#生命権 に #枠 を #はめるのは #憲法違反
――#憲法13条 の #読み方 その2――
文部省発行の『憲法読本』から

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本稿は、⓪に対する反論です。この判決では、国民の権利、その中でも基本的人権そしてその中でも、生命権が無制限で認められている訳ではなく「枠」がはめられていること、それだけでは止まらずに、「厳格な」枠であることが強調されています。その部分を再掲しておきます。
⓪公共の福祉に反しない限りという厳格な枠をはめているから,①もし公共の福祉という基本的原則に反する場合には,生命に対する国民の権利といえども立法上制限乃至剥奪されることを当然予想しているものといわねばならぬ。
このような「枠組み」で、基本的人権を捉えること、特に生命権を捉えている点で、この判決には大きな問題があるというのが本稿の主張です。(以下、死刑がテーマですので、生命権を中心に論じます。生命権だけに言及することが多くなりますが、他の権利についても同様の議論が成立します。)
言葉の意味から考えましょう。「枠をはめる」ということは、生命権が勝手に広がると害をなす、といったニュアンスでないと意味がありません。世界中に笑顔が広がっている、嬉しいですね、といった文脈の中で、その状態に「厳格な枠」をはめよう、と考える人はいないでしょう。でも、⓪では、生命権にはそれがはめられているというのです。しかもそれに、「厳格な」が加わるのですから、生命権に対して厳しい制限が付けられているのです。
そもそも「生命権」を考える上で、このような「予断」を持つことが許されるのでしょうか。基本的人権の広がることの意味をせめて「中立」の立場で表現できる「枠組」を用意した上で議論すべきなのではないでしょうか。
「厳格な」の意味もお浚いしておきましょう。ネットで見付けた「CoCoSiA」というサイトでは、「厳格」を「不正、怠慢、ごまかし、失策などを全く許さない厳しい態度」だと定義しています。
結構情緒的な定義ですので、もう少し客観性のある二三の条件を掲げて、「厳格」または「厳格な」を考えて見ましょう。「枠」も一緒に取り上げた方が分り易いかもしれません。一つには、この枠の境界がはっきりしていることを挙げても良いでしょう。昨日はここまでは良かった、でも今日は駄目だよではなく、誰の目にもはっきりとわかる「枠」でないと「厳格」であれとは言えないことになり兼ねないからです。
二つ目には、この枠が簡単には揺れ動かないことです。誰かが何かを言ったから枠の範囲が変わるとか形が変わらないという条件も付いていると考えて良いのではないでしょうか。
三つ目は、強制力が伴っているという条件です。子どもの躾について、「厳格な父」とは言っても、自分のお小遣いが貰えるまで泣きせがむ子どものことを、父に対して「厳格な子」だとは言いません。それは、この点も大きな要素だからなのかもしれません。
イメージとしては、法律が「厳格な」を体現していると考えられます。もっとも法律の中には、「○○基本法」とか「××推進法」といった形の法律もあります。となると、「厳格な」が当てはまるのは、その法律に何らかの刑罰が伴う場合だと限定できそうですが、実際にはもう少し広いのかもしれません。とは言え、「厳格な」の覆う範囲は法律より広く、しかもその境界は、法律のようにきちんとは決められていない点に注目すべきでしょう。
法律との比較をしましたので、もう一歩進めて、「厳格な枠」とは法律だと考えてしまったらどうでしょうか。⓪と①で言っていることは、「生命権には法律という厳格な制限が付いている」ということになります。
これはどこかで見たことがありますよね。明治憲法、または大日本帝国憲法です。その22条では、居住と移転の自由が、「法律の範囲内」で認められていますし、29条では言論著作印行集会そして結社の自由がこれも、「法律の範囲内」で認められているように、基本的人権には、法律という厳格な枠がはめられていました。
それを改正して、基本的人権が柱の一つとなったのが新憲法のはずなのですが、その解釈としては、明治憲法と全く同じ範囲の人権しか認められていなかった、というのはショッキングな出来事だと思うのですが、如何でしょうか。
司法の最高権威であり、憲法の解釈も最高裁判所に最終的に依存するという現行の我が国のシステムでは、このような解釈があってもそれに従うしか選択肢がないのかもしれませんが、一応、憲法では生命権を含む基本的人権をどう考えているのかを確認しておきましょう。
第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
「すべての基本的人権の享有を妨げられない」のですから、法律による制限があること自体問題だと読めるのではないでしょうか。また、「侵すことのできない永久の権利」を一篇の法律で制限することも憲法違反になるのでないでしょうか。ましてや、憲法内では無定義術語として現れていて、誰が主体になるのかも分らない「公共の福祉」によって制限されると考えるのはかなりの無理があるのではないでしょうか。
確かに、12条には「公共の福祉」が出てきますが、それは、国民の責任として権利を「公共の福祉のために利用する」ことであって、公権力が「公共の福祉」を理由にして国民の権利を奪って良いと言っている訳ではないのです。
このような状況を、「公共の福祉に反しない限りという厳格な枠をはめている」とは言えないでしょう。そればかりではなく、⓪と①を合わせて、憲法違反だと言わざるを得ないのです。何故なら、98条の規定では、この憲法が最高法規であって、この憲法にそぐわない解釈は許されないからです。
第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
再度、その理由を確認しておきましょう。一つには、⓪と①で述べている実質は、明治憲法の基本的人権についての規定と同様に、それも、「法律」というきっちりとした条件を示さずに「公共の福祉」という曖昧な基準によって基本的人権を制限しているからですし、二つ目としては、上記11条と12条では、基本的人権についてのいかなる制限も認めていないからです。
このような反論を反駁するための議論があるのかもしれないのですが、昭和23年の最高裁判決では、そのような説明は一切なされていません。ただ単に、「厳格な枠」がはめられているという宣言だけなのです。それが、一人の人間の命を奪う根拠になってしまって良いのでしょうか。
[続きます]
2024年も健康に留意しつつ、少しでも良い年にすべく頑張りましょう。
[2024/2/10 人間イライザ]
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