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日記・コラム・つぶやき

2020年4月 3日 (金)

3月のブルーベリー農園その3(東広島市豊栄町)

下旬になるとサクラはまだ咲いていないが農家の人たちの息遣いが感じられるし、ブルーベリーの花芽の膨らみも日に日に大きくなり色合いも赤みを帯びてくる。

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3月22日(日)。

 ①.農園の周囲の法面のススキなどを一気に野焼きしてブッシュ状の法面を火でさらえる方法がこの季節に行われる。手前の法面はさっき終わり、向こうの山裾の法面の野焼きの煙が立つ。煙ひとつで人の息づかいが聞こえるようで落ち着く。

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 ②.風が吹いて防獣ネットが倒れ込んでいたので補強の杭を打ち込み、支線も新たに設置してもとに戻す。昨年夏にシカが数日侵入したところなので高くしていたが杭が持たなかった。上部は目の荒いネットに張り替えないとまた倒れそう。3_20200402083901

3月26日(木)はいい天気だったので休みを取って農作業に。2人で一番上の畑のブルーベリーの剪定を行う。4_20200402083901  株もとのシュートやヒコバエの剪定でヒョロリとアマガエルが出てきた。ウグイスもキジも姿は見えないが鳴く声が農作業中も聞こえる。5_20200402083901

草の中からわさわさと青紫の花穂がのぞく(ムイスカリ)6_20200402084001  3月29日(日)。今年最初の草刈り。これからどんどん草が伸びる。7_20200402084001

家の蔵の横のツバキが見ていて面白く楽しめる。

3月26日(木)蕾がまるまるして20日に見た時より大きくなった。8_20200402084001

3月29日(日)には蕾があちこちで開いたが中には開く前のまるまるした顔がのぞく。9_20200402084101

一抱えほどツバキを切って安芸区の自宅の玄関の甕にどさっと活けてしばらくたのしむことにして車に乗せる。10_20200402084101

農園の向かいの杉や桧の中にポツンぽつんと白いコブシが咲く。

農園のブルーベリーの剪定は昨年12月からはじめて3月中にほぼ終了。近年で一番早いペースとなった。

2020年4月2日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年4月 1日 (水)

被爆者援護は裁判で勝ち取った ――それまでは、「受忍論」を盾に「放置」――

さて、これまでは、憲法には私たちの権利として明示されているにもかかわらず、その権利が実際には守られなかった顕著な実例をいくつか取り上げてきました。たとえば、禁止されているにもかかわらず「合憲」だとの最高裁判決がある「死刑」、そして当事者から何回にもわたって、裁判を通して問題提起された「婚外子」の権利です。普通に考えれば「違憲」以外の解釈はできないにもかかわらず、「婚外子」の差別には「合憲」判決が出され続けてきたのです。権利が剥奪されて来た人たちは、いわゆる「弱者」が多いのですが、今回は、その中でも、「被爆者」を取り上げたいと思います。

 《被爆者の人権は無視され続けてきた》

歴史を辿る情報は、時系列に従って出来事を記述するのが普通なのですが、ここでは、国の姿勢を一番明確に示している「受忍論」から始めましょう。1980年、当時の厚生大臣が、元東大総長である茅誠司、大河内一男両氏を含む7人の「知識人」に諮問した答申が出されました。7人からなる会は「原爆被爆者対策基本問題懇談会」と呼ばれますが、略して「基本懇」として知られています。

この基本懇の答申は、政府の公式文書ではありませんが、被爆者援護法やその運用の仕方について、ここで打ち出された「受忍論」が基本的な指針であると捉えた上で解釈すると、これが我が国の政府と国民との間の戦争についての基本的考え方を示しているものであることが良く分ります。その内容を私なりに要約しておきましょう。

戦争は国が始めるものだが、国を挙げての戦争の結果生じる犠牲は、「一般の犠牲」として、全ての国民が等しく受忍しなくてはならない。ただし放射能による被害は特別だからそれなりの配慮は必要である。しかし、一般戦災者とのバランスが大切だということも忘れてはならない。最後に、国には戦争に関連しての不法行為の責任や賠償責任はない。

つまり、国の戦争責任は認めず、戦争による犠牲について国としての賠償はしないのですから、被爆者の疾病や生活について親身になってケアをする気持のないことは勿論、国民の基本的人権という視点からの施策もなかったと言って良いでしょう。その権利を回復するための手段の一つが訴訟でした。その結果、被爆者の権利が認められるようになりました。中でも重要な三つのケースを掲げておきます。

 .石田訴訟(1973年5月17日—1976年7月27日)――原爆による白内障を認定疾病として認めるかどうかが争点で、原告は石田明氏、被告は国で、要医療性が争点になりました。判決は、認定疾病についての二つの要件のうち、起因性については問題がない。さらに、医療審議会の意見「薬物治療は効果がない」に対して、一部ではあるが進行防止の効果を有するとの見解もあるので、もう一つの要件である要治療性があると認めるべき、というものでした。

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被爆教師の会の創設者で、石田訴訟の原告である石田明氏

 .孫振斗訴訟 (1972年10月--1978年3月30日)――原爆医療法の恩恵に預かるための必要要件だった被爆者健康手帳を交付して貰いたいという目的で密入国した原告、孫振斗(ソン・ジンドウ)氏が国と福岡県を訴えました。争点は、密入国者にも被爆者健康手帳を交付すべきかどうかで、最高裁による判決は、「『原爆医療法』は、被爆による健康上の障害の特異性と重大性のゆえに、その救済について内外人を区別すべきではないとしたものにほかならず、同法が国家補償の趣旨をあわせもつもの」と解し、「被爆者の置かれている特別な健康状態に着目して、これを救済するという人道的目的の立法である」ことから、交付すべしという結論になったのです。

 .3号被爆者訴訟 (2005年9月29日--2009年3月25日)――市外で、被爆者を輸送・救護・看護・処理等をした人たちは「3号被爆者」として認定されるのですが、そのためには、輸送・救護・看護・処理等をした被爆者が10人以上という条件が付いていました。それに対して被爆者7名が、国と広島市を訴えていました。判決は、相応の時間とどまったという事実が認められれば、身体に放射線の影響を受けたことを否定できないという結論で、これら7名、そしてその他にも要件を満たした被爆者は3号被爆者として認められることになりました。

国の姿勢は被爆者を「個人として尊重」したり、生命・自由・幸福の追求のために「最大の尊重」をしているようには思えません。「受忍」して当然なのに、何故それ以上の要求をするのだ、とでも言える対応の仕方ではありませんか。日本人に対しての対応がそのレベルであれば、日本人以外の人たち、つまり外国人に対しては、特に大日本帝国が起こした戦争・事変その他の行為で被害を受けた人たちには、「受忍論」より過酷な基準での対応しかなされていないとしても不思議ではありません。次回は、この点を検証します。

[2020/4/1 イライザ]

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コメント

基本懇答申、期待していたからこそ、あの内容には脱力感だったことを思い出します。答申が出たのは80年12月ですから、今年は40年なのですね。「受忍論」とともに、「三つのほしょう」問題も改めて議論を交わしたいと思います。そして石田明さん、「被爆者運動の哲学」を教わりました。

木原省治様

コメント有り難う御座いました。何しろ、二人の東大元総長まで委員だったのですから、普通なら期待しない方が可笑しいですよね。でも、最近の東大出の高級官僚たちの言動を見ると、その原点が基本懇にあったのだと考えた方が良さそうですね。

それも、コロナ・ウイルスについての対応で、高級官僚たちのお粗末さが毎日伝わって来ていますので、多くの皆さんが目を覚ましてくれると良いのですが---。

 

 

2020年3月31日 (火)

3月のブルーベリー農園その2(東広島市豊栄町)

広島市安芸区から出発して農園に着くのはいつも昼前で、会議など用事があると午後1時過ぎから2時頃になることもある。3月20日(金)の彼岸は一人で作業だったが、朝9時に農園に着いた。いつもと違う時間帯なので農園の朝日のさす景色が新鮮で真っ先にカメラを取り出し周囲を撮影。

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3段ある農園の真ん中のブルーベリー。ここはもう剪定が終わっているので足元すっきり。

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花壇のスイセン。朝の光はまだ弱いので逆光で眺めると透けた黄色が見れる。

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順光でのヒヤシンス。

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同じく隣の畑の菜の花。

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家の裏の庭の八重のツバキの蕾。朝の春光がまぶしそうでもある。

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午後からのブルーベリーの剪定作業は一番上の畑。地面のブルーベリーのシュートやヒコバエを切っていく最中に出てきた生き物2つ。どちらもまだ寒いのか目覚めが悪いのか動きが遅い。

 ①アマガエル

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 ②トカゲ。ニホンカナヘビ。

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ブルーベリーの株もとにはツクシもでてきた。

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一人でせっせと選定作業をすすめるのだがところどころから自生のスイセンが花開く。野の花と違ってよく目立つ。

10_20200330165301 夕方5時。花壇のコブシが数輪咲いているのを眺めて作業終了。朝早くから脱だのでちょっとくたびれた。

農園に来るのが早かった訳。コロナウイルスの影響が世界に広がっている。安芸の郷で受け入れている独日平和フォーラム(日本の受入団体の独日平和フォーラムは1987年に故小田実さんの提唱によって設立された)から派遣されている若者アレクサンダーさんをはじめとする20数名のボランティアに対して、フォーラムを支援しているドイツ政府から帰国命令が出され急きょ20日に羽田空港から帰国となった。そのため朝9時半頃の飛行機に搭乗するので広島空港まで彼を車で送りお別れとなったもの。手続きを終わり搭乗口まで来て別れの握手をしたがあとは飛行機が来るのを待つだけとなったアレクの表情がほっとした表情になったのを見てこれまでの不安の大きさに触れた。7月末までの予定だったが突然の別れとなった。見送った後で農園に移動。空港から30分あまりなので朝9時には到着した。

2020年3月31日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年3月30日 (月)

遺稿集「橋本秀夫の仕事ぶり」

今日は、22日のブログ「赤レンガ倉庫は語り継ぐ―旧広島陸軍被服支廠被爆証言集―」で紹介した「建築家橋本秀夫遺構集『橋本秀夫の仕事ぶり』」の入手顛末記です。

どんな本なのか興味が湧き、ブログを書いた後すぐに広島市立図書館の蔵書検索で探しました。中区図書館が蔵書していることが分かりました。しかし現在広島市立図書館は、新型コロナウイルス対策で、全館閉館中で、貸し出しはインターネット予約のみですので、予約を行いました。私の受け取り館は、中区図書館ですので、すぐに「予約確保」の返信がありましたので、早速本を受け取りに行きました。

手にしてびっくりです。300ページを超える分厚い本です。さらに開いてみて、またびっくりです。「赤レンガ倉庫は語り継ぐ」に引用された「蘇る旧陸軍被服支廠 保存と文化」はもちろんですが、広島城、旧レンガ建物、「旧広島水上警察署」などの郷土史と文化財の第1部論文集につづいて、第2部「砲台めぐり」と、自らが現地を訪ねて測量などを行って調べた結果がまとめられています。しかも手書きの図面や写真がふんだんに盛り込まれています。一人でここまで、それにしてもよく訪ね歩かれたものだと感心します。

興味津々です。最初の登場する「広島城」は、昭和18年から広島城天守閣実測を始められたことが分かります。後で、次女の河野さんから聞いた話ですが、この橋本秀夫さんが残された資料が、広島城橋御門の復元にずいぶんと役に立ったそうです。凄い資料の連続ですが、私が興味を持ったのは、第2部の「砲台めぐり」です。日清戦争に勝利後、ロシアとの戦いに備えて、全国各地に要塞が築かれたのですが、芸予、広島湾にも要塞が構築されました。橋本先生は、その広島湾に作られた全部の要塞について調べておられるのです。私もそのいくつかを訪ねています。宮島にある「鷹の巣砲台」大柿町の「三高山砲台」呉市警固屋の「高烏砲台」竹原市の「大久野島堡塁砲台」などです。三高山砲台は、この本の写真よりもずいぶんと綺麗になっていますので、橋本さんの仕事が後押ししたと思われます。

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2018年4月に訪れた三高砲台

もう少し前にこの本を知っていたらと思うとともに、この本を片手にもう一度訪ねてみたい思いに駆られます。

本の紹介が長くなりました。今日書くべきは、入手の顛末でした。「砲台めぐり」を見つけ、これはどうしても入手したいと思い、本の名前をキーにネットで検索しました。ヒットしたひとつに、広島県立広島工業高等学校同窓会がありました。問い合わせの電話をかけたのですが、「在庫はありません」とのことで、ここでは見つけることができませんでした。ただこの電話をかけたおかげで、同窓会事務所を訪れることができたのですから、決して無駄ではありませんでした。

次に連絡をしたのが、本の奥付に記載された「問い合わせ先」です。木原さんという方が応対してくださいました。「ここには在庫がありません。確か、遺族の方が何分か持っておられるはずですので、連絡を取ってみます」という返事を聞き、いったん電話を切りました。すぐに連絡の電話が入り、「次女の河野さんがお持ちでした」と連絡先を教えて下しました。すぐに河野さんに電話を入れました。「お分けできますよ」との返事。その日のうちに自宅を訪れ、ついに「遺稿集『橋本秀夫の仕事ぶり』」が私の手に入りました。突然の訪問でしたが、河野さんからは、先に紹介した広島城復元の話や橋本秀夫ご夫妻の在りし日のことなど、貴重な話を沢山聞かせていただきました。

河野さんの自宅を持してから訪ねたのが県工同窓会事務所です。ここでの話は、大部分をすでにブログに書きましたが、一つだけ書き忘れたことがあります。それは、同窓会事務所の隣の部屋にあった建物の模型群です。

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広島城橋御門の模型 後に広島城の模型がある

この模型は、いずれも橋本さんが残された図面をもとにして、県工の在校生たちが作ったものだそうです。

またここでも繋がりの不思議を体験しました。

訊ね訊ねて入手できた本ですので、大切に活用したいと思います。

いのちとうとし

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2020年3月29日 (日)

県立広島工業学校と被爆者原廣司さん

今日は、再び県工同窓会訪問記のつづきです。

県工同窓会を訪れた時、「広島県立工業学校原爆追悼集 ああ麗しき太田川」(以下「追悼集」という)を贈呈していただきました。その時は、何も考えることなく「ありがとうございます」と受け取ったのですが、帰宅してカバンから取り出してみると、裏表紙の森滝市郎先生の「人類は生きねばならぬ」という文字とともに描かれた原廣司さんの絵が目に入りました。本を開くと、見開きにも同じ絵が使われていました。

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色紙に描かれたものをコピーしたものですが、「なんでこの色紙が?」と、一瞬頭をよぎりました。実は、この色紙は、原水禁が、結成○○周年(何周年だったかすぐに思い出せない)記念の事業の一つとして作成した物なのです。もともとは別々の原画だったものを組み合わせて作成しました。いただいた追悼集では、白黒印刷になっていますが、原水禁が作った色紙は、もちろんカラーです。書棚を探したのですが、すぐに見つかりませんでしたが、私も当時、この色紙の作成にかかわったことを思い出します。

こうした経過を知っているだけに、一目見た時「なんで?」という思いが最初に頭によぎったのです。自宅に帰って少したってから、気づいたことがあります。「まてよ、たしか原さんは、県工の卒業生だったはずだな」と。すぐネットで原さんのことを検索すると、昨年4月15日の訃報のニュースが見つかりました。やはり原さんは、被爆当時13歳、県立広島工業学校(後に県立広島工業高等学校)の1年生と書かれています。原さんとは、国鉄広島工場に働いておられるときからの長いお付き合いで、お世話になり続けていたのにもかかわらず、こんな大切なことをすぐ思い出せなかったなんてと、反省、反省です。これで、追悼集に原さんの絵が使われていた理由が分かりました。納得です。

県工正門のすぐ横に原爆犠牲者の慰霊碑と銘板があります。その日は、慰霊碑にこうべを垂れて、学校を後にしました。

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改めて、追悼集を開き、原さんの被爆体験記はないかとページを繰りました。「卒業生聞き書き・手記」の章にありました。タイトルは「白い雲 そして真っ赤な空」です。岡本千恵子さんの聞き書きです。「建築家1年生、13歳の時です。(略)私たちの組は8月5日、疎開家屋の撤去作業に出ていましたので、6日、原爆が落とされて日は休みでした。私の家は、矢野でしたが、6日は休みとなっていたので、5日の夕方、リュックサックを背負って、尾賀さんのいる江田島に行きました。」から始まる体験記には、江田島から原爆の様子を眺めたこと、7日に学校へ行ってからのことなどが詳しく書かれています。原さんがいつも語っていた体験談です。広島県立工業学校の被爆の歴史も詳しく調べてみたいと思いますが、これで「なぜ原さんの絵が?」という疑問は完全に解けました。

原廣司さんが、被爆体験を語りながら、矢野から通い描き続けた原爆ドームの絵は、3000枚を超えたといわれます。

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その原さんが亡くなってもうすぐ1年を迎えます。そんな時、原さんと一緒に訪朝したことのある李実根さんが亡くなりました。同じ入市被爆者として頑張り続けた二人でした。

いのちとうとし

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2020年3月28日 (土)

プライドPRIDE共生への道~私とヒロシマ~

李実根さんのご遺体に高天原の火葬場まで同行し、最後のお別れをしました。今、帰宅しすぐに李実根さんが、自らの信念を貫いて生きてこられた人生を振り返った著書「プライドPRIDE共生への道~私とヒロシマ~」を開いているところです。

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この本を改めて手にしようと思ったのは、昨日の李さんの葬儀で「お勤め」を務めた吉川徹忍さんが、御文章「白骨の章」を拝読した後、葬儀では珍しいことですが、自分と李さんとのかかわりを話す中で、この本(PRIDE)の最初に載っている「プロローグ 三歳の日の銀杏の木」のエピソード(李さんが三歳だったころ、息子の自立を願ってお母さんが「暁雲寺」という浄土真宗のお寺に預けられたこと)を紹介したからです。

表紙をめくった見開きのページには「謝 2006年10月30日 李実根」のサインが入っています。奥付にある発行日は「初版 2006年7月28日初版第一冊」となっていますので、私の蔵書は、出版記念会で参加者全員に配布されたものだと思われます。

第一章は、「父と母」「日本の子どもとして生きる」「被爆」と生い立ちから被爆者となるまでが綴られています。その中には、軍国教育と差別の中で生きてきた少年時代の苦い思い出も書かれています。第二章、第三章では、戦後の混乱期の中で体験した刑務所生活など、波乱万丈の人生が綴られています。

そして第4章からは、私たちがよく知る李実根さんの後半生が登場します。1961年から始まった朝鮮総連役員としての組織づくりを中心とした活動。そうした活動をへながら、いよいよ本格的な被爆者の組織作りが始まり、1975年8月2日の「広島県朝鮮人被爆者協議会」の発足へと発展します。李さんは、結成の意味を「PRIDE」の中にこう書いています。「唯一の被爆国、唯一の被爆者論が展開された時期に、『唯一の被爆国』は正しくとも『唯一の被爆者論』は間違っているという認識から産声を上げた朝被協の結成は歴史的に大きな意義があった。日本人だけが唯一の被爆者ではない。罪もないのに被爆したたくさんの朝鮮人。その朝鮮人たちが立ち上がったことを世界に向けて宣言したのだ」と。そして大事なことは、「宣言した」だけでなく、77年にかけて在広朝鮮人被爆者の実態調査が実施されたことです。その実態調査には、李さんも書かれていますが、日本の青年や学生の協力がありました。この協力を得ることができたのも、李さんの人脈の広さがあったからです。

そうした活動が、次のステップ、朝鮮人の被爆体験集「白いチョゴリの被爆者」の発刊へとつながっていきます。「PRIDE」には、当時著名な作家だった松本清張さんへの「序文」の依頼の様子も詳しく書かれています。それも、これも李さんの行動力とそれを支えようとする多くの人たちが周りにいたからできたことが分かります。

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葬儀で上映されたDVDの最後の写真

その後の李さんの活躍ぶりは、多くのところで紹介されていますので、ここでは省略しますが、どうしても触れておきたいことがあります。それは、出版記念会で配布された本には、A4のコピー用紙6ページほどの資料が、半分に折って挟み込まれていたことです。資料のタイトルは「日本の戦争責任を問う」です。出版と同じ年の7月16日に開催された「原爆投下を裁く国民民衆法廷・広島」での李さんの「特別証言」が、全文掲載されています。

きっと、李さんが「PRIDE」の中で書ききれなかった過去の歴史と日本の戦争責任についての考え方を、この「特別証言」を通じて訴えたかったためだと想像できます。多くの人の目に触れた欲しい文章です。

最後の紹介ですが、「エピローグ」の中で李さんと原水禁とのかかわりについて書かれています。「当時は社会党系の原水禁や被団協からの支援が多く、中でも故森瀧市郎先生や宮崎安男さん、故近藤幸四郎さんといった人たちが、積極的に応援してくれた。特に70年代の終わりから80年代にかけては、常に原水禁運動の中で大小問わず、様々な会合や学習会、講演会などに参加させてもらった」と。

通夜、葬儀で上映されたDVDの締めくくりは、慰霊碑前で座り込みをする李さんの姿でした。私はそれを見ながら、原水禁との縁の深さを感じました。李さんと原水禁との歴史をもう一度思い起こし、李さんの運動の歴史から改めて私たちも学びなおしたいと思っています。

いのととうとし

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2020年3月27日 (金)

広島県朝鮮人被爆者協議会会長李実根さんの訃報

広島県朝鮮人被爆者協議会会長として在日朝鮮人の権利確立と生活擁護のための活動を献身的に続けてこられた李実根さんが、一昨日の午後5時50分に逝去されました。

訃報の連絡を受け昨日午前、遺体が安置された玉泉院吉島にお別れに行ってきました。

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李さんとの思い出は、数え切れないほどありますが、私にとってどうしても忘れることができないのは、在朝被爆者問題を一緒にとりくんだことです。

1989年7月、被爆者の代表として石田明さんと共に、平壌で開催された「世界青年学生平和友好祭典」に「平和の灯」を持参して参加された李さんは、その祖国訪問期間中に共和国に10人の被爆者がいることを確認されました。その時以来、李さんにとっては、在日の被爆者問題と共に在朝被爆者支援が大きな活動の柱になりました。

そのための具体的な活動のスタートとなったのが、1992年の原水禁国民会議訪朝団の派遣でした。私も李さんと共に団員の一員として参加しました。その時、李さんが準備し持参されたのが、被爆者健康手帳申請用紙をもとにハングルに翻訳された調査用紙1万枚でした。訪問の最終日、交流の成果として、朝鮮民主委主義人民共和国(以下「共和国」という)の平和団体・朝鮮平和擁護民族委員会と原水禁国民会議は、共同コミュニケをまとめました。李さんの強い思いが実り、その第1に「日本政府が、帰国した朝鮮人被爆者に対しても、充分な補償をすることを強く要求する。その実現のため両組織は、最大限の努力を行う」と在朝被爆者問題に取り組む決意を宣言しました。

その訪問から約3年後の1995年2月に、共和国から嬉しい便りが届きました。共和国に被爆者組織「反核平和のための朝鮮被爆者協会」(後に「朝鮮被爆者協会」と改称)が発足したというニュースです。李さんの願いがひとつ実現しました。

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日朝被爆者交流を進めるヒロシマ訪朝団・左端が李実根さん

その報を受け、翌年の96年5月、広島からの「日朝被爆者交流を進めるヒロシマ訪朝団」を派遣し、在朝被爆者支援・交流のスタートを切りました。その成果は、97年9月には「朝鮮被爆者協会」の初来日、99年8月の平壌での「原爆写真展の開催」などなど、日朝間の交流が深まりとなって継続しました。

その両国の団体を繋ぐ役割を担ったのが、李実根さんでした。その李さんの助言を得ながら、私も事務局のメンバーとして深くかかわったことは、忘れることのできない思い出です。

もちろん2000年に入ってからも在朝被爆者の支援活動のための訪朝活動は続きました。

しかし、こうした李さんの努力にもかかわらず、在外被爆者問題が前進する中で、在朝被爆者は、被爆者援護法適用からも置き去りにされた状態が、今も続いています。

李さんにとって、在朝被爆者問題を前進させることができなかったことは、大きな心残りだったことだと想像できます。

今日の葬儀に参列して何よりも霊前に誓うべきは、「李実根さんの遺志を引き継ぎ、在朝被爆者問題の解決のために全力を尽くします」の一言だと思います。

李実根さん、盟友であった近藤幸四郎さん、石田明さん、そして宮崎安男さんたちと再び出会い、ゆっくりと思い出を語り合ってください。

合掌

いのちとうとし

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2020年3月26日 (木)

普門寺のシダレザクラが満開になりました

広島の桜の開花日に合わせて紹介した普門寺のシダレザクラが満開になりました。

満開となった桜の紹介です。

山門越しに眺めた桜です。

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境内に足を踏み入れると、目の前に満開の桜が飛び込みます。昨日夕方のNHKの天気予報で勝丸さんが紹介されたからでしょうか、沢山の人が訪れています。午前10時前ですが、すでに10数人の姿が見えました。人気のスポットです。Dsc_5825

いつもように本堂前への石段を上がり、そこからも一枚。

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ところで、この境内には、もう一本シダレザクラがあるのですが、こちらは少し寂しい花の付き具合です。聞くところによれば、同じ時期に植えられてそうです。どうしこんなにも違うのか不思議です。先日お会いした奥さんが「私はこの木がいとおしいですよ」といっておられたことを思い出します。

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境内に桜だけではありません。ボケの花やボタンの花があります。

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「この境内に被爆したものはないのですか」と訊ねたところ「庫裏への踏み石が、被爆した石です。」ちょうど、サクラの枝の右下に5枚の被爆石が並んでいます。

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毎年のこの時期の風物詩のようになっていますが、今年も良いアングルを求めてカメラを構える人の姿が、引きも切りません。

いのちとうとし

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2020年3月25日 (水)

話すことの大切さ

 「三島由紀夫VS東大全共闘」というドキュメンタリー映画が上映されています。まだ観ていませんが、期間中には観たいと思っています。

新聞にこの映画が「問うもの」という記事を掲載していました。三島由紀夫の考えが間違いで。全共闘が正しいとかいうことではなく、この映画が問うているのは「言葉」ということだと思っています。

時代は1969(昭和44)年、三島と全共闘の学生たちが、政治や思想について議論を交わすのです。右翼の三島と、左翼の全共闘とはまさに「水と油」という関係ですが、それがお互いに言葉を交わすことで、両方の接点を見出そうというものです。

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最近、言葉を交わすということが極端に少なくなったように思い、たいへん憂いています。

大阪市長が兵庫県との往来を自粛して欲しいと発言し、市長に対し記者は「兵庫県知事と事前話したのか?」と尋ねた時、大阪市長はそれを否定しました。

「痩せても枯れても」行政のトップにいる者が、事前に話してもいないということに、まさに「開いた口が塞がらない」という気持ちになりました。「話せば解る」ということを自らが否定する考え、これは「喧嘩を売った」としか言えません。

新聞は「三島由紀夫VS東大全共闘」について、「体温や汗を感じる対話 重要だと感じる」と書いていましたが、その通りだと思います。

かつて何かに、「絵文字でしか(笑い)の表現ができない時代が来るのでは」というようなことを書いた記憶があります。最近テレビなどで一方方向で「笑い」は提供されるが、それを観ている側は「ブスッー」とした状況でいるというのに、まさに慌てることがあります。「失語症の時代」ということも言われていたと思います。

小学生の頃、近所に住む1級下の友人と近くの銭湯に行き、銭湯で「なんだかんだ」と話すことが楽しみでした。その時間が長すぎて僕はノボセテしまい、脱衣場の長椅子で横になっていたという経験があります。

「以心伝心」とか「ツーといえばカー」とかいう言葉もありますが、たとえそうであったとしても、言葉で伝えることは大切です。

特に云い難いこと、相手が嫌がるであろうことの催促など、伝えたくないことは、だからこそ言葉で伝えることの勇気を持って欲しいのです。

好きな人が出来たら素直に「好きだ!」と伝えること、ストーカーと思われる線は超えない形でなら、聞いた方は悪い気にはならないと思うのですが。僕は云ったことは何度もありますが、残念ながら云われた経験はありません。

木原省治

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2020年3月24日 (火)

千田小学校の被爆石の由来

22日のブログで紹介しました「橋本秀夫の仕事ぶり : 建築家橋本秀夫遺稿集」を入手できないかと探し回っている中で得た、新たな情報です。

入手できる方法を見つけようとネットで検索していたら、広島県立広島工業高等学校(以下「県工」という)同窓会の名前が出てきました。すぐに電話を掛けたのですが、今日の話はその顛末です。

電話口に出られた吉森先生(学校の講師を務めながら、同窓会事務局の仕事もされている)、「橋本秀夫さんは、元は県工の卒業生でもあり建築家の先生でした。私も机を並べて仕事をしていました」と教えていただいたのですが、肝心の本は、すでに品切れでここでは入手することはできませんでした。しかし、電話口の吉森さんから、陸軍被服支廠についての新しい情報を得ることができました。詳しく知りたかったので「午後に同窓会事務所を訪問する」ことを約束し電話を切りました。

午後2時過ぎに訪れた県工同窓会事務所は、陸軍被服支廠の北側の延長線上に建つ2階建ての建物です。2階にある事務所からは、被服支廠の全体が見渡せますので、早速、ベランダに出て写真を撮りました。しかし午後の日差しでせいで、日陰となりあまり映りはよくありません。気の毒に思われたのでしょうか、吉森さんが「この写真はどうですか」と県工同窓会が映した空中写真を提供して下しました。下の写真です。普通では撮れないアングルです。

Img0290-002

その後、椅子に座込んでの話が弾みました。話の中で、私が「千田小学校に被爆石として県立工業学校(県工の前身)時代の『車回し入口土台石』があるのですが、ご存知ですか」と尋ねたところ、「えー、初めて聞く話です。本当ですか」との答え。私のスマホに、その被爆石の写真がありましたのでそれをお見せすると、「待ってくださいよ。ここには古い写真が何枚もあります。その中に映っているものがあるはずです」と書棚を探してくださいました。

ありました。一枚は、昭和初期の千田町の県立広島工業学校の玄関の写真です。車回し入口に二本の柱がきちんと映っています。

Img_20200323_0002-003

「この土台部分だと思います」吉森さんの話です。この写真では、見分けにくいのですが、柱は3本がL型になっています。千田小学校にある被爆石の一番上部の石も、3つの穴がL字型になっています。

Dsc_5098_20200323200801

次にもう一枚の写真出てきました。被爆後、昭和25年(1950年)に映された正門の写真です。バックに、車寄せ入り口の土台石だけ残ったままで映っています。一番下のレンガ部分を除いて千田小学校に移築されたと思われます。

Img_20200323_0001

千田小学校の被爆石「車回し入口の土台石」は、間違いなくかつての県立工業学校にあったものだと思います。千田小学校を訪れた時には、「どこでどんな風に使われていた」のか不明でしたが、うれしい解明です。ちなみに県立工業学校は、現在の県立図書館などが建っている場所にありました。正門は本川沿いの西側に面し、校内の北寄りにあったようですので、ちょうど県立図書館が建っている場所の西側道路沿いにあたります。「学校の古い歴史に関心を持つ友人がいますので、ぜひ一緒に千田小学校を訪ねたいです」との吉森さんの話でした。今回使用した写真は、いずれも使用許可をいただいています。

ところで「橋本秀夫の仕事ぶり : 建築家橋本秀夫遺稿集」ですが、いろいろ尋ねてついに入手することができました。その顛末と本の内容については、後日報告します。

いのちとうとし

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