歴史

2022年6月12日 (日)

「雨にも負けず」

「#雨にも負けず」

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21世紀を前に、社民党が作成した「2010年への政策ビジョン」、略して「2010ビジョン」です。副題は「日本型社会民主主義」。表紙の裏には、#宮沢賢治の「雨にも負けず」を掲げました。

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その作成の責任者だった私は、自分の社民党員としての決意を、「雨にも負けず」に託して表現した積りなのですが、今読み返してみると不十分な点が多々あります。

今回の選挙にあたって、この改訂版を作りたいと考えていますが、問題は時間です。でも「2010ビジョン」では、その時間枠を大切にしています。目標の年を掲げて、私たちが実現したい社会のビジョンを描いている点です。

広島市長、そして平和市長会議の会長として掲げたのは「2020ビジョン」です。2020年までに核兵器の廃絶を実現したいという目標を立て、中間目標は「2015年までの核兵器禁止条約締結」です。こちらは2年遅れで実現しています。

核兵器禁止条約が実現しましたので、その後の目標として、「2040ビジョン」、つまり2040年までの核兵器廃絶を目指しての概略地図を提案したいと考えています。核兵器禁止条約さえ認めようとしない人たち、国々をどう説得するのかが鍵なのですが、「雨にも負けず」の精神を生かす積りです。

 それでは今日、皆さんにとって素晴らしい一日でありますよう。

[2022/6/12 イライザ]

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2022年6月 9日 (木)

新宿西口地下広場での演説

新宿西口地下広場での演説

ブログの臨時版です。68日の午後6時からの街頭演説の映像を御案内します。

 それでは今夜から明日、皆さんにとって素晴らしい一日でありますよう。

[2022/6/09a イライザ]

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2022年6月 3日 (金)

これまでの選挙で学んだこと ――御支援を頂くために生かします――

これまでの選挙で学んだこと

――御支援を頂くために生かします――

 これまで自分が候補になった選挙は7回、他の候補の応援のための選挙は数知れません。その度に、赤と青の手袋で私の考えを示してきました。Photo_20220602214401

今回は、多くの選挙運動中に学んだその他の「選挙の常識」を三つ掲げておきましょう。私たちが「常識」だと考えていることとはかなり違う行動を意識しないと、良い結果につながらないのです。今回の選挙でも生かしたいと考えています。

一つ目は、「同じことを繰り返して言い続ける」です。初めての選挙は、私の前任者の大原亨さんと多くの集会で挨拶をし、街頭や屋内での演説会にも付き合って頂きました。数日経ってからの大原さんからの諭しの言葉です。

「君は学者だから、常に新しいこと、前とは違うことを話そうとしている。それは分るが、選挙で一番大切なのは、同じことを繰り返し繰り返し伝えることだ。それで初めて、君の言わんとしていることが伝わるのだ。」

数多くの選挙を経験して、この言葉の正しさを実感しています。今回も、一番大切な被爆の実相や核兵器の廃絶、そして人類の生存について何度でも繰り返し訴える覚悟です。

二つ目に上げたいのは、「自分の名前を繰り返して言う」ことです。普段の会話では、絶対にしてはいけませんし、それほど非常識な人はほとんどいませんので、実行するのが難しいことでもあります。

でも、街宣車の聞こえる範囲は限られていますし、しかも、車は動いているのですから、その音の聞こえるのは数十秒です。その間に自分の名前を聞いて貰えなければ、ただ五月蠅い街宣車が来たことしか、聞いている人には伝わりません。とは言っても聞こえている人にとっては、「連呼」が五月蠅い騒音であることも事実なのですから難しい点です。工夫をしながら迷惑の掛からない形で自分の名前を伝える努力が必要です。

そして三つめは、「握手が心をつなぐ」ことです。若い世代の人たちには、アイドル・グループの握手会などを経験して当り前のことだろうと思います。そしてケネディー大統領が初めて選挙に出たときに、母親のローズさんから、数は正確には覚えていないのですが10組くらいの手袋を貰い、それが全て擦り切れてしまったというエピソードを読んだことがあります。

私には強力な後援会組織がありませんでしたので、夜は繁華街でできるだけ多くの人に握手を求め、一票のお願いをしました。全国を対象にした比例区ではどれれくらぃ実行できるのかはわかりませんが、頑張りたいと考えています。

[2022/6/3 イライザ]

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2022年5月12日 (木)

憲法は強力なワクチン ――コロナも戦争も「予防」で防ごう――

憲法は強力なワクチン

――コロナも戦争も「予防」で防ごう――

 

ウクライナ戦争は長期化するようです。核兵器を使わせない、即時停戦、ロシア軍のウクライナからの撤退、避難民の生活支援等の目的ができるだけ早く実現するよう、できることは何でもしたい気持です。

でも、戦争が始まってから私たちにできることは限られています。戦争が起きないように「予防」することが最重要だと言って良いでしょう。戦争がウイルスによって引き起こされる病気だと考えると、ウイルスに相当するのは戦争を容認する考え方、それ以上に戦争を煽り、戦争しか手段がないという諦めの思想を多くの人に植え付ける言説等だということになります。

それに対しての有効な対策がワクチンであることは言うまでもありませんが、良く考えてみると、効果のあるワクチンが如何に多いのかに気付きます。

たとえば、323日に、ゼレンスキー大統領が国会議員に向けて行った演説では、現在の国際機関が侵略を予防するという機能を果していないことを指摘した上で、こうした新しい機能が果せるような国際的なツールを作る上で、日本の果たせる役割に期待していると述べました。つまり、ワクチンの一つは、国際機関です。

日本の役割に期待しているのは、平和憲法、特に9条があるからだということが確認されていますので、そうなると、憲法9条も有効なワクチンだということになります。

もう一つ、AFSという組織による高校生の交換留学制度も効果的なワクチンです。私の人生に決定的な影響を与えてくれたのが、高校生の時にアメリカに留学したことですが、元々はAmerican Field Serviceという名称でした。発足したのは1914年に第一次世界大戦がはじまったのと同時でした。パリに滞在していたアメリカ人の青年たちが、戦場で救急車のボランティア運転手として活動し始めたのです。第二次世界大戦でも同じボランティア活動をした彼らは、戦争が終って、「戦争が始まってからボランティア活動をするのでは遅い。戦争が起きないようなボランティア活動に切り替えよう」と考え、高校生の交換留学制度を立ち上げたのです。

もちろん、核兵器禁止条約や戦争についての法的メカニズムとしては基本的な条約だった不戦条約などもワクチンの一種です。

こうしたワクチンの役割については、ロックグループの「9mm Parabellum Bullet」が、「Wanderland」という歌の中で次のように説明しています。

見えないラインで区切られた

つぎはぎだらけの世界地図

国境は歴史の傷口で

治せる薬を探してる

9mm  

コロナのような病気、そして戦争に対して有効なワクチンのあることは心強い限りですが、これからの季節大きな被害をもたらす自然災害については、ワクチンはないのでしょうか。

自然の動きそのものを制御することはできないにしろ、被害を少なくするために反乱の起きそうな河川の浚渫とか改修は可能ですし、崖崩れの起きやすい場所に建っている住宅の移築等も可能です。

こうした仕事を日常的に行う組織として、防衛省を改組して防災省にすれば、憲法違反の存在もなくなることになり、一石二鳥になるのですが、どうでしょうか。

 [2022/5/12 イライザ]

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2022年5月 1日 (日)

The World Financial Review に掲載されたインタビューの和訳をアップします。

「核兵器禁止条約の目標は生存である」 

 

The World Financial Review 誌の3・4月号に掲載された、「核兵器禁止条約の目標は生存である」  を元新潟市議会議員の山田達也さんが和訳してくれました。数回に分けて、その訳を掲載します。

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核兵器禁止条約

ジョセフ メイザーによる元広島市長との核兵器に関する対談

 

広島市は、戦争で初めて核兵器が使用された地として、永遠に記憶に残るだろう。第2次世界大戦の終結以降、核兵器保有国間の関係は概ね平和的だったと言って良いだろう。しかしそれは多分、現代における核戦争の結果が想像を絶するものだったからだろう。広島市の前市長で、世界的な核軍縮運動に積極的に取り組んでいる秋葉氏がここで、アメリカ人数学者ジョセフ・メイザーに、恐ろしい核兵器の使用を今後どう管理するかについての見通しを語っている。

数年前、私は型どおり実存的夢を見た。自宅近くに核爆弾が投下され、象徴的なキノコ雲が立ち上がり、私は小さな火の燃え残りやズタズタにされた鋼鉄の残骸の上をあたかも精霊のように飛び回り、まだ生きている可能性のある人を探していた。しかし生存者はいなかった。アメリカという安全な所に住む、どちらかと言えば若い私がそのような穏やかでない夢を見ただけでなく、何十年も経った今でも身も凍る程に覚えているほどの潜在意識の不安を抱いていたのは何故なのだろうか?

広島と長崎の上空で2発の原子爆弾がパラシュートで落とされ爆発した時、私はまだ3歳だった。私は1950年代に育った世代で、その10年はアメリカにとって類まれな繁栄の時代であり、ICBMが米国の幾つかの都市を標的にするかもしれないというのが、最大の恐怖の時代だった。空襲警報の第1波が聞こえたら、学校の机の下に屈みこめと習ったのは70年前のこと、時はゆっくりと動いているように思えた。第2次世界大戦という激しい戦争の後、経済的繁栄に沸き、不確実性が冷戦の脅威に由来する破滅思考を支配していた、あの軽薄な時代、アメリカは一つにまとまった国だった。ニュースは、すべてその日または週についてのもので、1年以上経過した情報は、古代の歴史として葬り去られ、殆ど読まれることない教科書行きだった。とは言え、1950年代の高校高校のカリキュラムには取り上げられることはなかった。我々は素直にポリオの予防接種を受け、法に従っていたし、真実とは当時、地元の新聞やABCCBSNBCのようなテレビネットワークが伝えてくれるものだけだった。世界情勢や個人的不安に応じて、時が速度を上げたり下げたりはするものの、20世紀半ばの数十年間、我々には今世紀最大の恐怖を克服したという誇りがあった。朝鮮戦争が終わる頃、私の両親はあらゆる恐怖が終ったと思い込んでいた。

核兵器拡散に対する不安は、気候変動に対する懸念と競合している。自己中心的に現在を生きている我々は、気候変動で未来の誰かの生活は困難になるが、自分たちの近未来には関係ない、と気候変動を捉えている。しかし、我々は既にその将来にいて、アメリカは気候変動の結果による危機に苦労している。しかもその危機は次々にではなく、沢山が同時に出来している。我々は不安に苛まれていて、その1つが核兵器の脅威だが、世界に存在するあらゆる問題の中で、核拡散に関わる問題は、最も柔軟に解決可能だ。

核兵器保有国が民主主義国家の国境に軍隊と装備を集結させている、そんな時に我々はいる。世界滅亡までの比喩的な尺度、「世界終末時計」が真夜中0時にまで100秒とリセットされた時、私は親友で1999年から2011年まで広島市長を務めた秋葉忠利氏と、核兵器の状況と秋葉氏の将来への思いについて話し合った。秋葉氏は2010年、核兵器廃絶運動における世界的リーダーとしての生涯にわたる役割に対して、アジア・ノーベル賞と呼ばれるラモン・マグサイサイ賞を受賞している。

私たちの会話は長時間だったので編集されてます。

Joseph Mazur  ジョセフ・メイザー

君と僕は、広島と長崎の原爆投下の数年前に生まれています。僕たちは当時3歳で194586日と9日に何が起こったのか理解できませんでした。君は原爆という言葉を聞いたかもしれませんが、僕は「エノラ・ゲイ」と聞きました。お互い7,000マイル(11,200km)も離れていたので、僕たちは両親から違った言葉で、恐らくは異なる感情でニュースを受取ったはずです。僕はその日,何か大変な事が起きたって覚えていますが、当然、完全には分っていませんでした。僕は戦争時代の子供だったので、爆弾が何なのかは知っていましたが、破壊と人命損失の程度については何も知らなかったのです。君は何処にいたのでしょうか?当時、両親から言われたことを覚えていますか?大人になってからその出来事の記憶がどのように展開したのか話して貰えますか?

Tadatoshi Akiba: 秋葉忠利

ジョー、僕は10歳になるまで広島と長崎について何も知りませんでした。僕の最も古い記憶の一つは1945年夏のある暑い日に遡ります。僕が縁側に立っていて、母が戻ってくるのを待っていた時のことです。空襲警報が鳴って、母は1月に生まれた弟を行李に入れ、庭に掘った防空壕まで運んでいました。縁側は高過ぎて庭まで飛び降りられず、僕は母が戻るのを待たなければなりませんでした。それがとても怖かったことを覚えています。

東京の南東部に位置する千葉市が、その夏の77日に焼夷弾による空襲の標的になりました。B-29爆撃機の編隊129機が市の中心部を壊滅させ、住民1000人以上が死傷、9000近くの建物が破壊されました。

僕の家族は街の安全な地域に住んでいて、そこには焼夷弾は数発しか落ちませんでした。でも焼夷弾は自宅隣の道路に落ちました。美しくその一方で恐ろしい火花を、僕ははっきりと覚えています。

それらの記憶は僕の心に鮮明に残り、世界中、至る所における戦争の悲劇を想像するときの助けになっています。

ジョセフ・メイザー

原爆投下後の広島と長崎の惨状の大きさについて、日本の人々はどのように知ったの?

秋葉忠利

広島と長崎については、ずっと後になるまで何も聞かされませんでした。GHQによる「プレスコード(新聞・出版活動を規制するための検閲)」が施行されていたからです。その結果、原爆投下に関する情報は、一切私たちには伝わらなかったのです。被爆者でさえ、怪我や身体へのダメージに関する医療情報を得るのが困難でした。

1952年になってやっと、日米講和条約が発効し、プレスコードが撤廃されました。原爆投下の、言語を絶する悲劇的かつ悲惨な結果について、僕たちが知ったのはその時からでした。

近所の書店には、195286日、日本でのライフ誌に相当する『朝日グラフ』が平積みになっていました。手に取って見ると、顔がすっかり焼け焦げて仰向けに横たわっている若い女性の写真が載っていました。僕は気分が悪くなり、その夜は眠れませんでした。

[以下、続きます]

[2022/5/1 イライザ]

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2022年4月30日 (土)

観光船事故は防げたのか ――政府は国民の生命を最大限尊重しなくてはならない――

観光船事故は防げたのか

――政府は国民の生命を最大限尊重しなくてはならない――

 

知床半島沖での観光船の事故で、11人の方が亡くなり15人の方も行方不明という状況ですが、多くの皆さんは「会社や船長の判断が適切であれば防ぐことができた」と感じているようです。私もそう思います。でもその他にもこの事故を防ぐためにはできることがあったのではないかと思います。

ここでは国の責任を、憲法を元に考えてみます。

憲法13条は、日本政府の義務として、個人の生命に対して最大限の尊重をしなくてはならないと規定しています。その部分を、憲法を元にまとめておきます。

 生命に対する国民の権利については、立法その他の国政の上で最大の尊重を必要とする。

この義務を課せられている政府として、今回の事故、にどう関わるべきだったのかを考えます。前提条件として、船体が健全であることは満たされていると仮定します。GPSとか、レーダー等の装備についての条件も付けなくてはなりませんが、それらは大丈夫という前提で以下考えて行きます。

その際、①放り出されると数分から30分で低体温症によって死亡してしまう海水の温度、②強風そして波が高いという気象条件、③乗り物に乗る人について政府が法律を作って命を守ることの正当性、という三つの要素を元に考えます。

歴史的事実として、日本政府は、凍て付く海に浸かると、短時間で生命が失われることを知っています。例えば、1912年のタイタニック号の沈没事故では、救命ボートに乗れた710人は助かりましたが、1,513人は亡くなりました。船が沈没して数分後に低体温症によって死亡したと考えられています。

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 タイタニック号 (Public Domain)

また、強風と高波浪によって、大きな船でも沈没、転覆、座礁したりした例としては、1954年の洞爺丸台風によって、沈没した洞爺丸の他にも多くの船舶が被害を受けたことが記録されています。(ウイキペディア「洞爺丸事故」から)

さらに、乗り物による事故を防ぐために、政府が直接関わって法律を作った例としては、1986年に、原付も含めたすべてのバイクについて、すべての道路でヘルメットの着用が、罰則付きで義務化されています。バイクの場合は、自分で運転するのですから、自己責任の事故も存在しますので、そこまで政府が関与しなくてもという意見もあったようですが、「事故防止」という目的が最優先された例です。(Virgin Harley.com   https://www.virginharley.com/labo/labo07/)

以下、議論を簡単にするために、低海温の海に話を限ります。つまり、その温度に人が浸かっていると、30分以内には低体温症で死亡するレベルの温度の海について考えます。

そのような結果に至らぬように、乗客を運ぶ船については、厳しい審査後に与えられる免許、あるいは免許の条件や、その運用のための規則を設ける必要がある、というのが今回の主張です。

以下、免許を許す条件を以下考えますが、まず海が平穏であれば、そして船長以下船員も免許と訓練を受けていれば危険性は少なくなりますので、低海温の海には一切出港を禁止する、という選択はしないことにします。

それでも、生命の危険を最小限にしたい訳ですから、気象条件によって、出港停止の規則を設けることは当然です。また気象は変わりますので、出港後に危険な状態になることも考えておかなくてはなりません。

とにかく、船に「異常」が生じた場合どうすれば良いのかということに尽きるのですが、いくつかの可能性があります。

  1.  緊急に近くの港に避難することを、「異常事態発生」時の「義務」として課す必要があります。
  2. 「緊急」避難用の十分の数の救命ボートを積んでおくよう義務付けることも必要です。
  3. それは、小さな船では無理かもしれませんので、例外として、命の助かる範囲内に他の船舶が必ずいるような条件が満たされれば出港を許可する制度にすること。これは、実現可能性が高いのではないでしょうか。
  4. その一例として、斜里町の港から知床観光に出かける船は、10分から30分の間隔で出港するといったシステムになっていれば、何らかの事故が発生しても近くの船が救助できる環境になるのではないでしょうか。

詳細な規則は、現にその海を知っている人たちの間で協議して決めることにしても、国としての責任で基準を設けて、それ以上の場合には、あるいはその可能性のある予報が出ていれば、お客さんを乗せての出港は禁止するという大原則は法制化すべきなのではないでしょうか。

それが国民の生命に対しての最大限の尊重の具体例の一つだと考えているのですが、如何でしょうか。

宮島と宮島口の間のフェリーは、往復があるのでなお条件は良くなっていますが、二つの船会社が少し時間を違えて出港しています。何かあった場合、後続の船が救助に当たれるという観点からは優れたシステムになっています。そして、天候のため、フェリーは出ませんということも何度かありましたね。

船のことも海のことも全く分っていない人間の素人考えかもしれませんが、事故が起きればほぼ絶望的な状況になるであろう、凍て付く海での事故防止のためには、私たちが無い知恵を絞る努力も必要なのではないでしょうか。

 [2022/4/28 イライザ]

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2022年3月11日 (金)

東日本大震災から11年 ――ウクライナや東京も視野に入れつつ考える――

東日本大震災から11年

――ウクライナや東京も視野に入れつつ考える――

 

東日本大震災から11年経った今日、亡くなられた多くの方々の御冥福をお祈り致します。また被災された方々には心からお見舞い申し上げます。

 地震と津波の被害、原発事故による被害、それらが原因になった二次や三次の被害の総体を理解した上で、復興の現状を知り、支援・応援のために何ができるのかを考えたいのですが、私の理解力、記憶力、想像力ではとても追い付きそうもありません。

 でも、二、三の問題提起ならできそうです。

ウクライナでは、チェルノブイリ原発やザポリージャ原発がロシアの手に落ち、最悪の事態になれば、大量の放射線が大気中に漏れ、福島の時と同じ被害を被ることになり兼ねません。大変心配ですし、軍隊が原発を掌握していること自体に大きな怒りを感じます。我が国の原発についても、安全性の問題を最優先すべきですが、脱原発を一刻も早く実現すべきでしょう。

 地震や津波からの復興にもまだまだ問題があるようですし、故郷を離れて生活している方々にとっては、この11年の長さは大変なものだったと思います。そして、それだけの時が経っても、元の生活を取り戻せた人がどのくらいいるのか、そして心のケアも心配です。

 コロナ禍で、東北を訪れる人たちの数も減り、それは東人本大震災についての記憶が薄れて行くことにもつながるでしょう。戦争の被害と同じように、自然災害による被害も私たちが忘れないことこそ、未来の被害を減らす上で何よりも大切です。被災遺構を保存して被害の全体像が正確に伝え続けられるようにする必要もあるのです。

 プーチン大統領が核を使うぞと脅せるのは、被爆の実相を知らないからです。それは、広島・長崎に来たことのない他の核保有国の首脳についても同じです。それと同様に、自然災害についても実際に被災地を訪ねて初めて理解できることは多いはずです。

 もう一つ、私の世代の責任として、311日だけでなく、310日も記憶し続けなくてはならない日なのです。1945年の310日は、東京大空襲で10万人の市民が亡くなった日だからです。残念なことに、今の東京には、310日の被害を思い起こさせるような遺構は残っていないのですが、唯一民営の「東京大空襲・戦災資料センター」があるのみです。本来なら東京都の責任で一次資料を未来に伝えるための資料館または博物館を建設・運営して行かなくてはならないのですが、関係者の熱意と善意の集まりがこのセンターを支えています。

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大空襲後の東京

Public domain

 東日本大震災について、そんな心配はないと思いますが、それでも東京都の二の轍を踏まないように、私たちが記憶し続けなくてはなりません。

 [2022/3/11 イライザ]

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2022年2月20日 (日)

「平和宣言」全文を読む ――早稲田新書の最近の一冊です――

「平和宣言」全文を読む

――早稲田新書の最近の一冊です――

毎年、8月6日と9日には、広島と長崎の平和記念式典で市長が平和宣言を読み上げます。NHKテレビでも平和宣言が終るまでは全国中継をしていますので、テレビで平和宣言に触れた方も多いのではないでしょうか。

そして次の日の朝刊には、平和宣言の全文が掲載されますので、それを読まれた方もいらっしゃると思います。

しかし、1947年に始まった広島の平和宣言を全て読まれた方は少ないのではないかと思います。今回早稲田新書として出版された『「平和宣言」全文を読む』なら、気軽に全文を読むことができそうです。

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私は何度か、それまでの平和宣言の全文を読みました。例えば、1982年には、1981年までの全ての平和宣言を読みました。それは、中国新聞が毎年出版している『広島の記録』を英語に訳すためでした。

『広島の記録』は、1945年からその年までの、広島を中心にした平和関連の中国新聞記事を写真とともに毎年を数ページにまとめた書物です。広島の市民や平和活動家が核兵器のない平和な世界を実現するために、地道にどのような活動をしてきたのかを世界中の人々に知って貰うためには、事実に即したこのような情報を英語で読んで貰うことは何より効果があります。

英語版のタイトルは『The Meaning of Survival』(生き残った意味)と付けましたが、日米の大学生や通訳たちがボランティアで翻訳をしてくれました。その一環として、巻末に収録されていた平和宣言も読み易く意味が伝わるように訳し直しました。

市長になってからも、毎年、全平和宣言を読み直しました。

今回の早稲田新書は、手軽に持ち運びもでき、早稲田新書の編集部による松井現市長の他、私、そして平岡元市長とのインタビューも掲載されています。インタビューも平和宣言理解のために役立つと思います。そして全文を一遍で読まなくても、毎日一年分を読むというスケジュールは如何でしょうか。

皆さんから読後の感想などもお寄せ頂ければ幸いです。

[2022/2/20 イライザ]

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2022年2月15日 (火)

「尾木ママ」と対談しました (4) ――プリンストンでのWCRP会議――

「尾木ママ」と対談しました (4)

――プリンストンでのWCRP会議――

 

公式には1970年に始まったWorld Conference of Religions for Peaceの第3回世界大会は1979年、アメリカのプリンストンで開かれました。その際採択された宣言があります。会場はプリンストン大学の構内で、それまでも何度か本職の関わりで訪れていましたので、とても快適でした。

Wcrp

後で知ったことなのですが、この会議で曹洞宗の代表の方からの発言が「差別発言」として大きく取り上げられ、その後かなりの間、宗教界そして平和運動関係者の間での議論が続きました。私たち通訳には直接関係ないことなのですが、こんなに重要な発言が出た会議に居合わせたことで、歴史の証人としての自覚を持つことになりました。

プリンストンの会議で特に印象的だったのは、いくつもの宗教の代表やスタッフの皆さんとの交流です。キリスト教ではプロテスタントとカトリックの代表の皆さんと話をすることができましたし、神道の流れでは、大本教、天理教、金光教の皆さんの活躍が目に付きました。

WCRPを提唱し中心になって活動していたのは立正佼成会なのですが、プリンストンでの参加者の活動や発言を見る限り、全宗教者が平和に向かって一致協力しているといった印象が強く残っています。

会議の外での交流に戻ると、金光教の女性スタッフでニューヨーク在住、そしてニューヨークの大ファンの人がいました。Aさんと呼んでおきましょう。当時ボストンに住んでいて、私もニューヨークにはよく行きましたが、どちらかと言うとニューヨークの喧騒や貧富の差、そして当時はまだかなり汚かったニューヨークとは距離を置きたいと考えていたので、つい悪戯心に負けて、Aさんをからかってしまいました。途中で止めれば良かったのに、最後にはAさんを怒らせてしまいました。

その後の金光教との御縁を考えると、後悔することしきりですし、Aさんには申し訳ないことをしました。心から反省していますし、誤りたい気持ちも変っていません。でもこの時のやり取りがきっかけになって、金光教に関心を持ち協議や活動についての勉強もしましたので、少しは救いもあったのだと考えたいと思っています。

こうして、WCRPと再会してから明るい社会づくり運動につながるのですが、それは次回に。

[2022/2/15 イライザ]

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2019年7月20日 (土)

1964年東京オリンピック ――同じお題で書きましょう――

若い世代の皆さんはまだ生まれていなかったのですから、1964年の第18回東京オリンピックを見ることはできなかったのは当然ですが、当時も人気が高くチケットを手に入れるのは至難の業でした。私も競技上のチケットは手に入らず、生で見られた種目はありません。

でもそれで良かったのかもしれません。なぜなら、私はその時、アメリカ選手団を応援していたからです。周りの人たちから袋叩きになっていたかもしれないではありませんか。と言ってもそれほど深刻ではなく、応援していたのは全種目ではなく、クロスカントリーに出場した、クラスメート、そして陸上のチームメートだったのです。競技場は東大の検見川総合運動場で、当時私が住んでいたところから二駅しか離れていませんでした。

クロスカントリーのチケットは当らず、競技を見ることはできませんでしたが、競技場まで出掛けて、アメリカの選手を見付けて貰い、私のチームメートの「トム・カリー」に差し入れを渡して貰うように頼みました。

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東大検見川総合運動場

実は、その年の5年前から一年間、イリノイ州の小さな町の高校に留学していたのですが、シーズンごとに選べる部活のスポーツの内、春のスポーツには陸上を選んで、短距離、幅跳び、高跳びといろいろ練習したのです。そんなチームメートの中で頭抜けて優秀だったのがトム・カリーで、イリノイ州の高校大会でも優勝したほどでした。彼がオリンピックに出ることになったのも、その町では大騒ぎでしたし、私も直に応援したかったのですが、チケットが手に入らなくては仕方がありません。

結果は残念でした。そして、彼に会えなかったのはもっと心残りでした。

でも、このオリンピックでは思いがけず、閉会式のチケットには当たっていたのです。その閉会式で印象的だったのは、入場するときに選手たちがバラバラに入ってきたことが一つ。会場が温かい自然な雰囲気に包まれました。そして最後に讃美歌の「神ともにいまして(また会う日まで)」が演奏されたことです。選手も観客も一つになったときでした。

それから55年が経ちましたが、オリンピックだけではなく様々な場面で多くの人に会い、また別れてきました。そんな場面で、今でも1964年のオリンピックの閉会式の「神ともにいまして」が蘇ってきます。来年のオリンピックの閉会式にもそんな感慨を催す人がいるのかもしれません。

[2019/7/20 イライザ]

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コメント


参加ありがとうございます。

 

おそらく、今回の同じお題で、チームメイトがオリンピックに
出たなんて話は出てきませんよ。応援出来ていれば良い
思い出だったでしょうね。それにしても羨ましいです。

「⑦パパ」様

コメント有り難う御座いました。

そして、トムのその後はあまり良く分りません。同窓会にも出てきていませんし、同窓会誌にも消息が載っていません。また会えたら良いのですが――。

 

 

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