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書籍・雑誌

2020年6月10日 (水)

柴原洋一さんの「原発の断りかた」の書評を書いた

 三重県伊勢市に住む長年の同志である柴原洋一さんから、今年2月22日に発刊された「原発の断りかた ぼくの芦浜闘争記」が送られてきました。

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 2月22日は今から20年前のこの日、37年間続いた中部電力の芦浜原発建設計画が実質的に撤回された日です。この日を記念して出版されたのです。

 その著書の書評を書きました。


改めて運動の原点を感じさせてくれた

昨年の10月頃だったと記憶しているが、柴原さんから「上関原発の反対運動は37年だよね。芦浜は計画から37年で止めることができたが、上関は来年になったら38年、全国で一番長い反対運動になるね」という電話をもらった。

この時、僕は柴原さんの言葉に『上関の人たちはどんな状況?頑張ってください。応援していますよ』という激励の意味とともに、芦浜が「(上関より)勝った」という自慢心を聞かされたような少々のヤキモチ心を思った。

だいたいに本を読むペースの遅い僕だけど、本書はまさにイッキという感じで読み終えた。文中にある人たちが、私たちの大きな活動の課題となっている、山口県の上関原発を止めるために闘っている(いた)、あの人この人というように重なってきた。

37年間というのは、本当に長い年月である。芦浜計画が起こらねば、豊かな海と恵まれた自然、緩やかな人間関係の中で、こんな経験をすることなく生きてこられたと思われるが、それを一変させたのが原発だ。推進派の人が亡くなればこちらが一つ増えたと感じ、子どもが転んでケガをしても推進か反対かで対応が変わってくる。小さな子ども仲間でも、相手側の人に「バカ」といい「死ね」といったという。こんな現実が原発現地にあるということを、リアルな感覚で想像できるだろうか。それも37年間もの間続いたということを。

芦浜と同様のことが上関の中でも起こっている。一般的に私たちは人を見ると男性だとか女性だとか、若いとかお年寄りというように見るものだが、上関では「推進」「反対」という判断が最初の区別だ。それは親子、兄弟という身近な人間関係の中でも起こる。規模の小さい地域社会の中では、これはまさに「残酷」という言葉以外にない。

芦浜原発は2000年2月22日に、当時の知事が三重県議会の場で「(計画は)白紙に戻すべきであります」という表明で、実質的な撤回となった。

反対運動の37年間、撤回からの20年間、合わせれば今年は57年間という年月である。しかし地元の人たちの間には、今でも、推進・反対の立場の人たちのわだかまりは解消されていないという。

計画の白紙撤回を求める発言の中で北川正恭知事は、「長年にわたって苦しみ、日常生活にも大きな影響を…」の部分で一瞬、声を詰まらせたという。そして撤回が決まった翌日に、地元で歯科医院をしながら反対運動を取組んでいた人の元に、警察の機動隊の人から電話があった。その機動隊員は「今から私は機動隊の〇〇ではありません。尾鷲(おわせ)の一漁師の息子として、ひとこと言わせていただきます。ありがとうございました」と。この2か所の部分では私も涙ぐんだ。

芦浜原発反対闘争は大きく1963年から4年間の第一回戦と、1984年からの第二回戦に分けられが、第一回戦に闘いの先頭にいた漁業者の「25人衆」といわれた方は全員鬼籍に入られたという。37年の歴史は長い、しかし人の生命に限界があるのは当然だ。上関でも「ふる里を原発の、放射能の町といわれたくない。孫子の世代に原発を残したくない」というある意味、とても単純で明確な思いで、一生を終えた方は数多い

柴原さんが『ぼく』という視点で書かれているのが、現地にピッタリの感覚を持ちながらも、自分は地元の人間ではないという立ち位置で、自らの役割りをしっかりと担っているという感覚は素晴らしいと思う。そう意味からも本物の闘争記録となっているのだろう。

この『ぼく』という言葉、本人に伝えれば怒られるかも知れないが、柴原さんの天性の楽観的な性格と、周りの人たちが信頼と尊敬の思いで何でも話せる(話す)人間性が現れているように感じとるのである。

中部電力も中国電力も省略すれば「中電」である。文中で多く使われている中電という言葉と、柴原さんの『ぼく』とが、私・木原省治の『僕』と重なり僕も頑張らねばというパワーを与えて貰った。

何年か前、柴原さんの案内で芦浜現地を訪ねたことがある。一つの山を上がり、少し下ったところで再び山道になり、そして芦浜の海岸に降りた。限りない広大な太平洋がそこにあった。

島が点在している瀬戸内の海では見られない姿に、感動したものだ。もう一度、芦浜の海を訪ねてみたい。本書を読みながら、そういう思いが強くなった。


 この本の出版社は月兎舎(げっとしゃ) 定価は1500円+税で

連絡先は516-0002 三重県伊勢市馬瀬町638-3

電話:0596-35-0556 FAX:0596-35-0566    です。

木原省治

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2020年6月 7日 (日)

被服支廠に想いを寄せて

広島市南区出汐にある旧広島陸軍被服支廠は、昨年12月に解体案が出され、議論を呼んだ被爆建物です。安全対策などの問題もありますが、被爆の実相を伝える生証人として、一部保存と言わず、全棟保存するべきだと思います。

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思えばこの被爆建物との最初の出会いは、小学6年生の時、教室で担任の机の後ろに平和教育教材「ヒロシマ平和カレンダー」が何気に掛けられてあり、なんとなく勝手に触ってどんどんページをめくっていたら、突き当たりました。爆風でひん曲がった鉄製扉はインパクトが絶大で、しばらくカレンダーをつかんだまま眺めていました。ちなみに当時のクラスの担任は、特に平和教育をするというわけでなく、一人佇んで見入っている私を奇異な目で見ていたと思います。

その後、高校は広島皆実高校へ進学すると、学校のすぐ隣に建っているのを発見しました。まさかあの時のカレンダーで見たものが、高校の真横にあるとは・・・。最初は驚愕しましたが、毎日高校へ通っている内に、そこにあるのが当たり前になり、風景となっていきました。

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いつまでも当たり前に建っているのだと思い込み、高校を卒業しました。そのまま年月が流れ、ここに来て解体・一部保存と、このような大きな動きになるとは、当時思ってもみませんでした。何としても全棟保存に向けてほしいと思います。

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平和カレンダーは子ども向けの平和教育教材としてお勧め教材です。広島県教育用品(株)発行・販売で、現在私はこの会社の関連組織に勤務していますが、なぜか気になってカレンダーをずっと一人で見入っていたのも、何か幼き日の自分が将来を感じ取った運命的なものを感じます。

http://www.hipe.jp/calender/calenderindex.html

Mumei

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2020年3月28日 (土)

プライドPRIDE共生への道~私とヒロシマ~

李実根さんのご遺体に高天原の火葬場まで同行し、最後のお別れをしました。今、帰宅しすぐに李実根さんが、自らの信念を貫いて生きてこられた人生を振り返った著書「プライドPRIDE共生への道~私とヒロシマ~」を開いているところです。

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この本を改めて手にしようと思ったのは、昨日の李さんの葬儀で「お勤め」を務めた吉川徹忍さんが、御文章「白骨の章」を拝読した後、葬儀では珍しいことですが、自分と李さんとのかかわりを話す中で、この本(PRIDE)の最初に載っている「プロローグ 三歳の日の銀杏の木」のエピソード(李さんが三歳だったころ、息子の自立を願ってお母さんが「暁雲寺」という浄土真宗のお寺に預けられたこと)を紹介したからです。

表紙をめくった見開きのページには「謝 2006年10月30日 李実根」のサインが入っています。奥付にある発行日は「初版 2006年7月28日初版第一冊」となっていますので、私の蔵書は、出版記念会で参加者全員に配布されたものだと思われます。

第一章は、「父と母」「日本の子どもとして生きる」「被爆」と生い立ちから被爆者となるまでが綴られています。その中には、軍国教育と差別の中で生きてきた少年時代の苦い思い出も書かれています。第二章、第三章では、戦後の混乱期の中で体験した刑務所生活など、波乱万丈の人生が綴られています。

そして第4章からは、私たちがよく知る李実根さんの後半生が登場します。1961年から始まった朝鮮総連役員としての組織づくりを中心とした活動。そうした活動をへながら、いよいよ本格的な被爆者の組織作りが始まり、1975年8月2日の「広島県朝鮮人被爆者協議会」の発足へと発展します。李さんは、結成の意味を「PRIDE」の中にこう書いています。「唯一の被爆国、唯一の被爆者論が展開された時期に、『唯一の被爆国』は正しくとも『唯一の被爆者論』は間違っているという認識から産声を上げた朝被協の結成は歴史的に大きな意義があった。日本人だけが唯一の被爆者ではない。罪もないのに被爆したたくさんの朝鮮人。その朝鮮人たちが立ち上がったことを世界に向けて宣言したのだ」と。そして大事なことは、「宣言した」だけでなく、77年にかけて在広朝鮮人被爆者の実態調査が実施されたことです。その実態調査には、李さんも書かれていますが、日本の青年や学生の協力がありました。この協力を得ることができたのも、李さんの人脈の広さがあったからです。

そうした活動が、次のステップ、朝鮮人の被爆体験集「白いチョゴリの被爆者」の発刊へとつながっていきます。「PRIDE」には、当時著名な作家だった松本清張さんへの「序文」の依頼の様子も詳しく書かれています。それも、これも李さんの行動力とそれを支えようとする多くの人たちが周りにいたからできたことが分かります。

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葬儀で上映されたDVDの最後の写真

その後の李さんの活躍ぶりは、多くのところで紹介されていますので、ここでは省略しますが、どうしても触れておきたいことがあります。それは、出版記念会で配布された本には、A4のコピー用紙6ページほどの資料が、半分に折って挟み込まれていたことです。資料のタイトルは「日本の戦争責任を問う」です。出版と同じ年の7月16日に開催された「原爆投下を裁く国民民衆法廷・広島」での李さんの「特別証言」が、全文掲載されています。

きっと、李さんが「PRIDE」の中で書ききれなかった過去の歴史と日本の戦争責任についての考え方を、この「特別証言」を通じて訴えたかったためだと想像できます。多くの人の目に触れた欲しい文章です。

最後の紹介ですが、「エピローグ」の中で李さんと原水禁とのかかわりについて書かれています。「当時は社会党系の原水禁や被団協からの支援が多く、中でも故森瀧市郎先生や宮崎安男さん、故近藤幸四郎さんといった人たちが、積極的に応援してくれた。特に70年代の終わりから80年代にかけては、常に原水禁運動の中で大小問わず、様々な会合や学習会、講演会などに参加させてもらった」と。

通夜、葬儀で上映されたDVDの締めくくりは、慰霊碑前で座り込みをする李さんの姿でした。私はそれを見ながら、原水禁との縁の深さを感じました。李さんと原水禁との歴史をもう一度思い起こし、李さんの運動の歴史から改めて私たちも学びなおしたいと思っています。

いのととうとし

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2020年3月 7日 (土)

「原爆ドームと楮山ヒロ子」の発刊

先日中国新聞で、表題の本の出版を知り、連絡先となっていた寺田正弘さんに、メールで購入方法を問い合わせました。「数日後に市内に出ますので、その時直接お渡ししますよ」と返事があり、約束に日時に市役所の市民ロビーで待ち合わせをしました。

購入したいと強く思ったのは、二つの理由からです。一つは、原爆ドーム保存運動のきっかけともいえる役割を果たした楮山ヒロ子さんのことをもっとよく知りたかったからです。もう一つの理由は、「折鶴の会」を世話人として支えてこられた河本一郎さんのことが紹介されていると記載されていたからです。

約束の時間に広島市役所の市民ロビーでお会いした寺田さん。私は当初、本を受け取るだけと思っていましたが、いろいろな話を伺うことができました。開口一番「私は、楮山さんの中学校時代の同級生なんです。当時の安芸郡府中中学校時代同級生三人が協力して、この本を出版したんですよ」

続けて「この本を出そうと思った目的は、『原爆の子の像』のモデルとなった佐々木禎子さんに比べて楮山ヒロ子は知名度も低いし彼女に関する資料が皆無に等しいことが分かりました。今や原爆ドームは世界遺産に登録されており各国から多数の観光客並びに世界の惨禍を学ぼうとする人たちが訪れてみていくピースメモリアムになっています。その原爆ドーム保存運動に大きな役割を果たした楮山ヒロ子の資料を残したかったのです」。本の「あとがき」にも記載されていることです。

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「あの痛ましい産業奨励館だけが、恐るべき原爆を後世に訴えてくれるだろう」と8月6日の日記に書き、原爆ドーム保存募金の呼びかけに大きな役割を果たした楮山ヒロ子さん。

目次を読んでいくと同級生だった楮山ヒロ子さんへの三人の思いが直接伝わる項目があります。「なぜ佐々木禎子のように名が広がらなかったのか」です。その原因として、当時の広島市以外の地域(隣町の府中町ですら)での被爆問題への関心の低さがあったことなど佐々木禎子さんのおかれていた環境との大きな違いがあったことが、同級生だからこそ書ける文章で紹介されています。

もう一つ、この本を手にして改めて知らされたことがあります。佐々木禎子さんは爆心地より1.6kmで被爆、楮山ヒロ子さんは1.25knの地点で被爆。二人とも、外傷もなく身体の異常も見られませんでした。しかし、佐々木さんは、小学校6年生のとき「骨髄性白血病」を発症し、入院。8か月後に命を失っていますが、楮山さんは、白血病が悪化して緊急入院してわずか6日後には死去。享年16歳6カ月。(本文より)楮山さんが、発症後本当に短い時間で命を失ったことが分かりました。

もう一つの関心であった河本一郎さんについては、かつての「折鶴の会」のメンバーと河本一郎さんを支えてこられた黒瀬真一郎さん(現広島YMCA理事長、当時は広島女学院理事長)へのインタビュー記事によって、エピソードを含めてその人となりが紹介されています。初めて知ることも多く、河本さんと一緒の活動した人たちの話には、興味が深まります。

最後に、寺田さんが、「一人でも多くの人に楮山ヒロ子を知ってほしいと思ってこの本を発刊しました」と繰り返し話されていたことを、特に強調しおきたいと思います。

ぜひご一読ください。

いのちとうとし

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2020年2月16日 (日)

切明千枝子「ヒロシマを生き抜いて」

昨日の碑めぐりガイドで紹介した自治労大阪交通労働組合のみなさんは、その前日(12日)、切明千枝子さんの被爆体験を聞きました。切明さんの証言は、当初1時間余りの予定だったようですが、2時間近くに及んだそうです。

切明千枝子さんには、原水禁も2015年の「被爆70周年原水爆禁止世界大会広島大会」の開会総会での「被爆者の訴え」を行っていただいたことがありますが、短時間の訴えながら、参加者が深い感銘を受けたことを思い出します。

その切明さんの被爆体験集「切明千枝子『ヒロシマを生き抜いて』」を最近入手しました。この体験集は、足立修一弁護士が代表を務める「ノーモア・ヒバクシャ継承センター広島」が、数回にわたる聞き取りをまとめて昨年(2019年)12月に発刊したものです。

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表紙の絵は、切明さんが描いた「ドクダミ」です。絵解きがあります。「のちに母は『ドクダミが一番効いたのよ。』と話していましたから、私は今でも自分の庭にはびこるドクダミを抜く気にはなれないのです。」

切明さんの被爆体験を聞いたことのある方は記憶されていると思いますが、切明さんのお話は「被爆体験」にとどまらず、被爆前の体験(この本では、「第1章 私の十五年戦争」)に力が込められています。

数年前ですが、私の出身小学校・出雲市立高松小学校の修学旅行生に、切明さんが被爆体験を語られることを知り、会場で子どもたちと一緒にお話を聞かせていただいたことがあります。学校の都合で体験を聞く会場への到着が大幅に遅れ、切明さんのお話は「前段の戦争体験」のところで時間切れになってしまったことがあります。その時、切明さんにとって、戦争前の体験を語ることがどんなに大切なことかを痛感させられました。

この本の最後に切明さんの伝言が載っています。「『平和』はじっと待っていても来てくれません。力を尽くして、引き寄せ、つかみ取り、みんなで懸命に守らないと、逃げてしまいます。」(2019年11月20日)

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編集後記には「『15年戦争』ともいえる軍国教育の真っただ中で成長し、15歳の時に原子爆弾の被害者となりました。」「日々被爆体験の証言を続け、若い世代に『あの戦争を絶対に繰り返してはいけない』と訴えています。」と書かれています。

切明さんのお話しの特徴は、「被爆体験」は勿論ですが、まさに原爆投下につながる「戦争」への道、とりわけ軍都としての廣島の歩みをきちんと語られることです。そして90才を超えた切明さん(1929年生れ)の記憶力の良さにも驚かされますが。

この本は、第1章につづき「第2章 私の被爆体験」「第3章 敗戦」「第4章 青春群像」の4章から成り立っていますが、そのいずれも切明さんの熱い思いがあふれています。そして戦後の歩みを語る「第4章」も特徴的と言えます。

各章の後には、証言の中に出てくる「言葉」や「人名」の「解説」が付けられており、理解しやすくなっています。

ところで、この体験集の発刊に大きな役割を果たしたのが「盈進中学高等学校ヒューマンライツ部」の若い人たちです。1年半にわたって集団作業が続いたようです。若い担い手が加わることによって、より一層「何を継承するのか」が鮮明となったように思います。

この「盈進中学高等学校ヒューマンライツ部」のみなさんが、坪井直さんや森滝春子さんの話をまとめる作業などを通じて、反核運動に熱心に取り組んでいることは知っていたのですが、先日思いがけない場所(「ハンセン病問題に関するシンポジウム」)で、まさに「ヒューマンライツ」の取り組みを進めていることを知ることになりました。詳細は、別の機会に譲りますが、それは「ハンセン病問題にまなぶ」活動です。

発行元である「ノーモア・ヒバクシャ継承センター広島」では、初版の残部が少なくなり、再版を予定しているようです。ぜひ、一人でも多くの人に読んでいただきたいと思います。問い合わせ先は、h.conveyrelay.c@gmail.comです。

いのちとうとし

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2020年2月 1日 (土)

無い物ねだり

日本の政治は地に堕ちてしまった、と書いても、もう聞き飽きた言葉を繰り返すなという反応が戻って来るだけなのかもしれません。でもこの酷さを改めて羅列して、その原因を確定した上で、政治と社会全体を健全にして行かなくてはなりません。

政治の酷さを一番良く示しているのが総理大臣の発する様々な言葉です。総理大臣の国会答弁や記者会見は見るのも聞くのも苦痛です。総理大臣だけでなく、他の大臣もその代りに答弁に立つ役人の答弁も、テレビで映される勉強会での発言等々でも、日本語らしき言葉が繰り出されますが、それらの言葉には意味がありません。意味の代りに、「官僚的」という言葉が悪い意味で伝えている特徴を備えています。つまり、権力を擁護し真実を隠し、真実の追求から「言い逃れる」ための論理性を持つ詭弁なのです。そして、それでも間に合わないほどの追求に遭うと、大切なことには「ダンマリ」で通すことになるのです。これらの結果として、喋っている人たちが人間であることさえ疑うような薄っぺらな「言語紛い」の代物であることしか伝わってこないのです。

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最近では、それより低次元の対応が目立ち、それさえも市民権を得ようとしています。たとえば、公職選挙法違反の疑いを賭けられた国会議員たちは、「言語紛い」の音声による「説明らしき」ものを公にすることすら拒否して、「雲隠れ」をするのが常套手段になりました。そんな国会議員を当選させるために、(総理大臣としてではない)自民党総裁は1億5千万円も使って、何のお咎めもないどころか、「違法ではない」と開き直っているのです。

こうした状態を作っているのは、日本という国家を代表する大臣や政治家、そして官僚たちですから、それらの人々の言動を、「国家の言動」と呼んでも良いはずです。そこで思い出すのが、藤原正彦著の『国家の品格』です。

現在の安倍政権ほど、「品格」に似付かわしくない存在はないと言っても過言ではないでしょう。さらに、『国家の品格』が説いている「惻隠の情」とか「もののあはれ」と最も距離のあるのが、総理大臣の言説であり、それに阿る官僚たちの姿勢でしょう。

実は、『国家の品格』には、品格を取り戻すための処方箋が示されています。それは、新渡戸稲造の『武士道』です。でも、その処方が効果的でなかったことは、現在の安倍政治の酷さで証明済みです。そもそも『武士道』を読んでその内容通りの行いをするという考え方はなかったのではないでしょうか。

では、その代りに、安倍政治を作り支えて来た人たちは何を頼りに自分たちの言動を律してきたのでしょうか。それが明治憲法であり、教育勅語や軍人勅諭等であることは、改めて指摘するまでもないでしょう。自民党の改憲草案を見れば明らかです。とは言え、我が国は法治国家です。現行の憲法が気に食わないからと言って、平気で憲法違反をしたり、憲法の精神に背くようなことはできないはずです。事実、憲法の99条には憲法遵守義務が掲げられています。改めて引用しておきましょう。

第99条  天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

さらに、15条の2項では、政治家を含む公務員が全ての人のために仕事をしなくてはならない旨の規定があります。それも引用しましょう。

第15条  (略)

2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

こうした規定があるにもかかわらず、最初に指摘したような酷い「言語紛い」の音声による政治が跳梁跋扈しているのは、裁判所の確定判決そして学説によって、99条が「法的義務」ではなく、「道徳的要請」であると解釈されていることが最大の原因なのではないかと思います。

本ブログでも取り上げてきましたが、『数学書として憲法を読む--前広島市長の憲法・天皇論』には、詳しい説明がありますので、是非読んでみて下さい。

[2020/2/1 イライザ]

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2020年1月19日 (日)

幟町国民学校―二人の被爆体験記(その2)

いよいよ二人の被爆体験です。

二人が、夜の防空壕掘りや街の橋々での夜間警備を終え、幟町国民学校の臨時兵舎に帰っている時に原爆が投下されます。

直登さんの日記です。「一度警戒警報が出たのでくつ下をはきゲートルだけでしてねむった。9時頃でもあったろうか、大きな爆発音に夢を破られて目をひらくと、ものすごい勢いで天井の木材や瓦が顔の上に落下してきた。戦友の中によろよろ多立ち上がった者もいるが、皆顔面を真っ赤に染めている。自分も生暖かい血が額から流れ落ちるのがわかった」。9時ころという時間が目を引きます。

私が興味を持ったのはその次に書かれていることです。「中国新聞社の四階目あたりが猛烈に燃え上がっている。」その後に、その後の直登さんの行動の様子が続きますが、同じ情景が、堤さんの被爆体験記にも書かれています。「またまた警戒警報が発令された。いつでも出動できるよう準備して仮眠せよとのことで、私服のままゲートルを巻き、小銃とごぼう剣の位置を確かめて横になった。・・・」。右手首が大きなはりに挟まって抜けなくなったところを京谷君の助けで手を抜くことができことが記された後、「腰の痛みを我慢しながら、崩れた校舎の瓦礫の上に立つと、土色の空にオレンジ色の太陽がぶきみにみえた。周囲が薄暗く、中国新聞社の四階あたりが猛烈に燃えていた」と書かれています。

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中国新聞社の火災が、強烈に目に入ったのか、くしくも二人の体験記に同じように記載されています。当時の中国新聞社は、現在の広島三越に建っていましたが、幟町国民学校からはわずかに150mという近距離ですから、強く印象に残ったものと思われます。

堤さんの体験記では、そのすぐ後に四國直登さんが登場します。「見回すと、建物は倒壊して方々で火の手が上がっており、人影はまばらである。勤務先の友人、四國直登君が顔面より血を流し、呆然と立っていた。『オーイ、大丈夫か』と言うと『足をやられた』と言う。校庭の方に降りていく姿が痛々しく、まことに気の毒だった。」

直登さんの日記では、堤さんの名前は出てきませんが「左足の裏を見れば材木でブチ割られてどくどく血を吹き出している。藤原が布切れを腿に巻き付け棒切れ通して締めつけてくれたが、血は止まらない。ひとまず校庭に出る。」しかし、6日の夕方の情景で堤さんの名前が登場します。「4時頃かも知れぬ。『四國!』と呼ぶのでひょいとふり返って見れば、堤、中尾両友なり。両友は今から歩いて帰るという。」

二人の体験記を読むと不思議な思いに駆られます。しかし、ここで再び分かれた二人がまた再会することが、堤さんの体験記に書かれています。翌日、堤さんは部隊と連絡を取るため大正橋まで出かけるのですが、その帰り道でまた直登さんと出会うのです。「また顔と足にケガした四國直登君に会ったので声をかけた。『オーイ、どうしたんヤー。まだ家に帰っとらんのカー』『ホーヨ、足が痛うてノー、昨夜は橋のたもとで野宿したのヨー』『ホーカー、苦労したノー。よしワシが送ったロー』」こんな会話を交わした後、堤さんに送られて直登さんは自宅に帰ります。再び体験記から。「大河町の彼の家まで送った。彼の家も爆風で屋根が落ち、かなり壊れていた。四國君ともこれが最後になった。」

この出会いは、直登さんの7日の日記にも出てきます。「大正橋まで帰り、出会った川手の昇さんと話していたら堤がいたので、自転車の荷台に乗せて家まではこんでもらう。少し破損しただけですんだわが家へ帰りついた。嬉しくて泣きたいようだった。」

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大正橋は、猿猴川にかかる上流から4番目の橋です。西岸のたもとには、原爆慰霊碑が立っています。堤さんの体験記は、被爆後50年の1995年に書かれたもののようですが、直登さんの日記と一致する記載に、あまりにも強すぎる体験と記憶の確かさを感じ、少しびっくりします。

直登さんの日記は、8月27日を最後にして途絶えます。その日の夜半、苦悶の末、18歳の生涯を閉じたのです。

また新たな事実を感じることのできた、二人の体験記でした。

いのちとうとし

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2020年1月18日 (土)

幟町国民学校―二人の被爆体験記(その1)

今日は、今月2日のブログ「元日の平和公園」で紹介した「企画展『時を超えた兄弟の対話』」に関わる二人の被爆体験記を紹介したいと思います。被爆体験記といっても四國直登さんは当時の日記、新潟の被爆者・堤武博さんは、文字どおり体験記です。堤さんの体験記は、3日のブログ「ヒロシマ 空白の被爆75年」でも一部紹介していますが、今日は被爆時の状況について、二つの体験記を比べながら少し詳しく見てみたいと思います。

四國直登さんは、1945年7月9日に「警備召集」を受け、翌10日に幟町国民学校にある臨時兵舎に行き、その日から防空壕掘りなどの任務に就きます。堤さんが所属する中国第32037部隊です。

堤さんは、新潟の被爆者としていますが、1927年(昭和2年)広島市段原東浦町生れ、日本製鋼所広島製作所に入社し、同じ職場で働いてきた直登さんと同じように警備召集を受け、同じ部隊に所属し、幟町国民学校で被爆。軍隊所属というのですから、20歳を超えていると思いがちですが、二人とも同じ年の生れで、17歳と18歳です。堤さんは、同社で退職まで働き、その後娘さんと同居するため新潟に転居されています。

堤さんの体験記で、当時の兵隊の様子を知ることができます。「7月27日、勤務先から帰ると、三度目の警備召集令状のハガキが来ていた。『堤二等兵は、7月28日、幟町国民学校を兵舎とする第一特設警備隊中部第32037部隊に入隊せよ』とのこと、文面では『二等兵』だが、実際は徴兵検査(18歳)前で、兵隊ではない。また来たかと思ったが、あわただしく準備した。」

二人が所属していた部隊の名前が、直登さんの日記では「中国第32037部隊」、堤さんの体験記では「中部32037部隊」となっています。どちらが正しい名称なのか調べてみました。

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手掛かりはないかと、幟町公園に行ってきました。上の写真を見てください。幟町公園には「幟町国民学校跡」と刻まれた「慰霊碑」が立っています。この碑は、1981年(昭和56年)に旧幟町国民学校教職員卒業生有志によって建立されたものです。裏面に、ここで犠牲となった部隊名と幟町国民学校名が刻まれています。

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刻まれた「部隊名」は3つあります。一番上に、二人の文章に出てくる「中部32037部隊 広島東部」が、刻まれています。堤さんの体験記に記載された「中部」の名になっています。ところが調べてみると、広島市が発刊した「広島原爆戦災史第4巻」の69ページには「幟町国民学校」にいた部隊名として「広島地区第一特設警備隊(中国第32037部隊)」と記載されています。いずれが正しい名称なのかは、不明です。

部隊名は別にして、体験記に教えられることは、戦争末期の当時、「警備召集」という名によって徴兵検査前であっても召集されていたという事実です。非常事態(戦争遂行能力がない)になっていることが、ここからもわかります。こうした働き手が召集された後に、中学生などの子どもたちが勤労動員されていったことが想像できます。それな状況にありながらも無謀な戦争を継続していたということです。この「警備召集」は、同じ職場でも交代で召集され、何日間かすると、召集解除となり、職場に復帰するということが繰り返されてようです。正規の工員確保のためでしょう。

堤さんの体験記には「8月2日、隊長より、明日3日の召集解除の予定が、三日間の延期を言い渡され、8月6日正午召集解除の予定となった」と記されています。堤さんの場合は、7月28日の召集ですから、非常に短い期間で交代していたことが、ここからもわかります。実は、直登さんの日記もよく読むと、7月10日に入隊した後、7月16日に除隊となり、7月28日、堤さんと同じように入隊し、8月5日の日記には「明後日は家に帰れる」とありますから、堤さんと同じように除隊が予定されていたようです。

そして運命の日を迎えるわけですが、日本製鋼所広島製作所は、船越にありました(現在も同じ場所)ので、予定通り除隊され現職に復帰していたら、近距離(爆心地から1.1キロ)での被爆は、免れたことになります。

ところで、上記の写真には、「第32027部隊」の他に「中部第32057部隊 世羅郡」の名前も刻まれています。この部隊のことが、堤さんの体験記にも出てきます。「翌日部隊に行くと、今回は世羅郡より40代の予備役(現役を終えた人が一定期間服した兵役。非常時にだけ召集されて軍務に服した)が多く入隊したため、若者は2階に上がれということだった」と。世羅郡から建物疎開作業隊として編成された部隊のことです。通称「世羅部隊」です。ですから、幟町公園の慰霊碑には、毎年8月6日には「世羅町長」の名前でお花が献花されています。私は、この慰霊碑については「世羅部隊」のことしか知りませんでした。世羅部隊のことについても、機会があればまた詳しく報告したいと思います。

もう一つ思い出してほしいことは、幟町国民学校も神崎、千田国民学校と同じく、軍隊の駐屯場所になっていることです。

前段が長くなりすぎました。二人の被爆体験は明日にします。

いのちとうとし

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2019年12月21日 (土)

『数学書として憲法を読む』が好評です

《好評です》

今年の7月に法政大学出版局から上梓して頂いた『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論』 (以下、『数学書』と略します) ですが、大変嬉しいことに、新聞や雑誌での書評や紹介記事で好意的に取り上げて下さっています。アマゾンのコメント欄にも『数学書』の内容の的確な要約が載っています。取り上げて頂くだけでも有り難いのですが、毎日、朝日、中国、沖縄タイムス等の書評に連動して、アマゾンが公表している「売れ筋ランキング」の順位が上がることに気付いて、取り上げて下さった方々への感謝の気持ちが倍増しています。まずは、アマゾンのレビューの中で、『数学書』の内容が簡単に分るものをお読み下さい。

Utah画像をクリックしていただくと大きくして読むことができます。

そんな中、特に驚いたのは、『東京新聞』が11月4日の朝刊の一面で取り上げて下さったことです。それも、[「問」憲法から「定理」を導け]、という導入から入って、[「解」9条は改正不可]、という事実を[「数学者」が「証明」]という、リズム感のある同時に意想外の見出しによって、しかも『数学書』のポイントをカラーでまとめるという離れ業まで使って、「数学書として憲法を読む」という意味を、分かり易い見事な記事に仕立て上げてくれていました。そのおかげで、11月4日中に、アマゾンの「売れ筋ランキング」では、憲法のジャンルで一位になっていました。論より証拠といいますから、この記事のコピーを御覧下さい。

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小著を読んで下さった方々から好意的な感想が寄せられているのは、「数学書として憲法を読む」ことが、特別に法律の勉強をした人や法律に深い関心のある人ではない、素人といっても良い人たちが憲法を読む際の読み方に近いからなのではないかと思います。同時に、このような読み方をしても、自動的に、憲法をあたかも「数学書として読む」ことになる訳でもありません。

 《憲法は死刑を禁止している》

例えば、憲法13条の最初の文章「すべて国民は、個人として尊重される」の中で、「個人」とは生きている人なのか、亡くなった人、つまり故人も含めるのかといった点にこだわる人はそれほど多くないのではないでしょうか。「普通に」、「そうか個人として尊重されるんだな」と受け止めて、それ以上の詮索はせずに次に進むことの方が多いのではないかと思います。

しかし、「数学書として読む」ことに慣れている人の場合には、しばしば、「個人」とはどのような人を指すのかを考え、そう考える一環として、「個人」とは生きている人なのかどうかを問う、といったことをする傾向があります。

そして一度この問を発してしまえば、結論は言うまでもありません。「個人」とは生きている人です。その人を尊重するのであれば、「死刑」という形でその人の生命を奪うのは、「尊重」の対極にある行為であることは、強調するまでもなく当然なのです。つまり、「生きている人なのか」という疑問を呈することが、当り前の結論を導き出すきっかけになっているのです。

そして、恐らく「反論」として出てくるであろう、13条の第二文中の「公共の福祉に反しない限り」という限定は、最初の文「すべて国民は、個人として尊重される」には掛からないことを確認すれは、憲法は死刑を禁止しているという結論しかあり得ないことになるではありませんか。

対して、「定説」あるいは「通説」では死刑は合憲だということになっています。その根拠は昭和23年の最高裁判所の判決です。『数学書』では、この判決に問題のあること、特に「数学書として憲法を読む」立場からは、この判決には合理性のないことを説明しました。

法律の世界では、このように条文の解釈について意見の分れることが多々あります。話し合いで解決できる場合もあるでしょうが、多くの場合、第三者、しかも司法権を持つ裁判所が判断をし、異なった主張をしている当事者たちはそれを受け入れる、という手続きが取られます。それに不満がある場合は、控訴という手続きも定められています。最終的には最高裁判所の決定によって一連の手続きは終る、というのが日本の司法の姿です。

となると、死刑が合憲か違憲かという判断も、最高裁がどこかの段階で決定的なことを言えば、それが最終判断になり、それに対しての異論を唱えても全く取り上げて貰えないということになるというのが通常の理解だと思います。でも、それで良いのでしょうか。憲法はそれを許しているのでしょうか。許しているとすると、憲法は、最高裁判所の判断には一切の間違いがないという前提を採用しているのでしょうか。以下、何回かに分けて、この点を考えてみましょう。

実は、この点を詰めて行くと、司法制度についての基本的な矛盾に行き着くことになります。そして、その矛盾を解消するために何ができるのかを考えて行くと、日本の社会や歴史についての多くの謎に直面しますし、その謎の解明のためには、必ずしも嬉しくはない大きな「仮説」を前提にする可能性さえ浮び上ってきます。

[2019/12/21 イライザ]

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2019年12月 7日 (土)

ローマ教皇と森滝市郎先生

在朝被爆者関係の資料を探している時、たまたま森瀧市郎先生直筆原稿のコピーが目に入りました。400字詰め原稿用紙13枚です。タイトルは「ローマ法王『いのちのためのアピール』一被爆者の感動―」と書かれています。

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「先日、この広島で、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が全世界に向かって『いのちのためのアピール』を発した。まさに発せられるべきに発せられるべきから、発せられるべきが発せられたのである。」これがこの原稿の書き出しです。そして「まさに核時代の危機の日日である。」と続きます。

この文章、ちょうど10日ほど前に広島の慰霊碑前で発せられたローマ教皇フランシスコのメッセージを先取りしたかのかと思わせられるほど、今に共通する中味となっていることにびっくりしました。

核状況を紹介した後、森滝先生は、「」について再び繰り返されています。「『』はまさに人類の『いのちの危機』なのである。ローマ法王はそんなに、そんなだからこそ、広島の来たのである。」今回のローマ教皇フランシスコの広島訪問も、まさに「そんな」なのです。

「核時代の危機に法王が『広島』というを選んで核廃絶のアッピールを出したのは、まことにその『』を得ていた。一発のウラン爆弾で一つの都市を廃墟と化し、二十数万のいのち悲惨きわまりない姿で奪い去り、・・・・ここほど核兵器の脅威をと人類の運命について真人の警告を発するにふさわしいところはない」

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「このように、この、このから発せられこそが『いのちのアピール』であったのである。私はいまだかつてこれほどの懇切丁寧でゆきとどいた平和アピールを聞いたことがない。本当に生きていてよかったと思った。」

読み進めば読み進むほど、ローマ教皇フランシスコのメッセージを聞いた今に共通する文書に思えてならないのは私だけだろうか。この後に、7節にわたる法王ヨハネ・パウロ二世のアピールに対する解説が続きました。そして締めくくりの部分では「法王の広島での平和アピールは勿論不朽の平和聖典であるが、これをしっかりと受け止めて実践する義務は私たちの側にある。」と私たちの役割を示唆されています。そして「ともすれば絶望し、悲観し、無力感におちいる私たちが、気をとりなおして、幾度でも立ち上がれる妙薬は法王の広島アピールを毎日読誦愛用することにあると私には思われる。」と記し、アピールの持つ力を強調されています。

同じことが、今回のローマ教皇フランシスコのアピールにも言えることです。「よかった」で終わることなく、繰り返しその意味を問いかけることが私たちに求められています。

Img009

この文章は、森滝先生が、カトリック正義と平和広島協議会「平和を願う会」から、同会がヨハネ・パウロ二世の広島訪問を記念して発行された文集「平和への道」への原稿依頼を受けられて、訪問2日後の2月25日に書かれたものです。この全文は、2015年に発刊した「核と人類は共存できないー核絶対否定への歩みー」に収録していますので、ぜひ一読してほしいと思います。

現在は、ローマ教皇と呼ばれていますが、森滝先生の原稿では「ローマ法王」となっていますので、今回のブログでは、「ローマ法王」をそのまま使うことにしました。

いのちとうとし

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