「広島ブログ」

2020年10月
        1 2 3
4 5 6 7 8 9 10
11 12 13 14 15 16 17
18 19 20 21 22 23 24
25 26 27 28 29 30 31

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

憲法

2020年10月21日 (水)

「今でしょ!」・その2 ――「SUGA」政権は「本気」――

「今でしょ!」・その2

――「SUGA」政権は「本気」――

 

学術会議の会員任命拒否という暴挙についての考察を始めましたが、前回はその動機を取り上げました。今回はその続きで、菅政権が「本気」で言論弾圧に取り組んでいることを俎上に載せます。少し長くなりますが、お付き合い下さい。

前回は、菅政権が学術会議いじめを端緒に言論弾圧に乗り出した二つの「動機」を例示しました。今回は、菅政権が、言論弾圧に「本気」で取り組んでいることを、荒っぽい証拠になりはしますが、証拠とともに明らかにしたいと思います。

まず、前回示した動機の内の②、つまり、防衛装備庁が軍事研究を強力に推進するために「安全保障技術研究推進制度」を作ったにも関わらず、その制度に反対した学術会議への対抗策として、菅政権があからさまに言論弾圧を始めた辺りを中心に振り返りましょう。

① 最初はお金です。理工科系の研究にはお金が掛ります。(数学の一部など、例外はあります。) バブル時代は例外だったのかもしれませんが、研究補助費は限られています。「二番目では駄目なのか」という蓮舫議員の言葉が有名になりましたが、二番目から一番目になるためには、通常、とてつもない資金が必要になるのです。

  いや、それ以前の問題として、研究費そのものが危機的状況にあるのです。文科省が作成した、このグラフを御覧下さい。

Photo_20201020212101

政府負担がほぼ横ばい状態なのです。そんな中、前回指摘したように防衛装備庁が大学の研究者たちに、「軍事研究をすれば資金は潤沢にありますよ」、と呼び掛ければ結果は火を見るより明らかです。

➁ 憲法9条改正や軍事研究に反対する日本学術会議の存在がハッキリ射程に入ったのは、前回も指摘したように2017年に同会議が「軍事研究反対声明」をまとめて、いわば「全研究者」を代表して政府の方針に盾を突いた時でした。

  その直後の秋、当時の大西隆会長は、新たに選任される105名の名簿を事前に政府側に説明するよう求められ、それに従ったとのことです。これは、学術会議法第三条、すなわち「第三条  日本学術会議は、独立して左の職務を行う」ならびに第七条、「2  会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」、そしてそれらが依拠する憲法23条、「学問の自由は、これを保障する」違反です。

  当然、この時点で学術会議会長は事実を公開して、国民的問題として政府に対峙すべきだったのですが、なぜかそのような行動にはつながりませんでした。結果として、政府がこれらの法的枠組みを無視し続け、有名無実にする土壌を提供してしまったのではないでしょうか。

③ 任命の対象となる学術会議推薦名簿の事前提出がすんなりできてしまったのですから、権力側の次の一手は、実際に任命「権」を行使して学術会議のメンバーを選び、権力支配を徹底させることになります。しかし、その前に、それなりの批判があることを前提に、次の「内部文書」

ダウンロード - e5ada6e8a193e4bc9ae8adb0e381abe381a4e38184e381a6e381aee58685e983a8e69687e69bb8.pdf

を内閣府が作りました。2018年です。学術会議法の7条が、名実ともに総理大臣の任命権を正当化しているという内容です。学問の自由や学術会議の独立性を蔑ろにしていることも大問題ですが、こうした原理・原則が民主主義を続けるため、いや人類の生存を確実にするために必要不可欠であることへの配慮などは微塵も感じられません。しかし、「権力者の言い分は正しい」という命題に忠実に従う姿勢は歴然としています。

  その内容は論理的に破綻しているのですが、それは問題ではありません。文書のあることが重要ですし、後で触れますが、菅総理大臣の意志を貫くための道具として立派に役立つからです。

④ 今回の、6名を任命拒否するという暴挙は、こうした準備を整えつつ、機の熟するのを狙っていた菅総理が、その機が来たと判断した上でのことだと考えるのが自然でしょう。

④ 人事だけに絞って学術会議を屈服させるというのも一つのやり方ですが、菅政権は学術会議の組織・資金・そして存在そのものの見直しまで同時進行させています。それも、「ブラックな霞が関をホワイトにする」という謳い文句の「行政改革」の一環としての見直しなのです。もちろん、それには目的があります。私たちの守備範囲が増えますし、言葉による対抗策に頼る私たちにとって、より多くの文字数が必要になるため、悪くすると焦点がぼやけてしまって、大きな対抗勢力をまとめることが難しくなる可能性が大きいからです。

 という具合に進行しているのですが、正に用意周到、マスコミを操作し世論も誘導しながら「学術」などという言葉とは縁の遠い多くの市民の無関心さに乗じているのです。ジョージ・オーウエルの『1984年』に描かれた世界実現を目指していてもおかしくはありません。

Orwell03big-brother

「ビッグ・ブラザー」が実現してしまえば、かつてのナチスのように、勝手気儘な施策を展開すれば良いのですが、現在はそこにまでは至っていませんので、それなりの説明が求められ、受け答えをしなくてはなりません。菅総理は「総合的、俯瞰的」視点からという説明しかしていないのですが、これでは何の答にもなっていない上に、仮に、このような表現に意味があるとすると、拒絶された6人が実際に任命されると「総合的、俯瞰的」という条件が満たされなくなることを示さなくてはなりません。

しかし、そのような論理的な議論をする積りは全くないのが、現政権そして前の安倍政権の特徴です。それは、論理的な議論をしようとする相手に対する「必勝法」が存在するからなのです。詳しくは、野崎昭弘先生の名著『詭弁論理学』(中公新書) をお読み頂きたいのですが、それは「強弁です」。とにかく自分の言い分を、相手を無視してでも言い続けることに尽きるのです。つまり、「黒は白だ」と言い続ければ、最後には「合理性」を掲げる相手であっても (いや、「だからこそ」と続けた方がより良い説明だと思いますが―――) 屈服させることができるのです。

そして、「言い続ける」言葉として「空集合」を選べば、それは何も言わないことになります。ずっと答弁を拒否するのも、「強弁」の一形態なのです。

 それも含めて、内閣府の作った「内部文書」を根拠に、「総理には任命権がある」と言い続ければ政権側が勝つのです。時間が稼げれば、アメリカ大統領選挙があり、コロナの状況も変わるでしょう。実際に開催されるかどうかはまだ不確定ではも、東京オリンピックも大きな話題です。そして来年の今頃は衆議院選挙一色になるでしょう。マスコミ的には「学術会議」の旬は過ぎ去っているでしょう。さらに、時間が経過することで「任命拒否」は既成事実になって行きます。3年経てば、任期が6年であるにせよ、その前の任期の会員たちの任命についての是非が問題視されるかどうか、心許ない状況になるでしょう。

しかし、それだけではないのです。「強弁」という手法は、目の前にいる相手には通用するのですが、マスコミを通して、より多くの「大衆」を騙すためには他の方法も必要になります。それは、多くのコマーシャルで使われているように、「イメージ」を通して、言葉を超えたメッセージを伝えることです。

そのために菅政権が使っている「イメージ」はかなり巧妙です。今、行政改革の目玉として大宣伝を行っているのは、ハンコの追放です。「面倒臭いハンコや、押印は止めましょう」に賛成する市民は圧倒的多数でしょう。そのイメージが「行政改革」なのですから、それと「学術会議」をだぶらせて世論操作をすれば、その効果は言うまでもないでしょう。「面倒臭い、無用の長物である学術会議などいりません。ハンコと同じです。」と言われて、内容も分らないまま、賛成する人が増える結果になってしまう可能性があるのです。

押印が日常的に要求されている社会は沢山あります。しかし、学問の自由や表現の自由が蔑ろにされる社会は、人類史上でようやく私たちの自体、あるいはそれに使い的に勝ち取ることのできた貴重な存在です。それを混同させることで、基本的人権を制限しようとする権力側の意図を見抜かなくてはなりません。

実際には、学術会議を廃止するのではなく、「罪一等を減じて」存続は許すが、規模を縮小して経費を削り、人員も減らした上で、「専門家会議」と同じように政権の忖度に終始する組織に衣替えさせるくらいの狡さは当然、持ち合わせているでしょう。「醜い」知恵だとしか考えられませんが、そんな目標を達成しようとしている「SUGA」内閣とは、「Super UGly Administration」 (訳は、「超醜い政権」) の略だと考えるのが相応しいように思えるのですが、如何でしょうか。

こうした動きに対して私たちのできることは何なのでしょうか。学術会議を「忖度会議」にまで劣化させないためにも、「憲法23条 学問の自由は、これを保障する」や「第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」の意味をもう一度噛み締めて、理解を深め、その理解をより多くの人たちに広げる努力をする必要があるのでないかと思います。

そんな努力の意味を、ナチスの犠牲になり、『1984年』を自ら体験したドイツの哲学者、ノーマン・ニーメラーは、次のような詩に託しています。

 

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

 

そうです。任命拒否された6人の一人ではなくても、学者ではなくても、学問とは縁がないと思っていても、政治に興味がなくても、一人では何もできないと思っていても、行動するのは「今」なのです。

[2020/10/21 イライザ]

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2020年10月11日 (日)

「今でしょ!」・その1 ――言論弾圧の動機――

「今でしょ!」・その1

――言論弾圧の動機――

 

  『法学セミナー』に掲載された拙稿の紹介を続ける予定でしたが、緊急な「事件」が発生しました。拙稿紹介は先送りして、基本的人権の中でも重要な、表現の自由、学問・研究の自由に対する菅政権の「弾圧」に、「今」、私たちが立ち上らないと手遅れになることをアピールします。

 皆さんも御存知のように、問題は日本学術会議の会員105名の推薦名簿から6名が名指しで、「任命拒否」されたことです。それが「言論弾圧」であり、「学問の自由」や「表現の自由」の蹂躙であるとは考えられない方もいらっしゃるかもしれませんが、最後までお読み下さい。事態の深刻さを理解して頂けるはずです。

 とは言え、以下説明する菅政権の策略を支える柱一つ一つについて、誰にも納得して貰える一次資料や信頼できる報道元等を丁寧に提供しているだけの時間がありません。主に結論だけをつなぎ合わせることになりますが、小論の正しさは、やがてどこかの時点で行われる歴史的検証の場で証明されることになると信じています。

 

[動機]

① 安倍政権の継承内閣である菅政権の大目標の一つが憲法改正であることは言うまでもありません。(改「正」ではなく、改「悪」を使うべきだという考え方もありますが、ここでは憲法で使われている単語を優先します。) 安倍政権はその実現のために、様々な策を弄してきたのですが、その一つが、2015年9月19日に参議院で可決され成立した安全保障関連法です。その一環として、それまでは認められていなかった「集団的自衛権」が、いわば「合憲」のお墨付きを得ることになったのです。ですから、「戦争法」と呼んだ方が適切かもしれません。

  しかしながら、世論の反対は勿論 (とは言え、朝日新聞の世論調査では、反対が約半分です。) のことですが、憲法学者からは総スカンを食らいました。同年6月の憲法学者209人を対象にし、122人から回答が得られた朝日新聞の世論調査では、安保法案を「違憲」だと考える憲法学者は104人、「合憲」だと考える憲法学者は2人だけでした。(15人は、「憲法違反の可能性がある」、1人は無回答)。また、9条を改正する必要があると回答した人は6人、必要はないとの回答は99人、無回答その他が17人でした。(6人と99人という数字は偶然ですよネ?)

  これほど圧倒的な差で、「学問」の世界では憲法の平和主義を支持しているのですから、「憲法改正」特に9条の改正を生き甲斐と公言して来た安倍総理個人にとっても、権力者の「忖度」を最優先する官僚たちにとっても、「学者」そして「学問」が邪魔であることは明白です。しかも「権力」を持っているのですから、その力を使って何とかしたいと考えたとしても、「力の支配」信奉者にとっては、ごく自然な流れだったのでしょう。もちろん、権力に対峙し、学問的良心を貫く学者の中には、日本学術会議の会員も当然、含まれています。

 

➁ 戦争の歴史は、使われる武器の歴史でもあるのですが、特に20世紀になってからは、1911年のイタリア・トルコ戦争を皮切りとして、第一次世界大戦でも航空機を使っての空爆が、大きな役割を果してきました。加えて、化学兵器や生物兵器、さらに最近では電子兵器や宇宙兵器なども登場し、科学・技術研究と戦争とは切っても切り離せない関係であることは言うまでもありません。それらの武器が与える被害は勿論なのですが、戦争を推進する立場からは戦略的な重要性が強調されることになりました。

  軍隊という「暴力装置」を独占する国家としては、戦争に勝つという目的のために、科学・技術研究に多額の資金を投入して、軍事力強化のための努力を続けてきました。また、経済的利益につながる科学・技術研究は民間の企業の投資対象になりますが、軍事にも経済的利益にも直接貢献しない分野への投資が減らされる傾向も同時に現れてきました。

  最近のわが国の例では、2015年に防衛装備庁が「安全保障技術研究推進制度」と呼ばれる研究委託制度を創設し、科学者が軍事研究に携わる道を大きく広げました。その予算は、開始時の2015年 に3億円、2016年には6億円、2017年には110億円に増額されました。「科学研究助成金」などの研究助成金が減少傾向にある我が国では、このような委託研究制度が研究者にとって大きな魅力に映っても仕方のない状況でした。応募についての詳細は、防衛装備庁のサイトを御覧下さい。

  一時的には、この制度への応募者が増えたのですが、2017年以降は減少することになりました。研究者の間から、大学その他の研究機関が軍事研究に携わることに対する反対意見が多数出され、2017年には、日本学術会議が、この制度ならびに軍事研究そのものに対しての反対声明を公表したからです。学術会議に対する権力側の怒りが増大したことは想像に難くありません。

 とは言え、学術会議そのものにも大きな問題があるのですが、今回はまず、菅内閣が学術会議を自分たちの支配下に置きたいと考えるに至った大きな理由を二つだけ挙げておきました。

 

 問題は、このような支配が学術会議だけに止まらず、次は大学、その次はというように、徐々にしかも多くの人たちの関心を必ずしも惹かない形で進み、気が付いた時には二進も三進も行かない状況になってしまう可能性が高い点なのです。次回以降も続いて、こうした点について考えたいと思います。

[2020/10/11 イライザ]

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

 

2020年10月 1日 (木)

日本の子どもたちが心配です ――日本財団の調査結果――

日本の子どもたちが心配です

――日本財団の調査結果――

 

 このブログの9月27日のエントリー「ドイツから見た日本の内閣」中、ドイツ在住の福本まさおさんが問題提起されていた次の一節について、私も一言、付け加えさせて頂きます。

老人クラブにも関わらず、若い世代の支持率が高いのも良く理解できません。日本には、世代交代が必要だという意識はないのでしょうか。ぼくは日本では、若い人たちの新しいアイディアで国と政治を活性化させることが必要だと思います。

高齢者に頼るのではなく、若い人たちにどんどん出てきて、活躍してほしいと期待しています。

この内閣の顔ぶれを見て、そういう議論が起こらないのも不思議でしようがありません。それとも日本の若い世代には、国に対する責任を持ちたくないという意識が強いのでしょうか。

「国に対する責任を持ちたくない」というよりは、「自分が何をしても社会は変らない」と諦めてしまっている若者が多いからなのではないでしょうか。その点について、『法学セミナー』9月号の「論説」として掲載して貰った拙文の一部を引用します。

 

**************************************

にもかかわらず(憲法9条があるにもかかわらず)、自衛隊は存在している。その根拠として「自衛権」というものがあり、大人の社会ではそれが憲法より優先されることも教えられる。また、98条では、憲法が「最高法規」であると規定されていることを知って、しかしながら、それを超える憲法外の力によって、一国の軍隊の存否が決められることに違和感を持つ子どももいる。

こうした相矛盾するインプットがある場合、教育的見地から大人社会の責任ある地位の人や組織が、たとえば学校のカリキュラムを通して、憲法の条文で述べられていることと、現実に起きていることとの間の論理的矛盾について説明する必要があるのではないだろうか。説明の結果、論理の重要さについての子どもたちの理解が深まり、同時に現実との折り合いの付け方に子どもたちが納得するという結果になれば、それは一つの解決法である。

しかし、現実にはこのような教育的配慮はされていない上に、政府は自衛隊の果すべき役割について憲法の元々の規定とは関係なく、アメリカの意向に沿いかつ政権の軍拡指向を助長する施策を積極的に実行している。

このような環境で育って行く子どもたちの多くが、憲法の価値や力について疑問を感じ、社会は政治的力を持つ「権威」が動かしていて、自分たちの関与する余地はないという世界観を身に付けてしまっても不思議ではない。事実、下のグラフに示されている日本財団の国際比較調査によると、「自分で国や社会を変えられると思う」と感じている日本の子どもは18.3%で、調査対象の9カ国中掛け離れて低い。(出典:日本財団「18歳意識調査」第20回 テーマ:「国や社会に対する意識」)

その他の項目についても、自らが1人の人間として社会的貢献をして行けると感じている18歳の若者の比率は、国際的に最下位である。この無力感は、マーティン・セリグマンの研究によって知られるようになった「学習性無力感」として知られる。(あるいは、「無力感の習得」とも呼ばれる。詳細はセリグマン著『オプティミストは何故成功するか』(講談社文庫1994年)参照のこと)

[クリックするとグラフが大きくなります]

Photo_20200930112501

子どもたちに学習性無力感が植えつけられる唯一の原因が、自衛権という外的要因による憲法9条の意味付けだとは言わない。しかし、日本社会では、「本音と建前」という慣用句が立派に生き残っているように、言葉や論理の代りに、「権威」による押し付けで物事が決定されている多くの事例がある。憲法の存在が、法治主義ならびに日本の政治全体の基礎であり、如何に重要な位置を占めているのかも視野に入れると、その重みが元になって、反動としての「無力感」の大きさについても理解して頂けるのではないだろうか。

**************************************

『法学セミナー』の論説、全文もお読み頂きたいと考えています。何回かに分けてアップさせて頂きます。

[2020/10/1 イライザ]

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2020年9月21日 (月)

劣化した政治の「震源地」はどこか? (7) ――党議拘束は憲法違反――

劣化した政治の「震源地」はどこか? (7)

――党議拘束は憲法違反――

 

 前回の問題提起のお浚いから始めましょう。「政権交代が可能だから」という「政治論」のレベルで小選挙区制を論じる前に、「憲法論」として論じておくことで、日本政治の本質を見抜くことができ、より良い政治を創るためのヒントが得られるはずです。という結論から、今回は、小選挙区制を考える上で参考になる憲法上の問題の一つ、「党議拘束は憲法違反」であることを俎上に載せます。

 小選挙区制導入のために提出された「政治改革法案」の採決に当り、社会党からは、勇気ある造反議員が反対票を投じました。等の遺構に反対したのです。それは、選挙について、日本社会の未来について真剣に学び議論し、悩みながらの結論でした。

そして、衆参両院で可決されなければ法律にはならないという憲法59条が遵守されるという大前提の下、誠心誠意、良心に従って行動したのです。その真摯な行動が、党の決めた方針に合わないという理由で、つまり党議拘束違反という廉で処罰の対象になりました。実は、このような形で、国会以外の場で国会内の言動について処分するのも憲法違反です。それは憲法19条、21条そして51条によって保障されています。

その前に、小選挙区制導入に反対した議員を社会党が処分するということ自体、第40回総選挙における有権者に対する公約違反であることを指摘しておきましょう。つまり、選挙の時点では社会党は小選挙区制に反対しており、有権者はその前提で一票を投じているからです。社会党が小選挙区を導入するための政治改革関連4法案賛成に転向したのは細川内閣の成立時で、あくまでも政権党の一翼を担いたいという権力志向の現れだったと解釈することが一般的に受け入れられているからです。

敢て付け加えれば、社民党は2006年には小選挙区制導入が誤りだったことを認め、造反議員の処分取り消しによる名誉回復を行いました。遅きに失した感は否めません。自分で自分の首を絞めておいて、息絶える直前になって、首を絞めたのが間違いと言っても遅過ぎるのではないでしょうか。

しかし、公約違反かどうかという問題以上に深刻なのは、党議拘束は憲法違反だという点です。次の3条がそれを示しています。

思想や良心の自由、そして表現の自由は民主主義の礎です。それを保障しているのが19条と21条です。特に表現の自由は、それが社会的に意味のある時にこそ大切にされなくてはならないものです。誰も住まない山奥でなら何を言っても良いが、多くの人が読む雑誌に発表することが制限されるのでは表現の自由の意味がありません。表現の自由とはあくまでも、多くの人に聞いて貰える環境で、しかも実質的な力を伴うときにこそ発揮されるべき原則です。そして、国会における、特に本会議における一票が最も公共性が高いことを考えれば、この時に表現の自由が保障されないのでは、「表現の自由」を掲げる意味がなくなってしまいます。それを保証しているのが51条です。

 

第19条  思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。

 

第21条  集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。

 

第51条  両議院の議員は、議院で行つた演説、討論又は表決について、院外で責任を問はれない。

 

ここでいう「院外」とは、「議院」の外側を指していますが、物理的な意味での内と外ではなく、「国会」に与えられている任務を果しているときは「院内」で、それ以外は「院外」ということになるのだと思います。本会議や委員会、議員としての視察や調査、出張等、たとえそれが国会議事堂という建物の外で行われたとしても、「院内」の仕事に属するはずです。対して、仮に議事堂という物理的な存在の中で行われても、所属政党内での活動は院外でなくてはなりません。政党毎に政策も党の仕組みも活動資金の調達方法も支持者も全く違う存在です。民主的な党であれば、党員の意思により、それも多くの場合は選挙等の民主的な方法で決定されているはずです。

Photo_20200920201401

より具体的な例を挙げると、自民党は憲法改正が党是の一つです。そのために様々な党活動を行っています。その内容が必ずしも憲法99条の憲法遵守規定に沿ったものでないことはある意味、当然です。では、国会議事堂内にある自民党の控室で、憲法について違憲と考えられる解釈を採用するための手続きを検討する党議を開いた場合、それを「院内」の活動と認めるかというと、それはあり得ないでしょう。つまり、政党の存在も、その活動も明確に「院外」に属します。

となると、政治改革関連4法案の採決で、(自党の党議拘束に反する場合であっても) 51条に規定されている院内の表決に際して意思表示をした議員を、政党活動の規則によって「院外」で処罰するということは許されません。51条によって責任は問われないのですから。

念のために書き添えておくと、現時点では日本の政党が党議拘束を掛けることは当たり前だと考えられています。それについての処罰も常識的には受け入れられています。それにはそれなりの理由があると思いますが、憲法を文字通り読むと、これは許されることではありません。このような矛盾について、政治のあり方そのものについてまで立ち返って改めて議論をする必要があるのではないでしょうか。選挙制度とは切っても切れ離せない、しかも政治資金の問題や議員の倫理、質等とも深く関わっている政党のあり方について、合理的な結論を得るための努力を始めるべき時なのではないでしょうか。

党議拘束がなくなった場合、政党が自答の方針を国会内で実現するためにはどうすれば良いのでしょうか。それは、事実に基づいた議論によって説得することです。「説得」が大切なのは、選挙の際には有権者に一票入れてもうための手段としてそれしか存在しないからです。何らかの力によって、誰に入れろということを強制することなど以ての外ですし、お金を渡して投票を依頼する「買収」も当然許されません。この政策が素晴らしい、この候補が信頼できる等、説得による以外の方法はないのです。

その説得で、党の一番根幹の部分を担っている国会議員を納得させることができなかったとしたら、有権者の説得など考えられなくなるのではないでしょうか。逆に言えば、今まで、国会議員を事実に基づいた論理的な議論によって説得する努力をして来なかった政党が、説得によって有権者の支持を得ようとしても、それは至難の業だということになりはしないでしょうか。

  [2020/9/21 イライザ]

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2020年9月17日 (木)

「第2次別姓訴訟広島高裁判決言い渡し」傍聴記

二日続きで、裁判傍聴に参加しました。

昨日は、昨年1119日に出された広島地裁での不当判決を不服として控訴していた「第2次別姓訴訟」の広島高裁で判決の言い渡しがありました。

午後2時に開廷した裁判は、「控訴を棄却する」という主文のみが読み上げられ、あっという間に閉廷しました。原告敗訴です。

この訴訟、広島高裁での審理は、今年68日に一度開廷されただけで、結審したものです。判決言い渡し後の報告集会で、原告の恩地いづみさんは、判決を厳しく批判するとともに 「私の思いは、控訴審で弁護団が主張した『控訴理由』の『おわりに』に書いてある通りです。その思いで、今後もがんばります」と訴え、次の闘いへの決意を表明されました。

20200916_151409

恩地さんが紹介された、「控訴理由」の「おわりに」を全文紹介します。

「私たちは、この訴訟に必ず勝ちます。

なぜなら、それが世界の常識だからです。

かつて、生存権が社会の常識となったようにプライバシー権が社会の常識となったように、どちらかが自分の氏を変えることなく結婚することができることが、やがて国の常識になります。

私たちの中には、法務省も含まれています。なぜなら、法務省は、すでに平成8年に、選択的夫婦別姓制度を導入すべきであるとの結論に至っているからです。

また、私たちの中には、裁判官も含まれています。なぜなら、裁判官こそが、この社会を変える力を持っており、その判断によって、あるべき社会をもたらすことを、使命としているからです。

そうして、私たちは、新しい社会をもたらします。結婚したいと望む全ての人が結婚することができる、誰もが幸せな社会です。

私たちは、その社会を導いたものとして、れきしにのこることになるでしょう。」

そして原告恩地いづみさんの「控訴審第1回公判での訴え」の最後の部分も掲載します。

「私の名前。いつでもどこでも、何の注釈や追加の書類も必要なく名乗れる、私の名前を、改姓を強要され奪われることなく結婚後も使い続けられるあたりまえの権利が、別氏という選択肢を設けないことによって、共に生きることを誓う対のうち一人には保証され、一人からは奪われていることを問題ないとするならその合理的な理由を示してください。」

昨日の判決では、最も重要な憲法14条、24条、そして国際条約(自由権規約や女性差別撤廃条約など)などについては、全く解釈を放棄するものでしたが、その中で評価できる点が二つありました。一つは「夫婦別姓問題では、地方議会で意見書が採択されていること、国連の委員会が勧告を出していることを国会は重く受け止めるべきだ。」と指摘したことです。もう一つは「通称使用」について言及したことです。この通称使用の問題は、原告弁護団が「銀行口座の開設や不動産登記が全くできないこと」を調査して提出したことが大きな力となり、判決での言及を引き出したのです。

原告は当然上告することになりますので、他の地域で争われている「夫婦別姓訴訟」と合わせて最高裁でどう判断するのかが問われることになります。その最高裁の15人の判事のうち、判決文で旧姓を使用する判事が2名いることなど、最高裁の判事構成にも大きな変化が現れていますので、新たな最高裁判断が出ることも期待できます。

「くじけず、はぶてず、諦めず」

この言葉は、恩地さんのメールの最後に必ずつけられています。

この思いに応えて、これからも「夫婦別姓問題」の解決のための支援を続けたいと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2020年9月11日 (金)

劣化した政治の「震源地」はどこか? (6) ――憲法違反の小選挙区制度 (5) ――

劣化した政治の「震源地」はどこか? (6)

――憲法違反の小選挙区制度 (5) ――

 

 《小選挙区制は、政治論ではなく憲法論で扱うべし》

小選挙区制を考える視点はいくつかありますが、これまでの議論では、主に「政治論」として扱われてきました。その中でも強調されて来たのが、「政権交代がし易くなる」でした。常識的には、これも大切なことです。腐り切った政権が何年も続くことには大きな問題があるからです。

しかし、仮にそれが事実だとしても、そのような政治を民意が望んでいるとしたらどうなのでしょうか。そんな政治を民意が許すとは思えないのですが、仮に「思考実験」として、そんなことが起ったとしましょう。圧倒的多数の人々が、腐っていてもその政権を支持し続けているという事実があったとしましょう。

私たちは、「政治」についてそれなりの期待を持ち、理想を掲げています。それは、これまでの人類の歴史、日本の歴史に基づいた「常識」です。その前提で考えると、「圧倒的多数の人々が、腐っていてもその政権を支持し続けているという事実」などあってはならないのです。

しかし、「思考実験」では、その「あってはならない」ことが現実に起きているという仮定を設けて、それを前提として、その先を考えるのです。つまり、人類進化の過程で人類が獲得した「知性」により、長い歴史の中で積み重ねた「経験」を凝縮した「知恵」があるにもかかわらず、圧倒的多数の人たちが、「腐敗した政権」を支持し続けるということが「現実」だと仮定するのです。

ここで「思考実験」としてもう一つの仮定も導入しましょう。それは、そのような「圧倒的多数」の選択が間違っていると考える人たちがいるという仮定です。人類の多様性を仮定すると、ある一つの「意見」について、100パーセントの人が賛成することは不可能だからです。その「少数派」の人たちが、「腐敗した政権」が間違っていることを指摘したとして、それでも「圧倒的多数」は、腐敗政権を支持し続けたとしましょう。

さらに、このような「政治劇」が、あたかもあなたの足元に置かれている「箱庭」のような場所で起きていて、あなたはその劇の演出を任されていたとしましょう。小人国に辿り着いたガリバーのような立場だと考えて下さい。ここであなたは、腐敗政権を支持し続ける「圧倒的多数」の立場に立つのか、それを間違いだと指摘している「少数派」の側のどちらかの選択をして、これから後のシナリオを決めなくてはならないとしましょう。

実は、二つの選択肢の内、「少数派」の立場を現実の社会で体現しているグループが存在します。霞が関に多く見られる、いわゆる高級官僚と呼ばれる人たちです。自分たちの知性や能力に絶対的自信を持ち、日本という国家を指導し動かすのは自分たちであるという自覚とともに、「衆愚」の上に立って当然だと考える傾向があります。良く言えば「賢人政治」ですが、安倍政権で問題になった、「森・加計・桜」のような現象が、その結果であることも冷静に評価しなくてはなりません。

官僚たちの実態は多くの人々によって告発されています。彼らには大きな権力があるからです。中でも、1995年に出版された宮本政於著の『お役所のご法度』一冊だけ読んでも、その恐ろしさを十分に知ることができます。

Photo_20200909115001

恐らく、そのような可能性も含めて、「演出者」としてのあなたが、長い歴史の中で選択したのが、多数派の意見で政治を動かすという原則なのです。「賢人政治」にリスクがあるように、多数派の意見で政治的決定を行うシステム、それを「民主主義」と呼ぶことにして、それにもリスクは付き物です。しかし、長い人類史の中で、こちらの方のリスクがより少ない、そしてより良い結果を生む可能性が高いという判断が、世界

的に行われて来たのだと考えられます。

その判断の助けになったのが、「力の支配ではなく法の支配」によって、物事を動かすという原則です。つまり言葉に対する信頼が大きかったのです。さらに、「法の支配」が現実の場面で効果的に機能するために、憲法を出発点とする法体系が作られるようになりました。特に日本国憲法を丁寧に読むと、現実の政治が私たちの期待を裏切らないように様々な工夫が凝らされていることに気付きます。

前口上が長くなりましたが、「政権交代が可能だから」という「政治論」のレベルで小選挙区制を論じる前に、「憲法論」として論じておくことで、日本政治の本質を見抜くことができ、より良い政治を創るためのヒントが得られるのではないかと思います。という結論から、小選挙区制を考える上で、参考になる憲法上の問題を取り上げておきましょう。

本論は次回に回しますが、「党議拘束は憲法違反」であることを俎上に載せます。

 [2020/9/11 イライザ]

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2020年9月 1日 (火)

劣化した政治の「震源地」はどこか? (5) ――憲法違反の小選挙区制度 (4) ――

劣化した政治の「震源地」はどこか? (5)

――憲法違反の小選挙区制度 (4) ――

 

 《両院の可決がなければ法律はできない》

前回の問題提起を思い起して頂ければ、もう皆さんには何が問題なのかお分りだと思います。憲法は、国会に衆議院と参議院を設置し、それぞれが意味のある活動を行い、採決を通じてその意味を表明することを大前提としています。そして、衆参両院で可決されなければ基本的には法律はできないのです。そんな場合でも、両院協議会の可能性を認め両院で協議ができるメカニズムを用意しています。しかし、その両院協議会が成案を得られず、打ち切りを決めたのであれば、当然、元の大原則である憲法59条の第一項に従って、法律案は廃案になる、つまり法律にはならないという結論が論理的な筋道です。

政治の根幹にかかわる問題について、杓子定規に考えるだけではなく高度に政治的な配慮や駆け引きがあるだろう、ということはほとんどの人が認めている考え方だと思います。しかし、憲法を字義通り素直に読むという立場も重要です。その立場からの問題提起を最近では、『法学セミナー』の9月号の62ページから69ページに、「憲法を、文字通りに、素直に読んでみませんか」として掲載して頂きました。その立場からは、国権の最高機関としての国会の存在意義とその国会が賢明な判断を行うために二院制を採用しているという大前提の意味も重要です。

 

《土井議長の役割》

宮川隆義著『小選挙区比例代表並立制の魔術』(政治広報センター刊、1996)では、小選挙区制が導入された国会での最終段階を次のように捉えています。「憲法と国会法を遵守すれば、この政治改革関連4法案は、両院協議会決裂の段階で廃案になったはずだった。細川・河野のトップ会談を斡旋した土井たか子衆議院議長の仲裁案は、『施行日を空白にして議決し、施行日の決定は各党協議機関に委ねる』という、事実上の廃案だった。土井議長の仲裁通りに妥協しておけば、政治改革熱病が醒めた時期に、頭を冷やした与野党で現実的な最終決着がつけられるはずだった。」

宮川氏も「憲法と国会法を遵守すれば、この政治改革関連4法案は、両院協議会決裂の段階で廃案になったはずだった」ことを確認しています。つまり憲法と国会法が守られなかったために、小選挙区制が導入されたのです。

宮川氏の記述は土井さんに好意的な解釈をしていますが、それを要約すると、土井さんは4法案を廃案にしたかった。そのためにトップ会談を斡旋して、廃案にするための自分の「仲裁案」を示した、ということになります。でも、本当に廃案が目的なら、仲裁などせずに、両院協議会の報告をそのまま受ければ良かったのではないでしょうか。協議が決裂したのですから、憲法と国会法の規定に従ってこの法案は廃案という結果になったのです。このシナリオの方が簡単で手続き的にも問題がなかったはずです。

Photo_20200826143801

加えて成田氏の述懐を信じると、土井さんは議長権限を逸脱して、両院協議会決裂の報告を受け取らなかったことになります。両院協議会の議長が公式にその結果を報告に来た以上、それは「報告」であって、議長が決定する権限を持っているのではありませんから、それを受けないということはあり得ません。きつい表現をすれば、これは憲法59条違反です。

もっとも、日本の官庁では、届や申請を受け取らないでいじめをするという慣行が広く行われています。以前、北九州市で問題になり、未だに全国的に行われている、生活保護申請の不受理が典型例です。これはもう「慢性的な病」とでも言っても良いほどだと思います。だからこそ、「定期的」と言って良いくらいの頻度で、マスコミが取り上げることになっています。

広島市でも、特別支援学校の設置場所について広島県との協議を申し入れた際に、理由もなしに、ということは県の恣意的な「いじめ」とさえ解釈できるのですが、申し入れが受け入れられずに一年も放置されていた経験があります。まさかそれと同じレベルでの対応ではないと信じていますが、一国の政治について、しかもこれほど重い課題を扱うに当って、こんな疑問が浮かぶような対応、それも憲法違反と考えられる対応がなされていたこと自体、私にはショッキングな発見でした。

高度に政治的判断があり、善意で、しかもこの法案を通してはいけないという熱い思いがあったのかもしれません。そしてそのためには、少々超法規的な手法さえ辞さないという覚悟で行動したのかもしれません。そうだとしたら、他の超法規的手段も考えられたのではないでしょうか。例えば、両院協議会を開く請求を数日先延ばしにする、ということもできたのではないかと思います。国会の会期が終了すればそれで廃案になったのですから。

成田氏の回想も、当時の総理周辺の裏の動きが分って興味は尽きないのですが、政治的な駆け引きに重きが置かれ、手続きとしての合法性や憲法の原理原則に照らしての判断についての記述ではない点が残念だと思います。当時、権力の中枢にいた人々は、憲法59条に従っての手続きを取っているのですから、当然、59条についての判断があったはずです。それがどのようなものだったのか、言語化されていないのかもしれませんが、是非、言語化した上で後世に残しておいて貰いたいと思うのは私だけでしょうか。

 [2020/9/1 イライザ]

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2020年8月21日 (金)

劣化した政治の「震源地」はどこか? (4) ――憲法違反の小選挙区制度 (3) ――

劣化した政治の「震源地」はどこか? (4)

――憲法違反の小選挙区制度 (3) ――

 

長い間、憲法と付き合ってきて、さらに昨年には『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論』を法政大学出版局から上梓して気付いたことの一つを格言風にまとめておきたいと思います。それは、

深刻な政治問題の陰には、必ず「憲法違反」が隠れている

です。

「諸悪の根源」と言っても良い「小選挙区制」についても当然、この格言が当てはまります。今回は、その検証です。

《両院協議会》

憲法違反は、一連の出来事の最終段階で起きました。1993年11月18日、衆議院で賛成270、反対226、棄権10で可決されました。翌1994年の1月21日には、この案が、参議院で反対130、賛成118の12票差で否決されました。つまり、小選挙区制度を導入するための政治改革4法案は、衆議院で可決、参議院で否決されたのですが、このような場合に法案はどうなるのか、憲法には当然規定があります。

Photo_20200820114501

59  法律案は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、両議院で可決したとき法律となる。

 衆議院で可決し、参議院でこれと異なつた議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。

 前項の規定は、法律の定めるところにより、衆議院が、両議院の協議会を開くことを求めることを妨げない。

 参議院が、衆議院の可決した法律案を受け取つた後、国会休会中の期間を除いて六十日以内に、議決しないときは、衆議院は、参議院がその法律案を否決したものとみなすことができる。

大原則としては、両院で可決されない限り、法案は廃案になるということです。つまり、「政治改革4法案」は廃案にされるべきだったのです。これが2院制の存在意義だと言っても良いでしょう。参議院が常に衆議院と同じ判断を下すのであれば、2院制は必要ではないからです。仮に衆議院で可決されても、別の視点から法案を見直すことで、よりよい判断ができる場合のあることは、最近はかなり普及してきた医療面での「セカンド・オピニオン」が大切なことからも理解して頂けると思います。

しかし、第3項では両院協議会を開いて妥協案を作っても構いませんよという、「仲裁」的な可能性も認めています。衆議院と参議院が真っ向から対立するのではなく、歩み寄ることでより良い結果が生じることも考えられるからです。そして、予算や条約、首班指名の場合は衆議院の優越が認められています。両院協議会を開くことが義務付けられ、そこで成案が得られなければ衆議院の決定に従うことになっています。もう一つの可能性もあります。衆議院が3分の2以上の賛成で再度可決すれば、参議院が反対しても法律ができるのです。

ただし、通常の法律案の場合には、両院協議会を開く必要はありません。しかし衆議院が開催を請求した場合は参議院がそれに従わなくてはなりません。

政治改革4法案の場合は、衆議院が両院協議会の開催を請求して、1月26日の夜に両院協議会が開かれました。衆参それぞれ10人の委員で構成し、議長は衆参それぞれで選ばれ、一日交替で議長を務めます。しかし、協議は整わず、27日に、両院協議会の議長が衆参両院の議長に協議会終了の報告に行っています。

当時細川総理大臣の政務秘書官だった成田憲彦氏が北海道大学の法学論集46に寄稿している「政治改革法案の成立過程 -官邸と与党の動きを中心として-」によると、当時の土井議長は、その報告を受け付けず、協議会を続けるよう指示したというのです。その部分の引用です。ページは(6・473)です。

(http://eprints.lib.hokudai.ac.jp/dspace/bitstream/2115/15657/1/46%286%29_p405-486.pdf)

この時に、市川書記長が両院協議会打ち切りについての衆議院議長への報告から戻ります。

市川「議長は『明日もやってください。もったいない』という話でした。私と大出(俊)さんで説明。―――(打ち切るのは)山本(富雄・参議院自民党幹事長)さんも議長の責任を出すのは反対だがやむを得ないと。二回駄目を押した。委員部も『瑕疵があるとは思えない』と。共産党の橋本(敦)さんまで『やむを得ない』と。出てきたところに河野さんと森さんが。大出さん、議長に『組織を潰すつもりですか』、とカンカンに怒っていた。」

(中略)

与党のラインに沿って、市川さんとコンビを組んで、議長に対しても、「議長の対応はけしからん」と大出さんが怒ってくれたのです。

[引用終り]

その間、細川総理と河野自民党総裁とのトップ会談が行われ、妥協案が作られました。以下、表面的に「正史」として語られる内容ですが、それを受けて、(終了したはずの)両院協議会が再度開かれ、成案を得たのち、国会法の規定に従って両議院で可決、政治改革4法案が法律になったのです。その結果として、日本の政治が大きく歪んだ、ということは最初に指摘した通りです。

次号では、当時の土井議長の役割を軸に、憲法59条の意味についてまとめたいと思います。

 [2020/8/21 イライザ]

 

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

2020年8月11日 (火)

劣化した政治の「震源地」はどこか? (3) ――憲法違反の小選挙区制度 (2) ――

劣化した政治の「震源地」はどこか? (3)

――憲法違反の小選挙区制度 (2) ――

政治家になる人たちの質が悪ければ、その結果として政治は悪くなるでしょう。となると、政治家になった人たちがどのような経緯で政治家になったのかを知ることは大切です。そして、官僚出身者、世襲議員、さらに松下政経塾出身者という三つのグループが多くの議員や首長の「供給元」であることを確認しました。これらのグループが政治に与えている影響を客観的に把握した上で、より良い政治を創るための新たな供給源がないものなのか、あるいは作れないものなのかを考えることも重要です。また政治の劣化の原因になっているグループについては、選挙の際に投票しないといった選択をすることが有効です。

しかしながら、その選挙が有権者の意図を反映しないものであれば、私たちがどう足掻いても、望むような結果にはなりません。そして小選挙区比例代表並立制(以下、小選挙区制と略)は、民意を反映しない制度なのです。1994年に導入され、1996年の衆議院選挙からその制度による選挙が行われてきたのですが、それからほぼ20年経った、2015年の時点では、小選挙区制の弊害は広く理解されていました。しかし、それから5年経った今、危機感はどこかに消えてしまい、小選挙区制を廃止してより良い制度を導入しようといった声もほとんど聞こえなくなってしまいました。身近な所での政治の腐敗に対処するだけで時間もエネルギーも使い果たしてしまい、選挙制度にまで目が向かなくなってしまったのだと思います。

しかし、社会構造の本質を忘れては、どんな改革も不毛に終りますので、「定期的に」問題提起をしています。今回は、何故小選挙区制が駄目なのかについて、ザっとお浚いしておきましょう。

まず、小選挙区制導入の立役者として何時も挙げられるのは三人です。当時衆議院議長だった土井たか子さん、自民党総裁だった河野洋平さん、総理大臣だった細川護熙さんです。小選挙区関連法案が衆議院で可決され、参議院では否決という結果になった時、本来はこの法案は廃案になるのが憲法59条の本則です。しかし、両院協議会を開くことも許されていますので、両院協議会が開かれ、その結果は不調、つまり協議会としての結論はなく、廃案になるはずでした。その際に、土井さんが河野・細川の二人を招いて妥協案を作るよう指示し、その結果が今の小選挙区制なのです。

その一人、河野洋平さんの反省の弁が注目されました。それは、もう一人の立役者だった土井たか子衆議院議長(当時)お別れの会(2014年11月25日)での次のような言葉です。

最後にあなたに大変申しわけないことをした。おわびしなくてはならない、謝らなければならない大きな間違いをした。

 細川護煕さんと2人で最後に政治改革、選挙制度を右にするか、左にするか、決めようという会談の最中、議長公邸にあなたに呼ばれた。直接的な言葉ではなかったけれども、「ここで変なことをしてはいけない。この問題はできるだけ慎重にやらなくてはいけませんよ」と言われた。あなたは小選挙区に対して非常な警戒心を持たれていた。

 しかし、社会全体の動きはさまざまな議論をすべて飲み込んで、最終段階になだれ込んだ。私はその流れの中で小選挙区制を選択してしまった。今日の日本の政治、劣化が指摘される、あるいは信用ができるかできないかという議論まである。そうした一つの原因が小選挙区制にあるかもしれない。そう思った時に、私は議長公邸における土井さんのあの顔つき、あの言葉を忘れることができません。

当時の首相で、河野氏と共に、葬り去られるはずだった小選挙区制を復活させ、導入した細川護熙氏も導入は誤りだったことを認め、あまつさえ、自分はずっと中選挙区制度が良いと思ってきたのだ、と朝日新聞のインタビューで述べているほどです。

これだけで、小選挙区制の罪状は明らかなのですが、とは言っても、客観的な数字も掲げておきましょう。説得力のあるデータの内、得票率と議席の獲得率の乖離がやはりこの選挙制度の歪みを最も忠実に反映しています。まずはグラフを御覧下さい。

Photo_20200808180701

この4回の選挙全てにおいて、自民党は過半数には達しない得票率で、70パーセント以上の議席を占有しています。特に、2012年の選挙では、4割そこそこの得票率で8割近い議席を獲得しているのですから、自民党支持者の意思は、野党支持者の意思の約二倍の価値があることになります。

「一票の格差」が問題にされるときには、選挙区内の人口を比較して、人口の少ない選挙区と多い選挙区では、一票の価値に差があることが問題にされるのですが、それと同様に、得票率と獲得議席との乖離もやはり「一票の格差」として議論されるべきですし、違憲であるとの問題提起がなされるべきだと思います。

選挙の年

得票率   

議席獲得率

死票

死票率

2005年

48

73

3300万

49

2009年

47

74

3270万

46

2012年

43

79

3163万

53

2014年

48

76

2540万

48

これとほぼ同じ意味を持つのが死票の問題です。誰かに投票したのに、その票が生きなかったケースですが、これも、50パーセント近くですし、2012年には53パーセントです。その年の自民党の得票率は43パーセントですので、有権者が投票した通りに当選者が決っていれば、その年には、野党全体として自民党より多い議員が誕生していたのですから、政権は野党が握ることになっていたはずです。

この点については、有権者の意識も高く、小選挙区制では民意が反映されない事実を認識しています。内閣府が定期的に行っている、国の政策への「民意の反映程度」のグラフです。小選挙区制が導入されたのは、1994年、つまり平成6年ですが、それ以降、「反映されていない」が増え、「反映されている」の減っている様子がはっきりと表れています。

Photo_20200808180702

こう見てくると、小選挙区制という選挙制度の結果は国民の意思を反映していないどころか、大きく歪めていることが分ります。そして、今見てきたようなデータからは、「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて」と憲法で定めている、「厳粛な信託」とは大きくかけ離れた形で権力の委託が行われていることが分ります。つまり、この制度は憲法違反です。

次回は、成立の過程でも憲法違反が行われていたこと、そしてこれらの点を問題にした訴訟でも憲法違反が行われるなど、何重もの憲法違反があって初めて続いている制度であることを検証します。

 [2020/8/11 イライザ]

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

 

2020年8月 2日 (日)

戦後75年 ノウモアウォー 三原地区の19日行動

三原の藤本講治さんから「戦争をさせない三原市民行動通信」が届きましたので、今日はそれを掲載します。

Img002_20200801092001

今回の通信は、「2020年8月発行 第22号」となっていますので、毎月の行動報告や参加の呼びかけがていねいに行われていることが分かります。


「いつか来た道」をたどらないように

被爆75年目の夏、広島・長崎への原爆投下。そして敗戦から75年を迎えました。先の大戦で日本国民310万人、アジア諸国民2000万人以上の尊い命を奪いました。

戦争による惨禍を二度と繰り返してはならないと誓ったのが「日本国憲法」です。この平和憲法があったから、戦後ずっと日本は「戦争しない国」を続けてきました。ところが安倍政権は、集団的自衛権行使を容認し、安全保障関連法(戦争法)を強行成立させ、日本を戦争する国に変えようとしています。

私たちは、平和憲法のもとで日本が戦争という「いつか来た道」をたどらないよう安倍改憲の動きを止めてきました。

みなさん、8月6日、9日、15日を迎える今、あらためて平和について考えていきましょう。広島出身の被爆者サーロー節子さん(カナダ在住)は、広島での講演で「読み、考え、語るだけではなく、行動して。それは誰でもできる」と呼びかけました。

8月の定例街頭行動は8月19日です。

8月19日(水)は、定例の街宣活動です。チラシ配布は行わず、スピーチとスタンディングで訴えていきます。みなさん、17時30分に三原駅前にお集まりください。

719

7月の「7・19行動」は、梅雨の晴れ間の中、26人が参加してアピール活動を行いました。7人の弁士が憲法9条の改悪をはじめとする憲法の基本である民主主義・平和主義・基本的人権の尊重を破壊しようとする安倍政権、コロナ危機のもとで安心して暮らせる国の支援策の不十分さ、公職選挙法で逮捕された広島県選出の国会議員河井夫妻、自民党本部の振り込んだ不明瞭な1億5000万円の選挙資金の使途、自民党の金権・腐敗政治の暴挙などを取り上げ、「アベ政治を許さない」と訴えました。


広島市では、「3の日行動」に変更して毎月街宣行動を実施していますが、三原地区では「19日」を定例行動日として、毎月三原駅前で街頭行動が、粘り強くとりくまれています。

三原地区と同じように、府中市でも毎月19行動が続けられており、先月(7月)の様子が届いていますので、遅くなりましたが紹介します。


「今日も上下Aコープ前8人と府中天満屋前10人で30分間のリレートークとスタンディングを行いました。高齢の戦争体験者も一緒に立ってくださり、背筋が伸びる思いです。

P7190529

リレートークの内容は『・安保法制の違憲性・イージスアショア中止後の敵基地攻撃能力を持つことの違憲性と危険性・河井夫妻の選挙買収事件で地元県議会議員も大金をもらっていたこと・安倍政権に責任を取らせることは大人の責務であること・市民としてできることがある。投票行動につなげて・75回目の敗戦記念日を迎え、市民が貧困から戦争への道を歩まないよう、格差の解消を』などが語られました。多くの方が車窓から手を振って賛同の意を現してくれました。」


各地のがんばりが伝わってきます。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ