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書籍・雑誌

2020年1月19日 (日)

幟町国民学校―二人の被爆体験記(その2)

いよいよ二人の被爆体験です。

二人が、夜の防空壕掘りや街の橋々での夜間警備を終え、幟町国民学校の臨時兵舎に帰っている時に原爆が投下されます。

直登さんの日記です。「一度警戒警報が出たのでくつ下をはきゲートルだけでしてねむった。9時頃でもあったろうか、大きな爆発音に夢を破られて目をひらくと、ものすごい勢いで天井の木材や瓦が顔の上に落下してきた。戦友の中によろよろ多立ち上がった者もいるが、皆顔面を真っ赤に染めている。自分も生暖かい血が額から流れ落ちるのがわかった」。9時ころという時間が目を引きます。

私が興味を持ったのはその次に書かれていることです。「中国新聞社の四階目あたりが猛烈に燃え上がっている。」その後に、その後の直登さんの行動の様子が続きますが、同じ情景が、堤さんの被爆体験記にも書かれています。「またまた警戒警報が発令された。いつでも出動できるよう準備して仮眠せよとのことで、私服のままゲートルを巻き、小銃とごぼう剣の位置を確かめて横になった。・・・」。右手首が大きなはりに挟まって抜けなくなったところを京谷君の助けで手を抜くことができことが記された後、「腰の痛みを我慢しながら、崩れた校舎の瓦礫の上に立つと、土色の空にオレンジ色の太陽がぶきみにみえた。周囲が薄暗く、中国新聞社の四階あたりが猛烈に燃えていた」と書かれています。

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中国新聞社の火災が、強烈に目に入ったのか、くしくも二人の体験記に同じように記載されています。当時の中国新聞社は、現在の広島三越に建っていましたが、幟町国民学校からはわずかに150mという近距離ですから、強く印象に残ったものと思われます。

堤さんの体験記では、そのすぐ後に四國直登さんが登場します。「見回すと、建物は倒壊して方々で火の手が上がっており、人影はまばらである。勤務先の友人、四國直登君が顔面より血を流し、呆然と立っていた。『オーイ、大丈夫か』と言うと『足をやられた』と言う。校庭の方に降りていく姿が痛々しく、まことに気の毒だった。」

直登さんの日記では、堤さんの名前は出てきませんが「左足の裏を見れば材木でブチ割られてどくどく血を吹き出している。藤原が布切れを腿に巻き付け棒切れ通して締めつけてくれたが、血は止まらない。ひとまず校庭に出る。」しかし、6日の夕方の情景で堤さんの名前が登場します。「4時頃かも知れぬ。『四國!』と呼ぶのでひょいとふり返って見れば、堤、中尾両友なり。両友は今から歩いて帰るという。」

二人の体験記を読むと不思議な思いに駆られます。しかし、ここで再び分かれた二人がまた再会することが、堤さんの体験記に書かれています。翌日、堤さんは部隊と連絡を取るため大正橋まで出かけるのですが、その帰り道でまた直登さんと出会うのです。「また顔と足にケガした四國直登君に会ったので声をかけた。『オーイ、どうしたんヤー。まだ家に帰っとらんのカー』『ホーヨ、足が痛うてノー、昨夜は橋のたもとで野宿したのヨー』『ホーカー、苦労したノー。よしワシが送ったロー』」こんな会話を交わした後、堤さんに送られて直登さんは自宅に帰ります。再び体験記から。「大河町の彼の家まで送った。彼の家も爆風で屋根が落ち、かなり壊れていた。四國君ともこれが最後になった。」

この出会いは、直登さんの7日の日記にも出てきます。「大正橋まで帰り、出会った川手の昇さんと話していたら堤がいたので、自転車の荷台に乗せて家まではこんでもらう。少し破損しただけですんだわが家へ帰りついた。嬉しくて泣きたいようだった。」

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大正橋は、猿猴川にかかる上流から4番目の橋です。西岸のたもとには、原爆慰霊碑が立っています。堤さんの体験記は、被爆後50年の1995年に書かれたもののようですが、直登さんの日記と一致する記載に、あまりにも強すぎる体験と記憶の確かさを感じ、少しびっくりします。

直登さんの日記は、8月27日を最後にして途絶えます。その日の夜半、苦悶の末、18歳の生涯を閉じたのです。

また新たな事実を感じることのできた、二人の体験記でした。

いのちとうとし

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2020年1月18日 (土)

幟町国民学校―二人の被爆体験記(その1)

今日は、今月2日のブログ「元日の平和公園」で紹介した「企画展『時を超えた兄弟の対話』」に関わる二人の被爆体験記を紹介したいと思います。被爆体験記といっても四國直登さんは当時の日記、新潟の被爆者・堤武博さんは、文字どおり体験記です。堤さんの体験記は、3日のブログ「ヒロシマ 空白の被爆75年」でも一部紹介していますが、今日は被爆時の状況について、二つの体験記を比べながら少し詳しく見てみたいと思います。

四國直登さんは、1945年7月9日に「警備召集」を受け、翌10日に幟町国民学校にある臨時兵舎に行き、その日から防空壕掘りなどの任務に就きます。堤さんが所属する中国第32037部隊です。

堤さんは、新潟の被爆者としていますが、1927年(昭和2年)広島市段原東浦町生れ、日本製鋼所広島製作所に入社し、同じ職場で働いてきた直登さんと同じように警備召集を受け、同じ部隊に所属し、幟町国民学校で被爆。軍隊所属というのですから、20歳を超えていると思いがちですが、二人とも同じ年の生れで、17歳と18歳です。堤さんは、同社で退職まで働き、その後娘さんと同居するため新潟に転居されています。

堤さんの体験記で、当時の兵隊の様子を知ることができます。「7月27日、勤務先から帰ると、三度目の警備召集令状のハガキが来ていた。『堤二等兵は、7月28日、幟町国民学校を兵舎とする第一特設警備隊中部第32037部隊に入隊せよ』とのこと、文面では『二等兵』だが、実際は徴兵検査(18歳)前で、兵隊ではない。また来たかと思ったが、あわただしく準備した。」

二人が所属していた部隊の名前が、直登さんの日記では「中国第32037部隊」、堤さんの体験記では「中部32037部隊」となっています。どちらが正しい名称なのか調べてみました。

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手掛かりはないかと、幟町公園に行ってきました。上の写真を見てください。幟町公園には「幟町国民学校跡」と刻まれた「慰霊碑」が立っています。この碑は、1981年(昭和56年)に旧幟町国民学校教職員卒業生有志によって建立されたものです。裏面に、ここで犠牲となった部隊名と幟町国民学校名が刻まれています。

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刻まれた「部隊名」は3つあります。一番上に、二人の文章に出てくる「中部32037部隊 広島東部」が、刻まれています。堤さんの体験記に記載された「中部」の名になっています。ところが調べてみると、広島市が発刊した「広島原爆戦災史第4巻」の69ページには「幟町国民学校」にいた部隊名として「広島地区第一特設警備隊(中国第32037部隊)」と記載されています。いずれが正しい名称なのかは、不明です。

部隊名は別にして、体験記に教えられることは、戦争末期の当時、「警備召集」という名によって徴兵検査前であっても召集されていたという事実です。非常事態(戦争遂行能力がない)になっていることが、ここからもわかります。こうした働き手が召集された後に、中学生などの子どもたちが勤労動員されていったことが想像できます。それな状況にありながらも無謀な戦争を継続していたということです。この「警備召集」は、同じ職場でも交代で召集され、何日間かすると、召集解除となり、職場に復帰するということが繰り返されてようです。正規の工員確保のためでしょう。

堤さんの体験記には「8月2日、隊長より、明日3日の召集解除の予定が、三日間の延期を言い渡され、8月6日正午召集解除の予定となった」と記されています。堤さんの場合は、7月28日の召集ですから、非常に短い期間で交代していたことが、ここからもわかります。実は、直登さんの日記もよく読むと、7月10日に入隊した後、7月16日に除隊となり、7月28日、堤さんと同じように入隊し、8月5日の日記には「明後日は家に帰れる」とありますから、堤さんと同じように除隊が予定されていたようです。

そして運命の日を迎えるわけですが、日本製鋼所広島製作所は、船越にありました(現在も同じ場所)ので、予定通り除隊され現職に復帰していたら、近距離(爆心地から1.1キロ)での被爆は、免れたことになります。

ところで、上記の写真には、「第32027部隊」の他に「中部第32057部隊 世羅郡」の名前も刻まれています。この部隊のことが、堤さんの体験記にも出てきます。「翌日部隊に行くと、今回は世羅郡より40代の予備役(現役を終えた人が一定期間服した兵役。非常時にだけ召集されて軍務に服した)が多く入隊したため、若者は2階に上がれということだった」と。世羅郡から建物疎開作業隊として編成された部隊のことです。通称「世羅部隊」です。ですから、幟町公園の慰霊碑には、毎年8月6日には「世羅町長」の名前でお花が献花されています。私は、この慰霊碑については「世羅部隊」のことしか知りませんでした。世羅部隊のことについても、機会があればまた詳しく報告したいと思います。

もう一つ思い出してほしいことは、幟町国民学校も神崎、千田国民学校と同じく、軍隊の駐屯場所になっていることです。

前段が長くなりすぎました。二人の被爆体験は明日にします。

いのちとうとし

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2019年12月21日 (土)

『数学書として憲法を読む』が好評です

《好評です》

今年の7月に法政大学出版局から上梓して頂いた『数学書として憲法を読む――前広島市長の憲法・天皇論』 (以下、『数学書』と略します) ですが、大変嬉しいことに、新聞や雑誌での書評や紹介記事で好意的に取り上げて下さっています。アマゾンのコメント欄にも『数学書』の内容の的確な要約が載っています。取り上げて頂くだけでも有り難いのですが、毎日、朝日、中国、沖縄タイムス等の書評に連動して、アマゾンが公表している「売れ筋ランキング」の順位が上がることに気付いて、取り上げて下さった方々への感謝の気持ちが倍増しています。まずは、アマゾンのレビューの中で、『数学書』の内容が簡単に分るものをお読み下さい。

Utah画像をクリックしていただくと大きくして読むことができます。

そんな中、特に驚いたのは、『東京新聞』が11月4日の朝刊の一面で取り上げて下さったことです。それも、[「問」憲法から「定理」を導け]、という導入から入って、[「解」9条は改正不可]、という事実を[「数学者」が「証明」]という、リズム感のある同時に意想外の見出しによって、しかも『数学書』のポイントをカラーでまとめるという離れ業まで使って、「数学書として憲法を読む」という意味を、分かり易い見事な記事に仕立て上げてくれていました。そのおかげで、11月4日中に、アマゾンの「売れ筋ランキング」では、憲法のジャンルで一位になっていました。論より証拠といいますから、この記事のコピーを御覧下さい。

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小著を読んで下さった方々から好意的な感想が寄せられているのは、「数学書として憲法を読む」ことが、特別に法律の勉強をした人や法律に深い関心のある人ではない、素人といっても良い人たちが憲法を読む際の読み方に近いからなのではないかと思います。同時に、このような読み方をしても、自動的に、憲法をあたかも「数学書として読む」ことになる訳でもありません。

 《憲法は死刑を禁止している》

例えば、憲法13条の最初の文章「すべて国民は、個人として尊重される」の中で、「個人」とは生きている人なのか、亡くなった人、つまり故人も含めるのかといった点にこだわる人はそれほど多くないのではないでしょうか。「普通に」、「そうか個人として尊重されるんだな」と受け止めて、それ以上の詮索はせずに次に進むことの方が多いのではないかと思います。

しかし、「数学書として読む」ことに慣れている人の場合には、しばしば、「個人」とはどのような人を指すのかを考え、そう考える一環として、「個人」とは生きている人なのかどうかを問う、といったことをする傾向があります。

そして一度この問を発してしまえば、結論は言うまでもありません。「個人」とは生きている人です。その人を尊重するのであれば、「死刑」という形でその人の生命を奪うのは、「尊重」の対極にある行為であることは、強調するまでもなく当然なのです。つまり、「生きている人なのか」という疑問を呈することが、当り前の結論を導き出すきっかけになっているのです。

そして、恐らく「反論」として出てくるであろう、13条の第二文中の「公共の福祉に反しない限り」という限定は、最初の文「すべて国民は、個人として尊重される」には掛からないことを確認すれは、憲法は死刑を禁止しているという結論しかあり得ないことになるではありませんか。

対して、「定説」あるいは「通説」では死刑は合憲だということになっています。その根拠は昭和23年の最高裁判所の判決です。『数学書』では、この判決に問題のあること、特に「数学書として憲法を読む」立場からは、この判決には合理性のないことを説明しました。

法律の世界では、このように条文の解釈について意見の分れることが多々あります。話し合いで解決できる場合もあるでしょうが、多くの場合、第三者、しかも司法権を持つ裁判所が判断をし、異なった主張をしている当事者たちはそれを受け入れる、という手続きが取られます。それに不満がある場合は、控訴という手続きも定められています。最終的には最高裁判所の決定によって一連の手続きは終る、というのが日本の司法の姿です。

となると、死刑が合憲か違憲かという判断も、最高裁がどこかの段階で決定的なことを言えば、それが最終判断になり、それに対しての異論を唱えても全く取り上げて貰えないということになるというのが通常の理解だと思います。でも、それで良いのでしょうか。憲法はそれを許しているのでしょうか。許しているとすると、憲法は、最高裁判所の判断には一切の間違いがないという前提を採用しているのでしょうか。以下、何回かに分けて、この点を考えてみましょう。

実は、この点を詰めて行くと、司法制度についての基本的な矛盾に行き着くことになります。そして、その矛盾を解消するために何ができるのかを考えて行くと、日本の社会や歴史についての多くの謎に直面しますし、その謎の解明のためには、必ずしも嬉しくはない大きな「仮説」を前提にする可能性さえ浮び上ってきます。

[2019/12/21 イライザ]

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2019年12月 7日 (土)

ローマ教皇と森滝市郎先生

在朝被爆者関係の資料を探している時、たまたま森瀧市郎先生直筆原稿のコピーが目に入りました。400字詰め原稿用紙13枚です。タイトルは「ローマ法王『いのちのためのアピール』一被爆者の感動―」と書かれています。

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「先日、この広島で、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が全世界に向かって『いのちのためのアピール』を発した。まさに発せられるべきに発せられるべきから、発せられるべきが発せられたのである。」これがこの原稿の書き出しです。そして「まさに核時代の危機の日日である。」と続きます。

この文章、ちょうど10日ほど前に広島の慰霊碑前で発せられたローマ教皇フランシスコのメッセージを先取りしたかのかと思わせられるほど、今に共通する中味となっていることにびっくりしました。

核状況を紹介した後、森滝先生は、「」について再び繰り返されています。「『』はまさに人類の『いのちの危機』なのである。ローマ法王はそんなに、そんなだからこそ、広島の来たのである。」今回のローマ教皇フランシスコの広島訪問も、まさに「そんな」なのです。

「核時代の危機に法王が『広島』というを選んで核廃絶のアッピールを出したのは、まことにその『』を得ていた。一発のウラン爆弾で一つの都市を廃墟と化し、二十数万のいのち悲惨きわまりない姿で奪い去り、・・・・ここほど核兵器の脅威をと人類の運命について真人の警告を発するにふさわしいところはない」

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「このように、この、このから発せられこそが『いのちのアピール』であったのである。私はいまだかつてこれほどの懇切丁寧でゆきとどいた平和アピールを聞いたことがない。本当に生きていてよかったと思った。」

読み進めば読み進むほど、ローマ教皇フランシスコのメッセージを聞いた今に共通する文書に思えてならないのは私だけだろうか。この後に、7節にわたる法王ヨハネ・パウロ二世のアピールに対する解説が続きました。そして締めくくりの部分では「法王の広島での平和アピールは勿論不朽の平和聖典であるが、これをしっかりと受け止めて実践する義務は私たちの側にある。」と私たちの役割を示唆されています。そして「ともすれば絶望し、悲観し、無力感におちいる私たちが、気をとりなおして、幾度でも立ち上がれる妙薬は法王の広島アピールを毎日読誦愛用することにあると私には思われる。」と記し、アピールの持つ力を強調されています。

同じことが、今回のローマ教皇フランシスコのアピールにも言えることです。「よかった」で終わることなく、繰り返しその意味を問いかけることが私たちに求められています。

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この文章は、森滝先生が、カトリック正義と平和広島協議会「平和を願う会」から、同会がヨハネ・パウロ二世の広島訪問を記念して発行された文集「平和への道」への原稿依頼を受けられて、訪問2日後の2月25日に書かれたものです。この全文は、2015年に発刊した「核と人類は共存できないー核絶対否定への歩みー」に収録していますので、ぜひ一読してほしいと思います。

現在は、ローマ教皇と呼ばれていますが、森滝先生の原稿では「ローマ法王」となっていますので、今回のブログでは、「ローマ法王」をそのまま使うことにしました。

いのちとうとし

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2019年11月29日 (金)

地域を知る講座「漫画家中沢啓治さんの足跡を訪ねる」

ローマ教皇が広島を訪問された日の午後1時から舟入公民館が主催する「地域を知る講座『漫画家中沢啓二さんの足跡を訪ねる』」というフィールドワークに参加しました。集合時間の午後1時には、舟入公民館に集まった参加者はあらかじめ予約をしていた18名。地元舟入地区からの参加者も2名ありました。

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最初に舟入公民館で講師の渡辺久仁子さんから「岩国基地の強化などミリタリーが近づいているという時期に中沢さんのことを話すことができることを感じています。今日は、8月6日だけに絞ってフィールドワークをします。原爆の非人道性を読み取ってほしい」とあいさつ。そして持参した「中沢さんの漫画や中沢さんに関する書物」を紹介しながら、「はだしのゲン」は、今25か国語に翻訳され世界で読まれていること、英語版作製には10年以上かかったこと、「『はだしのゲン』と一緒に『黒い雨にうたれて』の2冊を読むとより理解が深まること」などが紹介されました。

いよいよフィールドワークに出発です。最初は、中沢啓治さんが被爆当日住んでいた自宅。現在も当時と同じように2階建ての民家が立っています。もう一度ここには戻るということで、次の目的地の神崎小学校へ移動します。自宅跡前から西に電車通りまで出て電車通りを北上、国道2号線バイパスの交差点を北にわたりました。交差点の東北角地(現在広銀の建物がある)でちょっと説明。「中沢さんが通っていた神崎国民学校はこの位置にあったと思われます。現在は、これから行くところに移動しています。」

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さらに歩いて、神崎小学校まで移動し、その北側に立っている神崎集会所で、渡辺久仁子さんが作成に関わった「はだしのゲンがみたヒロシマ」のビデオを鑑賞。このビデオは、中沢さんと一緒に「はだしのゲン」に登場する場所を一緒に訪ねながら、中沢さんにインタビューしたもの。そして渡部さんが、2007年に初めて中沢さんの証言を聞き、「血の通った怒りを感じたことが衝撃」となって、その後のビデオ制作にまで進んだことが詳しく話がされました。

 神崎集会所での講演を終えて、次に隣の神崎小学校へ。神崎小学校の校門を入るとすぐ左側に、被爆当時の学校の門柱が立っています。一緒の参加されていた舟入中町の松尾利明さんが「この門柱は、私の父が、この学校の校庭の東側に埋まっていたものを掘り出しました。中沢さんが寄り掛かった門柱かどうかははっきりしませんが、被爆した門柱としてここに建てることになったのです。」と解説。

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松尾さんのお父さんは、「はだしのゲン」の漫画の中で「豆腐屋のシュンちゃん(と聞こえたのですが)」として登場するとのことです。この後で、松尾さんからは驚くような話を聞くことになります。門柱の横の碑には、「旧神崎小学校の門柱 原爆投下時の在校生 1860名 ・・・児童死亡 140名 職員死亡 8名」と被爆時の学校の様子が書かれています。その後私が調べたところでは、「職員の死亡者は、教師3名、看護婦1名、事務員1名、用務員1名、調理員2名」で、うち1名は、学校以外で亡くなったとされています。

神崎小学校を出発し、中沢少年が被爆後、倒れた塀から抜け出し歩いたと思われるたどり、再び自宅前に来ました。

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ここでは、「はだしのゲン」に描かれた「お母さんが下敷きになった子どもたちをどうすることもできずにいる」画面を手にしながら、渡辺さんの熱の入った話が続きます。「はだしのゲン」をもう一度読んでみてください。最後は、広電舟入川口電停前です。マンガでは、ゲンがお母さんにあったのは、自宅前となっていますが、実際にはこの電停付近だったそうです。最後に「今日は、8月6日の中沢さんの足跡を訪ねましたが、その後がもっと大切です。ぜひ『はだしのゲン』をもう一度読んでみてください。」フィールドワークは終わりました。

ところで途中で松尾さんから聞いた話はあまりにも衝撃的なことでした。私が「お父さんは、どこで被爆されたのですか」と聞いたところ「三菱江波工場です」との答え。「えーそれじゃ森滝先生と同じ工場ですね」と言うと松尾さんは「実は、私の父は、森滝先生のすぐそばで被爆したのです。父は、その時頭を下げ前かがみになったので背中にガラスが刺さっただけでしたが、父の後ろにおられた偉い先生は、父がかがんだため、その先生は顔にガラスが刺さったのですよ。その時は、森滝先生とは知らなかったのですが、ずーっと後になってテレビに映る森滝先生の顔を見て、あの時の先生が森滝先生だということが分かったのです。」

こんな出会いがあるのだろうかとただびっくりです。松尾さんのお父さんは、原爆孤児となられ、戦後本当に苦労されたことも話していただきました。ただ、すでに亡くなられていますので、直接に話を聞くことができないのが残念です。

不思議な出会いのあった今回のフィールドワークでした。

いのちとうとし

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2019年11月 7日 (木)

終戰記録―議會への報告書並びに重要公文書輯

横川のフレスタ前で「第13回カジル横川古本市」が今月10日まで開催されています。いつも何か掘り出し物はないかとのぞくことにしています。今回も、先日横川駅を利用する機会がありましので、ちょっと寄り道をして、並べられた本を見たまわりました。

毎回一冊ぐらいは、掘り出し物を見つけることができますが、今回も本当に珍しい本(私のとって)を見つけることができました。本の名前は「終戰記録」、副題は「議會への報告書並びに重要公文書輯」となっています。発行者は「朝日新聞社編」です。古い漢字が使われていますので戦後すぐの発行物だと思い、奥付を見ると「昭和二十年十一月十日印刷 昭和二十年十一月十五日」となっています。「定価」は「二圓」です。ちなみに今回の私の購入価格は消費税込みで1,100円でした。

「議會への報告書並びに重要公文書輯」という副題に興味をそそられ、手に取り中身を見てみました。目次に「帝國議会に對する終戰経緯報告書」と書かれ、その後には外務省から始まって内務省、厚生省などなど各省からの報告が続いています。もちろん、陸軍省も海軍省もあります。いずれも旧漢字が使用されていますが、ここからは現在使用されている漢字に変えて記載します。

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内務省の報告は全体が「大東亜戦争開始以来一般空襲被害の概況」で、その後に各項目が続きます。最初に「死傷者及び建築物の被害」の報告があり、数項目後に「新型爆弾に依る被害状況」とあります。「新型爆弾に依る被害状況」が記載されたページには、広島の被害状況が次のように書かれています。「廣島市 死者 約七万名 負傷者 約十三万名 家屋 全焼全壊 約六万二千戸 家屋半焼半壊 約一万個 罹災者 約十万人(死傷者を含まず)」 もちろんその後に長崎市も同様の記載があります。このブログでも「原爆被害」について何度か触れてきましたので、この内務省報告を興味深く読みました。死者約七万人となっています。こんな報告があったのです。

大事なことはこの報告がいつの時点に作成されたのかです。この本の最後の方に「帝國議会における東久邇首相宮殿下の御演説」という項目がありましたので、そこを読むと、その冒頭部分に「ここに第八十八回帝国議会に臨み、諸君に相見え、今次終戦に至る経緯の概要を述べ、現下困難に処する・・・」とありますので、本の副題の「議会への報告書」とある「議会」が第八十八回帝国議会だということが分かります。では「第八十八回帝国議会」は、いつ開かれたのかです。調べるとこの議会は、臨時国会として1945年(昭和20年)9月4日から9月5日までの二日間開会されていることが分かります。

そうなると、報告書はそれ以前にまとめられたことになります。開会日である9月4日は原爆投下から一カ月もたっていません。終戦の日といわれる8月15日からだと20日もたっていないにもかかわらず、これだけの数字がまとめられていることにちょっとびっくりします。

この資料を見ながら考えることは、もし政府が本気で原爆被害実態を調査し続けておれば、もっと正確に原爆被害の実相を今に残すことができたのではないかということです。

「一般空襲被害の概要」の項では、「目下調査中に属する府県もあるも」としながらも「死者241,309名」と一ケタの数字まで明記して報告しています。府県別の数字も非常に具体的です。政府がやろうと思えば、実態に近い被害状況を明らかにすることがこれでわかります。この報告書が出された時には、一般市民の被害もきちんと調べようという視点があったということが想像できます。

この本には、まだ興味深いことがたくさん記載されていますので、次の機会にでいれば紹介したいと思います。

いのちとうとし

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2019年9月27日 (金)

白島に建つ原爆文学者ゆかりの碑

22日、23日のブログで紹介した「原民喜」のお墓を真ん中に挟む位置に二人の原爆文学者ゆかりの碑があります。当日そこも訪ねていますので、今日はその二つの碑を紹介したいと思います。

北方向に200mちょっと離れた白島九軒町にある宝勝院の墓地の一角に、土台を除き縦約90センチ、横約120センチの「大田洋子被爆の地」という碑があります。

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大田洋子は、原爆が投下された1945年1月に東京から広島に移転し、8月6日にはこの白島九軒町の妹中川一枝宅で被爆しています。大田洋子の著書「屍の街」には、こう書かれています。「私は、母や妹たちの住んでいる、白島九軒町の家にいた。(略)私たちも、母と妹と、妹の赤ん坊と女ばかり4人住んでいた。」と。ここが大田洋子の被爆地なのです。ところで、この碑は、被爆65周年の平成22年(2010年)7月に建立されているのですが、この地に作られた経緯を、当時の中国新聞は「宝勝院の前住職国分良徳さん(81)が29日、寺の南側にある墓所に文学碑を建立した。同作品(「屍の街」のこと)に国分さん家族の被爆体験が盛り込まれていたのがきっかけという。16歳だった国分さんは寺で被爆。母と妹、弟が下敷きになって死亡した。大田洋子は当時隣の家で被爆しており、『屍の街』には『寺では夫人と赤ん坊と五つの男の子の三人が、下敷きになつて死んだという』と、国分さん一家の状況に触れた文章がある。国分さんは、自分が大田さんにそのことを話した記憶があるといい、この記述に気付いて建立を思い立った。」と報じています。

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碑銘には、「屍の街」の上記の部分が刻まれていますが、碑文では「五つの男の子」の部分が実際の「七つの女の子」に訂正されています。

ところで「屍の街」には、妹との興味深い会話の場面があります。「『お姉さんはよくご覧になれるわね。私は立ち止まって見たりできませんわ。』妹は私をとがめる様子であった。私は答えた。『人間の眼と作家の眼とふたつの眼で見ているの。』『書けますか、そんなこと』『いつかわ書かなくてはならなね、これを見た作家の責任だもの。』」と。その強い思いが、自らの被爆体験を克明に記録した発表されたのです。

市内には、もう一つ大田洋子の碑があります。基町市営アパートの南側にある中央公園の西側木立の中に立つ「大田洋子文学碑」ですが、今日は、写真での紹介だけにしておきます。ここでもちょっとした発見(私なりのですが)がありましたが、また機会があれば紹介したいと思います。

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もう一つは、原民喜の墓から南に100m余り離れた日本郵便株式会社中国支社(旧中国郵政局)の敷地に作られた栗原貞子さん作「生ましめんかな」の詩がはめ込まれたモニュメントです。

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このモニュメントは、中区千田町にあった旧貯金局が取り壊される際、被爆屋上タイルを保存するために作られたものです。旧貯金局の地下室の情景を詠んだといわれる栗原貞子さんの詩と一体のものとして作成されてようです。「生ましめんかな」は広く知られている詩ですので、ここでは紹介しません。

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ところで、このモニュメントの周囲には、「慰霊碑」や旧広島逓信局の被爆石段などがあります。興味深いのは、旧貯金局のモニュメントの横に、「被爆アオギリ二世」が植えられていることです。平和公園の資料館北側に植えられている「被爆アオギリ」は、もともとこの場所で被爆し、1973年4月に庁舎改善などが行われた時、被爆の生き証人として広島市に寄贈され、平和公園内に移植されたものです。ここに植わっている「被爆アオギリ二世」は、被爆50周年の年「1995年」、子どもの代になって里帰りしたようです。

ところで、この旧中国郵政局の敷地には、逓信病院がありました(今も同じ場所にあるのですが)。この逓信病院の原爆投下翌日の情景がことが、先に紹介した大田洋子の「屍の街」の「これを見た作家の責任だもの。」のすぐ後に「死体は累々としていた。どの人も病院の方に向かっていた。」と続き、かなり詳しく書かれています。モニュメントの立つこの場所を大田洋子が歩いたことが分かります。何か不思議なもを感じます。

いのちとうとし

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2019年9月22日 (日)

原民喜の墓前での不思議な出会い

台風の到来前にと思い20日の午前中、白島地区の被爆樹木を訪ねて回りました。その途中、以前から訪ねたいと思っていた原民喜の墓がある東白島町の円光寺に寄りました。バス通りから墓地に入るとびっしりと墓が立ち並んでおり、どこにあるのかすぐにはわかりません。ちょうど墓参りのご夫妻がおられたので、「原民喜の墓をご存知ですか」と尋ねると「墓所の右手の一番奥のところですよ」と親切に教えていただきました。教えていただいた通りに進むと、ちょうど原民喜の墓と思える墓前で、お花をあげてお参りされている人が見えます。近づくとやはり、原民喜の墓でした。「失礼ですが、原家の方ですか」とお尋ねすると「そうです。原家のものです。お彼岸が近いので、墓参りに来ていたところです」との返事が返ってきました。

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さらに「私は、原ふみおといいます。私は、昭和22年生れですが、父が『この子は、文彦の生まれ変わりだ』といって、文彦の文に生まれるという字を付けて『文生』と付けてくれたそうです。」と話してくださいました。びっくりです。そんなゆかりのある人に偶然にもお会いするとは。「文彦」は、原民喜の「夏の花」にも重要人物として登場する民喜の甥ですから、びっくりするのは当然です。「夏の花」(1988年刊、岩波文庫より)のその場面を少し長いのですが引用します。被爆翌日のことです。

「馬車は次兄の一家族と私と妹を乗せて、東照宮下から饒津神社に出た。馬車が白島から泉邸の方へ来掛かった時のことである。西練兵場の空き地に、見憶えのある、黄色の、半ずぼんの死体を、次兄はちらりと見つけた。そして彼は馬車を降りて行った。嫂も私もつづいて馬車を離れ、そこへ集まった。見覚えのあるずぼんに、まぎれもないバンドを締めている。死体は、甥の文彦であった。上着は無く、胸のあたりに拳大の腫れ腫物がありものがあり、そこから液体が流れている。真黒くなった顔に、白い歯が微かに見え、投出した両手の指は固く、内側に握りしめ、爪が喰その側に中学生の屍体が一つ。それからまた離れたところに、若い女の死体がひとつ、いずれ、ある姿勢のまま硬直していた。次兄は文彦の詰めを剥ぎ、バンドを形見にとり、名札を付けて、そこを立ち去った。涙も乾きはてた遭遇であった。」

ここに登場する次兄こそが、文生さんのお父さんです。文生さんのお兄さんたちの名前には、「彦」(文彦、邦彦、時彦)の字が使われていますから、被爆後に生まれた文生さんには、文彦さんを原爆でなくした父親の思いが込められた名前が付けられたのです。

原水禁大会で「夏の花のフィールドワーク」を行ったことなど話しているうちに「あなたは、金子さんですよね」と言われ、再びびっくりです。選挙のたびに応援していただいたようで、私のことをよく知っておられたのです。だから初対面の私に、自分の名前の由来を話しいただけたのだと思います。その後は、私も遠慮を忘れて、本通のお店があった場所(原家の住居)など、いろんなこと教えていただきました。「お彼岸の中日23日は台風の影響で来られないと思い、今日お墓参りに来たのです」とのこと。もし、ここを訪れる時間が少しでもずれておれば、またが近づくという予報がなければ無かった出会いです。7月に、初めて原邦彦さんゆかりの広島一中の追悼式(7月30日のブログで紹介)に参加したことといい、この日の文生さんとの出会いといい、不思議な縁を感じます。

原文生さんのおかげで、私も線香の火が消えないうちにお墓に手を合わせることができました。

明日のブログでは、原家のお墓について紹介したいと思います。

いのちとうとし

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2019年8月21日 (水)

核廃絶運動は歴史的厳しさに直面している (5) ――憲法の復権と民主主義の再生が必要――

長いシリーズになりましたが、前回までは、日本政府が、核兵器禁止条約の署名と批准を頑なに拒否しているのは、「日本自前の核兵器を保有する」が日本政府の究極的な目標であり、署名・批准はそれを諦めることと同じなのだという説明をしました。

それほど大きな「目標」貫徹のためには、決して核禁条約の署名・批准はできないのです。それに対抗しての私たちの立場は、どうしても日本政府に核禁条約を署名・批准させることです。でも、そのための運動を構築するに当り、私たちは再度、日本の「平和運動」のこれまでを振り返り、現在私たちの持っている力を確認しておかなくてはなりません。

その結果は、残念ながら、非常に厳しい状況にあることを認めなくてはならないのです。その理由を、三つ説明しておきたいと思います。論点をハッキリさせるために、以下、物事を極めて単純化して説明します。例えば、「○○は××である」式の言い方をしますが、正確には、「○○という状態の起きたとき、これこれという条件を勘案すると、多くの場合、××という結果につながることが多くあった」と書くべきことも多いということです。

 

(A)日本の平和運動は、国際的運動だった。 

別の言い方をすると、日本政府を説得し政府の方針を変えさせるという種類の運動ではなかった、と言って良いでしょう。

再度お断りしますが、「単純化」しての表現ですので、例外は多くありますし、100%の場合、これが真実だと言っている訳ではありません。国際的な舞台での成功例が多く、国内的な運動では、他の人たちの運動が主導権を握っていた、というような場合も多々あることを念頭に置いて、しかし、これからの運動構築の参考にするための総括として役立つ読み方をお願いします。

本題に戻りましょう。「戦後日本の最大規模の社会運動は平和運動であった」という総括をしているのは、元朝日新聞の記者で、「最後の原爆記者」の一人として今でも健筆を振っている岩垂弘さんですが、彼の近著『戦争・核に抗った忘れえぬ人たち』の最後に、「戦後平和運動の到達点」という短いのですが、優れた運動史が載っています。この本も多くの皆さんにお読み頂きたい物の一つです。

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その中で岩垂さんは、運動が達成した「成果」を三つ挙げていますし、四つの弱点も指摘しています。実はこれらの点をまとめると、ここで私が指摘したい三つのことは既に言い尽くされているのですが、同じ内容を別の言葉で表現しておくことも大切ですので、繰り返しを恐れずに、岩垂さんのまとめから見て行きましょう。

まず、日本の平和運動が達成してきた三つのことですが、①国際的な核軍縮の進展に貢献した。②日本の核武装を阻止してきた。③は、被爆者を救援する活動を続けてきたことです。

続けて、岩垂さんは運動の「弱点」を四つ指摘しています。(i)分裂によって力が削がれた。(ii)被害者意識一辺倒に基づくものであった。(iii)日本が抱えている矛盾に鈍感なまま来てしまった。それは、「核の傘」の下で反核を叫んでいることである。(iv)核エネルギーの利用についての意見の違いから、運動が共同してできなかったこと、とまとめられます。

こうした総括を最も象徴的に表しているのが、1982年の第2回国連軍縮特別総会に日本のNGOが提出した核兵器完全禁止要請署名で、全部で8,000万筆にも及んだことでしょう。問題は、これが日本政府の核政策を根本的に変えさせる役割は果していないという事実ですし、②の核武装阻止も、事実として核武装はしていなくても、それを究極的目標として着々と実績を積んできた日本政府の最後の足掻きに、対抗できる種類の運動だったのかは別問題なのです。また、③の被爆者援護の活動も確かに立派なのですが、1980年に「基本懇」が政府の方針として打ち出した「受忍論」を撤回させるまでの力にはなっていないことも事実なのです。

つまり、これまでの運動は国際的にはそれなりの成果を挙げてきたが、日本政府の政策を根本的に変えるという方向性は持っていなかった、と言っても良いのではないかと思われるのです。

 

(B)国際的な貢献にしても、日本の運動が自ら目標を掲げて世界の同志に呼び掛けた結果として国際的な目標の達成につながったのではなかった。

ここで注意が必要です。「だから日本の平和運動は駄目なのだ」といった、評価の問題に摩り替えないで下さい。そんなことは言っていません。国際的な市民運動の全体像を見ると、それぞれの地域や歴史等の複雑な要素が絡み合って、役割分担が決ります。日本の役割分担には、このような目標設定や、計画立案が入っていなかったという事実を虚心坦懐に見詰めることが自分たちの力を知る上で大切だという点に留意して頂きたいのです。

1963年の部分核停条約、1970年のNPT、1996年の国際司法裁判所による勧告的意見、南半球がほぼ全て非核地帯条約を締結したこと等、日本の運動も重要な役割を果していますし、核兵器の非人道性を世界に広める上で、被爆者ならびに日本の運動の果たした役割は、他の国の運動では決して実行できなかったほど貴重です。しかし、国内でそれが日本政府の政策変更にまでつながったかというと、答は皆さん御存知の通りです。国際的にも国内でも、目標の設定とその実現のための作戦立案、そして実行というシナリオから、これまでの運動を見詰める必要もあるのではないでしょうか。

 

(C)原発についての考え方の違いが、運動も野党も分裂させている。

もう56年前になってしまいましたが、当時の原水禁運動が分裂した原因の一つがこの点でした。そのしこりは、今でも続いていますし、参議院選挙でも明らかになったことの一つは、野党共闘の障害の一つがこの点なのです。「自前の核保有」と、原発の存続は切り離せない絆で結ばれています。この絆が私たちの想像以上に強い可能性もあります。つまり、現在では、核兵器反対派の中に、原発賛成派も反対派もいるという状況から、原発賛成派が中心になって、原発賛成かつ核兵器反対というグループを原発賛成かつ核兵器賛成に宗旨替えさせてしまう可能性も考えなくてはならない時期に来ているのです。

核禁条約の署名・批准を日本政府に迫る上で、私たちの置かれている状況が厳しいことはこれでお分り頂けたとして、それではどうすれば良いのでしょうか。何事でもそうなのですが、問題を解決するためには、まず基本に戻る、数学の言葉では原点に戻ることから始めるのが「王道」なのです。そして「王道」が何であるのかは皆さん良く御存知のはずです。

[2019/8/21 イライザ]

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2019年8月 3日 (土)

「数学書として憲法を読む」ー秋葉忠利代表委員の新著発刊

広島県原水禁代表委員の秋葉忠利さんは、これまでにも多くの著書がありますが、この度「数学書としての憲法を読む」という新著を発刊されました。サブタイトルは「前広島市長の憲法・天皇論」となっています。私にも「著者謹呈」として一冊送っていただきました。

本来なら、本を読んだ感想を書くべきですが、私の能力では、それを待っているとずいぶん遅くなってしまいますので、取り急ぎ新著が発刊されたことを紹介をさせていただきます。署名を見た時、私の頭に浮かんだ書名は「数学書」ではなく「数学者」でした。「数学者秋葉忠利」の憲法解説本と思ったからです。

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「数学書」など読んだことのない私には、大きな?がつくのですが、本にまかれた帯には「原理原則などどこ吹く風 ごまかしだらけの政治の時代―文字通りに、素直に読んでみませんか?」と書かれていますので、素直に読めばよいのだなとちょっと安心です。さらに裏表紙側の帯の「憲法を基本に据えて、本当の意味での立憲政治を実現するための出発点として私が選んだのは、憲法全体をもう一度、数学書を読むように丁寧にそして論理的に読んで、その内容を理解することでした。その試みから得た教訓は、99条の(復権の)重要性です。これが私にとっても貴重な『発見』だったことから、多くの皆さんと共有したいと考えるようになりました。」との紹介で、この本が書かれたゆえんが、憲法99条にあることが分かります。安保法制の審議を機に、クローズアップされた99条の「憲法尊重擁護義務」について、その実践のための具体的な提案も含めて、その重要性が本書では書かれています。(ちょっと斜め読みで受けた印象)

ところで、この本、開いてみるとちょっとびっくりします。最初に出てくるのが「はしがき」です。これは、「はじめに」や「まえがき」と同じような意味を持つ本の書き出しだと思います。ところがこの本では、この後に「前口上」、そして「序章」と続きます。「まえがき」とも思える部分が、こんな組み立てで出てくる本は、見たことがありません。と言っても私の少ない読書歴での感想にすぎませんが、ここでまず「秋葉さんらしいな」という印象を強く持たされます。その「前口上」「序章」がなぜ必要だったのかが、「はしがき」に書かれています。「なぜ、『数学書として読む』ことに意味があると思ったのか、それが『広島市長』とどう関わっているかについては『前口上―なぜ前広島市長が憲法を語るか』で説明したので、そちらをお読みいただけると幸いです。」ということです。そしてさらに「はしがき」を読み進むと「本書を読む順序」について記載されています。「論理的には最初から順番に読んでいただくことを想定しています。しかしながら、難しいかもしれないと危惧をお持ちの方は、第5章からはじめてみてください。その他、興味のある章から、始めてくださっても本筋はご理解いただけるでしょう。」となっています。ちなみに第5章のタイトルは「憲法は死刑を禁止している」となっています。そもそもこの章は、3章で構成される「第Ⅱ部 憲法は死刑を禁止している」の最終章として登場しています。

今のところ、ここまでぐらいしか読んでいませんので、これ以上のことは書けません。

秋葉代表委員の憲法論については、このブログでも何度か登場していますので、なじみがあると思います。ぜひ一人でも多くの人に読んでいただけることを期待します。

いのちとうとし

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