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2024年3月

2024年3月31日 (日)

#桜が咲きました ―― #田舎にも春が来ました――

#桜が咲きました

―― #田舎にも春が来ました――

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枝振りも良くなりました

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標高が高いため、平野部にある都市と比べて、気温が5度ほど低いのですが、そんな田舎にも春がやってきました。

まずは、桜が咲きました。背景が今一ですが、きれいな花ですので、写真を一二枚アップします。移植した時には枯れてしまうのではないかと心配しましたが、見事に復活です。

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2024年も言葉を大切にして、知的にも情緒的にも誠実さが輝く年にすべく頑張りましょう。

[2024/3/31 人間イライザ]

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2024年3月30日 (土)

#何をしたのか を #特定して下さい ―― #正確さを犠牲にする のは #権力への擦り寄り?――

#何をしたのか #特定して下さい

―― #正確さを犠牲にする のは #権力への擦り寄り?――

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「棄却した」は意味が分かります。

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気になる日本語の使い方の内、マスコミが多用している表現を取り上げます。それは「としている」に代表される、怠惰な日本語の使い方です。

引用した記事は、水俣病救済についての訴訟の結果を報道しています。毎日新聞3月23日付の同紙の一面トップの記事です。私の印象では、毎日は問題の少ない方なので、毎日取り上げるべきではないのですが、手許にあった新聞をたまたま使っていますのでお許し下さい。

以下指摘していることはマスコミ全社に浸透していますし、特に、テレビのニュース中の政府発表や官僚や大企業等の記者発表等には目立ちます。

丸で囲んだ、「とした」は過去形ですが、現在形だと「とする」とは、「と判断する」あるいは「と決める」という意味があると辞書には書いてあります。

しかし、用例として掲げられているのはいずれも、「と」の前に明確な意味を持つ言葉が添えられているものばかりです。例えば「是とする」「よしとする」「目標達成は難しいとされている」等々です。「とする」だけを使って、意味を曖昧にしてはいけない、という含意があると理解できます。

引用した記事では、二カ所とも、裁判所の「判断」を意味すると思われますが、より具体的には「と解釈した」とか、「と認定した」とか、あるいは「と曲解した」等の可能性も考えられます。

ここで指摘したいのは、「と」の前に来る行動・行為が重要だということです。それが、百歩譲って、「判断する」という行為であれば、その行為そのものが重要なのですから、「判断」を省略してはいけない場面なのではないでしょうか。

仮に字数を調整するために、何かを省略するのであれば、一番最後(敢えて重複表現を使っています)の「方針」の部分と同じように、「水俣病に罹患している」と判断、という具合に体言止めにして、裁判所の行為の幹の部分を明言すべきところなのではないでしょうか。

私自身の感想ですが、二番目の「とした」は、実は「と断定した」と書くべきところなのではないかと感じています。それを省略して、「とした」と曖昧に言葉を濁すことで、裁判所の判決の仕方についての批判はしませんよという、体制支持の姿勢を示しているのかもしれません。

マスコミで、「とした」の類の表現に気付かれたら、その主語が何かにも気を付けて下さい。既に指摘したように、政府とか、官僚、大企業等の場合が圧倒的に多いことに気付かれるはずです。

小さなことかもしれませんが、権力者・為政者から弱者の権利を守るためには、こうした小さな点にも注意を払い続ける必要があります。「気付いたら遅かった」ということになり兼ねませんので。

 

2024年も言葉を大切にして、知的にも情緒的にも誠実さが輝く年にすべく頑張りましょう。

[2024/3/30 人間イライザ]

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2024年3月29日 (金)

#IHクッキングヒーター の #掃除 ―― #秘訣は #クレンザーを放っておくことでした――

#IHクッキングヒーター #掃除

―― #秘訣は #クレンザーを放っておくことでした――

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上がbefore  したがafterです。念のため。

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Google Photoの、コラージュが使えるようになったので、「before」と「after」の比較ができるテーマをアップします。IHクッキングヒーターの掃除です。

今までは、表面の汚れは熱で頑固に固定されていると思い込んでいましたので、研磨剤の含量が50%というクレンザーを買ってきて、力任せにゴシゴシ擦っていました。

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今日は、色々することが多くてバタバタしていましたので、クレンザーを広げたまま、他の雑用を済ませました。お好み焼きでも作れそうな絵柄ですが、このまま30分くらい放っておきました。

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時間が掛かるのを覚悟で、金属たわしで擦り始めると、何だか汚れが余り付いていない感じです。試しにと思って、縦に30秒、横に30秒擦って、クレンザーを拭き取ってみると、「何ということでしょう。」

「after」の写真のように、汚れは見事になくなっていました。IHクッキングヒーターの掃除は、ほとんど擦らずにできることを発見したのです。

これで、これからは手も傷めず、時間も掛けずに掃除ができるのですから、有り難いの一言で終らせるべきなのですが、今まで、研磨剤が必要だと思い込んで時間を掛け、力を入れて擦っていたことが無駄だったとは!

 

日本語の誤用について、まだまだ書きたいことが沢山ありますので、続けます。

 

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[2024/3/28 人間イライザ]

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2024年3月28日 (木)

一番最初がダントツの一位 ―― #重複表現ランキング――

一番最初がダントツの一位

―― #重複表現ランキング――

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最後の切り札は何だ?

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日本語の誤用について、まだまだ書きたいことが沢山ありますので、続けます。

「注目を集める」が、誤用ではないかもしれないどころか、かなり受け入れられていることに「不快感を感じている」のですが、勿論これは皮肉です。

日本語も、社会の動きとともに変わっています。私自身の言葉に対する感覚も変化しています。例えば、かつては嫌悪感しか持てなかった「ら抜き言葉」を聞いても、腹が立たないくらいの寛容さは身に付きました。

となると、自分では「誤用」だと信じ込んでいる言葉が実は世間で広く受け入れらるようになってしまっているのかもしれません。

そんな時に目にしたのが、「つい使ってしまう重複表現ランキング」です。「古の昔の武士の侍が、馬から落ちて落馬する」というのが有名ですが、「gooランキング」の一つとして、2008年に公開されたものです。

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この一覧を見ながら感じたことの一つは、「ビジネスパーソン」を対象にした調査で、これだけ多くの人が、「つい使ってしまう」表現は、それなりに多くの人たちの日本語についての感覚を反映しているのではないかという点です。

私も、「一番最初に」という表現はつい使ってしまいますが、その理由は、重複表現ではあっても、正確に内容を伝えるためにはこう言った方が良い、といった判断が働いているということです。正確なコミュニケーションを確実にするために、文法的な正確さは犠牲にすることは許されるのではないか、という問題提起にもなっています。

この判断基準を使って、ランキングの9つの表現を見直してみたのですが、例えば、「射程距離」はその意味で余り違和感を持たなかったのですが、「思いがけないハプニング」は、ちょっとどうかなと思いましたので、少しは意味のある基準になっているのかもしれません。

それが、重複表現を使っても良いという「最後の切り札」になるかどうかは分りませんが。

 

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[2024/3/28 人間イライザ]

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2024年3月27日 (水)

躱すのは敵の矢 ―― #人を追い抜くことではありません――

躱すのは敵の矢

―― #人を追い抜くことではありません――

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子ども時代の体験からは、とても着いて行けません

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もう一つ、子ども時代の体験と深く結びついているのが「かわす」です。以前にも書いたことがありますが、かつてたくさん読んだ時代小説の類では、「敵の矢を躱す」という意味での「かわす」しか意味がありませんでした。

小学校の高学年になって柔道を習いましたが、そこでの体験では、「体を躱す」ことが多くありました。相手の力が真っ直ぐにこちらの向っているときに、体を捻ってその力をやり過ごすことですです。

大人になってからは、質問を躱したり、逆に躱されないように準備をしたりという場面もありました。どこにも、「追い抜く」というニュアンスがないので、何故、「かわす」が「追い抜く」を意味するようになったのかも分りません。

でも、ネットで調べると2012年のロンドン五輪の頃には、この言い方がマラソンだけでなく、コレクションになるくらい多く使われていたようです。道浦俊彦さんのコラムをお読み下さい。

「交わす」という文字を充てて、その意味だという説もあるようですが、「言葉を交わす」とかいったニュアンスでも「追い越す」にはならないので、未だになぜ、このような「誤用」が生まれたのか、想像がつきません。何方か教えて頂けると有り難いのですが---。

参考までに、読売テレビのコラムには、ゲームをモデルにした説明があるのですが、ゲームは余りしたことがありませんので、この解説でも理解不能でした。

もう一つ、競馬の世界では前から使われていたのかもしれません。矢野義彦さんのコラムがそう示唆しています。一歩前進です。でも、なぜそうなったのかについては今一、分りません。

 

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[2024/3/27 人間イライザ]

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2024年3月26日 (火)

私にとって#注目を集める は #誤用 ―― #号令 としての #注目の体験 があります――

私にとって#注目を集める は #誤用

―― #号令 としての #注目の体験 があります――

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「#注目」しているのは「#私」ですよね

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このところ、日本語にはまっていますので、その勢いで続けます。

長い間、「注目を集める」には違和感を持ち、「誤用」だとさえ思ってきていました。ところが、尊敬する国広哲也先生の『日本語誤用・慣用小事典』の184ページには、それが正しい使い方として登場したのです。

「話題を集めた」という、ちょっと疑問符の付く表現の説明の一部に、「注目を集めた」という表現と、「話題になった」が影響し合って、「話題を集めた」になっているというのです。

手許のいくつかの辞書をチェックしてみると、集英社の『国語辞典』には、用例として「注目を集める」が載っていますので、世間的にはかなり認められてしまっているのでしょう。

でも、私には「大いなる違和感」があります。その理由を考えて見たのですが、これまでの人生、特に子ども時代の影響が大きいように思えてきました。それは、日常的に「注目」が生きていたからです。

一番、印象に残っているのは、「国旗に注目」です。学校の行事では国旗掲揚がその一部でしたが、国旗が掲揚されるときには、「国旗に注目」という号令とともに、国旗を見なくてはなりませんでした。他にも、「○○に注目」という号令が結構ありました。

ですから、私の頭の中では、「注目」の主語は「私」なのです。つまり、私が注目するという主体と行動が一体になっているイメージがあるのです。そこからは、「注目が集まる」にはイメージが飛ばないのです。

その他の、「誤用」についても同じような分析が出来そうですので、一つずつ俎上に載せたいと思います。

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[2024/3/26 人間イライザ]

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2024年3月25日 (月)

#愛用のTote Bagの #手入れ ―― #こちらは10年振りくらい――

#愛用のTote Bag #手入れ

―― #こちらは10年振りくらい――

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ミンクオイルの威力にはいつも驚かされます

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身の回りのものに目が行くと、これまで気には掛っていても手入れができなかったあれこればかりが目立つようになります。

その一つが、もう10年くらいは手入れをしてこなかったTote Bagです。革製品手入れの定番はミンクオイルですが、こちらももうなくなっていましたので、新しいものを手に入れました。口コミが揃って良かった製品です。

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その結果が、冒頭の写真のような、beforeとafterになりました。これでしばらくは、気持良く外出できそうです。

もう一つ嬉しかったのは、写真のコラージュができるようになったことです。ソフトを使えば簡単なことは分っていたのですが、これも「その内に」と思い続けて何もしませんでした。今回は「Google Photo」を使って簡単にできました。

 

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[2024/3/25 人間イライザ]

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2024年3月24日 (日)

#愛用の万年筆 を #修理に出します ―― #半世紀以上使っています――

#愛用の万年筆 #修理に出します

―― #半世紀以上使っています――

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再度、使えるようになると良いのですが

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二年前のこのブログでも、万年筆の修理が必要だということを書きました。「その内に、その内に」と思っている内に二年経ってしまったのですが、50年以上愛用している万年筆を、広島市内の代理店に持って行きました。

国内には修理所が一カ所しかなく、そこに送って見積もりを出して貰ってから修理ということになり、「大昔の高級外車の修理みたいだな」と思いつつ待っていたのですが、10日ほどしての返事は、修理ができないでした。その理由は、もう古過ぎて部品がないからというものでした。

仕方がありませんので、万年筆ならどの国で作られたものでも、しかも新旧を問わず修理してくれる、職人肌のお店を見付けましたので、そこに送ることにしました。

何とか再び使えるようになると良いのですが、どうなるでしょうか。万年筆が戻った段階で報告します。

 

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[2024/3/24 人間イライザ]

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2024年3月23日 (土)

#老婆心ながら は #使いにくい #日本語です ――それって #Sexism?――

#老婆心ながら #使いにくい #日本語です

――それって #Sexism?――

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こんなイメージが頭に浮かびます

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元々の仕事が教師ですので、自分の専門でないことでも、ついつい口出しをする傾向があります。迷惑がられることも多いのですが、それを優先してしまうと生徒の嫌いな科目を教える、という義務は果せなくなります。

とは言え、年を取ると少しは我が身を省みることもできるようになりましたので、小言はできるだけ慎むようにしていますし、何か言わなくてはならない時にも、一言前置きをしてから、を心掛けています。

そんなときに便利なのが、「老婆心ながら」です。「老婆心ながら、一言付け加えておくと」というような感じで、その後のアドバイスがちょっぴり柔らかくなります。「お節介かもしれないけれど」というような意味で、「老婆」と言っても、男女どちらが使っても良い表現なのですが、私の問題はここから始まります。

この慣用句を使うときに、どうしても頭に浮かんでしまうのが、イラストで示したような姿なのです。結果として、「老婆心ながら」を使わずに他の言葉に変えてしまっていることがしばしばです。

さらに最近では、これは昭和の時代の価値観を身に付けている私のsexismが諸に出てしまっているからなのか、という心配までしています。

以上、老いの繰り言でした。

 

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[2024/3/23 人間イライザ]

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2024年3月22日 (金)

#日露戦争後 の #対日評価 ―― #称賛 と #差別 と、#両極端に分かれます――

#日露戦争後 #対日評価

―― #称賛 #差別 と、#両極端に分かれます――

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加藤陽子著『それでも日本人は「戦争」を選んだ』

#お勧めします

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前回は、日露戦争に勝利した日本ではどのような教育をしているのか、という疑問に対する答として、「教育勅語」を外国語に翻訳して海外に知らせたということを取り上げました。でもその他の理由もありました。

その一つは不平等条約の改正です。簡単な説明は、ブリタニカ国際百科事典の解説を御覧下さい。

1854年の日米和親条約以来、治外法権や最恵国待遇等の点で不平等な国際条約に縛られていた明治政府の悲願の一つが条約改正でした。それは、1911年に実現したのですが、そのための対策の一つが、日本国内の法的整備であり、さらに日本が欧米諸国と肩を並べられる文明度を持つ国家であることを示すことでした。

憲法の制定、刑法や民法、商法等の整備は前者の一部でしたし、鹿鳴館外交や鹿鳴館時代と呼ばれる努力は後者の典型でした。教育勅語の内容を海外に伝えることは、その両者の意味を持っていたと思われます。

条約改正に、日露戦争の勝利が役立ったのは勿論です。それは、日本の前向きのイメージが世界に広まったからなのですが、トルコの革命にはもっと直接的な影響を与えています。加藤陽子著の『それでも日本人は「戦争」を選んだ』(朝日出版社、2014年)から引用します。[加藤さんは菅内閣の時に学術会議の委員に任命拒否されたくらい立派な方です。]

1905年、白色人種でキリスト教徒の国であるロシア帝国に、黄色人種で非キリスト教徒の、遅れてきた帝国である日本が、ぎりぎりの勝利でしたが、とにかく勝利した。このことが、半植民地状態あるいは植民地の立場たにあった東アジアの国々だけでなく、近代国家への歩みを始めたトルコにも強い影響を及ぼしました。トルコの革命家、ケマル・アタチュルクに影響を与えたのは事実です。

近代的憲法を持った国 (日本).は、憲法のない国(ロシア)よりも強い、識会を開設している国(日本)は、議会のない国(ロシア)よりも強い。このような教訓が、世界に伝わったと考えられます。ケマル・アタチュルクは1905年に陸軍学校を卒業して、参謀大尉になった後、「祖国自由団」を組織して政治運動に入っていき、最終的には、23年にトルコに共和制をしき、初代大統領になった人物です。

残念ながら、白人国家ではそんなに素直な受け止め方ではなかったようです。今でも人種問題が深刻なアメリカでの状況を、これも加藤さんの説明で理解しておきましょう。

1891年から1906年の間に数千人の日本人移民がカリフォルニアに渡っていました。カリフォルニアでは、日本人移民に対して、低賃金で働き、アメリカ社会の一体性を混乱させる者と決めつけ、06年には日本人学童の公立学校への入学拒否、07年には日本人移民を排所する条項(ハワイ、メキシュ、カナダなど米国本土以外を経由した日本人移民を排斥する条項)を含む連邦移民法も可決されてしまいます。ロシアを打ち負かした好戦的な国家というイメージが、急速にアメリカ社会のなかでふくらんでいったことがわかるでしょう。

このことを加藤さんは「ウォー・スケア」と表現しています。「日本人が海を越えて襲ってくるのではないか、戦争が始まるのではないか、との根拠のない怖れ」のことです。アメリカでは、今でも日本人と中国人が同一視されることが多くありますが、1906年のサンフランシスコ地震の後のアメリカでは、丁度、関東大震災後に、日本で朝鮮人や中国人を虐殺したのと同じことが起っています。

その背景には、「ふだん虐げられている朝鮮人が日本人を襲ってくるかもしれない」という「根拠のない流言」があった、と加藤さんは診断していますが、根拠がないのは、結論部分で、前半が事実だったからこそ、そんな流言が生まれたことを忘れるべきではない、という警告です。

このような状況を前に、国際的な場で活動していた日本のリーダーたちが、一方では、肯定的に評価される日本像をより輝かしいものにすること、できれば欧米諸国より優れた国家であることを示したいという願望が元になり、他方では、差別の対象になる日本人や日本文化の本質的な良さを広めて、誤った日本像を修正したい、と考えたとしても不思議ではありません。

そのために動員されたものの一つが教育勅語だと考えられますが、実際に当事者の誰かがそう考え実行したという証言を探しています。現時点では、日本政府ならびに外務省がそう考えて教育勅語を世界的に拡散する努力をしたということは、一つの「仮説」として、考え、それに基づいた考察を展開します。

[注記: この中で取り上げた、『それでも日本人は「戦争」を選んだ』はお勧めです。まだの方は一読をお勧めします。]

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[2024/3/22 人間イライザ]

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2024年3月21日 (木)

#御真影 は #海外公館に飾られていた ―― #教育勅語も各国語に訳された――

#御真影 #海外公館に飾られていた

―― #教育勅語も各国語に訳された――

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1911年に刊行された、G・G・ルパートの著書"The Yellow Peril"(『黄禍』) 写真は(Public Domain)

#黄禍論も広まった

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教育勅語の意味をできるだけ客観的な視野から検証してきましたが、一つには、「御真影」と一体の関係として捉えないと、全体像は描けないことが分りました。

そして、その「御真影」に出会った意外な場所とは海外の日本大使館や領事館等の公館でした。外からのお客さんを迎える応接室のような部屋がいくつもあるのでしょうが、例えばボストン日本人会の幹部があいさつに訪れたときに通されるのは、普通の応接室でしょう。その正面に天皇と皇后お二人の写真が恭しく飾られていたのです。

ことによると「麗々しく」の方が相応しいのかもしれませんが、1970年代ですから、普通の家庭に「御真影」が飾られることはまずない時代です。海外の公館の応接室で、「これが日本の大使館・領事館?」と思うほどの違和感と言ったら良いのか、非日常感と言ったら良いのかに襲われてしまったのです。

そしてそのときだけではなく、それから何度も海外の公館を訪れる機会があり、その度に「御真影」に接することになりました。別の部屋には皇太子と皇太子妃の写真が飾れたりしていましたので、海外公館は、皇室漬けになっているとさえ感じたこともありました。

それは、外国とのお付き合いが天皇の職務の中でも重要であることから、宮内庁の幹部職には外務省出身者が多いこととも関連があります。

となると、外務省と教育勅語の関係も無視できません。明治政府が外務省を通して、あるいは外務省や関係者が働き掛けて、積極的に教育勅語を海外にPRしたことにも注目する必要があるのです。

金子堅太郎による教育勅語の政府訳作成提案がその始まりです。金子は日露戦争後の日露関係修復のために、仲裁の労をアメリカに取って貰うという大役を果たしたのですが、当時の様子を、『教育勅語』 (解説・大原康雄、ライフ社 1996年) から引用します。

教育勅語の評価については、海外におけるそれにも目を向ける必要があるだろう。

日露戦争の開戦直前に元老伊藤博文の命を受けて、あらかじめ戦争終結の幹施を工作するために米国へ派遣されていた金子堅太郎(福岡県出身の政治家。当時の米国大統領T・ルーズベルトとハーベード大学で同窓)という人物がいる。金子によれば、大方の予想に反して日本軍が連戦連勝するのを見て驚いた米国人に、「日本の勝利は国民の教育が必ず然らしめるところであろう。日本の教育はどうなっているか、伺いたいと質問された。そこで人金子は、軍人勅論を挙げるとともに、まず一般教育において教育効語がその根底をなしていることを指摘し、求めに応じて前もって翻訳しておいた教育勅語の英訳を披露したところ、多くの米国人から共感と称賛の声が寄せられたという。

日露の和平が成って帰国した金子は、政府によって正式に勅話を翻訳する必要があることを時の牧野伸顕文相に提言、まず菊地大麓(理学者。東大総長・文相などを歴任)・新渡部稲造(思想家・農学者。国際派知識人として活躍、国際連盟事務局次長をつとめる)らによって訳された英訳本が明治四十年(一九〇七)に公にされ、次いで漢訳が成り、さらに同四十二年に至って仏訳・独訳が完成し、在外公館を通して世界各国に配布された。

明治四十一年にロンドンで開催された国際道徳会議においては、その要請に応じて菊池が教育勅語について講演し、好評を博した。こうした事例はほかにもあり、欧米の識者の問での教育勅語の評価は存外に高かったのである。

海外に教育勅語を広めようとする努力のあったことは事実ですし、教育勅語を評価する人たちのいたことも事実です。同時に、その結果がどうだったのかについても冷静に判断する必要があります。

その際、同時進行的に起きていた「黄禍論」にも目を向けなくてはなりません。例えば、アメリカでは1906年のサフランシスコ地震の後に対日感情が悪化し、1907年には移民の制限が行われた後、1913年にはカリフォルニア州で日本人に対する3年以上の土地の貸与が禁止されるなど、「黄禍論」が台頭し具体化されていた事実と教育勅語の海外PRとは関係があるのでしょうか。

 

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2024年3月20日 (水)

#野ばら を #原語で歌ったら ―― #有名人のエッセイ に #取り上げられました――

#野ばら #原語で歌ったら

―― #有名人のエッセイ #取り上げられました――

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#バラの花

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一日中忙しくて、難しいトピックを続けるエネルギーが残っていませんので、軽い話でお茶を濁します。

昔の話になりますが、ある外国の有名人――多分ドイツ大使だったと思いますが――の書かれたエッセイに、私が無名の若者として登場したことがあります。

そのエッセイは、『文芸春秋』か何かメジャーな雑誌の随筆欄に掲載されていました。場所はお堀端だったと思いますが、大使が散歩をしているとすれ違った日本の若者が、美しい声でしかも完璧なドイツ語で「野ばら」を口遊んでいた、という内容です。

当時私は高校生で、ドイツ語を習っていました。その一環として「野ばら」の歌詞をドイツ語で暗記しました。場所は、そのエッセイに出てくる場所だったのですが、その場所で、どこかに行く途中だったと思いますが、そんなことを「仕掛けた」記憶があります。

その日、たまたま向こう側から外国人の男性が歩いてきたので、事によったらドイツ語の分かる人かもしれないと思い、習ったばかりの「野ばら」を歌ってみたのです。自慢する気持ではなく、何となく、通じたら良いなくらいの気分だったのですが、特に反応はなく、そのまますれ違って二人とも歩き続けたということだったのです。

そして、数か月たって、本当に「たまたま」、雑誌のエッセイの中に全く同じ状況が書かれていましたので、これは自分に違いないと、信じ込んでしまいました。

でも、「美しい声」や「完璧な」と書かれていたいうのはこちらの思い込みでしょうし、そもそも、自分のことが有名人のエッセイで取り上げられていたと信じたい願望のなせる業かも知れません。

でも、「野ばら」を暗記していたことは、随分後になって役に立ちました。大変お世話になった方の誕生日に、リクエストに応えて歌うことができたからです。とても喜んで下さった記憶とともに、故人を偲んでいます。

 

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[2024/3/20 人間イライザ]

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2024年3月19日 (火)

#教育勅語 と #御真影 ―― #どう扱われたのか も #一緒に考えないと――

#教育勅語 #御真影

―― #どう扱われたのか #一緒に考えないと――

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#山中恒 ・ #山中典子著 の #間違いだらけの少年H

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教育勅語も軍人勅諭も、「暗記」というより「丸暗記」が基本的には押し付けられました。そして、まず教育勅語に焦点を合わせると、学校行事の大切な節目節目には、最大限の威厳と畏怖の念を伴った行事として、厳粛裡に執り行われました。

その様子を垣間見るためには、「YAHOO!JAPAN知恵袋」の回答の中の「ベストアンサー」が分り易い説明をしてくれています。

そして回答者の「ya1****」さんが最後に触れている、「人間の生き方を示したよい面も含まれていました。」が、教育勅語問題を解く一つのヒントを与えてくれているのです。

恐らく「ya1****」さんにはそのような意図はないだろうと思いますが、それは、最近話題になった広島市長が新人研修のために教育勅語を使ったり、稲田朋美元防衛大臣が教育勅語を正当化したり、日本会議がその普及に熱心だったりするときの「口実」としても使われている言葉だからです。

その口実を受け入れることは、実は軒を貸すことになるのですが、その結果として母屋までというのが、教育勅語推進派の目的だとしてもおかしくはありません。

そんな術中に陥らないために、教育勅語がどう扱われたのか、もう少し詳しく見てみましょう。そのために、私の尊敬する「歴史家」、山中恒さんと山中典子さんに登場して貰います。お二人の書かれた『間違いだらけの少年H』です。副題は「銃後生活史の研究と手引き」で、1999年に勁草書房から出版されています。

この本の53ページから54ページ、そして58ページに興味深い記述があります。まず53から54ページです。

4年生以上の使用する修身教科書の冒頭にはすべてに「教育ニ関スル勅語(一般に「教育勅語」とよばれたが、これは略称)が掲載されていて、4年生になると授業で暗唱させられた。

ばかばかしい話だが、私はいまだに教育勅語が全部暗証できるし、ついこの間までは旧漢字で書き取りもできてしまった。先日も私よりわずか年長の方の話をきいていたら、この方はなんと「ジンム、スイゼイ、アンネイ、イトク、コウショウ、コウアン、コウレイ、コウゲン、カイカ・・・・」とまるで御詠歌でもうたうように、歴代天星の贈り名を百二十三代の大正天主までをみごとにやってのけたのである。教学大旨(明治12=1879)に「仁義忠孝の心は人みなこれあり、しかれどもその幼少のはじめに、その脳髄に感党せしめて培養するにあらざれば、他のものごと、すでに耳に入り、先入主となるときは、後いかんともなすべからず」(引用者註=原文は旧漢字、句読点無し、カタカナ)とあるように、仁義忠考のことは忘れてしまったが、教育勅語の文句だけは経文のように「脳髄に感覚せしめ」られてしまったのである。

さて第1章の年表を見ていただけばわかるが、昭和十五年といえば、昭和十年の天皇神格化の先がけとなった[国体明徴運動」があり、さらには昭和十二年、教育現場における天皇神格視の強化をはかった『国体の本義』編纂配布があり、しかも皇国史観によって、人皇第一代の神武天皇が即位してから二千六百年というので、大々的に「皇紀二千六百年祭」が開催される年にも当たった。それだけに学校教育の現場では子どもたちに、いっそう天皇景仰の臣民感覚をインプリンティングさせるために徹底した天皇崇拝のしつけが行われていたのである。

その「天皇景仰と天皇崇拝」の気持を植え付けるために、大掛かりな式典が挙行されていたのです。山中の58ページに載せられている式次第を見るだけでもその様子が絵見てくるような気がします。

『日本の教育課題1「日の丸」「君が代]と学校』(1995年・佐藤秀夫編・東京法令出版)および『続・現代史資料8・教育―御真影と教育勅語1(前出)には昭和十三(一九三八)年に山形の北村山郡小学校長会が編纂した【三大節明治節其の他儀式次第並に其の作法」というのを紹介している。

もちろんこれは、小学校令施行規則第28条によるもので、各学校の式次第もこれとほぼ同じであったし、私の在籍した小学校・国民学校も全くこれと同じであった。原文はカタカナなので、ひらがなになおして引用しておく。

 

第四 三大節及び明治節拝賀式次第

ー、  職員児童着席

二、  来賓着席

三、  校旗入場(引用者註 = 私の国民学校では、校旗はあらかじめ濱壇の下にかざってあった)

四、  敬礼                                 一同楽器を以て合図

五、  始式の挨拶

六、  開 扉                  一同俯首低頭 学校長奉仕

七、  唱歌  君が代                   二回  一同合唱  楽器伴奏回

八、  御影に対し最敬礼 1、学校長及び職員/2、児童生徒/3、管理者及び参列者

九、  勅語奉読>

一〇、  唱歌勅語奉答    一回  一同合唱  楽器伴奏>

一一、  閉扉                 一同俯首低頭  学校長奉仕

ー二、  学校長誨告  (引用者註=教え告げるの意)

一三、  当日の唱歌  (引用者註=それぞれの式歌)    一回 一同合唱 楽器伴奏

一四、  終式の挨拶

一五、  敬礼                 一同  楽器を以て合図

ー六、  校旗退場

一七、  退場

御真影と教育勅語はいわば一体化された存在であり、教育勅語に「良い面もありました」と言うことは、天皇の存在やその絶対性さえも認めることになるというトリックを御理解頂けたらと思います。そして、一体生かされた御真影と教育勅語は、教員の命を賭けてさえ守らなくてはならない存在だったのです。

例えば、2017.6.10 教育史学会シンポジュウム「教育勅語の何が問題か」(於お茶の水女子大学)での、小股 憲明(大阪芸術大学短期大学部)氏による報告、「教育勅語・御真影をめぐる不敬事件と学校儀式」には、教育勅語についての多面的な解説と、多くの不敬事件や殉職事件の詳細が載せられています。一二を抜き書きしておくと、

  • 明治 40[1907]年 1 月 仙台市県立第一中学校の御真影・教育勅語謄本焼失事件=大友元吉書記の御真影・教育勅語謄本殉職事件~校舎火災の際、取り出そうとして逃げ遅れて殉職。
  • 大正 12[1923]年 9 月 関東大震災時の御真影殉職~関東大震災での殉職者 41 名(神奈川県 27、東京府 13、千葉県 1)。うち東京 13 名中の 8 名までが、「御真影を守護」「御真影奉遷のため奮闘中」の殉職であった。

戦後かなり経った頃でも、少し古い家に行くと、鴨居の上に天皇と皇后の写真が飾られていたことを思い出しますが、「御真影」の意味がハッキリ伝わってきたのは、実に意外な場所からでした。

[当然、続きます]

 

2024年も言葉を大切にして、知的にも情緒的にも誠実さが輝く年にすべく頑張りましょう。

[2024/3/19 人間イライザ]

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2024年3月18日 (月)

#成田悠輔 の #ジェノサイド #提唱 ――#政府 も #一流企業 も その #本質が分っていないのか?――

#成田悠輔 #ジェノサイド  #提唱

――#政府 も #一流企業 その #本質が分っていないのか?――

240317

#高齢者

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成田悠輔 (彼の発言内容の非人道性・犯罪性を強調するために、敢えて敬称は外します) 発言については、一年ほど前に大きく取り上げられました。高齢者の「集団自決」や「集団切腹」以外に、我が国の問題を解決する方法はない、と言いっ切っています。この解決方法を仮に「成田プラン」と呼んでおきましょう。

その後、ニューヨーク・タイムズの取材では、「メタファー」だと言い訳をしていますが、それ以前に彼自身が「メタファーではない」と明言していますので、「メタファーではない」のです。そして子どもたちとの対話では、この趣旨を強調し敷衍しています。「集団自決」ゃ「集団切腹」の提唱に止まらず、煽動をしていると言っても良いのではないでしょうか。

それほど酷い「成田プラン」については、多くのマスコミ報道がありました。大多数の皆さんがその本質を理解したと思っていました。その結果として、成田が発言を撤回し、根本的な反省をして、人権や人間の尊厳、そして未来を創る上での希望の役割等について新たな認識を持つようになることを期待していました。それまでは「猶予」期間とでも言えば良いのでしょうか、公的な役割とは関係ないところにしか登場しないだろうと考えていたのですが、甘過ぎました。

まず、キリンが「集団自決」や「集団切腹」発言のあったことを承知の上で、成田をテレビのコマーシャルに起用したと聞いて、言葉を失いました。それ以上に許せないのは、3月15日に、山本太郎議員の参議院質問の中で明らかになった、政府による成田起用です。政府機関である農水省や財務省が、これまた「集団自決」や「集団切腹」発言を知っていながら、公費で成田を雇っていたのです。

詳しくは山本太郎議員の参議院での追及を御覧下さい。

これは、官民ともに、高齢者の「集団自決」や「集団切腹」を核とする「成田プラン」を、少なくとも容認はしていることを示していることになるのではありませんか。高齢者である私は、それこそ他人事ではないという感覚でとらえました。でも多くの皆さんにとっては、「集団自決」とか「集団切腹」という言葉自体が抽象的過ぎて、その実体が伝わらなかったのかもしれません。

「成田プラン」の中身をより身近に感じて頂く上で、一年前の私のブログ記事が少しはお役に立てると思いますので、簡単な紹介とリンクを貼り付けます。(なお、各記事中に貼り付けてあるリンクの中には削除されてしまっているものもあります。この機会に復活して貰えると良いのですが。)

(1)  昨2023年2月23日には「集団自決や集団切腹のリアルな記憶を大切に」というタイトルで、成田発言の概要と、太平洋戦争や赤穂浪士という現実に起きた集団自決や切腹を思い起こすことの重要性を提起しました。

(2)  その翌日24日には、「立ち止まって考え始めたら、怒りで震えが止まらなくなりました」と題して、小学生を相手に成田が提案した「自動死亡装置」についての思考実験をしてみました。(リンクを貼った『女性自身』のサイトはもう削除されていました。)

(3)  さらに2月28日には、「1,000万人もの人をどう殺すのですか?」というタイトルで、もう一つの思考実験をしてみました。そもそもこんな提案は憲法違反ではないかという問題提起もしています。

今回はそれにもう一点付け加えて、成田発言が国際的にも糾弾されるべき事柄である点を指摘しておきます。昨今、ウクライナやガザでの戦争行為について、「ジェノサイド」という言葉が盛んに使われています。もっとも日本はこの条約を批准していませんので、関心は低いのかもしれません。

成田提案の「高齢者の集団自決、集団切腹しかないんじゃないか。(略) 僕はこれを大真面目に言っていて、(略) これがこの国の明らかな問題だ。」という提案内容は、「ジェノサイド」の勧めです。

まず、「ジェノサイド」の定義を振り返りましょう。ジェノサイド罪の防止と処罰に関する条約(ジェノサイド条約) の第2条です。(国連広報センターのホームページから)

この条約において、ジェノサイドとは、国民的、民族的、人種的または宗教的な集団の全部または一部を、それ自体として破壊する意図をもって行われる以下のいずれかの行為を指す。

a. 集団の構成員を殺害すること、

b. 集団の構成員に重大な身体的または精神的な危害を加えること、

c. 集団にその全部または一部の身体的破壊をもたらすよう意図した生活条件を故意に課すこと、

d. 集団内の出生を妨げることを意図した措置を課すこと、

            e. 集団の子どもを他の集団に強制的に移すこと。

成田プランの対象は、我が国の高齢者ですので、「国民的集団」の「一部」という範疇に入ります。そして、「それ自体として破壊する意図」は、明白です。しかもその「破壊」の内容は「自決」、「切腹」ですから、a.またはc.を満たすことも明らかです。

ある年齢に達すると、自動的に死亡する装置を埋め込む、というのは、a.に該当するでしょうし、ある年齢に達すると、崖から飛び降りる慣習を作るのは、c.でしょう。

ジェノサイド条約では、ある国が自国民に対してこのような行為を取ることは想定されていないのかもしれませんが、農水省や財務省から始まって政府全体がこんな考え方に汚染されてしまったと、これも大胆な思考実験ですが、考えると、国際機関に訴える可能性も出てきますので、ジェノサイドかどうかも検討しておく必要があるのです。少なくとも、ジェノサイドの定義に当てはまるほどの非人道的行動を容認してはならないはずです。そしてそのような行為を公にし、子どもたちにまで広めている行為も看過できません。

サントリーが、桜を見る会に酒類を無償提供していたことが明るみに出て、サントリー製品は使いたくないと感じるようになり、今回のことでキリンも駄目。ことによると、日本製のビールは飲めないというようなことになったら悲劇です。せめて、これほど酷い言説に対しての配慮をするくらいの良識は、利益追求を至上目的とする営利企業にも持っていて欲しいと思うのは、甘いのでしょうか。

そして少なくとも、キリンはコマーシャルを止めたのですから、農水省や財務省もそれと同じレベルの対応くらいはしないと、憲法15条違反になります。「全体」の中には、高齢者も含まれるのですから。

 

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[2024/3/18 人間イライザ]

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2024年3月17日 (日)

#何もしない の #同義語 が #爆発的増加 ――#全身全霊 #火の玉 #命がけ――

#何もしない #同義語 #爆発的増加

――#全身全霊 #火の玉 #命がけ――

240316

私の #同義語辞書

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昨年11月15日には、「『ボキャ貧』が政治劣化を招く」と題して、政治を批判する言葉が十分にその力を発揮していないことを嘆きました。趣旨は同じなのですが、今回は、岸田政権と岸田総理そして自民党等の権力者たちが、如何に日本語を豊かにしているのか、褒めたいと考えています。

「ボキャ貧」の反対で、日本語を豊かにしているという主張ですが、これでも「多様性」を尊重している積りです。

かつて、ある文化の特徴を知るには、その文化で大切にされていることを表す単語がいくつあるのかが、重要な指標になる、という何方か専門家の知識が披露されたことがあり、一時それが通説として受け行けられていました。

その例として、エスキモー (当時はこの単語が使われていました。「イヌイット」を使うべきなのかもしれませんが、歴史的な文脈もありますので、ここでは昔の表現を使います) の言葉には、「雪」をあらわす単語が何百だかあるという説明が付けられていました。

実は、それほどの数もなく、この説は今では採用されていませんし、他の言語での雪の表現の方が多いことなども知られています。

とは言え、今回は、敢えて葬り去られた「通説」に従って、現在の日本の政治を見てみたいと思います。

岸田政権になってから、次のような表現が何度も現れてその度に私たちは「度肝を抜かれました」。毎日のように使う言葉ではない、という認識が先立ったからです。(ニュースソースはマスコミ各紙です。ネットで簡単に調べられますので、URLは省略します。) でも、それとは正反対の解釈も可能だということを今回は披露します。

  • 政権発足から一年経った2022年10月4日には、「これからも全身全霊で務めを果たすべく努力を続けていきたい」
  • 2023年10月20日には、臨時国会について、「『明日は今日より必ず良くなる』と皆さんが実感できる日本を作るために、全身全霊で取り組んでいきたい」
  • 2024213日、在任日数が歴代首相で10位に並んだことを受けて、「先送りできない課題に全身全霊で取り組む毎日だ」
  • 20231213日には、「国民の信頼回復のため火の玉となって先頭に立つ」
  • そして昨2024年3月16日には、「命がけで党再生に努力をしていきたい」

この記事も同じことの繰り返しなのですが、お断りしておきます。昨年12月14日の「人魂」もお読み下さい。簡単にまとめると、爆発的に増加している同じ趣旨の言葉について、私の「同義語辞書」には次のようなエントリーが作れそうです。

「何もしない」という事実を述べる言葉として、日本社会には「多様な」表現があり、その例としてリーダーたちが最近使っているのは、「全身全霊」、「火の玉」、「命がけ」などである。

なお、この言葉の類語として近い内に恐らく使われるであろう候補としては、「天地神明に誓って」とか「一意専心」などがある。

日本社会にとって「大切な」価値である、「何もしない」を表す言葉がどんどん増えているのです。こうして日本文化は日に日に豊かになっています。もう一つ、追加のエントリーです。

「多様性」とは、人間はじめ生きとし生けるものの命を尊び、生命体一つ一つの個体としての尊厳を表す言葉だった。最近は、自らの破廉恥、非常識な行動を反省するのではなく、それを糊塗して無きものとして扱うための隠れ蓑としても使われている。このような状況で「多様性」を持ち出すこと自体も顰蹙を買っている。

 

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[2024/3/17 人間イライザ]

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2024年3月16日 (土)

#大事なことは #暗記させる ―― #軍人勅諭 と #教育勅語――

#大事なことは #暗記させる

―― #軍人勅諭 #教育勅語――

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#教育勅語

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日本社会がどのような価値を重視してきたのかを確定するために、できるだけ客観的な基準を設けて考えたいと思っています。日本社会が、憲法より明治時代に作られた刑法や民法を優先してきたと判断するためには、最高裁の判決という客観的な事実を根拠にしました。

そのことだけからでも十分に推測はできるのですが、その他の視点も採用して、より説得力のある考察にしたいと思います。

それは、一人の人間が考えたり行動したりするときの根幹と言えば良いのか、原点と呼べば良いのか、とにかく私たちの存在の基礎である「価値」を私たちはどう身に付けているのか、という視点です。

身に付いているとは、その価値を「内面化」していることだと言い換えておきましょう。例えば、自転車の運転ですが、最初はお父さんやお母さんに支えて貰ってようやく前に進める状態から始まって、自分だけで乗れるようになり、やがて、頭では何も考えていなくても「自然に」乗れるようになるのですが、これが「内面化」です。

自転車に乗るための一連の動作は、普通、一度内面化されると忘れることがない点も重要です。

身体的な内面化ではなく、知的な内面化では、「数学の問題が解ける」という例を挙げておきましょう。幾何学の問題では、多くの皆さんも経験していらっしゃることだと思いますが、なかなか解けない問題を解こうとして、例えば補助線を引きます。その途端に、答が「分った」という経験です。

これは、幾何学の問題、つまり図形や角度などの情報が頭の中で「内面化」されて、一連の鎖としての考えの集まりが、一つの、いわば「全体像」として頭の中に現れたことを意味します。

数学の問題は日常的に、私たちの目の前にある訳ではありませんので、何時か忘れてしまいますが、問題が解けてから当分の間は、同じ問題が出されれば、ほとんど考えることなく、その回答が頭に浮かぶはずです。

以上のことから、為政者が、自分たちの支配対象に教え込みたい何かがあったとすると、どうするのかということはもうお分りですね。その「何か」を覚え込ませる、暗記させるのが普通です。

そして明治時代に、ほとんどの「臣民」に記憶させたのが、軍人勅諭と教育勅語です。軍人勅諭は、軍人としての心得を天皇が直接臣民に与えたもので、1982年 (明治15年)に「下賜」されています。教育勅語は、1890年 (明治23年)に、教育の基本方針・国民道徳の基準を示すために公表された天皇の言葉です。

明治憲法の発布が1889年 (明治22年)、旧・刑法が施行されたのが1882年 (明治15年)、民法が施行されたのが1898年 (明治31年)ですから、この時期に我が国の基本的な「価値」は、成文としてまとめられたのです。

詳しくは、稿を改めますが、軍人勅諭は軍人に暗記させ、教育勅語は「臣民」に暗記させることが、国の方針を国民・市民に「内面化」させる施策の一つの柱になりました。

 

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2024年3月15日 (金)

#赤信号みんなで渡れば怖くない? ―― 春闘満額回答 を 見ての #率直な #感想です――

#赤信号みんなで渡れば怖くない?

―― 春闘満額回答 見ての #率直な #感想です――

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#もっと早く #満額回答 #できたでしょ?

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一週間も前、3月7日には「20年、30年というスパンで賃金は上がらず、ジェンダー・ギャップも世界最低の線を彷徨っていることに象徴される我が国の政治状況に対して、革命はもとよりストライキも起らない不思議さをどう理解し、それをどう変えて行くのか、ということを問題にしています」と書きました。

そして今や、春闘では「満額回答」「要求を上回る額」等々が当り前になりました。「労働者」からは当然、大歓迎すべき事件です。中小や零細企業ではどうなるのか、そして非正規の人たちの賃上げも実現するのかといった点は心配ですが、この一大転換にはビックリです。一体どうなっているのでしょうか。

分り易い説明を、京都大学の藤井聡先生が2021年にしてくれています。「会社の利益は増えても『日本人の給料』が20年間増えなかった『本当の理由』」(現代ビジネス)です。

これまで、儲かる会社もあり儲からなかった会社もあったでしょうに、20年間、全く賃上げをしてこなかった企業が、一斉に「右向け右」の号令に従って史上例のない賃上げをする、という「団体行動」に恐ろしささえ感じてしまいます。しかも、その理由たるや、「人件費をコストと見做すのは間違い」と昨日まで言ってきたことを全面否定して、その理由も説明しないのですから、笑ってしまいます。でもこれが日本社会の偽りのない姿です。しかも、戦前戦中の(そして戦後も続いた)社会のあり方と重なって見えるのは、私の偏見のせいではなさそうです。

となると、元凶は経団連とでも言いたくなるのですが、このブログで問題にしてきたのは、どのような考え方なのかという中身です。価値観とでも言って良いでしょう。しかも、できれば文書といった形できちんと残っているものを探してきています。

答は教育勅語と軍人勅諭なのですが、今回は、最近の春闘の回答に関連したデータだけを再掲しておきましょう。今年ではなく、もっと早く賃上げができた、という証拠ですし、それをしてこなかった責任を問う根拠にもなっています。

以前に写メしておいた画像を貼り付けます。データは財務省ですが、どの統計書から引用したのか、記録が分らなくなってしまっています。お分りの方がいらっしゃれば、御教示下さい。

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内部留保は増え続けていたのです。

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法人税率も下がり続けていました。

 

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[2024/3/15 人間イライザ]

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2024年3月14日 (木)

#家庭菜園 を #広げます ――#耕運機 で #耕しました――

#家庭菜園 #広げます

――#耕運機 #耕しました――

240314

広さは今までと同じくらいはあります

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最高裁の判決について、様々な問題点を指摘していますし、日本社会が何にこだわっているのか、そしてその結果としての今の政治をどう改革すべきなのかを考えています。その根っこに教育勅語のあることも分り易くお伝えする積りです。

下手な考え休むに似たり、という言葉もありますが、お天気の良い日には外に出て畑の手入れをすることも、頭を休めて新たな視点を得る上では役立ちます。耕運機も買いましたので、作業も楽になりました。

ということで、今までは放置してあった一角を耕して、新たに作物を作ることにしました。ジャガイモが候補の一つですが、二三日内に決めて、ホームセンターで種芋を買わなくてはなりません。

御近所さんの作業の進み方も参考にしながら、今年の菜園計画を立てています。

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[2024/3/14 人間イライザ]

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2024年3月13日 (水)

#AsIO3.sys エラー の #解決法 ――#ArmouryCrate を #インストール して #sfc/scannow を実行するだけ――

#AsIO3.sys エラー #解決法

――#ArmouryCrate #インストール して #sfc/scannow を実行するだけ――

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起動直後に出ていたプロンプト

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デスクトップ・コンピュータはずっと自作です。Appleではないのはそのせいです。そしてマザーボードはASUS。発音についてはまた一つ議論が必要ですが、それは置いておいて、最近パソコンを起動すると、変なプロンプトが出るようになってしまいました。それが最初の画像です。

ネットで調べてみると、ASUSの機械にインストールされているArmoury Crateというソフトが関わっているようなのですが、いくつかの日本語サイトで「解決策」として提示されている方法では上手く行きませんでした。

ところが、一昨日、YouTubeのサイトで、MDTechVideos を見付けて、そのアドバイス通りに操作したら、見事、問題が解決しました。

中身は、二つのステップですので、もしこれと同じエラーでイライラしている方がいらっしゃれば、参考にして頂けると思い、翻訳・短縮版をお届けします。

最初に、ASUSのサイトに入って、Armoury Crateをダウンロードした後解凍し、プロンプトに従ってインストールします。ダウンロードサイトはこちらです。

インストールが終ったら、Armoury Crateを閉じて、コマンドプロンプトを管理者として実行します。手順は、[Windows] + [R]キーを押して、出てきた枠の中に[cmd]と入力、そして[Shift] + [Control] + [Enter] キーを同時に押して、次の画面で、C:\Windows\System32>の次に、sfc/scannow と入力して[Enter]を押せばお終いです。

問題があれば、自動的に修復してくれますので、PCを再起動すれば、問題は解決しているはずです。

以前、引き戸が重くなった時の対処法を見付けて上手く行った報告をしたことがありましたが、それを見て、「自分もこれで問題が解決した」と感謝されたことがありますので、何方かのお役に立てればと思ってアップした次第です。「良いことは拡散する」主義ですので。

 

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[2024/3/13 人間イライザ]

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2024年3月12日 (火)

#日本の伝統 は #17条の憲法 から #続いている? ――#教育勅語 と #五カ条の御誓文 となると #17条憲法も――

#日本の伝統 #17条の憲法 から #続いている?

――#教育勅語 #五カ条の御誓文 となると #17条憲法も――

240309

#聖徳太子

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最高裁の判決について、様々な問題点を指摘していますが、その根っこには教育勅語のあることを明らかにしようとしています。

大切なのは、それだけが問題なのではなく、より広い文脈で新憲法が守られない理由を理解することです。となると、五カ条の御誓文も視野に入ってきます。その理由は追って説明しますが、となると当然、17条の憲法ということになますね。

今日はチョッと寄り道をしたいと思います。半分は呆れながら半分は冷静に、そして少しユーモアを加えてこの稿をお読み頂ければ幸いです。

最近、17条の憲法を読んだという方は少ないと思いますが、今日改めて読んでみました。その中で、思わず笑ってしまった条文を御披露します。第5条です。

役人たちは飲み食いの貪りをやめ、物質的な欲をすてて、人民の訴訟を明白に裁かなければならない。人民のなす訴えは、一日に千軒にも及ぶほど多くあるものである。一日でさえそうであるのに、まして一年なり二年なりと、年を重ねてゆくならば、その数は測り知れないほど多くなる。このごろのありさまを見ると、訴訟を取り扱う役人たちは私利私欲を図るのがあたりまえとなって、賄賂を取って当事者の言い分をきいて、裁きをつけてしまう。だから財産のある人の訴えは、石を水の中に入れるようにたやすく目的を達成し、反対に貧乏な人の訴えは、水を石に投げかけるように、とても聴き入れられない。こういうわけであるから、貧乏人は何をたよりにしてよいのか、さっぱりわからなくなってしまう。こんなことでは、君に使える官たる者の道が欠けてくるのである。

「役人」を「政治家」に読み替えると、昨今の我が国の政治報道そのままではありませんか。ということは、我が国の政治は、17条憲法の時代から今まで、1400年以上も変らずに、同じような腐敗が続いている、ということなのでしょうか。

人間の本質は変わらない、そして理想を求める姿勢も変わらない、だから----、ということにしてしまっても良いのですが、皆さんはどんな感想を持たれたでしょうか。

 

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[2024/3/10 人間イライザ]

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2024年3月11日 (月)

#防衛省 を #防災省に ! ――#3月11日 に再度 #アピールします――

#防衛省 #防災省に !

――#311 に再度 #アピールします――

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#防衛省を防災省に

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東日本大震災から13年経ちましたが、復興までにはまだまだ時間が掛ります。そのためには、我が国全体が総力を挙げてことに当らなくてはならない時期です。東日本の復興がまだ道半ばというこんな時期に、元日の能登半島地震による大きな被害が生じました。被災者の皆さんや被災地の自治体、そしてその他の皆さんが「当事者」として頑張っている中、いくらやっているふりをしてしても、政府には何をすべきかの明確なビジョンもない上に、当座の対策としてももなす術がない状態です。

しかし、自然災害はこれからもより大きな被害をもたらすことは明らかです。政府が今なすべきことは、レトリックは置いておいて、本気で自然災害対策に当ることです。

何故、そんなことが必要なのか、「忘れ易い」私たちの記憶をリフレッシュすることで、明らかになります。例えば、もう3年前になりますが、202173日には熱海で土石流災害が起きて28人の方が亡くなっています。2020年には、熊本での豪雨災害で、熊本だけで67人の方が亡くなっています。

これは、2016年の熊本地震とは違う被害です。そちらも大変でした。熊本地震による死者数は276人だったからです。

講演の原稿作りのために、2018年の記憶を辿ったことがあるのですが、その2018年に起きた災害を並べてみると、

(i) 123日の草津白根山の噴火、

(ii) 死者の出た2月の北陸豪雪をはじめとする各地での豪雪、

(iii) 3月と5月の霧島山新燃岳と桜島の噴火 

(iv) 618日、死者4名、損壊家屋は3万戸近くになった大阪北部地震、

(v) そして死者は200名を超えるであろう、7月の西日本豪雨と、半年ちょっとで大きな災害が目白押しです。

こうした数字を前に、防衛費の倍増や3倍の数の原発を設置等、見当違いの出費だけは増え、同時に「裏金」問題などが生じて、私たちはこちらの金額のその大きさについても忘れ勝ちになります。ことによると意図的な情報操作かも知れませんが、いまこそ自然災害を重視しなくてはならない時期なのだということは再度強調しておきます。

特に、自然災害の死者は毎年確実に私たちの目の前に現れているのに反して、しかも近未来にはとんでもない災害が襲ってくるシナリオが政府から流されているのに、戦争についての可能性ばかりが強調されています。

しかし、現実を見てみましょう。日本が外国から攻められた、あるいは戦争で死者が出たという数字は「0」だという歴史が現実なのです。以下、このブログで何回も取り上げてきた提案を繰り返しますが、実現するまで何度でも皆さんとともに危機感を共有して行きたいと思います。

再度、比較の数字を掲げておきます。

  • 2000年から2019年までの自然災害死者数は23,991です。
  • そして推計ですが、1945年から2019年までの自然災害死者数は90万人です。
  • 対して、1945年から2019年までの戦後75年間、外国からの侵略・外国との戦争で死んだ日本人の数は0です。

災害市議性を示すための数字として、大変重い死者数に注目すると、1945年以来今日まで戦争で命を落した日本人は「ゼロ」です。そして、戦後の同じ時期に、自然災害によって亡くなった日本人の数は、100万人近くになるという事実から、そして恐らく今年も自然災害によって必ず犠牲者が発生することを考えると、今、私たちが懸念し、政府がお金を投じなくてはならないのは、自然災害対策なのではないでしょうか。

Photo_20240310225601

それはこのグラフから明らかです。災害があると予算は増えますが、「喉元過ぎれば熱さ忘れる」で、自然災害による被害を減らすための、つまり「予防」のための予算はないのです。

予算が出てこない理由の一つは、「防災」を専門にする固定したお役所がないからです。それは、「防衛省」を「防災省」に変えることで解消されます。防災省を創設するメリットを、防衛省との比較でみてみましょう。

Photo_20240310225602

「予算」のカッコ内で言及してるグラフは、その前のグラフのことです。この比較からの結論は、防衛省を防災省に変えても、多くのメリットはあってもデメリットはまず考えられないということです。

ここで「誤解」を避けるための説明ですが、自然災害そのものは「予防」できません。でもその結果犠牲になる命や財産は減らすことができるのです。例えば、急傾斜地にある住宅を安全なところに移設するとか、洪水の起きやすい河川の流れを変える、危険な盛土を移動する、避難訓練を徹底する等、予算を付ければ実行できるそして効果のある施策は山とあるのです。

つまり、今の時点で「倍増」すべきなのは、「軍事費」ではなく、「防災費」なのです。それは、国民の命を確実に守る「現実的」な選択です。

「憲法を改正して自衛隊を憲法内に明記する」などという、「改憲先にありき」という論法ではなく、日本国民の命を救うのが国家の最優先義務だという憲法の規定からの結論は、「防衛省」を「防災省」に変えることで全て「解決」という簡単・明解な素晴らしいシナリオです。

 

2024年も健康に留意しつつ、少しでも良い年にすべく頑張りましょう。

[2024/3/11 人間イライザ]

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2024年3月10日 (日)

#1945年3月10日 の #東京空襲 は #ジェノサイドだった ――#一晩 に #10万人が虐殺された日 #忘れられた日――

#1945310 #東京空襲 #ジェノサイドだった

――#一晩 #10万人が虐殺された日 #忘れられた日――

240310

#我が家は焼け出されました

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最高裁の判決の根っこを確定して、これからの時代への影響力を減らしたいという作業をしていますが、今日は3月10日ですので、1945年のその日の意味を振り返りましょう。

他人人に、「東京大空襲」と呼ばれますが、それは「虐殺」でした。今の言葉ならジェノサイドと言っても良いかもしれません。、罪のない子供や女性・高齢者が空爆で一晩に約10万人も殺されたのです。その全ては「民間人」でした。

B29の編隊329機が襲来して、木造家屋を焼き尽くす最も効果的な「焼夷弾」を約2時間の内に33万発も落して、東京の中心部を焼き払ったのです。それも、深川地域を中心に、香華対象の地域の外辺部にまず焼夷弾を落し、火事を起して、その内側に住んでいる人は外に逃げられないようにしてから、中心部を爆撃するという「皆殺し」戦法を取ったのです。カーペット・ボミングとも呼ばれました。そして、この作戦を計画、実行、指揮したのが、カーチス・ルメイ司令官でした。[出典はWikipedia https://www.wikiwand.com/ja/%E3%82%AB%E3%83%BC%E3%83%81%E3%82%B9%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%83%A1%E3%82%A4]

次に別のサイトからルメイの回想録の中の言葉を引用しておきましょう。私も他の他の文献でも読んだ記憶があるのですが、それについては確実な出典が見付かり次第アップします。 [出典はユダヤ館 「ヒロシマ・長崎への原爆投下と東京大空襲について」http://www1.s-cat.ne.jp/0123/Jew_ronkou/america/atomic_bomb_holocaust.html]

さて戦後、カーチス・ルメイは回想記の中で次のように述べた。

「私は日本の民間人を殺したのではない。 日本の軍需工場を破壊したのだ。 日本の都市の民家は全て軍需工場だった。 ある家がボルトを作り、隣の家がナットを作り、向かいの家がワッシャを作っていた。 木と紙でできた民家の一軒一軒が、全て我々を攻撃する武器の工場になっていたのだ。 女も子供も老人も全て戦闘員だった。 これをやっつけて何が悪いのか」。

 カーチス・ルメイは東京大空襲を初めとする無差別爆撃、及び、広島・長崎への原爆投下の直接の責任者であった。 しかし、1964126日、日本政府はカーチス・ルメイに勲一等旭日大綬章を授与した。 授与理由は「カーチス・ルメイは日本の航空自衛隊の育成に協力した」というものである。 この時の総理大臣は後にノーベル平和賞を受賞した佐藤栄作である。

ウクライナもガザも大変非人道的な状況が続いています。一刻も早く戦闘を止めさせなくては、ウクライナでもガザ地区でも犠牲者は日に日に数を増やしています。

それほどの悲劇を前にして世界は憤っています。それは当然です。でも、1945年3が11日には、世界は東京に関心を持ちませんでした。一晩に非戦闘員が10万人も殺されたことが、世界的にはほとんど知られてはいなかった上、知っていた人たちの間から強い抗議の声が上がることもありませんでした。

ウクライナやガザの戦闘を止めさせる努力とともに、1945年3月10日についての私たちの記憶も大切にして、このようなジェノサイドが繰り返されることのないよう、私たちが未来に向けた対応プラン、再発予防計画を立てておかなくてはなりません。

 

2024年も健康に留意しつつ、少しでも良い年にすべく頑張りましょう。

[2024/3/10 人間イライザ]

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2024年3月 9日 (土)

#最高裁 は #最高法規 を #超えた存在か? ――#世論 が #憲法解釈 を #左右して良いのか?――

#最高裁 #最高法規 #超えた存在か?

――#世論 #憲法解釈 #左右して良いのか?――

240308

#最高裁 は 何時から #世論調査 の #権威になったのか?

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前回は、婚外子差別について、最高裁判所が5回も合憲であるという判断を示した後、2013年になってようやく「違憲」であることを認めたことを取り上げました。その続きです。

それと全く同じパターンが8日には繰り返されました。8日が国際女性デーにちなんで、「夫婦別姓の選択肢を認めないのは個人の尊重などを求める憲法に違反する」ことを掲げて、12人の勇気ある市民が東京地裁と札幌地裁に提訴したのです。しかも、今の制度である、「強制的夫婦同姓制度」が合憲であるという最高裁判決も複数回出されているのです。

死刑制度は、旧・刑法が定められる以前から存在していましたが、夫婦同姓は、1898年施行の民法で初めて法律的に強制されるようになりました。その点に注目すると、私の主張している「明治刑法や明治民法を守るために、今の憲法が蔑ろにされている」ことを裏付けていると言って良いでしょう。

この例示も含めて、私が問題にしているのは最高裁の果している役割です。婚外子に戻ると、「本人が全くコントロールできない出生の事情を理由に、法的な差別を行ってはいけない」のです。そんな差別が(差別を禁じている)憲法14条違反であることは誰にも分ります。

にもかかわらず、最高裁が複数回にわたり差別が合憲だと言い続け、最後には行けであることを認めたのですが、その理由をWikiwandに求めると、「戦後の家族の形が国民意識が多様化し、諸外国でも差別撤廃が実現していることなどを総合的に考慮し、「子が自ら選択・修正できない事柄を理由として、その子に不利益を及ぼすことは許されないという考えが確立されてきた」と指摘し」たからなのだそうです。

この点について、指摘しておきたいことがいくつかあります。まず、当然の権利が認められずに苦しんだり損をしたりしながら、自らの権利を守るために、諦めずに法廷で問題提起をしてきた婚外子の皆さんや、支援者の皆さんの勇気と遵法精神に敬意を表します。それは憲法12条の義務を果すという私たちの義務を憲法の精神通りに実行したことでもあるのです。

12この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。(後略)

それと対照的に、5回も婚外子差別が合憲だと断定した最高裁には御咎めがないのでしょうか。被害者の側から訴訟を起すといった形ではなくても、最高裁の側で謝罪するなり、被害を受けた人たちに対する一言があっても良いように思うのですが、そのような常識は通用しないほどの意味を、憲法81条(最高裁が法令についての終審裁判所であることを規定)は持っているのでしょうか。

これに関してもう一言付け加えると、81条で最高裁判所に与えられている権限は、98条の規定している、憲法が「最高法規」であることを超えてはいけないはずなのです。つまり、14条の差別禁止条項を無視して、婚外子であれ他の存在であれ、「差別が合憲だ」と憲法に反した判断を下してはいけないはずなのです。

特に、2013年の最高裁判決では、結局のところ、世界の情勢や国内世論が婚外子差別を許さない雰囲気になってきたから差別は違憲にする、と言っているに等しいのですが、これも問題です。

憲法11条と97条では、基本的人権が永久に保障された権利であること、人類が長い間掛って手にしたものであり、侵すことの出ない権利だと宣言しているのですから、それを侵しても良いということを世論を理由に主張することなどできないはずです。

さらに、仮に最高裁が世論の動きに従った決定をすることが許されたとしても問題は残ります。何時から最高裁は、正確に世論を判断する能力を獲得したのでしょうか。世論調査機関を子会社化したとでも言うのでしょうか。恐れ多くも人権についての判断をするに当っては、誰にもとまでは言いませんが、多くの人にとって説得力のある客観的時事を元にして「このように世論が変ったので、それを元に判断する」という結論を示すべきなのではないでしょうか。

 

こう書いて来る内に、死刑について、また最高裁の他の判決について、言いたいことが溢れ出て来てしまいました。少し整理して続けます。

 

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[2024/3/9 人間イライザ]

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2024年3月 8日 (金)

#憲法より #民法を #優先する #最高裁 ―― #婚外子差別 には #5回も #合憲判決を出しています――

#憲法より  #民法を #優先する #最高裁

―― #婚外子差別 には #5回も #合憲判決を出しています――

240307

#2013年 に ようやく #違憲 になりました。その #理屈は #小学生にも分ります。

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前回のタイトルは分り難くなってしまいましたが、明治時代に作られた刑法をそのまま受け継ぐことが、新憲法の遵守より優先されていることを強調したかったのです。今回は、刑法だけではなく、最高裁は、民法も憲法より優先していることを指摘しておきましょう。

その例として、婚外子の人権が無視されてきたことを挙げておきましょう。同じ趣旨のことを4年前にも取り上げていますのでそこからの引用ですが、今回は『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』の改訂版の一部としてどの活用するのかが目的ですので、再度お付き合い下さい。

前回は、1880年に原型、特に刑罰の概要が出来上がった刑法の価値観が、昭和23年の死刑についての最高裁判決のバックボーンであることを確認しました。何故、その姿勢が今でも貫き通されているのかを最終的には解明して、その対策を考えなくてはいけないのですが、今回はその前の段階として、民法も憲法より優先されていることを確認しておきましょう。

一つ注意しておくと、「旧民法」として知られている法律は、1898年に施行されています。新憲法の制定に従って、特に家族法の部分が大改正されていますので、改正後の法律を「民法」と呼びますが、ここで問題にしたいのは、改正されずに残ったところにこそ、刑法の優先と同じ価値観が残っていることです。それは、日本式の家族制度を優先するという考え方です。

日本式の家族制度を保存して行こうという考え方は、当然、民法の骨組みに使われています。たとえば、婚外子 (かつては非嫡出子と呼ばれた) は、相続に当って嫡出子の半分しか遺産を相続できないという差別的な民法900条があったのですが、これは新憲法施行の際には全く顧みられませんでした。

それから60年以上経って、2013年に、この規定が制定されてから115年振りにようやく削除されたのです。「家長」が妻以外の女性との間にもうけた子どもに対する家族の憎しみ等の感情もこの差別を助長していたのですが、「家長」は非難の対象にはならず、親を選べない子どもの人権が認められないという状態が戦後60年以上続いていたのです。

それだけではなく、婚外子の人権を守るために、何度か訴訟が起こされ、婚外子差別は違憲であるという主張が行われたにもかかわらず、そのたびに最高裁は、この差別は「合憲」だという判断を下していたのです。つまり、憲法より優先される価値や世界観が日本社会の動きを左右していたことが明らかに示されているのです。

1995年には、最高裁の大法廷が「合憲」判決を出し、その後、2000年、2003年、2004年、2009年と、頑なに5回も回を重ねて、差別を合憲だと言い張ってきたのです。

その理由は概ね次の通りです。

日本の婚姻制度は法律婚を建前としている。そして相続権のある子どもとは、その法律婚の中で生まれた子どもを意味することが当然である。しかしながら、婚外子の存在することも事実であり、法律婚を尊重する立場と、婚外子の権利を保護する立場を調整しなくてはならない。その結果が、相続額を「半分」にするということであり、その違いは「合理的理由のない差別」とは言えない――というものです。

それに対する反論はストレートで、誰にでも分ります。つまり、出生の事情は本人が全くコントロールできないことであり、それを理由に法的な差別の行われるのは、(差別を禁じている)憲法14条違反である。

死刑が違憲であることの「証明」と最高裁の判決の比較をした際にも同じ理由を掲げましたが、専門家がその権威に依って正当化することより、小学生が理解できて、その結果、説明することで納得できる事柄の方が真実である可能性は段違いに高いのです。

(ここで「小学生」にしたのは、知的な能力と発達段階を考慮して、論理的な議論のできる最低年齢はこのくらいかな、という意味での言葉です。詳しく条件化すると飛んでもない手間が掛かりますので。)

 

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[2024/3/8 人間イライザ]

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2024年3月 7日 (木)

#昭和23年 #最高裁判決 は #刑法を受け継いでいる ―― #1880年 に #時を移して #考えると良く分ります――

#昭和23  #最高裁判決 #刑法を受け継いでいる

―― #1880 #時を移して #考えると良く分ります――

240306

#憲法 は 変っても #刑法 は #そのまま に!

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「憲法99条は法的義務ではない」という主張が、ほとんどの人には知られないまま静かに日本社会全体に広まり、公権力や大きな経済力を持つ人々の間では「法治国家」とも思えないような腐敗が進み社会や政治の劣化は止まるところを知らない。片や、もう一方ではそんな底流には気付かず、腐敗については慨嘆しつつも、半ば以上諦めてしまっている人が大多数を占めている――誇張とともに単純化して描くとこれが日本の現状だと思われます。大変悲観的な状況に見えるのですが、それを変えるために何ができるのかを考えています。

これを言い換えると、20年、30年というスパンで賃金は上がらず、ジェンダー・ギャップも世界最低の線を彷徨っていることに象徴される我が国の政治状況に対して、革命はもとよりストライキも起らない不思議さをどう理解し、それをどう変えて行くのか、ということを問題にしています。

一つの国としてあるいは社会として、憲法以上に大切な「何か」、つまり価値なり存在があり、それを守るために自然に行動してしまうことになっていると考えると、今の日本の状況に当てはまるようにも感じられます。となると、その「何か」は何なのでしょうか。

このような問題意識は、「数学書として憲法を読む」ことから生まれたのですが、その原因に近付く上でも、「素直に憲法を読む」姿勢から得られる視点が役立ちます。

その結果の一つとして、「憲法マジック」、つまり憲法には「○○である」と書いてあることを、最高裁判所の判決では「○○ではない」と判断している事例を分析して、その背景や歴史、そしてその目的等を理解するという作業に至りました。

憲法マジックの典型は、死刑です。そこに焦点を合わせて、「何か」を探って行きましょう。

憲法では複数の条項の簡単な論理的帰結として、死刑は禁止されていることが分ります。でも昭和23年の最高裁の判決では、死刑は合憲なのです。それが如何に非論理的なのか、また常識とはかけ離れているのかを『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』では詳しく説明しましたし、ブログでも何回かに分けて、アップしました。

今回は、その一連の考察を元に、「時代錯誤」ではないかとまで思った記述から学べる点を取り上げます。最高裁判決の最後の部分です。

将来若し死刑について火あぶり,はりつけ,さらし首,釜ゆでの刑のごとき残虐な執行方法を定める法律が制定されたとするならば,その法律こそは,まさに憲法第36条に違反するものというべきである。前述のごとくであるから,死刑そのものをもつて残虐な刑罰と解し,刑法死刑の規定を憲法違反とする弁護人の論旨は,理由なきものといわねばならぬ。

本ブログの2月12日の説明を繰り返すと、

さて、ここで引っ掛かるのは「前述のごとくであるから,死刑そのものをもつて残虐な刑罰と解し,刑法死刑の規定を憲法違反とする弁護人の論旨は,理由なきものといわねばならぬ。」です。

つまり、この段落の前半の部分で述べたことから、「死刑そのものを残虐な刑罰」だと考えたり、「死刑の規定を憲法違反」だと主張する弁護人の論旨は「理由なきもの」だと言っています。

しかし、もう一度この段落を読んで下さい。確かに、火あぶり等、残虐な死刑執行事例は挙げられています。でも、死刑そのものが「残虐ではない」のはなぜかという理由はどこにも述べられていないのです。また、死刑が憲法に違反しないという理由も、この後段にも述べられていません。

これまで取り上げてきた最高裁判決の前段では「公共の福祉に反しない限り」という必要条件が述べられていることだけを理由に、死刑は「予想されている」と述べ、後段では、何の理由も示さずに、死刑が憲法違反だという論旨は「理由なきもの」だと断定しています。

結局、最高裁の判決では、理由を示さずに死刑が合憲だと主張しているに過ぎないのです。

最高裁の主張は、野崎昭弘著『詭弁論理学』(1967年、中公新書)に依れば、「強弁」だということになるのですが、詳しくは野崎先生に任せます。

しかし最高裁としては、この判決が論理的かつ法的にも問題がないと考えたのでしょうから、そう考える上での、隠された前提といったものが何であるのかを明らかにすることで、私たちには不可解な言説の意味が解き明かされるはずです。

そのためには、刑法の簡単な歴史が役立ちます。明治憲法が制定されたのは、明治22年(1889年)です。一方刑法は、現在「旧・刑法」または「明治15年刑法」として知られている「明治13年太政官布告第36号」として、1880年に成立し、1882年(明治15年)に施行されています。それが、より近代的な形になったのが、1907年に公布、翌年に施行された「刑法典」です。

ただし、刑罰の部分の骨格は、旧・刑法で固められ、刑法典ではそれを受け継いでいますので、死刑についての考え方は、既に、1880年の時点でまとめられているのです。

それ以前の措置として、1868年(明治元年)には焚刑が廃止され、1871年に磔刑が廃止されています。これらは「刑罰を簡略化し残酷な刑罰を廃止した」ことの一部ですが、梟首(または獄門、晒し首)、そして斬首は、旧・刑法によって廃止されるまで続きました。

[以上、詳しくは、Wikiwand の刑法を参照して下さい)]

そして、旧・刑法が成立した1880年の時点では、死刑が合法であることには議論の余地さえなく、問題は「残酷な刑罰」の廃止でした。

それに昭和23年の最高裁の判決を重ねると、ぴったり一致します。つまり、この判決は、旧・刑法そしてそれを受け継いだ刑法の考え方・価値観をそのまま述べているのです。

新たに日本国憲法が成立して2年、明治憲法を改正する形で憲法そのものは新憲法になったとしても、明治憲法以前に成立していた旧・憲法に盛り込まれた我が国固有の価値観こそ守り通さなくてはならない、という暗黙裡の願望が潜んでいたとすると、この判決の位置付けがなおハッキリするような気がします。

 

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2024年3月 6日 (水)

#京都地裁 は #嘱託殺人 との #判決 ―― #憲法12条 や #憲法27条 とも #関係があります――

#京都地裁 #嘱託殺人 との #判決

―― #憲法12 #憲法27 とも #関係があります――

240305

#安楽死 についても #さらなる議論が必要です

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全身の筋肉が徐々に衰えるという症状のでる難病、ALS (筋萎縮性側索硬化症) 患者林優美さんに依頼され、2019年に、薬物を投与してこの患者を殺害した罪に問われていた医師、大久保愉一(よしかず)被告に対する判決が、京都地裁から出されました。求刑23年に対して18年の懲役でした。(YAHOO! JAPANニュース、3月5日配信の「8カンテレ」と、毎日新聞の同日配信による)

「8カンテレ」によると、京都地裁の川上裁判長は、「主治医でもなくALSの専門医でもなく、SNSのやり取りがあったにすぎず、これまでの経過や現在の症状も把握せず、主治医や近親者等にも知らせることなく秘密裏に、その日初めて会ったばかりの被害者の十分な診察や意思確認ができるとは思えない」などと指摘。 そして「130万円の報酬の振り込みがあってから行動したのを考えれば、被害者のためを思って犯行に及んだものとは考え難く、利益を求めた犯行であったと言わざるを得ない。被告人の生命軽視の姿勢は顕著であり、強い非難に値する」と断じたとのことです。

被告は、起訴内容は認めていましたが、「林さんの願いを叶えるために行った」と自らの行為の正当性を主張し、さらに弁護側は、嘱託殺人罪を適用するのは、林さんに「望まない生」を強いることになり憲法に反するとして、無罪を主張していました。

安楽死か嘱託殺人かをどう判断するのかは難しい問題ですし、ALS患者の皆さんの気持が最優先されるべきだと思います。

同時に、「数学書として憲法を読む」立場からは、それとは別の見方があることもお伝えしておきたいと思います。詳しくは『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』の154ページを参照して頂きたいのですが、憲法は自殺を禁止しています。根拠は27条と12条です。ここでは、12条だけを取り上げておきましょう。

12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

憲法の13条と25条、そしてこの12条は論理的帰結として、それぞれ独立に死刑を禁止しているのですが、12条は自殺も禁止しています。それは、「国民の不断の努力」が義務として規定されているからです。「不断」とは、途絶えてはいけないことです。自殺をしてしまっては、不断ではなく、正に努力を断ってしまうのですから、それは12条違反です。

嘱託殺人は、憲法で禁じられている自殺を、他人の手を借りて実行することを意味しますから、二重の意味で禁じられている行為だということになります。出来れば、そこまで踏み込んでの議論をして貰いたかったのですが、憲法そのものを蔑ろにしてきた日本社会としてはこれが精一杯だったのかもしれません。

同時に、改めて安楽死の是非を考えて見ると、こうして、論理だけに依拠して憲法を読んできても、それだけでは、「情理」を尽くす結論にはなかなか行き着けないような気もします。そこから短絡的に、字義通りに憲法を読むことは止めてしまっては、残るのは誕生論になってしまいます。素直にあるがままに憲法を読みながら、より広い見地からのインプットを生かして考え続け、思い続けることが大切だという平凡な結論になりますが、今回はこの辺で。

 

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[2024/3/6 人間イライザ]

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2024年3月 5日 (火)

#身辺整理 の #一日でした ―― #iTunes の #同期 や #引き出しの整理――

#身辺整理 #一日でした

―― #iTunes #同期 #引き出しの整理――

240304

#心 の方も #同期 されるようです

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アプリのSpotifyを使い始めたのですが、今までにはない機能もあり、いろいろ楽しんでいます。となると、今まで使っていたiTunesに入っている楽曲をこちらでも聞きたいと思うようになったのですが、違うアプリの統合は難しいようです。

とは言え、少なくともPCのiTunesの方でアップデートしたり新たに作ったりしたプレイリストをiPhoneに移すくらいはしておきたいと考えて、久し振りにiTunesと付き合いました。何とか、所期の目標は達成できました。つまり、PCとiPhoneのミュージック・ファイルの「同期」ができたということです。

一つ整理ができると他のものも整理したくなるようで、書類ケースの整理も始めました。中身も整理するという仕事が付いてきますので時間は掛かりますが、「捨てる物は捨てる」という決意が昔より強くなっていましたので、今の所、達成感があります。

それは、物を整理しながら、それにまつわる頭の中の整理も同時に行われている、つまり、「同期」が進行しているからだと思われます。

もっとも、iPhoneの容量が大きければ、すべて自動的に同期するようにしておけますので、手間は掛らないのですが―――。

 

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[2024/3/5 人間イライザ]

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2024年3月 4日 (月)

#五ノ井里奈さん に #勇気ある国際女性賞 ――これを #日本の未来 に #つなげる責任は私たちにある――

#五ノ井里奈さん #勇気ある国際女性賞

――これを #日本の未来 #つなげる責任は私たちにある――

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Credit: “The Sirota Family and the 20th Century” at Japan Society, NYC | Joel Neville Anderson from New York & Rochester, NY, USA; cropped by Beyond My Ken (talk) 02:43, 3 January 2013 (UTC)

#ベアテ・シロタ・ゴードンさん の #志を受け継がなくてはなりません

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日本社会を覆う、なんとも言えない「モヤモヤ」について、その正体を理解するために格闘していますが、五ノ井里奈さんの「勇気ある国際女性賞」受賞が、一つのヒントを与えてくれているような気がしています。

朝日新聞DIGITALの3月2日の報道によると、アメリカの国務省は、元自衛官の五ノ井里奈さんに、勇気ある国際女性賞を授与することにしたそうです。

受賞理由は、「セクシュアルハラスメントと説明責任を国民的議論に押し上げ、伝統的な日本社会でタブー視されてきた問題に光を当てた。性被害を受けた無数のサバイバーたちが、沈黙の中でこれ以上苦しむことがないよう、自らの体験を名乗り出ることを後押しした」こと。そして、彼女の勇気ある行動の結果、「自衛隊はジェンダーを問わず日本人が尊厳を持って国を守れるよう、より安全な職場の構築を進めている」ことになったとも述べています。

五ノ井さんの勇気について、また我が国のジェンダー・ギャップについて詳細に論じることは他の方々にお任せします。

折角の機会ですから、この賞の他の受賞者たちも一緒に世界という枠組みの中で考えると、この賞を機会に、私たちが改めて日本の未来に責任を持ち、新たな決意で社会全体を変える努力をしなくてはならないことに気付きます。「モヤモヤ」があっても努力を続けなくてはならないのです。

そのために、アメリカ国務省のホームページを見ると、この賞の今年の受賞者は12人です。国別には、アイウエオ順に、アフガニスタン、イラン、ウガンダ、エクアドル、ガンビア、キューバ、バングラデシュ、ミャンマー、ベラルーシ、ボスニアヘルツェゴビナ、モロッコ、そして日本です。

2023年の世界ジェンダー・ギャップ・レポートのジェンダー・ギャップ・ランキングの順だと、次の通りです。

41位 ベラルーシ

51位 エクアドル

59位 バングラデシュ

78位 ウガンダ

86位 ボスニアヘルツェゴビナ

119位 ガンビア

123位 ミャンマー

125 日本 

136位 モロッコ

143位 イラン

146位 アフガニスタン

キューバ (ランキングには掲載なし)

改めてこのランキングと受賞者の一覧を見て、日本人一般のジェンダー・ギャップについての認識が甘いことを再認識しています。人権意識と言い換えても良いでしょう。それは取りも直さず、憲法が日本社会に生かされていないことの証拠です。

ジェンダー・ギャップについては、昨年の6月に世界経済フォーラムの発表をマスコミが取り上げています。でも、その結果が政治の世界を揺るがしもせず、社会全体としての対応も悪化の一途を辿るだけで、経済面での30年間の賃金の停滞とともに、何事もなかったのかのような扱いをされてきました。

ジェンダー・ギャップの指数の推移と、賃金の推移のグラフを見て下さい。

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ジェンダー・ギャップ指数の推移

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賃金の推移国際比較

20年、30年という長い間、女性が虐げられ賃金の面でもこれほどの停滞が続いているのですから、「革命」が起きてもおかしくはありません。しかし、日本の国民は動かなかった。だから20年、30年と続いたのです。社会全体が取り組むべき大きな問題について、毎年数字は公開されていても、それを自分の問題として、「当事者」として受け止めて来なかったということなのではないでしょうか。

その意味で、五ノ井さんの勇気ある行動がアメリカの国務省にさえ認められたということは、逆に我が国の社会の持つ闇の部分が如何に深いのかということを示してはいないでしょうか。

そして、その闇を理解する上で、もう一人の勇気ある女性が頭に浮かびました。終戦直後、女性の権利を日本国憲法に24条として追加するために頑張ってくれたベアテ・シロタ・ゴードンさんです。彼女はGHQという軍組織、そして占領軍という日本側からは従うしか選択肢がなかった存在の中で、日本で一番弱い存在だった女性のために勇気を奮った人だったのです。

もう一つ、これは米国務省というもう一方の公権力の力が生きるかもしれないという点です。五ノ井さんという一人の人間の勇気が元になって、社会全体が大きく変るという良い結果になればそれは素晴らしいのですが、その逆の可能性も残っています。戦前からの軍隊の体質が、今でも自衛隊に残っているとしたら (そしてその可能性は否定できないのですが) 、やがて、五ノ井さんという個人がその大きな力に飲み込まれたり、逆に恨まれたりする可能性さえあるかもしれません。

そんな逆反応を抑えるために、日本社会にはかなりの影響力のある「外圧」、特に「米国務省」からの外圧として、この賞が役立つかもしれないではありませんか。それは、今ようやく始まった (と、少なくとも信じたい) 社会全体での人権、特に女性やマイノリティーの位置付けの見直しを確実にする上で、当然大きな役割を果すはずです。

執拗に、憲法の精神を否定しようとする勢力に対抗するためには、五ノ井さんのような勇気ある人たちを応援し、時間枠や空間枠に捉われずに、至る所で頑張っている「同志」を見付け、連帯し激励し合い、エネルギーを分け合いながら、当り前のことかもしれませんが、努力を続けることが、やはり基本になるのではないでしょうか。

 

2024年も健康に留意しつつ、少しでも良い年にすべく頑張りましょう。

[2024/3/4 人間イライザ]

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2024年3月 3日 (日)

#トカゲの尻尾切り で #政治は良くならない ――#憲法遵守 が #毛嫌いされている #理由が分らない――

#トカゲの尻尾切り #政治は良くならない

――#憲法遵守 #毛嫌いされている #理由が分らない――

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#尻尾 は #また生えてきます

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我が国では、「国家の公権力を行使する者」が、法律の厳しい監視の目に晒されているどころか、超法規的存在として扱われている事実を問題にしています。それが現実として社会を覆う空気のような存在である理由の一つが、権力者に甘い憲法解釈であることを指摘しています。

実例として、このような権力者に対して「憲法を守れ」と命じている憲法99条について、どのような解釈があるのかを取り上げています。裁判所の確定判決だけでなく、憲法学者の提唱する学説でも、「憲法遵守義務」は法的義務ではないというのが、驚きの現実です。

前回取り上げた学説の三つ目を見てみましょう。

「違憲の立法、司法、行政に対しそれぞれの公務員は抵抗し、あるいは違憲の職務命令に対し抵抗すべき職責の義務規定が99条である」という内容ですが、「トカゲのしっぽ切り」のような印象を受けてしまいました。大権力の行使者である、たとえば内閣が違憲行為を行うことには口を閉ざして、それを部下たちに押し付けてようやく、「違憲」という判断が出てくるのですから。

状況をさらにハッキリ浮かび上がらせるために、裁判所の確定判決、一つ目の学説、そして二つ目の学説の前半の、「積極的に憲法を尊重擁護する作為については道徳的義務ないし政治的義務に過ぎない」を加えて考えて見ましょう。

三つ目の学説の肝の部分は、その前提にあります。それは簡単に「違憲の立法、司法、行政」と書かれていますが、その意味は、立法、司法、そして行政の偉い地位にある人たちが、憲法違反をしたと仮定しよう、という意味なのです。それは、半ば、99条の「義務」は「法的義務家ではない」が当り前の世界を前提にしていないと出て来ない言葉です。

その結果を押し付けられた、大きな権限や力のない部下たちに、「上司が悪いことをしたら、お前たちはそれを、自分の仕事や命を賭けて阻止しなくてはならないのだ」と言っているに等しいように読めるのですが―――。

それは、空理空論ではなく、財務省のお偉いさんに、総理大臣やその家族を守るための改竄を指示され、それに抵抗した赤木俊夫さんの姿そのものではありませんか。

憲法解釈として、より重要なのは、三つ目の説の前提になっている「違憲の立法、司法、行政」を起してはいけないという点なのではないでしょうか。そしてそのためには、99条の憲法遵守義務が法的義務であり、如何に偉いお役人、そして総理大臣であっても憲法は守らなくてはならないという、当然の解釈を文字通りに確認し徹底することでしょう。

それがなされていないために、赤木さんのような悲劇には発展しなくても、日常的に憲法違反や法律違反が蔓延っているのは、次のようなメカニズムが日常茶飯事だからです。

仮に、良識あるお役人が、上司の憲法・法律違反を咎めて職務拒否をしたとしましょう。それに対して、権力側に立つ上司としては配置転換をして別の職員にその仕事をさせれば良いだけなのです。つまり、十中八九、上司の意思はその通りに実現されるのです。配置転換の理由も作ればいくらでもありますので、裁判を起して勝つことはかなり難しいのではないかと思います。そして、実効性のない抵抗なら、別に憲法に認められていなくても、法律的根拠がなくても、自分の判断で「嫌だ」と言えば済む話なのではないでしょうか。

でもここで問題にしなくてはならないのは、こんなトカゲの尻尾切りで、お役人の利権は守られたとしても、政治は良くならないという点です。

憲法99条の解釈を概観してきましたが、恐らく皆さんの心の中にも「モヤモヤ」が生じているのではないでしょうか。何故、官憲も学者たちも、「憲法遵守義務」について、これほど執拗に、「法的義務ではない」と言い続けなくてはならないのでしょうか。「法的義務だ」と言ってしまうと困る事情が何かあるのでしょうか。

[続きます]

 

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[2024/3/3 人間イライザ]

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2024年3月 2日 (土)

#定説でも #憲法99条 は #法的義務 ではない ――#法の支配 は #空文化 されているのでは?――

#定説でも #憲法99 #法的義務 ではない

――#法の支配 #空文化 されているのでは?――

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#三つの学説 が #分り易く #解説されています

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前回、皮肉交じりに批判したのは、「国家の公権力を行使する者」が、法律の厳しい監視の目に晒されているどころか、超法規的存在として扱われている事実です。私たちが社会や政治を考える上での大前提としての枠組みである「法の支配」から大きく逸脱しているのですが、それに対する批判がほとんどないことも問題です。

それは、わが国を覆う空気のような雰囲気として、「お上」とか、「偉いさん」、「先生」という範疇に入る人たちが特別扱いをされる価値観のあることなのではないかと思います。そんな特別扱いを「当たり前」と考えるのならまだ救いはあると思うのですが、それ以前の「given」として、空気と同じように何も考えずにその中で生活し、何の違和感も持たずに、それを前提として物事を考えてしまっているのではないでしょうか。

その典型的な例として、憲法99条の「憲法遵守義務」が法的義務ではないという、裁判所の確定判決を挙げましたが、今回は、憲法の専門家たちの間でも、「憲法遵守義務」は法的義務ではないことになっているという空恐ろしい事実を報告します。

詳しくは『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論――』の第六章をお読み頂きたいのですが、ここでは簡単に要点だけを挙げておきます。

表紙の写真を最初にお示ししましたが、星野安三郎・小林孝輔著の『口語憲法(追補版)』の308ページから310ページの要約です。以下『星野』と略しますが、そこでは、99条の法的性質についての三つの学説を紹介しています。

  1. 一つは、「法的義務ではなく道徳的要請」であるというものです。
  2. 二つ目は、「積極的に憲法を尊重擁護する作為については道徳的義務ないし政治的義務に過ぎないが、最小限憲法破壊は行わないという不作為義務は法的義務とする」。
  3. 三つ目は、「抵抗権が実定法に制度化されているという前提に立ち、違憲の立法、司法、行政に対しそれぞれの公務員は抵抗し、あるいは違憲の職務命令に対し抵抗すべき職責の義務規定が99条であるとする。当該義務は、最高法規たる憲法を根拠とし直接法的効力を有するから、法律レベルでこの趣旨は覆せないとする」

どれを取っても、素直に「憲法遵守義務」が法的義務だ、とは言ってないのです。それどころか、何とか理屈を付けて、「法的義務ではない」ことを正当化しているようにさえ読めてしまうのですが、これは私だけの思い込みでしょうか。

この三説についての批判は、ここでは割愛しますが、(3)については、「モリ・カケ・サクラ」事件での公権力行使者による改竄との関連は見過ごす訳には行きませんし、この三説の致命的欠陥の一つである、「天皇の憲法遵守義務」との関連も私たちが考えなくてはならない重要な点です。

[続きます]

 

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[2024/3/2 人間イライザ]

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2024年3月 1日 (金)

#憲法99条 は #法的義務 ではない ――#裁判所 の #確定判決 は #そう述べています――

#憲法99 #法的義務 ではない

――#裁判所 #確定判決 #そう述べています――

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#六法全書 では #道義的要請 または #宣明 と記述しています

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『数学書として憲法を読む』改訂準備作業の一環として、今回は憲法99条について、最近の政治的出来事と関係付けて考えて見ましょう。

前にも述べたように99条については、2021年10月26日から、5回にわたって、取り上げています。その第2回は2021年の11月6日ですが、その一部を引用します。

《確定判決では、「憲法遵守義務」は「義務」ではない》

憲法についての通説・定説・裁判所の確定判決では、「憲法遵守義務」は「義務」ではないのです。それは、99条の解釈についての確定した判決があるからです。それを見て頂きたいのですが、まずは99条をお浚いしておきましょう。

憲法99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ 

① 1977年2月17日に水戸地方裁判所が百里基地訴訟の第一審で下した判決では99条について「憲法遵守・擁護義務を明示しているが、これは、道義的な要請であり」と法的義務ではないことを明確に示しています。

② また、1981年7月7日には東京高等裁判所が控訴審の判決のなかで99条については「憲法を尊重し擁護すべき旨を宣明したにすぎない」という解釈が示されています。その根拠として示されているのは次のような理屈です。「国家の公権力を行使する者が憲法を遵守して国政を行うべきことは、当然の要請であるから、本条の定める公務員の義務は、いわば、倫理的な性格のものであつて」(高裁判決)

こんな理屈が通るなら、「憲法遵守義務」の代りに「納税の義務」、「国家の公権力を行使する者」の代りに「国民」を使えば、30条の「納税の義務」は倫理的な性格のものになり、私たちは税金を納める必要がなくなってしまいます。

そんな馬鹿な解釈はあり得ないというのが、私たちの「常識」です。

《思考実験》

そうでなくてはならないという点を強調するために、「思考実験」をしておきましょう。仮に悪徳国会議員 (仮にZ議員と呼んでおきましょう) がいたとして、裏金を貯めた上に税金を払わないなどという不埒なことをしていたとしましょう。そんな議員はいないと信じたいので、これは「思考実験」です。

こんな議員が裁判に掛けられ、「税金を払え、それは憲法30条でも義務と書いてある」という追及を受けたとします。それに対してのZ議員の反論です。

1981年7月7日の東京高等裁判所の判決では、次のように述べられています。「国家の公権力を行使する者が憲法を遵守して国政を行うべきことは、当然の要請であるから、本条の定める公務員の義務は、いわば、倫理的な性格のもの」。

従って、国会議員である私Zに対して、99条で公務員に課されている憲法遵守義務「義務」ではない。ということは、憲法30条の納税義務も、「国家の権力を行使するもの」に対しては、単なる「倫理的性格」のものであり、義務ではない。従って、納税しないことは、チョッピリ後ろめたい気持ちはするが、法律違反ではない。

裁判所の確定判決は法律的には重い意味を持ちますので、このような反論さえも飛び出してくる可能性無きにしも非ずです。ことによると、権力を握った一部の人たちは、このような思考方法についての指南を受け、常識的には「法律違反」ではあっても裁判の場で自分たちは無罪になる、といった心構えを持ってしまっているのでしょうか。

99条は法的義務でなくてはならない》

それが杞憂であることを祈りつつ、「憲法遵守義務」が法的義務でなくてはならない理由を、以下いくつか挙げておきましょう。

  • ルールを決めておいて、最後にそれは「道徳的要請」だとか「宣明」だとか宣言して、法的義務ではないことにすれば、それはルール、今の場合は憲法の存在や意味そのものを否定である。
  • 憲法の存在や意味そのものを否定
  • 裁判官は、99条によって「憲法遵守義務」を課せられている。その裁判官が、「自分が課せられているのは、法的義務ではない」と判断するのは、被告が判決を書くことと同じではないか。
  • 憲法中、天皇に対して明示的に「義務」を課している唯一の条文を無力にすることは、戦前への回帰につながる可能性があるから
  • 「国民の総意」によって、天皇に対して唯一の「明示的義務」として課されている99条を、「総意」には満たない存在が変えることはできない。
  • 憲法中に「義務」という言葉が使われている条項は4つある。その内の、二つ、教育を受けさせる義務(26条)と納税の義務(30条)は「義務」で、残りの二つ、勤労の義務(27条)と憲法遵守の義務(99条)が「義務」ではないのは、「義務」という同じ言葉を正反対の意味に使うことになり許されないはずであり、解釈が恣意的であることを意味する。

以上、「憲法遵守義務」は「法的義務」以外の解釈はあり得ません。

 

2024年も健康に留意しつつ、少しでも良い年にすべく頑張りましょう。

[2024/3/1 人間イライザ]

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