠償とアメリカの原爆投下を国際法違反とすることを求めて提起した訴訟の判決です。

その内容は、

  • 原告の損害賠償請求は棄却。
  • アメリカ軍による広島・長崎への原爆投下は国際法に違反する。
  • 被爆者はアメリカに対する損害賠償請求権を持たない。

というものでしたが、裁判長は特に、次のようなコメントをしています。

 「国家は自らの権限と責任において開始した戦争により、多くの人々を死に導き、障害を負わせ、不安な生活に追い込んだのである。しかもその被害の甚大なことは、とうてい一般戦災者の比ではない。被告がこれに鑑み十分な救済策を執るべきことは、多言を要しないであろう。それは立法府及び内閣の責務である。本訴訟をみるにつけ、政治の貧困を嘆かずにはおられない。」

 この裁判は「 原爆裁判」としても知られていますが、被告としての日本政府の言い分は、「原爆投下は合法だ」なのです。裁判中の言い分を要約しておきましょう。

  • 「原子爆弾使用の問題を、交戦国として抗議をするという立場を離れてこれを客観的に眺めると、原子兵器の使用が国際法上なお未だ違法であると断定されていないことに鑑み、にわかにこれを違法と断定できないとの見解」
  • さらに「その当時原子兵器使用の規制について実定国際法が存在しなかったことは当然であるし、また現在においてもこれに関する国際的合意は成立していない」という理由で原爆使用の違法性を否定。
  • またハーグ陸戦法規などの諸条約は原子兵器を対象とするものではないので無関係だという立場。
  • 「敵国の戦闘継続の源泉である経済力を破壊することとまた敵国民の間に敗北主義を醸成せしめることも、敵国の屈服を早めるために効果があり」、広島・長崎への原爆投下も日本の屈服を早めて交戦国双方の人命殺傷を防止する効果を生んだと主張。

下田判決の原文コピーは、このサイトで読むことが可能です。

その後も、1994年には、外務省の高官が、「核兵器使用は国際法違反」と主張する輩は馬鹿だ、と発言していますし、1995年には、国際司法裁判所で広島・長崎市長が核兵器は国際法違反だと陳述するのを妨害しているなど、核兵器は国際法違反ではない(つまり合法である)、との主張は変えていません。

核兵器の保有や使用、威嚇等が国際法違反だとすると、当然、広島・長崎への原爆投下も違法になる訳ですから、この点は譲れないのでしょう。

政府・外務省が原爆投下は合法だと考えていることはお分り頂けたとして、「被爆地には米国の投下責任を問う声が根強くあり」と言われる、その広島の声を代弁すべき「広島市」がなぜ、「米国の責任の議論を現時点で棚上げにし」たのでしょうか。

長くなりましたので、次回に。

 

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 [2023/9/23 人間イライザ]

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2023年7月14日 (金)

総理大臣としての加藤友三郎 ――戦争回避の「預言者」でもあった――

総理大臣としての加藤友三郎

――戦争回避の「預言者」でもあった――

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中央公園の友三郎像 (常広一信氏撮影)

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加藤友三郎内閣が誕生したのは、1922年6月12日ですが、3日後の15日には、施政方針演説で加藤内閣の目指すところを公表しています。豊田穣著の『蒼茫の海 提督加藤友三郎の生涯』 (手に入れ易いのは、光人社NF文庫版です) から引用します。 (読み易さを優先して、一部、数詞や句読点などには手を入れました。以下、『豊田』と略します。)

一般施政方針

1、社会政策問題に関しては、時勢の進運にかんがみ慎重研究し、適当なる方策を定めた い。

2、綱紀を粛正し、民心を作興し、行財政を整理し、財界の安定を計る。

3、教育及び産業を振興し、 一般国民生活の向上を期せんとする。

 

対外方針

1、日本国民は 隣邦中国が速やかに現在の不幸なる政情を脱し、同国民自身の努力によって平和統一の実をあげんことを切望する。

2、シベリア問題については速やかに撤兵など解決の処置をとりたい。

3、国際連盟はその規約にのっとり 発展に努力したい。ワシントン諸条約及び決議は、これを尊重して、各国と協力してその実をあげたい。

これらの案件中、特筆されるのがシベリア撤兵と軍縮です。再び『豊田』から引用します。

さて、加藤内閣の残した大きな仕事は、シベリア撤兵と山梨陸相による陸軍の軍縮であった。

(中略)

この年六月、内閣首班となった加藤は、真っ先にシベリア撤兵をとりあげた。出兵後すでに四年、七万の兵を動かし、七億円の軍事費を空費していた。

国際協調を旨とする加藤は、閣議と臨時外交調査委員会に計り、同年六月二十四日声明を発して、十月をもって撤兵を断行することを公表した。

軍縮については、海軍はワシントン条約を守ってほぼその規模での軍縮が実現したのですが、陸軍は陸軍内部の合意が得られず、結局、総額4,000万円の節減しかできませんでした。しかし、それでも加藤内閣の編成した予算の中ではそれなりの比重がありました。再び『豊田』からです。

こうして、大正11年末、12年度の予算案を編制し、第46帝国議会の協賛を得たが、軍備制限による節減された金額は、新規計画のために増加した分を控除して、7,099万円に上り、 一般行政などの節約により、歳入歳出は各134,600万円にとどまり、前年度に較べて13,600万円の減少となった。

加藤の経費節減、財政建て直しは、順調なスタートを切り 提督宰相にしては上々の出来と評判がよかった。

国家予算の50%ほどが軍事費だった時代に、前年度予算の1割も削減できたことは驚異だとしか言いようがないように私には映るのですが―――。因みに、2023年度予算は前年比で6.3%増えています。

この他にも友三郎は、行政改革でも実績を挙げています。

シベリア撤兵と軍縮実施のほかに、加藤内閣はいくつかの仕事を残している。

その一つは、行政の整理緊縮である。

6月12日の内閣成立後、間もない6六月20日、加藤は内閣書記官長宮田光雄、法制局長官馬場鍈一らを行政整理準備委員に任命し、つぎのような行政改革を行なった。

同年九月つぎの機関を廃止する。

A  臨時外交調査委員会、防務会議、拓殖調査委員会、臨時産業調査会、臨時教育行政調査会

B  国勢院、拓殖局、馬政局、防備隊練習部、軍需評議会、臨時国有財産整理部

このほか各官庁の局課を廃止あるいは合併し、定員を減少して事務の簡素化を計った。

昭和57年現在、政財界は行政改革で苦しんでいるが、60年前、加藤は大幅な行革を行ない、その統率力を示したのである。

また加藤は、教育の振興、産業の奨励、社会政策的事業の遂行にも力を注いだが、 一方、所得税法、営業税法などにも改正を加えた。

膨らむ一方の行政機関・官僚体制を整理・合理化することも政治上最重要課題の一つであることは言を俟ちません。同時に友三郎の構想の中には、軍と行政の関係の健全化がありました。この点については『麻田』が77ページに詳しく述べています。

シヴィル・ミリタリー関係について、最後に加藤全権の「軍部大臣文官制」の構想にふれておこう。ワシントン会議で加藤が留守中、文官の原首相が陸軍側の強固な抵抗を押しきって海相代理(「事務管理」)を兼任したことは、日本憲政史上に先例のないできごとであった。さらに一歩進んで、加藤全権はすでに会議中、海軍大臣文官制(イギリス式に近いもの)が「早晩出現」するであろうと考え、そのための準備をしておく必要について頭をめぐらしていた。おそらく彼は、海軍軍縮問題で体験した自己の苦悩と、シヴィル・ミリタリー関係で悩む必要の少ない米英全権の立場とを比較考量した結果、政軍関係の制度およびルールの抜本的改革を決意するにいたったのであろう。そして、海軍大臣が現役軍人でありながら「シヴィリアン・コントロール」の権能を代行せざるをえないという変則的なシステムを、その本来あるべき英米的な制度に改正すべき急務を、彼は痛感したのではあるまいか。現行の制度が存続するかぎり、いずれは軍縮問題をめぐって海軍と政府とが激突する運命にあることを、加藤は見通していたのであろうか。

ここでは、「海軍軍縮問題で体験した自己の苦悩」の中身を説明しておく必要がありそうです。海外の「全権」は文民ですし、この軍縮会議には全権として文民だけで構成されるチームを派遣する必要があるとの意見さえ持っていた米英から見れば、日本の全権加藤は、軍の利益を代表しながら表面的には「文民」の帽子を被る、傀儡若しくはスパイとさえ見られ兼ねない状況がありました。そのような米英の交渉相手の信頼を得るための努力が如何ばかりかであったかは、想像に難くありません。

他方、海対米英10:10:7を主張しどのような譲歩も軍に対する裏切りだとさえ声高に公言する軍の強硬派に対しては、10:10:6の合理性や世界の状況等の説明、さらには軍の内部での多数派形成のための努力等、これまた一筋縄では行かない問題を処理しなくてはならなかったのです。

友三郎の憂いは現実になり、彼の亡き後、強硬派の勢力が巨大化し、それに至る手段として使われたのが、「統帥権の干犯」という「錦の御旗」でした。友三郎には見えていたであろう、そして彼なら対抗して流れを変えられたであろう歴史を振り返りたいのですが、それはまたの機会に。流れを変えるための布石を次々と打っていた友三郎の言動を、天から与えられていたものだと解釈して、敢えて「預言」という言葉を使いました。

 

さて、その友三郎についてのシンポジウムは、8月26日午後1時30分から、広大病院YHRPミュージアムで開かれます。

入場は無料ですが、参加登録は必須です。GRコードまたは、URLからサイトにお入り下さい。多くの皆さんの御参加をお待ちしています。

Qr20230712-201135

https://katotomosaburo.com/

 

 

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 [2023/7/14 人間イライザ]

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2023年7月10日 (月)

軍縮とは単なる数合わせではない ――友三郎の眼は要塞化や、中国ソ連にも向けられていた――

軍縮とは単なる数合わせではない

――友三郎の眼は要塞化や、中国ソ連にも向けられていた――

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左から幣原喜重郎、加藤友三郎、徳川家達全権(Public Domain)

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1921年から1922年のワシントン会議の焦点が、英米と日本との主力艦保有比率だったこと、それが、10:10:7ではなく、10:10:6という合意の結果、条約が成立したことは、歴史の教科書にも出て来るのですが、軍縮は数だけではできないことにも触れておきましょう。これは、今の日本の岸田軍拡政策にも参考になる点です。

今回は、軍縮において重要な二つの側面を取り上げておきますが、最初のものは日本の提案で実現し、その結果として、10:10:6という比率であっても、日本に対する軍事的脅威を抑える効果があったのです。「東経110度より東に海軍基地、または要塞の建設の禁止とすることで決着を見た」のですが、それは「要塞化禁止条項」と呼ばれています。Wikiwandから引用します。(読み易くするため、下線やイタリックなど、一部手を加えました)

要塞化禁止条項

対英米比6割と陸奥保有に併せて日本の提案により、太平洋における各国の本土並びに本土にごく近接した島嶼(とうしょ)以外の領土について、現在ある以上の軍事施設の要塞化が禁止された。

日本

    ・千島列島、小笠原諸島、奄美大島、琉球諸島、台湾、澎湖諸島、そして将来取得す

 る新たな領土(内南洋のこと)の要塞化禁止

    ・奄美大島以外の奄美群島は対象外

    ・対馬は太平洋に面していないので条項の対象外

アメリカ

    ・フィリピン、グアム、サモア、アリューシャン列島の要塞化禁止

    ・アラスカ、パナマ運河、ハワイ諸島は対象外

イギリス

    ・香港並びに東経110度以東に存在する、あるいは新たに取得する島嶼の要塞化禁

   止

    ・カナダ、オーストラリア、ニュージーランドは対象外

    ・東経110度以東なので、シンガポール(東経103度)は条項の対象外

現実問題としては、既存の基地はそのまま認めている訳ですので、お互い現状維持をしようという取り決めです。同時にそれは、今は戦争をしていないのですから、それを維持するということは「戦争をしない」状態の維持も意味します。これも「軍縮」に含まれる重要な考え方です。

第二の側面は、軍縮とは多くの国々と有機的に結び付いていますし、必ず歴史の流れの中にあります。それらの点からのアプローチも視野に入れることでより説得力のある取り決めができるのです。ワシントン会議では、「対華21条要求」がその一つでした。

これもWikiwandからの引用が分り易いので、お借りしましょう。

「対華21カ条要求(たいか21かじょうようきゅう)は、第一次世界大戦中の1915118日に日本が中国に対して行った満蒙における日本の権益問題や在華日本人の条約上の法益保護問題をめぐる21か条の要求と希望のこと[1]。対支21ヶ条要求、二十一か条の要求とも呼ばれる(中国語版では「二十一条」)」

その後、この要求を巡って日中は対立を続けるのですが、その一つの妥協点にワシントン会議で到達することになりました。曲がりなりにも一つの条約が結ばれることになったからです。「山東懸案解決に関する条約」と呼ばれていますが、これもWikiwandから引用しましょう。

山東懸案解決に関する条約(さんとうけんあんかいけつにかんするじょうやく)とは、192224日に日本と中華民国の間で締結され、同年62日に発効した条約。

第一次世界大戦の結果、日本がドイツから獲得した山東省(膠州湾・青島)のドイツ租借地および山東鉄道(青島-済南間およびその支線)の返還が定められた。

膠済鉄道は日本の借款鉄道とされ、同鉄道沿線の坊子、淄川、金嶺鎮の鉱山は日中合弁会社の経営に移されるなど、日本の権益は多少確保された。山東還付条約(さんとうかんぷじょうやく)とも。

この条約締結に至る上では、アメリカとイギリスの仲裁がきっかけになりました。また、日本のシベリア出兵問題もこの会議では取り上げられ、友三郎は撤兵の意志のあることを表明しました。

当然総理大臣になってからの活躍が注目されますが、それも次回手短に。

 

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 [2023/7/10 人間イライザ]

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2023年7月 9日 (日)

総理就任以前に二度もわが国を救った友三郎 ――命日は8月24日です――

総理就任以前に二度もわが国を救った友三郎

――命日は824日です――

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呉市の加藤友三郎像 (常広一信氏撮影)

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広島市出身初の総理大臣加藤友三郎の生涯を振り返りつつ、政治のあり方について考えていますが、友三郎の生涯を学ぶ上で、もう一冊、重要な伝記を御紹介しておきます。豊田穣著の『蒼茫の海――提督加藤友三郎の生涯』(1983年、プレジデント社。文庫版は2016年、光人社)です。

友三郎の偉大さについて、健筆を揮って世に広めてきた郷土史家の田辺良平さんが、『Current Hiroshima』誌の2022年8月号に、分り易い一文を寄せられています。「忘れてはならない8月24日」というタイトルですが、友三郎の偉業をそこから抜粋する形でお届けします。

「8月6日は、広島に世界最初の原爆が投下されて、一瞬にして10幾万人もの無辜の民が殺戮されたという、日本はもとより全世界の人たちにとっても、終生忘れてはならない日となってします。少し次元は異なりますが8月24日も、特に広島人にとっては忘れてはならない日と私は思うのです。」

「この8月24日は、第21代内閣総理大臣加藤人三郎が、現職のまま病気で亡くなった日なのです。」

「総理になる以前にはわが国益を2度にわたって助けているのです。その一つが、明治38年5月の日露戦争での日本海海戦で、連合艦隊のナンバー2の立場である参謀長として活躍した結果、わが国は敗戦国とならずに済んで、敗戦によるさまざまな困難が回避できたことです。」

「もうーっは、大正10年11月から翌年2月にかけて、ワシントンで行われた主要海軍国5か国による「海軍軍縮会議」の首席全権として出席し、米国から提案されたわが国の海軍力を、米国の6割に縮減する提案を受託したことです。」

「加藤は、日本海海戦により日露戦争を終結に導いたことで平和を招き、もう一方ではワシントンの軍縮会議で外交手腕で平和を実現させたのです。」

総理大臣としての在任期間は1年2か月でしたが、短期間にもかかわらず素晴らしい仕事をしていることも忘れてはなりません。(続く)

 

そして皆さんにとって、今日一日が素晴らしい24時間でありますよう!

 [2023/7/9 人間イライザ]

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2023年7月 7日 (金)

加藤友三郎の政治スタイル ――米国全権のヒューズと相照らす関係だった――

加藤友三郎の政治スタイル

――米国全権のヒューズと相照らす関係だった――

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ワシントン軍縮会議と加藤友三郎を高く評価しています

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広島市出身の初の総理大臣加藤友三郎の偉大さについて紹介していますが、そのための資料として欠かせないのが、前回御紹介した工藤美知尋著の『海軍大将 加藤友三郎と軍縮時代』(2011年、光人社。『工藤』と略します)であり、郷土史家の田辺良平著の『わが国の軍備縮小に身命を捧げた加藤友三郎』(2004年、春秋社。『田辺』と略します)なのですが、もう一冊、忘れてはならないのが麻田貞雄著の『両大戦下の日米関係--海軍と政策決定過程』(1993年、東京大学出版会。『麻田』と略します)です。

今回は、『麻田』を引用しながら、友三郎の政治スタイルならびにアメリカの全権だったチャールズ・ヒューズ国務長官と好一対の存在としての友三郎の姿をお伝えします。

まず、友三郎の意思決定スタイルについて『麻田』では次のように述べています。

ここで加藤全権の決定スタイルを要約しておくと、次のようになる。すなわち、 ①あくまで冷静な彼は、ひとりだけで「熟慮に熟慮を重ねた」のち、②最高位者個人として「直観的に」結論をくだし、③決定行為とその結果に対してみずから全責任を負うというもので、一言でいえば《独断専行型》決定の典型的なケースであった。もともと臨機応変の決定をつねに迫られる軍部の組織には、官僚的な《稟議制》はあてはまらないものだが、加藤全権の場合、《官僚政治》の拘束要因など頭から度外視して、独自の判断で海軍軍縮の《合理的決定》をくだしたのである。海軍・外務両省の官僚機構を完全に避けて通っていることに、とりわけ注目される。

そしてこの決定結果を本国の知らせるルートとしては、加藤⇒外相という外務省ルートではなく、加藤⇒井出海軍次官を通して、首相と外相そして東郷元帥等の海軍首脳に伝えるという、海軍ルートを使うことで、ここでも官僚機構を避けていたのです。

日本の加藤に呼応して、アメリカの全権ヒューズも似たような意思決定をしていました。二人の相似性について、これまた『麻田』が興味深い分析をしています。

以上、日米の政策決定過程の比較から、いくつかの共通点が浮かびあがる。まず第一に、両国の首席全権であるヒ、ーズ国務長官と加藤友三郎海相が、《官僚政治》の制約をはねのけて強力な決定権限をフルに行使したこと、があげられる。通常、官僚制的システムにおいては、その保守性に加えて「組織の慣性」(「官僚的惰性」)のゆえに、流動的な国際環境に即応できず、消極的な現状維持策や当座しのぎの糊塗策に堕し、長期的な政策思考にもとづく迅速かっ明確な《合理的決定》が困難になる傾向がある。日本外務省の直面したのは、まさにこの種の困難であった。他方、ヒューズや加藤全権は政府部内の組織的利益の競合、対立、バーゲン、妥 協といった《官僚政治》プロセスを回避しえたのであり、その大きな要因は、なんといっても両人の強力な個人的リーダーシップに求めることができる。加藤友三郎とヒューズとの類似点は、当時『萬朝報』の特派員も注目するところであった。

 「ヒューズ氏は終始一種の信念を固持して、之を常識的に直截的に押進めて行く米国代表政治家である。加藤大将も亦確乎たる信念を抱いて其の所信に驀進する代表的武人である。両者共其外交家的術策を弄せぬ点は、或程度迄相似て居る。これ両者の間に常に一脈の意思の疎通があった所以であらう」。

くりかえしていうならば、この二人がくだした《合理的決定》に共通する前提条件は、 次のように要約できよう。「 ①まず、正確かっ豊富な情報をマスターし、それにもとづき的確な状況判断をおこなう。②次に、選択可能な一連の政策オプションを検討し、その優先順位を定め、目的・手段的思考により、目標達成の極大化をはかる政策を採用する。③こうしてくだした決定の結果を正しく予測する。

このように、海軍軍縮問題については、日米の政策決定過程に共通するものがあり、日米とも最高指導者のリーダーシップが最大限に行使されたので、《合理的決定》が可能になった

このように官僚制度を凌駕し、日米間の溝を塞ぎかつ未来への希望を創り出すほどの力の源は、友三郎の人間性そのものに由来するのではないかと考えています。次回はそれを取り上げます。

 

そして皆さんにとって、今日一日が素晴らしい24時間でありますよう!

 [2023/7/7 人間イライザ]

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2023年7月 6日 (木)

加藤友三郎の人となり ――政治家としての本質も――

加藤友三郎の人となり

――政治家としての本質も――

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加藤友三郎 (Public Domain)

http://www.lib.utexas.edu/photodraw/portraits/index.html

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広島「出身」の岸田総理が誕生した時に、広島市出身の初の総理大臣加藤友三郎についての記事を書きました。日本海海戦では東郷平八郎司令官の下、参謀長としてロシアのバルチック艦隊を破ったことや、4つの内閣で海軍大臣を務めたこと、また1921年のワシントン軍縮会議では、米英日の海軍力の比を5:5:3に抑えて、日本のみならず世界の軍縮の流れを作ったこと等が大きな功績として語られています。

『海軍大将 加藤友三郎と軍縮時代』(以下、『海軍』と略します)の著者である工藤美知尋・日本ウェルネススポーツ大学教授は、「あと数年友三郎の命がもってくれれば、太平洋戦争は避けられたのではないだろうか。」とまで評価しています。

その友三郎は、ワシントンの会議に当って、それまでは大日本帝国の仮想敵国であったアメリカとの関係を抜本的に変える上で、「加藤伝言」と呼ばれる貴重な文書を残しています。1921年12月27日、条約についての協議が終った後、当時の井出謙治海軍次官宛に、堀悌吉中佐に筆記させたものです。その中の主要部分を『海軍』から引用します。

「どうしても主義として米案に反対することは能はずと決心するに至れり。

先般の欧州大戦後、主として政治方面の国防論は、世界を通して同様なるが如し。

即ち国防は、軍人の専有物に非ず。 戦争も、軍人のみにして為し得べきものに在らず。 国家総動員して之に当たるに非ざれば目的を達し難し。

平たく言えば、金がなければ戦争ができぬと言うことなり。戦後露西亜と独逸が斯様に成りし結果、日本と戦争の起こる probability のあるは米国のみなり。

仮に軍備は米国に拮抗するの力ありと仮定するも、日露戦争後の時の如き小額の金では戦争は出来ず。然らば其の金は何処より之を得べしやといふに、米国以外に日本の外償に応じ得る国は見当たらず。而して其の米国が敵であるとすれば、此の途は塞がるるが故に、日本は自力にて軍備を造り出さざるべからず。此の覚悟のなき限り、戦争は出来ず。英仏は在りと雖も当てには成らず。 斯く論ずれば結論として、日米戦争は不可能といふことになる。 余は米国の提案に対して、主義として賛成せざるべからずと考えたり。」

世界の趨勢を見極め、国防とは軍人の専有物ではないこと、戦争をするのにはお金が必要だという分り易い視点から軍縮する意味を説いています。日本が戦争するためには外国に借金しなくては資金が調達できそうもない、しかし、貸してくれるだけの余力があるのはアメリカしかいない。そのアメリカとは戦争はできないだろう、そして、アメリカの金を借りないと戦争のできない日本がそのアメリカと戦争をしても、経済の面から勝ち目はないだろうという論理的帰結も見えて来る突っ込んだ主張をしています。

言わずもがななのですが、日本の国会に諮ったり世論に問い掛けたりする前にアメリカに行って、結局増税するしか手がないことは誰にでも分る軍事費の倍増を約束してくるような総理大臣に、爪の垢でも煎じて飲ませたいと思うのは私だけでしょうか。

 

そして皆さんにとって、今日一日が素晴らしい24時間でありますよう!

 [2023/7/6 人間イライザ]

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2023年7月 2日 (日)

メモワール作成のためのインタビューでした ――30年も前を思い出して懐かしく楽しい一時になりました――

メモワール作成のためのインタビューでした

――30年も前を思い出して懐かしく楽しい一時になりました――

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左から小坪さん、私、大井さん

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メモワールを作成するために、中心になって動いてくれている政治学者の大井さんと私に、今回は私の元秘書だった小坪さんを交えて、国会議員時代に何をしたのか、また多くの人には伝わっていない選挙の厳しさ等について振り返りました。

昔を振り返ることは連鎖反応を引き起こします。政治活動以前の私の高校時代、アメリカのハイスクールに留学した時の話にもなりました。いろいろなスポーツ部に入りましたが、季節毎に種目が変わるのがアメリカ式でした。冬にはレスリング部だったのですが、その時撮った写真が今でも残っています。

その写真を載せた本があるらしいのですが、それがどの本なのか、いろいろ考えたのですが、結局ミステリーのままになりました。

でも、このように若い世代の大井さんが中心になって、私たち世代が生きた時代の記憶を整理して未来の世代のために役立てようとする試みは、私にとってもまた私たちの世代にとってもとても意義のあることですので、最終的には「成功」と言える結果になるよう、私なりに努力を続けています。

 

そして皆さんにとって、今日一日が素晴らしい24時間でありますよう!

 [2023/7/2 人間イライザ]

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