理想を掲げる――その1
理想を掲げる――その1
「通りすがり」さんの問題提起について考え始めたのですが、思っていたより複雑でした。その問題提起を私なりに表現してみました。
ある理想について、現実を変える力を持っている人がその力を行使しないにもかかわらず、その理想を掲げ続けて公にアピールして良いのか。
私は、一般論として「良い」と言いたいのですが、上の文章の中の個別のフレーズについて、もう少し丁寧に吟味しないと決定的な結論は出せないということにも気付きました。
先ずは、「丁寧に吟味」したいと思います。
最初に確認しておきたいことは、全ての人の理想が同じではないことです。つまり、戦争反対の人の理想と死の商人の理想とは違っていると考えた方が良さそうですし、自分は誰よりも優れていると信じ込んでしまっているお金持ちの描く理想の総理大臣像と、極貧の生活に甘んじて隣人の幸せを最優先する宗教家の描く総理大臣像は違って当然です。
核兵器についても、圧倒的に多数の人は廃絶すべきだと信じていますが、核兵器のあることこそ理想的な状態だと信じている人も恐らくいるはずです。口では信じていると言いながら本音では信じていない人もいるでしょう。そして仮に核兵器の廃絶という理想は共有していても、その理想を実現する道筋、シナリオについての考え方も多様です。
核廃絶に至るシナリオに従って自らに課した責任をしっかり果している人もいますし、悲観的なシナリオしか描けなくて、理想は理想だが現実問題としては不可能だと結論付けて諦めてしまっている人もいるでしょう。それほどではないにしろ、理想の実現するのは二世紀も三世紀も先だというシナリオの持ち主も確かにいます。
シナリオの違いが生じるのは世界観の違いだと言ってしまえばそれまでなのですが、現実の世界・社会を動かしているプレーヤーやそれぞれのプレーヤーの持つ力、力関係、そして何がその力の元になっているのか、その力をどう使うのか等についての認識の違いが関係しています。こうしたことについて詳しく論じるのが政治学の一つの役割だと思いますが、それは専門家に任せて、ここでは常識の範囲内でさらに考えを進めたいと思います。
プレーヤーの中には、まず国家、都市、市民等がありますが、それぞれの構成単位としては大統領や総理大臣といった行政の選ばれる立場のトップ、その一部ではあっても大きな力を持つ官僚制度ならびに官僚、裁判所等の司法、議会、経済界、マスコミ、オピニオン・リーダーとして影響力を持つ様々な専門家集団、NGO、宗教界等々があります。個々の市民、市民の集まりである都市も重要です。
一口に市民と言っても、年齢、性別、職業、宗教、政治信条、経済力等々、どうまとめるのかによって違うプレーヤーとして考える必要も出てきます。
こうしたプレーヤーが働き掛けるのが「現実」ですが、理想に向かって現実をどう変革して行くのかが、シナリオだということになります。その中で、概念として整理しておくべきことの一つが、現実と理想の折り合いをどう付けるのかという点です。
ようやく到達しましたが、これが、「通りすがり」さんの問題提起なのだと思います。この点を考えるに当り、プリンストン大学の哲学者、コーネル・ウエスト教授の『Race Matters (人種の問題)』が参考になります。オバマ大統領のヒロシマ演説の中にもウエスト教授の影が見えますが、詳しくは次回に。
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