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2016年4月23日 (土)

予科練平和記念館

 

予科練平和記念館

 

オバマ大統領の来広についてまだ続きがあるのですが、もう少し時間を掛けて整理をしたいと思いますので、今日は日記的な報告です。

 

実は今日、423日に、予科練平和記念館で講演します。茨城県の土浦の近くにある阿見町にある施設ですが、昔、この町には「霞ヶ浦海軍航空隊」の本拠があり、その一部として「海軍予科練集部」が設置されました。その略称が「予科練」です。


 

主催は、予科練平和記念館、茨城県生活協同組合連合会ですが、イベントは「平和のおはなし会」というソフトな名称です。この施設の写真は今日、何枚か撮って近くアップしますが、昨夜、関係者の皆さんと夕食を共にしながら話題になったことを簡単に報告しておきたいと思います。「ところ変われば品変わる」ということわざ通り、普段はそれなりに理解していると思いこんでいる事柄でも、違う土地では別の視点から見られるからなのだと思いますが、フレッシュな気持で聞くことができました。

 

最初に話題になったのは、茨城に住む二人の被爆者の「半生」を伝える紙芝居を茨城生協連が作り、一年間でほぼ1000もの人に見て貰ったという活動です。特に皆さんが強調していたのが、「半生」です。被爆体験が貴重であることは言を俟ちませんが、それから後の被爆者の生き方が素晴らしいという認識の下、若い世代のために「半生」を語って貰う、しかも、紙芝居という媒体を通して視覚的な伝達を可能にし、紙芝居を見るという距離にも意味を持たせての成果です。二人の被爆者のお一人、茂木貞夫さんはとても82歳とは思えないくらいお元気で、毎日、平和運動の拠点と生協の事務所をかけ持ちにして、ボランティア活動を続けています。もうお一人の高橋久子さんのお話は今日聞けるようですので、また報告します。

 

Photo

 

二つ目の話題は安倍内閣の「一億総活躍社会」です。茨城の生協連では、「一億」にうさん臭さを感じる組合員が多く、消費者庁からの要請を蹴って、このテーマを取り上げないことにしたのだそうです。立派な対応だと思います。

 

私が安倍内閣のPR作戦としてのこの言葉を聞いてすぐに頭に浮かんだのは、「進め一億火の玉だ」「一億玉砕」「一億総懺悔」です。そしてマスコミもそれなりには取り上げていましたので、こうした表現についての理解は広まっていると思い込んでいたのですが、そうではないというのが昨夜分った実情でした。

 

「一億」に違和感を持った茨城の組合員たちも、大政翼賛会のスローガンとしての「進め一億火の玉だ」までは知らないようなのです。「一億玉砕」についても同じです。しかし、「一億」という単位で日本国民を「単一化」定、戦争への道をたどった歴史についての理解はまだまだだということなのです。

 

Photo_2

 

私がこうした言葉やその背景を知っているのは、戦前・戦中の直接体験があるからではありません。終戦時に2歳半だったのですからそれは不可能です。でも戦後のかなりの間、こうした表現は人口に膾炙されていましたしその意味も明確に伝わっていました。しかし、このように時の経過とともに忘れ去られて行く歴史的な事実について、もっときちんと伝えて行く義務を持つのは、教育界であり、マスコミだと思います。その両者とも安倍政権に絡め取られて本来の義務を果たしていない、果したくても果たせない今という時代の異常さに改めて、怒りを感じたことも正直に報告しておきます。

 

三つ目は、外国では「War Museum」つまり「戦争博物館」と呼ばれる、しかし日本国内では往々にして「平和」が付けられている施設についてです。予科練平和記念館、呉にあるのは、「平和」は付いていませんが「大和ミュージアム」、「知覧特攻平和会館」等です。

 

こうした施設を訪れた多くの人の反応は、「涙なしには見られなかった」「感動した」といった肯定的なものがほとんどです。阿見町の予科練平和会館についても同じ反応が圧倒的に多いのだそうです。

 

私の父は軍人でしたし、父を尊敬していましたので、幼い時には、戦争に負けて軍人になれなかったことがとても残念だと思っていた時期がありました。ですから、「涙」も「感動」も良く分ります。でも、そんな純粋な若者の心を弄び、死に追い遣った、時の為政者たち軍国主義者たちに対する「怒り」は、このような施設を見学することで生まれるのでしょうか。

 

若者の命を蔑ろにする施策はもっとも忌むべきものですし、そのような施策を展開した権力者たちに「怒り」を感じ、そのような轍を二度と踏まないという決意の生まれる施設こそ必要なのではないでしょうか。そんな気持ちが生まれるような展示はなされているのでしょうか。その正反対の展示がなされてはいないのでしょうか。

 

一人の人間が「感動した」と言っているときに、それに異を挟むことは礼を失しているという考え方もあります。同時に、過去の「涙」から教訓を得て、同じ「涙」を流させないように努力する義務も私たちにはあるのではないでしょうか。この点についてはさらに丁寧に論じたいと思います。

 

そんな疑問は全くの杞憂だ、どの施設もしっかり平和への意思を作るための展示や企画が行われている、あなたの不明を恥じるべきだ、という反論の出てくることを期待しています。


 

 

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