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経済・政治・国際

2020年7月13日 (月)

中国から贈られた被爆者支援カンパ その1ー原水禁世界大会への中国代表団の参加

1955年に開かれた第1回原水禁世界大会に参加した中国代表団が、被爆者を支援するため5万元(722万円)を寄付しましたが、今やそのことを知っている人は本当に少なくなっています。

今日から数回にわたって、その経緯をまとめてみたいと思います。

第1回目の今日は、中国代表団が第1回原水禁世界大会に参加した経緯などです。簡単に「第1回原水禁世界大会」と書きましたが、1955年当時にはもちろん「第1回」というタイトルはどこにもありません。その後、毎年原水禁世界大会が開催されることとなったため、後に1955年に開催された大会に冠として「第1回」とつくようになったのです。

さて、これから記載することの多くは、中国新聞に被爆40周年の1985年に連載され、後に本として出版された「ヒロシマ四十年 森滝日記の証言」を参考にしています。

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当初、この原水禁世界大会には、7月現在で米・英・仏・インドなど共産圏を含めて計35カ国、約40人の海外代表が参加する予定でした。ところが、7月29日の中国新聞に「次官会議で8・6世界大会に来日する海外代表のうち、共産圏諸国の代表に対しては『原則的に入国不許可』と決定」という報道がされます。政府方針は「イデオロギーを超えた国際会議」という大会構想を危うくするものだと、直ちに広島から森滝先生をはじめ代表が上京し、「入国許可」を求めて政府への陳情を開始します。8月1日は、園田事務次官などへの陳情活動を行い、夕方には重光葵外務大臣、鳩山首相との面談が実現しますが、なおギリギリまで政治行動を続けるとして、翌日まで東京にとどまります。中国の代表団の一名が、特に問題になったようです。こうした活動が実り、やっと大会初日の8月6日(「広島新史:市民生活編」では8月8日となっている)になり、鳩山首相の政治決断により、共産圏から日韓関係を考慮した北朝鮮代表3名を除き、ソ連6人、中国8人、ポーランド2人、ルーマニア2人、東独1人の計19人の入国が許可されました(国名は、「ヒロシマ四十年」のまま)。二つの資料では許可された日付が違いますが、いずれにしても共産圏からの代表団は、広島での大会には参加できなかったようです。広島大会に参加した海外代表は、結局11カ国50余名(「広島新史:市民生活編」:ただし「年表ヒロシマ 核時代50年の記録」では35人)とされています。このように、原水禁大会初期の頃の記録は、資料によって違いがありますので、さらに調べてみる必要がりますが、とりあえず知り得た情報を出来るだけ併記することにします。

ここからは、中国代表団の動きを紹介します。ようやく入国が許可された中国代表団(団長:劉寧一)7人は、広島での大会が終了した翌日の8月9日に羽田に到着します。その後、大阪、東京での会議に出席し、8月19日にようやく広島入りをします。その様子は、「ヒロシマ四十年」には登場しませんので、中国新聞が1995年に発刊した「年表ヒロシマ 核時代50年の記録」や同じ年に発刊した「被爆50周年写真集 広島の記録」を参照しながらまとめます。

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中国新聞社刊「「被爆50周年写真集 広島の記録」」より 右側が劉寧一団長

 8月19日に広島入りした中国代表団は、市民の歓迎集会に参加し、翌日4班に分かれて市内の被爆者家庭や施設を訪問します。舟入川口町のある被爆者宅を訪れた劉団長が「私たち中国代表団は、あなた方を慰問するために参っています。どうぞ安心して話を聞かせてください」と語ったと「被爆50周年写真集」には、写真と共に紹介されています。

そして広島を訪れる前の8月15日に開催された「原水禁世界大会東京大会」において、中国代表団から世界大会日本準備会に対して、被爆者支援のため5万元(722万円)が寄付されます。

明日は、この中国からの寄付がどのように配分され、広島でどう使われたのかを紹介します。

いのちとうとし

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2020年7月11日 (土)

「無責任」の論理構造 (5) ――「説明責任」が「責任」の意味を変えてしまった――

「無責任」の論理構造 (5)

――「説明責任」が「責任」の意味を変えてしまった――

 

「説明責任」という言葉は、英語の「accountability」の訳語ですし、「倫理的な非難」を受けたり「法的責任」を取ったりという結果になることを想定している点が重要です。

にもかかわらず、マスコミも含めて、官僚や政治家たちがあたかも「説明責任」と「責任」が同じ意味を持つ、あるいはそれより酷くて「責任」はどうでも良くて「説明責任」さえ果せば良いのだ、というような感じでこの単語が重用されています。

企業内の関係が一番分り易いような気がしますので、その関係を元に説明すると、何かを任された「部下」に問題があった時、その部下を降格させたり、辞めさせたりといった措置を取る前に、上司が部下に説明を求める、というのが典型的な「説明責任」です。たとえば、「天気予報が外れて、電車が遅れて、その結果遅刻した」というような説明があって、「それなら無理はない。責任は問えないな」と上司が納得すれば一件落着です。しかし、前の晩に飲み過ぎて寝坊をしてしまったのに、嘘の言い訳をして、一緒に呑んでいた同僚の証言でその嘘がばれれば、この部下は当然、責任を取らされます。

時代劇の観過ぎかもしれませんが、この関係をもう少しドラマチックに表現することで、私の言わんとしていることが、正確に伝わるような気がします。

封建的な時代の政治や司法制度を比喩に使うのには、躊躇しますが、「背説明責任」とは、感覚的には「お白洲で申し開きをしてみよ」くらいの意味だと考えると、フロイドさんについての「He should be held accountable」に込められた思いが鮮明になるような気がします。

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「申し開きをしてみよ」という言葉の背後にある前提としては次のようなものが考えられます。

 

  • 明白に疑われるような行為がある。
  • それについて、もし言い訳があるのなら公的な場で申し開きをしなさい。
  • しかも、もし申し開きが不十分であるのなら、その責任を取るという前提での申し開きである。

 

ここで、「お白洲」を持ち出して来て説明しようとしている登場人物の関係を説明しておきましょう。まず、大岡越前の守の代りに「主権者」である国民が座っています。その前に「引き出されている」のが、内閣総理大臣です。脇で、お白洲を取り仕切っているのが国会議員というような図を描いて下さい。

抽象的なレベルでの、内閣と主権者である国民との間の関係がこのようなものであることは憲法15条が保障しています。

 

15条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。

 

つまり、主権者が公務員に権力を与え、国民のための仕事をするように「委託」するという関係です。その仕事が十分に行われない場合には、公務員は「説明」する機会を与えられるのですが、それが不十分であれば「罷免」されることになるというシナリオがここに描かれているのです。

そもそも「説明責任」が問われる場合には、公務員が満足できるような仕事をしていない「ように見える」という前提があるのです。満足できる仕事をしている場合には、それを続けて貰えば良いだけなのですから、例えばサラリーマン映画なら、例えば小林桂樹が演ずる上司が肩を「ポン」と叩いて「この調子で頑張れよ」で事足りるのです。

満足な仕事をしていないように見える場合に、政治家はその状態について「説明」をする機会を与えられるのです。「答えなさい」と国民に問われた場合には、「答弁する」義務があるのです。そして、その「説明」によって、元々の疑惑が晴れるのであれば、政治家や公務員は仕事を続けられる、というシナリオです。

現実の世界でこれを具体化した場合には、法律があり選挙があるという制度になり、それに従っての行動になりますが、リコール制度は、それを15条のシナリオに近付けています。

つまり、一旦疑いが生じた場合、その疑いを晴らすことができなければ選挙に落ちたり、リコールが成立したりするのですから、「疑いを晴らすのは政治家の責任だ」と言っても、民主主義の精神に反していることにはならないのではないでしょうか。

実は、政治家の方でもこの点はそれなりに理解しているのです。不祥事があると、重大な局面で政治家は「離党します」という表明をするのですが、これは、政党に対しての責任を取っているのです。つまり、自分の行動については誰かに責任を取らなくてはならないという、政治家としての立場は理解しているということなのです。

しかし、憲法の規定による選挙の結果選ばれているという事実――その方が党に属しているということよりは重いはずなのですが――の重要性が蔑ろにされているのは、前回指摘した、99条の憲法遵守義務が「道徳的要請」としてしか機能していない状況の反映かもしれません。

自分は国民からの負託によって権力を行使する立場にいる。それは憲法15条に従って、「全体の奉仕者」としての仕事である。もしその仕事が、国民の満足行くレベルで行われていないと国民が判断するのであれば、自分はその職を辞して、その任に相応しい他の人に変って貰うのが当然である、という心積もりをすることが政治家の責任の取り方だと思うのですが、どうでしょうか。

「無責任」体質の背景にある「憲法マジック」と「説明責任」の存在が分ったとして、ではどうすれば良いのでしょうか。皆さんのお知恵も拝借しながら、一歩ずつ一緒に考えられればと思っています。

 [2020/7/11 イライザ]

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2020年7月10日 (金)

世の流れ、相談役・顧問の廃止

相談役・顧問という役職、多くの会社ではこうした役職の見直し(廃止)が進んでいます。沖縄を含めて大手電力会社は10社ありますが、そのすべてにこういう役職の人間を置いています。

中国電力にも相談役1名・顧問1名の2名がいます。非常勤ですから、毎日出勤しているのではありませんが、報酬は受け取っています。

今年の株主総会では、株主提案として「本会社および本会社の子会社は相談役・顧問を置かない」議案を提出しました。議案は総会招集通知に載るとともに、総会の場で議案の補足説明を行うことができます。ただ今年は、新型コロナウイルスの関係で読み上げる物を、総会に出席した株主に配布されました。その全文を掲載します。


当社は山下 隆(やました たかし)前会長を報酬有りの相談役に、古林行雄(ふるばやし ゆきお)前常務取締役を、これまた報酬有りの顧問に就任させています。両名とも非常勤であります。この2名の者には報酬が支払われていながらも、その内容は開示されていません。

相談役・顧問を置くということは、当社定款にも定めがなく、さらに会社法にも規定がなく、株主総会の決議を経ずして選任できるため、存在意義を見出せないだけでなく、まさに「闇の中」と言わざるを得ません。

両名とも、相談役・顧問に就任するまでは、当社の最高責任者やそれに準ずる役割を担っていたもので、現時点においても当社に大きな影響力を持っていることは、明らかだと考えざるを得ません。当社の経営に対して、「院政」を続ける温床になっているのではないかとの、疑念を持たれることも想像されます。

その役割について、私どもの株主提案議案に対する取締役会の意見の中で、「社会貢献活動などの一環として、地域社会等との関わりにおいて、社外団体または他企業からの役員就任要請に応じるといった役割」と示されていますが、この説明はとても曖昧であります。

昨年明らかになった、関西電力株式会社の役員らが、高浜原子力発電所の在る高浜町の元助役から、多額の金品を受け取っていたとされる事件では、世論からの強い非難を受け、刑事事件として関西電力役員への告発がされています。

電力会社、とりわけ原子力発電所を所有している会社への国民の不信感は、原子力発電所が嫌われ物だということが前提にあり、お金をばらまくことで強権的に抑え込むことでしか進められないということにあり、金がらみの不祥事が起こり得ることは間違いないものと思われます。

こうした中、日本世論調査会の最新の世論調査をみても、電力会社の原子力事業が「信頼できない」人は75%に達しており、国民の原子力政策に対する不信感の根深さを示していると言えます。

本議案への取締役会意見で、「社外団体または他企業からの役員就任要請に応じる」というのは、考えようによっては強い危険性を感じざるを得ません。

当社の会長は、中国地方の経済団体の連合体である「中国経済連合会」の会長を担っています。また、その事務局も当社本堤内に置かれています。

関西電力による取締役の金品受領事件により、本年4月、経済産業大臣から当社においても調査が行われましたが、公平・公正な調査であったかという点について疑念を持ちます。

 電力システム改革も、本年4月からの送配電分離により、新会社が設立されました。目まぐるしく環境が変化している中、当社は他社に率先して相談役・顧問の役職を廃止して、事業の透明性を図ることが重要であると考えます。

 以上で、本議案の補足説明を終わります。株主の皆さんのご賛同ご支持をいただきますようお願いします。


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後日、この提案に対して株数として63,453,600株が賛成してくれたことが分かりました。割合としては23.64%です。大株主のほとんどが、私たちの株主提案議案には賛成しないのですから、この数字は多い結果だと言えます。

木原省治

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2020年7月 9日 (木)

来年度の中学校教科書採択に向け要望書提出―府中市

府中市の小川敏男さんから、6月24日の「みてきました! 教科書展示会」につづいて、こんな便りをいただきましたので、紹介します。

 

7月8日(水)9時より府中市教育委員会にて府中地区生活を守る市民会議(議長森藤理至)と九条の会・府中(世話人代表石岡真由海)が共同で、荻野雅弘教育部長に以下の要望書を提出し、石岡真由海さんより趣旨を説明してもらいました。


2021年度使用の中学校・義務教育学校後期課程教科書採択に係る要望書

 今般の新型コロナウィルス(covid-19)感染対策で、より多くの配慮を持って子どもたちの教育環境の整備等に連日奮闘されていることに敬意を表します。

 私たち「府中地区生活を守る市民会議」と「九条の会・府中」は、戦争は最大の人権侵害であるとの基本的認識を持ち、戦争を起こさない国づくりや内心の自由の確保、暴力との決別のために、それぞれ地域の課題に取り組む活動を続けている市民団体です。教育において過去の軍国主義教育が二度と行われないよう、教科書選定には大変注目しています。

 そこで私たちは、憲法12条の「国民の自由と権利を守り、その乱用を防ぎ、公共の福祉に使用するという、不断の努力と義務」を負う市民として、今年度の中学校と義務教育学校後期課程の歴史・公民・道徳教科書採択について以下のとおり要望します。

1 基本的人権・平和・民主主義・多文化共生など、日本国憲法の精神に則った観点で調査研究と採択を行ってください

2 採択に関わる全ての議論を明確にするために、調査研究の結果に長所・短所を明記し、この要望書を議論の材料として全採択関係者へ開示してください

3 「考え、議論する道徳」の観点を尊重するため、それに逸脱した数値評価や、一つの考え方への誘導がされやすい仕組みの教科書の採択をしないでください。

4 各教科書の平均ページ数の総量は前回から7.6%、1万1280ページ増加しています。現在の多忙な教員からすれば授業が形式的になると心配します。すべての子どもたちが理解できる授業のために、府中市としてできる限り教員を増やすことなどに努力してください

府中市は「生涯にわたって自ら学び、地域社会の振興に主体的に参加する人づくり」のために「教育の日」を定めています。この意義深い目的を達成するために、事実に基づいた基本的知識と歴史認識を子どもたちと教科書で共有することが不可欠と考えます。また、未だ障害と呼ばれる個人の特性、ジェンダー、環境、平和構築、多文化共生など、当市においても現在進行形で深化する課題を解決していく仲間として、子どもたちがものごとを冷静かつおだやかに認識できる教科書を提供し、義務教育の目的を果たしたいものです。

 しかし、今回の採択候補教科書の中に、この要望から大きく外れる歴史・公民・道徳教科書があります。育鵬社の歴史教科書と公民教科書、自由社の公民教科書、廣済堂あかつき、日本教科書、教育出版の各道徳教科書です。これらの教科書には、日本国憲法の三大原則(基本的人権の尊重・国民主権・平和主義)の誤った解釈や、世界からの検証に耐えない歴史修正主義、社会情勢の事実誤認等が見られます。

 具体的な指摘を以下に付記しますので、採択の参考にしてください。(*多くの問題箇所より抜粋し資料とします。)子どもたちは、平和と民主主義を育てる私たちの大切な仲間です。府中市の教育に、これらの教科書が採択されないことを強く望みます。

資料(省略)


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他の参加者から意見と府中市の回答です。

①6月12日から26日まで図書館で教科書の閲覧があったけど、アンケートの提出件数はどのぐらいだったのか。「直接の担当は学校教育課なのでわからない」。

②今回の改定で各教科書の平均ページ数は前回から7.6%、1万1280ページ増えています。現在の多忙な先生からすれば授業が形式的になると心配します。夜遅くまで働かれているようだし、市教委は直接先生の増員は出来ないけど県教委へ増員を働きかけていただきたい。「無回答」。

③自分たちが100%正しいとも思っていないし世間にはいろいろな考え方があることについては認めるけれど、国の教科書だというなら歴史は史実に基づくものであることと、正しいことを教えるべきです。育鵬社の公民教科書には「立憲主義とは憲法にのっとって国を運営していくこと」となっているけど「憲法によって国家権力を制限するのが立憲主義」です。間違ったことは教えてはいけない。そんな教科書は採択してはいけない。「無回答」。

真正面からの答えはありませんでした。

しかも「この要望書は採択委員へは渡さない」という回答だったため「そりゃなかろう、せっかく作ってきたのに委員さんへ渡してくれ」と言いました。しかし府中市は「静謐な中で採択することになっているので、要望があったことだけ伝える」という回答でした。

要望書の中身が大事なのに、委員へ伝わらないことは問題です。しかも、担当の学校教育課はいつも出てこず、総務課が対応。採択委員には要望書のコピーを渡さない。「静謐な環境の中で採択することになっている」と、これじゃアンケートも見せんのではないかと心配します。

その他、通学路や横断歩道の白線が消えかけているので塗って欲しいと要望しました。

 

府中のみなさんの努力と、府中市の傲慢な態度がよくわかります。小川さんありがとうございます。

いのちとうとし

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2020年7月 6日 (月)

ヒロシマとベトナム(その15) 被爆75周年 ―ヒロシマとベトナム戦争- を考える〔Ⅱ〕

「枯葉剤被害者の日」 8月10日

枯葉剤といえば、多くの人が“ベトちゃん・ドクちゃん”を思い起こすのではないでしょうか。残念ながら“ベトちゃん”は2007年10月、26歳の若さで亡くなりました。弟のグエン・ドクさん(39歳)は入退院を繰り返しながらも活発な活動を展開されています。私も1998年に初めて出逢い今日まで交流を続けています。これらについてはまたの機会に報告します。

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HVPFの招きで初めて広島を訪れたグエン・ドクさん。(2016年10月)

アメリカ軍がベトナムで最初の枯葉剤攻撃を行ったのは1961年8月10日、ベトナム共和国軍のマークをつけたアメリカ軍機がラオスとカンボジアの国境に接するベトナム中部高原のコントゥム省での実験散布でした。

この8月10日は「枯葉剤被害者の日」(祭日)として定められています。日本の「8月6日」と同趣旨です。

アメリカ軍が最初に枯葉剤を散布したコントゥム省こそ、“ベトちゃん・ドクちゃん”の生誕地なのです。(下地図の真ん中国境付近の緑色の丸印)農業を営んでいた二人の母親は直接枯葉剤を浴びたのではなく、戦争が終結する一年前に移住し、汚染された井戸水を飲んでいたということです。

以降、「ランチハンド作戦」と名付けられた軍事作戦が、1971年1月10日の最後の散布まで10年間にわたり繰り返されました。

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1961年~1971年におけるベトナム共和国への枯葉剤空中散布(赤色)。アメリカ合衆国陸軍省資料より。(「ウィキペデア」フリー百科事典より)

その間に散布された散布薬液総量は9万1,000㌧、散布面積は240万㌶を越します。結果、480万人以上もの人々が被曝し、100万人以上に何らかの障害・疾病をもたらしていると言われています。正確な人数は把握されていません。

南ベトナムの耕地全体の5%以上と森林の12%、海辺のマングローブ樹林の40%以上が枯死しました。中国地方全域にほぼ相当するほどの地表に、くまなく、そして繰り返し・繰り返し「毒薬」ダイオキシンを浴びせたのです。そのダイオキシンが今なお地中に潜み、食物連鎖を通して人々の健康と生命を脅かし、破壊し続けています

 日本にも枯葉剤作戦が準備されていた

もう一つ、枯葉剤に関し意外と知られていない事実を、2005年8月15日付けの新聞「農業」に掲載された中村梧郎さんの取材記事をもとに紹介します。中村梧郎さんは、ベトナムでの枯葉剤被害を記録し続ける報道写真家で『母は枯葉剤を浴びた』やグラフィックレポート『戦争の枯葉剤』などで著名な方です。

アメリカは第2次世界大戦末期、日本への枯葉剤作戦を準備していました。アメリカ軍のプロジェクトチームは当時、「原子爆弾」と「枯葉剤」の両方を開発していました。そして1945年に原爆、枯葉剤作戦とも準備を完了し、原爆を搭載したエノラゲイとボックスカーはテニアン島へ、B29を改造した「枯葉剤散布機」をグアムに集結させていました。

 戦争末期の日本は大変な食料危機に陥っており、大都市周辺の米や野菜の産地を全滅させれば、何10万何百万の餓死者が出るという作戦で、8月の原爆投下でも日本が降伏しなければ11月に枯葉剤作戦を決行することになっていました。8月15日、日本の無条件降伏で枯葉剤はそのままストックされ、ノウハウも含めてベトナムで使われたのです。

 

 今号から幾度かにわたり、「被爆75周年 ―ヒロシマとベトナム戦争-を考える」シリーズを書き進めたいと思っています。月一度のペースで、今回を含め12月までの6回程度と考えています。次号(8月5日)は、枯葉剤(ダイオキシン)の毒性と人体や自然環境への影響について考えてみたいと思います。

(あかたつ)

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2020年7月 5日 (日)

ヒロシマとベトナム(その14) 被爆75周年 ―ヒロシマとベトナム戦争- を考える〔Ⅰ〕

ベトナムは去る4月30日に「解放統一45周年」を迎え、ヒロシマはまもなく「被爆75周年」を迎えます。

1945年8月6日・8月9日とヒロシマ・ナガサキは究極の無差別大量殺戮兵器である核兵器の被害を受け、75年経た今日なお「殺戮」(遅れた被爆死)は続いています。1975年4月30日の「サイゴン解放」によって、ベトナムは長く続いた植民地支配を脱し、民族の解放と統一を遂げました。

そのベトナムは近年著しく発展を遂げ、「ASEAN諸国のリーダー」と呼ばれるようになりました。しかし、ベトナム戦争中にアメリカ軍が散布した史上最大の化学兵器、猛毒ダイオキシンを含む枯葉剤による深刻な被害をはじめ、ベトナム戦争の残した傷跡は大きく、今なお人々の健康と生命を脅かし国土を蝕み続けています。

ともに、「戦争の世紀」と言われる20世紀の象徴的かつ究極的な戦争被害です。

「被爆75周年」と「ベトナム解放統一45周年」を迎え、ベトナム戦争とその被害、とりわけ枯葉剤被害を通して、「ヒロシマとベトナム」について考えてみたいと思います。

 1975年4月30日 「サイゴン解放」(ベトナム戦争終結)

私たちの年代は、45年前の「サイゴン陥落」を伝えるニュース映像が鮮明に蘇りますが、若い人たちの中にはベトナム戦争がどのような戦争であったのか知らない人が多いと思います。

1975年4月30日について、ベトナムの中学3年生の教科書には次のように書かれています。「4月30日10時45分、わが戦車が独立会堂に直進しサイゴンの中央政府職員全員を捕らえた。ベトナム共和国大統領ズォン・ヴァン・ミンは無条件降伏を宣言しなければならなかった。同日11時30分、革命の旗が大統領府の上に翻り、歴史的なホーチミン作戦の全面勝利を知らせた。」と。

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写真:南ベトナム大統領府に最初に突入した2台の戦車のうち先頭の中国製T59式戦車(390号)。2台目はソ連製T54B式(843号)、2台とも国宝にっています。

ベトナム戦争について広辞苑には「1960年~1975年、北ベトナム・南ベトナム解放民族戦線とアメリカ・南ベトナム政府との戦争」と書かれていますが、先ほどのベトナムの教科書には「抗米救国戦争の勝利は、21年にわたるアメリカに抵抗する戦争と1945年の「8月革命」から30年にわたる民族解放・祖国防衛戦争を終結させ、わが国における帝国主義の統治を終わらせた。これを基礎に人民民主主義民族革命を全国で完遂させ、国土を統一した。」と記述されています。

ベトナム戦争の性格と「サイゴン解放」の歴史的な意義が端的に表現されていると思います。

大国、列強の植民地支配に抗し続けたベトナムの歴史

その「サイゴン解放」、すなわち「民族解放・祖国防衛戦争の勝利」の深く重い歴史的な意義は、ベトナムの大国と列強支配に抗する長い闘いの歴史にあります。ベトナムは紀元前111年、前漢の武帝時代から938年の「白藤江の戦い」で勝利するまでの1000年にわたり中国に支配されていました。その後、中国の介入を受けながらも約1000年のあいだ独立王朝時代が続きました。

しかし、1858年のフランス軍の侵攻によりベトナム・カンボジア・ラオスを含むインドシナ半島が「仏領インドシナ」として植民地化されます。フランスはイギリスなど他の列強とともにインドやアジアの植民地化を狙い、ベトナムにも17世紀初頭から宣教師を送っていました。1763年にインドにおける権益をイギリスと争う「カーナティック戦争」で破れ、その後、ベトナムへの侵攻を本格的に企図します。1847年の「ダナン砲撃」などを経ながら1858年に本格的な侵攻を始め、1861年までにベトナム全土を植民地化しました。

その後、フランスの植民地支配は、ベトナムの人たちが「日本とフランスの二重の軛(くびき)」と呼ぶ1940年から1945年までの日本軍の仏印侵攻・統治期間も続きます。実効的な支配権は日本軍が持っていました。日本の敗戦間近の1945年3月9日、日本軍は「仏印武力処理(明号作戦)」と呼ばれる軍事作戦でフランス軍をベトナムから撃退しインドシナ半島の支配権を完全に掌握しました。

その後1945年8月15日の日本の無条件降伏に伴い、フランスが再び介入を始めます。一方、抗仏・抗日闘争を戦っていたホーチミンは日本軍を武装解除し、9月2日にハノイでベトナム民主共和国の「独立宣言を発します。そしてフランスとの「抗仏戦争(第1次シンドシナ戦争)」を展開し、1954年5月の「ディエンビエンフーの戦い」でフランス軍を撃破しました。

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1966年にピュリツァー賞を受賞した沢田恭一の「安全への逃避」。沢田恭一は1970年10月、カンボジアで取材中に襲撃され亡くなりました。

1954年のフランス軍敗退後、アメリカが軍事介入を始めます。南北の分断固定化を図り、南ベトナムにゴ・ジン・ジェム政権を傀儡擁立して軍事顧問団を送り込み、ピーク時54万3千人もの軍隊を送り、5万8千人の戦死者を出したベトナム戦争が1975年4月30日まで21年間続いたのです。

ベトナムの人々は1847年のフランスのダナン砲撃に始まった侵攻と植民地支配から1975年4月30日までの、実に130年にも及ぶ長く苦難の民族解放闘争の末に、ベトナム全土の解放統一という悲願を成就させたのです。

少し長くなりましたので、続きは明日報告します。

(あかたつ)

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2020年7月 4日 (土)

7月の「3の日行動」は、雨のため急きょ中止になりました

「戦争させない・9条壊すな! ヒロシマ総がかり行動実行委員会」が昨日予定していた7月の「3の日行動」は、雨のため急きょ中止となりました。

今日のブログは、「3の日行動」を紹介するため、中止の連絡が入る前に、あとは応援弁士の演説内容を書き込めば済むように、以下の予定原稿を準備していました。別のテーマで書き直そうかと迷ったのですが、「3の日行動」が中止となった記録にもなると思い、そのままアップすることにしました。こんなブログもたまには許されるかなと、勝手に思っています。


「戦争させない・9条壊すな! ヒロシマ総がかり行動実行委員会」が定例で行っている「3の日行動」は、昨日夕方5時30分から1時間、本通電停前でを雨が降る悪条件でしたが、○○名が参加して実施されました。

新型コロナウイルス対応など課題が山積するとして、野党から会期延長を求める強い要望があったにもかかわらず、安倍首相は会期末の6月17日、国会を閉会しました。

翌日には、河井夫妻が逮捕され、その巨額買収の実態が次々と明らかになり、広島県内では首長の辞職や議員辞職が相次いでいます。その原資が、自民党からの政党交付金を含んだ巨額交付金だったことは疑う余地もありません。安倍政権の説明責任が厳しく求められていますが、国会閉会中を理由にそれに応ずる姿勢を全く見せていません。国会閉会時に約束した各委員会の閉会中審査は、一応いくつかの委員会が開催されてはいませうが、肝心の「河井問題」を質す野党に質問に対しては、「当委員会の議題ではない」と回答を拒否する不誠実な態度をとり続けています。

また、いったん終息の方向に向かったと思えた新型コロナウイルス感染も東京を中心に再び、拡大し国民の間の不安が増大しています。

野党の「国会会期延長」要求が正しかったことが、このことひとつとっても明らかです。にもかかわらず、安倍首相は、こうした喫緊の課題に正面から向き合うことなく、国会閉会後には「憲法改正」を強調し、国会解散をちらつかせています。今やるべきことは、誰かの言葉ではありませんが「違うでしょ」といいたくなります。国民不在の安倍政治の象徴が、コロナ対策への姿勢にはっきりと表れています。「命より経済優先の姿勢」がより鮮明となっています。

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一昨日の西村経済再生担当大臣の上から目線の記者会見はそのことをよく表れています。「もう誰も緊急事態宣言をやりたくない」そうなってほしくないと誰もが思っています。しかし次に出てくるのは「皆が努力しないとこのウイルスには勝てない。症状がある方はぜひ外出を避けていただきたい」と国民への努力を求める発言です。私たちが一番聞きたい「政府は、この事態の中で、何をするのか」は全く出てきません。通常国会では「法律の改正だ」「補正予算の早期成立だ」と野党の協力を求めておきながら、今はその素振りすら見せていません。ぬるま湯的な今の安倍政権の姿勢を変えさせるためには、国会での審議が絶対に必要なことです。信頼のない政治が続く限り、私たちは「新型コロナウイルスの危険」への不安を抱えたままで生活を続けなければなりません。

午後5時半から始まった行動では、今回もビラ配布はありませんでしたが、大きく「さよなら安倍政権」と書かれた横断幕が○○枚用意され、帰宅を急ぐ市民に訴えました。

先に述べた情勢の中での今月の「3の日行動」ですので、当然のことですが、マイクを握る弁士の訴えの中心も「さようなら安倍政権」です。

昨晩の弁士は次の通りです。(略)


この後、各弁士の訴えを紹介し、このブログは終わる予定でした。

いのちとうとし

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2020年7月 3日 (金)

被爆建物ですか?

リニューアルされたレストハウスのことが、やはり気になります。本当に「被爆建物ですか?」

朝、リニューアルを担当した観光政策部へ電話を入れました。

「あの外壁は、被爆時と同じですか?」「1929年に建設されて以降、被爆時までに壁の塗り替えがあったのかどうか、資料が全く存在しないので、被爆時の壁が特定できないのです。」どうも、被爆時と同じではないようです。

次の質問は、「外観を建設当時の状況にしたということですが、正面入り口の左右の窓は、建物の外にある説明版に付けられた写真では、二本の柱はないですよね。どうして、この柱は取り除かなかったのですか?」「文化庁から、基本的には『被爆建物として改修するように』と言われていましたので、そこを大切にと思い、改修前にあった二本の柱は残すようにしたのです。」

だんだんと話が見えなくなってきます。文化庁からは、被爆建物としてきちんと残すようにと指示されたようですが、平和公園を訪れた人たちに一番目に付く、外観の色やつくりには、どうもその指示が反映されなかって様に思えます。

何とも納得のいかない説明でしたが、電話での話ですので、昨日のブログで指摘したいくつかの気づきを伝えて、とりあえず終わりにしました。

午後、ピースボランティアの皆さんと話す機会がありましたので、ちょっと尋ねてみました。「リニューアルされたレストハウス、外観を見ただけではとても被爆建物とは思えないのですが、どう説明されますか?」答えは様々です。「この建物の歴史、経過を話すしかないですよね」「まだ見ていないので、これから帰りにみようと思います。」「・・・・」無言。

あの建物を見て、自信を持って「被爆建物です」といえる人が、何人おられるでしょうか。

そんな中で、ある被爆者が「昨日の毎日新聞には厳しいことが書いていたよ」と教えてくれました。すぐ図書館に行き、7月1日付毎日新聞の記事を見つけました。「被爆『爪痕』まで改修」。これが見出しです。記事は前半でリニューアルされたレストハウスの様子を紹介し、後半で、関わりのある二人の意見が載っています。一人は、映画「この世界の片隅に」の片淵監督。その中には、「窓の柵の形が違っており、十分な学術調査がされていないのでは」と書かれています。私が感じたことと同じです。片淵監督は、その前に「映画では、すぐ身近にある被爆建物を訪れてもらう目的もあって大正呉服店を描いた。その目的が破壊されて残念でならない」と厳しく指摘されています。記事には、「原爆資料館の学芸員から『原爆の爪痕が消えてしまう』との声が上がり、設計変更したが、大部分は覆われた。」とも書かれています。

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帰宅して「広報ひろしま市民と市政 7月1日号」を読むと、なぜこんな問題が起きたのかがはっきりしてきました。「市民と市政」読んでおられると思いますが、見出しはこうです。「装いも新たに 憩いの場オープン」リードではさらにはっきりします。「被爆建物としての歴史を受け継ぎながらも、大正呉服店だった頃のようなモダンな外観となっています。」ゴシックの文字の「歴史を受け継ぎながらも」という言葉に象徴されていると思います。「被爆建物」が主語ではないのです。さらに言えば、被爆時は大正呉服店ではなく燃料会館でした。被爆50周年に発刊された「ヒロシマの被爆建物は語る」でも「燃料会館」として紹介されています。

どうしてこんなことが起こるのか、原因ははっきりしています。平和公園の中にある唯一の被爆建物の改修でありながら、担当する部署が「平和推進」ではなく「観光政策部おもてなし担当」になっているからです。

最近の広島市行政には、そういうことが多すぎます。私がかかわってきた「かき船問題」もそうです。世界遺産原爆ドームのバッファゾーン内の問題であるにもかかわらず、平和推進は置き去りのままでした。3月のこのブログに書いた「平和大通りのにぎわいづくり」も同様です。「平和大通り」の景観を変えるのであれば、当然に平和担当が1枚も2枚も深くかかわるのが当然だと思うのですが、これも観光政策部のみの担当です。縦割りではなく、横断的な組織が絶対に必要です。

毎日新聞の記事の最後には、「市おもてなし担当は『ただ、元のコンクリート面は保存しており、変更はできる。みなさんに意見を聴きながら、より良い保存・展示方法を考えていきたい』としていた」と書かれています。9億円余りもかけて行った改修工事、簡単にそんなことができるのですか?なぜ、平和公園内にある貴重な被爆建物を改修するのに、工事始まる前に皆さんの意見を聴かなかったのですか?と厳しく問いたいと思います。

いのちとうとし

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2020年7月 1日 (水)

「無責任」の論理構造 (4) ――「一億総白痴化」の具体例としての「説明責任」――

「無責任」の論理構造 (4)

――「一億総白痴化」の具体例としての「説明責任」――

 

前回述べたように、「一億総白痴化」という言葉は、1957年に評論家の大宅壮一氏が、テレビの弊害に警鐘を鳴らすために作ったものです。それから60年以上経った今、「一億総白痴化」はさらに進行しているはずです。今の政治状況をどんな言葉で表現すべきなのか皆さんのお知恵を拝借したいのですが、ここではその一面に焦点を合せています。

つまり、安倍政治の特徴とも言える「無責任」体質です。その「無責任」体質は、前回説明した「憲法マジック」と、今回取り上げる「説明責任」――それは「一億総白痴化」の現代的な象徴なのですが――によってその輪郭が決っているというのが本稿の主張です。

「一億総白痴化」をもう少し詳しく見ると、大宅壮一氏の指摘したテレビ番組の低俗さ、という誰にでも分る現象だけでなく、余りにも多くの人が何となく受け入れてしまっていて、その不自然さや歪みに気付かないような、つまり見落としてしまっても不思議ではない「微妙な」あるいは「微細な」現象に気付くはずです。今回はそのうちの一つを取り上げ、問題が如何に深刻なのかを確認したいと思っています。

それは「説明責任」という表現です。森友問題や加計スキャンダル、そして桜を見る会の醜聞について、安倍総理は「説明責任」を果していない、「説明責任」くらい果しなさいという声が大きかったことは記憶に新しいと思いますが、それは、国会や記者会見でそれぞれの事例について納得の行く説明をしなさい、という意味でした。それは当然です。

「納得が行く」という点では、私たち主権者の要求に応えてはいませんが、意味のない言葉をペラペラ並べることが「説明」だと強弁することも可能です。そんな御託を並べて、その場凌ぎの言い抜けを続ける「安倍の理屈」(アベノリクツ)では、「説明責任」を果したことになってしまいます。恐らくこんな解釈が罷り通っているから、何事にも「無責任」な結果が現れることになるのではないでしょうか。

しかし国会で、質問に対して答弁を拒否した回数が、2012年からつい最近まで、総理以下大臣や政務官等、答弁する義務を負っている人たちについては、6532件もあることが、フリージャーナリストの日下部智海さんの調査で分っています。

大臣たちは、国会で議員の質問に答えなくてはならないという義務を負っているというのが国会法の決まりであり、これまでの慣行だったのです。それが無視され続けている背景にも、「説明責任」という言葉で「責任」そのものの意味を薄めてしまったという事実があるのです。

もう一度、「説明責任」の意味から考えてみましょう。まずはウイキペディアを見てみましょう。

 

説明責任(せつめいせきにん、アカウンタビリティー英語: accountability)とは、政府企業団体政治家官僚などの、社会に影響力を及ぼす組織で権限を行使する者が、株主従業員従業者)、国民といった直接的関係をもつ者だけでなく、消費者取引業者、銀行、地域住民など、間接的関わりをもつすべての人・組織(利害関係者/ステークホルダー; 英: stakeholder)にその活動や権限行使の予定、内容、結果等の報告をする必要があるとする考えをいう。本来の英語のアカウンタビリティの意味としては統治倫理に関連し「説明をする責任と、倫理的な非難を受けうる、その内容に対する(法的な)責任、そして報告があることへの期待」を含む意味である。

 

ここで注目して欲しいのは、「説明責任」という言葉が、英語の「accountability」の訳語であること、そしてゴシックで強調されているように、「倫理的な非難」を受けたり「法的責任」を取ったりという結果になることを想定しているという点なのです。

「accountability」の形容詞形は「accountable」で、その受身形である「be held accountable」も良く使われます。最近のニュースでこの表現が何度も聞かれたのは、ミネアポリスで起きた警官による黒人男性、ジョージ・フロイドさん殺害事件についての市民の声としてでした。警官が、フロイドさんの頭を地面に頭を押さえ付け、フロイドさんの頸部を8分以上も膝で押し続けた結果、それも「息ができない、助けけてくれ」という懇願を無視しての8分なのですが、その結果、フロイドさんが死亡したという事件です。

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「Cops are accountable (警官は責任を取れ)」という言葉が書かれています

 

これに憤激した世界中の多くの人たちが抗議活動を始め、「Black Lives Matter」という標語とともに、黒人の生命を尊重すべきだという、当たり前すぎる主張が全米、そして世界を覆い、1968年の大抗議運動を彷彿とさせるレベルの大きな動きになっています。その出発点になったのは、警察官を非難する市民の声でした。その典型的なもののひとつが、「He should be held accountable」でした。そして「Cops are accountable」です。「cops」(複数)は、警官の俗称ですが、訳としては「警官は責任を取れ」くらいが良いのではないかと思います。

しかし、日本全国で「常識」として流布されている「accountability」 = 「説明責任」という固定概念を元に訳すと、その意味は、「警官に説明を求める」という意味になってしまいます。でも、フロイドさんの死についての言葉として、これがいかに現実離れしているものなのかは、皆さんもうお分りですね。

済みません。今回も長くなってしまいました。これで完結してはいませんので、残りは次回、7月11日にアップします。

[2020/7/1 イライザ]

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2020年6月28日 (日)

原爆資料館の1枚の展示文に疑問を感じました

広島原爆資料館の常設展示が終わろうとする東館の2階に「ヒロシマの歩み」と題する展示コーナーがあるのをご存知でしょうか。このコーナーでは「1、戦時下の広島と戦争 2、広島の復興 さまざまな支援 3、平和な世界をつくる」をテーマに写真と解説パネルで構成されています。館内を見学し、ここまで歩みを進めると、かなりの時間が経っており、そして多くが文字解説のパネルとなっていますので、じっくりと見たり読んだりする人の姿はめっきり少なくなっている気がします。

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しかしよく読むと、パネルの記載が気になる1枚があります。その1枚は、このコーナーの真ん中ほどにある「広島の復興 様々な支援」の中の「海外で暮らす被爆者」を紹介したパネルです。その全文を紹介します。

「広島・長崎で被爆後、故郷に帰国した外国人被爆者やさまざまな事情で海外に渡った日本人被爆者には、長い間、被爆者援護制度が適用されませんでした。1967年(昭和42年)の韓国原爆被害者援護協会の発足をはじめ、在外被爆者への援護を求める運動が大きくなり、1980年(昭和55年)、海外で暮らす被爆者の渡日治療が始まりました。2001年(平成13年)から在外被爆者への援護制度が順次見直され、現在では被爆者が居住する国の日本領事館などで被爆者健康手帳や諸手当の申請ができるようになり、諸手当の海外送金も行われています。」

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私が気になるというのは、その文章の終わりの方にある「2001年(平成13年)から在外被爆者への援護制度が順次見直され」という「2001年」という記述です。その理由は、後で詳細に記載します。

実は、昨年2月に資料館を訪れた時に疑問を感じ資料館に訊ねました。しばらくするとメールで回答がありました。「この展示文は、広島市の「在外被爆者への支援」に記載されている文章を根拠にしたもので「2001年の判決を受けて『在外被爆者に関する検討会』が設立され、その報告を元に徐々に支援事業が実施された、との理解に基づいています。」という内容でした。

私は、この回答には納得がいかず再び原爆資料館を訪れ、もう一度質しました。その途中、たまたま通りかかった館長から「他にもパネルの文言の中で、修正が必要なものもある。ただ、今は4月の本館リニューアルで大変なので、少し時間をください」といわれ、今後の経緯を見守ることにしました。

ところが、コロナ禍後の再開初日(6月1日)、久しぶりに資料館を訪れた時に改めて確認したのですが、展示文は以前のままでした。

どうしても納得できなかったため、6月8日に今度は理由を明記し、文書で原爆資料館の見解を尋ねることにしました。私が修正を求める理由は次の通りです。


1、記載されている「2001年から在外被爆者への援護制度が順次見直され」のうち、2001年に見直されたものは、具体的に何を指しているのでしょうか。

2、「在外被爆者への援護制度が順次見直された」ことで、最も重要なことは、2002年郭貴勲裁判の大阪高裁判決で国が敗訴し、翌2003年3月1日に「402号通達」が廃止され、同年から海外在住のまま、被爆者援護法が適用され、手当が支給されることになったことです。

3、「402号通達」が在外被爆者への援護法適用を違法に阻害していたことは、「①上記援護法適用によって支給されることになった『健康管理手当』の出国によって停止されていた未払い分については、時効が適用されず全額支給となったこと。②2007年の韓国人元徴用工裁判において、『402号通達が違法」とされ、一人当たり120万円の賠償金支払いが命じられたこと。」で明らかです。

4、以上のことを考えると、在外被爆者への援護で重要なことは、国外に在住していても援護法が適用されるようになったことであり、したがってパネル記載文について「2003年から海外在住者に対し援護法の一部の適用が開始され、」とすべきだと考えます。それは、「在外被爆者を援護法適用から除外する」という誤った政策があったことを正しく伝える上からも必要なことだと考えます。


一週間ぐらい過ぎたころ、原爆資料館から電話がありました。「広島市の記載とも関係あり、資料館だけで判断することが来ません。市と協議することにしましたので、もう少し時間をください。」とのことでした。

今、資料館からの回答待ちの状態ですが、遅くとも、8・6までには返事が欲しいと思っています。どんな回答になるかわかりませんが、回答が出れば当然のことですが、必ずこのブログで紹介したいと思っています。

いのちとうとし

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