#笹森恵子(しげこ)さんとの出会い
――#MANAコンサートでの 「恵子 ゴー・オン」――
『真珠と桜』
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昨日は、御冥福を祈りつつ笹森恵子さんの92年間の人生を簡単に御紹介しました。お伝えしたかったのは、彼女の生き方や考え方、そして彼女が「笹森恵子」であることそれ自体から私が大きな影響を受けてきたことなのですが、懐かしい思い出の中からいくつかを御披露させて頂きます。
《MANA反核コンサート》
笹森恵子さんが亡くなられたのはロスアンゼルス近郊のマリーナ・デル・レイの御自宅でした。1932年生まれですので、92歳でした。映画監督のSteven Okazakiの言葉では、「彼女は世界中で誰よりも多くの人にヒロシマの物語を伝え、誰よりも多くの人の心を打った被爆者」です。
アメリカに長く住み、英語で自らの被爆体験を語る笹森さんが、直接、そして様々なメディアを通じて語り掛けた人の数が限りなく多かったのは当然です。今でも、「ヒロシマ」と言えば「パールハーバー」と返って来るケースが多いアメリカでは、初めて被爆者の体験に触れる人が圧倒的多数です。そんな人たちの心の奥まで揺さぶるストーリー・テラーとして平和のメッセージを伝え、核なき世界を目指そす多くの仲間を作ってくれた笹森さんに、改めて心からの感謝の言葉を捧げます。
私が笹森さんにお会いしたのは1978年、まだボストンの郊外のニュートンビルにお住いの頃でした。海外ジャーナリストを広島・長崎に招請する企画について相談に乗って頂くために、御自宅に伺いました。後に「アキバ・プロジェクト」と呼ばれるようになったのですが、笹森さんの後押しがなければ、このプロジェクトは陽の目を見なかったかもしれません。初めてお会いした時のこと、そして笹森さんが主役として大きな役割を果したボストンでの集会について、拙著から引用します。
『真珠と桜』(1986年、朝日新聞社刊)の104ページから107ページまでです。ちょっと長くなりますが、お付合い下さい。
笹森恵子さんにお会いしたのはそんな時だった。(中略)
世界的ジャーナリストとして有名なノーマン・カズンズ氏が音頭をとった〝原爆乙女"プロジェクよってアメリカに招かれ手術を受けた一人である。今ではカズンズ家の養女格で一人息子のノーマン君に大きな期待をかけている。そのくらいの予備知識で拙宅から車で二十分ほど離 れたニュートンビルに笹森さんを訪ねた。
デュープレックスつまりアメリカ式二軒長屋の片方が笹森家で、玄関からいきなり階段を上った二階と、三階全体で五、六室ある。階段の上から「いらっしゃい」と歓迎してくれた笹森さんの第一印象は、身体全体を通しての微笑みと、小柄な身体から溢れ出るエネルギーだった。顔にはケロイドの跡がある。 曲ったままの指もある。 映画 『原爆の子』の中の女学生達のように、 笹森さんも朝礼中被爆したのだろうか。アメリカ人の善意で手術したのはどの部分なのだろう。そんな疑問も浮んだが、こちらの勝手な感傷とは全く関係なくたちまち笹森ペースで話が始った。
今考えるとおかしな話だが、ジャーナリストを招くプロジェクトの趣意書は、さんざん加筆訂正した汚ないものをそのまま持ち歩いていた。ワープロがそれほど普及していなかったにしろ、清書くらいしておいて当然だったと思う。その読みにくい趣意書を、笹森さんは丁寧に読んでくれた。
「本当にそう。アメリカの人達に被爆者のことをもっと知って貰うことには大賛成。でも、具体的に何をするかが問題ネ」
「ローカル新聞の記者を招待するにしても本当に、良い人が集るかしら」
頷きながら、次々に質問が飛び出してきた。広島弁の混った、直観的な言い回しが笹森さんの特徴である。その感情につられないように私は論理的レベルで質問に答える。
最後には、「驚いたわ。あなたと私とは、同じようなことを考えていたみたい。私も応援するから頑張ってちょうだい。 お父さんにも話してみるから、英語の説明書も作ってちょうだい」ということになった。
お父さんとは勿論、ノーマン・カズンズ氏である。笹森さんにはその後、ずっとアドバイザー として、困った事が起る度にお知恵を拝借している。その後、米国内で盛んになった反核運動でも、彼女は被爆者として積極的に発言を続けている。
中でも印象深いのは、一九八二年二月ボストンで開かれたMANA(核兵器に反対する音楽家の会)の第一回コンサートである。ハーバード大学教授で作曲家のアール・キム氏が「核の鎖と憎しみの鎖を断ち切る」ために、クラシック畑の音楽家に呼びかけて設立した会である。私もアドバイザーとしてお手伝いしたが、第一回目のコンサートはボストン交響楽団のコンサート・マ スターだったジョセフ・シルバースタイン氏を初めとして世界的な音楽家達が参加して開かれた。
キム氏は長崎に原爆が投下された次の日、米空軍の偵察将校として超低空飛行を行って長崎の惨状を胸に刻み込んだそうである。その惨状を伝えるため、また、アメリカ人に核兵器、その中でも広島と長崎の原爆に対する責任を真正面から見つめて貰うため「MANAのコンサートには どうしても被爆者に参加して貰い、被爆者のメッセージを伝えて貰わなくてはならない」と言う。
憎しみの鎖を断つことが可能である証拠として、キム氏は被爆者の経験ならびに氏の経験を挙げる。
「被爆者はアメリカ人を恨んではいないそうではないか。彼らは憎しみの鎖を自ら断った人々だ。 私も子供の頃、日本人を憎むよう教えられ育てられた。日本人が朝鮮人にして来たことを考えると、私には日本人を憎む気持もよく分る。だが、憎しみの鎖はどこかで断ち切らないといけない。だから私は、日本人を恨み憎むことは自分の所で終りにすると心に決めた。大学時代のことだ」
そのキム氏の主催するコンサートで笹森さんが、シンフォニー・ホール一杯の聴衆に向って平和への努力を続けようと訴えた。
「私は今、病院の新生児室で働いています。辛いこと、苦しいことがあると、赤ちゃん達が無言の内にも私を励ましてくれます。 『恵子、ゴー・オン(ガンバレ)。恵子、ゴー・オン』と言って いるように聞えます。皆さんも、苦しいことがあってもそれに負けずに、一緒に平和のために頑張りましょう」
三千人以上の聴衆は起立して心からの拍手を送った。このコンサートの成功が契機となって笹森さんは、あちこちの大集会に引っ張り出されることになる。
このコンサートのクライマックスは、笹森さんが励ましの言葉として使った、「恵子、ゴー・オン」でした。それが笹森さんの人生を象徴する言葉だったことが、3000人の聴衆に伝わり、鳴り止まぬ拍手になったのですが、同年の6月には、その気持を文字化した『恵子 ゴー・オン』が汐文社から出版されました。
2月21日のMANAコンサートでもう一つ忘れてはならいのが、アール・キムさんの作曲した「Now and Then」です。今でもキムさんの音楽はクラシック・ファンの中で生き続けていますが、MANAコンサートではE. マクナマラさんの歌唱が、キムさんが長崎で受け止め、40年近く掛って表現することになった原爆・核兵器との遭遇の意味を、笹森さんや会場を埋め尽くした、志を共にする人たちに伝えてくれました。
笹森さんにとってこのコンサートは、大きな集会で被爆体験を語る初めての経験だったのですが、それ以後、至る所で被爆体験を語ることになります。
その他の場での笹森さんとのお付き合いもいろいろありましたが、印象に残っていることをいくつか、次回も御披露します。
最後に、今日一日が皆さんにとって素晴らしい24時間になりますよう
[2024/12/21 人間イライザ]
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