「線香の一本でも」に込められた思い
熊本地震での想像を絶する甚大な被害に私たちは皆、言葉を失っています。亡くなられた方々、怪我をされた方々、家が倒壊する被害に遭われた方々、その他筆舌に尽くせない被害に遭われた方々に心からお悔やみ、そしてお見舞いを申し上げます。さらに、被災者の皆さんのお役に立てることがあれば、私たちにできることは何でもしたいと思っています。
未だに続く余震が一日も早く収束し、被災者の皆さんに通常の生活が戻ること、そして様々な被害から一日も早く立ち直られますよう、衷心から祈っております。
そんな中ですが、今日開かれた「先人を語る会」の報告です。
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「線香の一本でも」に込められた思い
伊藤サカエさんの運動から学ぶ
4月16日、広島市原爆被害者の会主催の第4回「先人を語る会」が、65名の参加で大手町平和ビルで開催された。この会は、反核運動の先頭に立ってきた人々の足跡を今一度たどりながら、私たちの運動のヒントを見出そうというものである。
今回の「先人」は、広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協)2代目理事長を務められた「伊藤サカエさん」だった。
先人を語る会 伊藤サカエさん
伊藤さんは、34歳の時、「国家総動員法」により義勇隊として建物疎開作業中に被爆された。原水禁運動や被団協運動には、結成当初から参加されたおり、1981年には、女性としてはじめて日本被団協の代表委員を務められている。
歯に衣着せぬ直言。反骨精神の強さ。誰もが語る伊藤さんの印象である。一方で周りの人たちへの気配りは、人一倍。集会や行動では、いつでも地元矢野町内会の多くの女性たちの真ん中にその姿があった。「会長さん、会長さん」と親しみを込めて周りから言われていたことを思い出す。
伊藤さんの思い出を語る親族、関係者
広島県原水禁の常任理事も務めておられたので、私も長くお付き合いをさせていただいていた。「金子君、金子君」と声をかけていただいたことを今でも忘れない。行動力のある伊藤さんだったが、とりわけ「国家補償の被爆者援護法の制定」にかける思いと行動は、人一倍だった。それは、あの日の言葉の象徴されている。
「被爆者援護法」は成立したが
「無念のうちに死んだ人々に線香の1本でも上げてくれ」 この言葉は、1994年12月9日「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律(被爆者援護法)」が成立したことに感想を求められた伊藤サカエさんが、発した言葉である。当時伊藤さんは、その年の1月に亡くなられた森瀧市郎理事長の後を引き継いで広島県被団協の理事長であった。この「線香の1本でも」という言葉に込められた意味を改めて考えてみたい。
国家補償の被爆者援護法」は、被爆者団体の長年の強い要求であった。1993年自民党政治に終止符が打たれ細川政権が誕生した時、「被爆者援護法制定」も政治課題の一つになった。その後、自・社・さ政権の村山内閣が誕生すると、さらに「被爆者援護法制定」への期待が高まり、被爆50年を目前とした1994年12月9日に「被爆者援護法」が成立したのである。ところが被爆者が求め続けてきた「国家補償」と「死没者への個別弔意」が盛り込まれないままの成立だったため、被爆者団体や支援団体からの強い反発を招く結果となった。その無念の思いを象徴するのが、伊藤サカエさんの言葉である。
まやかしの「特別葬祭給付金」
「死没者への個別弔意」こそが、国家補償の原点とも言うべき問題である。成立した被爆者援護法では、「特別葬祭給付金」という制度が盛り込まれた。一見「死没者への弔慰金」を支払う制度のように装っているが、そこには大きなごまかしがあった。この「特別葬祭給付金」を受給できるのは、被爆者でなければならないというのである。受給者を被爆者に限ることは、問題を根本的に解決することにはならない。原爆被害者の中には、自身は被爆者ではないが、家族全てを原爆で命を奪われた人たちもたくさんいる。1945年8月6日様々な理由で広島を離れて、被爆を免れた人。学童疎開で広島を離れていた子ども。兵士として海外に派兵されていた人。こうした人たちには、被爆者でないことを理由に「特別葬祭給付金」を受け取ることができなかった。私の知人のなかにも、多くの家族を失いながら受け取ることができなかった人がいる。
求め続ける「国家補償の被爆者援護法」
原爆の最大の犠牲者は、死没者である。その犠牲者に対して葬祭料どころか弔意すら示されなかったのが、「被爆者援護法」である。その背景には、厚生労働大臣(当時)の私的諮問機関である原爆被爆者対策基本問題懇談会(基本懇)が1980年に出した「国の戦争による犠牲は『すべての国民が等しく受忍しなければならない』」という「戦争被害受忍論」の考え方があったからである。その考え方は、今も続いている。
「線香の1本でも」に込められた思いは、こうした「受忍論」に対する厳しい批判であり、戦争の結果招いた国の責任を厳しく問う考え方を表したものである。
いまもなお、「国家補償法」の「被爆者援護法」を求める運動が続いている所以である。
「被爆者援護法」採決に当たって、自・社・さ連立与党の一員でありながら、広島選出の衆議院議員の秋葉忠利・小森達邦、参議院議員の栗原君子の3名が、「ヒロシマの良心」を示すため、反対したことを最後に明記しておきたい。
金子哲夫 (広島県原水禁代表委員、元衆議院議員)
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コメント
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東京で空襲にあった人に良く聞くのは、日本全国で何十万人もの国民が受忍論により何の補償も受けられていないにも関わらず、原爆被害者だけが手厚い補償を受けている、というものである。東京大空襲に遇った人達に言わせると「原爆は一瞬だったが我々は長い時間、長い期間恐怖に苛まれ被害者の数も同程度であり、障害を持った人達にも「特別な支援」はない。米国の報告書でも日本の空襲による犠牲者の95%は民間人であり、その民間人は防空法により逃げることを禁じられていたにも関わらず、一瞬のことで防空法なども関係ない広島や長崎の犠牲者だけが補償された。広島では被爆二世の市長が被爆者に「くれくれ言うな」と言ったということだが、東京に居るものからみると手厚い補償を受けている被爆者だけがいつまでも「くれくれ」と言っているようにみえる。
投稿: 都民 | 2016年4月17日 (日) 12時13分
「都民」様
コメントありがとうございました。
国が起こした戦争に様る被害は、一般戦災者であれ、原爆被害であれ、等しく救済されなければならないと思っています。しかし「都民」様も指摘されているように、「国民受忍論」によって、切り捨てられています。
現在の「被爆者援護法」による被爆者救済も「放射能被害という特殊性」を考えた生存者への「社会保障」という考え方に立っています。それは「保障」という考え方でのみで「補償」という考え方はありません。
「死没者への弔意」を求めることは、まさに戦争被害に対する国の責任を認め、被害者への「補償」を求めることにつながるからです。
もし「補償」としての被爆者援護法が、実現すればそれは必ず、同じ戦争被害者である空襲被害者など他の戦争被害者の補償への道につながると考えています。
繰り返すようですが、国の誤った戦争による政策による戦争被害は、等しく救済されなければなりません。これが私の考え方です。
投稿: 金子哲夫 | 2016年4月17日 (日) 13時15分
「都民」様
大切なことを書き忘れていました。
被爆者援護法の中身をここまで前進させたのは、1956年に初めて被爆者の組織がつくられ、何度も何度も広島や長崎から上京しての陳情や全国的な署名活動など粘り強い政府への要望活動があったからです。このことも決して忘れてはならないことのように思います。
それから、先ほどのコメントの最後を「繰り返すようですが、国の誤った政策による戦争被害は、等しく救済されなければなりません。これが私の考え方です。」と訂正します。
投稿: 金子哲夫 | 2016年4月17日 (日) 13時50分
例えば原発事故による被曝であれば明らかに「国の誤った政策による被害」ですが、空爆は原爆も焼夷弾も米軍が投下したものです。敗戦国とは言え国際法に違反したものですし、日本も解決したはずの中国や韓国から未だに賠償や謝罪を求め続けられているように、補償を求めるべき相手は日本国政府ではなく米国政府ではないでしょうか。
投稿: 都民 | 2016年4月17日 (日) 14時33分
「都民」様
再度のコメントありがとうございます。
おっしゃるとおり、原爆にしても焼夷弾にしてもその投下責任が、米国にあることは間違いありません。
なのになぜ日本政府なのか。
一つは、「国の誤った政策」と深くかかわるのですが、国が行った戦争行為に対する責任を果たしてほしいということです。「都民」さんは、ご存知かもしれませんが、広島平和公園には「国立広島原爆死没者追悼平和祈念館」があります。「国立」ということが重要なのですが、その館内にはこの館の建立の意味が記載されています。そこには「誤った国策」という言葉が明記されています。「誤った国策によって原爆死没者を作った」ことを意味しています。戦争が招いた結果に対する責任があるということです。
二つ目は、米国との関係です。日本政府が、サンフランシスコ平和条約を結ぶことによって、戦後の独立を果たしたことは、ご存じのとおりです。この条約において、日本は、国際法上の賠償請求権を放棄」しました。日本政府が、請求権を放棄したのですから、日本国民の賠償請求に対しては、国が責任持つべきだというのが私たちの考えです。
以上に述べたような二つの理由で、日本国政府へ賠償請求を行っているのです。
投稿: 金子哲夫 | 2016年4月17日 (日) 18時51分
「都民」様
金子さんの丁寧な説明に尽きるのですが、実は、正にこの点についての訴訟が1955年に行われています。原告の一人の名前を取って「下田事件」あるいは「下田訴訟」と呼ばれています。「原爆投下は国際法違反」という画期的な判決で知られています。ここで説明するには充分なスペースがありませんので、「日本反核法律家協会」の分り易いサイトを御覧下さい。
http://www.hankaku-j.org/data/jalana/130701.html
先輩たちの努力と情熱に改めて、敬意を表します。
投稿: イライザ | 2016年4月17日 (日) 19時44分