切明千枝子さんの被爆体験 ――午後にはひろば・フィールドワークもありました――
切明千枝子さんの被爆体験
――午後にはひろば・フィールドワークもありました――
8月5日午前中に開かれた第8分科会のテーマは、「見て、聞いて、学ぼうヒロシマ」でした。その一環として、参加された皆さんには切明千枝子さんの被爆体験を聞いて頂きました。
前回も述べましたが、私の拙い筆ではとても再現不可能な内容だったのですが、それでも、何らかの形で伺ったことを整理しておくことも大切です。今回も箇条書きにまとめて見ました。
[切明千枝子さん]
l 1929年 (昭和4年) 生れで、今年89歳になる。
l 今起きたことでも今忘れるようになってきたが、あの日のこと、戦争のことは忘れられない。それは嫌な思い出だし、早く忘れたいと思っていたので、多くの人に話すことになるとは思ってもみなかった。でも、戦争の記憶を闇から闇に葬ってはいけないと考えるようになった。人間はかつてと同じ道を歩んでしまう傾向があり、それが恐ろしくなった。だから、話さなくてはと思っている。
l 私が生れた1929年は世界恐慌が起きた年で、「大学は出たけれど」という言葉が流行った。仕事がなかったからだ。株券は紙くず同様になり、生活苦から首を括ったり毒を飲んだりする人も多かった時代だ。
l 15歳のときに原爆が投下され、戦争は終ったが、「15年戦争」という言葉が示している戦争の時代を、べったり生きてきた。
l テロとかクーデターということは他所の国のことで、日本は関係ないと思っている人もいるかもしれないが、昭和の初めには、日本でも起きていた。2・26事件はクーデターで、私が小学校に上る前のことだった。そして、小学2年生の7月7日に日中戦争が始まった。
l 当時の日本人の多くは、中国人を「チャンコロ」と呼んで馬鹿にし差別していた。韓国も日本に併合されていて、半島人、朝鮮人に対する差別も酷かった。小学生の頃、一クラスに5人ほどの韓国籍の子どもたちがいたので、大人の差別は腑に落ちなかったし分らなかった。でも男子は差別をしていた。それを止められなかった。大人の考え方が段々子どもたちの心に浸み付いたのだろうか。
l 広島には陸軍の基地があった。県庁やそごう、リーガロイヤルホテル等のある広大な地域が基地だった。
l 宇品港は軍港だった。そこから兵隊たちが中国や韓国、南方に出兵して行った。私たちは毎日のように旗を持って、港に兵隊を見送りに行った。人間だけでなく多くの馬も外地に送られていた。遠浅で、御用船と呼ばれていた大きな船は沖に停泊していたので、そこまで艀で行き、兵隊さんたちはそこから船の舷側を登って行った。馬は登ることが出来ないので、クレーで釣り上げられた。そのときに、自分たちの運命を感じたのだろうか、哀れに聞えたいななきが今も耳に残っている。
l 宇品港は原爆では焼けなかった。終戦後そこに復員兵たちが戻ってきた。出征するときは多くの人が見送ったのに、帰って来た時には迎えに行く人が誰もいなかった。私たち学校の同級生何人かで相談して、薬缶を借り、湯飲みを借り、帰って来た人たちにお茶を配った。息も絶え絶え、髭ボウボウで帰って来た人たちを迎えた歌は田端義夫の『かえり船』だった。
l でも生きて帰れた人たちは良かった方で、外地で死んだ兵隊たちも多かった。それも飢えで死んだ兵隊の方が多かった。復員兵たちは、宇品までは何が起きたのかは分らなかったが、一歩、宇品を出ると一面の焼け野原しか目に入らず、茫然自失の状態だった。
l 今平和公園のある地域にあった中島町は歓楽街で、カフェなどもあった。戦争の末期まで続いていた。基地の兵たちが遊びに来るところだった。
l 本川の反対側、舟入町には遊郭があった。西遊郭とも呼ばれ、東遊郭とは格が違って、将校たちが馬で来るところだった。馬丁を務めていた兵は、一度馬を引いて帰り、翌朝、将校を迎えに来ていた。
l 広島はデルタ地域なので米は植えられず、綿が植えられていた。工場も多くあったが、軍関係の工場は、被服廠、兵器廠、そして糧秣廠の三つがあった。「秣」の意味は、馬の飼料。
l 1945年の夏、飛行機からビラが撒かれた。それには、「8月には広島が攻撃されるから、逃げなさい」という予告が書かれていた。差出人は「ツルーマン大統領」と書いてあり、普通は「トルーマン」と書くのに、その違いがおかしかった。ビラは先生に取り上げられて焼かれてしまった。
l 8月6日にはタバコ工場で働いていた。そして建物の陰に居たので、火傷もしなかった。でも、一二年生は建物疎開に出ていて全滅した。
l 何とか学校まで帰れた生徒もいた。誰もが、腕を前に付き出して、その腕からは昆布のように見えた皮膚が垂れ下がっていた。中には、昆布のようなものを足首から引き摺って歩いてきた生徒もいた。
l これを見た先生は、生徒の皮膚を引き千切って上げていた。生徒は、「先生有難う。これでちゃんと歩けるようになりました」と言った。
l 学校まで辿り着いても薬もない。家庭科で使うための菜種油が残っていたので、それを塗って上げるのが精一杯だった。そして、帰って来た生徒たちは次々と亡くなって行った。
l 夏の暑い時期だったので、荼毘に付さなくてはならない。運動場に穴を掘って、窓枠や机など、燃えるものを集めて下級生を焼いた。140センチくらいの身長の子どもたちだったが、白骨にするのは並大抵のことではなかった。火力が弱くて途中で火が尽きた。船舶隊の人が黒い油のようなものを持って来てくれて、それを掛けてようやく荼毘に付すことが出来た。
l 最後には、綺麗な標本のような骨が残っていた。桜の花の花びらのような色だった。その骨を容器に拾おうとしたが、全部は収めきれない。喉仏と歯だけ拾って、しばらくは校長室に収めておいた。こんな悲しい思いを今の若い人たちにさせてはならない。
l 力を尽して平和を守って行こう。何もしないでいると平和はなくなってしまう。考え、実行しよう。
l そして思い出して下さい。そうすることで、あの子たちは皆さんの心の中に生きることになるからです。あの子たちの分も一緒に生きてやって下さい。
l 戦争が再びやって来ないように声を上げて下さい。
l 戦後の73年間、憲法9条のお陰で、戦争によって日本人は一人も人を殺していない、そして日本人は一人たりとも死んではいない。この状態を続けることが出来れば、亡くなった人たちが、平和の礎になってくれたと思うことが出来る。
l 子どもも、大人も年寄りもそれぞれできることがある。自分のできることで、平和を守って行こう。
心を揺さぶられるお話でした。未だにその余韻に浸っています。
休憩後は、違った視点から私が核兵器禁止条約から学ぶこと、そして米朝会談の傍観者にならないための提案をさせて頂きました。午後には、いくつかのひろば・フィールドワークがあり、夜には灯篭流しに参加した人も多かったようです。
[2018/8/6日 イライザ]
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