追悼 藤田裕幸君
2011年3月11日、東日本大震災で東京電力福島第一原子力発電所が被災、どのくらいの規模の被害を受けていたのかは、被災地のみならず全国民が固唾をのんで見守っていたはずです。なかなか、はっきりした情報が届かない中、その夜、テレビではっきりと「冷却装置が止まって6時間も経過しており、すでに炉心のメルトダウンが始まっているんじゃないでしょうか」とコメントした物理学者がいました。それが、高木仁三郎、小出裕章、広瀬隆、槌田敦といった人たちと一緒に、原発やエネルギーについての啓蒙活動をリードし、反原発の流れを作ってきたリーダーたちの一人、藤田裕幸(ふじたゆうこう)君です。
詳しくは、彼の活動を軸に原発の本質についても分り易く語ってくれている『「修羅」から「地人」へ――物理学者・藤田裕幸の選択――』(福岡賢正著・南方新社)をお勧めします。反原発運動が大切なことは言うまでもありませんが、それはより大きな自然の中で私たち人間がどう生きて行くべきなのかという問への答の一部であることを藤田君は、自らの生活を通して示してくれました。
過去形で語っているのは、昨年2016年の7月に藤田君は多くの人に惜しまれつつ幽明境を異にすることになってしまったからなのですが、彼の仲間の何人かの呼び掛けで、ネット上で彼の追悼文集を編纂しようということになりました。
私も一文を寄稿しましたが、それは、藤田君と私は中学の同級生、しかも3年間、同じ組だったからなのです。だから今でも、藤田「君」なのです。以下、拙文を通して彼の知られていない一面に触れて頂ければと思います。
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藤田祐幸君を偲ぶ
2017年1月31日
藤田君とは千葉大学教育学部付属中学校の同級生として、3年間同じクラスで学びました。教室内では物静かで温厚な人柄でしたが、こと理科になると彼の存在が輝いていました。私たちの知らないことも良く知っていましたし、休み時間や放課後、彼と彼の仲間はいつも理科室で楽しそうに実験や研究をしていたのが印象的でした。
1957年の10月にスプートニク号が打ち上げられたときにも、ちょうど日本上空を夜通過する時間に何人かが集まって観察をした記憶があります。理科の先生と藤田君たちが中心になってその会をオーガナイズしてくれたのです。
私たちの学年は結束力があって、今でも頻繁に同窓会を開いていますが、そんな中で、恐らく同窓生一同にとって一番記憶に残っているのが30年ほど前、私たちが40代の頃のある年の同窓会です。
夏の暑い日でしたが、担任の先生や英語の先生等、数人の先生方も参加して下さり昼食会という形で、二三時間いつものように盛り上がりました。その後まだ陽は高かったのですが、幹事が計画していたのは近くの料理屋の二階を借り切っての二次会でした。先生方は二次会にまではお付き合い頂けないことが多かったのですが、その日は私たちに英語を叩き込んで下さったC先生が二次会にも参加して下さいました。
幹事たちはとても緊張して、お店の方には何度か電話で「今日は私たちの恩師も参加して下さるので、くれぐれも失礼のないように」と念を押していました。私たち一同がその店に到着するや否や、店の従業員何人かが「先生こちらへ」という感じで甲斐甲斐しく藤田君を「御案内」。
当時の藤田君は、長く白い髭を蓄え、知らない人が見れば誰でも彼が「恩師」だと思って不思議ではない風格がありました。一方、C先生は昔から若く見られる風貌の持ち主で、「同級生」だと紹介してもそれで通るくらいの雰囲気でした。幹事が何とか店の人に誰が先生なのかを伝え一同大爆笑の裡に二次会が始まりましたが、記憶に残る楽しい日になりました。
2007年には、それまで住んでいた神奈川県三浦市から長崎県西海市に移り住むとの知らせを貰いました。「日本中のどの原発より西にある」ということと、雪浦という地域の魅力が決定的だったという説明がありましたが、原発事故の可能性がリアルであることをこのような形で私たちに啓蒙してくれていることに気付いて、新たな感動に包まれました。
そして、福島の原発事故後の活動については私が述べるまでもありません。最後に彼と話をしたのは2014年、広島市での講演会後の短い時間でした。日本の原子力政策が変わらないことを憂慮しながら、彼が運動からは引退する気持であることを聞きました。その理由は、「もう自分にできることは全てやり尽くした。これ以上なすべきことはない」という潔いものでした。「できることは全てやり尽した」と自信を持って言い切れるほどの凄まじくそして素晴らしい活動を続けてきた藤田君の面目躍如たる発言でした。
私はあと数年の間は活動を続ける積りですが、「できることは全てやり尽した」と言える境地にはなれそうもありません。しかし、現実にそこまで到達した藤田君を目標に、少しでも彼に近付けるよう努力したいと思っています。
藤田君の御冥福を心からお祈り致します。
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40代の同窓会の記念撮影で、禿で白髪のK君は
「先生は真ん中に」とカメラマンさんに言われました。
投稿: ⑦パパ | 2017年2月10日 (金) 09時24分
そういえば、
彼は、いつも悲しそうな顔をしてましたね。
投稿: 元安川 | 2017年2月10日 (金) 21時44分
「⑦パパ」様
コメント有り難う御座いました。40代でそんな経験をした人は多いのではないかと思います。その結果、ある意味「本当」の「大人」の仲間入りをしたんだ、もう少しハッキリ言うと、「歳を取った」という気持も実感として持つようになった時期なのかもしれません。
投稿: イライザ | 2017年2月10日 (金) 23時36分
「元安川」様
コメント有り難う御座いました。彼は、中学時代にもう『原子力読本』を読んでいたくらいですので、人類の行方を憂えていたのかもしれません。
投稿: イライザ | 2017年2月10日 (金) 23時38分