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日記・コラム・つぶやき

2021年1月17日 (日)

コロナ対策で重要な役割を担う保健所が半減していました

コロナ感染拡大の中で、重要な役割を果たしているのが各地の保健所です。

保健所の感染症を担当する部署からの情報をもとに都道府県は毎日「感染者数」を発表していますが、保健所への負担が集中する中で、人手不足もあり、「コールセンターの電話がつながらない」「検査が遅れる」など保健所に関わる問題を指摘する声があがっています。

コロナ禍で重要な役割を果たす保健所は、全国に何カ所あると思われますか。結論から言えば、2020年現在全国で469の保健所があります。保健所は、おおざっぱに言えば「保健所は住民が病気にならないよう予防や健康づくりを進める『予防・防波堤』の行政機関」ということです。

コロナ対策が進む中で、保健所の人員配置やシステムの問題などが指摘されていますが、私がここで問題提起したいことは、この保健所の数です。

日本の保健所は、1937年に制定された保健所法によって、最初は政府(当時の厚生省)の機関として全国に49か所設置されました。

戦後は、1947年9月5日に制定された「地域保健法」が根拠となって、保健所は地方自治体の機関として設置されています。その後少しずつ増えて続け、1992年には、全国で852保健所が設置されていました。この時が、最大数でした。

ところが、1994年に「地域保健法」が改正というか「改悪」され、その後、保健所は、どんどん減少していきました。

その推移が、下の表です。

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2020年4月現在では、469カ所に減少しています。最も多かった1992年と比べると減少数は、383保健所で減少率は45%にも達しています。ほぼ半減と言ってよいでしょう。その中でも特徴的なことは、そのうちの258か所が、90年代の8年間に減っていることです。減少数全体の67.4%という高い数字になっています。

1990年代初め始まったのが、「効率化」「無駄を省け」の大合唱による行政機構の縮小再編成、つまり行政改革です。まさに保健所の減少もこの行政改革の流れの中で進んだわけです。この時期の行政改革の先駆けは、80年代の中曽根行革ですが、90年代に入り大きな役割を果たした一人が、小沢一郎さんだったことを私は忘れることができません。

保健所は、上の表のように、設置者によって大別すると都道府県が設置するもの(約75%)と一定規模の市((1)政令市(2)中核市(3)政令で定める市(4)特別区)が設置するもの(約25%)に分かれています。

参考までに県内の保健所設置状況を紹介します。広島県は、保健所が4、支所が3となっています。最も多かった時には、12カ所ありました。広島市は、現在1保健所です。他の政令市も、保健所は1ですが、古くからの政令市例えば、横浜市は、18の支所が置かれています。広島市より後で政令市となった仙台市は、それぞれの区ごとに国支所を設置しています。中核市の福山市にも保健所があります。

感染症対策を行う保健所がいつも大きな役割を果たすようなことは、無いに越したことはありません。できるだけない方が良いのです。しかし、万が一の緊急事態に備えて準備しておかれているのが保健所だったはずです。それを崩してしまったのが、行革だったのです。、コロナ感染が深刻な時期にこそ、行革がもたらした負の遺産と向き合い検証することが、次の過ちを繰り返さないことにつながると私は思っています。

いのちとうとし

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2021年1月16日 (土)

稲岡宏蔵著「核被害の歴史 ヒロシマからフクシマまで」

13日に開催されて広島県原水禁常任理会で、このブログに毎月2回の原稿を寄せていただいている木原省治さんから一冊の本を薦められ、購入しました。

2020年12月31日に初版が発行された稲岡宏蔵著「核被害の歴史 ヒロシマからフクシマまで」です。

著者の稲岡さんは、毎年夏に開催される原水禁世界大会に大阪の仲間とともに参加されていますので、私も以前から知っています。原水禁大会広島大会では、いつも「ヒバクシャ」問題を取り上げる分科会に参加し、発言をされています。そして午後に開催される「ひろば『ヒバクを許さないつどい』」では、運営の役割を果たしてこられました。この「ヒバクを許さないつどい」は、稲岡さんたちの努力もあり、一昨年の被爆74周年原水禁大会で「Part20」(昨年は原水禁大会がオンラインとなったため開催できなかった)となるほど、継続して開催されています。

この本の「まえがき」には、びっくりすることが書かれていました。「昨2019年、被爆74周年原水禁世界大会から帰って間もなくの8月末、前頭葉に広がった悪性リンパ腫(眼)で急に倒れた。」

「核被害の歴史 ヒロシマからフクシマまで」は、373頁にも及ぶ大作です。まだ目次と一部の目を通しただけという状況ですから、この本の全てを紹介することはできませんので、ここでは、ちょっと気になったことを紹介したいと思います。

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本の帯には、次のように書かれています。表側には「被爆者をはじめ世界の人々は、核廃絶のためにどのように苦闘してきたのか」裏側には少し長文で「人類は、広島・長崎への原爆投下以来、何度も核戦争による破滅の危機に遭遇してきた。またビキニをはじめとする核実験やチェルノブイリやフクシマの原発事故は、甚大な被害と莫大なヒバクシャを新たに生み出してきた。本書は、ヒロシマからフクシマまで核時代の歴史の変遷の中で、核による『被害』と『人権』、『加害』と『責任』、具体的には、核被害者の人権と加害者の責任に焦点をあてて歴史を総括。(以下略)」と。

内容は、3部構成になっています。Ⅰの「原爆被害―人権と責任」では、被爆後から現在に至る運動の過程が要約されています。特に気がついたことは、国家補償の問題として「孫振斗裁判」と「石田原爆訴訟」が取り上げられていることと、労働組合内に結成された被爆者組織(例えば全電通被爆協)とその組織が果たしてきた役割が記載されていることです。類書の本では、触れられることのない運動の歴史です。この点で、原水禁運動の歴史を知るためには、良い教材と言えます。

Ⅱは「世界の核被害―グローバルな人権と責任」で、世界の核被害者、そして被曝線量論争などについて書かれています。ここでは、原水禁が取り組んできた「核被害者フォーラム」や「世界核被害者大会」のこともきちんと取り上げられていますので、この点でも参考になると思います。3部の中で、最もページが割かれているのが、Ⅲ「フクシマ核被害」です。稲岡さんがいま最も力を入れて取り組んでいる課題が、フクシマの被曝問題だからだと想像できます。

巻末には、「核時代の変遷と反核平和運動」の年表が付けられています。著者が「運動については筆者の周辺、関西にかなり偏っており」と断り書きを書いていますが、運動にも焦点をあてた良い年表だと思います。

と書いてきましたが、一つ気になったことがあります。「おわりに」に書かれた次のくだりです。「原発の重大事故は、核兵器と人類は共存できないだけではなく原発も人類とは共存できないことを示してきた。運動の発展が示すように、原水禁運動のスローガン『核と人類は共存できない』の核には当然、核兵器だけでなく原発・核燃料サイクルも含まれるべきである」(アンダーラインは、いのちとうとし)

この本に付された年表にもあるように、森瀧市郎先生が、「核と人類は共存できない」と最初に提唱されたのは、1975年の原水禁世界大会です。森瀧先生がいわれた「核」には、稲岡さんが言う「原発・核燃料サイクル」も含まれているどころか、ウランの採掘から始まる全ての核社会が入っているのです。そのことを改めて強調したいと思います。

繰り返すようですが、この本には他の類書にはない視点が多く盛り込まれており、定価が少し高い(税抜き3600円)のですが、一読に値すると思います。

いのちとうとし

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2021年1月15日 (金)

1月のブルーベリー農園その2(東広島市豊栄町)

強い寒波が来たので9日と10日は農園には行かずひたすら家でじいーっとしていた。車は4駆ではないしスタッドレスもはいていない。11日は道路も大丈夫だろうとふんで昼過ぎにつくように家族みんなで出発した。着くと妻と娘は墓に参り、息子はテレビにかじりつき、私は農園の周囲の巡回と挿し木用にブルーベリーの穂木を採取するにとどめ2時間あまり滞在して帰途についた。連休明けから日中の気温が上がってきたので体も少しづつほぐれてきた。

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寒々とした風景が広がる。

①.ブルーベリー畑も葉がすっかり落ちて地面の雪の白さがモザイク模様に広がる。

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②.後ろの山は茶臼山。山頂の周囲には戦国時代、乃美茶臼山城という古城があった。

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③.家の納屋の樋にできたつらら。屋根の古くなった太陽熱温水器の水漏れで滴る水が凍りつららになってしまった。農園のある場所の標高は約400mあるのでやっぱり寒の入りの季節は氷点下の気温で厳しい。つららは棒でぱしぱしと叩き落す。ばりばり、どさっと落ちる音がした。

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④.庭の木の下の方にできた細長いつらら。

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⑤.里山の早生のブルーベリー園に行く道には動物の足跡が点々と続く。墓参りに行った母娘はオスのキジと出会ったそうで雪の上に足跡としっぽの跡らしい筋が残っていたと話してくれた。鳴き声は聞こえたので今日は農園の周囲で過ごしているようだ。

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作業らしい作業はせずに4時前に帰ったのだが、里山の早生の木から挿し木用の穂木を少しばかり採取した。

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農園の冷凍庫から持ち帰ったブルーベリーで今年最初のジャムづくり。今回はグラニュー糖たっぷりで煮込む。

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14日(木)。暖かくなった午後から晩生のブルーベリーの穂木の採取に農園に行く。

①.場所は里山で、採取する品種はホームベルにする。丸いスパイラル状の籠に採取した穂木を切ったはしから入れていく。

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②.籠がいっぱいになると畑のそばの野焼きする場所に行き切った穂木の簡単な選別と長さ調整をして第2森の工房AMAに持ち帰り水を張ったバケツに入れて作業終了。次の日に森の工房やの・生活介護の作業で10~11センチの長さに切りビニールの袋に入れて冷蔵保存し、3月に挿し木床に挿す。

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③.ブルーベリーの花芽。早生のスパルタンという品種。大きい実が付きとてもおいしい。

 

2021年1月15日

社会福祉法人安芸の郷

 理事長 遊川和良

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2021年1月14日 (木)

2021年1月広島県原水禁常任理事会を開催

今年最初の広島県原水禁常任理事会が、昨日開催されました。

1月に開催する常任理事会の主な議題は、毎年1月27日開催する「広島県原水禁総会」に提出する議案書を協議することです。

広島県でもコロナの感染拡大の終息が見通せない状況ですが、31人中18名の代表委員、常任理事の参加がありました。その主な討議内容を報告します。

報告事項は、12月3日に開催された「原水爆禁止日本会議臨時全国委員会」の決定事項です。この臨時全国委員会では、広島県原水禁から提起し検討が進められてきた役員体制に関わる規約改正が行われました。その内容は、会の代表者を1名の議長体制から「若干名の共同議長」制度に変更することです。臨時全国委員会は、書面開催となりましたが、全員一致の賛成で、承認されました。この規約改正よって、本年4月に開催される「原水爆禁止日本会議全国総会」で、2021年度の新たな共同議長が選出されることになります。共同議長は、当面3名でスタートすることが検討されています。

その他に、このブログでも紹介してきました「高校生平和大使学習・フィールドワーク」や「原爆ドーム世界遺産登録記念集会」などの活動が報告され、承認されました。

協議事項は、次の当面する取り組みについて、確認しました。

「核兵器禁止条約発効に関する取組」は次の行動が計画されています。

①原水禁国民会議が主催し開催する「日米韓国際シンポジウム-核兵器禁止条約発効後の課題と展望-」(仮称)と題した「発効記念国際シンポジウム」です。1月23日(土)10時から12時まで、YouTube原水禁チャンネル で、生中継されます。日本側のパネリストは、秋葉忠利原水禁国民会議顧問(広島県原水禁代表委員)です。多くの人に視聴してほしいと思います。

②他の二つは共同行動です。

一つは、1月22日午後6時から原爆ドーム前で実施される核兵器禁止条約を求める共同行動実行委員会主催の「歓迎キャンドルメッセージ」です。もう一つは、翌日23日午後3時から開催される「条約発効記念のつどい」です。この集会は、無観客で行われ、オンライン配信されることになっています。

「ネバダ・デー座り込み行動」を今年も1月27日12時15分から30分間、慰霊碑前実施することを決定しました。コロナ感染拡大状況を考慮し、今年はソーシャルディスタンスを確保するということで、30名規模で実施します。ただし、「今後の感染状況によっては中止することもあり得る」ことも併せて確認しました。

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昨年の広島県原水禁総会

最後に、「広島県原水禁第90回総会」の議案書(案)が、事務局長から提案されました。これに対し、原発を巡る状況を補強する意見や、「核兵器禁止条約批准を政府に求める自治体決議を促進するための活動をどうするのか」などの意見が出されました。それらを含め、1月20日までにそれぞれの意見を出すことを確認し、議案書案の審議を終えました。そして今年の総会は次の要領で実施することを決定しました。

①今年の総会は、第90回という節目ですが、総会は開催せず、書面決議とする。

②議案は、1月26日に発送し、賛否は書面によって2月2日までに送付する。

③各組織代表1名の決議とする。

その他にもいくつか行動予定を確認しましたが、ここでは省略します。

今年は、「核兵器禁止条約」の発効、東京電力福島第一原子力発電所底から10周年、そして夏には今年に延期されたNPT再検討会議の開催など節目の年になりますが、広島県原水禁としての役割が十分に果たせるよう努力することを全体で確認して、常任理事会を終了しました。

いのちとうとし

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2021年1月13日 (水)

軍歴と原爆死没者調査-その2

これからが「軍歴と原爆死没者調査」の本論です。

原爆犠牲者や一般戦災者の被害に対し国による補償がされていませんが、軍人・軍属に対しては「国との身分関係」があったとして「戦傷病者戦没者遺族等援護法」等によって、その遺族に対して「弔慰金」や「遺族年金」などが支給されています。しかも、援護の対象者を拡大しながらです。

ここで指摘したいのは、この法律を適用して、もれなく「弔慰金」や「遺族年金」を支給するためには、当たり前のことですが「戦没者の遺族」ということがきちんと特定されていなければならないということです。

法の適用を受けることのできる受給者を決めるための基となっているが、「兵籍簿」のはずです。昨日紹介したように「兵籍簿」には、軍隊に召集されてから除隊されるまでの履歴が記載されていますから、もし戦死した場合には「いつ、どこで亡くなった」のかが、きちんと記録されていなければなりません。

1945年8月6日に広島で原爆によって死没した人たちの「兵籍簿」にも、そのことが明記されているはずです。そうでなければ、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」による援護を受けることができないからです。原爆による犠牲も、当然のこと「戦死」ですから、「戦傷病者戦没者遺族等援護法」が適用されているはずです。広島で原爆の犠牲になった軍人だけが、この枠から外れていることは、考えられないことです。考えられないというよりも、ありえないことです。そうでなければ、同じ戦時中の犠牲でありながら、原爆の犠牲者は援護措置を受けられないという差別を受けることになってしまいます。

ところで、広島市は、原爆被害の実態、特に人的被害の解明を目的として、1969年から調査活動を行い、特に1979年から「原爆被爆者被災調査」(1982年からは「原爆被爆者動態調査」)を開始し、今も継続して調査を進めています。その結果、原爆投下から1945年末までに犠牲となった人たちのうち、最新の調査結果では、2020年3月末現在89,030人の氏名が明らかになっています。残念ながら、14万人±1万人と言われる犠牲者数からは、程遠い数です。この一年間で、わずかですが、5名の氏名が明らかになっています。この5名は、慰霊碑に納められている死没者名簿への記載の届けがあった」ことで新しく判明したそうです。このことは、この時期の調査がいかに難しいかを教えています。

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しかし、今からでも可能な調査はあるというのが私の考えです。それは「軍人の犠牲者」の実態についてです。実は、昨年秋、広島市の担当課を訪れ、「軍人の犠牲者について、軍籍簿から調査されたことがありますか。これを調べれば、かなり正確に人数と名前がわかるのではないですか」と問題提起したことがあります。その時の答えは、「軍人の名簿は持っています。ただそれで全員かどうか不明なのです。言われたような方法では調べたことがないように思いますので、検討してみます。」という返事でした。

その時、「都道府県が所有していますので、全てを広島市が調べることができるのかという問題があります」とのことでした。その時は、このことをあまり深く考えていませんでした。

今回教えられたことですが、確かに陸軍の「軍籍簿」は、各都道府県が所有しています。ですから広島市の担当者が指摘されるように、確かに「広島市が、各都道府県に対し調査を依頼しただけで、果たしてきちんとした答えが返ってくるだろうか」という問題はありそうです。

しかし、この「原爆被爆者動態調査」は、国の予算付けられて実施している事業です。本来国が行うべき「調査」を、ある意味では広島市が肩代わりして行っているとも言えます。ですから、国が主導して、厚労省が、各都道府県に対して、きちんとした調査依頼を出せば、可能な調査で、広島市の心配は不必要になるはずです。実は、国が主導して調査を行った前例が存在するのです。

それは、戦死者を靖国神社に合祀するために行った調査です。厚生省(当時)は、1956年に全国の都道府県に通達を出し、「遺族援護法」と「恩給法」のいずれかの適用を受ける戦死者の調査を行っています。その調査は、一宗教法人に過ぎない靖国神社のために行い、その調査で明らかになった名簿を渡し、合祀に協力したという問題がありますが、ここでは「自治体に依頼して調査が行われた」という事実だけに着目します。

この前例に倣えば、国が通達を出せば、「原爆で犠牲になった軍人」を調べることは、簡単にできることです。

仮にその調査結果が、今広島市が所有する「軍人名簿」とダブっていたとしても、調査する価値は十二分にすぎるほどあると思います。この調査を実施すれば、空白と思われていた軍人の原爆犠牲の実態をもう少し明らかにすることができるのです。

そのことによって、原爆被害の実態を、少しでも事実に近づけることができると私は思っています。

いのちとうとし

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2021年1月12日 (火)

軍歴と原爆死没者調査

1月7日の「父の入営」を読んでいただいたお二人から、貴重なアドバイスをいただきました。

お一人からは「軍歴を、ご存知ですか。陸軍だと、残っています。広島県庁に、尋ねる。ありました。」と書かれ、後に自分のお父さんの軍歴を調べたことが書かれていました。

もうお一人からは、「私は、母方の祖父のことで、昨年、広島県庁に問い合わせたことを思い出しました。」「知人から、広島県は、昭和初期からの兵籍簿が疎開してあったため、本籍が広島県内で陸軍に入営していれば詳細な軍歴の記録があると教えてもらい、県庁に電話して名前を言えば、記録があるかわかるというので、援護恩給グループの直通電話(082-513-3036)へ問い合わせをしてみたのです。」と教えていただきました。

貴重な情報です。原爆で焼失したと思われていた「兵籍簿」が、疎開によって残っていたのです。

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「父の入営」を書くまで、父の軍歴を調べようと思ったことはなかったのですが、これを機会にきちんと調べてみたいと思います。シベリア抑留からいつ帰国したかもわかるはずですから。

父の軍歴とは別に、以前から「軍歴」というか「兵籍簿」(今回初めて正式な名前を知ったのですが)については、強い関心を持っていたのです。それは、以前何度か書いたことのある「原爆犠牲者数」を調べるためです。

「原爆犠牲者数」がはっきりしない大きな理由の一つに「当時、広島に軍人が何人いたのかはっきりしない」ということが挙げられています。もう一つの理由となっているのは「朝鮮半島出身者」についてです。「朝鮮半島出身者」の被害については、様々な推定数が、発表さえています。しかしまさに「推定」と言うほかありません。軍人以上に具体的な資料が無いためです。「当選半島出身者の被害」の問題は非常に重要な問題ですが、別の機会に改めて検証することにして、今日は「軍人」について考えてみたいと思います。

私は、「原爆犠牲者数がはっきりしない」理由の一つに「軍人」があげられていることにずっと疑問を感じていました。だいぶ前になりますが「軍人の犠牲者について、誰かこれまでに調べた人はいないのか」と、あるマスコミ関係者に聞いたことがあります。「爆心地復元地図作りに努力された広大の湯崎稔教授が、当時広島にいた部隊の生存者をさがして、手紙を送り調査をされたことがあったようですが、なかなか情報を提供してもらえず、断念されたようです。その他には、あまり記憶がないですね」との答えでした。湯崎教授は、広島県の湯崎知事のお父さんですが、1984年に54歳という若さで亡くなられました。もしもっと長生きされておれば、この調査も別の形で進んだかもしれないと悔やまれます。湯崎先生は、私の知る限りですが、1982年の「平和のためのヒロシマ行動」やその年の統一原水禁世界大会の実行委員会で、学者文化人の運営委員として活躍されていました。当時私は、その事務局員を務めていましたので、湯崎先生とは何度かお話をしたことがあります。飲み屋にも連れて行ってもらったこともありますので、湯崎先生のことはよく覚えています。ただそのころは、まだ原爆犠牲者数など深く考えることはありませんでしたので、先生にそんな大事なことを聞くことなどありません。今から思えば、貴重な時間だったのにと悔やまれます。

と書いているうち、いつものように前置きが長くなってしまいましたので、本題の「軍歴と原爆死没者調査」については、明日に引き継ぎます。

いのちとうとし

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2021年1月10日 (日)

21年、原発・エネルギー政策をめぐる課題

今年最初の私の担当となりました。本年もよろしくお願いします。原発やエネルギー問題、毎年のように「今年は正念場」と言ってるような気がしていて、そのインパクトも薄れているようにも思いますが、今年は本気で正念場だと思っています。

その理由は何といっても、この夏場に向けて改訂がされる予定の「エネルギー基本計画」です。だいたい3年毎に改訂されているのですから、「そう変化は無いだろう」と思われるかも知れませんが、あえてそれをいうのは、今年が福島原発事故から10年という節目だからです。

これまで原発推進側も、10年まではそれでも「大人しくしておこう」という感じでしたが、ここで方針転換を掛けようという姿勢が見えだしました。その象徴的な出来事は、福島原発事故の前、福島県双葉町に掲げられていた「原子力明るい未来のエネルギー」の標語の看板、事故後は取り外されていましたが、場所は同じ双葉町の「東日本大震災・原子力災害伝承館」に展示されることが決まったということです。

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そのキッカケになったのは菅義偉内閣が誕生し、10月26日の最初の所信表明演説で「2050年温室効果ガスの排出をゼロにする」と大見えをきったことです。温室効果ガスの排出をゼロにするということは評価されることですが、これを待っていたかのように、「二酸化炭素を出さない原子力発電必要論」が大きく頭を出し始めました。

菅総理の演説からたったの2か月の12月25日、政府は「グリーン成長戦略」を発表しました。「脱炭素」という誰もがうなずく「錦の御旗」をたてに、重点14分野の政策を示し、その中には原発新増設も明記しました。

中身の詳しい内容は別の機会に書かせていただくとして、エネルギー基本計画改訂の議論が曲りなりにも行われている中で、2050年とはいえ、政府が先んじてこのような重要な課題を国民的議論にかけることなく発表したことです。これを示してマスコミや世論がどういう反応を示すだろうかと、テストしたかのようにしか見えないのです。それも再生可能エネルギーの中に原発を含めるという、ふてぶてしさです。

問題点がたくさん在りすぎて一つに絞ることは不可能ですが、あえていえばエネルギー、イクオール電気だという考え、2050年には電力需要が現在よりも30%~50%増えると見込んでいることです。2050年、現在30歳の人も60歳になります。71歳の僕は101歳です。ほとんどの人にとっては、現実的な問題としてはなかなか捉えられないことです。

今、確実にいえるのは今後エネルギー需要、電力需要は確実に減少すること、そして同時に再エネのコストはますます低下し、そのことで再エネの将来性や価値が上昇するというのが現状です。

地球温暖化防止対策の国際ルール「パリ協定」が採択されて、昨年12月に丸5年が経過しました。目標達成を目指す世界中の国や地域は120を超えました。米国のバイデンさんも大統領に就任したら、すぐに「パリ協定」に復帰するとしています。世界広しとはいえ「温暖化防止のために原発を」という国は、僕の知っている限りでも4~5カ国だと思います。

「RE100」というのがあります。これは使用する電力の100%を再生可能エネルギーにより発電された電力にする事に取り組んでいる企業が加盟している国際的な企業連合です。昨年12月15日現在、日本の企業もこれに45社が加盟しています。同じく11月、キリンビールも加盟しました。僕はこの時から「ビールはキリン」にしました。

木原省治

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2021年1月 9日 (土)

寒牡丹を見るため、この冬一番と言われる寒さの中縮景園に行きました

昨日は、午前11前にようやく0℃を超えるという寒さの厳しい日でした。予報では、雪が降るといわれていましたが、市内中心部では元日よりも少なかったようです。

この寒さの中、朝早くから縮景園に行ってきました。年明けのNHK広島の「お好みワイド」で、紹介された「寒牡丹」を見るためです。

元日も家の周りには雪はなかったのですが、平和公園に行くと芝生広場は真っ白になっていたように、ひょっとすると縮景園では、うっすらと雪化粧した風景が見られるかなと、開門時間の午前9時をめざして出かけました。ちなみにこの時刻の気温は、マイナス2℃でした。

縮景園に着くと、ちょうど門が開きました。冠木門(かぶらぎもん)の前には大きな門松が飾られています。

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係の人に訪ねて、牡丹園をめざします。門を正面に見える数寄屋風書院造の清風館前から右手に延びる園路に沿って寒牡丹が並んでします。半分は、雪囲いの藁でおおわれています。

ところがよく見ると、大きな花房は、茎が曲がり、多くが下を向き萎れた感じになっており、もう盛りを過ぎたかのような花の様子です。

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残念と思いながらも、何枚か写真を撮りました。

せっかく来たのだからと、園内を一回りすることにしました。園の中心に広がる池に架かるランドマークの跨虹橋に朝日があたり、きれいな景色が広がっています。時計回りと反対に、ゆっくりと景色を眺めながら進みます。入園している人は、ほんの数人です。被爆イチョウの木などを見ながら、次には西側にある梅園をめざしました。数本ですが、すでに開花した木を見つけることができました。たまたまでしょうか、紅梅、白梅の両方が花をつけていました。

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本格的な梅の開花にはまだまだ時間がかかりそうです。さらに進み園を一周し、泉水亭の裏にある桜の標準木の蕾を見ることにしました。当然のことですが、蕾とも呼べない芽が出ていますが、まだまだ小さく硬いままです。

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清風館前まで戻って竹垣のうちを見ると、そこに植えられた「寒牡丹」が、すっくと茎を伸ばし、見事な花の姿を見せています。

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どうも、私が入園するのが早すぎたようです。「今日はもうだめか」とあきらめていた牡丹園に戻ることにしました。さっき見た時とはずいぶん違い、多くの株の花が、元気になり、きれいな姿を見せています。

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あわてて帰らなくてよかったと思います。それでも、まだなん株かは、萎れたままですので、もう少し園に留まることにしました。待っている間に、以前にここを訪れた時見たことのある風景に出会います。結婚写真を撮る人たちです。厳しい寒さですが、良い天気ですので、きっと良い写真が撮れることでしょう。

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入園してから1時間20分、なかなかしゃきっとしなかった黄色の花をつけた株もようやく、花を上向きにしました。

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この1枚を撮り終えて、退園することにしました。途中でウグイスの姿を見つけましたが、鳴き声を聞くことはありません。まだまだ春は遠いと感じた縮景園巡りでした。

いのちとうとし

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2021年1月 8日 (金)

1月のブルーベリー農園その1(東広島市豊栄町)

正月3が日はどこにも出かけることなく、4日に重い腰を上げて農園に行き農作業を午後から数時間行った。少しばかり残った雪が残る中ブルーベリーの剪定を行ったり、たまったブルーベリーや雑木の枝を燃やしたりして早めに帰途についた。また、安芸の郷の職員と一緒にドイツから来ている若者アンディさんも来園。雑木の野焼きを手伝い、竹を切る体験をし、きな粉餅をふるまいなどして異国の農業と生活の体験をしてもらった。

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元日朝、うっすらと雪。自宅のベランダにスズメが来ている。去年12月から農園の蔵の中のコメの貯蔵庫にあった食べられそうにない古いコメを持ち帰り鳥寄せにひとつかみづつ毎朝ベランダにまいているので今朝も姿を見せた。

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1月4日(月)。安芸の郷はこの日まで休みなので農園で作業開始。

①.正月に降った雪がブルーベリー畑ののり面に少し残っている。

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②.里山の早生のブルーベリー園は北向きで雪が一面残っている。1列ほど剪定を行う。

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③.安芸の郷の職員と、昨年12月中旬から森の工房やので活動を始めた独日フォーラム派遣のベルリンっ子のアンディさんの2人が来園。早速ブルーベリーや雑木のたまった枝を燃やす作業を手伝ってもらう。

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④.2時間余りで全部燃やした後は休憩。きな粉餅、醤油をつけた餅を一緒に食べる。どちらも「おいしい」と7個をペロリ。

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⑤.休憩後、もう作業も早じまいなのでドイツにはない竹を切る体験をしてもらう。竹用のよく切れるのこぎりで力任せに4~5本切り、枝を払い2mくらいに切り分けたあとコップやペン立て用に2つ節の際からカットして持ち帰る。両手に持ったアンディさんは嬉しそうだった。

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⑥.畑の晩生のブルーベリーは雪も降ったせいかすっかり落葉している。

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⑦.春と違って冬色ばかり。

  ・ヤブランの実

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  ・ナンテンの実

(アンディさんも珍しそうにスマホで撮影していた)

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1月7日(木)朝の自宅ベランダのメジロ。スズメの来訪をきっかけにミカンの輪切りをバラの鉢の中においている。スズメも20羽くらい来るようになりしばらくは毎朝にぎやかだ。

 

【あとがき】 東広島市豊栄町にあるブルーベリー農園は妻の実家の田んぼと松くい虫で枯れた里山を再利用して2000年と2001年の2年越しで1100本のブルーベリーを当時の障害者の通う安芸区の安芸共同作業所、共同作業所みみずく、大崎上島のふれあい作業所の協力を得て両年とも一日で植えるという元気あふれる植樹をして今日に至っている(その後これらの作業所は社会福祉法人化を実現している)。ここで収穫したブルーベリーの実は2003年10月に法人化を実現した安芸の郷に納品して利用者の工賃確保に資するものとして続けられている。標高約400mの場所にあるこの農園の実はおいしいと評価を頂き、これを励みにその後の栽培管理は安芸区船越の自宅から夫婦、家族の週末農業で行っている。収穫時には安芸の郷、農園の友人知人の援農があり、人と人のつながりは広がり続けている。

2021年1月8日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2021年1月 7日 (木)

父の入営

昨年末、東京に住む姉(6人兄弟の2番目)から、一枚のメモ書き(と言ってもパソコンで打ち直したもの)が、メールで届きました。

このメモ書きは、姉が母の生前中に聞き取った満州(現在の中華人民共和国 遼寧省、東北省)在住時代の家族の動向が、時系列で簡単に記されたものです。私の両親は、とも水飲百姓の家に生まれたと聞いていますので、一旗揚げようと仕事を求めて、1934年(昭和9年)に当時の満州国(以下「中国」と書く)の奉天(現「瀋陽市」)にわたり、敗戦をそこで迎えました。

このメモには、兄、姉の生年や学校名まではっきりと書かれた学校歴が、年代を追ってきちんと整理をされています。私の兄弟のうち、両親が結婚してすぐに生まれた長男と戦後生まれの私を除く4人は、中国の生れですが、その出生地もこのメモで確認できました。

もちろん子どもたちのことだけでなく、中国にわたって以来、父がどんなところで働いていたか、家族がどこに住んでいたかも書かれています。

姉が、いつ頃母に聞いて書いたメモかはっきりしませんが、母の晩年の頃のことは間違いありません。それにしては、びっくりするぐらい地名や学校名がはっきりと書かれていますので、母の記憶力の確かさにびっくりします。何か自分なりのメモでも書いていたのかもしれません。

このメモで一番びっくりしたのは「20年8月11日    信二入営」と書かれた一行です。

信二は、私の父の名前です。

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現在わが家で唯一所有する父の写真

父が、兵役年齢である40歳を超えて、終戦間際に現地召集されたことは何となく知っていました。召集令状が届いたのが「確か終戦間際の昭和20年(1945年)7月26日だった」ということだけは、記憶していましたが、入営日については、何故か今まで関心を持ったことがありませんでした。

以前から、召集令状が届いた日の7月26日の日付でさえ、もうすぐ終戦だったのにという思いを持っていたのですが、入営日が終戦日まであと4日という8月11日だったことにびっくりしました。この日付を見た時、余計に「もし」という思いを強くしたのです。

広島、長崎への原爆投下もそうですが、もう少し終戦の決断が早ければ、父の2年間のシベリア抑留も、そして母が一人で、満1歳になるかならずかの幼子を初め5人の子どもたちを連れての帰国の苦労もなかったはずだとどうしても思えて仕方がありません。

このメモには他にも大切なことが書かれていました。

一つは、父が入営してすぐの8月13日から15日まで残された家族6人は、場所ははっきりしませんが、疎開していたということです。13日からと書きましたが、メールに書かれた姉のメモによれば、疎開先に着いた日に終戦を迎えたそうです。

この疎開は、きっと職業軍人だった叔父(父の弟)の勧めがあったからだと思います。そう思うのは、私のすぐ上の兄(三男)は治(おさむ)という名前ですが、この名前は、叔父が「もうすぐ戦争が終わるから」と付けてくれたそうです。軍人だった叔父には、当時の戦況(ソ連軍の侵攻、終戦間近)がよくわかっていたのでしょう。この疎開があったから私の家族は、侵攻してきたソ連軍の被害から免れることができたと想像できます。

もう一つは、家族が帰国することになった港のことです。旧満州から帰国する時、朝鮮半島を南下し、苦労したという話を多く聞いていました。ですから私は、ずっと「わが家もそうだったのだ」と勝手に想像していました。ところが今回のメモで、わが家は、朝鮮半島は通らず、中国の遼寧省葫蘆島(ころとう)という港からの引き上げだったことがわかりました。

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姉のメモでは、「胡了島」となっていましたが、その前に「奉天錦州を経て胡了島にて出航待ち」と書かれていましたので、調べてみると「葫蘆島」だということがわかりました。ここからは満蒙開拓団など多くの人たちが、引き揚げています。わが家が、この港を出港したのは、昭和21年(1946年)6月2日、そして6日後の6月8日に舞鶴港に上陸しています。母に連れられて子ども5人が、無事に帰国しました。

姉が送ってくれた1枚のメモからわかったことです。たった1枚のメモでしたが、以前から知りたいと思っていた当時の家族の様子を少しだけですが私に教えてくれました。

いのちとうとし

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