2019年9月
1 2 3 4 5 6 7
8 9 10 11 12 13 14
15 16 17 18 19 20 21
22 23 24 25 26 27 28
29 30          

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

日記・コラム・つぶやき

2019年9月16日 (月)

「ジュノー博士、第三の戦士」上映会

昨日午後2時から原爆資料館東館地下1階「メモリアルホール」で、スイス人医師マルセル・ジュノー博士の軌跡をたどる映画「ジュノー博士、第三の戦士」の上映会がありました。主催は、同映画上映実行委員会となっていますが、実質的には在日スイス大使館が企画した上映会でした。ちなみに今年は、日本とスイスは、国交を樹立して155周年を迎えるという深い関係にあるます。

Photo_20190915181301

広島にとっては恩人ともいえるジュノー博士への関心の高さを示すかのように上映会には、会場の定員312人の席がほぼ満席となる盛況ぶりでした。上映会は最初にあいさつが続きます。ジャン=フランソワ・パロ在日本スイス大使、続いてジュノー博士の息子ブノワ・ジュノーさん。「父は負傷者や犠牲者を救助するためには、いかなる手段をも使い、やり遂げる人だった」と語るとともに、「1979年に広島県医師会が建立した『マルセル・ジュノー博士祈念碑』の除幕式に参加するため初めて広島を訪れた時、原爆は悲惨なできごとであり、二度と起こしてはならないと思い、使用に反対してきました。」を訴えられました。

そして映画監督、脚本家と続き、いよいよ映画のスタートです。

映画の内容は、「広島、1945年9月8日。原爆投下の直後、ICRCの駐日首席代表として15トンの医薬品を携えて、破壊状態にあった広島に駆けつけ、自ら苦しんでいる被爆者の治療にあたり、救護活動に尽くしたジュノー博士はどのような人物だったのか、その軌跡をたどりながら、その精神を受け継ぎ、2017年コンゴ民主共和国で戦火からの救出にあたっているICRCアジア大洋州事業局長のクリスティン・チポラ氏の活動を紹介し、人道活動の大切さ」を訴えるもので、全体としてジュノー博士の足跡をたどりながら、国際赤十字の人道主義の精神を紹介することを中心に構成されていました。もちろん広島での活躍も登場はしますが。

上映会の最後は、知人の被爆者青木賢さんの被爆証言。15分という短い時間でしたが、良くまとまった内容でした。証言内容はまたの機会に書きたいと思います。

Dsc_4138

上映会終了後、平和公園内の「マルセル・ジュノー博士記念碑」と袋町小学校平和資料館横にある「マルセル・ジュノー広場」を訪ねました。「記念碑」の裏には、「無数の叫びが あなたの助けを求めている M.ジュノー著『第三の兵士』より」というジュノー博士の言葉が刻まれています。映画を見た後には、その言葉の意味が重く伝わってきました。

Dsc_4134

「マルセル・ジュノー広場」には、博士の肖像が入った直径約五十センチのレリーフが石垣に埋め込められ、功績をまとめた解説板があります。そこには「(前略)当時、救護所の一つであり、1日100人あまりの診療が行われていた袋町国民学校(現在の当校)においても、博士は被爆者の治療にあたられた。広島の恩人であるジュノー博士の生誕100年にあたり、その人道的・献身的な行為に心から感謝し、この広場をジュノー広場と命名するとともに、末永く広島市民に語り継がれていくことを祈念する。2004年10月2日」と書かれています。映画によれば、ジュノー博士は、市内10数か所に設置された救護所で活動されたようですので、ここもその1ケ所だったようです。入り口に「マルセル・ジュノー広場」と書かれた石碑が立っています。石碑には「レリーフが収められている石垣は、広島城外堀の石垣」ということも記されています。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月15日 (日)

9月のブルーベリー農園その1(東広島市豊栄町)

農園のブルーベリーの摘みとりも例年だと9月に入っても援農の皆さんがお見えになるのだが、8月31日(土)に計画していた摘みとりも中止せざるを得なくなったほど不作の年となった。9月に入って晴れて暑い日が続くようになったので、ブルーベリーも小粒だが甘さが増してきた。本当にお日様次第のブルーベリーを痛感。

199151

9月7日(土)。暑さが戻ってきたが雲は初秋の形。

199152

9月7日(土)。夏中ほったらかしだったジャーマンアイリスの畑の除草を1日(日)に続き行う。手作業で頑張って全部の草を抜く。

199153

9月8日(日)。かって妻と子ども会の役員をしたこともある友人が妹、姪御さんの3人でブルーベリーの摘みとりに来園。

199154 

すっかり少なくなったブルーベリーの実を探し探し摘み取る。時折吹く風が気持ちいいと言いながら目標のブルーベリーを摘み取ることができた。とれたてのブルーベリーで作ったジュースを飲みながら話に花が咲いた一日だった。

199155 

それでもまだ色づいていない実もあるが、農園全体では数十本でしかないだろう。今日で援農においで頂いた皆さんも お わ り・・・。感謝。

199156

始まったのは稲刈りと(9月8日)

199-1572

初秋のススキや

199158-1

イワジャシンや、

199159

コスモスや、(9月14日)

1991510

ツルボなどの野の花(9月14日)。

お礼のブルーベリーへの施肥や防草シートはがしや草刈りがこれから晩秋までの作業となる。

2019年9月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月14日 (土)

湯来の森

今月6日、7日のブログで、「平和大通りの供木運動」を簡単に紹介しました。今日はその続きのような話です。

Dsc_4124

一昨日、広島市役所を訪ねた帰りに、同じフロアにある自治労広島市労働組合の書記局によりました。畠山書記長と話すうちに「ブログ」のことに話が広がりました。私が「供木運動で寄せられた平和大通り樹木には、どこから贈られたものか、表示がないんですよ」と話したところ、畠山書記長から「中国新聞社の前の方に『湯来の森』の石碑がありますよ」と教えられました。そういえば、何時かあのあたりを歩いたとき「なんでこんなところに『湯来の森』という石碑があるんだろう」と不思議に感じたことを思い出しました。でもその時は、それ以上深く考えることはありませんでした。畠山書記長は続けて「実は、湯来町は山林の多い町でしたので、林業が主要な産業でした。当時、湯来の木材のほとんどは、広島に送られていたんですよ。そんな関係から、当時湯来からもたくさんの苗木が送られたと思いますよ」さらに続いて「確かなことは言えないですが、当時あの場所から南の舟入地区には材木店が多かったと聞いていますから、湯来の木材業者とのかかわりが深いところということで、あの場所(河原町、西平和大橋西詰の平和大通り南側緑地帯)に湯来から送った苗木が植えられたように思います。」と。納得できる話です。湯来からは大きく育てば「森」と呼ばれてもおかしくないほどたくさんの苗木が送られたことが想像でします。この話を聞くと「湯来の森」の石碑が建っている理由が理解できます。

Dsc_4121 Dsc_4122

 昨日改めて、現地を訪ねてみました。立派な石碑が立っています。石碑の裏には、「1958年4月植樹」と刻まれています。61年が経過し、樹木も大きく育ちこんもりと茂っています。

Dsc_4125

西側からの写真

まさに「森」に近い形に成長しています。自転車で行っていましたので、少し周りをまわってみましたが、この他に、どこから贈られた木かを示すようなものを見つけることはできませんでした。

広島市が呼びかけた「供木運動」では、約6000本の樹木が届いたと言われていますので、もう少し樹木の出身地が分かればよいなと思いました。

もう一つ余談です。広島県原水禁の元事務局長佐藤次彦さんの話です。「自分の妻のおじいさんは、湯来で木材業を営んでおられてようですが、『昔は、切り出した材木をいかだに組んで広島まで流したものよ』と話しておられたと妻から聞いたことがありますよ」と教えてくれました。広島と湯来、昔からの深い結びつきが、平和大通り緑化にも大きな役割を果たしたと言えます。その湯来町も2005年の合併で今は広島市になっています。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月13日 (金)

多山恒次郎さんと広島電鉄・・・その時

 9日付のブログの中で、多山恒次郎さんが広島電鉄の社長だったことに触れました。その後「社長はいつごろだったのか」と気になり、いろいろと調べてみました。多山さんは、1945年(昭和20年)3月15日に就任し、1952年(昭和27年)4月26日に退任されたことが分かりました。

Img015

1945年8月6日、原爆が投下された時の広島電鉄の社長です。関心が深まります。当時の様子を調べたいと思い、私鉄広電支部に行き、広島電鉄の社史を借りました。社史は、「開業80年創立50年史」と「開業10周年創立70周年」の2冊があります。そのいずれにも被爆当時のことが、広島電鉄の社報「『輪苑71号』:昭和30年8月5日」(当時専務取締役で後に3代目社長となる伊藤信之さんの原稿)から引用したものが、掲載されています。そこに多山さんの名前が出てきます。全文は長いので多山さんの名前が出ている個所を引用します。「一瞬青い閃光が走ったかと思うと、アッという間もなく、にぶいような轟音がグワンと炸裂した。視界が俄かに暗くなり、(中略)当時の社長多山氏が血にまみれて今の鈴ケ峰開発(株)のある部屋の窓から顔を出しておられる。逃げ場を失った女子職員が二階の洗面所から泣き叫んでいる。(以下略)」この文章で、多山さんが広電本社で被爆されたことが分かります。社史では、多山さんの被爆時の様子はこれしか記載されていません。

Photo_20190912140201

ところが、社史と一緒に出された「被爆電車75年の旅」(ザメディアジョンプレス発行2017年刊)には、血まみれの多山さんがとった行動が、39ページから41ページにかけて次のように記載されています。「次の爆撃を恐れて、庭の防空壕へ向かう者。狂ったように何事か叫び出す者。半壊した社屋を、呆然と眺めている者・・・。だがやがて、防空壕の上に立った多山が叫んだ。『多山は健在である。これくらいのことでヘコたれてはならん。みんな会社再建のために頑張ろう!』その声を聞き、我に返ったのか、軽傷の社員たちは瓦礫の木材やコンクリートを取り除きだした。」さらに本社の悲惨な被爆状況が続いた後、再び多山さんの名前が登場します。「多山恒次郎は、電車復旧の援助を請うため、怪我を押して師団司令部を訪れた。しかし、司令部は他の官公庁ともども壊滅状態。ついで『宇品』の陸軍船舶司令部をたずね、東京電信隊の協力を取り付けた。」伊藤信之さんの原稿や社史には見当たらないこの様子が、どのような経緯で明らかとなったのか、広電本社から爆心地の真反対にあたる師団司令部へはどの道を通って行ったのかなど不明な点はありますが、誰かの証言に基づくものと思われます。これで多山さんの被爆時の行動を知ることができました。広電の被爆について知っているつもりでしたが、また新たな発見です。不思議なつながりを感じます。

今回は詳しく触れませんが、当時「チンチン電車」を運転していた女学生の被爆時の様子は堀川恵子さんの「チンチン電車と女学生」に詳しく書かれていますので、一読をお勧めします。私も一度は読んだ本ですが、これを機会にもう一度読み直してみようと思います。

多山恒次郎さんのことについては、「多山報恩会」のことなど、もう少し調べてみたいことがあります。その結果は、またこのブログで報告したいと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月12日 (木)

旧廣島護国神社被爆鳥居―その2

今日は、9日のブログにつづき「旧廣島護国神社被爆鳥居台座」がテーマです。広島市青少年センター発行のパンフレットには、台座に取り付けられた銅板の説明文が全文書かれています。

Dsc_4100_20190911102801

原爆(昭和20,8,6 あさ、8:15)によって折れた 旧護国神社鳥居(北面)の脚部 昭和46年の公園内を南北に走る下水工事中現位置より北約20mのところで発見した。上記鳥居であることが確認されたのは、佐々木雄一郎氏(市内元宇品写真家)の貴重なフィルムによる。即ち氏は、被爆一ヶ月後からの「ひろしま」を数多く撮影しているがその中にこの鳥居に関したもの3枚があった。館内玄関に展示している。尚これが発掘、設置については、清水建設の協力を得た。 昭和46年12月22日 広島市青年センター」(原文のまま)

Photo_20190911102901

パンフレットにはこの説明文に加えて「この鳥居の台座は、青少年センターの北隣、爆心地から北方向に約370mに位置していた旧護国神社のものです。神社には、3つの鳥居がありました。原爆によって北側の鳥居は北方向に東側の鳥居は西方向に倒れました。この台座は、北側の鳥居の支柱2本のうち、西側のものとされています。」と記載されています。

この二つの説明文を頼りに、もう少し詳しく調べてみたいと思います。パンフレットには、鳥居の台座が設置された前日の中国新聞の記事(昭和46年12月21日付)も掲載されています。そこには注目すべきことが書かれています。「掘り出してから1ヶ月余り、これが台座であることが分からずに放置されていましたが、たまたま鈴木館長(当時の青少年センター館長)が、発掘地点が旧護国神社であったことから関心を持ち、古い写真などを手掛かりにして判明した。」当時の館長鈴木さんの賢明な判断が、この台座を被爆物として残すことになったのです。さらに新聞記事は興味あることを書いています。「写真を撮り続けている写真家、佐々木雄一郎氏の調べでは、この鳥居は、同神社に二つあった鳥居のうちの正面を入って北側に立っていたものらしく、左右どちらの台座か今のところは分からない。」この時点では、北側の鳥居ということは判明していてもどちらかわからないとしているのですが、パンフレットの説明文では、はっきりと「北側の鳥居の支柱2本のうち、西側のもの」としています。いつごろ、どんな経過で西側のものと判明したのか、気になります。その経緯をぜひ知りたいと思いますが、今のところその経緯までたどり着けていません。

Img011_20190911103001

毎日新聞社1977年刊「ヒロシマは生きていた 佐々木雄一郎の記録」より

鳥居の台座の決め手になった佐々木雄一郎さんの写真とともに鳥居の台座を見ると、改めて爆風の威力をまざまざと見せつけられます。と書きながら、気になることがあります。青年センターの西側本川土手に育つ「被爆樹木シダレヤナギ」です。この鳥居の台座と同じ、被爆距離370mの爆心地に最も近い現在地で被爆しています。鳥居が根元からぽっきりと折れるほどの爆風を受けたにもかかわらず、「シダレヤナギ」はどうして生き残ったのかと。やはりこのヤナギも幹が折れたようですが、その後根元から生えた新芽が成長し、いまのような大きな樹木に育ったそうです。生命力のすごさを感じます。

Img012

広島市1995年発行「ヒロシマの被爆建造物は語る」より

先に紹介したパンフレットの中国新聞の記事では「鈴木館長は、掘り出されたままになっている台座を青少年センターに据え付け、同センターを訪れる若者に原爆の悲惨さを知らせたいといっている。」と書いています。ところが鈴木館長の思いが伝わらなかったのか、この鳥居の台座は周りの植え込みの葉陰となり、長く埋もれた存在となっていました。しかし2013年の8月、9月に周りの樹木が伐採され、台座が再び現れ、多くの人が知ることになりました。鈴木館長の思いが、今後もきちんと継承されていくことを願わずにいられません。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月10日 (火)

中国電力、会長経験者が相次いで逝去

今年に入って、中国電力の会長経験者が相次いで亡くなっています。3月13日には、5代目社長の多田公煕(ただ こうき)さん95歳。8月1日には、6代目社長の高須司登(たかす しとみ)さん87歳。そして8月11日は、副社長からいきなり会長になった福田督(ふくだ ただし)さん77歳です。

中電の場合、社長から会長になり、会長就任とともに中国経済連合会という中国地方経済団体の連合体の会長を兼任するというのが、(問題なく?)出世した役員の進む道で、その後は相談役や顧問という立場になります。社長を経ずして会長になるとか、社長から会長にならずに相談役に就くというのは、「良きにつけ?悪しきにつけ?」問題があって歩んだ道となります。

3人の死去のニュースを、地元の中国新聞は単に死去というだけでなく、関連記事を大きく載せていました。多田さんについては「優れたバランス感覚」、高須さんは「高い志 構想提言も次々」、福田さんは「緻密 アイデア豊富」と、その「功績」を称えました。

この3人が会長に就任していた時代は、1989年から2011年までで、忘れてはならない事件があります。それは岡山県新庄村(しんじょうそん)にある中電の土用ダムの「データねつ造&隠ぺい」事件です。

Doyoudamu1

土用ダム:岡山県新庄村ホームページより

事件は06年10月31日の朝日新聞に1面で大々的に報じられ、同様の事件が他の電力会社でも起こっていることが明らかになりました。他電力会社とは、東京、関西、北陸、東北、電源開発という具合です。中電のケースが特に悪いのは、内部告発情報をある人物から得た地元新聞社が、その情報を中電に連絡し、中電は自らが犯した「データねつ造&隠ぺい」はそっちのけで、執拗に告発者探しを行い、その取り調べのやり方は警察顔負けだったとされているのです。「公益通報者保護法」など、そんなもの知るものかというやり方で、「犯人」とされた人は、子会社に出向させられたということでした。

やり方が、「国(建設省:現・国土交通省)」と中電が、手を組んでやったということで、「森友・加計事件」顔負けという感じです。事件のことを知っている筈の中国新聞が、揃って3人の行いを称えるというのは、なんともいえないほどキモイ感じがしました。「死者に鞭打つ」ことはしたくありませんが、この事件を報じた週刊誌の見出しを紹介しておきたいと思います。大手の全国週刊誌は、「中国電力・欠陥ダムのデータ捏造&隠蔽事件。善意の通報者を危険にさらす、『企業』と『国』の疑惑のタッグ… スクープ 国土交通省は『内部告発者』をこうして裏切った!」でした。

地元を中心に発刊されている物は、これは連載記事となっていますが、ある号では、「燻り続けるお家騒動!!真実に蓋をした企業再生は名ばかりの〝高須チルドレン〟驚くべ虚飾体質!『中国電力・経営陣』の罪と罰」という具合です。

先月8月28日、中電は島根原発2号機で原子炉の水位が低下した場合、水位の低下を検知する測定器の反応時間について、誤入力があったと発表しました。

思い出すだけでも、中電の不正事件は後を絶ちません。明らかになっただけでも、最近では2015年6月25日に発覚した、島根原発の低レベル放射性廃棄物の水量計の校正記録不正事件。事件を中電が記者発表したのは6月30日、この年の株主総会は事件が発覚した同じ25日に開催されているのです。株主総会ではひた隠しにしていたのだと思います。事件では、解雇者が出ています。またこの事件からさかのぼること5年前の2010年、島根原発で機器点検・交換漏れ事件が発覚しました。この時では、担当部長さんが宿泊先の松江市内のホテル10階の窓から飛び降り自死しています。まだまだたくさん在るのですが、多すぎてこのブログの中に収まりそうにありません。

今、あえて言いたいのは、現役で働いている中電や関連会社の人に、こういう過去が在ったことを、忘れないで欲しいということです。

木原省治

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月 9日 (月)

旧廣島護国神社被爆鳥居―その1

自宅で、資料を整理していたら広島市青少年センターが発行した「旧廣島護国神社被爆鳥居台座」というパンフレットが出てきました。広島市青少年センターの前に置かれている下の写真の「鳥居の台座」についての説明が書かれています。

Dsc_4100

このパンフレット読みながら「護国神社の鳥居」について興味がわき、調べてみました。

原爆投下の爆心地といわれる島病院の前には、広島市が設置した「原爆被災説明版」があります。その説明版には、解説文とともに被爆後米軍が映した写真もはめ込まれています。

写真は、島病院近くから北の方向を写したものです。よく見ると、その右端の方に白い鳥居を見つけることができます。最初にこの鳥居について調べてみました。

Dsc_4099 

この鳥居はすくっと建っています。この写真を見た時、ずっと疑問に思っていたことがあります。当時の護国神社はもっと左手奥にあり、正面は東を向いていたはずなのに、なぜこの鳥居は、正面が南向きで立っているのだろうかということです。私が知っている限りでは、故郷出雲では出雲大社をはじめ神社の鳥居は、すべて本殿の正面に立っていましたので、それが普通なのだと考えていました。ですから、島病院前にある写真を見た時、どうしても違和感を持たざるを得なかったのです。

ところが、今回調べてみると、「旧廣島護国神社」には、3本の鳥居があり、そのうち2本は、境内の東側と北側に建っていたようですが、写真に写っているこの鳥居は、少し離れた電車通りの入り口に立っていたものです。他の二つの鳥居が倒壊したのに、なぜかこの鳥居だけ倒壊を免れました。理由は、この鳥居が、爆心地(といわれる島病院)からわずか140mという近距離の位置にあり、原爆の炸裂ともに起こった爆風が、ほぼ真上から直撃する形になり、倒壊を免れたそうです。そのため被爆後もそのままの姿で写真に納まったのです。

Dsc_4104

倒壊を免れたこの鳥居はその後、護国神社の移転(1976年・広島城跡の現在地)とともに、広島城の裏門・RCC南側に移設され、現在に至っています。鳥居そのものは倒壊しませんでしたが、裏側(当時の北側)の額は、失われたそうです。

Dsc_4106 

確かに現在の鳥居の裏側を見ると、額が掛けられていた跡と思われる金具がそのまま残っています。ここで新たな疑問が起こります。真上からの爆風を受けながら、表(南側)の額は残り、裏側(北側)の額だけが失われてしまったのかということです。確かに裏側の額の場合は、裏側が爆心地の方向といることになりますが、鳥居の厚みは50cmしかないのですから、そのぐらいの違いで、影響がそんなにも違うのだろうかということです。これについては、今後調べてみたいと思います。落ちたり落ちなかったりするのだろうかということです。ところで、昨日改めてこの鳥居の立つ現地に行ってみたところ、表の額もなくなっていました。近くにおられた警備員の方に聞いてみると「1カ月ほど前、額の下部の金具が落下したので、今取り外して点検修理中です」とのことでした。

鳥居をよく目を凝らして見ると、RCC側の鳥居の柱の右側に「奉献 昭和9年11月吉日 多山恒次郎 妻千代」と刻まれているのかすかに読み取ることができます。この鳥居は、昭和9年(1934年)は、二葉の里から西練兵場西側に移転した時に献納されたことが分かります。当時は不思議なことではなかったかもしれませんが、個人の寄付にはちょっとびっくりです。この鳥居を献納された多山恒次郎さんご夫妻について調べてみました。多山さんは「広島瓦斯電軌格式会社取締役、鈴ケ峰学園理事長、広島電鉄株式会社社長・会長」などを歴任されるとともに「『むらさき生』という匿名で、貧困な家庭やその他母子等への同情金を送っていた」(いずれも「一般財団法人多山報恩会」のホームページによる)「社会奉仕人」であったそうです。ところで、もう一つ調べたいことがあります。広島護国神社が、全壊した被爆後から現在地への移転までは、小祠で祭祀が続けられていたようですが、この鳥居は、どこに立っていた(保管)のかということです。護国神社の鳥居のことを調べるきっかけとなった青少年センターの「旧廣島護国神社被爆鳥居台座」については、次回(12日)のブログで書きたいと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月 7日 (土)

平和公園内の寄付樹木―海外からの贈り物

 
昨日のブログで、平和大通りの「供木運動」について、簡単な紹介をしました。私の思いの中では、この「供木運動」で寄せられた樹木は、平和大通りだけでなく、平和公園にも植えられたと思っていましたが、違うようです。「供木運動」で寄せられた樹木は、約6000本と言われていますが、そのほとんどは、平和大通りに植えられたようです。平和公園の緑化によせられた樹木は、「供木運動」が呼びかけられた1957年(昭和32年)に先立つ1954年(昭和29年)に、当時の広島市長が全国の市長に樹木の寄付を呼びかけたことがきっかけとなって寄せられた樹木が植えられたようです。平和公園は、全国から寄せられた樹木、そして平和大通りは県内から寄せられた樹木によって緑化が進んだということになります。

Img010

私が初めて平和公園を訪れたのは、1960年(昭和35年)小学校6年生の時の修学旅行です。古いアルバムには、その時の写真が何枚は貼り付けられています。今も修学旅行生が記念写真ととるのと同じように慰霊碑前での集合写真です。広島市長が樹木の寄付を呼び掛けてから5年経っていますので、少し大きくなっているのが分かります。それでもよく見ると、まだ添え木が残っています。大きな樹木に覆われた今の平和公園の姿は想像できません。

Dsc_4093    

ところで、平和公園には、国内だけでなく海外から送られた樹木も多く見ることができます。その多くがバラです。平和公園内では、折り鶴のこの像の横と、原爆ドームの南側の2か所にバラ園が作られています。いつも近くを通っているのですが、じっくりと見ることがありませんので、昨日は、このバラ園を見るために平和公園を訪れました。チェコスロバキアから送られたバラを見たかったからです。それには、こんなエピソードがあります。私が青年運動に関わっていた当時(1980年代中頃だったと思います。)、交流のあったチェコスロバキアの青年代表団が、広島を訪問する機会がありました。東京に着いた代表団から、「広島を訪れた時、ぜひ先年チェコスロバキアから送ったバラを見たいので、予定に入れてほしい」という要望が入りました。すぐに広島市役所に問い合わせました。ところが広島市からの返事は「確かに贈られていますが、どの木かはっきりしないのですが」というものでした。最終的には、何とか広島市の努力で、「この木だろう」ということで、広島入りした代表団を案内することができたのですが、当時の管理のずさんさに驚いたものです。

Dsc_4096
 

昨日バラ園を訪れると、当時はなかった名札「語り継ぐ平和の緑」が取り付けられ、そこには「品種、寄付者、寄付年」が書かれていました。そして「寄付の経緯」を知ることができるQRコードが付けられています。チェコスロバキアから送られたバラは、原爆ドーム南側のバラ園に植わっています。ちなみにチェコスロバキアから送られたバラについての経緯をQRコードで検索すると、次のように書かれています。「原爆ドームの設計者、故ヤン・レツル氏の取り持つ縁で、昭和53年(1978年)12月、チェコスロバキアのアロイス・インドラ連邦議会議長が来広の際、市長との間でバラ苗交換の話がまとまりました。広島市からは昭和54年(1979年)2月8日、かがやき、天津乙女(あまつおとめ)など、日本作出のバラ6種類18株をプラハ郊外リディツエバラ園に寄贈しました。このバラ園は、第二次世界大戦中ドイツ軍により、村全体が地上から抹殺され、戦後イギリスの平和運動家の呼びかけで、村の跡地に友好と平和の象徴として作られたものです。 昭和54年11月15日シュトロウガル首相が大平首相を訪問、バラ苗木100本を手渡し、そのうち95本が外務省より11月21日に広島市に届けられました。」かなり詳しく書かれており、ヤン・レツル氏が取り持つ縁なのだということ知ることができます。

広島市のホームページの「寄付樹木一覧」の「更新履歴欄」を見るとほとんどが「新2019.3.22」となっていますので、ここ数年で管理が進んだようです。今後も大切に管理されることが望まれます。

Dsc_4090

イギリス政府から送られたバラには「ピース」の名前がついていましたが、つぼみもできていません。まだ秋の開花期に早いようで、咲いていたのは僅かでした。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月 6日 (金)

「被爆者の森」を知っていますか

平和大通りの東端(田中町交差点から鶴見橋西詰)の両側に、「被爆者の森」があるのをご存知ですか。

先日、平和会館を訪れた時、棚にある「被爆者の森」とタイトルの付いたアルバムが目に入りました。アルバムの最初のページに「広島県被団協理事長坪井直」さんの「『被爆者の森』の現状についての報告」という文章が貼り付けられています。その文章には、「皆様方の核兵器廃絶の願いを結集して造った『被爆者の森』を15年後(1990年建設)の写真に託して現況をお知らせします。」と書かれています。そして、次のページからは、各県から送られた樹木の成長ぶりを写した写真が貼り付けられています。

Dsc_4074

この「被爆者の森」は、日本被団協が1990年に、全国各都道府県に住む被爆者に呼び掛け、その人たちの核兵器廃絶と平和への願いをそれぞれの「県の木」に託して、被爆地に一堂に集め、全国、全世界へ発信したいとの思いからつくられたものです。その後、広島市に寄贈され、今は広島市が管理しています。

Dsc_4077

そして「被爆者の森」の中ほど北側の緑地帯(ちょうど福山通運の倉庫前)に、「被爆者の森」の碑と並んで、「樹木一覧と位置図」がありますので、それを見れば、簡単に自分の出身県の木を見つけることができます。

Img002 Dsc_4067

私が、現地に着いて最初に探したのは、出身地島根県の県木「クロマツ」です。あらかじめ位置を調べていましたので、簡単に見つけることができました。平和会館のアルバムの写真(左)と比べるとずいぶんと大きく成長しているのにびっくりしました。すぐそばには、鳥取県の木があります。鳥取県の県木は「ダイセンキャラボク」ですが、植わっている木は「ナシノキ」です。「ダイセンキャラボク」は、低地では育ちませんから「ナシノキ」が代木として選ばれたようです。「ナシ」はいまが取り入れのシーズンですが、残念ながら実は一つも付いていませんでした。

Dsc_4071 Dsc_4073

一番南の沖縄県はどうだろうと探すと何故か「カンヒザクラ」が植えられていました。県木は、「リュウキュウマツ」ですので、これも代木です。当初は、表示がなかったようですが、広島県被団協などの働きかけもあり、現在では「都道府県名、樹木の名称、被団協名」などが記載された表示板が付けられています。これらを含め13道府県の県の木が、気候が適さないなどの理由で、代木となっています。ちなみに広島県の県木である「ヤマモミジ」も、中国地方の他県と同じブロックに植わっています。

最近、「県の被団協が存続できず解散した」というニュースを聞くことが多くなっていますが、今であれば「被爆者の森」は誕生しなかったと思います。ですから、各県被団協から送られた「県の木」によってつくられた「被爆者の森」は、各県に被爆者組織があったことをいつまでも語ってくれる役割も担っているような気がします。

平和大通りの緑化が進んだのは、1956年(昭和31年)から57年に、当時財政難だった広島市の呼びかけに応えた県内市町村の団体や個人の供木運動で寄せられた樹木によってだと言われています。この「供木運動」とともに「被爆者の森」の建設経緯も決して忘れてはならない歴史だと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2019年9月 3日 (火)

広島市シェアサイクル・ぴーすくる

最近、街中で赤い電動自転車を見かけるようになりました。昨日も、自宅前の道路を5台の赤い自転車が通り過ぎました。乗っている人は、小さな自転車が少し窮屈そうに見える外国からの観光客のようです。

Dsc_4054

この自転車は、広島市が「自転車を活用した観光振興や地域活性化を図る取組として、国内外の観光客等の来訪者が観光施設等を快適に巡ること」を目的に、2015年2月22日に供用を開始した「広島市シェアサイクル・ぴーすくる」です。この事業は、調べてみてびっくりしたのですが、NTTドコモが、受託して運用しています。

私が最初の目にしたのは、資料館東館南側の自転車置き場に設置されたサイクルポートでした。その後、当初の目的である観光振興や地域の活性化に加えて、市民の日常生活の移動手段としても利用されるようになり、昨年からは商業施設などにもサイクルポートが新設され、現在(7月末)では66か所に増えている(といっても、ほとんどが市の中心部と広島駅周辺ですが)そうです。そうですというのは、この情報はいずれも広島市のホームページから情報を得ているからです。

Dsc_4057

Dsc_4055

そういえば、最近は旅行者とは思えない市民が利用している姿もよく見かけるようになりました。外国人の利用者を見かけた時一緒にいた新聞記者も「私も時々利用しますよ。便利ですから」といっていましたので、市民生活の一部としても活躍するようになっているようです。

私が、最初にこうしたレンタサイクルを見たのは、2017年に中国を訪問した時です。同じ色(黄色とオレンジ)に塗られた自転車が、道路上に多数放置(と思える状態で)されている現場を見た時はびっくりしたものです。この写真は、整理員がいてきちんと整理している場所です。

Dsc_0643

日本と中国、どちらが最初にこの事業を始めたのかわかりませんが、いま中国では、このシェアサイクル事業が、曲がり角に来ていると言われています。昨年5月時点で、全国で3000万台を超え、利用者も17年末には2億人にもなりました。ちょっと気の遠くなるような数字で利用されていますが、問題も発生しています。最初に問題になったのが、不法な放置自転車が大量に発生し、その対策費が増大したことです。次に問題になったのは、車両のメンテナンスです。シェア自転車は24時間、365日、街頭で雨ざらしに置かれていますので、故障することも多いようです。このうち、放置自転車の問題は、日本ではサイクルポートで借り、サイクルポートに返すことになっていますので、あまり問題は発生しないと思われます。しかし、車両メンテナンスの問題は、広島市内の自転車も同じように雨ざらしの状態で、駐輪させてありますので、これからこの問題が課題になってくるはずです。

Dsc_4006 

そしてもう一つ人件費がかかると思われるのは、アンバランスな配置となったサイクルポートの自転車をどう適正に、それぞれに配置するかです。ちょうど中区図書館を訪れた時、トラックで自転車を移動させているところに出くわしました。台数が中国のように多くはないとはいえ、サイクルポート数が増えれば増えるほど、これもなかなか大変な作業のように思われます。

広島市内は、橋を渡るとき少し坂道を上ることになりますが、そんなに苦になるほどではありませんので、私も市内はほとんど、自転車で移動しています。観光客が、手軽に移動手段としてさらに利用されるようになれば良いなと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

より以前の記事一覧