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2020年10月21日 (水)

「今でしょ!」・その2 ――「SUGA」政権は「本気」――

「今でしょ!」・その2

――「SUGA」政権は「本気」――

 

学術会議の会員任命拒否という暴挙についての考察を始めましたが、前回はその動機を取り上げました。今回はその続きで、菅政権が「本気」で言論弾圧に取り組んでいることを俎上に載せます。少し長くなりますが、お付き合い下さい。

前回は、菅政権が学術会議いじめを端緒に言論弾圧に乗り出した二つの「動機」を例示しました。今回は、菅政権が、言論弾圧に「本気」で取り組んでいることを、荒っぽい証拠になりはしますが、証拠とともに明らかにしたいと思います。

まず、前回示した動機の内の②、つまり、防衛装備庁が軍事研究を強力に推進するために「安全保障技術研究推進制度」を作ったにも関わらず、その制度に反対した学術会議への対抗策として、菅政権があからさまに言論弾圧を始めた辺りを中心に振り返りましょう。

① 最初はお金です。理工科系の研究にはお金が掛ります。(数学の一部など、例外はあります。) バブル時代は例外だったのかもしれませんが、研究補助費は限られています。「二番目では駄目なのか」という蓮舫議員の言葉が有名になりましたが、二番目から一番目になるためには、通常、とてつもない資金が必要になるのです。

  いや、それ以前の問題として、研究費そのものが危機的状況にあるのです。文科省が作成した、このグラフを御覧下さい。

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政府負担がほぼ横ばい状態なのです。そんな中、前回指摘したように防衛装備庁が大学の研究者たちに、「軍事研究をすれば資金は潤沢にありますよ」、と呼び掛ければ結果は火を見るより明らかです。

➁ 憲法9条改正や軍事研究に反対する日本学術会議の存在がハッキリ射程に入ったのは、前回も指摘したように2017年に同会議が「軍事研究反対声明」をまとめて、いわば「全研究者」を代表して政府の方針に盾を突いた時でした。

  その直後の秋、当時の大西隆会長は、新たに選任される105名の名簿を事前に政府側に説明するよう求められ、それに従ったとのことです。これは、学術会議法第三条、すなわち「第三条  日本学術会議は、独立して左の職務を行う」ならびに第七条、「2  会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」、そしてそれらが依拠する憲法23条、「学問の自由は、これを保障する」違反です。

  当然、この時点で学術会議会長は事実を公開して、国民的問題として政府に対峙すべきだったのですが、なぜかそのような行動にはつながりませんでした。結果として、政府がこれらの法的枠組みを無視し続け、有名無実にする土壌を提供してしまったのではないでしょうか。

③ 任命の対象となる学術会議推薦名簿の事前提出がすんなりできてしまったのですから、権力側の次の一手は、実際に任命「権」を行使して学術会議のメンバーを選び、権力支配を徹底させることになります。しかし、その前に、それなりの批判があることを前提に、次の「内部文書」

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を内閣府が作りました。2018年です。学術会議法の7条が、名実ともに総理大臣の任命権を正当化しているという内容です。学問の自由や学術会議の独立性を蔑ろにしていることも大問題ですが、こうした原理・原則が民主主義を続けるため、いや人類の生存を確実にするために必要不可欠であることへの配慮などは微塵も感じられません。しかし、「権力者の言い分は正しい」という命題に忠実に従う姿勢は歴然としています。

  その内容は論理的に破綻しているのですが、それは問題ではありません。文書のあることが重要ですし、後で触れますが、菅総理大臣の意志を貫くための道具として立派に役立つからです。

④ 今回の、6名を任命拒否するという暴挙は、こうした準備を整えつつ、機の熟するのを狙っていた菅総理が、その機が来たと判断した上でのことだと考えるのが自然でしょう。

④ 人事だけに絞って学術会議を屈服させるというのも一つのやり方ですが、菅政権は学術会議の組織・資金・そして存在そのものの見直しまで同時進行させています。それも、「ブラックな霞が関をホワイトにする」という謳い文句の「行政改革」の一環としての見直しなのです。もちろん、それには目的があります。私たちの守備範囲が増えますし、言葉による対抗策に頼る私たちにとって、より多くの文字数が必要になるため、悪くすると焦点がぼやけてしまって、大きな対抗勢力をまとめることが難しくなる可能性が大きいからです。

 という具合に進行しているのですが、正に用意周到、マスコミを操作し世論も誘導しながら「学術」などという言葉とは縁の遠い多くの市民の無関心さに乗じているのです。ジョージ・オーウエルの『1984年』に描かれた世界実現を目指していてもおかしくはありません。

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「ビッグ・ブラザー」が実現してしまえば、かつてのナチスのように、勝手気儘な施策を展開すれば良いのですが、現在はそこにまでは至っていませんので、それなりの説明が求められ、受け答えをしなくてはなりません。菅総理は「総合的、俯瞰的」視点からという説明しかしていないのですが、これでは何の答にもなっていない上に、仮に、このような表現に意味があるとすると、拒絶された6人が実際に任命されると「総合的、俯瞰的」という条件が満たされなくなることを示さなくてはなりません。

しかし、そのような論理的な議論をする積りは全くないのが、現政権そして前の安倍政権の特徴です。それは、論理的な議論をしようとする相手に対する「必勝法」が存在するからなのです。詳しくは、野崎昭弘先生の名著『詭弁論理学』(中公新書) をお読み頂きたいのですが、それは「強弁です」。とにかく自分の言い分を、相手を無視してでも言い続けることに尽きるのです。つまり、「黒は白だ」と言い続ければ、最後には「合理性」を掲げる相手であっても (いや、「だからこそ」と続けた方がより良い説明だと思いますが―――) 屈服させることができるのです。

そして、「言い続ける」言葉として「空集合」を選べば、それは何も言わないことになります。ずっと答弁を拒否するのも、「強弁」の一形態なのです。

 それも含めて、内閣府の作った「内部文書」を根拠に、「総理には任命権がある」と言い続ければ政権側が勝つのです。時間が稼げれば、アメリカ大統領選挙があり、コロナの状況も変わるでしょう。実際に開催されるかどうかはまだ不確定ではも、東京オリンピックも大きな話題です。そして来年の今頃は衆議院選挙一色になるでしょう。マスコミ的には「学術会議」の旬は過ぎ去っているでしょう。さらに、時間が経過することで「任命拒否」は既成事実になって行きます。3年経てば、任期が6年であるにせよ、その前の任期の会員たちの任命についての是非が問題視されるかどうか、心許ない状況になるでしょう。

しかし、それだけではないのです。「強弁」という手法は、目の前にいる相手には通用するのですが、マスコミを通して、より多くの「大衆」を騙すためには他の方法も必要になります。それは、多くのコマーシャルで使われているように、「イメージ」を通して、言葉を超えたメッセージを伝えることです。

そのために菅政権が使っている「イメージ」はかなり巧妙です。今、行政改革の目玉として大宣伝を行っているのは、ハンコの追放です。「面倒臭いハンコや、押印は止めましょう」に賛成する市民は圧倒的多数でしょう。そのイメージが「行政改革」なのですから、それと「学術会議」をだぶらせて世論操作をすれば、その効果は言うまでもないでしょう。「面倒臭い、無用の長物である学術会議などいりません。ハンコと同じです。」と言われて、内容も分らないまま、賛成する人が増える結果になってしまう可能性があるのです。

押印が日常的に要求されている社会は沢山あります。しかし、学問の自由や表現の自由が蔑ろにされる社会は、人類史上でようやく私たちの自体、あるいはそれに使い的に勝ち取ることのできた貴重な存在です。それを混同させることで、基本的人権を制限しようとする権力側の意図を見抜かなくてはなりません。

実際には、学術会議を廃止するのではなく、「罪一等を減じて」存続は許すが、規模を縮小して経費を削り、人員も減らした上で、「専門家会議」と同じように政権の忖度に終始する組織に衣替えさせるくらいの狡さは当然、持ち合わせているでしょう。「醜い」知恵だとしか考えられませんが、そんな目標を達成しようとしている「SUGA」内閣とは、「Super UGly Administration」 (訳は、「超醜い政権」) の略だと考えるのが相応しいように思えるのですが、如何でしょうか。

こうした動きに対して私たちのできることは何なのでしょうか。学術会議を「忖度会議」にまで劣化させないためにも、「憲法23条 学問の自由は、これを保障する」や「第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」の意味をもう一度噛み締めて、理解を深め、その理解をより多くの人たちに広げる努力をする必要があるのでないかと思います。

そんな努力の意味を、ナチスの犠牲になり、『1984年』を自ら体験したドイツの哲学者、ノーマン・ニーメラーは、次のような詩に託しています。

 

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

 

そうです。任命拒否された6人の一人ではなくても、学者ではなくても、学問とは縁がないと思っていても、政治に興味がなくても、一人では何もできないと思っていても、行動するのは「今」なのです。

[2020/10/21 イライザ]

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2020年10月 1日 (木)

日本の子どもたちが心配です ――日本財団の調査結果――

日本の子どもたちが心配です

――日本財団の調査結果――

 

 このブログの9月27日のエントリー「ドイツから見た日本の内閣」中、ドイツ在住の福本まさおさんが問題提起されていた次の一節について、私も一言、付け加えさせて頂きます。

老人クラブにも関わらず、若い世代の支持率が高いのも良く理解できません。日本には、世代交代が必要だという意識はないのでしょうか。ぼくは日本では、若い人たちの新しいアイディアで国と政治を活性化させることが必要だと思います。

高齢者に頼るのではなく、若い人たちにどんどん出てきて、活躍してほしいと期待しています。

この内閣の顔ぶれを見て、そういう議論が起こらないのも不思議でしようがありません。それとも日本の若い世代には、国に対する責任を持ちたくないという意識が強いのでしょうか。

「国に対する責任を持ちたくない」というよりは、「自分が何をしても社会は変らない」と諦めてしまっている若者が多いからなのではないでしょうか。その点について、『法学セミナー』9月号の「論説」として掲載して貰った拙文の一部を引用します。

 

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にもかかわらず(憲法9条があるにもかかわらず)、自衛隊は存在している。その根拠として「自衛権」というものがあり、大人の社会ではそれが憲法より優先されることも教えられる。また、98条では、憲法が「最高法規」であると規定されていることを知って、しかしながら、それを超える憲法外の力によって、一国の軍隊の存否が決められることに違和感を持つ子どももいる。

こうした相矛盾するインプットがある場合、教育的見地から大人社会の責任ある地位の人や組織が、たとえば学校のカリキュラムを通して、憲法の条文で述べられていることと、現実に起きていることとの間の論理的矛盾について説明する必要があるのではないだろうか。説明の結果、論理の重要さについての子どもたちの理解が深まり、同時に現実との折り合いの付け方に子どもたちが納得するという結果になれば、それは一つの解決法である。

しかし、現実にはこのような教育的配慮はされていない上に、政府は自衛隊の果すべき役割について憲法の元々の規定とは関係なく、アメリカの意向に沿いかつ政権の軍拡指向を助長する施策を積極的に実行している。

このような環境で育って行く子どもたちの多くが、憲法の価値や力について疑問を感じ、社会は政治的力を持つ「権威」が動かしていて、自分たちの関与する余地はないという世界観を身に付けてしまっても不思議ではない。事実、下のグラフに示されている日本財団の国際比較調査によると、「自分で国や社会を変えられると思う」と感じている日本の子どもは18.3%で、調査対象の9カ国中掛け離れて低い。(出典:日本財団「18歳意識調査」第20回 テーマ:「国や社会に対する意識」)

その他の項目についても、自らが1人の人間として社会的貢献をして行けると感じている18歳の若者の比率は、国際的に最下位である。この無力感は、マーティン・セリグマンの研究によって知られるようになった「学習性無力感」として知られる。(あるいは、「無力感の習得」とも呼ばれる。詳細はセリグマン著『オプティミストは何故成功するか』(講談社文庫1994年)参照のこと)

[クリックするとグラフが大きくなります]

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子どもたちに学習性無力感が植えつけられる唯一の原因が、自衛権という外的要因による憲法9条の意味付けだとは言わない。しかし、日本社会では、「本音と建前」という慣用句が立派に生き残っているように、言葉や論理の代りに、「権威」による押し付けで物事が決定されている多くの事例がある。憲法の存在が、法治主義ならびに日本の政治全体の基礎であり、如何に重要な位置を占めているのかも視野に入れると、その重みが元になって、反動としての「無力感」の大きさについても理解して頂けるのではないだろうか。

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『法学セミナー』の論説、全文もお読み頂きたいと考えています。何回かに分けてアップさせて頂きます。

[2020/10/1 イライザ]

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2020年9月21日 (月)

劣化した政治の「震源地」はどこか? (7) ――党議拘束は憲法違反――

劣化した政治の「震源地」はどこか? (7)

――党議拘束は憲法違反――

 

 前回の問題提起のお浚いから始めましょう。「政権交代が可能だから」という「政治論」のレベルで小選挙区制を論じる前に、「憲法論」として論じておくことで、日本政治の本質を見抜くことができ、より良い政治を創るためのヒントが得られるはずです。という結論から、今回は、小選挙区制を考える上で参考になる憲法上の問題の一つ、「党議拘束は憲法違反」であることを俎上に載せます。

 小選挙区制導入のために提出された「政治改革法案」の採決に当り、社会党からは、勇気ある造反議員が反対票を投じました。等の遺構に反対したのです。それは、選挙について、日本社会の未来について真剣に学び議論し、悩みながらの結論でした。

そして、衆参両院で可決されなければ法律にはならないという憲法59条が遵守されるという大前提の下、誠心誠意、良心に従って行動したのです。その真摯な行動が、党の決めた方針に合わないという理由で、つまり党議拘束違反という廉で処罰の対象になりました。実は、このような形で、国会以外の場で国会内の言動について処分するのも憲法違反です。それは憲法19条、21条そして51条によって保障されています。

その前に、小選挙区制導入に反対した議員を社会党が処分するということ自体、第40回総選挙における有権者に対する公約違反であることを指摘しておきましょう。つまり、選挙の時点では社会党は小選挙区制に反対しており、有権者はその前提で一票を投じているからです。社会党が小選挙区を導入するための政治改革関連4法案賛成に転向したのは細川内閣の成立時で、あくまでも政権党の一翼を担いたいという権力志向の現れだったと解釈することが一般的に受け入れられているからです。

敢て付け加えれば、社民党は2006年には小選挙区制導入が誤りだったことを認め、造反議員の処分取り消しによる名誉回復を行いました。遅きに失した感は否めません。自分で自分の首を絞めておいて、息絶える直前になって、首を絞めたのが間違いと言っても遅過ぎるのではないでしょうか。

しかし、公約違反かどうかという問題以上に深刻なのは、党議拘束は憲法違反だという点です。次の3条がそれを示しています。

思想や良心の自由、そして表現の自由は民主主義の礎です。それを保障しているのが19条と21条です。特に表現の自由は、それが社会的に意味のある時にこそ大切にされなくてはならないものです。誰も住まない山奥でなら何を言っても良いが、多くの人が読む雑誌に発表することが制限されるのでは表現の自由の意味がありません。表現の自由とはあくまでも、多くの人に聞いて貰える環境で、しかも実質的な力を伴うときにこそ発揮されるべき原則です。そして、国会における、特に本会議における一票が最も公共性が高いことを考えれば、この時に表現の自由が保障されないのでは、「表現の自由」を掲げる意味がなくなってしまいます。それを保証しているのが51条です。

 

第19条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 

第21条  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

 

第51条  両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。

 

ここでいう「院外」とは、「議院」の外側を指していますが、物理的な意味での内と外ではなく、「国会」に与えられている任務を果しているときは「院内」で、それ以外は「院外」ということになるのだと思います。本会議や委員会、議員としての視察や調査、出張等、たとえそれが国会議事堂という建物の外で行われたとしても、「院内」の仕事に属するはずです。対して、仮に議事堂という物理的な存在の中で行われても、所属政党内での活動は院外でなくてはなりません。政党毎に政策も党の仕組みも活動資金の調達方法も支持者も全く違う存在です。民主的な党であれば、党員の意思により、それも多くの場合は選挙等の民主的な方法で決定されているはずです。

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より具体的な例を挙げると、自民党は憲法改正が党是の一つです。そのために様々な党活動を行っています。その内容が必ずしも憲法99条の憲法遵守規定に沿ったものでないことはある意味、当然です。では、国会議事堂内にある自民党の控室で、憲法について違憲と考えられる解釈を採用するための手続きを検討する党議を開いた場合、それを「院内」の活動と認めるかというと、それはあり得ないでしょう。つまり、政党の存在も、その活動も明確に「院外」に属します。

となると、政治改革関連4法案の採決で、(自党の党議拘束に反する場合であっても) 51条に規定されている院内の表決に際して意思表示をした議員を、政党活動の規則によって「院外」で処罰するということは許されません。51条によって責任は問われないのですから。

念のために書き添えておくと、現時点では日本の政党が党議拘束を掛けることは当たり前だと考えられています。それについての処罰も常識的には受け入れられています。それにはそれなりの理由があると思いますが、憲法を文字通り読むと、これは許されることではありません。このような矛盾について、政治のあり方そのものについてまで立ち返って改めて議論をする必要があるのではないでしょうか。選挙制度とは切っても切れ離せない、しかも政治資金の問題や議員の倫理、質等とも深く関わっている政党のあり方について、合理的な結論を得るための努力を始めるべき時なのではないでしょうか。

党議拘束がなくなった場合、政党が自答の方針を国会内で実現するためにはどうすれば良いのでしょうか。それは、事実に基づいた議論によって説得することです。「説得」が大切なのは、選挙の際には有権者に一票入れてもうための手段としてそれしか存在しないからです。何らかの力によって、誰に入れろということを強制することなど以ての外ですし、お金を渡して投票を依頼する「買収」も当然許されません。この政策が素晴らしい、この候補が信頼できる等、説得による以外の方法はないのです。

その説得で、党の一番根幹の部分を担っている国会議員を納得させることができなかったとしたら、有権者の説得など考えられなくなるのではないでしょうか。逆に言えば、今まで、国会議員を事実に基づいた論理的な議論によって説得する努力をして来なかった政党が、説得によって有権者の支持を得ようとしても、それは至難の業だということになりはしないでしょうか。

  [2020/9/21 イライザ]

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2020年9月11日 (金)

劣化した政治の「震源地」はどこか? (6) ――憲法違反の小選挙区制度 (5) ――

劣化した政治の「震源地」はどこか? (6)

――憲法違反の小選挙区制度 (5) ――

 

 《小選挙区制は、政治論ではなく憲法論で扱うべし》

小選挙区制を考える視点はいくつかありますが、これまでの議論では、主に「政治論」として扱われてきました。その中でも強調されて来たのが、「政権交代がし易くなる」でした。常識的には、これも大切なことです。腐り切った政権が何年も続くことには大きな問題があるからです。

しかし、仮にそれが事実だとしても、そのような政治を民意が望んでいるとしたらどうなのでしょうか。そんな政治を民意が許すとは思えないのですが、仮に「思考実験」として、そんなことが起ったとしましょう。圧倒的多数の人々が、腐っていてもその政権を支持し続けているという事実があったとしましょう。

私たちは、「政治」についてそれなりの期待を持ち、理想を掲げています。それは、これまでの人類の歴史、日本の歴史に基づいた「常識」です。その前提で考えると、「圧倒的多数の人々が、腐っていてもその政権を支持し続けているという事実」などあってはならないのです。

しかし、「思考実験」では、その「あってはならない」ことが現実に起きているという仮定を設けて、それを前提として、その先を考えるのです。つまり、人類進化の過程で人類が獲得した「知性」により、長い歴史の中で積み重ねた「経験」を凝縮した「知恵」があるにもかかわらず、圧倒的多数の人たちが、「腐敗した政権」を支持し続けるということが「現実」だと仮定するのです。

ここで「思考実験」としてもう一つの仮定も導入しましょう。それは、そのような「圧倒的多数」の選択が間違っていると考える人たちがいるという仮定です。人類の多様性を仮定すると、ある一つの「意見」について、100パーセントの人が賛成することは不可能だからです。その「少数派」の人たちが、「腐敗した政権」が間違っていることを指摘したとして、それでも「圧倒的多数」は、腐敗政権を支持し続けたとしましょう。

さらに、このような「政治劇」が、あたかもあなたの足元に置かれている「箱庭」のような場所で起きていて、あなたはその劇の演出を任されていたとしましょう。小人国に辿り着いたガリバーのような立場だと考えて下さい。ここであなたは、腐敗政権を支持し続ける「圧倒的多数」の立場に立つのか、それを間違いだと指摘している「少数派」の側のどちらかの選択をして、これから後のシナリオを決めなくてはならないとしましょう。

実は、二つの選択肢の内、「少数派」の立場を現実の社会で体現しているグループが存在します。霞が関に多く見られる、いわゆる高級官僚と呼ばれる人たちです。自分たちの知性や能力に絶対的自信を持ち、日本という国家を指導し動かすのは自分たちであるという自覚とともに、「衆愚」の上に立って当然だと考える傾向があります。良く言えば「賢人政治」ですが、安倍政権で問題になった、「森・加計・桜」のような現象が、その結果であることも冷静に評価しなくてはなりません。

官僚たちの実態は多くの人々によって告発されています。彼らには大きな権力があるからです。中でも、1995年に出版された宮本政於著の『お役所のご法度』一冊だけ読んでも、その恐ろしさを十分に知ることができます。

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恐らく、そのような可能性も含めて、「演出者」としてのあなたが、長い歴史の中で選択したのが、多数派の意見で政治を動かすという原則なのです。「賢人政治」にリスクがあるように、多数派の意見で政治的決定を行うシステム、それを「民主主義」と呼ぶことにして、それにもリスクは付き物です。しかし、長い人類史の中で、こちらの方のリスクがより少ない、そしてより良い結果を生む可能性が高いという判断が、世界

的に行われて来たのだと考えられます。

その判断の助けになったのが、「力の支配ではなく法の支配」によって、物事を動かすという原則です。つまり言葉に対する信頼が大きかったのです。さらに、「法の支配」が現実の場面で効果的に機能するために、憲法を出発点とする法体系が作られるようになりました。特に日本国憲法を丁寧に読むと、現実の政治が私たちの期待を裏切らないように様々な工夫が凝らされていることに気付きます。

前口上が長くなりましたが、「政権交代が可能だから」という「政治論」のレベルで小選挙区制を論じる前に、「憲法論」として論じておくことで、日本政治の本質を見抜くことができ、より良い政治を創るためのヒントが得られるのではないかと思います。という結論から、小選挙区制を考える上で、参考になる憲法上の問題を取り上げておきましょう。

本論は次回に回しますが、「党議拘束は憲法違反」であることを俎上に載せます。

 [2020/9/11 イライザ]

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2020年9月 1日 (火)

劣化した政治の「震源地」はどこか? (5) ――憲法違反の小選挙区制度 (4) ――

劣化した政治の「震源地」はどこか? (5)

――憲法違反の小選挙区制度 (4) ――

 

 《両院の可決がなければ法律はできない》

前回の問題提起を思い起して頂ければ、もう皆さんには何が問題なのかお分りだと思います。憲法は、国会に衆議院と参議院を設置し、それぞれが意味のある活動を行い、採決を通じてその意味を表明することを大前提としています。そして、衆参両院で可決されなければ基本的には法律はできないのです。そんな場合でも、両院協議会の可能性を認め両院で協議ができるメカニズムを用意しています。しかし、その両院協議会が成案を得られず、打ち切りを決めたのであれば、当然、元の大原則である憲法59条の第一項に従って、法律案は廃案になる、つまり法律にはならないという結論が論理的な筋道です。

政治の根幹にかかわる問題について、杓子定規に考えるだけではなく高度に政治的な配慮や駆け引きがあるだろう、ということはほとんどの人が認めている考え方だと思います。しかし、憲法を字義通り素直に読むという立場も重要です。その立場からの問題提起を最近では、『法学セミナー』の9月号の62ページから69ページに、「憲法を、文字通りに、素直に読んでみませんか」として掲載して頂きました。その立場からは、国権の最高機関としての国会の存在意義とその国会が賢明な判断を行うために二院制を採用しているという大前提の意味も重要です。

 

《土井議長の役割》

宮川隆義著『小選挙区比例代表並立制の魔術』(政治広報センター刊、1996)では、小選挙区制が導入された国会での最終段階を次のように捉えています。「憲法と国会法を遵守すれば、この政治改革関連4法案は、両院協議会決裂の段階で廃案になったはずだった。細川・河野のトップ会談を斡旋した土井たか子衆議院議長の仲裁案は、『施行日を空白にして議決し、施行日の決定は各党協議機関に委ねる』という、事実上の廃案だった。土井議長の仲裁通りに妥協しておけば、政治改革熱病が醒めた時期に、頭を冷やした与野党で現実的な最終決着がつけられるはずだった。」

宮川氏も「憲法と国会法を遵守すれば、この政治改革関連4法案は、両院協議会決裂の段階で廃案になったはずだった」ことを確認しています。つまり憲法と国会法が守られなかったために、小選挙区制が導入されたのです。

宮川氏の記述は土井さんに好意的な解釈をしていますが、それを要約すると、土井さんは4法案を廃案にしたかった。そのためにトップ会談を斡旋して、廃案にするための自分の「仲裁案」を示した、ということになります。でも、本当に廃案が目的なら、仲裁などせずに、両院協議会の報告をそのまま受ければ良かったのではないでしょうか。協議が決裂したのですから、憲法と国会法の規定に従ってこの法案は廃案という結果になったのです。このシナリオの方が簡単で手続き的にも問題がなかったはずです。

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加えて成田氏の述懐を信じると、土井さんは議長権限を逸脱して、両院協議会決裂の報告を受け取らなかったことになります。両院協議会の議長が公式にその結果を報告に来た以上、それは「報告」であって、議長が決定する権限を持っているのではありませんから、それを受けないということはあり得ません。きつい表現をすれば、これは憲法59条違反です。

もっとも、日本の官庁では、届や申請を受け取らないでいじめをするという慣行が広く行われています。以前、北九州市で問題になり、未だに全国的に行われている、生活保護申請の不受理が典型例です。これはもう「慢性的な病」とでも言っても良いほどだと思います。だからこそ、「定期的」と言って良いくらいの頻度で、マスコミが取り上げることになっています。

広島市でも、特別支援学校の設置場所について広島県との協議を申し入れた際に、理由もなしに、ということは県の恣意的な「いじめ」とさえ解釈できるのですが、申し入れが受け入れられずに一年も放置されていた経験があります。まさかそれと同じレベルでの対応ではないと信じていますが、一国の政治について、しかもこれほど重い課題を扱うに当って、こんな疑問が浮かぶような対応、それも憲法違反と考えられる対応がなされていたこと自体、私にはショッキングな発見でした。

高度に政治的判断があり、善意で、しかもこの法案を通してはいけないという熱い思いがあったのかもしれません。そしてそのためには、少々超法規的な手法さえ辞さないという覚悟で行動したのかもしれません。そうだとしたら、他の超法規的手段も考えられたのではないでしょうか。例えば、両院協議会を開く請求を数日先延ばしにする、ということもできたのではないかと思います。国会の会期が終了すればそれで廃案になったのですから。

成田氏の回想も、当時の総理周辺の裏の動きが分って興味は尽きないのですが、政治的な駆け引きに重きが置かれ、手続きとしての合法性や憲法の原理原則に照らしての判断についての記述ではない点が残念だと思います。当時、権力の中枢にいた人々は、憲法59条に従っての手続きを取っているのですから、当然、59条についての判断があったはずです。それがどのようなものだったのか、言語化されていないのかもしれませんが、是非、言語化した上で後世に残しておいて貰いたいと思うのは私だけでしょうか。

 [2020/9/1 イライザ]

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2020年8月11日 (火)

劣化した政治の「震源地」はどこか? (3) ――憲法違反の小選挙区制度 (2) ――

劣化した政治の「震源地」はどこか? (3)

――憲法違反の小選挙区制度 (2) ――

政治家になる人たちの質が悪ければ、その結果として政治は悪くなるでしょう。となると、政治家になった人たちがどのような経緯で政治家になったのかを知ることは大切です。そして、官僚出身者、世襲議員、さらに松下政経塾出身者という三つのグループが多くの議員や首長の「供給元」であることを確認しました。これらのグループが政治に与えている影響を客観的に把握した上で、より良い政治を創るための新たな供給源がないものなのか、あるいは作れないものなのかを考えることも重要です。また政治の劣化の原因になっているグループについては、選挙の際に投票しないといった選択をすることが有効です。

しかしながら、その選挙が有権者の意図を反映しないものであれば、私たちがどう足掻いても、望むような結果にはなりません。そして小選挙区比例代表並立制(以下、小選挙区制と略)は、民意を反映しない制度なのです。1994年に導入され、1996年の衆議院選挙からその制度による選挙が行われてきたのですが、それからほぼ20年経った、2015年の時点では、小選挙区制の弊害は広く理解されていました。しかし、それから5年経った今、危機感はどこかに消えてしまい、小選挙区制を廃止してより良い制度を導入しようといった声もほとんど聞こえなくなってしまいました。身近な所での政治の腐敗に対処するだけで時間もエネルギーも使い果たしてしまい、選挙制度にまで目が向かなくなってしまったのだと思います。

しかし、社会構造の本質を忘れては、どんな改革も不毛に終りますので、「定期的に」問題提起をしています。今回は、何故小選挙区制が駄目なのかについて、ザっとお浚いしておきましょう。

まず、小選挙区制導入の立役者として何時も挙げられるのは三人です。当時衆議院議長だった土井たか子さん、自民党総裁だった河野洋平さん、総理大臣だった細川護熙さんです。小選挙区関連法案が衆議院で可決され、参議院では否決という結果になった時、本来はこの法案は廃案になるのが憲法59条の本則です。しかし、両院協議会を開くことも許されていますので、両院協議会が開かれ、その結果は不調、つまり協議会としての結論はなく、廃案になるはずでした。その際に、土井さんが河野・細川の二人を招いて妥協案を作るよう指示し、その結果が今の小選挙区制なのです。

その一人、河野洋平さんの反省の弁が注目されました。それは、もう一人の立役者だった土井たか子衆議院議長(当時)お別れの会(2014年11月25日)での次のような言葉です。

最後にあなたに大変申しわけないことをした。おわびしなくてはならない、謝らなければならない大きな間違いをした。

 細川護煕さんと2人で最後に政治改革、選挙制度を右にするか、左にするか、決めようという会談の最中、議長公邸にあなたに呼ばれた。直接的な言葉ではなかったけれども、「ここで変なことをしてはいけない。この問題はできるだけ慎重にやらなくてはいけませんよ」と言われた。あなたは小選挙区に対して非常な警戒心を持たれていた。

 しかし、社会全体の動きはさまざまな議論をすべて飲み込んで、最終段階になだれ込んだ。私はその流れの中で小選挙区制を選択してしまった。今日の日本の政治、劣化が指摘される、あるいは信用ができるかできないかという議論まである。そうした一つの原因が小選挙区制にあるかもしれない。そう思った時に、私は議長公邸における土井さんのあの顔つき、あの言葉を忘れることができません。

当時の首相で、河野氏と共に、葬り去られるはずだった小選挙区制を復活させ、導入した細川護熙氏も導入は誤りだったことを認め、あまつさえ、自分はずっと中選挙区制度が良いと思ってきたのだ、と朝日新聞のインタビューで述べているほどです。

これだけで、小選挙区制の罪状は明らかなのですが、とは言っても、客観的な数字も掲げておきましょう。説得力のあるデータの内、得票率と議席の獲得率の乖離がやはりこの選挙制度の歪みを最も忠実に反映しています。まずはグラフを御覧下さい。

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この4回の選挙全てにおいて、自民党は過半数には達しない得票率で、70パーセント以上の議席を占有しています。特に、2012年の選挙では、4割そこそこの得票率で8割近い議席を獲得しているのですから、自民党支持者の意思は、野党支持者の意思の約二倍の価値があることになります。

「一票の格差」が問題にされるときには、選挙区内の人口を比較して、人口の少ない選挙区と多い選挙区では、一票の価値に差があることが問題にされるのですが、それと同様に、得票率と獲得議席との乖離もやはり「一票の格差」として議論されるべきですし、違憲であるとの問題提起がなされるべきだと思います。

選挙の年

得票率   

議席獲得率

死票

死票率

2005年

48

73

3300万

49

2009年

47

74

3270万

46

2012年

43

79

3163万

53

2014年

48

76

2540万

48

これとほぼ同じ意味を持つのが死票の問題です。誰かに投票したのに、その票が生きなかったケースですが、これも、50パーセント近くですし、2012年には53パーセントです。その年の自民党の得票率は43パーセントですので、有権者が投票した通りに当選者が決っていれば、その年には、野党全体として自民党より多い議員が誕生していたのですから、政権は野党が握ることになっていたはずです。

この点については、有権者の意識も高く、小選挙区制では民意が反映されない事実を認識しています。内閣府が定期的に行っている、国の政策への「民意の反映程度」のグラフです。小選挙区制が導入されたのは、1994年、つまり平成6年ですが、それ以降、「反映されていない」が増え、「反映されている」の減っている様子がはっきりと表れています。

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こう見てくると、小選挙区制という選挙制度の結果は国民の意思を反映していないどころか、大きく歪めていることが分ります。そして、今見てきたようなデータからは、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて」と憲法で定めている、「厳粛な信託」とは大きくかけ離れた形で権力の委託が行われていることが分ります。つまり、この制度は憲法違反です。

次回は、成立の過程でも憲法違反が行われていたこと、そしてこれらの点を問題にした訴訟でも憲法違反が行われるなど、何重もの憲法違反があって初めて続いている制度であることを検証します。

 [2020/8/11 イライザ]

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2020年7月11日 (土)

「無責任」の論理構造 (5) ――「説明責任」が「責任」の意味を変えてしまった――

「無責任」の論理構造 (5)

――「説明責任」が「責任」の意味を変えてしまった――

 

「説明責任」という言葉は、英語の「accountability」の訳語ですし、「倫理的な非難」を受けたり「法的責任」を取ったりという結果になることを想定している点が重要です。

にもかかわらず、マスコミも含めて、官僚や政治家たちがあたかも「説明責任」と「責任」が同じ意味を持つ、あるいはそれより酷くて「責任」はどうでも良くて「説明責任」さえ果せば良いのだ、というような感じでこの単語が重用されています。

企業内の関係が一番分り易いような気がしますので、その関係を元に説明すると、何かを任された「部下」に問題があった時、その部下を降格させたり、辞めさせたりといった措置を取る前に、上司が部下に説明を求める、というのが典型的な「説明責任」です。たとえば、「天気予報が外れて、電車が遅れて、その結果遅刻した」というような説明があって、「それなら無理はない。責任は問えないな」と上司が納得すれば一件落着です。しかし、前の晩に飲み過ぎて寝坊をしてしまったのに、嘘の言い訳をして、一緒に呑んでいた同僚の証言でその嘘がばれれば、この部下は当然、責任を取らされます。

時代劇の観過ぎかもしれませんが、この関係をもう少しドラマチックに表現することで、私の言わんとしていることが、正確に伝わるような気がします。

封建的な時代の政治や司法制度を比喩に使うのには、躊躇しますが、「背説明責任」とは、感覚的には「お白洲で申し開きをしてみよ」くらいの意味だと考えると、フロイドさんについての「He should be held accountable」に込められた思いが鮮明になるような気がします。

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「申し開きをしてみよ」という言葉の背後にある前提としては次のようなものが考えられます。

 

  • 明白に疑われるような行為がある。
  • それについて、もし言い訳があるのなら公的な場で申し開きをしなさい。
  • しかも、もし申し開きが不十分であるのなら、その責任を取るという前提での申し開きである。

 

ここで、「お白洲」を持ち出して来て説明しようとしている登場人物の関係を説明しておきましょう。まず、大岡越前の守の代りに「主権者」である国民が座っています。その前に「引き出されている」のが、内閣総理大臣です。脇で、お白洲を取り仕切っているのが国会議員というような図を描いて下さい。

抽象的なレベルでの、内閣と主権者である国民との間の関係がこのようなものであることは憲法15条が保障しています。

 

15条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。

 

つまり、主権者が公務員に権力を与え、国民のための仕事をするように「委託」するという関係です。その仕事が十分に行われない場合には、公務員は「説明」する機会を与えられるのですが、それが不十分であれば「罷免」されることになるというシナリオがここに描かれているのです。

そもそも「説明責任」が問われる場合には、公務員が満足できるような仕事をしていない「ように見える」という前提があるのです。満足できる仕事をしている場合には、それを続けて貰えば良いだけなのですから、例えばサラリーマン映画なら、例えば小林桂樹が演ずる上司が肩を「ポン」と叩いて「この調子で頑張れよ」で事足りるのです。

満足な仕事をしていないように見える場合に、政治家はその状態について「説明」をする機会を与えられるのです。「答えなさい」と国民に問われた場合には、「答弁する」義務があるのです。そして、その「説明」によって、元々の疑惑が晴れるのであれば、政治家や公務員は仕事を続けられる、というシナリオです。

現実の世界でこれを具体化した場合には、法律があり選挙があるという制度になり、それに従っての行動になりますが、リコール制度は、それを15条のシナリオに近付けています。

つまり、一旦疑いが生じた場合、その疑いを晴らすことができなければ選挙に落ちたり、リコールが成立したりするのですから、「疑いを晴らすのは政治家の責任だ」と言っても、民主主義の精神に反していることにはならないのではないでしょうか。

実は、政治家の方でもこの点はそれなりに理解しているのです。不祥事があると、重大な局面で政治家は「離党します」という表明をするのですが、これは、政党に対しての責任を取っているのです。つまり、自分の行動については誰かに責任を取らなくてはならないという、政治家としての立場は理解しているということなのです。

しかし、憲法の規定による選挙の結果選ばれているという事実――その方が党に属しているということよりは重いはずなのですが――の重要性が蔑ろにされているのは、前回指摘した、99条の憲法遵守義務が「道徳的要請」としてしか機能していない状況の反映かもしれません。

自分は国民からの負託によって権力を行使する立場にいる。それは憲法15条に従って、「全体の奉仕者」としての仕事である。もしその仕事が、国民の満足行くレベルで行われていないと国民が判断するのであれば、自分はその職を辞して、その任に相応しい他の人に変って貰うのが当然である、という心積もりをすることが政治家の責任の取り方だと思うのですが、どうでしょうか。

「無責任」体質の背景にある「憲法マジック」と「説明責任」の存在が分ったとして、ではどうすれば良いのでしょうか。皆さんのお知恵も拝借しながら、一歩ずつ一緒に考えられればと思っています。

 [2020/7/11 イライザ]

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2020年7月 1日 (水)

「無責任」の論理構造 (4) ――「一億総白痴化」の具体例としての「説明責任」――

「無責任」の論理構造 (4)

――「一億総白痴化」の具体例としての「説明責任」――

 

前回述べたように、「一億総白痴化」という言葉は、1957年に評論家の大宅壮一氏が、テレビの弊害に警鐘を鳴らすために作ったものです。それから60年以上経った今、「一億総白痴化」はさらに進行しているはずです。今の政治状況をどんな言葉で表現すべきなのか皆さんのお知恵を拝借したいのですが、ここではその一面に焦点を合せています。

つまり、安倍政治の特徴とも言える「無責任」体質です。その「無責任」体質は、前回説明した「憲法マジック」と、今回取り上げる「説明責任」――それは「一億総白痴化」の現代的な象徴なのですが――によってその輪郭が決っているというのが本稿の主張です。

「一億総白痴化」をもう少し詳しく見ると、大宅壮一氏の指摘したテレビ番組の低俗さ、という誰にでも分る現象だけでなく、余りにも多くの人が何となく受け入れてしまっていて、その不自然さや歪みに気付かないような、つまり見落としてしまっても不思議ではない「微妙な」あるいは「微細な」現象に気付くはずです。今回はそのうちの一つを取り上げ、問題が如何に深刻なのかを確認したいと思っています。

それは「説明責任」という表現です。森友問題や加計スキャンダル、そして桜を見る会の醜聞について、安倍総理は「説明責任」を果していない、「説明責任」くらい果しなさいという声が大きかったことは記憶に新しいと思いますが、それは、国会や記者会見でそれぞれの事例について納得の行く説明をしなさい、という意味でした。それは当然です。

「納得が行く」という点では、私たち主権者の要求に応えてはいませんが、意味のない言葉をペラペラ並べることが「説明」だと強弁することも可能です。そんな御託を並べて、その場凌ぎの言い抜けを続ける「安倍の理屈」(アベノリクツ)では、「説明責任」を果したことになってしまいます。恐らくこんな解釈が罷り通っているから、何事にも「無責任」な結果が現れることになるのではないでしょうか。

しかし国会で、質問に対して答弁を拒否した回数が、2012年からつい最近まで、総理以下大臣や政務官等、答弁する義務を負っている人たちについては、6532件もあることが、フリージャーナリストの日下部智海さんの調査で分っています。

大臣たちは、国会で議員の質問に答えなくてはならないという義務を負っているというのが国会法の決まりであり、これまでの慣行だったのです。それが無視され続けている背景にも、「説明責任」という言葉で「責任」そのものの意味を薄めてしまったという事実があるのです。

もう一度、「説明責任」の意味から考えてみましょう。まずはウイキペディアを見てみましょう。

 

説明責任(せつめいせきにん、アカウンタビリティー英語: accountability)とは、政府企業団体政治家官僚などの、社会に影響力を及ぼす組織で権限を行使する者が、株主従業員従業者)、国民といった直接的関係をもつ者だけでなく、消費者取引業者、銀行、地域住民など、間接的関わりをもつすべての人・組織(利害関係者/ステークホルダー; 英: stakeholder)にその活動や権限行使の予定、内容、結果等の報告をする必要があるとする考えをいう。本来の英語のアカウンタビリティの意味としては統治倫理に関連し「説明をする責任と、倫理的な非難を受けうる、その内容に対する(法的な)責任、そして報告があることへの期待」を含む意味である。

 

ここで注目して欲しいのは、「説明責任」という言葉が、英語の「accountability」の訳語であること、そしてゴシックで強調されているように、「倫理的な非難」を受けたり「法的責任」を取ったりという結果になることを想定しているという点なのです。

「accountability」の形容詞形は「accountable」で、その受身形である「be held accountable」も良く使われます。最近のニュースでこの表現が何度も聞かれたのは、ミネアポリスで起きた警官による黒人男性、ジョージ・フロイドさん殺害事件についての市民の声としてでした。警官が、フロイドさんの頭を地面に頭を押さえ付け、フロイドさんの頸部を8分以上も膝で押し続けた結果、それも「息ができない、助けけてくれ」という懇願を無視しての8分なのですが、その結果、フロイドさんが死亡したという事件です。

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「Cops are accountable (警官は責任を取れ)」という言葉が書かれています

 

これに憤激した世界中の多くの人たちが抗議活動を始め、「Black Lives Matter」という標語とともに、黒人の生命を尊重すべきだという、当たり前すぎる主張が全米、そして世界を覆い、1968年の大抗議運動を彷彿とさせるレベルの大きな動きになっています。その出発点になったのは、警察官を非難する市民の声でした。その典型的なもののひとつが、「He should be held accountable」でした。そして「Cops are accountable」です。「cops」(複数)は、警官の俗称ですが、訳としては「警官は責任を取れ」くらいが良いのではないかと思います。

しかし、日本全国で「常識」として流布されている「accountability」 = 「説明責任」という固定概念を元に訳すと、その意味は、「警官に説明を求める」という意味になってしまいます。でも、フロイドさんの死についての言葉として、これがいかに現実離れしているものなのかは、皆さんもうお分りですね。

済みません。今回も長くなってしまいました。これで完結してはいませんので、残りは次回、7月11日にアップします。

[2020/7/1 イライザ]

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