#コロンブス問題 (その3)
――#江崎玲於奈学長 #式辞の問題点――
板坂元著『老うほどに知恵あり』と藤永茂著『アメリカ・インディアン悲史』
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江崎玲於奈筑波大学学長の1992年の入学式式辞の中のさわりは次の一節です。
大学を出るまでには、独立した人間になってもらわなくてはならない。独立の人間とは「自分自身で価値判断のできる英知」を持つ人間である。今後の人類の平和と繁栄という視点から重要なのは、たとえば大学で教えられる固定されたプログラムに「疑問を持ち、あるときは拒否したり、あるいはそれを改善したプログラムを作成するというような努力」の結果、「卓越したプログラムが創造できるような人間」になり、「グローバルな視野でものごとを考え」られることである。
ここで問題にしたいのは、1992年という時点で、コロンブスを取り上げたこと、そしてコロンブスについての評価は、江崎学長が理想として掲げた「独立した人間」という尺度で測るとどう見えるのかということです。
つまり、「新大陸発見」という大事を成し遂げたコロンブスに倣えということは、グローバルな視野から物事を考え、固定概念に疑問を持ち、拒否したり改善したりしながら、新たなプログラムを創造することになるのでしょうか。
拙著『夜明けを待つ政治の季節に』(1993年、三省堂刊)からの引用です。
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何故コロンブスなのか
私が違和感を持ったのは、主に二つの部分についてである。一つは、人間をコンピュータに引き比べて論じている点である。この点については、雑誌『世界』(1992年4月号)に掲載されたジョセフ・ワイゼンバウムMIT名誉教授の「イデオロギーとしての人工知能」を参照して頂くことにして割愛する。もう一つは、コロンブスである。
この二つを除くと、江崎演説は大学の入学式の学長挨拶として、氏が目標としている「楽しく出席できる」ほど魅力のある演説だとは思えないが、それは別次元の話で、特に批判すべき理由はない。しかし、コロンブスを無批判に、現在の日本の大学生のお手本として持ち出して来たことで、「自分自身で価値判断のできる英知」を持ち、「疑問を持ち、あるときは拒否したり、あるいはそれを改善」して「グローバルな視野でものごとを考え」られる人間になることが望ましい、というメッセージが別の物になってしまったのである。すなわち、アメリカで言行の不一致を指摘する場合の定型表現である”Do As I say, and not what I do.”日本語に訳すと、「私の言う通りにしなさい。しかし、私の行動を真似ては駄目ですよ」というものである。さらに、コロンブスの例の引き方にも大きな問題があり、結局、江崎演説が現時点での日本の大学生に対するアドバイスとして適切がどうか、疑問を感ぜざるを得ないのである。
江崎氏も指摘しているように、今年はコロンブスの「新大陸発見」後五〇〇年の一つの範目の年である。だが、「グローバルな視野でものごとを考える」のであれば、コロンブスを取り上げるに際して、当然、南北アメリカの先住民の立場を無視するわけには行かないはずである。その立場からは、「新大陸の発見」という言葉、そして考え方には大きな疑問符が付く。「新大陸」そして「発見」はあくまでも西欧の白人たちの視点からの言葉であり、考え方である。当時のアメリカに住んでいた人々の人権も所有権も全て無視した上で、唯一の価値ある「人間」として自分たち西欧の白色人種を規定した言葉である。
このような考え方に対して、通称「アメリカ・インディアン」、最近はアメリカ先住民(英語で
はNative American)と呼ばれる人々が長い間異議を唱えてきた。しかも異議を唱える人の数は増えている。アメリカ合州国だけに話を限っても、一九六〇年代の公民権運動に端を発して、少数派に属する人々の権利の回復がここ二、三〇年の大きな社会運動になってきている。WASPつまり白人でアングロ・サクソン系の血筋を引き、キリスト教の中でも新教を信ずる人々の価値観や立場だけを正統的なものだと認める暗黙の前提が洗い直されて来たのである。もう少し大きく括ると西欧の白人ということになるが、彼ら/彼女らの立場、視点から世界を見た世界史を唯一の「世界|史」だと考える歴史観に対する異義の申し立てが行われてきたのである。
ハリウッドでさえ、主役の善人である白人のカウボーイや騎兵隊が、悪者「インディアン」を懲らす「勧善懲悪』映画は、もはや作らなくなっている。ヤクザの視点からの勧善懲悪映画や、何百年も前の価値観に疑問答さえも付けない男尊女卑、お上が常に善を代表する時代劇が未だに大手を振っている日本と好い対照である。
歴史の教科害におけるアメリカ先住民の記述もここ二十年でかなり改善された。たとえば、「アメリカ・インディアン」という言葉自体アメリカをインドだと誤認したコロンブス時代の残滓であり、一方的な価値観を代表する用語であるとの認識に基づいて、「アメリカ先住民」という用語が市民権を得ている。大学の一般教養で教えられる世界史やアメリカ史も、西欧偏重・WASP偏重を改めるための全学的な委員会を作った上で、カリキュラムの再検討をしたところが多い(参考までに報告しておくと、最近ではギリシャ・ローマの時代も含めて、世界の歴史における黒人の貢献が軽視されているという問題提起があり、アメリカの教育界はこの問題に取り組んでいる)。コロンブスのアメリカ到着以来五OO年経った今年の記念行事にしても「新大陸発見」という言葉はもちろん、このような歴史の考え方を何の反省もなく表面に出す種類のものは少なくなっている。
こうした反省が行われている最大の理由は、コロンブスの「-「新大陸発見」さらにその後の南北アメリカへのヨーロッパからの植民が、圧倒的な軍事力を背景にした侵略であり、豊かな社会と文化を完膚なきまでに破壊し尽した歴史的事実がより広く知られてきたことである。インカやアズテック文明を激亡させ、「北米インディアン」文明も消滅させた大きな罪に対する悔悟の気持が人類に芽生えてきたからである。遅きに失したとは言え、コロンブスの侵略以来五〇〇年経って、ようやく歴史的真実に世界が目を見開き始めたからである(コロンブスの「新大陸発見」がいかに残虐な侵略と略奪であったか、またその後の植民政策の具体的な罪悪については、最近多くの書物が著されているが、たとえば、ハワード・ジン著による『民衆のアメリカ史』(TBSブリタニカ刊)や藤永茂著「『アメリカ・インディアン悲史』(朝日選書)、トーマス・バパバージャー著『コロンブスが来てから』(朝日選書)を参照して頂きたい)。
これまで世界の至る所で編纂された様々なレベルの「歴史」はほとんどの場合、勝者の歴史であり、勝者は自分たちの行為を正当化するため臆面もなく事実を曲げ真実を隠してきた。あるいは、敗者の側の視点や価値観は無視され、その存在さえも意味のないものと見なされたのであった。「新大陸の発見」という言葉は正にそういったっ歴史」を記述するための言葉である。
白人中心、ヨーロッパ中心、男性中心、キリスト教中心のこうした考え方が、西欧化された国々では正統な考え方として、「固定されたプログラム」の重要な一部として教えられてきた。当然、日本もその例外ではなかった。だが今、世界で起っているのは、このような「勝者」の歴史、「勝者」の論理に対して、「疑問を持ち、あるときは拒否したり、あるいはそれを改善したプログラム本を作成する」ことなのである。その結果、ただ単に力を背景にした歴史だけでなく、先住民の立場から歴史を見直し、未来を考えることが現在の私たちに必要不可欠であることが分ってきたのである。このような理解こそ「自分自身で価値判断のできる英知」なのである。
現代アメリカ社会の中で知的エリートの一員として生活してきた江崎氏が、このような複眼的コロンブス評価を知らないはずがない。自らのアドバイスを無視しただけでなく、科学や技術と社会や政治の動きとの関係がますます重要視されている今、コロンブスを一つの例として挙げるにしろ、なぜ、より広い立場から若者たちへのアドバイスを考えようとしなかったのか私には理解できない。
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コロンブスの「新大陸発見」後500年の年に、このような感じ方をしたのは私だけではなく、ハーバード大学で長い間教鞭を執った板坂元先生も、当時のマスコミに対して軽妙洒脱、同時に寸鉄人を刺す一文をものされています。
全文をお読み頂きたいのですが、『老うほどに知恵あり』(PHP研究所、1994年刊)の中の「無知論」です。次回、短い引用を掲載しますが、キーワードは「社会進化論」、英語では「Social Darwinism」です。
今日一日が皆さんにとって素晴らしい24時間になりますよう
[2024/6/18 人間イライザ]
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