核兵器禁止条約に至る道 ――世界法廷プロジェクト①――
核兵器禁止条約に至る道
――世界法廷プロジェクト①――
以下、『数学教室』連載”The Better Angels 2015年3月号から転載
《1999年ハーグ平和市民会議》
国際司法裁判所(ICJ)の勧告的意見について、当初は日本での評価があまり高くなかったことは前にも指摘しましたが、その考え方を修正すべきだと感じたのは、Kate Dewes (ケイト・デュース)さんにお会いした時でした。1999年5月、ハーグで開かれた 「ハーグ平和市民会議」の場でした。ICJの勧告的意見が出されてから3年、参加したNGO関係者から、世界法廷運動(以下WCPと略します)への熱い思いが伝わって来たからです。そのリーダーの一人がデュースさんだったのです。
ICJで行われた口頭陳述での、当時の平岡広島市長と伊藤長崎市長の発言が如何に感動的だったのかを、その場の雰囲気を交えて熱く語ってくれました。被爆地からのメッセージがあったからこそ、国際法上の大きな成果が実現したのだと評価してくれたのです。加えて、自分たちの10年以上の努力がこのような形で実ったことがとても嬉しいという言葉が続きました。謙虚さと仲間への信頼、そして市民の力の大きさがしっかり伝わって来ました。
その後、核兵器廃絶のための国際会議が開かれる度に、と言って良いほど、デュースさん夫妻(彼女のパートナーが、前に引用したロバート・グリーン氏です)とは様々な機会に御一緒することになりました。
ケイト・デュースさん
ロバート・グリーンさん
中でも印象的だったのは、「WCPは、我が家のキッチンテーブルから始まったのよ」とデュースさんが披露してくれたことでした。日本流に言い直せば「井戸端会議」が発端だったということになるでしょう。クライストチャーチでの集会が終って、近くのサンドイッチ・ショップでお昼を食べようとしていた時でした。先に来ていた何人かの女性たちを紹介してくれたのですが、1970年代の後半、その人たちがデュース家の台所で話し合ったことが、何年もの努力の結果、国際司法裁判所を動かし、「核兵器は国際法違反」という勧告的意見につながったという説明がありました。
とは言え、井戸端会議さえ開けば世界が動くということではありません。その間にどんな活動があり、どう最終的な結果につながったのかが大切です。
一口で要約すれば、考えられるあらゆることを実行したと言えるのですが、WCPそのものの出発点は、1986年でした。その年に、元判事のハロルド・エバンズ氏がリーダーとなって、国際司法裁判所に核兵器の違法性についての判断をして貰おう、そのために「勧告的意見」という制度を使おう、と提案するまでに「井戸端会議」が成長したのです。しかもこれは、ニュージーランド全体に広がっていた平和運動の延長線上の運動になっていたのです。
[次回はニュージーランドの平和運動とニュージーランド政府の勇気ある決断、そしてその後の市民運動についてです]
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