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書籍・雑誌

2021年2月 9日 (火)

出雲の建物疎開

1月26日のブログ「広島被服支廠と出雲」(http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2021/01/post-17533b.html)で、島根県出雲市の建物疎開のことを次のように紹介しました。「終戦も近くなった7月9日には、島根県でも命令が出され、出雲市でも250戸の目標が立てられてようです。校名になっている『今市』は、出雲市の中心部、商店街が密集する地域の地名です。建物疎開の対象となったのは、この今市地区だと思います。完了目標は、8月20日だったようですので、実際に建物疎開作業がどこまで進んだのかわかりませんが、こんな田舎の都市にまで空襲の危険が迫っていたというのですから、戦争の継続などあり得なかったのです。この建物疎開が実際にどう進んだのかを、出雲在住の同級生に依頼し調べてもらうことにしました。」と。

同級生は、「ワン・ライン」という会社を立ち上げ、出雲市に拠点を置き、郷土出雲を紹介する本を中心に出版していますので、何か情報を持っているのではと思い、電話をしました。「建物疎開?調べて連絡するよ」との返事でしたが、すぐその日のうちに電話が入り「わが社で出した本に建物疎開のことを書いたものがあるので、そこをコピーして送るよ」との返事。翌日に、コピー2枚が入った封書が届きました。

出典は、ワン・ラインが、出雲市制50周年を記念して1992年に発行した写真集「出雲 思い出と飛躍」です。この本は、出版時に送ってもらっていましたので、わが家の書棚にありました。

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送られてきたコピーには、ページがきちんと映っていますので、写真集を開き確認しました。該当するページには、「戦火の陰に」のタイトルが付けられ、「戦死者の村葬」と「建物強制疎開」の様子が写真とともに掲載されています。「建物強制疎開」には、当時建物疎開の対象となった場所の地図が掲載されています。そこは、間違いなく、当時の出雲市の中心今市町です。

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右側は、現在の出雲市駅から250メートル北から始まり、現在の出雲市役所方面に230メートル余りが対象となっています。地図をよく見ると、ちょうどこのあたりから北側は道路が狭くなっていたため対象となったように思われます。左側は、上記の位置から東に280メートルほど離れた場所です。いずれも今市町の中心部です。ただ、これだけでは仮に空襲があった場合、どれだけの延焼を防ぐことができたかは、疑問です。地図の下側には、わかり難いのですが、建物疎開途中の街並みを写した写真も掲載されています。

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何時写した写真かわかりませんが、何故か軒先に日の丸の旗が出ているのが不思議です。

建物疎開の情報はこれだけでしたが、1ページ前のコピーも同封されていました。そのページには「銃後の守り」というタイトルが付けられ、3枚の写真が掲載されています。その3枚目は、「女学生も戦力」という見出しが付けられた、126日のブログで紹介した「被服支廠の学校工場」となった今市高等女学校の生徒の写真が掲載されています。

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解説文には「勤労奉仕などに励んでいた女学生も、19年には学校工場化要綱によって工員として働いた。この写真は、20年3月、今市高等女学校(現出雲高校)の卒業写真である。鉢巻きを締めモンペをはいて胸には住所・氏名・血液型を書いた名札を縫い付けている。彼女たちの青春も戦争の中にあった。」と書かれています。

解説にあるように「卒業写真」ですが、鉢巻き姿で映っているのにびっくりしました。学徒動員で作業中に原爆の犠牲となった女学生の集合写真を今までに何枚か見たことがありますが、鉢巻き姿で写った写真は見た記憶がありません。

鉢巻きの真ん中には、日の丸が描かれているように見えますが、よくよく見ると今市高等学校の校章(上の紋)だということがわかりました。卒業写真も鉢巻き姿ですので、毎日工場で働いている時も、鉢巻きを締めて作業をしていたことが想像できます。

Marks

「のどかな田舎だ」と思っていた出雲にも、戦争が身近にあったことを今回初めて知ることになりました。

いのちとうとし

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2021年2月 3日 (水)

旧日本軍朝鮮半島出身軍人・軍属死者名簿

昨年、宇品線の時刻表を調べるため県立図書館を訪れた時、目に入り気になっている本がありました。その本のタイトルは「旧日本軍朝鮮半島出身軍人・軍属死者名簿」です。気になった第一は、「この中に朝鮮半島出身の軍人・軍属で原爆の犠牲になった人の名前があるのではないか」ということでした。この本は、1346ページに及ぶ大冊です。一応ざーっと目を通したのですが、死亡日が「1945.8.6」となっている戦死者の名前をその時には見つけることができませんでした。

ずっと気になっていましたので、改めてこの名簿を調査するために県立図書館を訪れました。本当は借りて帰ってゆっくり調べたかったのですが、「貸出禁止」の本でしたので、館内で調べるしかありません。

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一人ひとり調べる前に、そもそもこの本は、どんな資料をもとに作成されたのかが気になったものですから、本の終わりの付された解説を読むことからはじめました。と言うのも、この本は「菊池英昭編」と、個人によって編集されたものだったからです。しかし、解説部分の冒頭に「『非徴用死亡者連盟簿』(韓国財務部)の特徴」と小見出しがついた一節があり、そこにはこの名簿作成の「元資料が何か」がきちんと記されていました。少し長いのですが、理解を深めるため大切だと思う部分を引用します。

「韓国政府は、1971年1月、日本政府に対し、日本国によって軍人・軍属に召集または徴用され、死亡した者の名簿の交付要請を行った。71年9月4日、日本政府は要請にこたえるため名簿を引き渡した。日本政府は、南朝鮮(原文のまま)に『名簿』を引き渡した後も、名簿の公開を拒絶してきた。現在この『名簿』は、韓国政府の『政府記録保存所』で電算入力作業を終え、ホームページ上で、名前、生年月日、本籍地、死亡場所を入力し、検索することができる。2万1692名分となっている(金哲秀『朝鮮人軍人・軍属死亡者名簿の分析』)。『被徴用死亡者名簿』を編集したのは、韓国政府財務部である。この『被徴用死亡者名簿』のもととなった資料は、日本国政府から韓国政府にわたされた。この資料の名前は『旧日本軍朝鮮半島出身者死亡者連名簿』と思われる。『被徴用死亡者連名簿』の各道の冒頭に、“旧日本軍朝鮮半島出身者死亡者連名簿”と表示されているからだ。」

この文章いよって、この本は、日本政府から渡された「旧日本軍朝鮮半島出身者死亡者連名簿」をもとに韓国政府が作成した「被徴用死亡者連名簿」を菊池さんが編集されたものだということがわかります。

その一部をコピーしました。

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見難いかもしれませんが、これを見ると、かなり詳細に一人ひとりの死亡状況を日本政府が把握していたことがわかります。別のページでは、死亡月日が、1946年になっている人もいますので、混乱の中でも日本政府が、記録していたことがわかります。朝鮮半島出身者に対する徴兵制が実施されたのは1944年からですから、当然のことですが、死亡時期は、1944年、45年となっています。この名簿を見れば、日本が、日本人の軍人・軍属に行った補償を朝鮮半島出身者にも行おうとすれば、すぐにでも実施が可能だということがわかります。

前置きが長くなりました。私が調べたかったことは、「広島に投下された原爆によって亡くなった朝鮮半島出身者が、この名簿の中に何人いるだろうか」ということでした。以前は、見つけることができなかったのですが、先に紹介した解説文の中ほどで「李鍝公殿下」の名前を見つけましたので、原爆犠牲者の名前が最低でも一人はあると思い、陸軍の8404名分を一人ひとり調べていきました。

名簿は、出身道毎(例えば、李鍝公は京畿道)に記載されていますので、丹念に探すしかありません。その結果、広島で原爆の犠牲となったことが明らかな人は、李鍝公を含めて7名でした。ただ李鍝公以外の名前は、全て創氏改名による日本名で記載されています。読みにくいかもしれませんが、上の資料の右から2番目の安村龍赫さんは、広島基町病院で亡くなっています。この部隊歩兵76連隊の他の兵士(左側につづく)は、「ミンダナオ島で死亡」となっていますので、病気か怪我治療中のため、広島基町病院に入院していた被爆したと考えられます。広島基町病院と記載されていますが、陸軍病院ではないかと思われます。「中国軍管区輜重補」には2名の名前があります。

7名の名前を見つけることができたのですが、「本当にこの7人だけだったのか?」「なぜこの7人の名前だけ残っているのか?」という新たな疑問が出てきます。少しでも原爆被害の実相にたどりつきたいと思ったのですが、その難しさを改め実感させられました。

一方で、わずかに7名かも知れませんが、軍人・軍属の犠牲者名簿の中に、原爆で犠牲になったことが明らかな名前が記されていることがわかりましたので、私がこだわっている日本人の軍人・軍属の原爆犠牲者の名前を明らかにできる資料があるのではないかという希望を持つこともできました。これからの課題です。

いのちとうとし

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2021年1月16日 (土)

稲岡宏蔵著「核被害の歴史 ヒロシマからフクシマまで」

13日に開催されて広島県原水禁常任理会で、このブログに毎月2回の原稿を寄せていただいている木原省治さんから一冊の本を薦められ、購入しました。

2020年12月31日に初版が発行された稲岡宏蔵著「核被害の歴史 ヒロシマからフクシマまで」です。

著者の稲岡さんは、毎年夏に開催される原水禁世界大会に大阪の仲間とともに参加されていますので、私も以前から知っています。原水禁大会広島大会では、いつも「ヒバクシャ」問題を取り上げる分科会に参加し、発言をされています。そして午後に開催される「ひろば『ヒバクを許さないつどい』」では、運営の役割を果たしてこられました。この「ヒバクを許さないつどい」は、稲岡さんたちの努力もあり、一昨年の被爆74周年原水禁大会で「Part20」(昨年は原水禁大会がオンラインとなったため開催できなかった)となるほど、継続して開催されています。

この本の「まえがき」には、びっくりすることが書かれていました。「昨2019年、被爆74周年原水禁世界大会から帰って間もなくの8月末、前頭葉に広がった悪性リンパ腫(眼)で急に倒れた。」

「核被害の歴史 ヒロシマからフクシマまで」は、373頁にも及ぶ大作です。まだ目次と一部の目を通しただけという状況ですから、この本の全てを紹介することはできませんので、ここでは、ちょっと気になったことを紹介したいと思います。

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本の帯には、次のように書かれています。表側には「被爆者をはじめ世界の人々は、核廃絶のためにどのように苦闘してきたのか」裏側には少し長文で「人類は、広島・長崎への原爆投下以来、何度も核戦争による破滅の危機に遭遇してきた。またビキニをはじめとする核実験やチェルノブイリやフクシマの原発事故は、甚大な被害と莫大なヒバクシャを新たに生み出してきた。本書は、ヒロシマからフクシマまで核時代の歴史の変遷の中で、核による『被害』と『人権』、『加害』と『責任』、具体的には、核被害者の人権と加害者の責任に焦点をあてて歴史を総括。(以下略)」と。

内容は、3部構成になっています。Ⅰの「原爆被害―人権と責任」では、被爆後から現在に至る運動の過程が要約されています。特に気がついたことは、国家補償の問題として「孫振斗裁判」と「石田原爆訴訟」が取り上げられていることと、労働組合内に結成された被爆者組織(例えば全電通被爆協)とその組織が果たしてきた役割が記載されていることです。類書の本では、触れられることのない運動の歴史です。この点で、原水禁運動の歴史を知るためには、良い教材と言えます。

Ⅱは「世界の核被害―グローバルな人権と責任」で、世界の核被害者、そして被曝線量論争などについて書かれています。ここでは、原水禁が取り組んできた「核被害者フォーラム」や「世界核被害者大会」のこともきちんと取り上げられていますので、この点でも参考になると思います。3部の中で、最もページが割かれているのが、Ⅲ「フクシマ核被害」です。稲岡さんがいま最も力を入れて取り組んでいる課題が、フクシマの被曝問題だからだと想像できます。

巻末には、「核時代の変遷と反核平和運動」の年表が付けられています。著者が「運動については筆者の周辺、関西にかなり偏っており」と断り書きを書いていますが、運動にも焦点をあてた良い年表だと思います。

と書いてきましたが、一つ気になったことがあります。「おわりに」に書かれた次のくだりです。「原発の重大事故は、核兵器と人類は共存できないだけではなく原発も人類とは共存できないことを示してきた。運動の発展が示すように、原水禁運動のスローガン『核と人類は共存できない』の核には当然、核兵器だけでなく原発・核燃料サイクルも含まれるべきである」(アンダーラインは、いのちとうとし)

この本に付された年表にもあるように、森瀧市郎先生が、「核と人類は共存できない」と最初に提唱されたのは、1975年の原水禁世界大会です。森瀧先生がいわれた「核」には、稲岡さんが言う「原発・核燃料サイクル」も含まれているどころか、ウランの採掘から始まる全ての核社会が入っているのです。そのことを改めて強調したいと思います。

繰り返すようですが、この本には他の類書にはない視点が多く盛り込まれており、定価が少し高い(税抜き3600円)のですが、一読に値すると思います。

いのちとうとし

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2020年12月29日 (火)

山野上純夫著「ヒロシマを生きて 被爆記者の回想」を読む

毎日新聞の広島版に、2017年(平成29年)10月7日から今年2020年8月7日まで68回にわたって連載された毎日新聞終身名誉職員の肩書を持つ山野上純夫さんの「ヒロシマを生きて 被爆記者の回想が、一冊の本となって出版されました。何回かの記事を読んでいましたので、連載終了後はまとまって出版されればよいなと思っていましたので、この本を紹介する12月1日付の毎日新聞広島版のその記事を見つけ、すぐに注文しました。

この連載記事のスタートを後押しされた当時の毎日新聞広島支局長の戸田栄さんは、連載の開始にあたり次のように記載されています。「広島での旧制中学時代に原爆に遭遇し、後の本社入社後は広島支局で復興期の取材をした山野上純夫氏とは、私が昨年春まで務めた広島支局長時代に知り合った。私が原爆で死亡した広島支局員の記録を調べ、連載記事にした際、激励と助言を受けた。当時から、山野上氏の被爆体験や広島での取材の逸話などを書いてもらいたいと考えており、ようやく実現した。」

その後に、山野上さんの経歴が書かれています。「1929年生れ。5歳の時に広島へ一家で移り住み、42年に広島高等師範学校付属中に入学。戦後の広島大を卒業し、53年に本社に入社した。学生時代のアルバイトを含め、52~59年、広島支局で働く。84年に本紙を定年退職後、宗教担当の編集委員としての実績を評価されて京都の宗教専門紙に入社。・・・現在京都市に在住」

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連載の第1回は、「授業中の被爆 校舎倒壊 同級生が即死 爆心地から1.4キロ、当時16歳」の見出しで、自らの被爆体験が綴られています。以降、「ヒロシマを通じて出会った人々から学んだことを思いつくまま」に記されたのです。例えば、佐々木禎子さんにまつわる話も「サダコの周辺」のタイトルで、6回にわたって記述されています。当時、新聞記事としては書けなかったことも記述されているように思いますので、貴重な資料と言えます。

実は、私は10年ほど前から山野上さんを知っていました。きっかけは、ドイツ・ポツダムの「ヒロシマ・ナガサキ広場」の慰霊碑建立を通じて知り合うことになったドイツ在住の被爆者外林(そとばやし)秀人さんと同級生だった山野上さんから連絡があったからです。「ヒロシマを生きて」の第6回からの3回は、外林さんのことが書かれていますが、その第8回「妹同士涙の交流 独に慰霊碑建てた友 死後、級友遺族の消息不明」では、私の名前も登場します。

と書きだすときりが無い程、この本は、盛りだくさんの内容が書かれています。私が初めて知るヒロシマも多く書かれていますので、機会を改めて紹介したいと思います。

ヒロシマを知る貴重な内容が書かれていますので、多くの人に読んでほしいのですが、簡単に入手することができません。この本が出版できたのは、山野上さんの広島高等師範学校付属中の3年後輩の一人で、あの日、同校の近くで被爆して家族3人を失った高知在住の植野克彦さんの「体験を次世代に伝えたい」との申し出と費用負担があったからです。ですから、印刷部数は500部です。

植野克彦さん(旧制中澤)と山野上さんとの69年ぶりの再会の様子は第37回(2019年1月18日掲載)「友の消息求め① 同期会で69年後再開 母が発見、高知へ連れ帰る」に詳しく書かれています。意識不明の大やけどを負った植野さんは、母に奇跡的に発見され、母の郷里の高知へ引き上げ高知で活躍されたそうですが、広島では長い間消息が不明だったようです。その二人が再開したのが、被爆から69年経った2014年1月に開催された同期会だったのです。植野さんは「私たちの被爆体験を広く知ってもらうためにも、ぜひ残したい」と山野上さんと連絡を取り、自費で出版することにされたのです。しかし本の奥付には、「私家版」という文字と「著者山野上純夫」と書かれているだけで、植野さんの名前は、どこにも記載されていません。

注文から数日後に届いた「ヒロシマを生きて 被爆記者の回想」の入ったレターパックには、植野さんの手紙が同封されていました。こう書かれていました。「元来販売する心積もりはなかったのですが、広く、且、関心のある方に読んでいただける方法として、100部販売することにしたのです。反響が大きく対応に追われている状況です」。その後、戸田栄さんからのメールで知ったのですが、100部を希望者に提供することになったのは、戸田さんの強い勧めもあったようです。

私の植野さんへの注文は電話でした。その電話で「原水禁の運動に関わっている」ことや「外林さんとのこと」を話したからでしょう、届いたレターパックには、書籍と手紙の他に植野さん自身に関わる新聞記事のコピーがたくさん同封されていました。そのほとんどは、植野さんの被爆体験に関わる記事でしたが、「安保法制違憲訴訟」の原告として頑張っていることや外林さんことが書かれた新聞記事もありましたので、植野さんのことも身近に感ずることができました。

植野さんは、毎年8月6日の式典に参加するため広島に来ておられる(今年は欠席)ようですので、来年の来広時には、お会いして直接お話を聞くことを楽しみにしています。

いのちとうとし

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2020年12月28日 (月)

「呉市広町の昭和史」発刊―広郷土史研究会

12月の中旬、中国新聞に、呉市広の「広郷土史研究会」が、これまでの研究成果をまとめた「呉市広町の昭和史」を発刊したという記事が掲載されました。

早速、事務局に電話を入れ、送本していただきました。翌日には私の手元に届きました。

同封された「ご案内」によれば、広郷土史研究会は、「終戦直後、米国占領政策が落ち着いた昭和24年に当時、広村時代の元助役、神谷伊津造によって設立されました。終戦後、何もかも不足する中で、教育によって地域を立て直そうと公会堂前の『教育第一』の石碑の前で、第一回広地区教育祭を行い現在も続いています。この教育第一の考えを学ぶため広郷土史研究会を続けたのです。(中略)広郷土史研究会は、その思いを引き継ぎ現在も活動しています」と、設立の経緯が記載されています。長い歴史を持つ研究会のようです。

実は、私はこの研究会のことを数年前から知っていました。というのは、かつての職場(NTTデータ)の友人が、OB会の時にこの研究会のことを話してくれていたからです。

と前置きが長くなったのですが、新聞記事を読んで私が注文しようと思ったのは、友人から聞いていたこともありますが、その新聞記事には、「呉市広町の昭和史」には、戦前に呉市広にあった「広海軍工廠の歴史」が記載され、その中には「女子挺身隊や学徒動員の歴史」「学徒動員の体験記」が掲載されていると紹介されていたからです。この「学徒動員」の言葉が気になったのです。

「広海軍工廠に派遣された学徒動員」については、10月4日付のブログ「なぜ益田高等女学校の生徒は被爆しなければならなかったのか」(http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2020/10/post-b8ef53.html)で、少し紹介していたからです。その日のブログの主題は、島根県の益田市にあった益田高等女学校の生徒が被爆することになった経緯でますが、最初に学徒動員された場所が、この呉市広の「広海軍工廠」だったことを書いています。その時から、広海軍工廠に動員された益田高等女学校の生徒について、もう少し何か知る手がかりはないだろうかと思っていましたので、「呉市広町の昭和史」の発刊を知り、すぐに注文したのです。

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届くとすぐに、関連すると思われる個所を調べてみました。関連する章は2つあります。

その一つは、「8.広海軍工廠・第十一海軍航空廠女子挺身隊」の章です。ここに書かれているのは、廣村立廣実科博治塚高等女学校の生徒たちに関わる研究結果だけです。次の「9.学徒動員生の体験手記」には、7人の体験手記が掲載されています。ちょっと期待をしました。しかし、広高等女学校以外の学校名は、広島県内の庄原市の尋常高等小学校卒業の徴用工、可部高等女学校の学徒動員、私立婦徳高等女学校(熊野町に設立された学校:いのちとうとし注)の学徒動員、芸陽高等女学校(豊田郡中野村、現大崎上島町:いのちとうとし注)卒業の女子挺身隊の名前が出ているだけです。

結局今回入手した「呉市広町の昭和史」には、残念ながら期待した益田高等女学校の学徒動員に関わる記事を見つけることはできませんでした。

広島原爆戦災誌を調べていて気になっていたことを今回も感ずることになりました。軍都広島、軍港の街呉(広を含む)には、軍事関連施設が多くあっただけに、広島県外からも学徒動員によって派遣されていた生徒がいたはずなのに、その記録は、どこにも見つけることができないということです。敗戦が色濃くなった時期に、軍事関連施設で働くため県外から動員された人々、特に生徒たちの歴史が、どこにも記載されていないのは何故だろう、この歴史を掘り起こすことは大切な仕事のはずだということを改めて考えさせられました。

いのちとうとし

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2020年12月26日 (土)

「生まれた時から被爆者」の出版

母親のおなかの中で原爆に遭った被爆者たちの組織「原爆胎内被爆者全国連絡会」が、被爆75周年の節目に発刊するため準備してきた証言集「生まれた時から被爆者~胎内被爆者の想い、次世代に託すもの」が、12月25日日付で発行されました。

原爆胎内被爆者全国連絡会が、証言集を発行したのは、2015年の「被爆70年に想う」に続き2回目です。私も、連絡会のメンバーで編集委員の一人である岡純児さんから紹介を受け、入手しました。

最も若い被爆者、生まれた時から被爆者と言われている胎内被爆者の証言を集めようと全国に呼びかけ、埼玉、東京、岐阜、長崎、沖縄など広島を含め15都府県から、前回の15編を大きく上回る42編(当初の目標は50編)の体験記が集まっています。うち広島は21人から寄せられています。

原爆投下直後の家族の体験や、病気や差別に苦しんだ自身の半生、核兵器廃絶に向けた活動など、「いのち、くらし、こころ」に何らかの被害を受けている胎内被爆者の生きてきた証が、自由に率直に語られています。

この体験記の冒頭には、胎内被爆者のうちでも、最も若い被爆者と言われている「原爆小頭症被爆者」について書かれた証言5編が掲載されています。多くは、「原爆小頭症被爆者」とその家族を支援してきた人たちの手記ですが、その中に母親戸田ユキエさんの手記「私と娘の被爆体験記」があります。この体験記は、1987年7月頃原爆被害者相談員の会の「ヒバクシャ」第20号に掲載されたものの転載ですが、心を打つ内容です。筆者の戸田さんは、5年前94歳で亡くなられてそうですが、残された娘さんは、74歳となった現在も作業所に通所され、ディサービスを利用されているそうです。

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胎内被爆者は、母親の胎内で被爆した人たちで、広島の場合は1946年5月31日までに生まれた人が、被爆者健康手帳の交付対象となっており、被爆者健康手帳の区分では、4号被爆者となっています。「最も若い被爆者」と言われる胎内被爆者数は、2020年3月末現在全国6879人(うち広島市内は2,422人)で、一年前よりちょうど100人少なくなっています。その内、原爆小頭症手当の受給者は、17人で昨年より1名減っています。

ちなみに被爆者(被爆者健康手帳取得者)全体の数は、2020年3月末現在で全国136,682人(うち広島市44,836人)で、前年から比べると9,162人減少しています。

少し気になりましたので、被爆者全体に占める胎内被爆者()の比率を調べてみました。10年前と比較しようと思ったのですが、手元に12年前(2008年3月末)の資料しかありませんので、この二つを比較してみました。

胎内被爆者が、被爆者全体に占める割合は、12年前は3.5%でしたが、今年3月末では5.4%と1.9%増大しています。胎内被爆者の比率が増大しているのは当然の結果ではありますが、被爆者の高齢化が進む中、胎内被爆者が果たすべき役割への期待は、ますます大きくなっているといえます。

今回の証言集「生まれた時から被爆者~胎内被爆者の想い、次世代に託すもの」の発刊を機に、活動が広がることが期待されます。

いのちとうとし

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2020年12月18日 (金)

『82年生まれ、キム・ジヨン』

2016年に韓国で出版されたベストセラー小説です。2018年に日本版が刊行されました。結婚、出産を機に仕事を辞めて、家事育児に忙しくしていたキム・ジヨンが、ある日他人が乗り移ったような言動をはじめるというところから始まります。

キム・ジヨンは、父方の祖母と両親、二歳年上の姉、五歳違いの弟と一緒に暮らしていました。温かいご飯の配膳される順番は男の子からと決まっている。女の子が生まれると謝らないといけない。一家をもり立てるのは男の子であり、それが一家の幸せであるということなど、キム・ジヨンが生まれて、学生時代、就職までの様々な性差別や不平等さが書かれています。

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韓国の話ではあるけれども、日本もあまり変わらないと感じる場面があります。

学生時代のことが書かれている部分では、学校給食の場面があります。ランチルームで出席番号順に配膳されるのですが、出席番号は男子が先になっているため、いつも食べる時間が遅くなり叱られるのは女子です。不公平だと感じながら,それを言っていいのか悩んだ末、自分の思いを伝えることで順番が変わったところなどを読むと、「おかしい」と思ったことをはっきり口に出して主張することで物事が変わっていくのだということを改めて感じました。

理由なく区別されることの生きにくさや不平等さに気づき、おかしいと思えば声をあげていかなくては何も変わらないとも思いました。

今年、映画化もされているみたいなのですが、小説とは少し内容が違うようではあります。中国地方での上映はまだされていないようですが、見る機会があればみたいと思っています。

M.I

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2020年12月17日 (木)

山内正之著「大久野島の歴史―三度も戦争に利用され 地図から消された島」

過日、大久野島から平和と環境を考える会代表の山内正之さんから、今月3日発行の自著「大久野島の歴史―三度も戦争に利用され 地図から消された島」が届きました。

山内さんは、夫婦で23年前から「大久野島の毒ガスの歴史を伝える活動」を続けておられます。

この本には、「謹呈」と書かれた山内さんの手紙が添えられていました。この本の出版への思いが綴られていますので、少し長くなりますが、引用します。

「何時も、お世話になっております。この度、明治から今日にいたる大久野島の歴史を紹介した『大久野島の歴史』を出版しましたので謹呈させていただきます。ご一読いただければ幸いです。

今まで、明治から現代まで、『大久野島の歴史』として一冊にまとめた本はありませんでしたので、体験者から聞かせて頂いた証言やボランティアガイドとして23年間、大久野島に通い続けて学んだことを含めて、大久野島の歴史としてまとめました。

戦争に利用された明治から昭和の時代、第2次世界大戦後から令和の時代への大久野島の歩みを紹介します。大久野島の歴史を学ぶ入門書として読んでいただけることを期待して作成しました。

御承知のように、大久野島の防空壕跡にはまだ毒ガス弾が埋設されたままです。大久野島の毒ガス被害者も、中国の毒ガス被害者も現在もなお、毒ガス被害で苦しんでおられます。また、1996年頃にはヒ素による島内の環境汚染が明らかになるなど、大久野島は現在も、戦争の影響を残しています。大久野島の戦争の歴史はまだ、現在進行形と言えます。

『前事不忘 后事之師』、これからも頑張って、大久野島の歴史を次世代に伝えていかなければならないと思います。」

これまで「地図から消された島」など、多くの大久野島について書かれた本が出版されましたが、長い歴史をまとめたものは、この本が初めてだと思います。また本のサブタイトルにあるように「毒ガス加害・被害の歴史」の両側面から語られた本です。

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山内さんは、「入門書として読んでいただければ」と書かれていますが、巻頭の写真資料や目次を読んだだけでもその内容の豊富さを知ることができます。本文中にも写真がふんだんに使われていますので、より理解が深まると思います。

特に後半(全体の半分)で、戦後の歴史が詳しく紹介されているのが特徴だと思います。添付された「資料編大久野島の毒ガス関連年表」も、1890年(明治23年)に「呉憲兵隊忠海文献事務を開始」から始まり、2017年の「4月シリア内戦でアサド政権側が毒ガス兵器を使用したとしてアメリカ軍がシリアの化学兵器貯蔵施設などをミサイルで報復攻撃」まで、丹念に調べて記載されています。また、毒ガスを製造した側、毒ガス被害を受けた中国人、それぞれ2人ずつの「毒ガスに関わる証言」も収録されていますので、ここを読むだけでも価値があると思います。

近年大久野島は、「兎と触れあうことのできる島」として多くの観光客が訪れていますが、このことにも山内さんは「まえがき」で次のように触れています。「兎に触れ合うために訪れた人たちも、この島で毒ガスを製造していた時代、この島では兎がたくさん飼育され、毒ガスの効力を確かめるための動物実験として使用され、多くの兎たちの命が奪われた悲しい歴史があることを知らない人が多い。現在の兎たちは戦争中、実験用に飼われていた兎たちの子孫ではありません。」

数年前、甥の子どもを連れて大久野島を訪れた時には、残念ながらこの話は全く頭にも浮ばなかったが思い出されます。

もう一つ、この本を手にして思い出したことがあります。原水禁世界大会で「加害の歴史に学ぼう」という企画を立案し、大久野島を訪れる「戦争とヒロシマバスツアー」を始めたことです。資料で確認できたのは被爆49周年(1994年)原水禁大会が最初ですが、企画した私の記憶では、その数年前だったように思います。数年前というのは、「戦争とヒロシマバスツアー」にはもう一つ、広島市内を回るコースがあったからです。大久野島を訪れるコースは、毎年すぐに予約でいっぱいになったのですが、市内を巡るコースは、参加者が少なく2回ほどで中止にしました。被爆49周年原水禁大会報告集には、市内のコースが記載されていませんので、数年前から始めたことは間違いありません。

大久野島を訪れるバスツアーは、竹原のみなさんの協力で今も続いています。

この本は、個人出版として発刊されたものですが、一人でも多くの人に読んでほしい本です。

いのちとうとし

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2020年11月25日 (水)

荻野晃也さんが残した『科学者の社会的責任を問う』

親しく付き合いをさせて頂いていた荻野晃也さん、今年6月29日、80歳で逝去されました。死期を予想しながらペンを走らせ、亡くなられた後、8月30日に遺稿として緑風出版から出された『科学者の社会的責任を問う』(定価2500円+税)という著書があります。

 頼まれた訳ではないのですが、この本の書評を書いていました。反原発新聞の11月号に掲載させていただきました。ぜひ皆さんにお勧めです。


 本の題名だけでは、見るからに難しいなあーという感じがしていた。しかし実生活や実践から書かれたものは違う。引き込まれるような読みやすさと、荻野さんの人物考察に興味を持った。

日本人のノーベル賞受賞者も多くなると、その名前を憶えていることは不可能だが、最初に物理学賞を受賞した湯川秀樹さんくらいは、なんとなく「すごい人」だと誇りに思っているだろう。

荻野さんも湯川秀樹博士に憧れて京大理学部に学んだ。しかし戦後、湯川博士は核兵器廃絶を訴えながらも、なぜ原発問題には「沈黙」していたのか。湯川博士の授業を受けながら、そのことに疑問を持ち「何故だろう」と自分自身にも問うてしまう。そこが何とも興味深かった。しかしそのことをズバーと言わないのが荻野さんの品性の良さか。

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そして四国電力伊方原発訴訟(1973年提訴、92年最高裁が住民側上告を棄却)の、特別補佐人として加わり、原発の危険性を50年間訴え続けた。この部分に登場されている人は、ほとんど私自身も知り合いだったから、とてもリアルであった。

広島との関わりの中では、1974年から放映されたNHK連続テレビ小説の「鳩子の海」、主人公の鳩子が、原爆に遭い記憶を失い孤児になり、成人して原研(日本原子力研究所)に勤める男と結婚しそして離婚するというストーリィである。この時代は、原子力発電の最盛期でもある。荻野さんの、この当たりのウラ話的な背景の話しはとても面白かった。「鳩子の海」といえば、上関原発建設計画のある山口県熊毛郡上関町の観光シンボルでもある。

この時代はなんといっても「平和利用」の最盛期時代。荻野さんは、そんな中でも反対を貫く「反骨精神」で、最後まで講師として定年退職された。定年後は「電磁波の危険性なら荻野」とまで形容されるほどの研究者として、電磁波の健康リスク問題では多くの本も書かれた。

今年6月に3年間のがんとの闘いの末、80歳で亡くなられた。地元の京都新聞は『末期がんの病床で原稿を校正した赤鉛筆。手の力が弱まり何度も落としたが、拾えるようにヒモを付けてある』と写真を入りの記事を載せた。

今年1月17日広島高等裁判所は、山口県民らが求めていた、伊方原発3号機の運転差し止め請求を認める仮処分決定をおこなった。この知らせを病床で受けた荻野さんは、とても喜んでおられたと思う。

「科学者の社会的責任」、荻野さんから私たちが引き継がなくてはならない。


木原省治

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2020年11月11日 (水)

憲法を、文字通り、素直に読んでみませんか・その2 ――『数学書として憲法を読む』で伝えたかったこと――

憲法を、文字通り、素直に読んでみませんか・その2

――『数学書として憲法を読む』で伝えたかったこと――

 

 このブログで10月1日に問題提起したのは、日本の子どもたちの多くが、「国に対する責任を持ちたくない」というよりは、「自分が何をしても社会は変らない」と諦めてしまっているのではないかということでした。9月27日のエントリー「ドイツから見た日本の内閣」中、ドイツ在住の福本まさおさんによる問題提起に、私なりの視点で答えてみたかったからです。

それは、『法学セミナー』9月号に「論説」として掲載して貰った拙稿の一部を引用したものでしたが、是非その全体をお読み頂きたく、前回は、論説の最初の約3分の1だけ引用しました。憲法を「数学書として読む」とはどのような読み方なのかの解説と、裁判所の判例や通説・定説では、99条の憲法遵守義務が、「法的義務」ではなく「道徳的要請」だと解釈されているという問題点についても言及しました。

今回は、その続きですが、論説の中心部分でもあります。

 

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『法学セミナー』2020年9月号62ページから69ページまでの内、64ページから69ページまで。

 

  1. 憲法の否定は許されない

99条の解釈については、「置換禁止律」違反だけでなく、憲法全体で「義務」という概念がどのような位置を占めているのか、そしてそれが誰に課されているのかという点からも、二つの重要な問題が生じている。

一つは、校則であっても、数学の公理系であっても、ある一定のルールを定めた「体系」がある場合、その存在意義を損なわないために最低限必要なことは、その体系中のルールを「守る」というメタ・ルールが存在することである。「義務」を「道徳的要請」に薄めてしまっては、例えば、校則の最後に、「これを守るかどうかは道徳的要請なので、拘束力はありません」と付け加えるのと同等の意味になってしまう。つまり、論理的には、その体系の存在そのものを否定することになる。裁判所の判決が憲法を否定してしまうことは、当然、許されない。

次に、義務が課せられている対象に注目しよう。対象は、二つある。一つは「天皇」、もう一つは「公務員」である。最初に「公務員」を取り上げよう。99条によって義務を負わされている公務員が、自らの義務について、「それは義務ではなく道徳的要請だ」と言って責任を回避することは許されないはずだ。

「法の支配」とは、言葉の意味を尊重し論理的な推論によって得た結論によって合意を形成し、また権力の行使を許された公務員は、それを濫用しないためのルールに縛られて仕事をするという枠組に依存する。その枠組が機能するためには、公務員に負わされた「義務」が義務として機能しなくてはならない。その「義務」の意味を希釈することは、「法の支配」という枠組の中に「力の支配」を持ち込むことになるからだ。これも論理的には、憲法の否定だと考えられる。

安倍政権の言動はじめ、現実の政治の世界には、その結果としか考えられない多くの事例がある。これらについては『数学書』の「付論2」を参照されたい。

次に、「義務」を課されているもう一つの対象、天皇について考えよう。『数学書』でも論じたように、この中で、天皇に課されている「義務」を判決も通定説も無視してしまっているのは、理解に苦しむだけでなく、憲法における天皇の位置付けという視点からも問題である。それも一因となって、天皇に関するいわゆる憲法論は、実は憲法とは関係のない歴史や伝統、政治的イデオロギーについての議論として行われる傾向があって、空回りしているきらいがある。この点については、稿を改めて論じたいが、「天皇に課された義務」をその通り読むことで次のような結論に至ることだけは指摘しておきたい。

何より、憲法上の天皇の位置付けが明確になる。それは、99条からの論理的帰結として、天皇には「憲法の守護者」としての役割が与えられているということである。以下その結論の要点である。(拙著のIV部に相当する)

  • 「憲法遵守義務」は国事行為ではなく、「義務」である。天皇に関するすべての行為を「国事行為」だと決め付けるのではなく、天皇についての規定を天皇の権利と義務という形に論理的に整理し直すべきである。
  • 仮に、天皇が99条違反をして、憲法に従わなかった場合には、天皇はその地位を剥奪される。
  • 公務員、特に内閣が憲法違反を犯した場合にも、内閣が憲法を遵守している場合にも、天皇には、それとは独立した形で憲法を守る義務があり、またその義務を果す上では内閣の助言や承認は必要ではない。
  • つまり、天皇の存在そのものが、内閣と公務員が憲法を遵守しなくてはならないというメッセージの発信をしており、また憲法そのものの人間的具現化になっている。

憲法では、天皇について、このように明確な姿を描いている。それを全く無視してしまっているこれまでの憲法論は、憲法の持つ素晴らしさの大きな側面を生かしていないと言って良いだろう。

 

  1. 憲法は死刑を禁止している

 憲法を「論理的に読む」ことから、比較的簡単に得られる結論の一つを、『数学書』では「定理A」と呼んだ。それは、「憲法は死刑を禁止している」という命題である。憲法12条、13条、25条のそれぞれが、独立した形で死刑を禁止している。しかし、昭和23年の最高裁判所の判決 ( 「判決」と略す) は、死刑が合憲だと述べている。(最大判昭和23年3月12日 刑集2巻3号191頁)。これも明確に「憲法マジック」である。以下、憲法12条、13条、そして25条に続いて、 [定理A]を証明する。

 

12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。(以下略)

 

13条 すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 

25条 すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。(以下略)

 

  1. [定理A]の証明

これら三つの条文から、独立に[定理A]が導かれるので、そのうちの一つ、25条を取り上げて証明する。他の二条についても同様の議論が成り立つ。

25条では、「生活を営む権利」が保障されている。「生活」とは、生きている人間が日常的な活動をすることを意味する。その際に、「生きている」という前提がないと、条文の意味がなくなってしまう。さらに、25条は 「公共の福祉に反しない限り」という例外規定にも縛られていない。

  25条の (そして12条、13条も)、主体は「国民」である。その中には犯罪を犯した人も含まれている。その人に死刑が科されるかどうかの判断にもこれら三つの条文が関わってくる。さて、仮に国家が、犯罪者に対して死刑を執行したとしよう。その行為は許されるのだろうか。

第25条については、「最低限度の」という限定的な条件が付けられてはいるものの、「生活」は「生活」である。生きていなくては生活できないことは自明であり、その「生」を奪うことは「生活を営む権利」の侵害であり、25条違反だ。

その他の条文からも同様な結論が得られ(*)、憲法は少なくとも3か条においてそれぞれ別の立場から明確に死刑を禁止していることになる。Q.E.D (**)

 

(*)13条の例外規定については、『数学書』の第四章を参照のこと。

(**)Q.E.D. とは、ラテン語のQuod Erat Demonstrandum(かく示された)の略で、多くの数学書では、証明が終ったことを示す記号として使われている。

 

かくして、死刑については、素直に字義通りかつ論理的に憲法を読む立場と、最高裁判所による確定判決という立場から、それぞれ正反対の結論が出てきた。では、どちらを採用すべきなのだろうか。

通常の法的枠組を尊重すれば、当然「判決」が最終的判断になる。となると、死刑が合憲であることに疑いの余地はなくなる。同時に、憲法を字義通りに、そして「論理的に」読むこともゆるがせにできない。

その視点から、[定理A]の証明と「判決」とを比較しておこう。 [定理A]の証明は今お読み頂いた通りで、簡単明瞭である。そして、死刑が違憲であるという「証明」は、誰が証明しても、誰がその趣旨を説明してもその結果や論理的筋道には全く影響がない。小学生がこの証明を掲げて、その正当性を訴えられることにこそこの立場の強さがあると言って良いだろう。それは、この「証明」が純粋に客観的存在だからである。

このように、誰にでも分る形で死刑が禁止されていることを憲法は示しているのだから、それとは正反対の結論を主張する側からは、最低限、何故、[定理A]の証明をそのまま認めることができないのかを、論理的に説明する義務があるのではないだろうか。これは今からでも遅くはない。

 

  1. 最高裁判決の問題点

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最高裁による昭和23年の死刑についての判決の、要の部分を引用しておこう。

もし公共の福祉という基本的原則に反する場合には,生命に対する国民の権利といえども立法上制限乃至剥奪されることを当然予想しているものといわねばならぬ。そしてさらに,憲法第31条によれば,国民個人の生命の尊貴といえども,法律の定める適理の手続によつて,これを奪う刑罰を科せられることが,明かに定められている。すなわち憲法は,現代多数の文化国家におけると同様に,刑罰として死刑の存置を想定し,これを是認したものと解すべきである。

詳細は『数学書』の第5章をお読み頂きたいのだが、この「判決」の推論には、論理的には穴がある。一つには、13条で使われている「公共の福祉に反しない限り」を必要条件ではなく十分条件として扱っている点である。そして、この字句を、論理通りに必要条件と読んだ場合には、それに続いて吟味されるべき可能性の全てについての場合を尽さずに、死刑を「当然予想している」という結論になってしまっているからだ。31条における「適法の手続き」も、必要条件を十分条件と読み換えている点で、同様の非論理性が問題だ。

となると、「判決」の持つ力は、論理とか説得力によるものではなく、最高裁という「権威」に依存していると考えざるを得ない。これを、確定していない地方裁判所の判決である場合や裁判所以外の場、たとえば国会における議員の発言や、閣議決定、または学界における専門家の発言等と比較しても、最高裁の判決であるという事実は決定的な意味を持つ。

我が国の法的枠組が、憲法を出発点として、三権分立の原則に従って、また法的な整備を重ねた結果として機能してきたことを蔑ろにするつもりはないが、こうした積み重ねも、より広い立場で俯瞰すると人間による知的営為の一部だ。知的営為の一部としての正当性から考えると、ある命題を主張する主体によってその説得力が変るものと、つまり「権威」があるかどうかが判断基準の一部になるものと、どのような主体が主張してもその説得力には変わりのないものとの間で、どちらを採用すべきかと問われれば、それは客観性において優れている方だという答になるのではないだろうか。

 

  1. 自衛隊は違憲である

次に、多くの子どもたちが憲法を学ぶ際に遭遇する「憲法マジック」とその結果、生じるジレンマとフラストレーションから見て行こう。私たちの世代がそうだったのだが、子どもたちが小学生として初めて憲法を読むとき、関心を持つ条文の一つが9条であることは言うまでもない。そして、改めて条文を読むと、自衛隊が憲法違反であることは明白である。また、現実に存在する自衛隊が、「陸海空軍その他の戦力」であることは誰でも知っている。しかし、憲法では持ってはいけないことになっているのだから、立派な「憲法マジック」だ。念のために条文を掲げておこう。

第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

      2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

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以下、10月1日の引用につながるのですが、出来ればその部分を再度お読み下さい。下線をクリックするとそのページに飛びますので。

 

[2020/11/11 イライザ]

 

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