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2022年3月29日 (火)

小倉桂子さんとHIP ――イタリアのテレビ局がヒロシマを取材――

小倉桂子さんとHIP

――イタリアのテレビ局がヒロシマを取材――

 

イタリアのテレビ局、The RAI National TVのビオ・デミリア記者が327日に取材した「スーパー・ウーマン」お二人に焦点を合わせています。昨日は切明千枝子さんについて、是非御本人の言葉を読むかビデオで切明さんのお話をお聞き下さい、という御案内をしました。

 今日はもう一人の「スーパー・ウーマン」小倉桂子さんです。小倉さんの被爆体験とその後の活躍をお伝えしたいのですが、小倉さんの活動の中でも大切なのは、御自身の体験はもちろんのこと、他の人の体験も英語に訳して伝えることを使命として生きて来られた点です。

Photo_20220328182601  

Demilia記者と小倉さん

小倉さんの体験も御自分の言葉で語られているビデオを御覧頂きたいのですが、その前に、広島平和文化センターの機関誌に掲載された「被爆体験記」から一部を引用しておきます。

 八月六日

国民学校2年生の私は爆心地から北へ2.4キロの牛田町で被爆しました。 5年生の兄は学童疎開、中学生の兄は学徒動員により広島駅の北で農作業中でした。 父が「何か嫌な予感がする。今日は学校に行くな」というので、私は一人ぼっちで家の北側の道路にいました。 突然目もくらむような閃光に包まれ、 続いて襲ってきたすさまじい爆風により路上に叩きつけられました。 近所の藁屋根は瞬時に燃えだしました。 家に戻ると家の中のすべては破壊され、天井や屋根瓦は吹き飛ばされ、総ガラス張りの戸や窓のガラスは数百の破片となって壁や柱に突き刺っていましたが、幸いにも自宅にいた両親や兄弟たちは軽傷で済みました。

  そのすぐ後に、雨が降りました。雨がいつ降り出したかは正確には分かりません。多分被爆後、ほどなくしてだと思います。 外に出た私の服を濡らしたのはねっとりとした灰色の「黒い雨」でした。 その雨は家中の壁に何本もの太い灰色の線を残しました。

 (中略)

 壊滅状態の街を見下ろす

8月7日、神社前の高台から広島の街を見下ろしました。 見渡す限りの焼け野原に百貨店の福屋と旧中国新聞社やいくつかの建物の残骸が見え、その向こうに見えた海は手が届くほど近くに感じられました。 遺体処理の煙がすぐ近くの公園から登っており、時折死体を焼くにおいが流れて来ました。 それから毎日、私は石段を登っては広島の街を見続けました。

1962年には、後に資料館館長や平和文化センターの事務局長として、また国際通として被爆の実相と被爆者のメッセージを世界に発信した小倉馨氏と結婚。1979年には急逝した馨氏の遺志を継いで、桂子さんは英語を猛勉強し、広島を訪れる外国人の窓口・ガイドとしてまた海外への「ヒロシマ発信」の拠点としての活動を始めました。

 1984年には、「平和のための広島通訳者グループ」(HISと略)を設立して、上記の活動に加えて、広島に常駐する通訳者の養成と継続的研鑽も活動内容に加えました。活動の内容は、日本語並びに英語のホームページがありますので御覧下さい。

 一言、「通訳」についてコメントをしておきます。すべての人が同じ言語を理解している訳ではありませんので、異なった言語を通訳してコミュニケーションを可能にする「通訳」または「通訳者」は、異文化コミュニケーションには必要不可欠な存在です。にもかかわらずその重要性が理解されず、しばしば、「外国語が喋れる人は、喋れない人のためにボランティアとして通訳をして当り前」のような価値観が通用しています。

 しかも、通訳は正確に訳せて当り前、ちょっとでもミスがあるとけちょんけちょんに非難される存在でもあります。これは不当な評価の仕方ですが、多くの人がこの立場で物を言う傾向もあります。

 それだけではなく、被爆者の体験を訳すのには、感情の襞の深い部分まで理解した上で、それを英語でしかも同じレベルで表現しなくてはなりません。これほどの難しさのある仕事を、自ら選び、しかも40年間立派に果して来られた小倉さん、そして小倉さんと志を同じくする皆さんに心から敬意を表します。

 広島市は、その功績を称えて、2005年に広島市民賞をHIPに差し上げています。

 日本語のホームページ

 英語のホームページ

 ここで英語のホームページ中の小倉さんの言葉を聞いて下さい。英語ですが、格調高い内容と真摯な姿勢が伝わるはずですので。

 

最後にもう一つエピソードを添えます。2003年には、ワシントンのスミソニアン航空宇宙博物館新館に、原爆を投下した「エノリ・ゲイ」号が永久展示されることになり、小倉さんは一般公開初日に博物館を訪れています。小倉さんはその機体を目の前にして「足がすくみ、震え、泣き出した」と当時の報道が伝えています。

 デミリア氏のインタビューで、それに加えて小倉さんが語っていたのは、スミソニアン博物館で恐怖に襲われたのは、「エノラ・ゲイ」だけではなかったという事実です。それよりはるかに小さいグラマンという戦闘機も展示されていたのだそうですが、それを見たときには、原爆以前に経験した「機銃掃射」を思い出し身が竦んだ、と語っています。

 「機銃掃射」とは、飛行機が地面すれすれの低空を飛行して、地上にいる人間を狙って機関銃で直接殺す行為を指します。パイロットの顔だけではなく目まではっきり見た人もいるくらい、人間が人間を殺す行為なのです。

 核兵器とは、廃絶される以外の目的を持ちません。それは当然なのですが、小倉さんのエピソードは、「戦争に『正義の戦争』というものは存在しない」ことの証明にもなっています。

 [2022/3/29 イライザ]

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