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2016年10月18日 (火)

詩を訳すことは可能なのか


詩を訳すことは可能なのか

 

ノーベル文学賞選考委員会の選考基準の一つは、世界的に評価されている、つまり世界中の人が読んでいることだと聞いたことがあります。そのためには、まず複数の外国語に翻訳されている必要があります。

 

詩を翻訳すること自体には、一般論として問題はありません。それどころか、元の詩より翻訳の方が素晴らしい場合もあります。私の独断と偏見による一例をあげると、ロバート・ブラウニングの「ピッパの歌」の日本語訳です。

 

The year’s at the spring

And day’s at the morn;

Morning’s at the seven;

The hill-side’s dew-pearled;

The lark’s on the wing;

The snail’s on the thorn;

God’s in his heaven---

All’s right with the world!”

    (Pippa passes, 1841) 

 

それを上田敏が訳して「春の朝」と題して発表したものです。

時は春、

日は朝(あした)、

朝(あした)は七時、

片岡に露満ちて、

揚雲雀(あげひばり)なのりいで、

蝸牛(かたつむり)枝に這い、

神、そらにしろしめす。

すべて世は事もなし。

 

(「万年艸」明治3512月発表)

          (『海潮音』明治3810月刊所収)

 

この詩は、「ピッパが通る」という劇詩の中でピッパという少女の歌う歌に、罪を犯した男女が打たれるというシーンで使われています。その他にも、上田敏訳の素晴らしい詩はたくさんありますので、『海潮音』その他の詩集を御覧下さい。

            

Photo

                 

 

Photo_2

 

これは英語その他の外国語から日本語への翻訳です。では逆はどうなのでしょう。日本語の詩を外国語に訳すことには、かなりの苦労が伴います。そしてその結果はと言うと、これも独断と偏見による仮の結論ですが、それほど素晴らしいとは思えないようなものがかなりあります。特に短い詩、俳句や短歌の場合には、極端に言うと絶望的な気持にさえなります。

 

例えば誰でも知っている芭蕉の「古池や蛙飛び込む水の音」の英語訳の一つとして、小泉八雲訳を御紹介しましょう。

 

An old pond

Frogs jumped in

Sound of water

 

その他の訳もありますし、著名な詩人や文学者の訳もあるのですが、俳句のリズムや響き、余韻まで上手く伝えられているかどうか、池やその周りの情景まで一幅の絵として切り取ることに成功しているのかどうか、いや元の俳句より詩として優れているのかと問われる、そこまで言い切る自信はありません。

 

とは言え、俳句の英訳は世界に紹介され、その結果として英語で俳句を詠むこと、さらには英語で詠まれた俳句に与えられる国際的な賞までありますので、私の考え方が狭いというだけなのかもしれません。また、これらの訳を高く評価しているiKnow! Blog」というとても勉強になるブログがありますので、こちらも是非御覧下さい

 

そのブログでも取り上げているのが、同じく芭蕉の「静けさや岩に滲み入る蝉の声」です。Reginald Horace Blyth の訳です。彼は詩人で日本文化の研究家、日本語にも堪能で、海外への俳句の紹介者としても知られています。

 

What stillness!

The voices of the cicadas

Penetrate the rocks.

 

実は、この句を高校生の時に訳して、アメリカのホスト・ファミリーや友人たちに読んで貰ったことがあります。訳は、プライズ氏とほぼ同じでした。でも元の俳句の良さを分かってくれた人はいませんでした。「セミ」そのものについての認識が全く違っていたからです。

 

その理由は、その後ボストンに住むようになってから分りました。アメリカ北東部のセミは、17年周期で地上に現れ、それがテレビのニュースになるくらい稀な出来事だからなのです。しかも、多くの人の感想は「うるさい」でした。

 

その後も、下手な英語の詩を書く傍ら、俳句や短歌を英語に訳す試みもしましたが、その中で何となくまとまってきた結論めいたものは、次のように表現できるかもしれません。

 

 例えば、俳句や短歌の良さを理解して貰うために「近似値」としての訳はできそうだ。

 ただし、良い訳を付けることができ、外国の読者に日本語と同じような情緒を伝えられるのは、日本に特有の気候や動植物、伝統や慣習等にそれほど関わりのない普遍的な内容のものになるのではないか。

 とは言え、俳句や短歌からインスピレーションを得て作られる英語その他の言語による「ハイク」や「ワカ」の創造性や美しさの評価はそれとは別の次元で行った方が良いのではないか。

 

ボブ・ディランのノーベル賞受賞から出発した俳句と和歌ですが、その素晴らしさを世界的に共有して貰うためには、まず「近似値」で知って貰うということが現実的な道だと思います。そのためには、これまで訳された俳句や和歌をより多くの人に鑑賞してもらう機会を作ることが大切です。

 

その結果、俳句や和歌がシェークスピアと同列までとは行かなくても、日常レベルで高い評価を受けるようになると良いのですが――。

 

 

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コメント

言葉というのは、自然環境を含めた生活や文化、慣習などが背景にあるもので、異質な背景を持つ人同士のコミュニケーションは、手段としては最も明確であるはずの言葉ですら簡単ではないと感じます。

映画を観る時も、原語が少しでも分かるものは、字幕と同時に原語も聴くことで理解が深まることが多いですが、同じ言語でも、国や民族による違いばかりでなく、時代による違いも小さくないように思います。

村下孝蔵の「ひとり暮らし」という歌に「この街から君の街まで電話をかける時の僕はいつもきまって一握りの十円玉もってボックスまで」という行がありますが、僅か30年前の歌ですら、今の若者には説明が必要です。

ただ逆に、これだけ違う民族や国家であっても、共通項は多いもので、そうした人間としての共通項をつなぎ合わせることこそが平和への道であり、こうした文化の交流は平和にとって非常に重要なのだと思います。

「工場長」様

コメント有難う御座いました。そして、哲学的に深みのある御指摘と問題提起有難う御座います。

時代が変わると理解されない言葉も多い中、名曲とか名作とか言われるものは、多少の解説は必要になっても、普遍性のある真実や美しさを表現しているため、それが世代を超えてのアピールになるということなのでしょうか。

俳句は小説と違い、前後に説明なような文章が無いので、生活環境や社会風習や経験がないと、理解できにくいですね。
セミの話でも、同じ日本人でも、街中の公園の木に沢山のセミがいてうるさくなくことしか経験していなく、静かな森に入ったことがなければ理解できないかもしれませんね。
それと日本語には、ひらがな、カタカナ、漢字があり、同じ言葉でもどれを使うかで感じが変わりますし、助詞の選び方でも意味が変わってくるものもありますね。
それを、英語でそれも短文で訳すのはとても難しいですね。
日本に訪れる外国人観光客の人達が、日本には見ている風景や古い建物など見て感じたことを、季語を入れて短文で表現する「俳句」というのがあることを知っり、簡単なルールで旅の思い出を自国の言葉を使って書き残し、その風景写真と自分の作品をお土産に持って帰ってもらえたら良いですね。

「やんじ」様

コメント有難う御座いました。俳句もそうですが、歴史の古い和歌も理解するのに難しい詩の一つだと思います。だからこそ、俵万智のような分り易い和歌がポピュラーになったのではないでしょうか。

広島を訪れる外国人が増えていますので、資料館での感想を書くノートの他に、俳句や和歌を紹介した上で、自分の思いを短い詩として残して貰うためのメカニズムがあると良いのかもしれません。

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「やんじ」様

コメント有難う御座いました。俳句もそうですが、歴史の古い和歌も理解するのに難しい詩の一つだと思います。だからこそ、俵万智のような分り易い和歌がポピュラーになったのではないでしょうか。

広島を訪れる外国人が増えていますので、資料館での感想を書くノートの他に、俳句や和歌を紹介した上で、自分の思いを短い詩として残して貰うためのメカニズムがあると良いのかもしれません。

俳句は小説と違い、前後に説明なような文章が無いので、生活環境や社会風習や経験がないと、理解できにくいですね。
セミの話でも、同じ日本人でも、街中の公園の木に沢山のセミがいてうるさくなくことしか経験していなく、静かな森に入ったことがなければ理解できないかもしれませんね。
それと日本語には、ひらがな、カタカナ、漢字があり、同じ言葉でもどれを使うかで感じが変わりますし、助詞の選び方でも意味が変わってくるものもありますね。
それを、英語でそれも短文で訳すのはとても難しいですね。
日本に訪れる外国人観光客の人達が、日本には見ている風景や古い建物など見て感じたことを、季語を入れて短文で表現する「俳句」というのがあることを知っり、簡単なルールで旅の思い出を自国の言葉を使って書き残し、その風景写真と自分の作品をお土産に持って帰ってもらえたら良いですね。

「工場長」様

コメント有難う御座いました。そして、哲学的に深みのある御指摘と問題提起有難う御座います。

時代が変わると理解されない言葉も多い中、名曲とか名作とか言われるものは、多少の解説は必要になっても、普遍性のある真実や美しさを表現しているため、それが世代を超えてのアピールになるということなのでしょうか。

言葉というのは、自然環境を含めた生活や文化、慣習などが背景にあるもので、異質な背景を持つ人同士のコミュニケーションは、手段としては最も明確であるはずの言葉ですら簡単ではないと感じます。

映画を観る時も、原語が少しでも分かるものは、字幕と同時に原語も聴くことで理解が深まることが多いですが、同じ言語でも、国や民族による違いばかりでなく、時代による違いも小さくないように思います。

村下孝蔵の「ひとり暮らし」という歌に「この街から君の街まで電話をかける時の僕はいつもきまって一握りの十円玉もってボックスまで」という行がありますが、僅か30年前の歌ですら、今の若者には説明が必要です。

ただ逆に、これだけ違う民族や国家であっても、共通項は多いもので、そうした人間としての共通項をつなぎ合わせることこそが平和への道であり、こうした文化の交流は平和にとって非常に重要なのだと思います。

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