The World Financial Review に掲載されたインタビューの和訳をアップします。
「核兵器禁止条約の目標は生存である」
The World Financial Review 誌の3・4月号に掲載された、「核兵器禁止条約の目標は生存である」 を元新潟市議会議員の山田達也さんが和訳してくれました。数回に分けて、その訳を掲載します。
核兵器禁止条約
ジョセフ メイザーによる元広島市長との核兵器に関する対談
広島市は、戦争で初めて核兵器が使用された地として、永遠に記憶に残るだろう。第2次世界大戦の終結以降、核兵器保有国間の関係は概ね平和的だったと言って良いだろう。しかしそれは多分、現代における核戦争の結果が想像を絶するものだったからだろう。広島市の前市長で、世界的な核軍縮運動に積極的に取り組んでいる秋葉氏がここで、アメリカ人数学者ジョセフ・メイザーに、恐ろしい核兵器の使用を今後どう管理するかについての見通しを語っている。
数年前、私は型どおり実存的夢を見た。自宅近くに核爆弾が投下され、象徴的なキノコ雲が立ち上がり、私は小さな火の燃え残りやズタズタにされた鋼鉄の残骸の上をあたかも精霊のように飛び回り、まだ生きている可能性のある人を探していた。しかし生存者はいなかった。アメリカという安全な所に住む、どちらかと言えば若い私がそのような穏やかでない夢を見ただけでなく、何十年も経った今でも身も凍る程に覚えているほどの潜在意識の不安を抱いていたのは何故なのだろうか?
広島と長崎の上空で2発の原子爆弾がパラシュートで落とされ爆発した時、私はまだ3歳だった。私は1950年代に育った世代で、その10年はアメリカにとって類まれな繁栄の時代であり、ICBMが米国の幾つかの都市を標的にするかもしれないというのが、最大の恐怖の時代だった。空襲警報の第1波が聞こえたら、学校の机の下に屈みこめと習ったのは70年前のこと、時はゆっくりと動いているように思えた。第2次世界大戦という激しい戦争の後、経済的繁栄に沸き、不確実性が冷戦の脅威に由来する破滅思考を支配していた、あの軽薄な時代、アメリカは一つにまとまった国だった。ニュースは、すべてその日または週についてのもので、1年以上経過した情報は、古代の歴史として葬り去られ、殆ど読まれることない教科書行きだった。とは言え、1950年代の高校高校のカリキュラムには取り上げられることはなかった。我々は素直にポリオの予防接種を受け、法に従っていたし、真実とは当時、地元の新聞やABC、CBS、NBCのようなテレビネットワークが伝えてくれるものだけだった。世界情勢や個人的不安に応じて、時が速度を上げたり下げたりはするものの、20世紀半ばの数十年間、我々には今世紀最大の恐怖を克服したという誇りがあった。朝鮮戦争が終わる頃、私の両親はあらゆる恐怖が終ったと思い込んでいた。
核兵器拡散に対する不安は、気候変動に対する懸念と競合している。自己中心的に現在を生きている我々は、気候変動で未来の誰かの生活は困難になるが、自分たちの近未来には関係ない、と気候変動を捉えている。しかし、我々は既にその将来にいて、アメリカは気候変動の結果による危機に苦労している。しかもその危機は次々にではなく、沢山が同時に出来している。我々は不安に苛まれていて、その1つが核兵器の脅威だが、世界に存在するあらゆる問題の中で、核拡散に関わる問題は、最も柔軟に解決可能だ。
核兵器保有国が民主主義国家の国境に軍隊と装備を集結させている、そんな時に我々はいる。世界滅亡までの比喩的な尺度、「世界終末時計」が真夜中0時にまで100秒とリセットされた時、私は親友で1999年から2011年まで広島市長を務めた秋葉忠利氏と、核兵器の状況と秋葉氏の将来への思いについて話し合った。秋葉氏は2010年、核兵器廃絶運動における世界的リーダーとしての生涯にわたる役割に対して、アジア・ノーベル賞と呼ばれるラモン・マグサイサイ賞を受賞している。
私たちの会話は長時間だったので編集されてます。
Joseph Mazur ジョセフ・メイザー
君と僕は、広島と長崎の原爆投下の数年前に生まれています。僕たちは当時3歳で1945年8月6日と9日に何が起こったのか理解できませんでした。君は原爆という言葉を聞いたかもしれませんが、僕は「エノラ・ゲイ」と聞きました。お互い7,000マイル(11,200km)も離れていたので、僕たちは両親から違った言葉で、恐らくは異なる感情でニュースを受取ったはずです。僕はその日,何か大変な事が起きたって覚えていますが、当然、完全には分っていませんでした。僕は戦争時代の子供だったので、爆弾が何なのかは知っていましたが、破壊と人命損失の程度については何も知らなかったのです。君は何処にいたのでしょうか?当時、両親から言われたことを覚えていますか?大人になってからその出来事の記憶がどのように展開したのか話して貰えますか?
Tadatoshi Akiba: 秋葉忠利
ジョー、僕は10歳になるまで広島と長崎について何も知りませんでした。僕の最も古い記憶の一つは1945年夏のある暑い日に遡ります。僕が縁側に立っていて、母が戻ってくるのを待っていた時のことです。空襲警報が鳴って、母は1月に生まれた弟を行李に入れ、庭に掘った防空壕まで運んでいました。縁側は高過ぎて庭まで飛び降りられず、僕は母が戻るのを待たなければなりませんでした。それがとても怖かったことを覚えています。
東京の南東部に位置する千葉市が、その夏の7月7日に焼夷弾による空襲の標的になりました。B-29爆撃機の編隊129機が市の中心部を壊滅させ、住民1000人以上が死傷、9000近くの建物が破壊されました。
僕の家族は街の安全な地域に住んでいて、そこには焼夷弾は数発しか落ちませんでした。でも焼夷弾は自宅隣の道路に落ちました。美しくその一方で恐ろしい火花を、僕ははっきりと覚えています。
それらの記憶は僕の心に鮮明に残り、世界中、至る所における戦争の悲劇を想像するときの助けになっています。
ジョセフ・メイザー
原爆投下後の広島と長崎の惨状の大きさについて、日本の人々はどのように知ったの?
秋葉忠利
広島と長崎については、ずっと後になるまで何も聞かされませんでした。GHQによる「プレスコード(新聞・出版活動を規制するための検閲)」が施行されていたからです。その結果、原爆投下に関する情報は、一切私たちには伝わらなかったのです。被爆者でさえ、怪我や身体へのダメージに関する医療情報を得るのが困難でした。
1952年になってやっと、日米講和条約が発効し、プレスコードが撤廃されました。原爆投下の、言語を絶する悲劇的かつ悲惨な結果について、僕たちが知ったのはその時からでした。
近所の書店には、1952年8月6日、日本でのライフ誌に相当する『朝日グラフ』が平積みになっていました。手に取って見ると、顔がすっかり焼け焦げて仰向けに横たわっている若い女性の写真が載っていました。僕は気分が悪くなり、その夜は眠れませんでした。
[以下、続きます]
[2022/5/1 イライザ]
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