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書籍・雑誌

2019年8月21日 (水)

核廃絶運動は歴史的厳しさに直面している (5) ――憲法の復権と民主主義の再生が必要――

長いシリーズになりましたが、前回までは、日本政府が、核兵器禁止条約の署名と批准を頑なに拒否しているのは、「日本自前の核兵器を保有する」が日本政府の究極的な目標であり、署名・批准はそれを諦めることと同じなのだという説明をしました。

それほど大きな「目標」貫徹のためには、決して核禁条約の署名・批准はできないのです。それに対抗しての私たちの立場は、どうしても日本政府に核禁条約を署名・批准させることです。でも、そのための運動を構築するに当り、私たちは再度、日本の「平和運動」のこれまでを振り返り、現在私たちの持っている力を確認しておかなくてはなりません。

その結果は、残念ながら、非常に厳しい状況にあることを認めなくてはならないのです。その理由を、三つ説明しておきたいと思います。論点をハッキリさせるために、以下、物事を極めて単純化して説明します。例えば、「○○は××である」式の言い方をしますが、正確には、「○○という状態の起きたとき、これこれという条件を勘案すると、多くの場合、××という結果につながることが多くあった」と書くべきことも多いということです。

 

(A)日本の平和運動は、国際的運動だった。 

別の言い方をすると、日本政府を説得し政府の方針を変えさせるという種類の運動ではなかった、と言って良いでしょう。

再度お断りしますが、「単純化」しての表現ですので、例外は多くありますし、100%の場合、これが真実だと言っている訳ではありません。国際的な舞台での成功例が多く、国内的な運動では、他の人たちの運動が主導権を握っていた、というような場合も多々あることを念頭に置いて、しかし、これからの運動構築の参考にするための総括として役立つ読み方をお願いします。

本題に戻りましょう。「戦後日本の最大規模の社会運動は平和運動であった」という総括をしているのは、元朝日新聞の記者で、「最後の原爆記者」の一人として今でも健筆を振っている岩垂弘さんですが、彼の近著『戦争・核に抗った忘れえぬ人たち』の最後に、「戦後平和運動の到達点」という短いのですが、優れた運動史が載っています。この本も多くの皆さんにお読み頂きたい物の一つです。

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その中で岩垂さんは、運動が達成した「成果」を三つ挙げていますし、四つの弱点も指摘しています。実はこれらの点をまとめると、ここで私が指摘したい三つのことは既に言い尽くされているのですが、同じ内容を別の言葉で表現しておくことも大切ですので、繰り返しを恐れずに、岩垂さんのまとめから見て行きましょう。

まず、日本の平和運動が達成してきた三つのことですが、①国際的な核軍縮の進展に貢献した。②日本の核武装を阻止してきた。③は、被爆者を救援する活動を続けてきたことです。

続けて、岩垂さんは運動の「弱点」を四つ指摘しています。(i)分裂によって力が削がれた。(ii)被害者意識一辺倒に基づくものであった。(iii)日本が抱えている矛盾に鈍感なまま来てしまった。それは、「核の傘」の下で反核を叫んでいることである。(iv)核エネルギーの利用についての意見の違いから、運動が共同してできなかったこと、とまとめられます。

こうした総括を最も象徴的に表しているのが、1982年の第2回国連軍縮特別総会に日本のNGOが提出した核兵器完全禁止要請署名で、全部で8,000万筆にも及んだことでしょう。問題は、これが日本政府の核政策を根本的に変えさせる役割は果していないという事実ですし、②の核武装阻止も、事実として核武装はしていなくても、それを究極的目標として着々と実績を積んできた日本政府の最後の足掻きに、対抗できる種類の運動だったのかは別問題なのです。また、③の被爆者援護の活動も確かに立派なのですが、1980年に「基本懇」が政府の方針として打ち出した「受忍論」を撤回させるまでの力にはなっていないことも事実なのです。

つまり、これまでの運動は国際的にはそれなりの成果を挙げてきたが、日本政府の政策を根本的に変えるという方向性は持っていなかった、と言っても良いのではないかと思われるのです。

 

(B)国際的な貢献にしても、日本の運動が自ら目標を掲げて世界の同志に呼び掛けた結果として国際的な目標の達成につながったのではなかった。

ここで注意が必要です。「だから日本の平和運動は駄目なのだ」といった、評価の問題に摩り替えないで下さい。そんなことは言っていません。国際的な市民運動の全体像を見ると、それぞれの地域や歴史等の複雑な要素が絡み合って、役割分担が決ります。日本の役割分担には、このような目標設定や、計画立案が入っていなかったという事実を虚心坦懐に見詰めることが自分たちの力を知る上で大切だという点に留意して頂きたいのです。

1963年の部分核停条約、1970年のNPT、1996年の国際司法裁判所による勧告的意見、南半球がほぼ全て非核地帯条約を締結したこと等、日本の運動も重要な役割を果していますし、核兵器の非人道性を世界に広める上で、被爆者ならびに日本の運動の果たした役割は、他の国の運動では決して実行できなかったほど貴重です。しかし、国内でそれが日本政府の政策変更にまでつながったかというと、答は皆さん御存知の通りです。国際的にも国内でも、目標の設定とその実現のための作戦立案、そして実行というシナリオから、これまでの運動を見詰める必要もあるのではないでしょうか。

 

(C)原発についての考え方の違いが、運動も野党も分裂させている。

もう56年前になってしまいましたが、当時の原水禁運動が分裂した原因の一つがこの点でした。そのしこりは、今でも続いていますし、参議院選挙でも明らかになったことの一つは、野党共闘の障害の一つがこの点なのです。「自前の核保有」と、原発の存続は切り離せない絆で結ばれています。この絆が私たちの想像以上に強い可能性もあります。つまり、現在では、核兵器反対派の中に、原発賛成派も反対派もいるという状況から、原発賛成派が中心になって、原発賛成かつ核兵器反対というグループを原発賛成かつ核兵器賛成に宗旨替えさせてしまう可能性も考えなくてはならない時期に来ているのです。

核禁条約の署名・批准を日本政府に迫る上で、私たちの置かれている状況が厳しいことはこれでお分り頂けたとして、それではどうすれば良いのでしょうか。何事でもそうなのですが、問題を解決するためには、まず基本に戻る、数学の言葉では原点に戻ることから始めるのが「王道」なのです。そして「王道」が何であるのかは皆さん良く御存知のはずです。

[2019/8/21 イライザ]

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2019年8月 3日 (土)

「数学書として憲法を読む」ー秋葉忠利代表委員の新著発刊

広島県原水禁代表委員の秋葉忠利さんは、これまでにも多くの著書がありますが、この度「数学書としての憲法を読む」という新著を発刊されました。サブタイトルは「前広島市長の憲法・天皇論」となっています。私にも「著者謹呈」として一冊送っていただきました。

本来なら、本を読んだ感想を書くべきですが、私の能力では、それを待っているとずいぶん遅くなってしまいますので、取り急ぎ新著が発刊されたことを紹介をさせていただきます。署名を見た時、私の頭に浮かんだ書名は「数学書」ではなく「数学者」でした。「数学者秋葉忠利」の憲法解説本と思ったからです。

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「数学書」など読んだことのない私には、大きな?がつくのですが、本にまかれた帯には「原理原則などどこ吹く風 ごまかしだらけの政治の時代―文字通りに、素直に読んでみませんか?」と書かれていますので、素直に読めばよいのだなとちょっと安心です。さらに裏表紙側の帯の「憲法を基本に据えて、本当の意味での立憲政治を実現するための出発点として私が選んだのは、憲法全体をもう一度、数学書を読むように丁寧にそして論理的に読んで、その内容を理解することでした。その試みから得た教訓は、99条の(復権の)重要性です。これが私にとっても貴重な『発見』だったことから、多くの皆さんと共有したいと考えるようになりました。」との紹介で、この本が書かれたゆえんが、憲法99条にあることが分かります。安保法制の審議を機に、クローズアップされた99条の「憲法尊重擁護義務」について、その実践のための具体的な提案も含めて、その重要性が本書では書かれています。(ちょっと斜め読みで受けた印象)

ところで、この本、開いてみるとちょっとびっくりします。最初に出てくるのが「はしがき」です。これは、「はじめに」や「まえがき」と同じような意味を持つ本の書き出しだと思います。ところがこの本では、この後に「前口上」、そして「序章」と続きます。「まえがき」とも思える部分が、こんな組み立てで出てくる本は、見たことがありません。と言っても私の少ない読書歴での感想にすぎませんが、ここでまず「秋葉さんらしいな」という印象を強く持たされます。その「前口上」「序章」がなぜ必要だったのかが、「はしがき」に書かれています。「なぜ、『数学書として読む』ことに意味があると思ったのか、それが『広島市長』とどう関わっているかについては『前口上―なぜ前広島市長が憲法を語るか』で説明したので、そちらをお読みいただけると幸いです。」ということです。そしてさらに「はしがき」を読み進むと「本書を読む順序」について記載されています。「論理的には最初から順番に読んでいただくことを想定しています。しかしながら、難しいかもしれないと危惧をお持ちの方は、第5章からはじめてみてください。その他、興味のある章から、始めてくださっても本筋はご理解いただけるでしょう。」となっています。ちなみに第5章のタイトルは「憲法は死刑を禁止している」となっています。そもそもこの章は、3章で構成される「第Ⅱ部 憲法は死刑を禁止している」の最終章として登場しています。

今のところ、ここまでぐらいしか読んでいませんので、これ以上のことは書けません。

秋葉代表委員の憲法論については、このブログでも何度か登場していますので、なじみがあると思います。ぜひ一人でも多くの人に読んでいただけることを期待します。

いのちとうとし

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2019年7月20日 (土)

「星は見ている」全滅した広島一中一年生父母の手記集

昨日のブログの続きです。国泰寺高校同窓会事務所を訪れた時、帰り際に、日本ブックエース発行の平和文庫の一冊として発行(2010年)された「星は見ている 全滅した広島一中一年生父母の手記集」を寄贈していただきました。「星は見ている」を読まれた方も多いと思います。今回私が寄贈を受けた本にはコピー印刷された小冊子が入れ込まれていました。市販されているものには、この小冊子は入っていないと思いますが、大切なことが書かれていますので、ここで紹介します。

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小冊子には、「『星は見ている』の再発行にあたってのお詫び」が記されています。そのお詫びの一部を掲載します。「原爆で死んだ県立広島第一中学校生徒の遺族により書かれた手記集『星は見ている』は、昭和二十九年八月に初版発行後、昭和五十九年十一月及び平成十七年七月に遺族により再版が行われ、さらに昨年、平成二十二年十二月に株式会社日本ブックエースにより初版本の再版が行われました。日本ブックエースによる再版においては、著作権の関係があり、阿部知二さん、石川達三さんら著名な方々十一人による読後感がカットされ、昭和五十九年及び平成十七年に再版した際に加筆された部分も加えられていないので、その部分をコピーしてお届けするのをお許しください」。確かに「平和文庫」版の最終ページには、小さな字で「読後感」が削除されたことが書かれています。しかし、再版時に加筆された四人の遺族の手記が、削除されたことは書かれていません。

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ところで、この本に記載されていることでちょっと気になること(犠牲者の数)があったので、それを調べようと広島市中央図書館に行ってきました。昭和二十九年、昭和五十九年、平成十七年発刊の三冊を比較して、少し新しいことがわかりました。「新しいこと」といってもすでに周知のことかもしれませんが、私にとっての新しいことです。

まず「読後感」のことです。「読後感」というのですから、当然再販以降に加えられたものだと勝手に考えていました。ところが初版となる「昭和29年発刊」のものにすでに「読後感」が掲載されているのです。これはどういうことなのでしょうか。よく読むと「はじめに」の末文にこう書かれています。「貧しいこの一巻のため身に余るお言葉の数々をお寄せ下さった諸先生に、心からお礼を申し上げる」と。ゲラか原文かを読んでいただき、感想をお願いされたのだなということが分かりました。そうであるなら、著作権の問題があったとしても、今回の発行(2010年)でも、そのまま載せればよかったのにと思います。

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もう一つの疑問は、「昭和五十9年及び平成十七年に再版した際加筆された部分」のことです。小冊子では、最初の再販(昭和五十九年版)から加筆されたように読み取れるので、その本と初版を比べてみたのですが、全く同じでした。実際に加筆されたのは、平成十七年版からです。この版は、広島の「フタバ図書」から出版されています。しかし、5編が加筆されたことは、どこにも記載がありませんので、気づかずに読み過ごしてしまいそうです。

加えられた5編のうち4編は、遺族の手記です。残りの1編は、遺族ではありませんが広島第一中学校在学中の校舎内で被爆しながら生存し、現在も証言活動を続けておられる兒玉光雄さんの手記が短い文章ですが掲載されています。確かに出版社には、シリーズ発行の場合、決められた編集方針があると思いますが、特に遺族や生き残った被爆者の貴重な手記が削除されたことは残念なことだと感じました。

私の書棚にも1冊あるはずですが、すぐに見つけることができません。どの判を所有しているのか、探すのが楽しみです。

次回(22日)には、広島一中の犠牲者数について、書こうと思っています。

いのちとうとし

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2019年7月 4日 (木)

在米被爆者―私も被爆者協会設立に関わりました(その2)

一昨日の続きです。

荒井さんが話されたことは、袖井さんの本にも「荒井さんから聞いた話」として詳しく書かれていますので、より正確にするため、ちょっと長いのですが本から引用します。

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「ハワイ生まれの三世ヒバクシャ アーネスト荒井(日本名は覚(さとる))氏の話によると『飲み友達をつくる』ということにあったという。被爆の後遺症は、酒を飲めばなおる、なおらないでも軽くなる。荒井氏の父親も体に斑点が出かけて死ぬ間際まで行ったが、一升酒を飲んだら元気になってまだ生きている、というのである(1976年夏現在の話)。酒の功徳はともかくとして、ヒバクシャ同士にしかわかりあえない問題を、集まって語ることによって、『異国』での生活も、少しは胸のつかえが降りるというものであったろう」。これからは、再び荒井さんの話です。そんな会話から、荒井さんの言葉によれば「クスリを飲む会」(薬は酒のこと)を開くということで、日本語新聞2紙に「つどいへの参加を呼びかける」広告を掲載したところ、20人ぐらいが集まったそうです。しかし、うち半数は女性だったようです。「同じきのこ雲の下で死に損なった連中でヤケ酒でも飲もう」(袖井さんの本から)というのが、そもそもの主旨だったようですが、荒井さんたちの思惑をこえて、参加者の半数が、女性では「飲む会」ではまずいので「友の会」を作ろうとなったと、荒井さんは話されました。ところが、帰宅して先に引用した袖井さんの本を開いたところ、そこに紹介された新聞広告には「広島・長崎原爆体験者の皆さま ここに二十周年目を迎えるにあたり、体験者のつどいとして仮称”体験者友の会”を組織したいと思いますので、・・・・」と記載されていますので、初めから会の名称としては「友の会」が予定されていたようです。今度荒井さんに会う機会があったら確認してみようと思います。

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ここからが本論とも言えますが、講座の会場で、荒井さんのこの話を聞きながら、思い出したのは私に原水禁運動の本質を教えていただいた大先輩の一人で被爆者の近藤幸四郎さんのことです。近藤さんとは忘れることのできない沢山の思い出がたくさんあります。特にお酒の付き合いは、数え切れないほどあります(何時も私の分は近藤さんが支払ってくれました)。その中でも忘れられないのが、毎年8月6日の夜、毎年のように電話で呼び出されて遅くまで飲み続けたことです。原水禁大会の行事が終了し、自宅に帰りゆっくりしようと思っているところに決まったようにかかってくる電話。「金子直ぐ出てこい」「疲れているから」といっても決して許されない電話でした。店に入ると近藤さんは必ず言いました。「酒を飲むことが俺の追悼なんだ。わかるかお前に」と。近藤さんには、忘れることのできない被爆体験があったのです。8月1日から建物疎開作業に従事していましたが、5日担任の先生から「君たち一年生はよく頑張った。疲れているのであす6日はゆっくり休め」と言い渡され、被爆死を免れたのです。代わりに作業した2年生、183人は全員死亡したのです。電話局で働いていたお兄さんは、ついに帰ってこず、遺品一つ見つかっていません。近藤さんの無茶な(といつも私が思っていた)8月6日が、「死に損なった連中でヤケ酒でも飲もう」という荒井さんたちの気持ちと共通するものなんだと、荒井さんの話を聞きながら、思い返されたのです。

今年もし近藤さんと一緒に8月6日の夜を迎えることができるとしたら、こんな話をしながら飲み屋さんをはしごするのにと、懐かしく思いながらも、もうそれは決して実現しない現実を思い知ることになった今回の講座でした。

いのちとうとし

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2019年7月 2日 (火)

在米被爆者―私も被爆者協会設立に関わりました

 「ヒロシマの再考察・外国人被爆者(非軍人)の第2回講座が、6月29日に実施されました。今回のテーマは、「在米・在ブラジル被爆者」で、講師はこれまで在外被爆者裁判に法学者の立場から支援してこられた広島大学名誉教授の田村和之先生でした。

田村先生の話は、1992年春頃に初めて在外被爆者に関わった経緯から始まり、世界各地に居住する広島・長崎原爆被爆者の状況の解説がありました。具体的な数字もありますので、ちょっと紹介しておきます。世界の約30カ国に3千数百人(2017年3月現在で厚生労働省の発表では3209人)の被爆者が確認されています。大まかな国別は、2015年に厚生労働省が行った「原子爆弾被爆者実態調査」(5年に1度国勢調査と合わせ実施)によれば、調査対象の3406人のうち2758人から回答があり、内訳は韓国2064人、アメリカ508人、ブラジル94人、カナダ25人、台湾11人、オーストラリア10人、その他46人となっているようです。もちろんここには、在朝(北朝鮮)被爆者の数は含まれていません。しかし、おおよその国別の被爆者の数は推測できえます。

田村せんせいの話は、これからが本題です。まず在米被爆者についての報告でした。①なぜアメリカに広島・長崎の被爆者がいるのか②被爆者のアメリカ社会における生活③在米被爆者の組織・運動についてでした。次に在ブラジル被爆者についてですが、これも同じように①なぜブラジルに被爆者がいるのか②ブラジルにおける被爆者の生活③在ブラジル被爆者の組織、運動について、わかり易く話されました。

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田村先生は、在米被爆者組織の活動について、袖井林二郎著「私たちは敵だったのか 在米被爆者の黙示録」(初刊は1978年 現在は岩波書店の同時代ライブラリー)と倉本寛治著「在米被爆者五十年 私とアメリカの被爆者」(1999年刊)を紹介しながら、在米被爆者協会が設立(1971年)以来の取り組みを話されました。興味を引いたのは、主要な取り組みです。一つは、「広島の医師に診てもらいたい!」という強い願望による「広島からの専門医の派遣」です。それは1977年に初めて実現することになります。もう一つが、アメリカ政府に対する要求でした。1972年10月以来、「ヒバクシャ医療援護法案」が提出されました。1974年5月のカルフォルニア州議会の公聴会が開催され、その最初の証言者は、この後紹介するアーネスト荒井さんでした。様々な経緯があった中で、その後開催された上院財務委員会の議員の討論の中で発せられたのが「彼らは敵国人だった。そのエミネー(敵)をどうして保護する必要があるのか」という厳しいものだったそうです。結果法案は、否決されましたが、それ以上に倉本さんたち被爆者に応えたのは、「エネミー」発言であり、そこにひそむ日本人への差別意識だったそうです。この時の経過や様子は、袖井さんの本「私たちは敵だったのか」に詳しく書かれています。もちろんすべてのアメリカ人がこうした考えだったわけではなかく、ヒバクシャを支援したくれた人たちもいたこともこの本には書かれています。田村先生の話を聞きながら、改めてかつてこの本を読んだ時のことを思い出しました。関心のある方は、ぜひ袖井さんの本を読んでください。

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実は今日書きたかったことは、このことではありません。書きたいことは、田村先生の講演が終わり質問の時間になった時のことです。参加者の一人がマイクを握り次のように切り出されました。「私は、袖井さんの本で、在米被爆者協会設立時の一人として紹介されている荒井です。」びっくりしました。在外被爆者問題を取り組んでいる時、倉本寛治さんとは何度かお会いしたことがあったのですが、まさかこの会場に他の当事者がおられるとは想像もできなかったことですから。「私は日系三世です。父と一緒にハワイに住んでいましたが、日本で教育を受けるということで戦争の始まる前、日本に帰っていました。小学校5年生の時、比治山橋の近くで被爆しました。そして21歳の時帰米しました」。話が続きました。いよいよ被爆者協会設立に至る経過に話が進み、私に強い関心を持たせる話が出てきました。

少し長くなりますので、つづきは、明日報告します。

いのちとうとし

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2019年6月12日 (水)

「被爆動員学徒の生きた時代」-職域被爆者組織の結成の経緯

先日、いつもお世話になっている被爆者から「小畑さんという人が、近藤幸四郎さんのことについて書かれた本があるそうですが、知っていますか。本の正式なタイトルと出版社名を教えていただけませんか?」と尋ねられ、「どうされたのですか。その本ならよく知っていますよ」と答えたところ、「在外被爆者のことも書かれているようなので、購入しようと思っているのです」。「私の手元に、数冊ありますので、贈呈しますよ。」こんなやり取りがあり、久しぶりにこの本を読み返しています。

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この本の正式なタイトルは「被爆動員学徒の生きた時代―広島の被爆者運動―」で、著者は小畑弘道さんで「近藤さんが残されたメモに被爆者運動関係の資料の一切を小生に託す」(本書のあとがきより)とされた人です。その小畑さんが、近藤さんが亡くなって5年後の2007年に近藤さんの一生をたどりながら、「被爆者たちがその折々にあたって当事者として邁進していくなかで直面した問題や思想として築き上げて来たものが何であったか知ろうとして」(これもあとがきより)まとめたものです。一人の被爆者が歩んできた歴史をたどりながらも、それにとどまらずむしろ被爆者運動の歴史をたどったともいえる中味になっています。私が何よりもこの本に惹かれるのは、被爆者運動の歴史を、近藤さんが常々言い続けていた視点からたどっているからです。

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右が近藤幸四郎さん、左は盟友の宮崎安男さん

この本では、原水禁運動について触れられている様々な書籍の中で全くといってよいほど触れられることのない被爆者運動について書かれています。それは本書の「Ⅳ 広島の運動から」の章の「一、職域に被爆者組織」です。近藤さんが当時働いていた電電公社(現在のNTT) の職場に、1968年10月結成された「全電通被爆者連絡協議会」を作るまでの経緯が書かれています。被爆者組織といえば、それまで地域組織のみでしたが、この当時相次いで職域の被爆者組織が結成されるようになりました。結成されるまでには、労組被爆者ごとに様々な経緯がありますが、全電通の職場にも特別の事情がありました。そのことを私も何度も近藤さんに聞いたことがありますが、ここではちょっと長くなりますが本の中から引用します。「1968年、全電通中国通信局分会執行委員だった(筆者注:私の労働運動もこの中国通信局分会執行委員がスタート)近藤は、夏期手当の差別問題で通信局側と交渉を続けていて、ある女性が異常に手当てが低いのに疑問を抱く。局側の答えは『上司にも黙ってよく休んでいる』。そこで近藤は本人にこっそり会い事情を聞いてみる。原爆に遭い肉親を失い、彼女自身、肝臓の機能障害や無力症候群で広島原爆病院に入退院を繰り返しており、被爆者であることが知れたら首になる、と深刻に悩んでいた。これは近藤にはショックなできごとであった。労働組合は毎年、8月6日を中心とした原水禁運動に参加し一定の役割を担っていたが、考えてみればその多くは、会場設営や警備、署名やカンパ活動などの『動員』にほかならず、最も身近な被爆者のことを置き去りにしていた。この女性のような悩みを抱えた被爆者はまだほかにもいるに違いない。何かしなければと思い立つ。」ここからが近藤さんの真骨頂。「結成準備会」を立ち上げ、最初に行ったのが被爆者がどれだけいるのかの調査。・・・しかし残念なことに、今こうした歴史が語られることはほとんどありません。

 

近藤幸四郎さんの運動の歩みには「国立原爆追悼祈念館」のことなど語らなければならないことが多すぎるほどありますが、近藤さんに教えられてことの中でも、私が学ばされたできないできごとの一つとなっています。そしてことは、私の原水禁運動の原点の一つでもあります。

いのちとうとし

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2019年6月11日 (火)

脱走兵の平和貢献 ――Elaine Sacrry (エレイン・スカーリー) 教授の講演から (1)――

カリフォルニア州のサンタ・バーバラ市に、「核時代平和財団」(英語名は、Nuclear Age Peace Foundation) と呼ばれる平和団体があります。1982年に、デービッド・クリーガー博士により設立されたNPOですが、この財団が最終目標として掲げているのは核兵器のない世界の実現です。

クリーガー博士は弁護士でもありますので、この財団の核兵器の廃絶のための活動には、法律面からのユニークなアプローチが特徴だと言っても良いでしょう。さらに、出来るだけ多くの人々に的確な情報を提供して、核廃絶のための声が大きくなる努力をしてきた事でも知られています。

その一環として、毎年この財団の本部で核廃絶のための運動で注目されている著名人を招待して講演会を開いています。今年のスピーカーはハーバード大学教授のElaine Scarry さんでした。2014年に『Thermonuclear Monarchy』(熱核兵器王朝)という著書が話題になったのですが、二回にわたって彼女の考えを紹介しておきたいと思います。

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クリーガー博士からのメールに添付されていたURLから、今年の5月9日の講演の様子をYouTubeのビデオで見ることが出来たのですが、その中には、今まで全く知らなかった情報も盛り込まれていました。まずはそれから取り上げます。

皆さんは、アメリカの南北戦争でリンカーン大統領の率いる南軍が、奴隷制度の維持を目指していた南軍に勝ったことは御存知だと思います。それでは、その理由は何だったのでしょうか。

一般的には、北と南の経済格差や技術格差が挙げられます。北軍に志願した黒人の兵士数が多かったことなども理由の一つだとも言われています。でも、スカーリー教授が挙げたのは脱走兵の数でした。通常の統計では、北軍は250万人の兵士の内、約20万人が脱走し、南軍では100万の兵士の内、約10万人が脱走したということになっているのですが、スカーリー教授によると、南軍の脱走兵は、25万人に上るのだそうです。これでは士気にも関わりますし、「戦力」という点からもどちらが勝つのかは時間の問題だったということになるでしょう。

しかも、脱走した理由の多くは、兵士たちがいなくなった家族の困窮だったということですから、これは最初の南北の経済格差とも連動しています。

ベトナム戦争でも多くの脱走兵が戦地を離れましたし、脱走兵の支援をするボランティア組織もべ平連との連携でできました。その後のイラク戦争等でも脱走兵の数の多さは、大きな問題になっています。

しかしながら、どの国の政府も脱走兵についての情報をできれば隠したいと考えていることも事実です。日本政府もその点では人後に落ちませんし、それを防ぐために戦陣訓を作り「生きて虜囚の辱めを受けず」といった大規模な洗脳作戦まで実行したのです。

さて、このことと各兵器とがどう結び付くのでしょうか。次回までに、皆さんにも考えてみて貰いたのですが。

[2019/6/1 イライザ]

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2019年4月19日 (金)

原民喜ゆかりの被爆柳-その3 原民喜旧詩碑-碑銘陶板

今月の6日、14日に掲載した「原民喜ゆかりの被爆柳」でいろいろとお世話になった竹原陽子さんから、今度は「原民喜旧詩碑」についての貴重な原稿を寄せていただきました。全文を掲載します。

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広島県立図書館の「原民喜旧詩碑―碑銘陶板―」について

「広島県立図書館に、原民喜詩碑の陶板が展示されていましたよ」そう金子哲夫さんから教えていただいたのは、2019年1月27日ネバダデーの座り込みのときでした。

現在、平和公園の原爆ドーム東側に建つ原民喜詩碑は、もともとは広島城址にありました。

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1951年3月に原民喜が鉄道自死し、民喜と親交の深かった作家丸岡明や碑の設計に当った建築家の谷口吉郎らが広島を訪れて詩碑建立の用地を探し歩き、広島城で、城壁が原爆に焼かれ変色し触るとぽろぽろと崩れるのをみて、「石が泣いている」といい、その地に決定したそうです。同年11月15日、民喜の生誕日に詩碑は建立、除幕されました。

詩碑の表面には、陶工加藤唐九郎の作、民喜の辞世の詩ともいえる「碑銘」を掘り込んだ陶板が嵌め込まれ、裏面は詩人佐藤春夫の署名入りの「詩碑の記」を刻んだ銅板が嵌め込まれていました。しかし、当時の朝鮮戦争による金属不足から裏面の銅板が盗まれ、表面の陶板も子どもたちの石投げの標的とされ、破損が激しくなり、1967年に現地に移設再建されました。

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県立図書館へ行くと、詩碑の陶板は、レファレンスなどを受け付けるカウンターの一角に展示されていました。重厚感のあるごつごつした赤茶色の陶板に無数の傷痕があり、中央に深い割れ目がみられます。

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この傷ついた詩碑に、作家たちは民喜の人生を重ねて見ていました。戦後の青春期に民喜と出会い、人生と文学に大きな影響を受けたという遠藤周作は「(原さんの人生らしい)とむしろ、これでいいのだ、と感じた」といい、中学時代からの親友であった長光太は、詩碑移設の話を聞いて、「原民喜の碑銘なら、その生身のように石うたれて、ぼろぼろになり何がなんだかわからなくなって、失せて行くほうがふさわしいのにな」というと詩人の草野心平も同意してくれた、と書いています。

 広島県立図書館へ行かれた際は、ぜひ原民喜の旧詩碑に会いにいってみてください。

 竹原陽子

―――――――――――――――――――――――――――――――――――

竹原さん、貴重の情報ありがとうございました。原民喜のことが、また身近になったような気がします。ぜひ多くの人が、県立図書館に行って、旧詩碑も見ていただきたいですね。もちろん、原爆ドーム東側に建つ詩碑も一度じっくり見てほしいと思います。

いのちとうとし

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2019年4月11日 (木)

ケネディー大統領と昭和天皇 ――30年前に生前退位を予言――

 

[皆様への御挨拶]

イライザ

 

昨年8月まで「ヒロシマの心を世界に」というタイトルで、ブログのお世話をしてきましたが、結局かなりの部分を私が書くことになってしまい、当初の目的とは大きくずれた展開になってしまいました。今回は、「新・ヒロシマの心を世界に」とタイトルを改め、「いのちとうとし」さんが編集の責任を負って下さって、新たな方向を目指します。

既にこのブログに登場した記事をお読み頂けると明らかですが、多士済々のライターの皆さんが、多様で素晴らしい内容をアップして下さっています。私も常連の一人として投稿させて頂きますが、毎月、1日、11日、21日の三日間が担当です。

身辺雑記やこちらにはそぐわない内容のエッセイは前のブログ「ヒロシマの心を世界に」の方に、不定期にアップしたいと思っていますので、そちらも宜しくお願いします。           

 

30年前に同僚から問われたのは》

1970年代から80年代にかけて、私はアメリカのボストン郊外にあるタフツ大学という私立大学で教鞭を取っていました。当時の数学科の同僚だったI教授に聞かれたことが切っ掛けになり、昭和天皇崩御について考え、その結果を1989年に三省堂の広報誌『ぶっくれっと』に寄稿しました。後に、三省堂から出版された『夜明けを待つ政治の季節に』の13章として再出版されたのですが、そのタイトルは「「象徴」の意味――ケネディー大統領と昭和天皇――」でした。今回、それを数回に分けてアップしたいのには、いくつかの理由があります。

一つは、1989年、現天皇即位の年に「生前退位」を予言していたことです。即位直後、あからさまにそんなことは言えませんので表現は抑えてありますが、私自身は確信に近い思いで執筆していたことを覚えています。

もう一つは、それが出発点になって、『前広島市長が読む 憲法と天皇』(数学書として憲法を読む)(仮)、という一書を恐らく7月になると思いますが、法政大学出版局から出して頂けることになりました。実は昨年の9月からこれまで、その執筆のための時間として有効に活用させて頂きました。7月上梓予定の新著の中で、上記のエッセイを序章として再掲します。以下、その1です。

 

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ケネディー大統領と昭和天皇(1)

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昭和天皇の亡くなった日、私は、天皇対日本人、ケネディー大統領対アメリカ人という2つの関係を対比しながら、天皇の象徴性、天皇の死の意味を考えている自分を発見した。

 

 《象徴としてのケネディー》

今でも、私と同世代のアメリカ人の多くにとって「あの時どこにいた」という問いはかなり限定された意味を持つ。「あの時」と聞いて、1963年11月22日、ジョン・F・ケネディー大統領が凶弾に倒れた日を頭に浮かべる人が多いからである。

今でも「あの時」が、ケネディー大統領の亡くなった日を意味するのは、この25年間に何度も同じ会話が繰り返されて来たからでもある。60年代の後半から70年代前半にかけてベトナム戦争反対運動が盛んだった頃には、特に頻繁だった。

私たち(とあえて書かせていただきたい。市民権は無いものの、私自身、アメリカの友人たちと共にボストンでベトナム戦争に反対していたのだから)にとって、ケネディー大統領の存在がそれほど大きかったということである。その意味をもう少し詳しく考えてみたい。

そもそも、ベトナム戦争を「始めた」のはケネディー大統領(以下JFKと略す)であり、私たちベトナム戦争に反対し、その中止を願っていた人間が、JFKを反対運動のシンボルとして持ち出すことは、論理的におかしいのである。にもかかわらず私たちは、JFKなら私たちの今の気持を分かってくれるはずだ、ベトナム和平への道を一緒に歩んでくれるはずだ、と信じていた。ベトナム戦争反対運動のリーダーの1人、ロバート・ケネディー上院議員と兄のジョン・ケネディーのイメージがだぶったこともその一因だが、JFKとアメリカ、そして世界、JFKと私たち若者、JFKと未来、といったような組み合わせで、私たち世代の人間はJFKに親近感を持ち、彼との一体感を持っていた。私たち若者はリーダーとしてのJFKに夢を託し、彼は私たちに多くの期待を持っていた。

だからこそ、彼の死が自分の肉親の死の如く、いや、まさに自分の死のように感じられたのである。それは同時に、JFKに託した私たちの夢が残っている限り、私たちが生き続ける限り彼が生きている、と信ずることでもあった。

「あの日君はどこに居たんだ」と問うことで私たちは「今でも」まだ夢を捨てていない自分と話し相手をお互いに確認しあい、「あの日」以後辿った道を振り返る。年を取ったなとも感じ、人の世の移り変わりの激しさにも改めて感慨を催す。この尺度で月日を測れば「ケネディー25年」とか「JFK25年」ということになる。

既にお分かりいただけたはずだが、私にとっては、JFKの方が昭和天皇より、はるかに近い存在であり、誇りを持って私たち世代の象徴だと言い切れる人物なのである。それを基にして考えると、戦争で惨々苦労しながらも年配の日本人が持ち続けている昭和天皇への「敬慕」の念も分るような気がする。私たちがケネディーのベトナム戦争における責任については寛容になるように、天皇の戦争責任については寛容になり、終戦における役割を高く評価する人がいても、その心情は分かるような気がする。ただし、政治的、歴史的、道義的等々の責任は、それとは別である。JFKのベトナム戦争に関しての責任の有無は、彼に対する好悪の感情を抜きにして事実を基に議論されるべきである。天皇の戦争責任についても同じことが言える。(1989年3月記。以下、次回4月21日)

[2019/4/11 イライザ]

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