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日記・コラム・つぶやき

2020年1月20日 (月)

朝鮮学校高校無償化裁判支援街宣と第5回へいわこども展

毎月19日の実施されている今年最初の「朝鮮学校無償化裁判」を支援する街頭行動が、昨日本通電停前で実施されました。昨日の行動は、日曜日ということで午前11時から正午までの1時間、マイクでの訴え、チラシの配布、署名活動などを行いました。

このブログでも政府が実施する「高校無償化支援制度」から朝鮮学校のみが除外されていることの問題点については、今回は触れませんが、昨日の行動の様子を簡単に紹介したいと思います。

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最も特徴的だったことは、参加者が多かったことです。卒業を前にした朝鮮高校の3年生、学園の先生方や関係者、子ども連れの保護者とともに、支援する日本側の参加者の姿を多くみることができました。総勢100人を超える行動になりました。

次は、ビラの受け取りです。最近、街頭行動で配布されるビラの受け取り手が非常に少なくなっているのを毎回感じていますが、今回は従来の行動になく、良く受け取っていただいたというのが実感です。全国男子駅伝もあったからでしょうか、午前中にもかかわらず、いつもの日曜日より通りを歩く人の姿が多かったように感じました。「朝鮮学校の高校無償化」問題を初めて耳にする人も多かったのではないでしょうか。ビラの受け取りが多かったのもそんなところにも理由がありそうです。

もう一つは、署名への協力者です。最終集約を聞いていませんので、何名の方が署名していただいたのか数は不明ですが、ここでもいつもより多いと感じました。中でも、中学生が何人も署名している姿が特徴的でした。

今後も、時には時間と場所(いつもは県庁と市役所前)を変えて、訴えることも必要のように思いました。

正午で街頭行動を終え、多くの人が昼食を摂った後、「へいわこども展」が開催されている旧日銀広島支店へと移動しました。

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今年で5回目となる「へいわこども展」は、15日から始まり、明日21日まで開催されています。午前10時から午後7時まで開催されていますので、ぜひ参加してください。

昨日は、午後1時半から朝鮮学校の生徒によるミニコンサートがありました。小学生による歌唱、民族楽器の演奏、中学生の民族舞踊が披露されました。短い時間の演技でしたが、一生懸命な姿と、練習を繰り返していることが実感でき、大きな拍手が起きたコンサートでした。

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会場は、朝鮮民主主義人民共和国、大韓民国の子どもたちの作品が並べて展示されているのが特徴的です。そして広島のインターナショナルスクールや日本学校の高校生、中学生、小学生の絵も展示されています。入り口で手渡されたチラシの裏面に記載された「昨年の展覧会アンケート」の一文です。「どれもすぐれた作品で、見ていて心が動かされました。普段交流がないようでも、こうした作品展を通して心の交流ができることは、とても貴重で素晴らしいことだと思います。私たちがどこかでつながっている。その思いが強まりました。」(50代男性)

こうした地道な取り組み上げることが、朝鮮学校への理解を深めることにつながるように思います。

いのちとうとし

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2020年1月19日 (日)

幟町国民学校―二人の被爆体験記(その2)

いよいよ二人の被爆体験です。

二人が、夜の防空壕掘りや街の橋々での夜間警備を終え、幟町国民学校の臨時兵舎に帰っている時に原爆が投下されます。

直登さんの日記です。「一度警戒警報が出たのでくつ下をはきゲートルだけでしてねむった。9時頃でもあったろうか、大きな爆発音に夢を破られて目をひらくと、ものすごい勢いで天井の木材や瓦が顔の上に落下してきた。戦友の中によろよろ多立ち上がった者もいるが、皆顔面を真っ赤に染めている。自分も生暖かい血が額から流れ落ちるのがわかった」。9時ころという時間が目を引きます。

私が興味を持ったのはその次に書かれていることです。「中国新聞社の四階目あたりが猛烈に燃え上がっている。」その後に、その後の直登さんの行動の様子が続きますが、同じ情景が、堤さんの被爆体験記にも書かれています。「またまた警戒警報が発令された。いつでも出動できるよう準備して仮眠せよとのことで、私服のままゲートルを巻き、小銃とごぼう剣の位置を確かめて横になった。・・・」。右手首が大きなはりに挟まって抜けなくなったところを京谷君の助けで手を抜くことができことが記された後、「腰の痛みを我慢しながら、崩れた校舎の瓦礫の上に立つと、土色の空にオレンジ色の太陽がぶきみにみえた。周囲が薄暗く、中国新聞社の四階あたりが猛烈に燃えていた」と書かれています。

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中国新聞社の火災が、強烈に目に入ったのか、くしくも二人の体験記に同じように記載されています。当時の中国新聞社は、現在の広島三越に建っていましたが、幟町国民学校からはわずかに150mという近距離ですから、強く印象に残ったものと思われます。

堤さんの体験記では、そのすぐ後に四國直登さんが登場します。「見回すと、建物は倒壊して方々で火の手が上がっており、人影はまばらである。勤務先の友人、四國直登君が顔面より血を流し、呆然と立っていた。『オーイ、大丈夫か』と言うと『足をやられた』と言う。校庭の方に降りていく姿が痛々しく、まことに気の毒だった。」

直登さんの日記では、堤さんの名前は出てきませんが「左足の裏を見れば材木でブチ割られてどくどく血を吹き出している。藤原が布切れを腿に巻き付け棒切れ通して締めつけてくれたが、血は止まらない。ひとまず校庭に出る。」しかし、6日の夕方の情景で堤さんの名前が登場します。「4時頃かも知れぬ。『四國!』と呼ぶのでひょいとふり返って見れば、堤、中尾両友なり。両友は今から歩いて帰るという。」

二人の体験記を読むと不思議な思いに駆られます。しかし、ここで再び分かれた二人がまた再会することが、堤さんの体験記に書かれています。翌日、堤さんは部隊と連絡を取るため大正橋まで出かけるのですが、その帰り道でまた直登さんと出会うのです。「また顔と足にケガした四國直登君に会ったので声をかけた。『オーイ、どうしたんヤー。まだ家に帰っとらんのカー』『ホーヨ、足が痛うてノー、昨夜は橋のたもとで野宿したのヨー』『ホーカー、苦労したノー。よしワシが送ったロー』」こんな会話を交わした後、堤さんに送られて直登さんは自宅に帰ります。再び体験記から。「大河町の彼の家まで送った。彼の家も爆風で屋根が落ち、かなり壊れていた。四國君ともこれが最後になった。」

この出会いは、直登さんの7日の日記にも出てきます。「大正橋まで帰り、出会った川手の昇さんと話していたら堤がいたので、自転車の荷台に乗せて家まではこんでもらう。少し破損しただけですんだわが家へ帰りついた。嬉しくて泣きたいようだった。」

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大正橋は、猿猴川にかかる上流から4番目の橋です。西岸のたもとには、原爆慰霊碑が立っています。堤さんの体験記は、被爆後50年の1995年に書かれたもののようですが、直登さんの日記と一致する記載に、あまりにも強すぎる体験と記憶の確かさを感じ、少しびっくりします。

直登さんの日記は、8月27日を最後にして途絶えます。その日の夜半、苦悶の末、18歳の生涯を閉じたのです。

また新たな事実を感じることのできた、二人の体験記でした。

いのちとうとし

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2020年1月18日 (土)

幟町国民学校―二人の被爆体験記(その1)

今日は、今月2日のブログ「元日の平和公園」で紹介した「企画展『時を超えた兄弟の対話』」に関わる二人の被爆体験記を紹介したいと思います。被爆体験記といっても四國直登さんは当時の日記、新潟の被爆者・堤武博さんは、文字どおり体験記です。堤さんの体験記は、3日のブログ「ヒロシマ 空白の被爆75年」でも一部紹介していますが、今日は被爆時の状況について、二つの体験記を比べながら少し詳しく見てみたいと思います。

四國直登さんは、1945年7月9日に「警備召集」を受け、翌10日に幟町国民学校にある臨時兵舎に行き、その日から防空壕掘りなどの任務に就きます。堤さんが所属する中国第32037部隊です。

堤さんは、新潟の被爆者としていますが、1927年(昭和2年)広島市段原東浦町生れ、日本製鋼所広島製作所に入社し、同じ職場で働いてきた直登さんと同じように警備召集を受け、同じ部隊に所属し、幟町国民学校で被爆。軍隊所属というのですから、20歳を超えていると思いがちですが、二人とも同じ年の生れで、17歳と18歳です。堤さんは、同社で退職まで働き、その後娘さんと同居するため新潟に転居されています。

堤さんの体験記で、当時の兵隊の様子を知ることができます。「7月27日、勤務先から帰ると、三度目の警備召集令状のハガキが来ていた。『堤二等兵は、7月28日、幟町国民学校を兵舎とする第一特設警備隊中部第32037部隊に入隊せよ』とのこと、文面では『二等兵』だが、実際は徴兵検査(18歳)前で、兵隊ではない。また来たかと思ったが、あわただしく準備した。」

二人が所属していた部隊の名前が、直登さんの日記では「中国第32037部隊」、堤さんの体験記では「中部32037部隊」となっています。どちらが正しい名称なのか調べてみました。

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手掛かりはないかと、幟町公園に行ってきました。上の写真を見てください。幟町公園には「幟町国民学校跡」と刻まれた「慰霊碑」が立っています。この碑は、1981年(昭和56年)に旧幟町国民学校教職員卒業生有志によって建立されたものです。裏面に、ここで犠牲となった部隊名と幟町国民学校名が刻まれています。

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刻まれた「部隊名」は3つあります。一番上に、二人の文章に出てくる「中部32037部隊 広島東部」が、刻まれています。堤さんの体験記に記載された「中部」の名になっています。ところが調べてみると、広島市が発刊した「広島原爆戦災史第4巻」の69ページには「幟町国民学校」にいた部隊名として「広島地区第一特設警備隊(中国第32037部隊)」と記載されています。いずれが正しい名称なのかは、不明です。

部隊名は別にして、体験記に教えられることは、戦争末期の当時、「警備召集」という名によって徴兵検査前であっても召集されていたという事実です。非常事態(戦争遂行能力がない)になっていることが、ここからもわかります。こうした働き手が召集された後に、中学生などの子どもたちが勤労動員されていったことが想像できます。それな状況にありながらも無謀な戦争を継続していたということです。この「警備召集」は、同じ職場でも交代で召集され、何日間かすると、召集解除となり、職場に復帰するということが繰り返されてようです。正規の工員確保のためでしょう。

堤さんの体験記には「8月2日、隊長より、明日3日の召集解除の予定が、三日間の延期を言い渡され、8月6日正午召集解除の予定となった」と記されています。堤さんの場合は、7月28日の召集ですから、非常に短い期間で交代していたことが、ここからもわかります。実は、直登さんの日記もよく読むと、7月10日に入隊した後、7月16日に除隊となり、7月28日、堤さんと同じように入隊し、8月5日の日記には「明後日は家に帰れる」とありますから、堤さんと同じように除隊が予定されていたようです。

そして運命の日を迎えるわけですが、日本製鋼所広島製作所は、船越にありました(現在も同じ場所)ので、予定通り除隊され現職に復帰していたら、近距離(爆心地から1.1キロ)での被爆は、免れたことになります。

ところで、上記の写真には、「第32027部隊」の他に「中部第32057部隊 世羅郡」の名前も刻まれています。この部隊のことが、堤さんの体験記にも出てきます。「翌日部隊に行くと、今回は世羅郡より40代の予備役(現役を終えた人が一定期間服した兵役。非常時にだけ召集されて軍務に服した)が多く入隊したため、若者は2階に上がれということだった」と。世羅郡から建物疎開作業隊として編成された部隊のことです。通称「世羅部隊」です。ですから、幟町公園の慰霊碑には、毎年8月6日には「世羅町長」の名前でお花が献花されています。私は、この慰霊碑については「世羅部隊」のことしか知りませんでした。世羅部隊のことについても、機会があればまた詳しく報告したいと思います。

もう一つ思い出してほしいことは、幟町国民学校も神崎、千田国民学校と同じく、軍隊の駐屯場所になっていることです。

前段が長くなりすぎました。二人の被爆体験は明日にします。

いのちとうとし

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2020年1月17日 (金)

原爆被爆二世国家賠償請求裁判第9回公判・傍聴記

裁判傍聴記が続きます。

今日は、一昨日(14日)広島地裁201号法廷で開かれた被爆二世裁判の第9回公判の報告です。

今回の公判は、原告側(被爆二世)が、昨年12月27日に提出した「原告ら準備書面6」の陳述と今後の公判の進め方などが審理されました。

準備書面6は、「原告ら被爆二世が置かれた状況等―原告ら被爆二世はどのような状況にあるか」について、概観的に主張したものです。その中心は、被告・国側が「放射線被害の遺伝的影響について明確な科学的根拠がない」としているのに対し、「もっと深刻な問題は、健康問題」で「様々な要因から自らの疾病が放射線被害の遺伝的影響と思わざるを得ない状況にある」とするとともに「親がガンにり患すれば、自分もガンが発症するのではないかとの不安を抱かざるを得ない」という現状を指摘しました。そして「被爆二世が健康不安を抱いている事実までも否定はしないだろう」と国に迫っています。

その主張の根拠の一つとして1968年に「原爆特別措置法」が制定された当時の厚生大臣の発言「原子爆弾の障害作用の影響を受けたものの中には、身体的、精神的、経済的あるいは社会的に劣っている者や、現に疾病に罹患しているため、・・・これら特別の状態に置かれている被爆者に対する施策としては、医療の給付などの健康面のみに着目した対策だけでは十分ではなく、これらの被爆者に対してその特別の需要を満たし、生活の安定を図る必要がある」を紹介し、被爆二世にも一般的にあてはまる問題だとしています。

その上で、現在実施されている「被爆二世健康診断」の問題点を指摘しています。

一つは、長く被爆二世が求めてきた「ガン検診」が含まれておらず、極めて不充分なものであること。二つ目に、「そのため独自で被爆二世対する施策を実施する自治体がある」ことを紹介しながら、「しかし、それらはごく少数の自治体にとどまっている」としながらも「自治体独自の施策を行っているのは、被爆二世の健康に対する不安を解消する」ために実施されているのであり、「法レベルで何らかの援護が必要だ」と結論付けています。

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審理終了後の報告会では、在間弁護士から「軍人軍属に対する戦傷病者遺族等援護法」から朝鮮半島や台湾出身者の徴兵、徴用者が「国籍条項」を理由に排除されている問題を取り組んだ裁判の状況が紹介されました。「結果としては、全ての裁判で敗訴していますが、自治体レベルで援助を行っていたことが力となり、国がその後特別措置を行い救済した歴史がる」というものです。そして「今回の準備書面には、こうした問題を提起する意義・意味がある」と強調されました。

原告団としては、3月末までに全原告一人ひとりの意見陳述書(自らの体験などの基づく主張)を提出することにしています。ここから、本格的な論戦がスタートすることになります。

次回公判は、4月21日の午後1時30分から開廷しますが、今回の公判の最後に裁判長が「弁論更新があります」と告げましたので、新たな裁判官体制になると思われます。予測では、これまで行政訴訟で「原告敗訴」の判決を出し続けた小西裁判長が交代すると思われます。

いのちとうとし

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2020年1月16日 (木)

「上関原発埋立免許取消訴訟」控訴審判決

昨日、広島高裁で上関町祝島島民が「上関原発埋立免許取消」求める訴訟の控訴審判決が出ました。判決は、山口地裁が示した「祝島の漁業者には、原告としての訴える利益(原告適格)を認めない」とする判決を支持し、「控訴を棄却する」という不当判決でした。まさに門前払いです。

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しかも、報告集会での本田弁護士の報告によれば、判決文はわずかに10ページ、実質的な内容はわずか5ページで、一審判決をすべて認めるという、「原告の訴えを無視した」と言わざるを得ない判決だということです。

判決は、漁業者が対象水面で漁業の営みは、単なる利益であって、「公有水面埋立法」に言う「権利」ではないというのです。さらに生活権、人格権についても、同じように「利益であって権利ではない」という言葉の遊びのような理由で、「原告の訴える権利」を否定してしまっています。

これだけでは少しは良心が痛むのか、原発の危険性にも触れ、「居住者が懸念を抱くのはもっともである」と言っていますが、本来裁判所が審理すべき「公有水面埋立の目的である原発建設」の是非については、全く踏み込んでいません。特に昨年7月に出された「県の延長許可」では、「原発の本体の着工時期の見通しがつくまでは埋め立て工事をしないこと」という、摩訶不思議な条件が付いての「延長許可」だったのですから、その妥当性を判断するのは裁判所の責務だったはずです。

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これでは、三審制をとる現在の司法制度が「本当に意味があるのか」と問われることになります。いま政治権力への忖度が働く時代になっていますが、生活のことをもっと考えるべき裁判所もそうなってしまったのかと思わざるを得ない判決です。

もう一つ言えることは、山口県が根拠としているのは「上関原発は、重要電源に指定されている」ということですが、そもそも今原発を取り巻く現状は、どうなっているのかです。福島原発事故以降、原発事故への不安は増大し、2011年以降8年経過しても4分の1しか再稼働(停止中を含む)できておらず、再稼働出来ない状況にある原発が多数残っています。もちろん私たちは、全ての原発の再稼働には絶対反対ですが。仮に原発再稼働の審査が進んだとしても、現実を直視すれば、新規の原発設置許可の審査など進められる状況にないことは、明らかなことです。

このことから考えても「山口県の延長許可」が、いかに不当なものかは明白です。

この不当判決に対し、法廷で判決を聞いた木原さんは、次のように述べています。

「漁業を生業(なりわい)としている人たちのことを、それは単に漁場から得ている『利益』であって『権利』ではない。そんな理屈が成り立つのか、そのことの怒りを感じた判決であった。こういうことを言う人は、魚を食べるなと叫びたい。

 上関原発の建設計画が浮上して今年は38年である。これまで『故郷を原発の街にしたくない。放射能の街にはさせない』という一心で頑張ってきた人の姿が何人も思い出された。38年の年月は多くの方を故人にした。

そして『私らが上関原発に反対することを一番分かってくれるのは、広島の人よねー』と言われたのを思い出した。原子爆弾を知っている人なら、という連帯の声であった。この期待に応えるのも私たちの役割りだ。」

報告会は、山戸貞夫さんたち原告団が、「この判決を認めることはできない」とし、「上告し、中電に異議ありの声を上げる決意です」と表明し、終わりました。

いのちとうとし

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2020年1月15日 (水)

1月のブルーベリー農園その1(東広島市豊栄町)

新しい年の1月のブルーベリー農園の景色には野焼き、とんどの煙が枯れた色合いの中で緩やかに動きたなびくさまが落ち着いた気分にさせてくれる。繰り返しだが春までブルーベリーの剪定にかかるスタートの月。

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1月4日(土)。広島市内からブルーベリー農園に行き今年最初の作業と見回り、ブルーベリーの剪定した枝の野焼きなどを行う。

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昨年し残した油粕のブルーベリー畑への施肥を行うが足元のホトケノザも寒くないのか春より小さめのはなびらが顔を出している。

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相変わらず農道のあちこちにトンネルをほったモグラの堀り上げた土がこんもりした形を見せる。もぐら塚というそうだ。餌のミミズを探して忙しいらしい。

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枯れずに切らないで残った菜の花は雪も降らないのでべちぇべちゃにもならず咲いている。

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帰るころに見るブルーベリー畑からの夕焼け。

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1月5日(日)。正月も終わりそろそろ農家の方も野焼きなどして活動開始の様子。

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野生のツツジの枝にカマキリの巣が作られている。ブルーベリーの木のあちこちにもこのような巣が見られる。枝を切らない限りそのまま、そのまま。

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1月12日(土)。里山のブルーベリー園から見えるとんどの煙。ぱーんぱーんと竹のはぜる音が聞こえてくる。

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1月13(月)。里山のブルーベリー園の剪定。この場所は午後3時頃まで寒い風が吹くのでしっかり防寒しておく。ここ数年はこの場所で切った枝は燃やさずに柵の周囲に細かくして積んでおくようにしている。

10_20200114213701  ちょっとだけ日がさす。枯れたまま立っているニラの花も逆光に映えて冬の地面にアクセントをつけてくれる。

やっぱり暖冬のようで暖かい日が続いていブルーベリーの剪定などの農作業にはありがたいが・・・。雪が少ないと夏の水不足が農家の皆さんの心配の種だろう。

2020年1月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年1月14日 (火)

「旧広島陸軍被服支廠」見学会

旧広島陸軍被服支廠の保存をめぐる広島県の方針が発表されて以降、市民の関心が高まり、見学希望が相次いでいるといわれています。そして様々な団体が見学会を実施していますが、私も新聞報道で知った「建物を巡るイベントを開く『アーキウォーク広島』」が主催する「建物見学会」に参加しました。

主催する「アーキウォーク広島」は、以前から建築というキーワードで広島を活性化させようと「建築公開イベントの開催」や「建築ガイドブックの発効」などの活動を行う団体です。

当日も「過去の調査及び最近の学術調査」をもとに作成したカラー印刷の資料が、参加者に無料で配布されました。

この見学会は、11日から13日までの3日間、午前と午後それぞれ1回ずつ開催されましたが、私は13日の午前11時からの部に参加しました。

集合時間の15分ぐらい前に、その集合場所の緑町第2公園に着いたのですが、すでに多くの人が集まっておられます。多数の参加が予測されるということで、20人余りが参加された時点で第1班が構成され、見学会が始まりました。私は第1班です。

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現地はすぐ近くに住宅があるということで、移動する前に公園で配布された資料をもとにした説明がありました。

この見学会は、「旧広島陸軍被服支廠」を被爆という視点からではなく、「貴重な建築物」としての価値を知ってほしいとの思いで企画されたものですから、私にとっても非常に貴重な体験となりました。配布された資料をもとに、いくつか、その貴重さを紹介したいと思います。

「建築物の歴史と経緯」です。広島被服支廠は、日露戦争の最中の1905年に洗濯工場として建設され、1907年に支廠に昇格しました。東京の本廠、大阪の支廠の施設は、現存していませんから、被服廠の貴重な現存施設です。

次は「RCの歴史を知る」建物です。「RC」聞きなれない言葉かもしれませんが、鉄筋コンクリート造りのことです。この建物は日本最古級とのことです。世界でRCを使ったアパートが最初に建てられたのは、1903年フランスです。日本でも同じ時期に建ち始めますが、国内で現存するRC建築は、1911年に建てられた旧三井物産横浜支店と小野田セメントの工場建屋などがあるようです。この被服支廠は、これらとほぼ同じ時期である1913年に建設されていますので、そのことからも貴重さが分かります。

この調子で紹介していくと、ずいぶんと長い解説になってしまいますので、後は簡単な紹介にします。

「でも被服支廠はレンガ造りでしょ」と疑問に思われる方も多いと思います。この建物は、確かに外壁はレンガ造りとなっていますが、内部の柱や床は、全てコンクリートで作られており、RCとレンガが併用されています。

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同じようにレンガ造りで建設された兵器廠(現在の広大病院)は内部が木造、糧秣廠(現在の広島市郷土資料館)の内部は、鉄筋で作られています。ここでも貴重な建物だということが分かります。

「建築デザイン」です。屋根のピナクルや梁の端部の線形などに装飾的要素があるそうです。ピナクルは、初めて気づきました。

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その他にも「窓の組構造」や戦前の建築物に多い古いタイプの瓦の存在などの紹介がありました。

最後の紹介したいことは、資料の最後に記載されている「場(サイト)が持つ力」ということです。ここが最も大切だと思いますので、その一部を紹介します。

「建築単体としての価値のほか、倉庫が群として存在感のある『場』をとどめている点も極めて貴重です。(中略)旧被服支廠の倉庫群を目の前にすると、理屈抜きにその巨大さに圧倒されます。・・・この場に身を置き、五感を使うことで、『実感』という、書物で得られない膨大な情報を得ることができます。」

「旧広島陸軍被服支廠」は、「歴史的貴重な一面を体感できる場」としての価値を有しているということですが、そのことはガイドの奥本さんも何度も強調されました。

「アーキウォーク広島」が主催したこの三日間の見学会には、初日が約80人、二日目が約100人、そして最終日の昨日は約150人の参加がありました。関心の高さがうかがわれます。

見学会終了時「全棟保存」を求めることをいくつも聞きました。私もそのことを改めて実感するとともに、参加して本当によかったと強く思っています。主催者の皆さんありがとうございました。

いのちとうとし

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2020年1月13日 (月)

もみじニューイヤーコンサート2020

11日、今年で36回目を迎える新春恒例の「YMFGもみじニューイヤーコンサート」が、午後3時に開演しました。

私が、「もみじニューイヤーコンサート」に行くようになって数年が経ちます。年初めには様々な「ニューイヤーコンサート」が開催されますが、この演奏会を選ぶのは、ちょっとした理由があります。それは後で触れることにし、今年のコンサートの様子を簡単に紹介します。

今年の指揮者は現田茂夫さんでした。ソリストはピアノ演奏の菊池洋子さん。ここ数年、小山実稚恵さん出演が続いていましたので、もみじニューイヤーコンサートの常連かと思っていましたが、今年は新しいソリステで新年を迎えました。当日配布されたプログラム表には、菊池さんは「2002年第8回モーツァルト国際コンクールで、日本人として最初の受賞者」と紹介されています。もちろんオーケストラは、広島交響楽団です。

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演目のスタートは、J.シュトラウスⅡのワルツ「美しく青きドナウ」でした。この曲は、ウィーン・フィルのニューイヤーコンサートの定番ともいえる曲ですが、今年のウィーン・フィル・ニューイヤーコンサートでは、珍しく演奏されません(私の聞き洩らしかもしれませんが)でしたのが、こちらのニューイヤーコンサートで楽しむことになりました。2番目の演奏は、菊池洋子さんのピアノ演奏によるモーツアルトの「ピアノ協奏曲第21番ハ長調k.467」でした。心に響く演奏に、大きな拍手が続きます。アンコール曲は、グリュンフェルト作曲「ウィーンの夜会~『こうもり』の主題による演奏会用パラフレーズ」でした。

休憩をはさんだ後半は、広響によるチャイコフスキーの「交響曲第4番ヘ短調 op.36」です。40分を超える熱演でした。もちろんアンコールです。曲目はチャイコフスキーの「くるみ割り人形」から「花のワルツ」です。

今年も年初めの演奏会を堪能し、帰宅の途に就きました。

ところで、私が多くのニューイヤーコンサートの中からこの演奏会を選ぶ理由です。このコンサート、冠のとおり主催者は、もみじ銀行ですが、かつては「広島相互銀行」と呼ばれていました。私とのかかわりは、その「広相」と呼ばれていた時代です。1970年代、銀行の第2次オンライン化が進められていましたが、当時の広島相互銀行でもその事業が進みました。広島相互銀行のオンラインシステム化の事業を請け負ったのが当時の電電公社中国データ部(現在の株式会社NTTデータ中国の前身)だったのです。当時中国データ部に所属していた私もプログラマーの一員としてその開発に携わりました。私が担当したのは、定期性預金です。当時、定期性預金は、大きく変わることはないといわれていました。ところがシステム開発を進める途中で、普通預金と連動した「総合口座」預金が誕生したり、定期預金の預入期間が、最長1年半が2年に延長され、しかも1年目で利息計算し、2年目の満期を迎えるときには複利計算となるなど、何度も変更を余儀なくされることになりました。その都度、広島相互銀行の担当者と打合せを繰り返したことを懐かしく思い出します。私が中国データ部に在職したのは約8年余りでしたが、当時の担当者とはいまも連絡を取り合っています。その後もNTTデータタ中国が担当し、何度もシステムアップを繰り返してきたようですが、数年前山口銀行のシステムに変更され、現在は関わりがなくなってしまいました。それでも何となく、懐かしさを覚えます。

そんな思い出がありますので、名前は変わったとはいえ「もみじ銀行」には、他の金融機関とは違う思いが今も残っています。それがこの演奏会を選ぶ理由です。

いのちとうとし

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2020年1月12日 (日)

2020の課題を考える

2020年を迎えました。

広島に住む者にとっては、なんといっても原爆投下から75年という大きな節目の年となります。そしてNPT(核拡散防止条約)が発効して50年、国連では4月から5月に掛けてこの条約の再検討会議が開催されることになっています。

5年ごとに開催される再検討会議ですが、5年前と大きく異なる日本の原発をめぐる状況は、日本の核燃料サイクルのカナメである高速増殖炉「もんじゅ」が廃炉となり、プルトニウムを所有することの根拠が無くなったことでしょう。

また1970年3月14日、大阪で開催された大阪万博開会式に関西電力美浜原発1号機から原発の電気が送られてきて、会場の電光掲示板には「本日、関西電力の美浜発電所から原子力の電気が万博会場に試送電されました」と「誇らしげ」に掲示されました。あれから50年という年でもあります。

そして17年7月に核兵器禁止条約が採択されて、最初のNPT再検討会議になります。核兵器禁止条約は、50か国が批准すれば90日後に発効するものです。12月31日現在、34か国が批准という状況になっています。34番目の批准国はアンティグア・バーブーダというカリブ海に浮かぶ小国で、地図でも見えない国でした。「弱肉強食」の核拡散防止条約に対し、「共存共栄」の核兵器禁止条約、どう折り合うかも注目です。

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一方、被爆者手帳を持っている被爆者の数は、19年春の時点で15万人を切ったと報じられました。逆に原爆慰霊碑の死没者名簿に記されている被爆者は31万9千人を超えました。死没者名簿には「氏名不詳者多数」とだけ記された一冊の名簿もあります。時の流れとともに生存被爆者数が減り、死没者名簿に載せられる数が増えるのは当然な現象でしょう。11月24日に、ローマ教皇フランシスコが広島市にやって来て、素晴らしいメッセージを発しました。しかしヒロシマで活動している私にとっては、とても大きなプレッシャーと思われました。同じことを多くの人が感じていたようですが、「広島・長崎の体験が原点にある日本の平和運動」と思えば、そのプレッシャーはみんなで共有して欲しいものです。

視点を日本の特に中国地方の原子力発電をめぐる状況に目を向ければ、島根原発2号機が再稼働の前提となる「適合性審査合格」が予想されます。BWR(沸騰水型)原発で、東北電力の女川が先になるとは予想していませんでした。すでに審査合格はしているが再稼働が見通せない柏崎刈羽より、女川の方が見込みが大きいと思ったのでしょうか。原子力規制委員会も「次は島根だ!」という考えのようです。

審査に合格はしても、即それが実際の再稼働には『ならない』と思いますが、『ならない』ようにさせるのは、私たちの活動にかかると思います。それを事実で示すのは鳥取県境港市などで予定されている住民投票条例制定運動で、いかに多くの「条例制定賛成数」を出すかでしょう。

島根県と岡山・広島両県との間で締結している、県間防災協定の実効性の無さを明らかにすることも重要です。広島県内の自治体で避難所運営マニュアルを作成している数は、5市町です。広島県内で島根原発からの避難者を受け入れる自治体は22ですが、この数がすぐに増えるようには思えません。

そして東京五輪が終われば、次の「第6次エネルギー基本計画」の議論が開始されるでしょう。これまでのように原発比率20~22パーセントが継続されれば、中国電力にとっては上関から「引くに引けない状況」となると思います。

上関は建設計画が公になって38年となります。これまで国内で一番長く原発建設をさせないための運動が行われたのは、中部電力の芦浜計画の37年でした。こんなに長い間反対運動を続けなければならない状態にさせたのは、まさに大犯罪であり、特に自治体の責任は問われなければならないと思います。

 地球温暖化防止会議(COP25)で日本の不作為が世界中から指摘されましたが、「温室効果ガスを出さないために原発を」という宣伝が、業界や政府から強く展開されることが予想されます。

 そして4月からは発送電の分離も本格的にスタートします。余りに課題の多い2020です。

木原省治

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2020年1月11日 (土)

司法制度の基本矛盾

『数学書として憲法を読む--前広島市長の憲法・天皇論』は、憲法を素直に読む試みとその結果を記録したのですが、いくつもの大切な「発見」がありました。たとえば、死刑は違憲であることなのですが、その他にもこれまで定説・通説として受け入れられてきた事とは違う結論が浮び上ってきました。通説が正しいのか、私たち素人ではあっても憲法に関心のある市民が、素直にかつ論理的に読んだ結果の方が正しいのか、誰かに判定して欲しい気持になりますが、憲法81条によるとそれは最高裁判所の役割だということになります。

しかし、その最高裁は死刑を合憲だと言っています。となると、私たち市民の考え方は全く認められないのでしょうか。今回はその点から考えてみたいと思います。

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《「司法」についての基本矛盾》

普通に読むと、憲法は最高裁判所が誤った判決を出すことは想定していないように思えます。それは憲法の第81条があるからです。

     第81条 最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。

死刑は合憲であると、昭和23年には最高裁が判決を下したのですから、その結論に対して裁判で争おうとしても、既に「終審」という決定的な限定の付いた場でその判断はされてしまっていますので、その結論を覆すことはできない、と考えるのが自然でしょう。

しかし、『数学書として憲法を読む』立場から考えてみましょう。一般的読み方とは違ったとしても、『数学書として憲法を読む』立場からは、憲法そのものの文言が、最高裁の判決以前の時点でハッキリ死刑を禁止していると読めるのです。ですから、それを誤って解釈している(と私たちには見えるのですが、)最高裁版所の判決は、それが「終審」であろうとなかろうと、間違っているのです。となると、憲法そのものが何を言っているのかという事実の方が最高裁判所の「解釈」より優先されて当然だという主張にも一理あると考えられます。そして、単に「一理ある」というレベルではなく、このことは、憲法そのものが保障しているのです。それは98条です。

      第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。

明示的には表現されていませんが、最高裁判所の判決は「国事に関するその他の行為」に入らないとおかしい種類の行為ですので、98条の対象になります。仮に、ある法律や判断が憲法違反だとすると、98条によってそれは効力を持たないのです。

さてここからが問題です。元々は(私たちから見た場合に)違憲である法律や判断があったとすると、それは、98条によって本来、効力を持たないはずです。にもかかわらず、何らかの理由で最高裁判所がそれらは合憲だと判断してしまったとすると、それは、81条に従って、効力を持つことになってしまうのです。これは、大きな矛盾です。

その特別の場合としてもっと極端なケースを考えましょう。最高裁判所の判決そのものが憲法に反する場合です。しかし、それは最高裁判所の判決ですから、最高裁が終審裁判所であることから、「違憲である」という訴訟は起こせないか、起こしたとしても即刻、棄却されるであろう結末は見えています。となると、「違憲」である状態は続いてしまいます。このような81条と、98条との間の矛盾を「「司法」についての基本矛盾」と呼びたいと思います。

 

《「最高裁でも過ちを犯すことがある」と仮定》

「基本矛盾」を解消するための一つの方法は、「最高裁判所は決して過ちを犯さない」という仮定を設けることです。すると、81条の規定に従って最高裁が行う、違憲かどうかの最終判断は常に正しいのですから、それは自動的に98条の要請を満たしていることになります。つまり、矛盾は存在しなくなります。

しかし、現実問題として、人間が最高裁の判事を務めるのですから、慎重の上に慎重な審理を尽くしたとしても誤りを犯す可能性は存在します。さらに、政治的な問題については、最高裁が判断を下すことを避けてしまったケースも存在します。となると、大前提として「最高裁版所は過ちを犯さない」と仮定することには無理があります。つまり、「最高裁判所であっても過ちは犯すことがある」という前提で、「基本矛盾」を解消しなくてはなりません。

その前提の下に矛盾を解消するためには、憲法98条が81条より優先されると考える必要があります。「終審裁判所」であっても間違いを犯す可能性を認めるのですから、最高裁による「終審」としての判断にも98条を適用するということなのです。問題は、その判断が「違憲」であるということを誰が判断するのかという点です。

ここで、下級裁判所から問題提起を始めるという手続きを認めてしまうと、「終審」裁判所の意味がなくなる可能性が大きくなりますので、最高裁判決の誤りは、最高裁自身が認めるという手続きが合理的でしょう。「終審」の意味を拡張解釈して、十分な理由があれば、一度判決の出た事柄についても最高裁判所の段階で「自発的に」再審議ができるようなメカニズムを作ることです。

もう少し論理的に整理をすると、最高裁判所における「終審」とは、十分な理由があれば「終審」として終った裁判を「再開」できる制度にすることです。「十分な理由」の中に、事実確認についての重大な過誤があること、つまり「事実誤認」というケースは既に含まれています。それは、これまでの最高裁において実績があります。それに加えて、例えばある一定の期間が経過した後、事実誤認だけではなく憲法の解釈についても、見直しを行うような制度にできないものなのでしょうか。

この提案の詳細については、稿を改めて論じたいと思いますが、一つの問題は、これまでの最高裁、そしていわゆる「国」の対応を視野に入れると、「最高裁でも過ちを犯す」あるいは「国も過ちを犯す」という当たり前の前提が、控えめに言って、時には受け入れられていないように見えることです。次回以降、この点を考えて行きましょう。

[2020/1/11 イライザ]

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