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2021年1月11日 (月)

新たな決意で核のない平和な世界を目指そう・その2 ――そのためにも、「成功例」から学ぼう――

新たな決意で核のない平和な世界を目指そう・その2

――そのためにも、「成功例」から学ぼう――

 

前回は、核兵器禁止条約が発効した後の目標として、「2040ビジョン」を提案しました。

2040ビジョン

  • 出発点: 今
  • 最終目標: 2040年までに、核なき世界の実現と核の脅威からの解放を達成
  • 中間目標: 2030年までに、日本政府が核兵器禁止条約を批准する

この目標達成のために、これまでの「成功例」から教訓を汲んで、さらには新機軸も加えてがばろうという趣旨なのですが、まずは、核兵器禁止条約以前に達成された重要な成果をいくつか挙げておきましょう。

  • 1963年の部分核停条約は、大気圏内での核実験を禁止しました。これは、ビキニ環礁でのアメリカの核実験の結果、第五福竜丸が被曝したことから核実験禁止運動が起り、1955年には原水爆禁止世界大会が開かれるという、世界規模での核実験と核兵器に反対する運動の成果でした。

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  • しかし、フランスと中国はこの条約を無視。特にフランスは南太平洋で大気中核実験を続けました。それに対抗してオーストラリアとニュージーランドが1973年に国際司法裁判所 (ICJ) に提訴し、フランスは核実験を中止しました。それに力を得て、核兵器が国際法違反であることを、ICJの勧告的意見として認定して貰う世界法廷運動 (WCP) が1986年に始まり、その結果、WHOと国連総会における多数決の決議として、ICJに勧告的意見をまとめるように要請することが決りました。それに応えて1996年にICJは、「一般的には」という条件付きではありますが、核兵器の使用と使用するという脅迫は国際法違反であることを認めました。
  • ICJによる勧告的意見の採択要請が世界的に支持されたのは、1970年代から1980年代にかけて起きた世界的な反核運動があったからです。その象徴が1978年、1982年、1988年に開かれた、第一回から第三回までの国連軍縮特別総会です。1982年のニューヨークにおける100万人デモ・集会は、忘れられない出来事でした。アメリカでの核凍結運動がその中心的存在だったのですが、遂には、1986年にレイキャビックで開かれたアメリカのレーガン大統領とソ連のゴルバチョフ書記長との首脳会談で、全面的核廃絶の合意に達するという成果を挙げました。これは、ある反核運動のリーダーの言葉を借りると、「High Priesthood of Nuclear Technocracy」によって葬り去られましたが、世界の世論が二人の首脳の間の合意という大きな成果を挙げていたことはもっと良く知られるべきですし、このような合意を実現させるための次のステップについても、私たちがしっかり準備をしておくべきことを教えてくれています。
  • 勧告的意見の重要な影響が、スコットランドのグリーノックという地域における裁判に現れました。1999年10月21日、スコットランドのグリーノック裁判所の判決では、「国際トライデント・プラウシェアー 2000」に属するアンジー・ゼルダー、ウラ・ローダー、エレン・モクスリーの3人が無罪になりました。この3人は、トライデント潜水艦の運用に必要な実験器具を破壊した罪で告訴されていたのですが、被告の無罪主張の根拠は、ICJ勧告的意見とニュルンベルグ原則でした。もっとも、この判決は後にスコットランドの刑事上級裁判所で覆されたのですが、無罪そのものは確定しており、核廃絶運動における非暴力・抵抗という手段が国際的に認められたという大きな成果です。
  • 勧告的意見と同じ年、1996年に採択された包括的核実験禁止条約は、まだ効力を持っていませんが、それでも1996年以降の世界の核実験数は、それ以前と比べて限りなく「ゼロ」に近付いています。これも、世界の世論の力です。
  • 1972年の生物兵器禁止条約、1983年の特定通常兵器使用禁止制限条約、1992年の化学兵器禁止条約、そして世界的に注目された対人地雷禁止条約は1999年に発効しています。これらの条約もWCPやTPNWと同様の作戦に依存しているのですが、核兵器廃絶に注目するという立場から、詳細は割愛します。
  • 2014年には、二つの大きな出来事がありました。一つは、マーシャル諸島共和国が、核保有9カ国をICJに提訴したことです。それは、「誠実な交渉義務」を規定しているNPTの6条に違反しているという訴えです。事実、これらの国々は、核兵器禁止のための様々な機会を無視し続けて来ていましたし、その後、国連総意が設置した「公開作業部会 (OEWGと略)」には不参加でした。管轄権の問題で、ICJからは却下されましたが、世界世論を喚起し、多くの支持を得る上では重要な役割を果しました。
  • もう一つは、スコットランドがイギリスから独立すべきかどうかについての住民投票がスコットランドで実施されたことです。独立の目的は、外交・防衛や予算の面でイギリスからの独立を目指すことでしたが、端的に表現すると、核兵器を廃絶して非核保有国として独立し、NATOからも脱退するということなのです。残念ながら、独立には至りませんでしたが、イギリスがEUから離脱した現在では独立賛成派が勝つ可能性も見えて来ています。
  • そして、2017年に核兵器禁止条約が採択されました。

それでは、これらの成功例を元にして「2040ビジョン」実現のために、まずどのような出発点があり得るのかについて、次回から考えて行きましょう。

[2021/1/11 イライザ]

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2021年1月 1日 (金)

新たな決意で核のない平和な世界を目指そう ――そのためにも、「成功例」から学ぼう――

新たな決意で核のない平和な世界を目指そう

――そのためにも、「成功例」から学ぼう――

 

明けましておめでとうございます。昨年は、コロナの世界的蔓延で、できれば歴史から「削除」してしまいたいようなことが多く起きましたが、それでも何とか新年を迎えることができました。今年こそ、希望に満ちた素晴らしい一年になることを祈っています。

そう考えられる根拠として、1月22日を挙げておきましょう。

 

2021年1月22日

核兵器禁止条約発効 !!

 

条約の発効が最終目標ではありません。それに続く目標を設定しておきます。それは、

 

次の目標は「日本政府が批准」

期限は2030年

 

これも大切な目標ではあるのですが、これだけでは物足りません。改めて「新年の決意」として次の大目標を掲げます。さらに目標達成のためには何をすれば良いのかをまとめておきましょう。

 

まずは大目標です:  2040年までに核のない世界を実現する

これを、平和市長会議が提唱した「2020ビジョン」に倣って、次のように呼ぶことにします。

 

― 2040 ビジョン ―

核兵器禁止のための緊急運動

 

以上をまとめておきましょう。

2040ビジョン

  • 出発点: 今
  • 最終目標: 2040年までに、核なき世界の実現と核の脅威からの解放を達成
  • 中間目標: 2030年までに、日本政府が核兵器禁止条約を批准する

 

ここで、「2040年」、そして「2030年」という期限を付けたのは、ナポレオン・ヒル氏の有名な言葉、「期限のない目標は夢にしか過ぎない」に従って、実現可能性のある命題にしたかったからです。

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2040年にも意味があります。今から20年という時間は歴史を反映しているからです。次回掲げる「成功例」のリストの中には、1996年の国際司法裁判所による「勧告的意見」の採択が入っています。その重要性も次回改めて考えることにしますが、それから約20年経って、2017年にもう一つの画期的成果として「核兵器禁止条約」が採択されました。1月22日には発効し、「国際法」として力を持つことになります。それをもう一段高めることになる「核廃絶」までに、それと同じくらいの時間が掛る、つまり20年掛る、と想定するのはそれほど不自然ではありません。

この目標達成が可能だと信じているのは、核廃絶に向けたこれまでの人類の歩みがその方向を明確に示しているからです。敢えて「成功例」と名付けて、次回、重要なものをリストアップします。

それは、核兵器禁止条約の発効は歴史的な出来事ではありますが、それに至るまでに、重要な出来事がいくつもあるからです。より大きな枠組みの中でこうした出来事をまとめて見直すことで、これからの活動のヒントが得られます。

「成功例」をまとめる上で最初に確認しておきたいのは、私たちにとって、「当り前」のことは「当り前」だときちんと言っておくことの大切さです。私たちの抱えている問題が大きくても、その大きさに目を奪われて、「当り前」が見えなくなっているような気がしないでもないからです。

  • 核兵器が、道義的立場から許されないことは、広島・長崎の惨禍を知る人にとっては当然のことであり、「絶対悪」とまで表現する被爆者も多くいます。平和宣言でもこの言葉を使っています。この一点だけから考えても、それを法的な枠組みに置き換えれば、「力の支配」を否定して「法の支配」を最優先してきた人類史の流れの中では、核兵器が「国際法違反」であることは誰も否定できないはずです。1945年に人類は、その事実を言語化して、「宣言」または「条約」の形で世界を縛る「原則」として採用することだけをすれば良かったのです。
  • アメリカの「独立宣言」のように、自明の理を言語化することで、「法の支配」が始まるはずだったのです。そして、「法の支配」とは、言葉に意味のあることを大前提として、その言葉の意味を尊重し、言葉で示された内容を正確に行動に移すという合意に他なりません。法律の世界ではラテン語を使って、「pacta sunt servanda」 ​(「契約 (合意) は守られねばならない」という原則ですが、短く「約束履行義務」と表現しておきます) と呼ばれますが、核兵器廃絶の運動の中で私たちは、この原則に依拠して、核兵器を廃絶するという行動を求めてきました。この点を改めて強調する必要があります。
  • この点をまず確認した上で、にもかかわらず、世界で「力」に依存する政治を維持してきた勢力が、核兵器の合法性を強く主張してきた事実があります。それも、言葉の意味を捻じ曲げること、民主的なプロセスと世論の双方を無視することと一体の主張でした。その結果として、私たち市民、特に被爆者が、長い苦しい努力を強いられることになったのです。それは、当り前の真実を「真実」と認めさせ、それを元にした政治を実現させるための努力でした。もう一つ確認しておくべきことは、このような努力によって、仮に時間が掛ったにせよ、目標は一つずつ、ゆっくりではありますが「確実に」実を結んできたのです。

以下、これまでの成功例のリストを御覧頂き、そこから得られる教訓を元に、「2040ビジョン」を成功に導くための作戦を練りたいと考えています。スペースが足りなくなりましたので、それは次回に。

[2021/1/1 イライザ]

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2020年12月21日 (月)

数字の意味を正確に理解しよう ――そのためにも、「リーダー」の役割が重要です――

数字の意味を正確に理解しよう

――そのためにも、「リーダー」の役割が重要です――

 

前回、12月1日には、「重症者」の範囲が狭過ぎるのではないかという問題提起をしました。東京都の採用している「定義」では、コロナ以外の患者さんたちへの「しわ寄せ」の大きさ・酷さが分らないことが問題なのです。

分り易い例として、『日刊ゲンダイ』の報道による11月18日の東京都発表の「重症者」数を取り上げました。それは39人です。しかし、厚労省が規定した「重症者」を数えると196人なのです。つまり、①人工呼吸器装着②人工心肺装置(ECMO)の使用③集中治療室(ICU)などに入室のいずれかに当てはまる患者196人なのです。倍数にすると約5倍です。その差は、ICUに入っている人が含まれているかどうかなのです。

ICUの数字が重要な理由の一つは、コロナ患者がICUのベッドで治療を受けることは、その他の病気でICUベッドを必要としている人には、そのベッドが回らないことになるからです。極端なケースを思考実験として考えると、(そんなことは現実にはあり得ないのですが、状況を理解するための「仮想」的な場合を考えます)、日本中のICUベッドが全て、コロナ患者のために使われたとすると、それ以外の病気、例えばガンとか脳梗塞等の重い患者さんは、ICUでの治療が受けられなくなってしまいます。

その中には当然、助けられたであろう患者さんも含まれることになります。医師の皆さんが心配している「助けられる命を助けられない」状況です。それは当然、「医療崩壊」の重大な局面なのですが、最近の感染状況がこの方向に動いているという警鐘が鳴らされています。

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皆さんお気付きのように、ここ数日間、各地で「医療崩壊」が注目されるようになりました。「医療崩壊は始まっている」(広島市医師会)、 「新型コロナウイルスによる医療崩壊は進行している」(大阪民主医療機関連合会)といった発言です。

これを、数字に置き換えて理解することが大切だとも思います。まず、日本国内のICUベッド数は、日本集中医療学会によると約7100あります。それに対して、12月19日に重症者数は598ですので、約600と考えておきましょう。

ただし、ここには東京都のICUベッドで治療を受けているコロナ患者数は入っていません。東京都の発表している重症者数は約60です。対して大阪が約150、そしてクラスターの発生で自衛隊の派遣を要請した旭川のある北海道が35という数字との比較も意味がありそうです。(これらの数字は、『東洋経済』オンラインのものを使っています)

東京の60の中には、ICUで治療を受けているコロナ患者の数は入っていませんし、この数字はネットで簡単に探せませんでしたので、『日刊ゲンダイ』の記事を元に、都の公表数の5倍を掛けたものが、ICUで治療を受けている人も含めた数字だと仮定します。

すると、東京都の「重症者数」は300、全国的な数字には、後240足す必要がありますので、大雑把に考えると、840人の患者さんがICUベッドか、それより重篤な患者さん用のベッドで治療を受けていることになります。また、新たなコロナ患者を受け入れる際、提供するための、特別に空けているベッドもあるようですが、それらも含めると、コロナ用ベッドの数は大雑把に900と考えても良さそうです。

つまり、ベッド数で考えると全ICUベッドの内、約13パーセントがコロナのために使われていることになります。

日本におけるICUベッド数も、集中治療を専門に行う医師の数も、余裕があるというのなら、これは心配する必要のない数字かもしれません。しかしながら、例えばドイツと比較すると、「人口10 万人当たりのICU は、日本が5.2 床であるのに対して、ドイツは33.9 床と、日本の6 倍以上の病床数が整備されている。(ドイツの)ICU の多さは、医療コスト高の要因として批判の対象となっていたが、今回の危機にはこれが医療崩壊の回避に寄与した。また、注目すべきは病院に勤める「集中医療専門医」の人数だ。全体数をみると、ドイツが8,328 人(2018年)に対し、日本は1,850 人(2019年)と大きく異なる(日本医師会調べ)。人口当たりでみると、日本の集中治療専門医とは、実に7倍の開きががある。」(NIRA オピニオンペーパー No. 54 | 2020 10 月 「ドイツのコロナ対策から何を学べるか」、著者は翁百合NIRA総合研究開発機構理事/日本総合研究所理事長)

つまり、各地で医師会や医療団体、そして個人としても医師たちが指摘しているように「医療崩壊」は起きつつある、という事実を受け止める必要が私たちにはあるということですし、その原因の一つが、これまで十分な数のICUベッドを確保して来なかった日本の医療政策にあるということなのです。

そして、「重症者数」から「ICU」を除外することで、この点が十分に伝わらないという二次的な弊害を作り出している行政の責任も問われなくてはなりません。

それに対して私たちに何ができるのかも、改めて確認しておきましょう。それは、コロナウイルスに感染しないようにすることです。そのための注意事項も手を変え品を変えて伝達されてきましたが、私たち一人一人が新たな決意でコロナに立ち向かう上でも、リーダーの果す役割が大切です。

今回はもはやそのためのスペースがありませんので、次回に回します。皆さんも健康に留意され素晴らしい新年をお迎え下さい。

[2020/12/21 イライザ]

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2020年12月11日 (金)

新型コロナ対策への不信感 ――まず東京都は、「実態」に即した「重症者」数を発表すべき――

新型コロナ対策への不信感

――まず東京都は、「実態」に即した「重症者」数を発表すべき――

 

コロナ対策についての国や自治体の対応、そしてそれを報道するマスコミの対応が元で、かなりの混乱が生じています。多くの人が戸惑い、不安も増え、同時に、無知や傲慢さも広がっているようです。

国民の生命と生活に責任を持つことが憲法で決められている政府が、しっかりとその責任を果さなくてはならないことは言うまでもありません。しかし、出発点はやはり科学的事実です。

それを元に、マスコミも一緒になって、その事実を誰にでも分るように整理して説明することで、ほとんどの人が納得した上で国や自治体の対応に協力する態勢ができるのではないかと思います。

しかし、「誰にでも分る」の対極にあるような伝達の仕方や報道の仕方が目立ちます。今回はその一つを取り上げた上で、是非改善して欲しいというメッセージを皆さんとともに送りたいと思います。

《重症者数》

それは、東京都による「重症者数」の発表数です。まずは東京都による定義から始めます。

厚労省の定義では、①人工呼吸器装着②人工心肺装置(ECMO)の使用③集中治療室(ICU)などに入室――のいずれかに当てはまる患者を「重症者」としてカウントし報告するよう各自治体に求めています。この数字が大切な理由の一つは、重症化した患者の病状がさらに悪化して死に至るケースが多いからです。

 もう一つの理由として、重症者は治療が長期化しやすい上、医療機関の負荷につながることが挙げられます。重症者が急増すると、ベッドや治療器具、人手が足りなくなり、コロナ患者だけではなく必要な人に治療が行き渡らない「医療崩壊」につながり兼ねません。そうなる前に手を打たなくてはなりませんので、この数値には注目しなくてはならないのです。

 しかしながら、東京都は「適切に実態を把握するにはICU患者を含めない方がよい」との専門家の指摘を受け、都のホームページなどで公表する際は人工呼吸器かエクモを使用している患者に限定しています。

ここで問題になるのは、「実態」とは何を指すのかという点です。ここ数日、医師会も、現場の医師たちも警鐘を鳴らし、マスコミがこぞって報道しているのが「医療崩壊」です。そこに近付いていることが続けて報じられています。それは、コロナ患者の治療のための病床数と医療従事者数が足りなくなることを指します。薬剤や機材、その他の問題もありますが、議論を分り易くするために、ベッド数と医師や看護師の数ということに的を絞ります。

《医療崩壊》

しかも、「医療崩壊」の中で、強調されてきたのが、コロナ以外の病気に対する医療が適切に提供されているのかという点です。たとえば、救急車で運ばれて来た人が、ベッドのないことを理由に、あるいは看護師が足りないために、受け入れや治療を拒否されることが起り得るのです。さらに、通常なら余裕をもって行われる手術ができなくなり、その結果、助かる命まで助からなくなるという可能性です。

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コロナ患者の場合でも、重くなればICUでの治療を受けることになる場合もありますし、その他の一般の患者さんの場合でも、急性あるいは重篤な場合にはICU1での治療が大切になります。つまり、一般病棟の中でもある程度余裕をもって治療を受ければ心配のない患者さんたちよりは、優先度の高いケアの必要な人たちのためにICUはあるのだと考えて良いでしょう。

そして、コロナ患者の数が多くなり、「医療崩壊」を心配しなくてはならないという時、このICUのベッド数が足りなくなりつつあることも意味しているはずです。ICUで受け入れられる患者数に余裕があるのなら、問題のあるケースはICUで引き受けるという選択肢が残されますので、それは「医療崩壊」と呼ばれる状態ではないはずだからです。

事実、コロナ以前に比べて、ICUのベッドでコロナ患者が治療を受けている数だけ、そのため患者が利用できるICUのベッド数は減っています。つまり、コロナ以外の一般患者への「しわ寄せ」があるのです。そして、「医療崩壊」が問題にされる状態とは、その「しわ寄せ」分が、一般患者のICU利用に深刻な影響を与えているという事実を指しているのです。

となると、「医療崩壊」の実態を私たちが正確に理解するためには、この「しわ寄せ」の実数を知ることがどうしても必要です。

ICUを含めると本当の重症者数は5倍》

純粋に、「医学研究論文を書く」という立場からは、「重症」の定義が違っていることもあり得るでしょう。しかし、コロナについての私たち普通の市民や庶民が、「医療崩壊」という現実を理解するためには、ICUで治療を受けているコロナ患者の数を知ることも、必要不可欠であることを御理解頂けたでしょうか。

ちょっと古い数字になりますが、『日刊ゲンダイ』の報道では、11月18日の、東京都発表の「重症者」数は、39人です。しかし、厚労省が規定した「重症者」を数えると、196人なのです。約5倍です。その差は、ICUに入っている人が含まれているかどうかなのです。それも一週間後には、250人に増えています。

日常的に、二桁台の少ない数字を見せられ、それに染められている人たちの危機感が影響を受けていたとしても不思議ではありません。

その他、まだまだ問題はありますが、次の機会に改めて論じます。

[2020/12/11 イライザ]

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2020年12月 1日 (火)

民意を反映しない日本の選挙制度・その2 ――比例代表制を基本にしたドイツ式に変えましょう――

民意を反映しない日本の選挙制度・その2

――比例代表制を基本にしたドイツ式に変えましょう――

 

早いものでもう師走です。一年の総括をきちんとした上で、希望に満ちた新年を迎えるための準備をしたいのですが、大きな問題ばかり目に付いて、ややもすると悲観的な気分になりかねません。でもそんな時こそ外に目を向けて、現実に機能している「成功例」から教訓を得てみたらどうでしょうか。

「大きな問題」の一つが選挙制度であることは、前回も確認しました。民意の反映という点では全く機能していない制度です。その「小選挙区比例代表並立制」については、8月に何回か問題点を指摘しましたが、重要な点ですので、再度、取り上げておきます。

 

この選挙制度の致命的欠陥が、得票率と占有議席率の乖離であることは、良く知られているのですが、何度も選挙を重ねるうちに、このことについての怒りが小さくなり、何となく「諦め」ムードに流されているような気がします。再度グラフを掲げますので、この点について、改めて考えて頂ければ幸いです。

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[クリックすると画像が大きくなります

]

《ドイツ式の比例代表制度》

それでは、民意を反映させるためにはどのような選挙制度が良いのでしょうか。答は勿論、比例代表制度です。政党の得票率に従って、議席を配分するのです。ただし、これを全国一律に行うのはかなり難しいので、地域・地域の特色を生かす工夫が加えられているのが、ドイツ式です。「小選挙区比例代表併用制」とも呼ばれています。

選挙の際、有権者は2票投じることができます。一票は政党の選択です。この票の割合に従って、全国会議員の配分が行われます。仮に、国会議員数が100人だったとしましょう。その中で、第一党の得票率が40%だとすると、その党が40議席を獲得します。二票目は、その議席に誰が座るのかを決めるためのものです。これは全国を、一票の格差ができるだけ少なくなるように設定された「小選挙区」の中で、自分の住む選挙区の個人候補者に入れます。

具体的な数としては、小選挙区数は、国会議員の数の半分と決められています。つまり、50選挙区です。そして、その50の選挙区の当選者は自動的に国会議員になります。これで50議席に座る人が決りました。

ここで「超過議席」という制度も使われます。たとえば、比例代表の選挙では議席が獲得できなかった党の候補者がどこかの選挙区で当選したとすると、その候補者は自動的に国会議員になり、国会の議席はその分増やされるのです。同様に、党の獲得議席より小選挙区の当選者の方が多い政党は、小選挙区の当選者全てが自党の国会議員になるのです。そして、国会議員の数は超過した分だけ増えることになります。

残りの議席は、各党が準備した選挙人名簿の順位に従って、党ごとに分けられます。「誰が」という部分が少し複雑ですが、基本的には、各党の議席数が、全国の得票率に従って決められるという制度ですので、日本の制度よりははるかに民意を反映します。

そのことを分って頂くために、格好のサイトがあります。「中高生のための公民教室」というタイトルで、分り易く政治や社会の解説をしているサイトですが、その中の「ドイツの「比例代表併用制とは?」という回です。

2014年の日本の選挙で投じられた票数を元に、もしドイツ式の「比例代表併用制」だったら各党がどれくらいの議席を獲得できたのかを計算しています。そこに現れている結果が、本来の民意をほぼ正確に反映しているのです。計算を簡単にするために、東京都の結果だけ示されていますが、我が国現行の並立制では67%の議席を奪ってしまった自民党は、ドイツ式の場合は44パーセントにしかなりません。

このように具体的な数字を見ることで、選挙制度を変えなくてはならない、いや変えて行こう、と感じて下さる方が増えることを期待しています。

[2020/12/1 イライザ]

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2020年11月24日 (火)

民意を反映しない日本の選挙制度 ――アメリカの大統領選挙より酷いのでは?――

民意を反映しない日本の選挙制度

――アメリカの大統領選挙より酷いのでは?――

11月3日に投票されたアメリカの大統領選挙は未だに最終決着には至っていません。そして、「民主主義国家」であることを標榜する我が日本国でも、今月18日、つまり2020年11月18日、最高裁判所が昨年の参議院選挙は「合憲」であるとの判決を出しました。「一票の格差が3倍だった」にもかかわらず、です。

一見、この二つの現象は無関係のように見えます。特に、日本とアメリカという国の違いがあり、アメリカの場合は大統領選挙という特別の選挙ですので、その感が強いのですが、実は、これら二つの異常事態は、全く同じ構造をもち、同じ理由で混乱を来しているのです。しかも、その両者を簡単に解決できる素晴らしい薬さえあるのです。

《選挙人と大統領選挙》

今年の選挙が未だに揉めているのは、現大統領のドナルド・トランプ候補が負けを認めずに、あることないことを主張し、法廷での争いも数多く手がけ、トランプ支持の市民たちを挑発していることが大きな原因です。同時に、大統領選挙の制度そのものに不備のあることも、同時に見て行く必要があるのです。まず、制度としてどのようなものなのかその概略です。

アメリカの大統領は、アメリカの有権者全てが投票して (少なくとも建前では) 全国でただ一人だけ選ぶことになっています。事前の予測等でも、A候補支持が52%、B候補支持が45%というような形で報道されてきていますので、全米での投票結果が集計されて、その結果で勝者が決ると思い込んでしまっても、そちらの方が自然です。

しかしながら実際には、①投票の集計は州ごとに行われます。②また各州には、「選挙人」と呼ばれる人の人数が割り当てられています。そして③集計の結果、どの候補が、何人の選挙人を獲得するのかが決められます。原則として、最終段階では、これら選挙人は、この際に割り当てられた候補に投票することに決められています。④そして最終的には、その選挙人たちが、割り当てられた候補に投票をして、その結果、過半数を獲得した候補が当選する、ということになります。

日本の制度とはずいぶん違っているという印象をお持ちの方も多いのではないかと思います。しかし、選挙そのものの構造に注目すると、日本の場合と少なくとも「相似形」ではあるのです。私は「同型」だと考えています。「違う」ように見えるのは、選挙にまつわる「用語」あるいは「術語」の違いが大きいからなのではないでしょうか。その点を御理解頂くために、大統領選挙のポイントとして示した①から④までを、日本の制度に即して言い換えてみましょう。説明を簡単にするために、かつての中選挙区制の下の衆議院選挙との比較をしてみます。

《衆議院選挙と首班指名》

まず、①ですが、日本の場合は、選挙区ごとに選挙が行われ開票・集計もその単位で行われます。これは、アメリカにおける選挙区が一つの州だと考えることに他なりません。②の選挙人の数ですが、日本の場合は選挙人とは言わず、衆議院議員と言っています。単なる言葉の違いです。そして、③ですが、日本の場合には、どのような投票をするのかが決められているのではなく、所属政党によってその行動が大方決められています。特に総理大臣を選ぶときには、自分の党の捜査いなり党首なりを選ぶのですから、これもアメリカの選挙人が誰を選ぶのかを決められているのとほぼ同じことになります。そして④ですが、これは国会における首班指名と同じことです。

日本の総理大臣の選び方と、アメリカの大統領の選び方がほぼ同じであることは御理解頂けたと思います。この制度が、アメリカにおいて今回の混乱を招いた一因だとするのなら、日本の場合は、総理大臣の指名だけでなく、各種法律の制定も同じプロセスで行われるのですから、制度的な欠陥という構造的な問題が元になって、より広い範囲で影響を及ぼしていると考えても良さそうです。

《アメリカの制度の問題点》

今回のアメリカ大統領選挙でも問題になっているのは、アメリカ全土での得票数が多いにもかかわらず、その候補が自動的には当選しないという点です。総投票数ではバイデン候補が明らかに勝っているのに、選挙人制度があるために、それとは違う結論に至る可能性があるからです。

4年前の選挙でも、ヒラリー・クリントン候補は、全体の51%の票を得ています。クリントン大統領が誕生してもおかしくはなかったはずなのですが、いわゆる「ラスト・ベルト」での票を固めたトランプ候補が選挙人の数では上回って当選しました。しかし、アメリカの大統領選挙では、このような事例は一二に止まらないのです。ウイキペディアに掲載されている、一般投票の得票率と、誰が当選したのかの比較表を見て下さい。

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クリントン候補の他に、2000年の選挙で、得票率では勝ったゴア元副大統領ではなく、ジョージ・W・ブッシュ候補が当選したことが良く知られていますが、その年にも、最後には法廷で決着が付きました。

なぜこんなことが起るのかの説明も必要です。それは、選挙人を選ぶことで、有権者の意思が捩れて反映されることになるという点です。その結果、一般投票の得票数による勝敗ではなく、その逆の結論になるのです。より具体的な「思考実験」をウイキペディアの図で説明します。分り易いと思いますので、参考にして下さい。注意すべきなのは、選挙人の数は、連邦上下両院の合計議席と同数で、上院議席は各州に2人ずつ配当されているので、最小は3人ということになります。

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長くなりますし、英語の説明を翻訳している時間がありません。でも、グラフと数字だけで内容は分って頂けると思います。さらにもう一つの問題は、一票の格差です。その原因の一つは、アメリカの各州とも、人口に関わらず、上院議員数が2名だということにあります。それが大きな原因になって、選挙人が何人を代表するのか、という格差が生じています。日本では「一票の格差」としてしばしば問題にされています。この点もウイキペディアのグラフで御覧下さい。

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カリフォルニア州では、選挙人一人を選ぶのに、70万人という数が必要なのですが、ワイオミング州では20万人ちょっとで済みます。格差は3倍以上です。

日本の最高裁判所が、昨年の参議院選挙の一票の格差3倍を合憲だと判断したのは、「アメリカでも3倍くらいは問題視されていないのだから日本もそれに準じていれば良い」という基準でもあったからなのでしょうか。

さて日本の選挙制度の問題点ですが、これまで何度も繰り返して来ています。でも大切なことですので、再度、問題提起をしておきましょう。それは次回に。

[2020/11/24 イライザ]

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2020年11月11日 (水)

憲法を、文字通り、素直に読んでみませんか・その2 ――『数学書として憲法を読む』で伝えたかったこと――

憲法を、文字通り、素直に読んでみませんか・その2

――『数学書として憲法を読む』で伝えたかったこと――

 

 このブログで10月1日に問題提起したのは、日本の子どもたちの多くが、「国に対する責任を持ちたくない」というよりは、「自分が何をしても社会は変らない」と諦めてしまっているのではないかということでした。9月27日のエントリー「ドイツから見た日本の内閣」中、ドイツ在住の福本まさおさんによる問題提起に、私なりの視点で答えてみたかったからです。

それは、『法学セミナー』9月号に「論説」として掲載して貰った拙稿の一部を引用したものでしたが、是非その全体をお読み頂きたく、前回は、論説の最初の約3分の1だけ引用しました。憲法を「数学書として読む」とはどのような読み方なのかの解説と、裁判所の判例や通説・定説では、99条の憲法遵守義務が、「法的義務」ではなく「道徳的要請」だと解釈されているという問題点についても言及しました。

今回は、その続きですが、論説の中心部分でもあります。

 

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『法学セミナー』2020年9月号62ページから69ページまでの内、64ページから69ページまで。

 

  1. 憲法の否定は許されない

99条の解釈については、「置換禁止律」違反だけでなく、憲法全体で「義務」という概念がどのような位置を占めているのか、そしてそれが誰に課されているのかという点からも、二つの重要な問題が生じている。

一つは、校則であっても、数学の公理系であっても、ある一定のルールを定めた「体系」がある場合、その存在意義を損なわないために最低限必要なことは、その体系中のルールを「守る」というメタ・ルールが存在することである。「義務」を「道徳的要請」に薄めてしまっては、例えば、校則の最後に、「これを守るかどうかは道徳的要請なので、拘束力はありません」と付け加えるのと同等の意味になってしまう。つまり、論理的には、その体系の存在そのものを否定することになる。裁判所の判決が憲法を否定してしまうことは、当然、許されない。

次に、義務が課せられている対象に注目しよう。対象は、二つある。一つは「天皇」、もう一つは「公務員」である。最初に「公務員」を取り上げよう。99条によって義務を負わされている公務員が、自らの義務について、「それは義務ではなく道徳的要請だ」と言って責任を回避することは許されないはずだ。

「法の支配」とは、言葉の意味を尊重し論理的な推論によって得た結論によって合意を形成し、また権力の行使を許された公務員は、それを濫用しないためのルールに縛られて仕事をするという枠組に依存する。その枠組が機能するためには、公務員に負わされた「義務」が義務として機能しなくてはならない。その「義務」の意味を希釈することは、「法の支配」という枠組の中に「力の支配」を持ち込むことになるからだ。これも論理的には、憲法の否定だと考えられる。

安倍政権の言動はじめ、現実の政治の世界には、その結果としか考えられない多くの事例がある。これらについては『数学書』の「付論2」を参照されたい。

次に、「義務」を課されているもう一つの対象、天皇について考えよう。『数学書』でも論じたように、この中で、天皇に課されている「義務」を判決も通定説も無視してしまっているのは、理解に苦しむだけでなく、憲法における天皇の位置付けという視点からも問題である。それも一因となって、天皇に関するいわゆる憲法論は、実は憲法とは関係のない歴史や伝統、政治的イデオロギーについての議論として行われる傾向があって、空回りしているきらいがある。この点については、稿を改めて論じたいが、「天皇に課された義務」をその通り読むことで次のような結論に至ることだけは指摘しておきたい。

何より、憲法上の天皇の位置付けが明確になる。それは、99条からの論理的帰結として、天皇には「憲法の守護者」としての役割が与えられているということである。以下その結論の要点である。(拙著のIV部に相当する)

  • 「憲法遵守義務」は国事行為ではなく、「義務」である。天皇に関するすべての行為を「国事行為」だと決め付けるのではなく、天皇についての規定を天皇の権利と義務という形に論理的に整理し直すべきである。
  • 仮に、天皇が99条違反をして、憲法に従わなかった場合には、天皇はその地位を剥奪される。
  • 公務員、特に内閣が憲法違反を犯した場合にも、内閣が憲法を遵守している場合にも、天皇には、それとは独立した形で憲法を守る義務があり、またその義務を果す上では内閣の助言や承認は必要ではない。
  • つまり、天皇の存在そのものが、内閣と公務員が憲法を遵守しなくてはならないというメッセージの発信をしており、また憲法そのものの人間的具現化になっている。

憲法では、天皇について、このように明確な姿を描いている。それを全く無視してしまっているこれまでの憲法論は、憲法の持つ素晴らしさの大きな側面を生かしていないと言って良いだろう。

 

  1. 憲法は死刑を禁止している

 憲法を「論理的に読む」ことから、比較的簡単に得られる結論の一つを、『数学書』では「定理A」と呼んだ。それは、「憲法は死刑を禁止している」という命題である。憲法12条、13条、25条のそれぞれが、独立した形で死刑を禁止している。しかし、昭和23年の最高裁判所の判決 ( 「判決」と略す) は、死刑が合憲だと述べている。(最大判昭和23年3月12日 刑集2巻3号191頁)。これも明確に「憲法マジック」である。以下、憲法12条、13条、そして25条に続いて、 [定理A]を証明する。

 

12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。(以下略)

 

13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 

25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。(以下略)

 

  1. [定理A]の証明

これら三つの条文から、独立に[定理A]が導かれるので、そのうちの一つ、25条を取り上げて証明する。他の二条についても同様の議論が成り立つ。

25条では、「生活を営む権利」が保障されている。「生活」とは、生きている人間が日常的な活動をすることを意味する。その際に、「生きている」という前提がないと、条文の意味がなくなってしまう。さらに、25条は 「公共の福祉に反しない限り」という例外規定にも縛られていない。

  25条の (そして12条、13条も)、主体は「国民」である。その中には犯罪を犯した人も含まれている。その人に死刑が科されるかどうかの判断にもこれら三つの条文が関わってくる。さて、仮に国家が、犯罪者に対して死刑を執行したとしよう。その行為は許されるのだろうか。

第25条については、「最低限度の」という限定的な条件が付けられてはいるものの、「生活」は「生活」である。生きていなくては生活できないことは自明であり、その「生」を奪うことは「生活を営む権利」の侵害であり、25条違反だ。

その他の条文からも同様な結論が得られ(*)、憲法は少なくとも3か条においてそれぞれ別の立場から明確に死刑を禁止していることになる。Q.E.D (**)

 

(*)13条の例外規定については、『数学書』の第四章を参照のこと。

(**)Q.E.D. とは、ラテン語のQuod Erat Demonstrandum(かく示された)の略で、多くの数学書では、証明が終ったことを示す記号として使われている。

 

かくして、死刑については、素直に字義通りかつ論理的に憲法を読む立場と、最高裁判所による確定判決という立場から、それぞれ正反対の結論が出てきた。では、どちらを採用すべきなのだろうか。

通常の法的枠組を尊重すれば、当然「判決」が最終的判断になる。となると、死刑が合憲であることに疑いの余地はなくなる。同時に、憲法を字義通りに、そして「論理的に」読むこともゆるがせにできない。

その視点から、[定理A]の証明と「判決」とを比較しておこう。 [定理A]の証明は今お読み頂いた通りで、簡単明瞭である。そして、死刑が違憲であるという「証明」は、誰が証明しても、誰がその趣旨を説明してもその結果や論理的筋道には全く影響がない。小学生がこの証明を掲げて、その正当性を訴えられることにこそこの立場の強さがあると言って良いだろう。それは、この「証明」が純粋に客観的存在だからである。

このように、誰にでも分る形で死刑が禁止されていることを憲法は示しているのだから、それとは正反対の結論を主張する側からは、最低限、何故、[定理A]の証明をそのまま認めることができないのかを、論理的に説明する義務があるのではないだろうか。これは今からでも遅くはない。

 

  1. 最高裁判決の問題点

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最高裁による昭和23年の死刑についての判決の、要の部分を引用しておこう。

もし公共の福祉という基本的原則に反する場合には,生命に対する国民の権利といえども立法上制限乃至剥奪されることを当然予想しているものといわねばならぬ。そしてさらに,憲法第31条によれば,国民個人の生命の尊貴といえども,法律の定める適理の手続によつて,これを奪う刑罰を科せられることが,明かに定められている。すなわち憲法は,現代多数の文化国家におけると同様に,刑罰として死刑の存置を想定し,これを是認したものと解すべきである。

詳細は『数学書』の第5章をお読み頂きたいのだが、この「判決」の推論には、論理的には穴がある。一つには、13条で使われている「公共の福祉に反しない限り」を必要条件ではなく十分条件として扱っている点である。そして、この字句を、論理通りに必要条件と読んだ場合には、それに続いて吟味されるべき可能性の全てについての場合を尽さずに、死刑を「当然予想している」という結論になってしまっているからだ。31条における「適法の手続き」も、必要条件を十分条件と読み換えている点で、同様の非論理性が問題だ。

となると、「判決」の持つ力は、論理とか説得力によるものではなく、最高裁という「権威」に依存していると考えざるを得ない。これを、確定していない地方裁判所の判決である場合や裁判所以外の場、たとえば国会における議員の発言や、閣議決定、または学界における専門家の発言等と比較しても、最高裁の判決であるという事実は決定的な意味を持つ。

我が国の法的枠組が、憲法を出発点として、三権分立の原則に従って、また法的な整備を重ねた結果として機能してきたことを蔑ろにするつもりはないが、こうした積み重ねも、より広い立場で俯瞰すると人間による知的営為の一部だ。知的営為の一部としての正当性から考えると、ある命題を主張する主体によってその説得力が変るものと、つまり「権威」があるかどうかが判断基準の一部になるものと、どのような主体が主張してもその説得力には変わりのないものとの間で、どちらを採用すべきかと問われれば、それは客観性において優れている方だという答になるのではないだろうか。

 

  1. 自衛隊は違憲である

次に、多くの子どもたちが憲法を学ぶ際に遭遇する「憲法マジック」とその結果、生じるジレンマとフラストレーションから見て行こう。私たちの世代がそうだったのだが、子どもたちが小学生として初めて憲法を読むとき、関心を持つ条文の一つが9条であることは言うまでもない。そして、改めて条文を読むと、自衛隊が憲法違反であることは明白である。また、現実に存在する自衛隊が、「陸海空軍その他の戦力」であることは誰でも知っている。しかし、憲法では持ってはいけないことになっているのだから、立派な「憲法マジック」だ。念のために条文を掲げておこう。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

      2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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以下、10月1日の引用につながるのですが、出来ればその部分を再度お読み下さい。下線をクリックするとそのページに飛びますので。

 

[2020/11/11 イライザ]

 

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2020年11月 1日 (日)

憲法を、文字通り、素直に読んでみませんか ――『数学書として憲法を読む』で伝えたかったこと――

憲法を、文字通り、素直に読んでみませんか

――『数学書として憲法を読む』で伝えたかったこと――

 

 このブログで10月1日に問題提起したのは、日本の子どもたちの多くが、「国に対する責任を持ちたくない」というよりは、「自分が何をしても社会は変らない」と諦めてしまっているのではないかということでした。9月27日のエントリー「ドイツから見た日本の内閣」中、ドイツ在住の福本まさおさんによる問題提起に、私なりの視点で答えてみたかったからです。

それは、『法学セミナー』9月号に「論説」として掲載して貰った拙稿の一部を引用したものでしたが、是非その全体をお読み頂きたく、今回は論説の最初の約3分の1だけ引用しました。

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『法学セミナー』2020年9月号62ページから69ページまでの内、64ページまで。

  1. はしがき

読者の皆さんは、物心ついて初めて憲法を読んだときの感動を覚えていらっしゃるだろうか。その気持ちは皆さんが成長するにつれどう変化していったのだろうか。筆者はそんな思いに駆られて、もう一度初心に戻って憲法を読んでみたらどうなるだろうと考えるようになった。その結果、2019年7月に、法政大学出版局から『数学書として憲法を読む--前広島市長の憲法・天皇論』 (以下、『数学書』という) を上梓した。

実は、この本を書くに至ったのには40年ほど前のアメリカでの経験も関係している。その経緯は、『数学書』の冒頭で説明した通りだが、本稿では、そこでは明示的には表せなかった、ことによるとそれ以上に大切な問題提起をしたい。

まず、「数学書として憲法を読む」とはどのような読み方なのかについては、次述2で説明するが、簡単には、「字義通り素直に、論理的に読む」と言って良いだろう。問題は、そのように憲法を読んだ結果、結論のいくつかが、裁判所の判決、そして通説・定説 (「通定説」という) とは矛盾していたことである。そもそも矛盾のあることも問題なのだが、本稿では、この矛盾の持つ意味や社会的影響等が、看過できないくらい深刻であることにも注意を喚起したい。

  1. 「数学書として憲法を読む」とは

通常、専門家ではない一般市民が憲法を読む際には、憲法の文言通り、字義通り、素直に条文を読むことになる。『数学書』では、その延長線上で、憲法の条文を数学における「公理」(*)と見立てた上で読む試みを行った。本来の公理系は「何の矛盾も存在しない文書」を指すが、憲法内には矛盾が存在する。「論理性」という面では完璧とは言えない文書である憲法を、できるだけ「論理的」に読むためのルールを「律」としてまとめた。その全体を、語呂の良さから「九大律」と呼ぶ。以下を御覧頂きたい。

  • [正文律] 対象とする日本国憲法の正文は日本語とする。
  • [素読律] 書かれていることを字義通り素直に読む。定義される順序も必要に応じて尊重する。
  • [一意律] 一つの単語、フレーズは、憲法の中では同じ意味を持つと仮定する。
  • [公理律] 憲法を「公理」の集合として扱う。
  • [論理律] 憲法解釈は論理的に行う。法律やそれに準ずるものは、公理からの論理的帰結であると位置付け、論理的に考えて憲法と整合性があるかどうかの判断をする。
  • [無矛盾律] 条文間には矛盾がないという前提で読み、解釈を行う。
  • [矛盾解消律] とは言っても現実問題として、憲法内には文言上、一見、矛盾している記述が存在する。条文間の矛盾や使われている概念間の矛盾について、「論理的」で憲法の趣旨が生きるような、かつ出来るだけ無理のないしかも説得力のある解釈を探し、可能であれば「矛盾」を解消する。最低限、「矛盾度」が低くなるように読む。
  • [自己完結律] 憲法は、基本的には自己完結的な文書であると仮定する。つまり、書かれていることにはすべて意味があると仮定し、書かれていないことには依存しない。また、立法趣旨等も条文に掲げられていないものは無視する。
  • [常識律] 定義されていない言葉や概念が使われている場合は、日本語の常識で解釈する。それもできるだけ自然な解釈による。

本稿では公理として読むこと自体を中心的テーマとしてはいないので、(4)の「公理律」と (8)の「自己完結律」は適用しない。この読み方を、『数学書』64ページの「abuse of language」によって、「論理的に憲法を読む」あるいは「論理的に読む」と呼ぶ。

以下、憲法の条文のいくつかについて、字義通りの解釈と、裁判所の判決や通定説とでは正反対の解釈になっている例を示す。憲法では「○○は××である」と述べているのに判決や通定説等では「○○は××ではない」と解釈する場合である。これを「憲法マジック」と呼ぶ。

(*)ユークリッド幾何学の公理が有名だが、例えば、「公理5  直線外の一点を通り、その直線に平行な直線は一本だけである」がその一つである。

  1. 置換禁止律

憲法を「論理的に読む」上で、最初に確認しておきたいのは、条文中の個々の字句は、そのまま読まなくてはならないことだ。これは、数学の等式で考えると分り易い。[1+1=2]という式の中で、[1]を勝手に[3]と変えたり読んだりしてはいけないのである。当り前のことなのだが、重要なルールなのでその点から確認しておく。

また数学では、対象を定めることも重要である。念のため、ここで対象にしているのは、日本国憲法である。それは、国会の議を経て、1946年11月3日に公布、1947年5月3日に施行された、我が国の最高法規を指す。物理的には、どの六法全書にも記されている、日本語によって書かれた文書である。

その中の特定の字句は憲法という存在の必要不可欠な構成要素であり、それを物理的に変更することは許されない。たとえば、「国民」という字句を「臣民」という字句に訂正することは当然、許されない。これは誰にでも賛成して貰える初歩的なルールのはずである。これを、「置換禁止律」と呼ぶことにする。

次に確認しておきたいのは、字句は変えずにその意味を変える読み方である。意味を変えるということは、「論理的」には、その字句を変えることと同じだからである。たとえば11条で使われている「永久の権利」の「永久」の意味を、「長期にわたって」と変えることは許されない。それでは意味が違ってしまうからだ。

加えて、死刑についての考察 (⇨後述6) で明らかにするが、字句の意味から論理的に帰結される結論も同じように変更は許されず、そのまま受け入れなくてはならない。これらの変更も、「abuse of language」によって、「置き換え」に含まれると考える。

大切なのは、これらの「置き換え」を許すことは、「尊重する」という99条の規定に反するという事実であり、かつ98条によって憲法が「最高法規」であることにも反する。「最高法規」として認められているのは、どの六法全書にも収められている日本国憲法である。それとは異なったもの (その中の字句を変更したもの) がそれと全く同一のものではあり得ない。かつ置き換えられたものまで「最高法規」であると主張することは、「最高法規」が二つになってしまい、理屈にもならないからだ。

念のため付け加えておくが、厳密に考えると、字句の変更はもちろんのこと、字句はそのままであってもその意味を変更するということは、憲法改正に当る。となると、その変更を行うためには、96条の改正手続きに従わなくてはならない。その手続きを経ずに変更を行おうとするのであれば、最低限、96条に依らない「改正」の正当性を、しっかりした根拠とともに示す必要がある。

  1. 憲法遵守「義務」を「道徳的要請」に置き換えて良いのか

以上の準備の下、これまで見過ごされ勝ちだった「憲法マジック」を考える。99条の解釈である。憲法全体を律する条文の解釈が「置換禁止律」違反を犯しており、憲法の存在そのものに関わる最大の問題点の一つである。まず条文を掲げる。

第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

「尊重し擁護する義務を負ふ」のだから、これは「義務」以外の何物でもあり得ない。しかし、1977年2月17日に水戸地方裁判所が百里基地訴訟の第一審で下した判決では、99条について「憲法遵守・擁護義務を明示しているのであるが、この公務員に対する憲法への忠誠と護憲の要請は、道義的な要請であり、倫理的性格を有するにとどまる」と述べ、法的義務ではないことを明確に示している。(水戸地判昭52・2・17判時842-22頁)。また、1981年7月7日には東京高等裁判所が同訴訟の控訴審の判決で、99条は「憲法を尊重し擁護すべき旨を宣明したにすぎない」との判断を述べた後、「本条の定める公務員の義務は、いわば、倫理的な性格のものであって、この義務に違反したからといって、直ちに本条により法的制裁が加えられたり、当該公務員のした個々の行為が無効になるわけのものではな」い、と倫理性を強調している。(東京高判昭56・7・7判時1004-3頁)

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つまり、意味の上で、「義務」という字句を「道義的要請」という字句に置き換えており、これは「置換禁止律」違反である。

最高裁の判決は先例拘束性を持つと理解されているが、仮に上記の東京高裁の判決にはその力がないとしても、このような「先例」を参照しつつ、99条に依拠して公務員の憲法遵守義務違反の訴訟が受け付けられない状況があったとしてもおかしくはない。その意味でも、東京高裁判決の意味は大きい。

さらに、両判決では、条文の「義務」を「道徳的要請」に置き換えて読むべきだという十分な論理的根拠が示されていない点が問題である。

「根拠」として読めなくはない一節はある。東京高裁の判決の、「国家の公権力を行使するものが憲法を遵守して国政を行うべきことは、当然の要請であるから、本条の定める公務員の義務はいわば、倫理的な性格のものであつて」という下りだ。仮に前半が「根拠」だとすると、論理的には理解不能になってしまう。

それは次のような理由からだ。常識では公務員には遵守義務がある、それゆえ、我が国の法律体系の「最高法規」である憲法では、「倫理的性格のもの」になる、という因果関係は、筆者には理解不可能だからだ。

加えて、もしこの理屈が正当であるのなら、主語は国民、動詞は納税する、に置き換えることで、「主権者たる国民が税金を納付すべきことは、当然の要請であるから、本条の定める国民の義務はいわば倫理的性格のものであって」となり、30条の納税の義務は、倫理的な性格のものになってしまう。

以下、次回をお楽しみに!

[2020/11/1 イライザ]

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2020年10月21日 (水)

「今でしょ!」・その2 ――「SUGA」政権は「本気」――

「今でしょ!」・その2

――「SUGA」政権は「本気」――

 

学術会議の会員任命拒否という暴挙についての考察を始めましたが、前回はその動機を取り上げました。今回はその続きで、菅政権が「本気」で言論弾圧に取り組んでいることを俎上に載せます。少し長くなりますが、お付き合い下さい。

前回は、菅政権が学術会議いじめを端緒に言論弾圧に乗り出した二つの「動機」を例示しました。今回は、菅政権が、言論弾圧に「本気」で取り組んでいることを、荒っぽい証拠になりはしますが、証拠とともに明らかにしたいと思います。

まず、前回示した動機の内の②、つまり、防衛装備庁が軍事研究を強力に推進するために「安全保障技術研究推進制度」を作ったにも関わらず、その制度に反対した学術会議への対抗策として、菅政権があからさまに言論弾圧を始めた辺りを中心に振り返りましょう。

① 最初はお金です。理工科系の研究にはお金が掛ります。(数学の一部など、例外はあります。) バブル時代は例外だったのかもしれませんが、研究補助費は限られています。「二番目では駄目なのか」という蓮舫議員の言葉が有名になりましたが、二番目から一番目になるためには、通常、とてつもない資金が必要になるのです。

  いや、それ以前の問題として、研究費そのものが危機的状況にあるのです。文科省が作成した、このグラフを御覧下さい。

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政府負担がほぼ横ばい状態なのです。そんな中、前回指摘したように防衛装備庁が大学の研究者たちに、「軍事研究をすれば資金は潤沢にありますよ」、と呼び掛ければ結果は火を見るより明らかです。

➁ 憲法9条改正や軍事研究に反対する日本学術会議の存在がハッキリ射程に入ったのは、前回も指摘したように2017年に同会議が「軍事研究反対声明」をまとめて、いわば「全研究者」を代表して政府の方針に盾を突いた時でした。

  その直後の秋、当時の大西隆会長は、新たに選任される105名の名簿を事前に政府側に説明するよう求められ、それに従ったとのことです。これは、学術会議法第三条、すなわち「第三条  日本学術会議は、独立して左の職務を行う」ならびに第七条、「2  会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」、そしてそれらが依拠する憲法23条、「学問の自由は、これを保障する」違反です。

  当然、この時点で学術会議会長は事実を公開して、国民的問題として政府に対峙すべきだったのですが、なぜかそのような行動にはつながりませんでした。結果として、政府がこれらの法的枠組みを無視し続け、有名無実にする土壌を提供してしまったのではないでしょうか。

③ 任命の対象となる学術会議推薦名簿の事前提出がすんなりできてしまったのですから、権力側の次の一手は、実際に任命「権」を行使して学術会議のメンバーを選び、権力支配を徹底させることになります。しかし、その前に、それなりの批判があることを前提に、次の「内部文書」

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を内閣府が作りました。2018年です。学術会議法の7条が、名実ともに総理大臣の任命権を正当化しているという内容です。学問の自由や学術会議の独立性を蔑ろにしていることも大問題ですが、こうした原理・原則が民主主義を続けるため、いや人類の生存を確実にするために必要不可欠であることへの配慮などは微塵も感じられません。しかし、「権力者の言い分は正しい」という命題に忠実に従う姿勢は歴然としています。

  その内容は論理的に破綻しているのですが、それは問題ではありません。文書のあることが重要ですし、後で触れますが、菅総理大臣の意志を貫くための道具として立派に役立つからです。

④ 今回の、6名を任命拒否するという暴挙は、こうした準備を整えつつ、機の熟するのを狙っていた菅総理が、その機が来たと判断した上でのことだと考えるのが自然でしょう。

④ 人事だけに絞って学術会議を屈服させるというのも一つのやり方ですが、菅政権は学術会議の組織・資金・そして存在そのものの見直しまで同時進行させています。それも、「ブラックな霞が関をホワイトにする」という謳い文句の「行政改革」の一環としての見直しなのです。もちろん、それには目的があります。私たちの守備範囲が増えますし、言葉による対抗策に頼る私たちにとって、より多くの文字数が必要になるため、悪くすると焦点がぼやけてしまって、大きな対抗勢力をまとめることが難しくなる可能性が大きいからです。

 という具合に進行しているのですが、正に用意周到、マスコミを操作し世論も誘導しながら「学術」などという言葉とは縁の遠い多くの市民の無関心さに乗じているのです。ジョージ・オーウエルの『1984年』に描かれた世界実現を目指していてもおかしくはありません。

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「ビッグ・ブラザー」が実現してしまえば、かつてのナチスのように、勝手気儘な施策を展開すれば良いのですが、現在はそこにまでは至っていませんので、それなりの説明が求められ、受け答えをしなくてはなりません。菅総理は「総合的、俯瞰的」視点からという説明しかしていないのですが、これでは何の答にもなっていない上に、仮に、このような表現に意味があるとすると、拒絶された6人が実際に任命されると「総合的、俯瞰的」という条件が満たされなくなることを示さなくてはなりません。

しかし、そのような論理的な議論をする積りは全くないのが、現政権そして前の安倍政権の特徴です。それは、論理的な議論をしようとする相手に対する「必勝法」が存在するからなのです。詳しくは、野崎昭弘先生の名著『詭弁論理学』(中公新書) をお読み頂きたいのですが、それは「強弁です」。とにかく自分の言い分を、相手を無視してでも言い続けることに尽きるのです。つまり、「黒は白だ」と言い続ければ、最後には「合理性」を掲げる相手であっても (いや、「だからこそ」と続けた方がより良い説明だと思いますが―――) 屈服させることができるのです。

そして、「言い続ける」言葉として「空集合」を選べば、それは何も言わないことになります。ずっと答弁を拒否するのも、「強弁」の一形態なのです。

 それも含めて、内閣府の作った「内部文書」を根拠に、「総理には任命権がある」と言い続ければ政権側が勝つのです。時間が稼げれば、アメリカ大統領選挙があり、コロナの状況も変わるでしょう。実際に開催されるかどうかはまだ不確定ではも、東京オリンピックも大きな話題です。そして来年の今頃は衆議院選挙一色になるでしょう。マスコミ的には「学術会議」の旬は過ぎ去っているでしょう。さらに、時間が経過することで「任命拒否」は既成事実になって行きます。3年経てば、任期が6年であるにせよ、その前の任期の会員たちの任命についての是非が問題視されるかどうか、心許ない状況になるでしょう。

しかし、それだけではないのです。「強弁」という手法は、目の前にいる相手には通用するのですが、マスコミを通して、より多くの「大衆」を騙すためには他の方法も必要になります。それは、多くのコマーシャルで使われているように、「イメージ」を通して、言葉を超えたメッセージを伝えることです。

そのために菅政権が使っている「イメージ」はかなり巧妙です。今、行政改革の目玉として大宣伝を行っているのは、ハンコの追放です。「面倒臭いハンコや、押印は止めましょう」に賛成する市民は圧倒的多数でしょう。そのイメージが「行政改革」なのですから、それと「学術会議」をだぶらせて世論操作をすれば、その効果は言うまでもないでしょう。「面倒臭い、無用の長物である学術会議などいりません。ハンコと同じです。」と言われて、内容も分らないまま、賛成する人が増える結果になってしまう可能性があるのです。

押印が日常的に要求されている社会は沢山あります。しかし、学問の自由や表現の自由が蔑ろにされる社会は、人類史上でようやく私たちの自体、あるいはそれに使い的に勝ち取ることのできた貴重な存在です。それを混同させることで、基本的人権を制限しようとする権力側の意図を見抜かなくてはなりません。

実際には、学術会議を廃止するのではなく、「罪一等を減じて」存続は許すが、規模を縮小して経費を削り、人員も減らした上で、「専門家会議」と同じように政権の忖度に終始する組織に衣替えさせるくらいの狡さは当然、持ち合わせているでしょう。「醜い」知恵だとしか考えられませんが、そんな目標を達成しようとしている「SUGA」内閣とは、「Super UGly Administration」 (訳は、「超醜い政権」) の略だと考えるのが相応しいように思えるのですが、如何でしょうか。

こうした動きに対して私たちのできることは何なのでしょうか。学術会議を「忖度会議」にまで劣化させないためにも、「憲法23条 学問の自由は、これを保障する」や「第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」の意味をもう一度噛み締めて、理解を深め、その理解をより多くの人たちに広げる努力をする必要があるのでないかと思います。

そんな努力の意味を、ナチスの犠牲になり、『1984年』を自ら体験したドイツの哲学者、ノーマン・ニーメラーは、次のような詩に託しています。

 

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

 

そうです。任命拒否された6人の一人ではなくても、学者ではなくても、学問とは縁がないと思っていても、政治に興味がなくても、一人では何もできないと思っていても、行動するのは「今」なのです。

[2020/10/21 イライザ]

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2020年10月 1日 (木)

日本の子どもたちが心配です ――日本財団の調査結果――

日本の子どもたちが心配です

――日本財団の調査結果――

 

 このブログの9月27日のエントリー「ドイツから見た日本の内閣」中、ドイツ在住の福本まさおさんが問題提起されていた次の一節について、私も一言、付け加えさせて頂きます。

老人クラブにも関わらず、若い世代の支持率が高いのも良く理解できません。日本には、世代交代が必要だという意識はないのでしょうか。ぼくは日本では、若い人たちの新しいアイディアで国と政治を活性化させることが必要だと思います。

高齢者に頼るのではなく、若い人たちにどんどん出てきて、活躍してほしいと期待しています。

この内閣の顔ぶれを見て、そういう議論が起こらないのも不思議でしようがありません。それとも日本の若い世代には、国に対する責任を持ちたくないという意識が強いのでしょうか。

「国に対する責任を持ちたくない」というよりは、「自分が何をしても社会は変らない」と諦めてしまっている若者が多いからなのではないでしょうか。その点について、『法学セミナー』9月号の「論説」として掲載して貰った拙文の一部を引用します。

 

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にもかかわらず(憲法9条があるにもかかわらず)、自衛隊は存在している。その根拠として「自衛権」というものがあり、大人の社会ではそれが憲法より優先されることも教えられる。また、98条では、憲法が「最高法規」であると規定されていることを知って、しかしながら、それを超える憲法外の力によって、一国の軍隊の存否が決められることに違和感を持つ子どももいる。

こうした相矛盾するインプットがある場合、教育的見地から大人社会の責任ある地位の人や組織が、たとえば学校のカリキュラムを通して、憲法の条文で述べられていることと、現実に起きていることとの間の論理的矛盾について説明する必要があるのではないだろうか。説明の結果、論理の重要さについての子どもたちの理解が深まり、同時に現実との折り合いの付け方に子どもたちが納得するという結果になれば、それは一つの解決法である。

しかし、現実にはこのような教育的配慮はされていない上に、政府は自衛隊の果すべき役割について憲法の元々の規定とは関係なく、アメリカの意向に沿いかつ政権の軍拡指向を助長する施策を積極的に実行している。

このような環境で育って行く子どもたちの多くが、憲法の価値や力について疑問を感じ、社会は政治的力を持つ「権威」が動かしていて、自分たちの関与する余地はないという世界観を身に付けてしまっても不思議ではない。事実、下のグラフに示されている日本財団の国際比較調査によると、「自分で国や社会を変えられると思う」と感じている日本の子どもは18.3%で、調査対象の9カ国中掛け離れて低い。(出典:日本財団「18歳意識調査」第20回 テーマ:「国や社会に対する意識」)

その他の項目についても、自らが1人の人間として社会的貢献をして行けると感じている18歳の若者の比率は、国際的に最下位である。この無力感は、マーティン・セリグマンの研究によって知られるようになった「学習性無力感」として知られる。(あるいは、「無力感の習得」とも呼ばれる。詳細はセリグマン著『オプティミストは何故成功するか』(講談社文庫1994年)参照のこと)

[クリックするとグラフが大きくなります]

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子どもたちに学習性無力感が植えつけられる唯一の原因が、自衛権という外的要因による憲法9条の意味付けだとは言わない。しかし、日本社会では、「本音と建前」という慣用句が立派に生き残っているように、言葉や論理の代りに、「権威」による押し付けで物事が決定されている多くの事例がある。憲法の存在が、法治主義ならびに日本の政治全体の基礎であり、如何に重要な位置を占めているのかも視野に入れると、その重みが元になって、反動としての「無力感」の大きさについても理解して頂けるのではないだろうか。

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『法学セミナー』の論説、全文もお読み頂きたいと考えています。何回かに分けてアップさせて頂きます。

[2020/10/1 イライザ]

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