「尾木ママ」と対談しました (4) ――プリンストンでのWCRP会議――
「尾木ママ」と対談しました (4)
――プリンストンでのWCRP会議――
公式には1970年に始まったWorld Conference of Religions for Peaceの第3回世界大会は1979年、アメリカのプリンストンで開かれました。その際採択された宣言があります。会場はプリンストン大学の構内で、それまでも何度か本職の関わりで訪れていましたので、とても快適でした。
後で知ったことなのですが、この会議で曹洞宗の代表の方からの発言が「差別発言」として大きく取り上げられ、その後かなりの間、宗教界そして平和運動関係者の間での議論が続きました。私たち通訳には直接関係ないことなのですが、こんなに重要な発言が出た会議に居合わせたことで、歴史の証人としての自覚を持つことになりました。
プリンストンの会議で特に印象的だったのは、いくつもの宗教の代表やスタッフの皆さんとの交流です。キリスト教ではプロテスタントとカトリックの代表の皆さんと話をすることができましたし、神道の流れでは、大本教、天理教、金光教の皆さんの活躍が目に付きました。
WCRPを提唱し中心になって活動していたのは立正佼成会なのですが、プリンストンでの参加者の活動や発言を見る限り、全宗教者が平和に向かって一致協力しているといった印象が強く残っています。
会議の外での交流に戻ると、金光教の女性スタッフでニューヨーク在住、そしてニューヨークの大ファンの人がいました。Aさんと呼んでおきましょう。当時ボストンに住んでいて、私もニューヨークにはよく行きましたが、どちらかと言うとニューヨークの喧騒や貧富の差、そして当時はまだかなり汚かったニューヨークとは距離を置きたいと考えていたので、つい悪戯心に負けて、Aさんをからかってしまいました。途中で止めれば良かったのに、最後にはAさんを怒らせてしまいました。
その後の金光教との御縁を考えると、後悔することしきりですし、Aさんには申し訳ないことをしました。心から反省していますし、誤りたい気持ちも変っていません。でもこの時のやり取りがきっかけになって、金光教に関心を持ち協議や活動についての勉強もしましたので、少しは救いもあったのだと考えたいと思っています。
こうして、WCRPと再会してから明るい社会づくり運動につながるのですが、それは次回に。
[2022/2/15 イライザ]
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