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2018年8月

2018年8月26日 (日)

初心に帰る ――執筆陣が揃ってから再出発したいと思っています――


初心に帰る

――執筆陣が揃ってから再出発したいと思っています――

 

このブログは、2016年の4月に始めたのですが、「予告」は3月の末にアップさせて頂きました。そこで予定していた「世話人」が正式に決まらないままの出発でした。

 

ブログの趣旨も再度お読み頂ければ幸いです。

 

第一回の記事は「原点は五円玉」と題しての五円玉の思い出でした。

 

Photo_6

 

「執筆陣」として当初お願いできると考えていた方々は皆忙しい方ばかりだということも分りましたし、「世話人」が決らないままに、テーマ等の設定もきちんとした方針を打ち出せず、「仮世話人」の私が、とにかく毎日ブログをアップすることを目的化してしまった嫌いがありました。


にもかかわらず、多くの皆さんに御支援・御協力頂いたお蔭でこれまで続けることが出来ました。感謝の気持で一杯です。特に、ブログを読んで下さった皆さん、コメントをお寄せ下さった皆さんには心から御礼申し上げます。

 

その大半は身辺雑記になりましたが、それなりに内容を吟味した積りです。とは言え、この際、初心に帰り、交代制で「世話人」をお願いした上で、執筆陣も無理のない人数の方々に再度お願いして珠玉のエッセイをお寄せ頂ければと考えています。

 

その準備ができるまで、暫くはお休みさせて頂きます。御寛恕下さい。

 

[2018/8/25 イライザ]

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コメント

帰って来れれる日を待っています。

ブログ 毎日 とても 面白く拝読 していました 。
お休みとは とても残念です 。
なるべく早く 再開した 下さいませ。

「⑦パパ」様、「Cihiro」様

大変温かいコメント有り難う御座いました。

楽しくためになるエッセイをお届け出来るようになると思いますので、再開したらまた宜しくお願いします。

出来るだけ早く準備をします。

再開されることをお待ちしています。
どこかで仕切り直しをするのは結構勇気が必要だとは思いますが、
それでまたパワーアップされることを期待しております。

コメント有り難う御座いました。

パワーアップした上で、再開したいと思っています。

イライザさんらしい決断ですね。
平和についてのことと、個人的なことのバランスは絶妙でした。
なんとか再開してください。
楽しみにしています。

「元安川」様

コメント有り難う御座いました。

何とか10月くらいには再開できると良いのですが。頑張ります。

再開はきりのよい9/1から、とばかり。
広島県・市の教育委員会、岸田某と、
これらのヘタレを払拭するには、
”ヒロシマの心”の発信きりなかとです。←ヘンな九州??弁...
総裁選の前とは言わない、
せめて沖縄県知事選前までに!

「硬い心」様

コメント有り難う御座いました。

執筆陣へのお願いはそれなりに時間が掛りますので、今のところ、10月1日に再開できればと考えています。再開後も、宜しくお願いします。

2018年8月25日 (土)

北海道の自然 ――洞爺湖と昭和新山――


北海道の自然

――洞爺湖と昭和新山――

 

北海道を訪ねて、改めて自然の素晴らしさに言及するのは、余りにも定番過ぎて顰蹙を買うことになる物の言い方です。でも、西日本の豪雨災害があり、台風19号と20号による被害も大きかった季節には、自然の「脅威」に注目するのは当然ですので、その脅威も含めての自然という存在全体を考えることに意味があるかもしれません。

 

一日に何度も見る機会のあった洞爺湖と中の島、中島です。機構が変り易いときだと、数文で姿が全く違って見えてきます。先ずは雲に巻かれている洞爺湖です。

 

Photo

 

夕方が近付いてくるとこんな具合に見えました。

 

Photo_2

 

陽の当る洞爺湖ですが、私はこんな感じが好きになりました。

 

Photo_3

 

そしてちょっと幻想的な洞爺湖にも魅力を感じました。

 

Photo_4

 

洞爺湖だけでも「百聞は一見に如かず」の恒例なのですが、昭和新山でもその感を強くしました。

 

ウイキペディアによると、「1943年(昭和18年)12月から1945年(昭和20年)9月までの2年間に17回の活発な火山活動を見せた溶岩ドーム」だとのことですが、戦時中だったため、この活動は伏せられ、それを自費で記録した当時の郵便局長三松正夫氏の業績が高く評価されています。また、昭和新山の地域で農業や酪農を営んでいた人々の生活の糧が失われたため、三松氏はこの土地を買い取ることで支援活動も行ったとのことです。この火山が私有財産である事実は知っていましたが、ほんの少しではありますが歴史を学んだことで、自然と人間との関りに新たな目を見開くことにもなりました。

 

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[2018/8/24 イライザ]

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2018年8月24日 (金)

小樽のにしん御殿 ――石狩挽歌の歌碑もありました――


小樽のにしん御殿

――石狩挽歌の歌碑もありました――

 

 

小樽で行って良かったと思ったのは、「にしん御殿」でした。小樽市街から15分も掛からない海辺の高台にある豪邸です。

 

その豪邸は、にしん大尽だった青山家の別邸でしたが、その後公に公開され、「貴賓館」という施設も併設されて、現在では小樽市の観光スポットとして多くの人に愛されています。まずは表門です。

 

Photo

 

門を入るとすぐ左に「石狩挽歌記念碑」があります。歌碑の下には歌詞が刻まれていますが、その中で「オタモイ岬のニシン御殿も 今じゃさびれて オンボロロ」が耳に焼き付いています。

 

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歌碑の除幕式には、作詞のなかにし礼さん、作曲の浜圭介さん、そして歌手の北原ミレイさんが駆け付けてとても盛り上がった様子が覗われます。

 

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「にしん御殿」そのものの中に入るためには、まず貴賓館に入ります。入ってすぐ気付いたのは、大広間を圧する天井画です。一人の画家ではなく、多くの市民も参加して一枚ずつ描いた成果のようです。

 

Photo_4

 

にしん御殿そのものの歴史も感動的でした。貴賓館のホームページでは次のように説明しています。

 

青山家は明治・大正を通じ、鰊漁で巨万の富を築き上げました。その三代目、政恵が十七歳の時、山形県酒田市にある本間邸に魅せられ大正六年から六年半余りの歳月をかけ建てた別荘が旧青山別邸です。
 旧青山別邸は平成22年、国より登録有形文化財に指定されました。
1500坪の敷地内に木造2階建てで建坪は190坪。家屋の中は6畳~15畳の部屋が18室、それぞれに趣が異なり、金に糸目をつけず建てられた豪邸です

 

御殿の中は撮影禁止ですので、雰囲気を知って頂くため、貴賓館のホームページから、画像をお借りしました。

 

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私が鰊を初めて認識したのは、戦後の配給で「身欠き鰊」と呼ばれる魚が届いて、食糧難の頃、大変貴重な動物性たんぱく質の供給源になった時です。ですから、私にとって鰊は食べ物なのですが、年間一万石、トン数では7500トンにも上った鰊のかなりの部分は、大きな鍋で煮上げて、「鰊粕」に仕上げられ、肥料として全国的に使われていたようです。

 

この豪邸の総工費は現在の価格では35億円にも上ると言われ、江戸時代以降の様々な美術品も見事でした。

 

あまりにも多くの美術品があるからかもしれませんが、中には陽に曝されているものもあり、ちょっと心配もしましたが、御殿の裏のアジサイの見事さに心が奪われた状態でにしん御殿を後にしました。

 

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[2018/8/22 イライザ]

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2018年8月23日 (木)

札幌から洞爺湖へ ――何とかお天気にも恵まれています――


札幌から洞爺湖へ

――何とかお天気にも恵まれています――

 

 

昨日見られなかった札幌を楽しんで、その後洞爺湖への移動をした一日になりました。

 

最初は大通公園でとうきびワゴンから、焼きとうきびとジャガイモのセットを食べてからという積りだったのですが、「雨が降りそうなので今日はお休み」という知らせが観光インフォメーション・センターにあったそうで諦めました。近くのラーメン屋さんでまた札幌ラーメンで腹ごしらえをして、大通公園の端にあるテレビ塔に。

 

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下から見たテレビ塔

 

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すっかり天気が良くなった大通公園をテレビ塔から

 

札幌と言えばクラーク博士なのですが、博士の像がある羊ケ丘展望台に行きました。像の隣で写真を撮るのには長い列に並ばなくてはなりませんので、ちょっと角度を変えてのショットです。

 

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浜口庫之助作詞作曲、石原裕次郎歌の「恋の町札幌」の歌碑もありました。裕次郎さんと私の間にクラーク博士の像が見えます。

 

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札幌の都市部とは全く違う展望台からは、札幌ドームと遠くに市街地を望むことが可能です。

 

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札幌を離れて、途中の室蘭に近い海岸です。まだシーズンのはずなのですが、人影はほとんど見えませんでした。

 

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そしていよいよ洞爺湖です。ちょっとガスっていますが、明日は綺麗に晴れそうですので、中島もきれいに見えるはずです。楽しみにしています。

 

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[2018/8/22 イライザ]

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2018年8月22日 (水)

サッポロビール博物館 ――北海道で飲むビールは格別です――


サッポロビール博物館

――北海道で飲むビールは格別です――

 

小樽では、にしん御殿をゆっくり見た後、札幌に移動しました。にしん御殿についてはまた稿を改めて報告したいと思っています。そして、夕方にはサッポロビール博物館でした。

 

Photo_2

 

改めて日本のビールの歴史を辿りたいと思って、50分掛かるプレミアム・ツアーに参加しましたが、初めて知ることばかりで、とても勉強になりました。その内のいくつかを報告しておきたいと思います。

 

日本で初めてビールの醸造を行ったのは、当時の政府の機関だった開拓使麦酒醸造所なのですが、その責任者が中川清兵衛です。彼は幕府の禁を犯して1865年にイギリスに渡り、その後、ドイツに移ってビール醸造の技術を学びます。1875年に帰国した後、開拓使麦酒醸造所で学んだ技術を駆使し、1876年に日本で初めてのビール醸造に成功したのです。

 

ビール発祥の地がサッポロだということで、サッポロビールの存在が重みを持って伝わってきました。その後、サッポロビールは東京にも工場を造り、シェアが日本一になりますが、工場があったのは、墨田区にある現在のアサヒビールの本社の場所でした。

 

Asahi_breweries_headquarters_deriva

By 663highland - 投稿者自身による作品, CC 表示 2.5, https://commons.wikimedia.org/w/index.php?curid=15152452

 

それは、一時、サッポロビールとアサヒビール、そしてエビスビールが合併して大日本麦者株式会社になっていたからなのだそうです。ちなみに、当時の4大ビール会社は、サッポロ、エビス、アサヒ、そしてキリンだったそうです。

 

今は、エビスは札幌の傘下に収まっていますが、アサヒは別会社、そしてサントリーが参入しています。海外ブランドも各社を通して販売されていますので、当時と比べると多様化が図られていると言って良いのかもしません。

 

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大日本麦酒株式会社時代の3ブランド、左からエビス、サッポロ、アサヒ

 

その後の歴史の中での注目すべき出来事としては、「ビン生」や「黒ラベル」がありますが、コマーシャルとして一世を風靡した「男は黙ってサッポロビール」が何と言っても特筆に値するのではないでしょうか。

 

Photo

 

最後に、ツアーのコンダクターがビールを美味しく飲む「三度注ぎ」を紹介してくれました。ちょっと時間は掛りますが、グラスの外にまで広がる泡 (英語では「head」、つまり頭と言いますが) はグラスを傾けてもそのまま泡であり続けるという素晴らしい注ぎ方です。

 

動画は撮らないようにということでしたので、一枚だけ写真を添えますが、YouTubeには動画が載っていました。それもエビスビールを使ってのものです。一度、私も試した上で、再度報告したいと思っています。


 

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今回は、結局ビールに飲み込まれてしまっている私の独白以外の何物でもありません。

 

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[2018/8/21 イライザ]

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2018年8月21日 (火)

小樽運河で小樽の人と ――北海道に来ています――


小樽運河で小樽の人と

――北海道に来ています――

 

我が家のメンバーは、北海道に縁がなく、これまで北海道まで足を延ばしたのは私だけでしたので、昨年からスケジュールを合わせて、ようやく北海道旅行にやってきました。最初の訪問地は小樽です。ここは全員初めて訪れる街なのですが、「小樽運河」や「小樽の人」という名曲を通して、馴染みの深い土地だと思い込んでいました。そして、実際に来てみるとこじんまりして気取りのない雰囲気に満ちていました。

 

ホテルについてまずは運河の周辺を散策しました。昼間の運河です。

 

Photo

 

1

 

そして北海道の演歌には必ず出てくるカモメも、手の届くくらいのところに止って観光客を歓迎してくれていました。

 

Photo_2

 

その後、ビール工場を覗いたり買い物をしたり。そして夕食もゆっくりと楽しみました。帰りの街はすっかり暗くなっていて、夜の運河もロマンチックでした。

 

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ホテルに戻ってから、田舎住まいではなかなかできないことを決行 することにしました。ドゥオモ・ルッソというバーに行ったのです。

 

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結構若い人たちもいて、バーの文化が消えていないことも、バーテンさんのシェーカーを振る音とともに懐かしく安心しながら見守りました。また、このバーで感激したのは、野菜スティックです。北海道産が美味しいということでしょうか。野菜そのものは柔らかいのに、シャキッとした食感は爽やかそのものでした。


Photo

 

そして、バーの外からは夜の運河を上から見ることができました。このアングルからの小樽運河も風情があります。スマホですから、セピア色にまではできませんでしたが、どこかから「Yesterday」が聞こえてきたような気がしました。

 

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[2018/8/20 イライザ]

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2018年8月20日 (月)

気温の24時間測定合宿 ――同じお題で書きましょう――


24時間、気温測定合宿

――同じお題で書きましょう――

 

小学校5年生か6年生の時、一日24時間、一時間おきに気温を測定してその結果を提出する宿題の出たことがあります。というのが、ずっと変らない私の記憶なのですが、生徒一人一人に出された宿題だとすると負担が大き過ぎますし、元々何人かがグループになって、保護者に応援して貰うことを前提にした宿題だったのかもしれません。

 

私たちのグループは、男女合わせて10人くらいで、学校の近くで旅館をしていたM君の家で「合宿」をしました。昼間の気温は学校で測れば良いということだったのだと思いますが、夜の6時頃からM旅館の二階の大広間に集まって、夕食から始まりました。

 

何時には誰が気温を測る、という担当は決めてありましたので、それ以外の時間は皆で楽しく遊んでいれば良いという、勉強すると言うよりはミニ修学旅行という感じでした。旅館ですからお風呂にも入れて貰いましたし、日頃から学校が終るとM君の家に集まって、裏山でチャンバラをしたり、テレビで大相撲を見せて貰ったりという生活の一部になっていた旅館でしたので、「勝手知ったる」テリトリーで、一晩遊び回りました。

 

M家の皆さんはこれだけの腕白グループの世話で大変だったろうと思いますが、それは今になって感じることで、当時はとにかく楽しさ一杯の一晩をとことん満喫することしか考えていませんでした。

 

M家には、御両親も自慢の「美人三姉妹」、つまり、私たちの同級生M君のお姉さんたちがいて、その夜は私たちの世話に駆り出されていました。一番上のお姉さんは、ピアノのある部屋で、私たちのためにミニコンサートを開いてくれたのですが、そのときに弾いてくれた「テネシー・ワルツ」は、その何年か前にパティー・ページが歌い、日本では江利チエミが歌って大ヒットした曲でした。そんなことは知らずに、その時初めて聞いたのですが、こんなきれいな歌があるのだと大感激したことを覚えています。

 

Tennesseewaltzpattipage

 

Photo

 

私の担当は夜中の11時だったと思いますが、M君のお母さんに起されて、気温を帳面に記録してまた寝たという記憶しかありません。疲れて次の朝まで、担当の時間に起される人を除いて、私たち全員良く眠りました。

 

次の朝、みんな元気に起きたのですが、グループの一員I君の姿が見えません。「早く帰った」というM家の大人たちの説明だったのですが、誰かの口からか直ぐに真相が分りました。I君は、夜の内に「大」の方の粗相をして、皆に顔を見られるのが恥ずかしくて早く帰ったとのことだったのです。

 

ちょっと吃驚という感じはありましたが、その後、学校でI君に会っても、誰も何も言いませんでした。でも皆の記憶の中には留まっているのだと思います。この「合宿」を思い出す度に、そのときの楽しさにアクセントを付けてくれているエピソードとして、懐かい記憶の一部になっています。

 

[2018/8/19 イライザ]

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コメント

参加ありがとうございました。

小学校の時に授業中に粗相をしたT君は、その時から
今まで全員が「ポンタ」と呼んでいます。20年くらい前
のクラス会で、女子が「ところでポンタ君、本名はなん
かいね?」と訊いていましたw 今はタクシーの運転手
さんをしているのですが、偶然乗り合わせた嫁が「パパ
の同級生の運転手さんだった、ええと、ポンタさん」だっ
て。

念のためですが、大便を広島弁の子供言葉で「おんぽん」
または「ぽん」と言います。

「⑦パパ」様

コメント有り難う御座いました。

これって、東日本と西日本の文化の違いなのかもしれませんね。

2018年8月19日 (日)

朝顔日記 ――毎年一度の報告です――


朝顔日記

――毎年一度の報告です――

 

我が家では、今、朝顔が元気に咲いています。まだまだ蔓は伸びそうですので、これからも期待できそうです。先ずは86日の朝顔です。

 

86

 

そして、10日には、もう少し丈が伸びてきました。

 

810

 

最新の映像をお届けするために、今朝の朝顔を何枚か。

 

Photo

 

今年の朝顔の特徴は、種を撒いたプランター以外の場所でもたくさん花が咲いていることです。例えば、こちらは軒の下です。

 

1

 

そしてこちらは、畑の中。と言っても、かなり雑草に覆われていますが。

 

Photo_2

 

毎年一度は報告したいと思っていましたが、今年はこれからまだまだ咲き続けるようです。蔓がもっと伸びてから、「緑のカーテン」っぽい朝顔をもう一度報告できればと思っています。

 

[2018/8/19 イライザ]

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2018年8月18日 (土)

早朝ウォーキングを楽しんでいます ――今の季節の田圃は絶景です。――


早朝ウォーキングを楽しんでいます

――今の季節の田圃は絶景です。――

 

このところ、少し涼しくなってきましたが、20年近く続けて来た早朝のウォーキングのペースが上っています。そして、都市部とは違った楽しさも加わりました。季節毎に変る田園風景です。特に今の季節の田圃の美しさには言葉もありません。スマホで簡単に写真の取れることに感謝しています。

 

1

 

イノシシ除けの柵が左下に見えます。

 

2

 

向う側のハウスは最近できたものです。農業は盛んですが、人口は減っているようです。

 

Photo

 

稲の実る速度が少しずつ違います。収穫の時期も迫っているようです。

 

元々1時間歩く予定で設定したコースですが、今では50分で歩けるようになりました。それはそれで喜ぶべきことなのですが、もう10分余分に歩くため、どこか「寄り道」的な新たな迂回コースを探しています。

 

[2018/8/17 イライザ]

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2018年8月17日 (金)

飛行機の中でWi-Fiが使えます ――昔のサービスがようやく復活しました――


飛行機の中でWi-Fiが使えます

――昔のサービスがようやく復活しました――

 

地上ではWi-Fiの使える範囲がどんどん増えている上に、iPhoneのテザリングを使えば、先ずどこでも問題はなくなりましたので、残るは空の上そして船の上ということになりました。そして最近、飛行機の中でWi-Fiが使える、という昔のサービスが復活しました。

 

もう20年も前になるのだと思いますが、Boeing機の中、国際線では有料のWi-Fiサービスがありました。とても便利だったのですが、恐らく利用者が少なかったのでしょう、一二年で中止になりました。ボーイング社の幹部に知り合いがいたので、何とかならないか直訴したのですが、経済性の前には無力でした。

 

そのサービスがこのところ、ANAでもJALでも復活しました。しかも無料です。こんなことで社会全体の動きを予測しても意味はないのですが、社会が一度退化しても、やがてはそれ以上に良い形で進化する、と信じたいほどです。

 

但し、どのフライトでもこのサービスがある訳ではありません。サービスのある機体には、こんな標識が出ています。

 

Wifi_4

 

離陸してから恐らく1万メートルくらいに達した頃でしょうか、ANAWi-Fiページの左上の方に、「衛星通信可能」という文字が現れます。

 

Wifi_3

 

後は「インターネット接続はこちら」というエリアをタップするだけで良いのです。すると、画面は、次のように変ります。

 

Photo_2


後は、普通にWi-Fiを使えば良いだけですが、ついつい嬉しくなって、どうでも良い写真を送り付けてしまいました。国際会議出席のため、国際線に乗り継ぐフライトだったので機内食が出たのですが、その写真です。

 

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飛行機の中でも仕事ができるようになったことを喜んではいるのですが、国内線の飛行時間は一時間一寸の場合が多いことも考えると、その間リラックスする方が時間の使い方としては賢明なのかもしれません。結論は先延ばしにするとして、取り敢えずは選択肢の増えたことを喜びたいと思います。

 

[2018/8/16 イライザ]

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2018年8月16日 (木)

手動式芝刈り機 ――昔懐かしい機械です――


手動式芝刈り機

――昔懐かしい機械です――

 

田舎の夏は、朝早くから始まります。まだ、陽が差さない内に、あちこちから草刈り機の音が聞こえて来るのです。「草刈り」の代りに「刈り払い」とも呼ばれるようです。田圃の畔は勿論のこと、田圃に降りる土手も、道路の縁まできれいに刈るのが決りになっているようです。公的スペースだと思われるところは、農事組合法人の仕事なのでしょうか、何人かの方からなるチームで素早く刈って行きます。頼もしい限りの姿です。その結果はこんな具合に美しい「田園」です。

 

Photo

 

ここまで本格的ではありませんが、我が家でも、庭とその周辺の草刈りは定期的にしています。少し伸び過ぎると、親切な御近所さんが「ついでに刈っておきましたよ」というようなことになってしまいますので、「あまり伸びない内に」が鉄則です。

 

刈り払い機の定番はエンジン式です。プロの皆さんは大体こちらを使っているようですが、それも、2サイクルか4サイクルかで使う燃料が違います。4サイクルはガソリン、2サイクルは混合油だそうです。しかも、エンジンですからスパークプラグ等が必需品ですし、メンテには手間が掛ります。

 

出来るだけ簡単な機械をということで、電動式、しかも充電式ではなく、コードで電源につなぐ有線方式のものを買いました。広い田圃の草刈りには使えませんが、我が家のような庭とその周辺では全く問題がありません。

 

というのは、実は強がりで、何年も使っていると、そして年を取ってくるとコードを引っ張っての草刈りが、ちょっと面倒臭くなってきます。面倒臭さの理由の一つは、機械の重さです。(写真を撮るためだけに持っていますので、コードはつないでありません。)

 

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モーターを地面から少し離して持たなくてはなりませんので、その分の力が必要です。筋力増強も一つの解決法なのですが、それとは違う方式で欠陥を補える芝刈り機がありました。回転式、または手動式の芝刈り機です。

 

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これを押すだけで、回転する刃が草を刈ってくれます。しかも、刃の部分を手で持つ必要はなく、両側にある車輪が支えてくれていますので、必要なのは押す力だけなのです。こんなにエレガントな古典的芝刈り機は、1950年代のアメリカ映画にも登場していたくらいの実績があります。

 

斜面に使えないという不便さはありますが、一番広い平面の部分は問題なく芝が刈れます。ということで、その部分は手動式を使っての家人の担当ということになり、御近所さんを心配させることなく、綺麗な芝生を楽しんでいます。

 

[2018/8/13 イライザ]

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2018年8月15日 (水)

終戦記念日 ――全ての戦争を終らせる日――

終戦記念日

――全ての戦争を終らせる日――

 

「八月は6915日」という川柳っぽい五・七・五の表現があります。それにお盆もあるのですから、人間の生死、そして戦争と平和に思いを馳せ、先人たちの経験を追体験しその意味を考える月だと言って良いでしょう。

 

そして、このブログは、6日と9日に焦点を合せて一年を通して色々考え行動する場ですので、今日は815日を取り上げてみましょう。先ず名称は「終戦記念日」です。「敗戦記念日」と言う人もいるようですが、戦争の始るのが「開戦」それと対になって終るのが「終戦」という表現です。

 

それに、「敗戦」という言葉の背景には戦争をした相手の存在がなくてはなりません。戦争という文脈を毎年持ち出して、「敵国」に「負けた」という点を強調するよりは、共に、戦争を止めてその後は平和な協力関係を作って来たという点を強調する方が未来志向だと思うのですが、如何でしょうか。それに、「敗戦」ですぐ頭に浮ぶのが野球の「敗戦投手」です。でもその場合、「次は勝って欲しい。勝利投手になって欲しい」という気持が強くあります。それと重なって、「戦争」という枠組みで「敵国」との関係を限定してしまうことにならないとも限りません。

 

「全ての戦争を終らせる」という考え方は、昨日今日始ったことではありません。1914年に始まった第一次世界大戦は、「War to end all wars」、つまり「全ての戦争を終らせる戦争」と呼ばれました。『透明人間』や『宇宙戦争』等で有名なH.G.ウェルズやアメリカのウッドロー・ウイルソン大統領がこの考え方を広めた結果、第一次世界大戦後の講和条約締結の際の基本的な土台となり、世界平和を推進する組織として、1920年に国際連盟ができることにもつながりました。

 

Woodrow_wilson

ウイルソン大統領

 

残念なことに、その後第二次世界大戦が起きましたので、第一次世界大戦を「全ての戦争を終らせる戦争」にはできませんでしたが、国際連盟の発展型として国際連合が生れ、ヨーロッパの緊張関係はEUという平和的な発展型に変質し、日本では終戦を機に平和憲法によって世界平和を推進する国家たらんとする決意が生れたのですから、長い目で見ると、時期はずれていますが、ウェルズやウイルソンの目指した方向に世界は動いてきたと言って良いのかもしれません。

 

戦後73年間、日本にとって「終戦記念日」は、「戦争を終らせた戦争」であり続けていますが、それを世界に広めて、日本という国の努力によって「全ての戦争を終わらせる」という目標が達成できるよう、私たちが新たな決意をする日でもあることを最後に指摘しておきたいと思います。

 

[2018/8/13 イライザ]

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コメント

ノー、ノー。理想としてはそうであろうけど、それでは、
未だきちっと総括も何もしていないこの国にあっては、
加害者の面が隠されてしまい、見えなくなってしまい、
免罪符とさえなってしまう。
それよりも、8/15というと皇居前で平伏する人々の
映像が→誰もが当日のものと思ってしまう→fakeだってば!
これが何より腹立たしい。

訂正訂正。「映像」ではなく「写真」でしたね。失礼しました。

「硬い心」様

コメント有り難う御座いました。

「日本という国の努力」の中には、これまで不十分な事しかしてこなかった面でも努力をするという意味を込めた積りなのですが---。

それと、嘘八百の「大本営発表」しか公にされなかった時代です。しかも、正式の「降伏」は、ミズーリ号上で調印の行われた9月2日ですから、8月15日の報道だけが例外ということはないでしょう。

終戦祈念日ですね。

「ふぃーゆパパ」様

コメント有り難う御座いました。

「祈念日」を「既念日」にするよう、頑張りたいですね。

2018年8月14日 (火)

自然木ベンチの鉋掛け ――元々の木の色に戻りました――

自然木ベンチの鉋掛け

――元々の木の色に戻りました――

 

サンデッキの表面をサンダーで研磨した勢いで、もう一つ、気になっていた庭のベンチの「美化」にも挑戦しました。これは、御近所さんがクリスマス・プレゼントとして持ってきた下さった貴重な自然木そのままのベンチとテーブルです。

 

再度、そのベンチの色を御覧下さい。雨風に晒されたせいでしょうか、ちょっと灰色がかっています。これも文明の利器、サンダーできれいになるのではないかと思ってしばらく頑張ってみました。

 

20171224_13_36_50

 

でも、灰色の層がかなり厚くなっていたようで、目の荒いサンドペーパーを使ってもサンダーでは埒が明きません。いっそのこと、鉋で削った方が良いのではと考えて、何年も使っていない鉋を持ち出しました。

 

Photo

 

鉋の方に気を取られて、ベンチの「before」をアップで撮り忘れたのですが、座面が終った時点で、背面はまだ灰色のベンチです。

 

Photo_2

 

背面に鉋を掛けるのは、木目も考慮しながら斜めに掛けることになるので、利き手だけでは上手く行かず、左手も使って何とか終らせることが出来ました。その結果がこちらです。

 

Photo_3

 

元々の木の色が蘇って、サンデッキと合わせて庭全体が明るくなりました。自然を楽しむにしても、全てを自然に任せておけば良い訳ではなく、メンテナンスも小まめにすることが大切だという教訓も学ぶことが出来て、残り少ない夏を目一杯楽しみたいと思っています。

 

[2018/8/13 イライザ]

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コメント

凄い出来上がりですね。しばらく鉋かけやサンダー磨きやっていません。それどころか先日町内の清掃に草刈り機を出して頑張っていたのですが、突然エンジンストップ!
どうやら混合ガソリンでなく、生のガソリンを給油したようでエンジンが焼け付いて「はいそれまでよ」ドジな私です。

「気まぐれ放談」様

コメント有り難う御座いました。

改めて鉋の威力に驚きました。

草刈り機は使うのが難しいですね。私は電動式を使っていますが、最近は「手動式」も導入しました。これについてはまた報告させて下さい。

2018年8月13日 (月)

サンデッキの表面に鉋掛け ――その後には、ニスを塗りました――

サンデッキの表面に鉋掛け

――その後には、ニスを塗りました――

 

もう2か月前になりますが、懸案のサンデッキが完成しました。御近所のEさんそしてTさんのお陰です。

 

その時点では自然の木肌の色が美しく、全く問題はないのですが、雨も降りますし、冬の厳しい寒さにも耐える必要があります。表面に木材保護のための塗料を塗らなくてはなりません。できれば、木の色を生かすようなものをと探してみましたが、ちょうど良い塗料がありました。

 

しかし、塗料を塗るのにはその準備が必要です。木の表面をスムーズに削らないと、塗料が上手く定着しません。サンドペーパーを使って、表面を研磨するのですが、サンデッキの表面積がかなりあるので、手仕事では無理そうです。ということを口実に、何年か前から欲しいと思っていた電動サンダーを買って、サンデッキの下処理をすることにしました。

 

買ったのは、ボッシュの吸塵オービタルサンダーです。サンダー、つまりサンドペーパーで表面を研磨する機械ですが、その原理は、摩擦によって表面を削り取ることですので、削り滓が出てきます。それを四方に散らしておくのではなく、掃除機と同じ原理で吸い取って、まとめて捨てることが出来る機能が付いている優れものです。

 

Photo

実際に使ってみると、サンドペーパーもいろいろな種類があり、目の細かさも種類が多くて、何度か我が家とジュンテンドウの間を行き来しましたが、結果はとても上手く行きました。なんだか、プロになったような気持でした。

 

Photo_2

 

それに、アマゾンで買った屋外用のニスを塗って全部仕上がりました。この作業は6月末には終っていたのですが、その後、豪雨災害や酷暑等があり、今日ようやくアップすることになりました。

 

サンデッキは昼間の溽暑の間には使えませんが、夜、少し涼しくなってから星を見ながら寛ぎの一杯を傾けつつ、至福の一時を過しています。

 

[2018/8/12 イライザ]

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2018年8月12日 (日)

憲法調査会での金子発言 ――無抵抗降伏論を独自に表明――

 

憲法調査会での金子発言

――無抵抗降伏論を独自に表明――

 

西日本豪雨災害からの教訓のまとめとして、防災省の設置を提案してきましたが、組織的には、自衛隊を災害救助隊に改組するという説明が分り易いと思います。これが可能である大きな前提として、仮に海外からの侵略があったとして、自衛隊が武力に依って抵抗するのではなく、威厳を持った降伏によってできるだけ多くの人の命を守ることが大切であること、またその後の日本社会において、ソフト面を生かしての非暴力抵抗運動を通して、原状回復を行うことこそ、より良い選択であるという、「森嶋通夫理論」を御紹介しました。

 

今回は、これと同様の考え方を国会の中の憲法調査会で披歴した、金子哲夫衆議院議員(当時)の発言をお読み頂きたいと思います。森嶋理論とは全く独立した形で、自前の提案をきちんとされている姿は立派ですし、国会の議事録にその発言が残されていることにも意味があります。以下、議事録の一部です。読み易いように改行等を行っています。

 

               

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第154回国会 憲法調査会国際社会における日本のあり方に関する調査小委員会 第4号
平成十四年(2002)六月六日(木曜日)
    午後二時二十九分開議

 

金子(哲)小委員 社民党の金子でございますけれども、私は、非核三原則にかかわって少し発言をしたいと思います。

 

先生のおられるところでもぜひ発言をしたかったのですけれども、最後は、宗教的信念などと核兵器廃絶の問題がとらえられているということについて極めて驚きを持っております。

 

我が国が、政府が、非核三原則のみならず、国連においてたびたび国連決議の中で核兵器廃絶のための提案をしていることは事実でありまして、それは世界から核兵器をなくそうということ、我が国が非核三原則を持っているからということだけではないと言わなければなりません。そもそも、ただ被爆国であるということでもありません。

 

つまりは、その被爆の体験の中から、核兵器の非人間性というものについて、既に国際司法裁判所でもその点については明確に規定をされているわけでありますけれども、そういった核兵器の持つ非人間性とそのことによる被害というものに着目をして、再びそういうことがこの地上の中に起きてはならないということで核兵器の廃絶というものを訴えてきたし、また、そのことによってその説得力を持つという意味においても非核三原則というものが提起をされているように私は思えるわけです。

 

そうしませんと、万々が一のときにということをお話しになりましたけれども、万々が一のときというのは一体どう考えればいいのか。それは、つまりは、核兵器が一日にしてつくられるわけではありませんから、そのことを想定しておれば、いずれ非核三原則を否定して政策を変換しなければ、万々が一に備えることはできないということになるわけでありまして、そういうことに論点が行くこと自身も私にとってはある種の驚きでもあります。

 

ですから、私は、やはり核兵器というものについて、核兵器の持つ本質的な意味、また核兵器の破壊力、放射線障害の持つ意味ということを実体験として知っている我が国だからこそそのことが言えるというふうに思うので、むしろ私は、日本の外交姿勢の中にあって、唯一の被爆国というまくら言葉は国連の中でも何度も表明をされますけれども、広島や長崎で起きた事実に対して、そのことを世界にどれだけ知らしめる努力をしてきたのかといえば、極めて残念ながらそれは行われていない。

 

例えば、被爆者の皆さんや平和団体の皆さんが原爆写真展などを通じて被爆体験を広げようという努力をしてきたわけでありますけれども、それすらも、日本政府がたった一度も国連においてそういうことをやったということを私は知りません。そういう努力というものこそが、今唯一の被爆国としての役割だと思います。

 

憲法とのかかわりにおいても、憲法九条の論議のみならず、憲法にうたわれております国際条約との関係の中において、NPT体制の中に日本も批准をして入っている限りこれをむしろ促進していく役割というものがあるわけでありまして、そういう点からもありますし、憲法上からいっても、これは国会の中で、園田外務大臣も随分前の国会ですけれども発言をされておりますように、日本国憲法全体の中に、国民の生命を守っていくという憲法精神からいっても、この非人間的な核兵器を日本が持つということ、非核三原則を変えて核兵器を持つということはあり得ないということをおっしゃっておりますけれども、私もそのとおりだと思います。

 

そういう意味で、やはりもう一度、唯一の被爆国、また被爆体験をした国家としての被爆というものの意味について、私は、国会の中でも改めて論議をした方がいいのではないかということを強く思っております。

 

以上です。

 

赤松(正)小委員 公明党の赤松正雄です。

 

先ほど、ちょっと時間が足らなくて、私が申し上げたことが少し中途半端に終わったんじゃないかと思いますので、その補足と、それから、今金子委員がおっしゃったことに関係すること等について二、三お話をしたいと思います。

 

まず、先ほど、日本の国がこれから直面するであろうというか、今もうしているんですけれども、選択肢が二つある。一つは、憲法を改正して普通の国になるという選択肢と、もう一つは、今のまま憲法のいわば解釈改憲の道を続けて特殊な国の道を歩んでいく、この二つが我々の前に横たわっているだろう。ここは一にかかって国民世論の動向と深くかかわってくると私は思います。日本の国の多くの人々が、今申し上げた大きく分けて二つの道のどちらをとろうとするのか、これはやはり真剣に国民世論の動向というものを見定めていかなくちゃいけない、そんなふうに思っています。

 

私は個人的には、憲法第九条については、第一項はもちろんそのままですが、二項については整理する必要があるだろうなという考え方でおりますけれども、公明党は現時点で、二つ目の、憲法第九条については改正をしない。問い詰めてみたことはありませんが、今の私の仕分け方でいくと、恐らく二つ目の方向を行こうとしているんだろうな、こんなふうに思っております。これが先ほど言い残した部分でございます。

 

それから、今、非核三原則にまつわる話ですけれども、いわゆる核をつくらず、持たず、持ち込ませず、この非核三原則については、私ども公明党は、私が政策形成にかかわった時点で、三原則ではなくて、もう一つ、いわば運動論的につけ加えないと話が決着しないというふうに言って盛り込んだことがあります。それは、持たせずということであります。

 

つまり、持たない、つくらない、持ち込ませないといっても、つくって、それをやろうとする、持つという意思を持つ国があるわけだから、そこに対して持たないようにという働きかけ、つくらせずでもいいんですけれども、そういうことが運動として起こってこないと、自分たちはつくらない、持たない、持ち込ませないと言っていても何も現実的な意味を持たない、そういうふうなことを主張いたしました。

 

一方では、全く逆ではありませんけれども、持たず、つくらずはいいけれども、持ち込ませずというのを掲げるのは日本もおかしい、だから非核三原則ではなくて非核二原則でいいのではないかというふうなことを指摘される向きがあるということについても、私は、その人のそういう主張があるという立場は十分に理解できるつもりでおります。

 

今回の福田官房長官の発言は、恐らく、政府首脳という立場を少しお忘れになって、評論家的に、純理論的に核の問題についてお話をされたのだろう。その辺はもう少ししっかり、用心深くお話をされた方がよかったのではないのかなという印象を持っております。

 

最後、三つ目に、社民党の金子さんに聞きたいんですけれども、実は共産党の山口さんに聞きたかったんですが、おられないので、別に疑似的相手だということではないんですけれども、この調査会は大いに論争した方がいいと思うので言います。

 

実はきのう、有事法制の地方公聴会で仙台へ行ってきました。要するに、万が一、僕は、万が九千九百九十九、平和外交的努力をすることは当然だ。九千九百九十九までやって、あとの一に対して使っちゃいけない有事法制だけれども、つくって、その用意は最低限する必要はあるんじゃないのかというスタンスなんです。

 

だから、そういう意味合いで、日本共産党から推薦された方、あるいは社会民主党から推薦された方のお話を聞いていて思ったのは、要するに、九千九百九十九のことだけで、万が一のことについては触れられない。だから、詰めていけばどうなるんですか、こう聞いたら、いわば非暴力抵抗主義というかそういうことを、現実にその言葉をおっしゃいました。

 

要するに、日本共産党の方に聞きたかったのは、二年前に、必要なときは自衛隊を使うということを彼らは決めているわけですね。それに対して、今は使わないときと決めておられるのかどうか、その辺がよくわからないということを聞きたかったんですけれども。

 

金子さんは、万が一の場合、やはり非暴力抵抗主義というんですか、そういう格好でいかざるを得ないと思っておられるんでしょうか。自衛隊のありようというものと絡めて言っていただきたいと思います。

 

金子(哲)小委員 では、もう私の持ち時間ありませんので、短くお答えしたいと思います。

 

自衛隊の問題については、この委員会でも私ども社民党の政策について御意見が出たことはありますので、その点については今質問が直接ありませんので、とりあえずおきまして、万々が一のお話。

 

実は私のホームページにもその点について、あえてと問われればということで書かせていただいておりますけれども、私は、非暴力抵抗でいい。といいますのは、その中につけ加えておりますのは、もし万々が一のときに想定をされる軍事的な紛争により命を失うこと、そのことと、万が一のときに非暴力抵抗によって仮に失う命とはどちらが多いかと、本当に考えてみたとき、戦争、紛争によって、いわば軍事衝突によって失われる命の方がはるかに多いというふうに私自身は思っております。それは日本国民のみならず相手の国を含めて、そういうふうに思っております。

 

ですから私はそのことを書いておりますけれども、それでもそれに対する批判は確かにあります。私の考え方としては、暴力、軍事的な力によって紛争を解決して失う命よりも、特に近代戦争においては、軍人軍属の失われる命よりも一般の非戦闘員と言われる人たちが、とりわけ第二次世界大戦以降、ベトナム戦争もそうですけれども、近代兵器の中で失われる命の方がはるかに多い状況を考えてみますと、そういう非暴力抵抗によって失われる命の方が少ない。そしてまたそのことは、もし仮にそういうことが起きたとしたら、国際社会の中にあってそのことが永続的に続くとは到底思えないというふうに私は思っておりますので、そういう見解を持っております。

 

藤島小委員 今の件に関してですけれども、戦争になったときに軍人軍属の犠牲者が多いか、一般の国民の犠牲者が多いかというふうに置きかえることがちょっと問題があるんじゃないかと思うんですね。

 

侵略されることで国民の権利とか自由が全く侵害され、あるいは婦女子が全部犯される、そういうことに対して、本当にそのままほって、見ていていいのか。例えば湾岸戦争にしてもそうですけれども、ヨーロッパのいろいろな紛争にしてもそうなんですけれども、それをほっておいていいのかということがやはり一番問題じゃないかなと私は思います。

 

[2018/8/10日 イライザ]

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2018年8月11日 (土)

被爆73周年原水爆禁止世界大会・長崎大会のまとめ ――核を巡る「現在」がコンパクトに分ります――

 

被爆73周年原水爆禁止世界大会・長崎大会のまとめ

――核を巡る「現在」がコンパクトに分ります――

 

被爆73周年原水爆禁止世界大会・長崎大会が、9日に終りました。これで今年の世界大会の全日程が終ったのですが、最後に長崎大会のまとめをアップしておきます。核を巡る「今」という時の姿がコンパクトにまとめられているだけでなく、これからの活動を支えるエネルギーを生み出す力を伴っての報告です。

 

               

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被爆73周年原水禁世界大会・長崎大会 まとめ

 

原水爆禁止世界大会実行委員会

事務局長 藤本泰成

 

728日、福島大会で始まった原水禁世界大会は、広島大会に続いて本日の長崎大会閉会総会と非核平和行進で幕を閉じます。記録的な猛暑の中で、開会総会から、分科会、閉会総会と、足を運んで様々議論いただいたことに、心から感謝を申し上げます。

 

また、大会を通じて開催にご尽力いただきました大会実行委員会の皆さま、そして中央団体、各県運動組織の皆さまに、心から感謝を申し上げます。若干の時間を頂戴して、集会のまとめをさせていただきます。

 

東京電力が、福島第二原発の廃炉を決定しました。しかし、本集会での様々な報告を聞いていると、事故を起こした福島第一原発サイト内においても、そしてサイトの外の世界においても、事故そのものと、事故の被害を含めた社会的影響は、全く終わっていないことが分かります。開会総会での福島県平和フォーラム事務局長湯野川守さんの報告や福島告訴団団長の武藤類子さんの報告から、福島第一原発の「事故の収束」と言うにはほど遠い実態が分かります。あふれ出る放射能汚染水、行方が分からない溶融燃料、拡散し続ける放射性物質、原子力資料情報室の澤井正子さんが言うように「原子力緊急事態発令中」という状態が、2011311日以来続いているのです。

 

2200万個とも言う、黒いグロテスクなフレコンバッグの山と暮らす毎日、公園、校庭、家の庭、仮置き場には、放射性物質を含んだゴミが埋められています。中間貯蔵施設には、その数%しか運ばれていないと言います。支援の打ち切りと帰還の強制は、一体となって行われています。自主避難だと言われ、住宅の無償提供も打ち切られた区域外の避難者の生活は困窮しています。全体で15%少しと言われる帰還した人々も、孤立化しているのが現状です。

 

福島では、設置されてきた3000台の放射能を測定するモニタリングポストも、2400台が撤去されると言います。目に見えない放射能、モニタリングポストは、風評被害を広げるのでしょうか、復興の妨げなのでしょうか。12市町村から継続配置を求められています。新聞社のアンケートでも、約半数が設置継続に賛成、反対は4分の1に過ぎません。

被害者の側にたった施策の充実を、補償と支援を勝ち取らなくてはなりません。

 

チェルノブイリ原発事故被害者のジャンナ・フィロメンコさんの報告から、核被害の共通点が浮かんできます。事故を知らされずに暮らしていた。一時避難のつもりで身の回りの者だけもって家を出たが、永遠に帰れなくなった。移住した子どもたちが「チェルノブイリのハリネズミ」などと呼ばれ差別に苦しむ。子どもたちが、がんや心臓疾患などの健康被害に苦しめられる。

 

フクシマと同じ被害の実態が明らかになっています。原水禁は、世界中の核被害者と連帯してきました。米国やオーストラリアで、少数民族の居住地で、乱暴なウラン採掘が行われ、放射性物質による被害が広がっている実態があります。日本の原発も、経済発展から取り残される地域に「飴と鞭」の政策で押しつけられてきました。チェルノブイリ・ヒバクシャ救援関西の振津かつみさんの報告にある、核利用が社会的抑圧、差別、搾取の構造の上に立つという指摘と、核の開発と利用は、核の被害なしにあり得ないと言う指摘、私たちはもう一度しっかりと胸に刻まなくてはなりません。世界の被爆者と連帯し、その運動を学び合い、様々な視点からとりくみをつくり出そうではありませんか。

 

原水禁運動の原点は、被爆の実相です。そのことを起点に、国家補償に基づいて「被爆者援護法」を求めて来たヒロシマ・ナガサキの被爆者の、長きにわたるとりくみを、現在のフクシマに活かさなくてはなりません。チェルノブイリのとりくみと被害者救済のためのチェルノブイリ法に学び、私たちの運動をつくりあげていきましょう。

 

5次のエネルギー基本計画が出ました。全くでたらめの計画です。「電力自由化で競争が増していく中で、コストが膨張する原子力発電は、民間ビジネスとしては無理だろう」原子力資料情報室の西尾爆さんの報告で、廃炉の時代を迎えた現状と政策転換の重要性が示されました。2030年代に原発の電力が2224%は、あり得ない数字なのです。長崎大会の運営委員会の席上で、「自然エネルギーへの転換のために消費者の選択が大切」との意見をいただきました。自然エネルギー発電の割合の多寡を見極め、新電力・地域電力の選択を私たちの側から求めていくことが、「脱原発社会」の実現に重要です。

 

ドイツからのゲスト、緑の党のべーベル・ヘーンさんの、脱原発を選択したドイツからの報告はきわめて重要です。ドイツは段階的に原発を廃止し、202212月には全てが閉鎖される予定だということです。ドイツの自然エネルギー比率は、2017年現在で38.5%にまで延びています。脱原発の選択が、自然エネルギーの進捗を後押ししていることが分かります。「フクシマがドイツを変えた」と述べられました。私たちは、ドイツのとりくみに学びながらも「ドイツが日本を変えた」と言われるのは恥ではないでしょうか。私たちは、自らの手でエネルギー転換を図らなくてはなりません。

 

核兵器禁止条約そしてトランプ政権の「核態勢の見直し」への日本政府の姿勢も、大会全体を通じて議論されました。被爆者の思いを踏みにじり、核兵器廃絶へ後ろ向きの姿勢が明らかになっています。米国の核抑止力に頼りながら、自らもプルトニウムを保有し「潜在的核兵器保有国」であろうとする日本は、戦争被爆国としての核兵器廃絶へのリーダーシップを取ることができません。核兵器禁止条約への批准を政府に求めていく運動が大切です。

 

憂慮する科学者同盟のグレゴリー・カラキーさんは、米国の資料から、核戦力の充実と拡大抑止、日本への核兵器の再配備さえ求める姿勢を明らかにしました。日本政府は、朝鮮半島の非核化をめぐる南北首脳会談、米朝首脳会談にたいして、全くコミットすることができずにいます。今こそ、私たちが求めて来た「東北アジア非核地帯構想」を実現しなくてはなりません。朝鮮戦争の終結、国交正常化を経て、「東北アジア非核地帯条約」締結への道を歩もうではありませんか。日本政府に、朝鮮民主主義人民共和国との早期の国交正常化を求めていきます。

 

今年、26日、98歳で俳人の金子兜太さんが亡くなりました。金子さんは、2015年から東京新聞の「平和の俳句」の選者を務めました。201511日、最初の句は、

 

  「平和とは 一日の飯 初日の出」

 

愛知県の18歳、浅井さんの句で、金子さんの評は、「浅井君は、毎日ご飯に感謝し、その毎日の平和を守る覚悟だ」と言うものでした。

 

金子兜太さんは、海軍主計中尉としてトラック島に赴任し、餓死者が相次ぐ中、捕虜生活も経験しながら奇跡的に生還しました。その金子さんが1961年に長崎で詠んだ句があります。

 

  「彎曲し 火傷し 爆心地のマラソン」

 

金子さんは、爆心地への坂道を上るランナーを見て、「人間の身体がぐにゃりと曲がり、焼けて崩れていく映像」が、自身の目に浮かんだと述べています。原爆の悲劇を、14の文字の中に、はっきりと映し出しています。

 

2015年、戦争法反対の運動の盛り上がりの中で、金子兜太さんは「アベ政治を許さない」とのメッセージを揮毫しました。「集団的自衛権の名の下で、日本が戦争に巻き込まれる危険性が高まっています。海外派兵されれば、自衛隊に戦死者が出るでしょう。政治家はもちろん、自衛隊の幹部たちはどのように考えているのでしょうか。かつての敗軍の指揮官の一人として、それを問いたい」と述べています。「アベ政治を許さない」の中に、戦前と戦後を生き抜いた金子兜太さんの、確固たる信念が見えます。決して、私たちは戦争という愚行を繰り返してはなりません。どのような理由があろうとも繰り返してはなりません。それは、86日の広島が、89日の長崎が、私たちに教えています。

 

被爆73周年原水禁世界大会の終わりにあたって、みなさんとともに確認したいと思います。

 

 

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[2018/8/10日 イライザ]

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2018年8月10日 (金)

我が家で咲く花 ――薔薇も朝顔も頑張っています――

 

我が家で咲く花

――薔薇も朝顔も頑張っています――

 

我が家の野菜の収穫は明暗が分かれましたが、花は全体として良い雰囲気で咲いています。

 

先ずは薔薇です。6月に咲き始めました。

 

         

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7月になってもまだまだ元気です。

 

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そして今も咲いています。

 

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加えて、毎朝楽しみなのが朝顔です。今日はいくつ咲いているのか、小学生に返ったような気持で数えています。

 

 

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さらにコスモスも咲き始めているのですが、こちらは、もっと盛大に花が開くようになってから報告します。

 

[2018/8/9日 イライザ]

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2018年8月 9日 (木)

被爆73周年原水爆禁止世界大会・広島大会のまとめ ――今年も、とても勉強になる大会でした――

201889日アップ

 

被爆73周年原水爆禁止世界大会・広島大会のまとめ

――今年も、とても勉強になる大会でした――

 

84日から、3日か開かれた被爆73周年原水爆禁止世界大会・広島大会ですが、6日の昼前に無事幕を閉じました。広島県の実行委員会としては、全国から多くの皆さんをお迎えすることが出来、大変嬉しく感じています。参加者の皆さんには、炎天下、熱心に様々な活動に参加して頂きました。今年も私たちに取っては素晴らしい勉強の機会になりましたし、初めてこの大会に参加された方々に取っても、今後の活動につながる意味のある3日間になったことを確信しています。

 

広島大会の「まとめ」をこのブログにアップすることも恒例になりましたが、今年も、新たな視点から分析なども加わり、読み易く、原水禁運動の「今」を理解する上で、とても役立つ文書だと思います。

 

               

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写真は開会総会から

 

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被爆73周年原水禁世界大会・広島大会 まとめ

原水爆禁止世界大会実行委員会

事務局長 藤本泰成

 

暑い暑い広島大会に、最後まで参加いただきありがとうございました。3日間の日程を終えようとしています。本当に様々な議論がありました。少しお時間をいただき、私なりのまとめをさせていただきます。

 

2018年になって、私たち原水禁運動をめぐる情勢は、大きく動いています。それは、朝鮮半島と福島において顕著であると言わざる得ません。被爆73周年原水禁世界大会は、その事を根幹にすえて、様々な議論が続けられたと思います。

朝鮮半島の非核化に向けた米朝首脳会談の開催、そして東電による福島第二原発の廃炉決定、2つの事実は、私たちが求めて来た「東北アジア非核地帯」と「脱原発社会」へ向けた、大きな一歩であることは間違いありません。しかし、現状がきわめて混迷していることも事実です。分科会の議論がその混迷を様々捉えていました。そして、そのことは、私たちが考える以上に深刻であると言えます。

 

5分科会では、全ての原発の廃炉が決定した福島の現状と課題が議論されました。「終わりの見えない福島第一原発」と題した、原子力資料情報室の澤井正子さんの報告は、衝撃です。すでにメディアが取り上げることも少なくなったF1の現状は、まさに「原子力緊急事態発令中」と言えます。溶融した燃料デブリの回収は30年から40年かかる、1台数億円とも言われる調査ロボットは、高放射線量の中で、迷子になり、動かなくなり、捨てられる。澤井さんは「調査さえうまくいかないのに」と現状へ懸念の声あげています。凍土壁設置で騒がれた汚染水対策も十分ではなく、1100トンとも150トンとも言われる地下水が流入し、増え続けるトリチウム汚染水のタンクは、もうすぐサイト内では設置できないような状況になります。海洋放出という話しもささやかれていますが、澤井さんの、「トリチウムは、体内の細胞の中に長く止まり、長期被爆の怖れもある」との指摘を聞くと、現状の深刻さに震える思いがします。

 

福島から参加した、福島原発告訴団団長の武藤類子さんは、除染で出た放射性廃棄物のフレコンバック2200万個と、共に暮らす福島の現状を報告されました。問題が山積し余りに多岐にわたるために、適切な対処ができず、「連鎖的に人権が侵害されていくように感じる」と表現されています。告訴団は、東電幹部の刑事責任を追及する裁判も行っています。責任の所在が全く明らかにされてこなかった原発事故。事故の原因と責任を明らかにすることが、フクシマを繰り返さない事への、「脱原発社会」への一歩につながると思います。

 

6分科会では、チェルノブイリの被害者であるジャンナ・フィロメンコさんをお呼びして、核被害の世界連帯での議論が行われました。医師でチェルノブイリ・ヒバクシャ救援関西の振津かつみさんの報告にある、核利用が社会的抑圧、差別、搾取の構造の上に立つという指摘と、核の開発と利用は、核の被害なしにあり得ないと言う指摘、私たちはもう一度しっかりと胸に刻まなくてはなりません。そうした上で、子どもたちの甲状腺がんに象徴される健康被害に対して、国家賠償に基づいて「被爆者援護法」を求めて来たヒロシマ・ナガサキの原水禁運動の成果を、現在のフクシマに活かし、チェルノブイリと連帯し、そしてチェルノブイリ法に学び、私たちの運動をつくりあげていかなくてはならないと思います。

 

1分科会では、辺野古新基地建設の土砂搬入を目前にする沖縄をテーマに議論が展開されました。憂慮する科学者同盟のグレゴリー・カラキーさんは、開会総会の挨拶で「米国の核兵器をアジアに、さらには日本国内に持ち込ませたいと密かに言っている人がいる」と述べ、加えて核抑止力に言及し「核の傘は、放射性降下物、有毒な放射線、核の冬の大飢饉から私たちを守ることはできない」と述べました。第一分科会では、グレゴリーさんから、「日本政府は、新しい小型の核兵器を作るというトランプ政権の決定に拍手を送りました。日本の外務省の一部の高官は、米国の新しい核兵器を沖縄の米軍基地に配備することを歓迎すると発言しまた」との事実が指摘されています。沖縄返還時点での密約問題は、現在においても日本政府の重要な課題であることが分かります。非核三原則を遵守することが強く求められます。

 

朝鮮半島を、東北アジアを目の前に、米国の東アジア戦略の要としての沖縄では、米軍基地の存在が、様々な問題を引き起こしています。沖縄平和運動センターの岸本さんから、第1分科会で、そしてこの閉会集会で、辺野古新基地建設の現状に関しての報告がありました。翁長雄志沖縄県知事は、公有水面の埋立承認の撤回に向けて動き出しました。辺野古建設撤回に向けて、県知事選挙へ向けて、翁長知事の強い思いを感じます。沖縄防衛局は、聴聞日の延期を申し出て、埋立の既成事実をつくろうとしています。817日にも予定される、土砂搬入を決して許してはなりません。

 

国際シンポジウムでは、東北アジア非核地帯構想を中心に、朝鮮半島の非核化に関して日米の視点から議論されました。ピースアクションのハッサン・エル・ティヤブさんから、朝鮮半島の非核化を要求する米国トランプ政権の、新たな「核態勢の見直し」の中での核戦力の強化の実態が報告され、しかし、社会インフラの劣化の中で、核の近代化への1.7兆ドルもの財政支出に、大きな批判が上がっていることが紹介されました。

 

「核態勢の見直し」は、核兵器廃絶と朝鮮半島の非核化の要求に矛盾するものとして見過ごすことができません。しかし、一方で米国の拡大抑止の強化を要求する日本政府の姿勢が、例えばオバマ政権の核廃絶への歩みを進めようとする姿勢に大きな障害になっていることが、グレゴリー・カラキーさんから指摘されています。核抑止に依存する日本政府の姿勢を、正していくことが重要な課題です。

ピース・デポの湯浅一郎さんからは、朝鮮半島情勢を踏まえ「東北アジア非核地帯条約」へのとりくみを開始すべきとの提案がありました。同席した広島原水禁代表委員の元広島市長、平和市長会議のリーダーだった秋葉忠利さんから、世界の非核地帯条約は、例えばアフリカでは半世紀をかけて成立した。時間がかかることを踏まえたとりくみが大切であり、それを後押しするのは市民社会の粘り強いそしてしっかりとした意思であるとの指摘がありました。様々なアプローチから、時間をかけたとりくみが必要であると思います。

 

ある方からのメールで、2015年に刊行された「被爆者はなぜ待てないか」という本に出会いました。著者は、関東学院大学で教える奥田博子さん。福島原発事故後に書かれた本書では、「戦争被爆国日本において、なぜ再びヒバクシャ出たのか」という問いに対して、ビキニ核実験での被爆の後に、東西冷戦の中にあった日本は、「米国の核の傘に依存した平和」と「米国の原子力産業に依存した繁栄を享受する道」を進んできた。「原爆」が「平和」に書き換えられ、潜在的核抑止力を担保するために、「原子力の平和利用」が高々と掲げられ、市民社会が取り込まれてきたと述べて、福島第一原発の事故が、戦後の日本社会が原爆体験や被爆の記憶にきちんと向き合ってこなかった事にこそ、その要因があるのではないかと指摘しています。

 

全ての国の全ての核に、そして平和利用にも「核と人類は共存できない」として反対してきた私たち原水禁運動は、核兵器と核の平和利用・原発を、ヒバクシャの視点からもう一度結び直して、運動の展開を図る必要があります。

 

マーチン・ルーサー・キング牧師の「黒人はなぜ待てないのか」から引用されたであろう本書の「被爆者はなぜ待てないのか」とのテーマは、被爆73周年を迎えた今日、私たちの運動に重くのしかかってくる言葉ではないでしょうか。ヒバクシャの思いを、実現しなくてはなりません。

  

福島原発事故以降、21基の原発が廃炉になりました。再稼働も9基にとどまっています。原発の新規増設・リプレースも困難です。「脱原発社会」を求める声は、国中に充満しています。

 朝鮮半島では、非核化への動きが進み出しました。核兵器禁止条約も採択されています。今こそ、ヒバクシャの思いを実現する、格好の条件が生まれつつあります。

 

三日間の様々な声を、それぞれの生活の場に持ち帰り、新しい時代を求めて動き出そうではありません。

 

最後に、本大会の開催にご尽力いただいた広島県実行委員会の皆さまと、各中央団体・各県運動組織の皆さまに、心から感謝を申し上げて本大会のまとめと致します。

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[2018/8/8日 イライザ]

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2018年8月 8日 (水)

切明千枝子さんの被爆体験 ――午後にはひろば・フィールドワークもありました――

 

切明千枝子さんの被爆体験

――午後にはひろば・フィールドワークもありました――

 

85日午前中に開かれた第8分科会のテーマは、「見て、聞いて、学ぼうヒロシマ」でした。その一環として、参加された皆さんには切明千枝子さんの被爆体験を聞いて頂きました。

 

前回も述べましたが、私の拙い筆ではとても再現不可能な内容だったのですが、それでも、何らかの形で伺ったことを整理しておくことも大切です。今回も箇条書きにまとめて見ました。

 

[切明千枝子さん]

             

Photo_4

               

 

l 1929 (昭和4) 生れで、今年89歳になる。

l 今起きたことでも今忘れるようになってきたが、あの日のこと、戦争のことは忘れられない。それは嫌な思い出だし、早く忘れたいと思っていたので、多くの人に話すことになるとは思ってもみなかった。でも、戦争の記憶を闇から闇に葬ってはいけないと考えるようになった。人間はかつてと同じ道を歩んでしまう傾向があり、それが恐ろしくなった。だから、話さなくてはと思っている。

l 私が生れた1929年は世界恐慌が起きた年で、「大学は出たけれど」という言葉が流行った。仕事がなかったからだ。株券は紙くず同様になり、生活苦から首を括ったり毒を飲んだりする人も多かった時代だ。

l 15歳のときに原爆が投下され、戦争は終ったが、「15年戦争」という言葉が示している戦争の時代を、べったり生きてきた。

l テロとかクーデターということは他所の国のことで、日本は関係ないと思っている人もいるかもしれないが、昭和の初めには、日本でも起きていた。226事件はクーデターで、私が小学校に上る前のことだった。そして、小学2年生の77日に日中戦争が始まった。

l 当時の日本人の多くは、中国人を「チャンコロ」と呼んで馬鹿にし差別していた。韓国も日本に併合されていて、半島人、朝鮮人に対する差別も酷かった。小学生の頃、一クラスに5人ほどの韓国籍の子どもたちがいたので、大人の差別は腑に落ちなかったし分らなかった。でも男子は差別をしていた。それを止められなかった。大人の考え方が段々子どもたちの心に浸み付いたのだろうか。

l 広島には陸軍の基地があった。県庁やそごう、リーガロイヤルホテル等のある広大な地域が基地だった。

l 宇品港は軍港だった。そこから兵隊たちが中国や韓国、南方に出兵して行った。私たちは毎日のように旗を持って、港に兵隊を見送りに行った。人間だけでなく多くの馬も外地に送られていた。遠浅で、御用船と呼ばれていた大きな船は沖に停泊していたので、そこまで艀で行き、兵隊さんたちはそこから船の舷側を登って行った。馬は登ることが出来ないので、クレーで釣り上げられた。そのときに、自分たちの運命を感じたのだろうか、哀れに聞えたいななきが今も耳に残っている。

l 宇品港は原爆では焼けなかった。終戦後そこに復員兵たちが戻ってきた。出征するときは多くの人が見送ったのに、帰って来た時には迎えに行く人が誰もいなかった。私たち学校の同級生何人かで相談して、薬缶を借り、湯飲みを借り、帰って来た人たちにお茶を配った。息も絶え絶え、髭ボウボウで帰って来た人たちを迎えた歌は田端義夫の『かえり船』だった。

l でも生きて帰れた人たちは良かった方で、外地で死んだ兵隊たちも多かった。それも飢えで死んだ兵隊の方が多かった。復員兵たちは、宇品までは何が起きたのかは分らなかったが、一歩、宇品を出ると一面の焼け野原しか目に入らず、茫然自失の状態だった。

l 今平和公園のある地域にあった中島町は歓楽街で、カフェなどもあった。戦争の末期まで続いていた。基地の兵たちが遊びに来るところだった。

l 本川の反対側、舟入町には遊郭があった。西遊郭とも呼ばれ、東遊郭とは格が違って、将校たちが馬で来るところだった。馬丁を務めていた兵は、一度馬を引いて帰り、翌朝、将校を迎えに来ていた。

l 広島はデルタ地域なので米は植えられず、綿が植えられていた。工場も多くあったが、軍関係の工場は、被服廠、兵器廠、そして糧秣廠の三つがあった。「秣」の意味は、馬の飼料。

l 1945年の夏、飛行機からビラが撒かれた。それには、「8月には広島が攻撃されるから、逃げなさい」という予告が書かれていた。差出人は「ツルーマン大統領」と書いてあり、普通は「トルーマン」と書くのに、その違いがおかしかった。ビラは先生に取り上げられて焼かれてしまった。

l 86日にはタバコ工場で働いていた。そして建物の陰に居たので、火傷もしなかった。でも、一二年生は建物疎開に出ていて全滅した。

l 何とか学校まで帰れた生徒もいた。誰もが、腕を前に付き出して、その腕からは昆布のように見えた皮膚が垂れ下がっていた。中には、昆布のようなものを足首から引き摺って歩いてきた生徒もいた。

l これを見た先生は、生徒の皮膚を引き千切って上げていた。生徒は、「先生有難う。これでちゃんと歩けるようになりました」と言った。

l 学校まで辿り着いても薬もない。家庭科で使うための菜種油が残っていたので、それを塗って上げるのが精一杯だった。そして、帰って来た生徒たちは次々と亡くなって行った。

l 夏の暑い時期だったので、荼毘に付さなくてはならない。運動場に穴を掘って、窓枠や机など、燃えるものを集めて下級生を焼いた。140センチくらいの身長の子どもたちだったが、白骨にするのは並大抵のことではなかった。火力が弱くて途中で火が尽きた。船舶隊の人が黒い油のようなものを持って来てくれて、それを掛けてようやく荼毘に付すことが出来た。

l 最後には、綺麗な標本のような骨が残っていた。桜の花の花びらのような色だった。その骨を容器に拾おうとしたが、全部は収めきれない。喉仏と歯だけ拾って、しばらくは校長室に収めておいた。こんな悲しい思いを今の若い人たちにさせてはならない。

l 力を尽して平和を守って行こう。何もしないでいると平和はなくなってしまう。考え、実行しよう。

l そして思い出して下さい。そうすることで、あの子たちは皆さんの心の中に生きることになるからです。あの子たちの分も一緒に生きてやって下さい。

l 戦争が再びやって来ないように声を上げて下さい。

l 戦後の73年間、憲法9条のお陰で、戦争によって日本人は一人も人を殺していない、そして日本人は一人たりとも死んではいない。この状態を続けることが出来れば、亡くなった人たちが、平和の礎になってくれたと思うことが出来る。

l 子どもも、大人も年寄りもそれぞれできることがある。自分のできることで、平和を守って行こう。

 

心を揺さぶられるお話でした。未だにその余韻に浸っています。

 

休憩後は、違った視点から私が核兵器禁止条約から学ぶこと、そして米朝会談の傍観者にならないための提案をさせて頂きました。午後には、いくつかのひろば・フィールドワークがあり、夜には灯篭流しに参加した人も多かったようです。

 

[2018/8/6日 イライザ]

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2018年8月 7日 (火)

お二方の被爆体験 (1) ――桑原千代子さんと切明千枝子さん――

 

お二方の被爆体験 (1)

――桑原千代子さんと切明千枝子さん――

 

原水禁世界大会の開会総会は84日に開かれました。豪雨災害の影響で参加者は少し減りましたが、それでも約2200人が参加して下さいました。全国から広島に来られた方々を改めて歓迎します。

 

               

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開会の挨拶は実行委員会の副委員長で、広島県原水禁の代表委員の一人、佐古正明さん(下の写真)でした。そして大会の基調提案は、大会事務局長の藤本泰成さんでした。

 

 

Photo_2

 

毎回この場では、被爆者の方の体験を話して頂くことになっていますが、今年は桑原千代子さんでした。そして、5日の第8分科会「見て、聞いて、学ぼうヒロシマ」では、切明千枝子さんの被爆体験を語って頂きました。お二人とも記憶が鮮明で、当時の様子を伺いながら、涙を禁じ得ない場面ばかりでした。

 

私の拙い筆で、お二方のお話を再現することなど不可能なのですが、でも、何らかの形で伺ったことを整理しておきたいという気持もありますので、箇条書きのようなまとめ方になりますが、以下お読み頂ければ幸いです。

 

またこのお二人の被爆体験だけではなく、他にも多くの被爆者の体験記を、文字・音声・ビデオといったフォーマットで、広島の被団協がまとめています。また、広島市の平和記念資料館にも多くの体験記がありますし、国の施設である国立原爆死没者追悼平和祈念館でも体験記を読んだり聞いたり見たりすることが出来ますので、是非このような施設も活用して下さい。

 

[桑原千代子さん]

 

Photo_3

 

l 当時、私は13歳、爆心から800メートルの雑魚場町で建物疎開に従事していた。

l 朝、体調が悪いので建物疎開を休みたいと母に言ったが、母からは「ダメ」と言われ、梅干しが二つ入ったお弁当を持って、防空頭巾を下げ、上は制服、下はモンペを穿いて雑魚場町まで歩いた。家は、そこから3.7キロ離れた宇品にあったので、子どもの足で1時間半掛った。

l 建物疎開はかなり進んでいて、多くの家が倒され、楠が一本立っていた。級友たちの何人も「家に帰りたい」と言い出していた。でも結局、先生には何も言えなかった。

l 空襲警報は鳴っていなかったのに、西から東に飛んでいる飛行機が見えた。敵機か日本の飛行機か分らないまま、友だちと話をしている最中、突然大きな音がして、洞穴の中に吹き飛ばされていた。

l 目を開けると周りは真っ暗で何も見えない。「助けて」と叫んだ。どう這い上がったのか分らぬまま、ふと人の声に気付いたら3人の人影か見えたので、「助けて」と叫んだ。

l 4人一緒に、明るい方向を目指して歩くうちに、鷹野橋に出た。おじいさんが担架の上で、「なんまいだ」と手を合わせているのを見た。兵隊さんが馬の手綱を握ったままの姿で立ったまま亡くなっていて、馬は倒れている場面にも出会った。

l とにかく人が多くいる方に歩いて行こう、と決めて歩いて行く内に、赤ちゃんを負ぶってあやしながら速足で歩いている若いお母さんにあった。思わず、「そのまま歩いていると、赤ちゃんの首が落ちるよ」、とお母さんに伝えた。

l 大橋まで来たときに、兵隊さんに、「この橋は燃えているから渡れない」と言われたのだが、橋を渡れないと宇品に帰れないので、兵隊さんの脇の下を潜り抜けて橋を渡った。

l 家の二階から若い母親が「5歳の子どもが柱の下敷きになっている。助けて下さい」と必死に訴えていた。何もできなかったし、私たちの後ろにいたお爺さんが「何もできないけれど、すぐ救援隊が来るから」と声を掛けていた。

l タカコさんが水を飲みたいと言っていたので、水を探していたら水道管の破裂しているところがあったので、水を飲もうとしたのだが、そのままでは飲めない。飯盒の中蓋を探して来て、ようやく飲ませることが出来た。そこに兵隊さんが来て、容器を取り上げた。「水を飲むと死ぬから飲んじゃだめだ」とのことだった。

l その後、担架でタカコさんを日赤まで運んでくれた。日赤の正面に着いた時には、私たちの一団は、5,6人に増えていた。

l そこから宇品に向って歩いた。途中で倒れている人に、「江田島の人間だから港まで連れて行ってくれ」と頼まれ、足首をつかまれたが、どうすることもできなかった。

l タカコさんの家に辿り着いたが誰もいなかった。それで我が家に帰ったが、時間は夜の7時だった。朝、出掛けてから12時間、家は傾き、窓は破れ家族はいなかった。友達は、それぞれ家に帰ったが、それから73年間、会っていない。

l 水が飲みたくなって、兵隊さんの言葉を思い出したが、それでもバケツに口を付けて飲んだ。とても美味しかった。でもすぐ全部吐き出してしまった。そうするとのどがカラカラになったので、また水を飲んだ、そして吐いた。それを何度か繰り返した。生きて来られたのは、それが、良かったからなのかもしれない。

l 「千代子」と言って母が帰ってきた。自分の怪我の手当てをして貰った後、子どものことを思い出したと言っていた。73歳で亡くなったが、母はずっとそのことで苦しんでいたのに違いない。

l 私の証言が平和を守るための一つの切っ掛けになってくれれば嬉しい。

l 平和は誰かに与えられるものではない。自部で掴み取らなくてはならない。その出発点は、人にやさしくすること、思いやりの気持を持つことだ。

 

桑原さんのお話が十分伝えられないもどかしさを感じつつ、これがきっかけになって、被爆者のビデオや録音を聞いて頂くことになればと願っています。

 

次回は切明千枝子さんです。

 

[2018/8/6日 イライザ]

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2018年8月 6日 (月)

核廃絶――最大の障害は日本政府 ――原水禁世界大会・国際シンポジウムの報告――

 

核廃絶――最大の障害は日本政府

――原水禁世界大会・国際シンポジウムの報告――

 

毎年、原水禁世界大会についての報告は、会議には出席していなかい方々にも全体像を知って頂くことを目的にして、新聞報道の形をお手本にした書き方をしてきましたが、今年は趣向を変えて、特に印象に残った何点かに焦点を合せます。

 

国際シンポジウムは、85日の午後開かれました。その中でのグレゴリー・カラキーさん (アメリカの科学者によるNGO・憂慮する科学者同盟) の報告に、参加者一同溜息を吐くことになったのですが、同時に大きな疑問も湧いてきましたし、対抗手段としての私たちの声の大切さを再確認する機会にもなりました。

 

                 

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 一番右がカラキー氏、左からモデレーターの藤本泰成原水禁事務局長、湯浅一郎ピース・デポ代表、ハッサン・エル・ティヤブ アメリカ ピース・アクション・ディレクター


カラキーさんの報告のポイントは、「オバマ大統領が、『核兵器の先制使用』宣言をしようとしたときに、それに反対をし、結果としてこの宣言を葬り去ったのは、日本政府だ」ということなのです。

 

2016年にこの事実はそれなりに報道されましたし、このブログでも三回にわたり取り上げています。第一回目第二回目第三回目を続けてお読み頂ければ幸いです。

 

新事実として、カラキーさんが私たちに伝えてくれたのは、次のようなことです――その年、つまり2016年の5月にオバマ大統領が広島訪問をした際、オバマ大統領は広島で、「核兵器先制不使用」宣言をしたかった、しかしそれができなかったのは、日本政府が妨害したからだという事実です。

 

重要な政策決定ですし、日本は同盟国だということになっていますので、もちろん、オバマ大統領の意図は事前に日本政府、特に外務省に伝えられます。それを聞いて外務省は激怒したというのです。そして、国務長官、国防長官、そしてエネルギー長官に直接電話をして、「核兵器先制不使用」宣言をしないよう、要求したのだそうです。

 

その結果、歴史を大きく変えることになったであろう、アメリカによる「核兵器先制不使用」宣言は実現しませんでした。

 

この宣言が実現していれば、米中関係は一挙に信頼度を増しました。中国は、いわば国是として、「核兵器先制不使用」を核政策の基本として採用してきたからです。さらに、アメリカの先制使用がなくなれば、北朝鮮が核開発をする必要性も減少することになって、北東アジア非核兵器地帯実現に大きな一歩にもなったのです。つまり、オバマ大統領の意思を外務省が妨害したことは、残念といった穏やかな言葉では表現できないほどの大きな損失を人類に与える結果になったのです。

 

そこで生じる疑問があります。この点は、国際シンポジウムの終了後、何人もの出席者が異口同音に口にしていたことなのですが、「いつから日本政府は、アメリカの重要政策を変えられるほどの力を持ったのか」という疑問です。

 

最近の例を取っても、日本製品をアメリカに輸出するに当って、アメリカが敵視している中国と同じ扱いで関税を引き上げるという方針が採用されました。「お友だち」だと思っている安倍総理には事前の相談もないままに、一方的な「宣言」です。そんなことが出来るのですから、「核兵器先制不使用」宣言も一方的にできたはずです。にもかかわらず、日本政府、特に外務省の意向で重要政策の実行を中止するなどというシナリオは、彼我の力関係を考慮すると、全く想定外なのです。

 

にもかかわらず、日本政府が「核兵器先制不使用」宣言潰しの立役者になっているのは、例えば、そうすることでアメリカ側には何らかのメリットがあり、日本政府にはそう立ち回って貰いたかった。そのアメリカの考え方を「忖度」して外務省が、その通りのシナリオで、アメリカが望む役割を果した、という可能性が頭に浮びます。アメリカ側の「都合」とは、一昨年「核先制不使用宣言・その3」で、指摘したように、最悪のシナリオが実現した場合に、その責任を日本に押し付けられる、ということです。

 

もう一つの可能性も考えておく必要があります。それは、アメリカが、核政策について日本の言うことを聞かなければ、日本は独自の核武装をするぞ、という脅しです。しかし、この点も、日本の内閣の首を簡単に挿げ替えられるアメリカですので、結局アメリカの描くシナリオの中で踊らされているに過ぎないかもしれません。

 

でも、こんな状況に対する特効薬も存在します。政策そのものに対する評価は別として、アメリカ政府には、日本に関連する重要案件の検討に際して、日本の世論を重んじる姿勢があるからです。例えば、極東裁判において天皇を被告にしなかったことや、オバマ大統領の広島訪問に際して、ケネディー大使を任命して日本の世論がオバマ訪問を受け入れ易いような環境を作ったことなどです。

 

楽観的過ぎるというお叱りを受けるかもしれませんが、核廃絶について、核兵器禁止条約について、また日本の核武装についても、私たちの考え方が常に明確にそして決定的に、しかも分り易くまとめられ、マスコミもその線の報道を熱心にするような世論を作り上げて行くことが大切なのではないでしょうか。

 

[2018/8/5日 イライザ]

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2018年8月 5日 (日)

「事件記者」を偲ぶ会 ――「ヤマさん」の没後31年になりました――

 

「事件記者」を偲ぶ会

――「ヤマさん」の没後31年になりました――

 

かつて、「事件記者」と言えば、誰でもNHKの人気番組のことだと分り、警視庁の記者クラブを舞台にしたドラマの中で、どの記者のファンなのかまで、熱く語っていた時代がありました。1958年から1966年まで続いた番組で、視聴率47.1パーセントを記録したこともあったくらい人気があったので、いわば当然な話なのですが、今となっては、「事件記者」を覚えている人も少なくなってきたようです。

 

そのドラマの中で、園井啓介演じる「ヤマさん」のモデルになったのが、当時、毎日新聞の警視庁記者クラブで活躍していた山崎宗次さんでした。長い間毎日新聞の社会部記者として活躍し、後に広告局長としても敏腕を振った人ですが、1987714日、あまりにも早い旅立ちをされてしまいました。

 

私が山崎さんとお会いしたのは1969年の夏でした。初めて月に到着したアポロ11号取材のためにアメリカを訪れていた山崎さんと同僚の清水さんに、ハーバード大学のキャンパスでバッタリ。「ハーバードの卒業式を取材するためにボストンまで来た」という自己紹介から話が盛り上がりました。それが縁で、夏休みの間、毎日新聞の取材班の運転手件通訳兼雑用係として、山崎さんの謦咳に接することになりました。ジョン・グレン氏を追悼して、この件については以前触れています。

 

その時、初めて「山崎塾」のことを伺いました。マスコミ志望の学生たちに文章の書き方やジャーナリストとしての心構えを教える「塾」なのですが、それをボランティアとして主宰されているとのことでした。それから夏休みに日本を訪れたときには必ず塾に顔を出すようになりました。若い塾生の皆さんと一緒に、山崎「塾長」から多くのことを学ばせて頂きました。

 

社会を変える上でのジャーナリストの役割が重要であることは分っていても、それをどう生かすのかが大切です。当時、私は、アメリカに住みながら、広島・長崎の被爆体験や被爆者のメッセージがアメリカにも世界にも十分には伝わっていないことを痛感し、何かしなくてはと思い詰めていました。

 

「そのためには、ジャーナリストの持つ取材力、そして発信力を生かそう」という意気込みで、山崎さんや塾生たち、また原水禁運動の通訳仲間たちとの協力の下、ローカル・ジャーナリスト招請プロジェクト、通称「アキバ・プロジェクト」のアイデアが生まれました。後に、広島国際文化財団が主催し、広島市や長崎市からも応援し貰うことになりましたが、山崎塾を中心に大きく広がっていたネットワークに属するジャーナリストやオピニオン・リーダーたちを動員して全面的に応援してくれたのも、塾長でした。こうした活動を通じて、奥様はじめ、御家族の皆さんとの家族ぐるみでのお付き合いが始まりました。

 

               

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御家族の皆様--写真を持っているのが万里子夫人

 

今年は、その山崎塾長が旅立たれてから31年目の夏でしたが、83日に、山崎塾長を偲ぶ会が開かれました。塾OBOG、そして山崎ネットワークのメンバーたち約100人が参加してくれました。参加者一人一人が、弁の立つ人であり、また言葉を駆使しての仕事をしている人たちですから、塾長を今でも慕う気持の全てを報告することなど不可能です。その中で、第一期生の平本和生、元BS-TBS社長・会長の言葉が、山崎塾の本質を見事に表現してくれました。それは、塾長が抜きん出た人間洞察力を持っていたが故に、塾生一人一人の人間的なポテンシャルと魅力を見抜くことが出来た。その結果、一人一人の塾生と熱い血の通う人間関係を作ってくれたからこそ、塾生の真の力が花開いたのだ、という言葉でした。私も心からそう感じていました。

 

そんな形で山崎塾長の薫陶を受けた塾生たちも、一番若い人たちでさえ、あと数年で定年という時期に差し掛かっています。塾長亡きあとも、多くの塾OBOGたちとのお付き合いは続けてきましたが、今回の偲ぶ会を前に、こうした皆さんがマスコミその他の分野で頑張ってきた「総体」をどう表せば良いのか、考えて見ました。

 

ジャーナリズムその他の世界で確固たる地位を占めるに至った人は勿論ですが、中には、夭折した人もいますし、志半ばで別の道を歩んだ人もいます。妥協しながらも理想の灯を消さないための努力を続けた人も多いでしょう。その人たちも含めて、私が知る限り、山崎塾長の遺志を継いで頑張って来た、塾生たちがいたことで今の日本は随分良くなっていると思えるのです。仮に悪いとしか見えない部分があったとしても、塾のOBOGたちがいたからこそ、この程度で止まるようにブレーキを掛けて来られたのだと思っています。そのことを、天にいる山崎宗次氏に誇りをもって報告したいと思います。それは、山崎氏自身が如何に大きな仕事をしたのか、さらにその遺志が今でも生き続けていることも示しています。

 

山崎塾長の著書を一冊挙げろと言われると、それは躊躇なく『カンカラ作文術』なのですが、ここで「カンカラ」とは、「カンカラコモデケア」の略です。「カンカラコモデケア」とは聞きなれない言葉ですが、「カン」は感動、「カラ」は、カラフル、「コ」は今日性、「モ」は物語性、「デ」 データ、「ケ」は決意、そして「ア」は明るさで、文章を書くとき、これだけの要素が含まれていれば、良い文章になる、という文章術の極意です。

 

披露されたエピソードの中に、この「カンカラコモデケア」についての楽しい話題がありました。かつて、中央競馬会に2008年から2012年まで「カンカラコモデケア」という名前の競走馬が登録されていたそうです。主に東北や北海道で走っていたらしいのですが、生涯の成績は36回出走して3勝、得た賞金は39万円だとのことでした。結果はともかく、「カンカラコモデケア」には、夢を紡ぐ力が備わっているようです。

 

最後に、52歳という年齢で、あれだけの仕事をした山崎塾長には、完全に脱帽する他はないのですが、山崎塾長の三日後には、同じく52歳で石原裕次郎さんが亡くなっています。その二年後には、美空ひばりさんが同じく52歳で亡くなっています。昭和という時代が、実は50代に入るか入らない、あるいはそれ以前の年齢で活躍していた人たちによって創られていたということなのですが、馬齢を重ねるだけしか能のなくなった身として、それでもまだ何か、彼らの遺志を未来につなげるために、山崎塾長から教わった言葉「老驥千里を走る」を引っ張り出して、頑張りたいと思っています。(辞書には「老驥千里を思う」というバージョンが載っています。山崎塾長からは「走る」と教わりましたので、そちらを引用します。)

 

[2018/8/3日 イライザ]

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2018年8月 4日 (土)

ジャガイモとインゲン ――我が家で穫れた野菜です――

 

ジャガイモとインゲン

――我が家で穫れた野菜です――

 

長い間、夏野菜は簡単に作れるものだと思っていました。ボストンに住んでいる間、夏になると美味しいトマトとキュウリ、そしてナスは我が家の庭で穫れたものを食べられたからですし、その後、友人たちの話を聞いても、その三種類については「問題がない」という認識だったからです。

 

ところがこの数年、どうも上手く行きません。先輩たちの意見によると、「土壌改良」が必要そうだという結論で、春先に畑を耕し、鶏糞と牛糞、そして油粕の三種を土と混ぜることにしました。友人に小型耕運機で耕して貰ったせいもあって、土がフカフカになりましたので、小松菜、青梗菜、ホウレン草、大根等を植えてみましたが、大成功でした。

 

一寸時期をずらして植えたのがジャガイモとインゲンですが、これも大豊作でした。先ずこちらがジャガイモです。これだけで4.5kgありました。

 

               

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そしてインゲンです。良く見て頂くと分りますが、インゲンが沢山なっています。

 

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全部収穫してしまっては食べ切れませんので、ほんの一部だけです。

 

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両方並べると豊かな気持が3倍くらいになりましたので、そちらも御覧下さい。

 

 

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早速、ポテトとインゲン、それにベーコンを入れたサラダで美味しく頂きました。

 

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とは言え、トマト、キュウリ、ナスの課題は未解決です。来年は上手く行くと良いのですが―――。

 

[2018/8/3日 イライザ]

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2018年8月 3日 (金)

The Outlets Hiroshimaへ ――やはりZwillingの魔力には勝てませんでした――

 

The Outlets Hiroshima

――やはりZwillingの魔力には勝てませんでした――

 

古巣の修道大学のすぐそばに「The Outlets Hiroshima」がオープン。すぐに行ってみたいと思っていましたが、オープン直後の大混雑が収まってからと思っている内に豪雨災害で、それどころではなくなりました。台風一過、少し涼しくなってから足を伸ばしてみました。

 

                   

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駐車場の広さには吃驚しつつも、端から歩かされるのは辛いなという思いで場所探しをしましたが、実は友人から秘密のアドバイスがあり、それほど歩かないで済む地点にスポットを確保できました。

 

中に入って、こんなに人が多く集まってしまっては、紙屋町・八丁堀・本通りが寂れるのではと思わず心配してしまいました。小売店だけではなく、スポーツ施設もありますし、カラオケまであるとなると、そちらに釣られてくることになるかもしれません。

 

 

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ボーリング場

 

 

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カラオケ

 

でもこのアウトレッツで一番のインパクトはZwillingの店があったことです。父の時代からこの店の魔力には兜を脱いでいるからです。例えば、25年ほど前、フランクフルトのZwillingの前で、高校時代から仲の良かった友人夫婦とバッタリ邂逅したり、引っ越しをして包丁が必要になると、何故かZwillingの包丁が目の前に現れたりといったことの連続なのです。

 

今回は、パスタケースでした。でも、魅力的な店員さんの勧めで、パスタクッカーも一緒に買うことになりました。

 

 

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こんな具合で良い感じです

 

その後、パスタを茹でて食べましたが、家人によると使い心地は良いそうです。そして、

 

Zwillingが魔力を発揮したのは、その後でした。長い間、ソーメンをいれておくケースがなくて、不自由していたのですが、遂に、買うことになりました。それがこちらです。Zwillingではありませんが、長い間の懸案が二つ解決できて、とても便利になりました。

 

 

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[2018/8/22日 イライザ]

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2018年8月 2日 (木)

「アベノミクス」に騙されるな! (その3) ――累進課税が成長の原動力――

 

「アベノミクス」に騙されるな! (その3)

――累進課税が成長の原動力――

 

再度、立命館大学の大田英明教授の2007年の論文「所得格差および税制と経済成長 ――中長期的影響:分配なくして成長なし――」(これを大田論文(0)と呼んでおきます)に戻って、合せて大田論文(II)の内容も御紹介したいと思います。

 

これら大田論文の凄いところはいくつもあるのですが、その一つは、『21世紀の資本』の著者として2015年頃には話題の人として取り上げられたトマス・ピケティ教授の理論を、その10年前には論文として発表していたことです。それが(0)です。

 

『週刊現代』の2015222日号に、ピケティ理論の分り易い説明がありますが、そこでは、ピケティ教授の貢献を次の三つだと紹介しています。

 

               

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2. については、1. の一部だと考えられますし、3. こそ大田教授による分析の中核です。早速、(0) と (II) の内容に入りましょう。念のため、(II)のタイトルを再度、掲げておきましょう。

 

(II)  「Economic Growth through Distribution of Income in Japan: Road to Stable Growth with Progressive Income Tax System」です。大雑把に訳しておくと、「所得配分による日本の経済成長――累進課税制度を元にした安定的成長への道」です。

 

(A) 格差の存在をデータで示す

 

所得格差、経済格差、富の格差、等いろいろな言葉が使われていますが、大田論文(0)のはしがきが、分り易い解説ですので、再度お読み頂ければ幸いです。

 

加えて、最近の動向も含めて、大田論文(II)で使われているグラフを何枚か見ることで、格差が拡大していることを確認しておきましょう。まず、一番簡単に格差を知るための数字がジニ係数ですが、この数値が大きくなってきている、つまり不平等の方向に社会が動いているのです。

 

 

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当然家計支出も右肩下がりです。

 

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それは世帯当たりの平均所得が減ってきているからです。

 

 

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勿論、実質賃金も減ってきています。このグラフは、NIPPONの数字、というサイトからお借りしてきました。

 

 

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ここまで見て来れば、格差が拡大していることを疑う余地はありませんが、ダメ押しとして、貧困率をチェックしましょう。貧困率とは、所得水準の標準値(メディアン)に比べ半分以下の所得層の比率を指します。

 

 

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(B) 累進化が成長を促す

 

格差の存在は、社会正義の立場からは大問題です。その理由だけ考えても是正されるべき状態であることは言を俟ちませんが、大田論文が示したのは、税制をより公平なものに変えることが、経済成長そのものを促すという経済的なメリットもある、ということなのです。

 

この結果を示すために、大田論文の(0)(II)では、対象にした年の税・社会保険負担率より、累進度の高い三つのケースについてシミュレーションを行いました。我が国の所得階層は全体で18のグループに分けられているのですが、実際の家計調査(2013)に基づき各所得階層の消費性向を計測した上で、各階層でどのくらいの額の負担になるのかを計算し、その結果としてどの程度の可処分所得が残るのかを算出、それを元に、家計支出を推計しています。

 

まず、三つのケースの税・社会保険負担率は次の通りです。ここでは(II)を取り上げます。

(i) ケース1           最低所得層の負担率は7%で、最高所得層の負担率は35%

(ii) ケース2           最低所得層の負担率は3%で、最高所得層の負担率は45%

(iii) ケース3           最低所得層の負担率は2%で、最高所得層の負担率は50%

 

念のために2013年の実際の負担率は

最低所得層の負担率は11.9%で、最高所得層の負担率は30.8%です。

 

ケース1、ケース2、ケース3、それぞれの場合に、18に分類された所得の額では、負担率がどのくらいになるのかを決めておかなくてはなりません。それを示しているのが次のグラフです。

 

 

Photo_7

 

2013年当時の実効負担率の逆進性と、ケース3の累進性の高さによるその修正との対比が良く分ります。

 

さて、このシミュレーションの結果をまとめたのが次の表です。

 

 

Photo_8

 

ケース1から2、そしてケース3と、累進性が高まると、それに連れて消費額も多くなり、また税・社会保険負担率も上がることが読み取れます。つまり、税収面での改善がその成果の一つだということです。さらに、その結果として、GDPがそれぞれ、2013年の実際の値より、約1パーセント、1.6パーセント、そして2.1パーセント上昇することが分ります。つまり、累進課税によって成長が促されるのです。

 

税の逆進性が成長を阻害する例として、大田教授が取り上げたのは、消費税率です。2013年は、未だ消費税率は5パーセントでした。仮に、税率が8パーセント、10パーセント、15パーセントに上げられた場合、それが成長にどのような影響を与えるかの試算を行っています。その結果が、次の表です。

 

 

Photo_9

 

消費税率を5%から8%に引き上げた場合は、消費支出は3.5%落ちることになり、GDP成長率は2.0%下ります。消費税率を5%から10%に引上げた場合、消費支出は5.5%GDP成長率は3.2%引き下げ、15%に引上げた場合、それぞれ10.4%6.1%マイナス方向に働くことになります。これが(Tab.5-2)の内容です。

 

(実際、20144月の消費税引上げに伴い2014年度GDPのマイナス効果は▲2.85%となりました。これはここに引用した大田教授のシミュレーションの 2.0%をさらに上回る大幅なマイナス効果です。)

 

[最後に一言]  人口の0.01パーセントの人が、一国の資産の99パーセントを保有しているような「格差」は、一人一人の人間の尊厳さから考えて許されて良いはずはありません。それは、社会正義とか公平性、といったどの社会でも満たさなくてはならない、最低限の「常識」「良識」「公共の福祉」「幸福の追求権」といったジャンルでの判断です。それはそれで大切にし、社会共通の価値として、次の世代にも引き継いで貰う必要があります。

 

それに対して経済学は、最終的には、物質、中でもお金という尺度で物事を測り、その視点からの合理性を追求する学問です。そしてその対象として扱われてきたのは「市場」という一種の化け物なのですが、それを支配している法則は、しばしば「見えざる大きな手」という表現をされてきました。「化け物」に喩えられてきたのは、「見えざる」という言葉が示すように、私たちには理解不可能な側面があるからなのです。

 

しかし、大田理論(と敢えて呼びたいと思います。大田論文の重要性を強調したいからです。いうことはピケティ理論も)が示してくれたのは、社会正義や公共の福祉の範疇に属することとして捉えられてきた「累進課税」という仕組みが、実は、資本主義経済の柱の一つである成長という概念と密接に結び付いているということなのです。

 

多くの経済の専門家が万という単位で発信してきたにもかかわらず当ることの少なかった未来予測を見るだけでも、経済学不信に陥る気持は理解できるのですが、大田理論が私たちの示してくれたのは、経済学という学問の正統性と言ったら良いのでしょうか、人類が生存して行くに当って必要とする知恵も提供してくれる、深い哲学的な側面も備わっている学問である、ということなのではないかと思っています。

 

[2018/8/1 イライザ]

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コメント

山根終身会長、田中理事長、安倍首相、何か皆同じ匂いがしますね。

最近では、新自由主義のチャンピオンだった・IMFでさえも、格差を是正するような税制が重要という考え方になっていますね。ラガルド専務理事はそもそも、労働法と反トラスト法の女性弁護士ですので。今の日本の財務省は、新自由主義のチャンピオンだったころのIMFの理論にアメリカ留学で洗脳された人が幹部ですので、時代錯誤になっていますね。

「酷民」様

コメント有り難う御座いました。

「類は友を呼ぶ」とは良く言ったものですね。

「hiroseto」様

コメント有り難う御座いました。

あれだけ世界的なブームになった、ピケティくらいは読んでいて欲しいです。でも、それを日本の状況を踏まえて証明してくれた大田理論を採用するだけの知力が安倍政権にはないということなのでしょう。

2018年8月 1日 (水)

「アベノミクス」に騙されるな! (その2) ――「アベノミクス」の実態は「安倍のミス」――

 

「アベノミクス」に騙されるな! (その2)

――「アベノミクス」の実態は「安倍のミス」――

 

立命館大学の大田英明教授の2007年の論文「所得格差および税制と経済成長 ――中長期的影響:分配なくして成長なし――」のはしがきを御紹介しましたが、それをさらに敷衍した二つの論文が、「アベノミクス」の真実の姿を完膚なきまでに、白日の下に晒しています。

 

一つは、(I) Why the monetary easing under ‘Abenomics’ has been ineffective in   recovery of the Japanese economy?:  Integration of the markets between the US and Japan」です。「アベノミクス」の下に行われた金融緩和が何故日本経済の回復に効果を挙げなかったのか--日米の市場の一体化」とでも訳しておけば良いのでしょうか。

 

もう一つは、(II) Economic Growth through Distribution of Income in Japan: Road to Stable Growth with Progressive Income Tax System」です。大雑把に訳しておくと、「所得配分による日本の経済成長――累進課税制度を元にした安定的成長への道」です。

 

「アベノミクス」とは、「三つの矢」として①金融緩和政策、②財政政策、③構造改革の導入を柱としています。最初の金融緩和のみ過去5年以上継続していますが全く実体経済の回復には効果がありませんでした。また、二番目の財政支出は2013年度の最初のみ公共支出を拡大しましたが、その後、政府は一貫して緊縮政策(GDP比で前年比マイナス)を継続しています。これは景気回復には逆効果です。また、3番目の構造改革は労働市場の自由化(派遣法の自由化、労働関係法案など)や経済特区を外資誘致の柱にする(例:カジノ法案など)を導入するものであり、直接的に経済成長を促進するどころかむしろこうした規制緩和は勤労者の賃金水準はますます低下するような政策をとっており、事実上、アベノミクスは経済成長を促進するものではありません。むしろ富裕層と大企業を優遇することのみ力点を置いたものです。これは一連の資産課税の減免、法人税の軽減措置の導入などにも表れており、法人税収は過去20年間一貫して低下しています。

 

その結果として、前にも示した経済の基本的な体系の内、賃金の増加については、高齢者であれば、年金額の減少と税金や保険料の上昇で、「増加」したのは支出だけということは実感されていると思いますし、働いている皆さんの中では、実際に賃金が増加しているとは感じていない方々の方が多いのではないでしょうか。この背景には、アベノミクスの第3の矢にあたる規制緩和策の一環として労働市場の完全自由化に伴う非正規雇用の拡大があります。このため、労働賃金全体を大幅に抑制することとなり、現在では、求人広告の過半数は非正規雇用です。非正規雇用は正規雇用の年収の/1/3にしかすぎません。このため、こうした規制緩和は着実に一般勤労者の賃金水準を低下させてきました。また、日本はOECD諸国でも貧困層の比率は本も高い国の一つです。

 

金融緩和によって、市場に出回っているお金の量が増えれば、その中の一定の割合が投資に回されますので、「投資の拡大」につながるはずなのですが、大田論文の(I)では、それが起きていないことを証明しています。ただし、大田論文についての解釈はあくまで私の独断と偏見に依存していますので、誤りがあったり、誇張があったりすれば、それは私の責任ですので、その点についてお断りしておきます。

 

さて、マスコミには「マイナス金利」とか「質的・量的金融緩和」とか「異次元金融緩和」といった

難しい言葉が飛び交っていますが、基本的には、日銀の操作で「市場」、つまりお金のやり取りをする世界のことをこう呼んでいます。その中で扱われるお金の量が「異常に」増えているということです。それが、回り回って景気を良くして、賃金も上がるといった未来図を描いているのが「アベノミクス」なのですが、大田論文(I)では、この「金融緩和」は経済成長率や実体経済の回復にはほとんど効果がなかった(株価は成長率にほとんど関係ありません)という結論になっています。つまり、「アベノミクス」は失敗だったのです。特に2013年のアベノミクス導入の重要目標とされたインフレ目標の年2%は依然として達成せず、デフレ脱却には至っていません。

 

Photo

   

By Wiiii [GFDL (http://www.gnu.org/copyleft/fdl.html) or CC BY-SA 3.0  (https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0)], from Wikimedia Commons

 

その結論に至ったのは、BVARという統計手法を使って、日米の金融や経済指標に関連のある数字を、分り易いモデルに変換し、しかもいくつかの数値の間の因果関係もハッキリさせたからです。こうした高度の分析の結果、金融緩和によっては実質的に経済が上向きにはならなかったことを示しています。

 

他の経済学者の分析と違う点は、一つには、日本という国内だけに視野を限らずに、日米両方を同時に考察したことです。またその際、日米の金融緩和政策の時間的な差も考慮した上での分析になっているという点です。

 

確かに、金融緩和によって、日米にはお金の量が増えました。しかし、それはアメリカの都合に依って時期・量が決められていたので、アメリカの景気回復には役立ったけれど、日本の景気回復とはつながらなかった、というのが一つの結論です。具体的には、米国の量的緩和(QE)の終了した201410月に合わせて日銀は量的・質的緩和(QQE)も第二弾としてマネー供給を大幅に拡大してきており、それが国際資本移動に伴い米国市場に流入し、大半は米国市場など国外に流出してきたことがあります。すなわち、日本よりむしろ米国のために大量のマネーを日銀は供給してきました。

 

さらに、日銀の金融緩和によって増えたお金は、日米ともに、生産性を高める部門に使われたのではなく、短期的かつ投機的な使い方をされてしまいました。日本国内では特に(米国では株価上昇による資産効果で一般国民も消費を増やし、企業も設備投資を増加させる効果がみられましたが、日本ではそれは見られませんでした(日本では株保有は資金に余裕のある富裕層が中心で一般庶民は米国のように保有せず銀行預金という特徴があるからです。)つまり、「アベノミクス」が目的とした「投資の拡大」にはならなかったというのが、もう一つの結論です。

 

それでは、日本経済を復活させるためにはどうすれば良いのか、という問に答えてくれるのが大田論文(II)です。解決策は、経済学の基本に戻って、しっかりした累進課税制度を採用することです。つまり、お金持ちからは、貧乏人よりたくさんの税金を払って貰うという税制にしよう、ということです。そして、所得の少ない人に取っては、裕福な人よりも大きな犠牲を払わなくてはならない消費税の「逆進性」を改善することで、その結果として大多数の国民の中低しょててく層の消費拡大が見込めます。

 

大田論文(II)は、(I)より分り易いので、次回をお楽しみに。

 

[2018/7/30 イライザ]

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