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2017年1月14日 (土)

オットー・ハーン博士の孫  ――科学と人類と平和のための人生―― その2


オットー・ハーン博士の孫

――科学と人類と平和のための人生――

その2

 

前回の続きです。ディートリッヒ氏が、宮島の鹿を気に入ってくれたこと、それが平和の象徴だとまで言ってくれたことがとても印象的でした。

                

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講演するディートリッヒ氏

 

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《講演》  

 

   アメリカの詩人、思想家であるラルフ・ウォルドウ・エマーソンは「本音で言えば、歴史は存在しない。あるのは個人が生きた証だ」と言っていますが、ディートリッヒ氏の講演を聞いて、その意味が分かったような気がしました。歴史を大きく動かした人物の視点や立場から、ある時代を経験することで、歴史をより深く理解できることに思いが至りました。

講演もタイ式のお辞儀から始まりました。写真を使っての「年代記」といった性格の講義でしたが、ディートリッヒ氏から他の場所で聞いた話も交えて、梗概をお伝えしたいと思います。

子ども時代の話もありましたが、大学からが本格的な話でした。1897年から1901年まで、OHはミュンヘンとマルブルグで化学、鉱物学、物理学、哲学を学び、大学生活も大いに楽しんで、マルブルグでは純粋有機化学の研究により博士号取得。マルブルグで助手として働いた後、1904年から、ロンドンでウイリアム・ラムゼーの下で研究生活を送りました。研究分野は有機化学から放射性物質に移り、次の年にカナダのマクギル大学に移ってアーネスト・ラザフォードの下で研究を続け、1905年には、その後の多くの発見の先駆けである、ラジオトリウム を発見しました。

その後、ラジオアクチニウムやトリウムC、そしてラジウムDを発見、1906年、ドイツに戻り、ベルリン大学ではメソトリウム I、メソトリウムIIそしてイオニウムを発見しています。これらの物質は1912年まで新元素として扱われていましたが、フレデリック・ソディーの「同位体」の概念により、その後は同位体として扱われるようになりました。

1907 OHは、ベルリンで物理学者のリサ・マイトナーと出会い、その後30年以上、共同研究を行うことになります。化学と物理学の完璧な共同研究からは幾多の重要な発見がもたらされることになりました。1909年には放射線反跳を発見、1910年にベルリン大学の教授に任命されます。

1912年にはベルリンに創設されたカイザー・ヴィルヘルム化学研究所(KWI) の放射線学科長になり、1914年には初めて、ノーベル化学賞の候補に推薦され、それ以後も数度ノーベル賞候補になっています。1917年、OHとリサ・マイトナーは原子番号91のプロタクチニウムを発見、1921年には核異性体 (ウラニウム Z / ウラニウムX) を発見しました。

1933年に、ヒットラー独裁が始まりましたが、OHはナチス党に入らず、抗議の意思表示としてベルリン大学の教授を辞任。 同年、ニューヨーク州、イサカにあるコーネル大学の客員教授として赴任しますが、任期途中でドイツに帰還しました。このナチスの時代に、OHと彼の妻のイーデスは、時の政府に対して勇敢に反対をし、ユダヤ人の共同研究者や科学者を保護し、刑務所あるいは強制収容所に送られるのを阻止したこともあったとのことでした。

1938年末,「超ウラン元素」についてのリサ・マイトナーとの長い研究プログラムを経て、OHと彼の助手フリッツ・ストラースマンは、原子エネルギーの科学技術的な基礎である核分裂を発見しました。

1945年までにOHと共同研究者たちは、25の元素から100種類以上の核分裂生成物を発見、確認しました。原爆の開発には携わっていなかったのです。

 

《原爆から平和運動に》

 

1945年、ナチスドイツ降伏後、OHに加えて9人のドイツ人科学者は連合軍により、1946年の1月までイギリスのファームホールに拘留されました。ここで、「核分裂の発見」により1944年のノーベル化学賞を受賞したことを知らされました。 OHは生涯を通じては37 の国際的な賞や勲章を受け、世界で45の科学アカデミーの通常会員または名誉会員に選ばれ、またゲッチンゲン、フランクフルト、ベルリンの名誉市民に選ばれています。

194586日、広島への原爆投下について知らされると、OHは絶望の淵に立たされ、同僚たちはOHが自殺をするのではないかと心配しました。彼はアメリカの原爆開発には全く関与していませんが、広島と長崎の犠牲者に対しての責任を強く感じたのでした。彼にとってアメリカの原爆は人類に対する罪であり、残りの人生を平和のため、そして核兵器の生産、実験、拡散そして使用反対のために生きることを決意しました。

1950年代、1960年代にOHは、核兵器そして冷戦に反対する運動のリーダーの一人になりました。世界平和のため、また市民の間の寛容と理解の必要性を訴える多くのアピールの発起人ともなり、こうした努力に対して1957年以降、数回にわたり、ノーベル平和賞候補に推薦されました。

1968年にOHはゲッチンゲンで静かな死を迎えました。訃報には、「核化学の父」「核時代の創始者」といった言葉が並びました。1999年、世界の著名科学者500人の投票によるランク付けで、OH20世紀で最も重要な科学者の第3位に選ばれました。1位がアルバート・アインシュタイン、2位がマックス・プランクで、この二人が理論物理学者であることを勘案すると、彼の時代で最も重要な化学者かつ実験科学者だったことになります。

 

《最後に》

 

市民講演の次の日には、ディートリッヒ氏を宮島に案内しました。厳島神社にも感激してくれましたが、彼がそれ以上に喜んだのは、自由に街中を歩く鹿でした。一頭ずつカメラに収め、話しかけ、宮島で最も長く時間を費やしたのは、鹿との対話だったと言っても良いくらいでした。ディートリッヒ氏は「これが、本当の平和だ」と何度も繰り返していました。

お祖父さんから引き継いだ広島への思いと共に、自分でも、どうしても一度は訪れなくてはならないと誓った広島で、慰霊碑に詣で、資料館で学び、お祖父さんと自分の思いを広島市民に伝えることができたからでしょうか、3世代にわたる重荷を下ろして安堵の気持が、鹿との対話になったように私には思えたのですが、宮島の持つそして広島の持つ不思議で大きな力を感じた数日でした。

 

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鹿に話し掛けるディートリッヒ氏

 

 

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