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日記・コラム・つぶやき

2020年7月13日 (月)

中国から贈られた被爆者支援カンパ その1ー原水禁世界大会への中国代表団の参加

1955年に開かれた第1回原水禁世界大会に参加した中国代表団が、被爆者を支援するため5万元(722万円)を寄付しましたが、今やそのことを知っている人は本当に少なくなっています。

今日から数回にわたって、その経緯をまとめてみたいと思います。

第1回目の今日は、中国代表団が第1回原水禁世界大会に参加した経緯などです。簡単に「第1回原水禁世界大会」と書きましたが、1955年当時にはもちろん「第1回」というタイトルはどこにもありません。その後、毎年原水禁世界大会が開催されることとなったため、後に1955年に開催された大会に冠として「第1回」とつくようになったのです。

さて、これから記載することの多くは、中国新聞に被爆40周年の1985年に連載され、後に本として出版された「ヒロシマ四十年 森滝日記の証言」を参考にしています。

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当初、この原水禁世界大会には、7月現在で米・英・仏・インドなど共産圏を含めて計35カ国、約40人の海外代表が参加する予定でした。ところが、7月29日の中国新聞に「次官会議で8・6世界大会に来日する海外代表のうち、共産圏諸国の代表に対しては『原則的に入国不許可』と決定」という報道がされます。政府方針は「イデオロギーを超えた国際会議」という大会構想を危うくするものだと、直ちに広島から森滝先生をはじめ代表が上京し、「入国許可」を求めて政府への陳情を開始します。8月1日は、園田事務次官などへの陳情活動を行い、夕方には重光葵外務大臣、鳩山首相との面談が実現しますが、なおギリギリまで政治行動を続けるとして、翌日まで東京にとどまります。中国の代表団の一名が、特に問題になったようです。こうした活動が実り、やっと大会初日の8月6日(「広島新史:市民生活編」では8月8日となっている)になり、鳩山首相の政治決断により、共産圏から日韓関係を考慮した北朝鮮代表3名を除き、ソ連6人、中国8人、ポーランド2人、ルーマニア2人、東独1人の計19人の入国が許可されました(国名は、「ヒロシマ四十年」のまま)。二つの資料では許可された日付が違いますが、いずれにしても共産圏からの代表団は、広島での大会には参加できなかったようです。広島大会に参加した海外代表は、結局11カ国50余名(「広島新史:市民生活編」:ただし「年表ヒロシマ 核時代50年の記録」では35人)とされています。このように、原水禁大会初期の頃の記録は、資料によって違いがありますので、さらに調べてみる必要がりますが、とりあえず知り得た情報を出来るだけ併記することにします。

ここからは、中国代表団の動きを紹介します。ようやく入国が許可された中国代表団(団長:劉寧一)7人は、広島での大会が終了した翌日の8月9日に羽田に到着します。その後、大阪、東京での会議に出席し、8月19日にようやく広島入りをします。その様子は、「ヒロシマ四十年」には登場しませんので、中国新聞が1995年に発刊した「年表ヒロシマ 核時代50年の記録」や同じ年に発刊した「被爆50周年写真集 広島の記録」を参照しながらまとめます。

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中国新聞社刊「「被爆50周年写真集 広島の記録」」より 右側が劉寧一団長

 8月19日に広島入りした中国代表団は、市民の歓迎集会に参加し、翌日4班に分かれて市内の被爆者家庭や施設を訪問します。舟入川口町のある被爆者宅を訪れた劉団長が「私たち中国代表団は、あなた方を慰問するために参っています。どうぞ安心して話を聞かせてください」と語ったと「被爆50周年写真集」には、写真と共に紹介されています。

そして広島を訪れる前の8月15日に開催された「原水禁世界大会東京大会」において、中国代表団から世界大会日本準備会に対して、被爆者支援のため5万元(722万円)が寄付されます。

明日は、この中国からの寄付がどのように配分され、広島でどう使われたのかを紹介します。

いのちとうとし

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2020年7月12日 (日)

少し理解が深まった「原爆でなくなった大手町国民学校」の理由

6月29日のブログで紹介した「原爆でなくなった大手町国民学校」の真の原因を知りたいと、その後も調べていたのですが、関係する資料を見つけることができませんでした。ところが、たまたまといってよいでしょう、「閉校となった理由」の一つが想像できる出会いがありました。

既にこのブログでも紹介しましたが、「被爆75周年原水禁大会」は、オンライン企画で実施することになっています。その企画の一つとして広島の実相に学ぶ「フィールドワーク」をYouTubeで流すことになり、その撮影が5日、6日に行われました。8月5日から流れることになっていますのでぜひ見てほしいと思いますが、その一つに「袋町小学校平和資料館」があります。

「出会いがあった」のは、事前に撮影許可を申請するため袋町小学校を訪れた時のことです。

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校長室で申請書を書きながら、対応していただいた福田忠且校長先生に「被爆前にあった大手町国民学校は戦後再開されることなく閉校となり、袋町小学校に併合されたようですが、何かそのことに関する資料がこの学校にありませんか?」と尋ねたところ、「袋町尋常小学校から大手町尋常小学校が分かれたことが書かれた資料はあるのですが、被爆後の大手町国民学校に関する資料は残っていなのです。ただ、当時の袋町小学校のことを書いた冊子がありますので、読まれるようでしたらお貸ししますよ」と書棚から「袋町地区社会福祉協議会」が昭和57(1982)年7月1日に発刊した「ふくろまち」を取り出し、手渡していただきました。会話の中で、校長先生からその中味の一部を紹介されていましたので、帰宅し早速開いてみました。「袋町小学校のうつりかわり」の中に、次のように書かれています。原文のまま紹介します。

「原爆が落とされて、人気のない学区内で、学校再開の努力はすぐに始められました。奇跡的に助かった先生たちは、数日後傷ついた身体にむちうって、児童をさがし歩き、学校再開に努力しましたが、ふたたび病気になりました。秋から二十一年春にかけて、疎開から帰った先生たちが、『学校がはじまります』というはり紙をして歩いたり、町内のたてなおしに努力する人たちが、明治橋から基町あたりまで子どもをさがして歩きましたが、なかなか集まらず、たいへん苦労しました。十五名の児童がそろわなければ、学校が始められなかったのです。

昭和二十一年五月一日、ようやく西校舎の三階で授業が再開されることになりました(これ以前は、電話局で袋町十名、幟町二十名あまりで授業が始められている。)。焼け残りの板に墨を塗った黒板、鉄骨でがたがたの床、石炭箱という教室に、三十七名の児童で始められました。もちろん学用品はほとんどありません。

こうして昭和二十二年四月、校名は『広島市立袋町小学校』となり、現在につながる新しい教育が始まりました。」

この文章には、大手町国民学校のことは出てきませんが、当時の学校再開(特に爆心地に近いほど)が、どんなに困難だったかを知ることができます。袋町小学校は、爆心地から460mの距離ですから、校区内もコンクリート造りの建物を除けばほとんど全滅といってよいほどの被害が出ています。学校再開のために、「はり紙」をだしたり、明治橋から基町とい広い範囲で子どもをさがして歩いたことが、記載されています。明治橋は、大手町国民学校の校区内の南のはずれです。校区外でも探など子どもを集めることに苦労された様子がわかります。それでも袋町国民学校は、地域や教職員のみなさんの努力があったことはもちろんですが、1棟ですが、コンクリート造りの西校舎が残っており、使える校舎があったことが、学校が再開できた大きな力となったように思います。

当時「十五名の児童が揃わなければ、学校が再開できなかった」ことや袋町国民学校が三十七名での再開されたことも初めて知りました。

こうしたこと積み重ねると「大手町国民学校が再開できなかった」理由が、少しですが理解できたような気がします。

ところで「ふくろまち」には引用した文章につづいてこんな記述がありました。

「しかし、物不足、食料不足は続き、人の骨がでてくるといわれ校庭に、さつまいもやかぼちゃを植えて、食料にしていました。」

太字にしたのは私ですが、改めて原爆の実相を知ることになりました。

いのちとうとし

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2020年7月10日 (金)

世の流れ、相談役・顧問の廃止

相談役・顧問という役職、多くの会社ではこうした役職の見直し(廃止)が進んでいます。沖縄を含めて大手電力会社は10社ありますが、そのすべてにこういう役職の人間を置いています。

中国電力にも相談役1名・顧問1名の2名がいます。非常勤ですから、毎日出勤しているのではありませんが、報酬は受け取っています。

今年の株主総会では、株主提案として「本会社および本会社の子会社は相談役・顧問を置かない」議案を提出しました。議案は総会招集通知に載るとともに、総会の場で議案の補足説明を行うことができます。ただ今年は、新型コロナウイルスの関係で読み上げる物を、総会に出席した株主に配布されました。その全文を掲載します。


当社は山下 隆(やました たかし)前会長を報酬有りの相談役に、古林行雄(ふるばやし ゆきお)前常務取締役を、これまた報酬有りの顧問に就任させています。両名とも非常勤であります。この2名の者には報酬が支払われていながらも、その内容は開示されていません。

相談役・顧問を置くということは、当社定款にも定めがなく、さらに会社法にも規定がなく、株主総会の決議を経ずして選任できるため、存在意義を見出せないだけでなく、まさに「闇の中」と言わざるを得ません。

両名とも、相談役・顧問に就任するまでは、当社の最高責任者やそれに準ずる役割を担っていたもので、現時点においても当社に大きな影響力を持っていることは、明らかだと考えざるを得ません。当社の経営に対して、「院政」を続ける温床になっているのではないかとの、疑念を持たれることも想像されます。

その役割について、私どもの株主提案議案に対する取締役会の意見の中で、「社会貢献活動などの一環として、地域社会等との関わりにおいて、社外団体または他企業からの役員就任要請に応じるといった役割」と示されていますが、この説明はとても曖昧であります。

昨年明らかになった、関西電力株式会社の役員らが、高浜原子力発電所の在る高浜町の元助役から、多額の金品を受け取っていたとされる事件では、世論からの強い非難を受け、刑事事件として関西電力役員への告発がされています。

電力会社、とりわけ原子力発電所を所有している会社への国民の不信感は、原子力発電所が嫌われ物だということが前提にあり、お金をばらまくことで強権的に抑え込むことでしか進められないということにあり、金がらみの不祥事が起こり得ることは間違いないものと思われます。

こうした中、日本世論調査会の最新の世論調査をみても、電力会社の原子力事業が「信頼できない」人は75%に達しており、国民の原子力政策に対する不信感の根深さを示していると言えます。

本議案への取締役会意見で、「社外団体または他企業からの役員就任要請に応じる」というのは、考えようによっては強い危険性を感じざるを得ません。

当社の会長は、中国地方の経済団体の連合体である「中国経済連合会」の会長を担っています。また、その事務局も当社本堤内に置かれています。

関西電力による取締役の金品受領事件により、本年4月、経済産業大臣から当社においても調査が行われましたが、公平・公正な調査であったかという点について疑念を持ちます。

 電力システム改革も、本年4月からの送配電分離により、新会社が設立されました。目まぐるしく環境が変化している中、当社は他社に率先して相談役・顧問の役職を廃止して、事業の透明性を図ることが重要であると考えます。

 以上で、本議案の補足説明を終わります。株主の皆さんのご賛同ご支持をいただきますようお願いします。


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後日、この提案に対して株数として63,453,600株が賛成してくれたことが分かりました。割合としては23.64%です。大株主のほとんどが、私たちの株主提案議案には賛成しないのですから、この数字は多い結果だと言えます。

木原省治

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2020年7月 8日 (水)

7月のブルーベリー農園その1(東広島市豊栄町)

農園の周囲は稲田の青は広がり、ブルーベリーの青が広がり、どちらも背丈が伸びていく。アジサイがところどころで色合いを変えながら咲いていてヒヨドリが次第に数を増してブルーベリーを狙って飛び回る以外動きの少ない夏の半ば。

週末の農作業では特に梅雨時が天気とにらめっこの作業となる。4日の土曜日は雨なので一日休み。5日は晴れ間が見えるので農園に行きブルーベリーの摘み取りを行った。6日からはほぼ1週間雨マークなので収穫できるだけ収穫して安芸の郷に納品しないと実がはじけたりしてもったいない。結果安芸の郷には約24キロのブルーベリーを納品することができた。広島市の安芸区の家に帰る時間もいつもより遅くなった。以下は7月5日(日)の一日だけの農園の様子。

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里山の早生のブルーベリーがそろそろおいしくなってきた。酸味に加え甘さが乗ってきている。房の中で粒が一回り大きくなっていること、赤紫色になっていないことを見て摘み取る。写真はスパルタンという品種。

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摘みとりの最中に実の重さで枝が傾いているところはひもで他の幹とともにくくって支える。

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小さい実を一つ一つ摘み取る。

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畑の一部の早生のブルーベリーがある場所にも今年は防鳥ネットを張ったので摘み取りも開始。

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全体に木はまだ小さいが冬の剪定で花芽を残した木には実がしっかりついている。10円玉位の大きさのこの実が色づくのはまだ先。写真はダローという品種。

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里山のブルーベリー園の周囲のホタルブクロも一週間前よりも花の数が増え、しぼみかけている花も見える。ぶらりとした姿でただただひっそりと咲く。

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庭の花壇。

①ホオズキ。まだ緑緑している。

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②ヤマアジサイ。開花して時間がたつと花びらの部分が赤紫色に変わる。

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 里山に行く道沿いにあるヤブカンゾウの蕾がすこし口を開いている。

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Uの字のだんだん畑状に広がる棚田の稲ももう手のひじ辺りまで伸び青さを増している。この時期の米づくりは水の管理以外は見守るだけのようで農作業はもっぱら法面の草刈りが中心だ。

2020年7月8日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年7月 7日 (火)

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「国民学校原爆犠牲教師と子どもの碑」慰霊祭(このブログで5月16日に紹介されています)。昨年の8月4日午前7時過ぎ、私は平和大通りで交通案内の看板を持って立っていました。

 

すぐそばに、広島市立第一高等女学校の慰霊碑があります(この碑のことも、このブログで1月26日に紹介されています)。

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―1945年8月6日、建物疎開中の1,2年生541人、教職員7人、他の動員先含めて676人が被爆死。真ん中のモンペ姿の少女が持っている箱には、1948年当時、GHQの検閲のため「原爆」の2文字が使用出来ず、やむなく原子力のエネルギー公式である、E=MCが刻まれています―

この慰霊碑から、手押し車の高齢の女性がこちらに近寄り話しかけてこらました。そして、「6日は人が多いから、毎年今日参らせてもらっとるんよ。昔はこの辺に、友だちや、いとこたちと一緒に買い物に来とったんよ。でもみんな原爆でなくなってしまった。私は軍国少女だったから、まさか日本が負けるとは全然思ってなかったんよ。本当に教育が大切よ!」と、教育の重要性を強調され、立ち去られました。

 

今、学校現場で「仕方ない」と言う声を聞きます。それは本当に「仕方ない」のでしょうか。誰かがたたかい続けなければ、子どもたちの大切な人や楽しい時間を奪い、悲劇は繰り返されるのではないでしょうか。

何十年も前の話ですが、中学時代の先生が、「私が正しいと言っても、100%信じてはだめ。本当に正しいかどうか、自分で判断できる人になってほしい」と言ってくれた、この言葉が今でもずっと心に残っています。    

F&M

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2020年7月 6日 (月)

ヒロシマとベトナム(その15) 被爆75周年 ―ヒロシマとベトナム戦争- を考える〔Ⅱ〕

「枯葉剤被害者の日」 8月10日

枯葉剤といえば、多くの人が“ベトちゃん・ドクちゃん”を思い起こすのではないでしょうか。残念ながら“ベトちゃん”は2007年10月、26歳の若さで亡くなりました。弟のグエン・ドクさん(39歳)は入退院を繰り返しながらも活発な活動を展開されています。私も1998年に初めて出逢い今日まで交流を続けています。これらについてはまたの機会に報告します。

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HVPFの招きで初めて広島を訪れたグエン・ドクさん。(2016年10月)

アメリカ軍がベトナムで最初の枯葉剤攻撃を行ったのは1961年8月10日、ベトナム共和国軍のマークをつけたアメリカ軍機がラオスとカンボジアの国境に接するベトナム中部高原のコントゥム省での実験散布でした。

この8月10日は「枯葉剤被害者の日」(祭日)として定められています。日本の「8月6日」と同趣旨です。

アメリカ軍が最初に枯葉剤を散布したコントゥム省こそ、“ベトちゃん・ドクちゃん”の生誕地なのです。(下地図の真ん中国境付近の緑色の丸印)農業を営んでいた二人の母親は直接枯葉剤を浴びたのではなく、戦争が終結する一年前に移住し、汚染された井戸水を飲んでいたということです。

以降、「ランチハンド作戦」と名付けられた軍事作戦が、1971年1月10日の最後の散布まで10年間にわたり繰り返されました。

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1961年~1971年におけるベトナム共和国への枯葉剤空中散布(赤色)。アメリカ合衆国陸軍省資料より。(「ウィキペデア」フリー百科事典より)

その間に散布された散布薬液総量は9万1,000㌧、散布面積は240万㌶を越します。結果、480万人以上もの人々が被曝し、100万人以上に何らかの障害・疾病をもたらしていると言われています。正確な人数は把握されていません。

南ベトナムの耕地全体の5%以上と森林の12%、海辺のマングローブ樹林の40%以上が枯死しました。中国地方全域にほぼ相当するほどの地表に、くまなく、そして繰り返し・繰り返し「毒薬」ダイオキシンを浴びせたのです。そのダイオキシンが今なお地中に潜み、食物連鎖を通して人々の健康と生命を脅かし、破壊し続けています

 日本にも枯葉剤作戦が準備されていた

もう一つ、枯葉剤に関し意外と知られていない事実を、2005年8月15日付けの新聞「農業」に掲載された中村梧郎さんの取材記事をもとに紹介します。中村梧郎さんは、ベトナムでの枯葉剤被害を記録し続ける報道写真家で『母は枯葉剤を浴びた』やグラフィックレポート『戦争の枯葉剤』などで著名な方です。

アメリカは第2次世界大戦末期、日本への枯葉剤作戦を準備していました。アメリカ軍のプロジェクトチームは当時、「原子爆弾」と「枯葉剤」の両方を開発していました。そして1945年に原爆、枯葉剤作戦とも準備を完了し、原爆を搭載したエノラゲイとボックスカーはテニアン島へ、B29を改造した「枯葉剤散布機」をグアムに集結させていました。

 戦争末期の日本は大変な食料危機に陥っており、大都市周辺の米や野菜の産地を全滅させれば、何10万何百万の餓死者が出るという作戦で、8月の原爆投下でも日本が降伏しなければ11月に枯葉剤作戦を決行することになっていました。8月15日、日本の無条件降伏で枯葉剤はそのままストックされ、ノウハウも含めてベトナムで使われたのです。

 

 今号から幾度かにわたり、「被爆75周年 ―ヒロシマとベトナム戦争-を考える」シリーズを書き進めたいと思っています。月一度のペースで、今回を含め12月までの6回程度と考えています。次号(8月5日)は、枯葉剤(ダイオキシン)の毒性と人体や自然環境への影響について考えてみたいと思います。

(あかたつ)

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2020年7月 5日 (日)

ヒロシマとベトナム(その14) 被爆75周年 ―ヒロシマとベトナム戦争- を考える〔Ⅰ〕

ベトナムは去る4月30日に「解放統一45周年」を迎え、ヒロシマはまもなく「被爆75周年」を迎えます。

1945年8月6日・8月9日とヒロシマ・ナガサキは究極の無差別大量殺戮兵器である核兵器の被害を受け、75年経た今日なお「殺戮」(遅れた被爆死)は続いています。1975年4月30日の「サイゴン解放」によって、ベトナムは長く続いた植民地支配を脱し、民族の解放と統一を遂げました。

そのベトナムは近年著しく発展を遂げ、「ASEAN諸国のリーダー」と呼ばれるようになりました。しかし、ベトナム戦争中にアメリカ軍が散布した史上最大の化学兵器、猛毒ダイオキシンを含む枯葉剤による深刻な被害をはじめ、ベトナム戦争の残した傷跡は大きく、今なお人々の健康と生命を脅かし国土を蝕み続けています。

ともに、「戦争の世紀」と言われる20世紀の象徴的かつ究極的な戦争被害です。

「被爆75周年」と「ベトナム解放統一45周年」を迎え、ベトナム戦争とその被害、とりわけ枯葉剤被害を通して、「ヒロシマとベトナム」について考えてみたいと思います。

 1975年4月30日 「サイゴン解放」(ベトナム戦争終結)

私たちの年代は、45年前の「サイゴン陥落」を伝えるニュース映像が鮮明に蘇りますが、若い人たちの中にはベトナム戦争がどのような戦争であったのか知らない人が多いと思います。

1975年4月30日について、ベトナムの中学3年生の教科書には次のように書かれています。「4月30日10時45分、わが戦車が独立会堂に直進しサイゴンの中央政府職員全員を捕らえた。ベトナム共和国大統領ズォン・ヴァン・ミンは無条件降伏を宣言しなければならなかった。同日11時30分、革命の旗が大統領府の上に翻り、歴史的なホーチミン作戦の全面勝利を知らせた。」と。

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写真:南ベトナム大統領府に最初に突入した2台の戦車のうち先頭の中国製T59式戦車(390号)。2台目はソ連製T54B式(843号)、2台とも国宝にっています。

ベトナム戦争について広辞苑には「1960年~1975年、北ベトナム・南ベトナム解放民族戦線とアメリカ・南ベトナム政府との戦争」と書かれていますが、先ほどのベトナムの教科書には「抗米救国戦争の勝利は、21年にわたるアメリカに抵抗する戦争と1945年の「8月革命」から30年にわたる民族解放・祖国防衛戦争を終結させ、わが国における帝国主義の統治を終わらせた。これを基礎に人民民主主義民族革命を全国で完遂させ、国土を統一した。」と記述されています。

ベトナム戦争の性格と「サイゴン解放」の歴史的な意義が端的に表現されていると思います。

大国、列強の植民地支配に抗し続けたベトナムの歴史

その「サイゴン解放」、すなわち「民族解放・祖国防衛戦争の勝利」の深く重い歴史的な意義は、ベトナムの大国と列強支配に抗する長い闘いの歴史にあります。ベトナムは紀元前111年、前漢の武帝時代から938年の「白藤江の戦い」で勝利するまでの1000年にわたり中国に支配されていました。その後、中国の介入を受けながらも約1000年のあいだ独立王朝時代が続きました。

しかし、1858年のフランス軍の侵攻によりベトナム・カンボジア・ラオスを含むインドシナ半島が「仏領インドシナ」として植民地化されます。フランスはイギリスなど他の列強とともにインドやアジアの植民地化を狙い、ベトナムにも17世紀初頭から宣教師を送っていました。1763年にインドにおける権益をイギリスと争う「カーナティック戦争」で破れ、その後、ベトナムへの侵攻を本格的に企図します。1847年の「ダナン砲撃」などを経ながら1858年に本格的な侵攻を始め、1861年までにベトナム全土を植民地化しました。

その後、フランスの植民地支配は、ベトナムの人たちが「日本とフランスの二重の軛(くびき)」と呼ぶ1940年から1945年までの日本軍の仏印侵攻・統治期間も続きます。実効的な支配権は日本軍が持っていました。日本の敗戦間近の1945年3月9日、日本軍は「仏印武力処理(明号作戦)」と呼ばれる軍事作戦でフランス軍をベトナムから撃退しインドシナ半島の支配権を完全に掌握しました。

その後1945年8月15日の日本の無条件降伏に伴い、フランスが再び介入を始めます。一方、抗仏・抗日闘争を戦っていたホーチミンは日本軍を武装解除し、9月2日にハノイでベトナム民主共和国の「独立宣言を発します。そしてフランスとの「抗仏戦争(第1次シンドシナ戦争)」を展開し、1954年5月の「ディエンビエンフーの戦い」でフランス軍を撃破しました。

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1966年にピュリツァー賞を受賞した沢田恭一の「安全への逃避」。沢田恭一は1970年10月、カンボジアで取材中に襲撃され亡くなりました。

1954年のフランス軍敗退後、アメリカが軍事介入を始めます。南北の分断固定化を図り、南ベトナムにゴ・ジン・ジェム政権を傀儡擁立して軍事顧問団を送り込み、ピーク時54万3千人もの軍隊を送り、5万8千人の戦死者を出したベトナム戦争が1975年4月30日まで21年間続いたのです。

ベトナムの人々は1847年のフランスのダナン砲撃に始まった侵攻と植民地支配から1975年4月30日までの、実に130年にも及ぶ長く苦難の民族解放闘争の末に、ベトナム全土の解放統一という悲願を成就させたのです。

少し長くなりましたので、続きは明日報告します。

(あかたつ)

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2020年7月 4日 (土)

7月の「3の日行動」は、雨のため急きょ中止になりました

「戦争させない・9条壊すな! ヒロシマ総がかり行動実行委員会」が昨日予定していた7月の「3の日行動」は、雨のため急きょ中止となりました。

今日のブログは、「3の日行動」を紹介するため、中止の連絡が入る前に、あとは応援弁士の演説内容を書き込めば済むように、以下の予定原稿を準備していました。別のテーマで書き直そうかと迷ったのですが、「3の日行動」が中止となった記録にもなると思い、そのままアップすることにしました。こんなブログもたまには許されるかなと、勝手に思っています。


「戦争させない・9条壊すな! ヒロシマ総がかり行動実行委員会」が定例で行っている「3の日行動」は、昨日夕方5時30分から1時間、本通電停前でを雨が降る悪条件でしたが、○○名が参加して実施されました。

新型コロナウイルス対応など課題が山積するとして、野党から会期延長を求める強い要望があったにもかかわらず、安倍首相は会期末の6月17日、国会を閉会しました。

翌日には、河井夫妻が逮捕され、その巨額買収の実態が次々と明らかになり、広島県内では首長の辞職や議員辞職が相次いでいます。その原資が、自民党からの政党交付金を含んだ巨額交付金だったことは疑う余地もありません。安倍政権の説明責任が厳しく求められていますが、国会閉会中を理由にそれに応ずる姿勢を全く見せていません。国会閉会時に約束した各委員会の閉会中審査は、一応いくつかの委員会が開催されてはいませうが、肝心の「河井問題」を質す野党に質問に対しては、「当委員会の議題ではない」と回答を拒否する不誠実な態度をとり続けています。

また、いったん終息の方向に向かったと思えた新型コロナウイルス感染も東京を中心に再び、拡大し国民の間の不安が増大しています。

野党の「国会会期延長」要求が正しかったことが、このことひとつとっても明らかです。にもかかわらず、安倍首相は、こうした喫緊の課題に正面から向き合うことなく、国会閉会後には「憲法改正」を強調し、国会解散をちらつかせています。今やるべきことは、誰かの言葉ではありませんが「違うでしょ」といいたくなります。国民不在の安倍政治の象徴が、コロナ対策への姿勢にはっきりと表れています。「命より経済優先の姿勢」がより鮮明となっています。

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一昨日の西村経済再生担当大臣の上から目線の記者会見はそのことをよく表れています。「もう誰も緊急事態宣言をやりたくない」そうなってほしくないと誰もが思っています。しかし次に出てくるのは「皆が努力しないとこのウイルスには勝てない。症状がある方はぜひ外出を避けていただきたい」と国民への努力を求める発言です。私たちが一番聞きたい「政府は、この事態の中で、何をするのか」は全く出てきません。通常国会では「法律の改正だ」「補正予算の早期成立だ」と野党の協力を求めておきながら、今はその素振りすら見せていません。ぬるま湯的な今の安倍政権の姿勢を変えさせるためには、国会での審議が絶対に必要なことです。信頼のない政治が続く限り、私たちは「新型コロナウイルスの危険」への不安を抱えたままで生活を続けなければなりません。

午後5時半から始まった行動では、今回もビラ配布はありませんでしたが、大きく「さよなら安倍政権」と書かれた横断幕が○○枚用意され、帰宅を急ぐ市民に訴えました。

先に述べた情勢の中での今月の「3の日行動」ですので、当然のことですが、マイクを握る弁士の訴えの中心も「さようなら安倍政権」です。

昨晩の弁士は次の通りです。(略)


この後、各弁士の訴えを紹介し、このブログは終わる予定でした。

いのちとうとし

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2020年7月 3日 (金)

被爆建物ですか?

リニューアルされたレストハウスのことが、やはり気になります。本当に「被爆建物ですか?」

朝、リニューアルを担当した観光政策部へ電話を入れました。

「あの外壁は、被爆時と同じですか?」「1929年に建設されて以降、被爆時までに壁の塗り替えがあったのかどうか、資料が全く存在しないので、被爆時の壁が特定できないのです。」どうも、被爆時と同じではないようです。

次の質問は、「外観を建設当時の状況にしたということですが、正面入り口の左右の窓は、建物の外にある説明版に付けられた写真では、二本の柱はないですよね。どうして、この柱は取り除かなかったのですか?」「文化庁から、基本的には『被爆建物として改修するように』と言われていましたので、そこを大切にと思い、改修前にあった二本の柱は残すようにしたのです。」

だんだんと話が見えなくなってきます。文化庁からは、被爆建物としてきちんと残すようにと指示されたようですが、平和公園を訪れた人たちに一番目に付く、外観の色やつくりには、どうもその指示が反映されなかって様に思えます。

何とも納得のいかない説明でしたが、電話での話ですので、昨日のブログで指摘したいくつかの気づきを伝えて、とりあえず終わりにしました。

午後、ピースボランティアの皆さんと話す機会がありましたので、ちょっと尋ねてみました。「リニューアルされたレストハウス、外観を見ただけではとても被爆建物とは思えないのですが、どう説明されますか?」答えは様々です。「この建物の歴史、経過を話すしかないですよね」「まだ見ていないので、これから帰りにみようと思います。」「・・・・」無言。

あの建物を見て、自信を持って「被爆建物です」といえる人が、何人おられるでしょうか。

そんな中で、ある被爆者が「昨日の毎日新聞には厳しいことが書いていたよ」と教えてくれました。すぐ図書館に行き、7月1日付毎日新聞の記事を見つけました。「被爆『爪痕』まで改修」。これが見出しです。記事は前半でリニューアルされたレストハウスの様子を紹介し、後半で、関わりのある二人の意見が載っています。一人は、映画「この世界の片隅に」の片淵監督。その中には、「窓の柵の形が違っており、十分な学術調査がされていないのでは」と書かれています。私が感じたことと同じです。片淵監督は、その前に「映画では、すぐ身近にある被爆建物を訪れてもらう目的もあって大正呉服店を描いた。その目的が破壊されて残念でならない」と厳しく指摘されています。記事には、「原爆資料館の学芸員から『原爆の爪痕が消えてしまう』との声が上がり、設計変更したが、大部分は覆われた。」とも書かれています。

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帰宅して「広報ひろしま市民と市政 7月1日号」を読むと、なぜこんな問題が起きたのかがはっきりしてきました。「市民と市政」読んでおられると思いますが、見出しはこうです。「装いも新たに 憩いの場オープン」リードではさらにはっきりします。「被爆建物としての歴史を受け継ぎながらも、大正呉服店だった頃のようなモダンな外観となっています。」ゴシックの文字の「歴史を受け継ぎながらも」という言葉に象徴されていると思います。「被爆建物」が主語ではないのです。さらに言えば、被爆時は大正呉服店ではなく燃料会館でした。被爆50周年に発刊された「ヒロシマの被爆建物は語る」でも「燃料会館」として紹介されています。

どうしてこんなことが起こるのか、原因ははっきりしています。平和公園の中にある唯一の被爆建物の改修でありながら、担当する部署が「平和推進」ではなく「観光政策部おもてなし担当」になっているからです。

最近の広島市行政には、そういうことが多すぎます。私がかかわってきた「かき船問題」もそうです。世界遺産原爆ドームのバッファゾーン内の問題であるにもかかわらず、平和推進は置き去りのままでした。3月のこのブログに書いた「平和大通りのにぎわいづくり」も同様です。「平和大通り」の景観を変えるのであれば、当然に平和担当が1枚も2枚も深くかかわるのが当然だと思うのですが、これも観光政策部のみの担当です。縦割りではなく、横断的な組織が絶対に必要です。

毎日新聞の記事の最後には、「市おもてなし担当は『ただ、元のコンクリート面は保存しており、変更はできる。みなさんに意見を聴きながら、より良い保存・展示方法を考えていきたい』としていた」と書かれています。9億円余りもかけて行った改修工事、簡単にそんなことができるのですか?なぜ、平和公園内にある貴重な被爆建物を改修するのに、工事始まる前に皆さんの意見を聴かなかったのですか?と厳しく問いたいと思います。

いのちとうとし

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2020年7月 2日 (木)

ニューアルオープンしたレストハウスに行ってきました

マスコミ報道につられてということではありませんが、昨日リニューアルオープンした「レストハウス」に行ってきました。

第一印象は、「ずいぶんと綺麗になったな」「これが被爆建物?」です。車道を超えて、写真を一枚、正面入り口からの全景をとりました。

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建物のすぐ西に説明版があります。写真では、右側街灯の左横にクロっぽく映っています。そこに使われている写真は、被爆前の建物を映したものです。その写真と建物を見比べると、玄関入口両脇にあるアーチ型の窓に、被爆前にはなかった柱のようなものが2本見えます。その時には、「えー、耐震構造にするために変えたのかな」と思ったのですが、帰宅して中国新聞15面の「特集」を掲載された「改修前のレストハウス」の写真にも2本の柱が映っています。今回の改修で加えられてものでないことが分かりました。しかし、「外観は建設当時に近い姿に復元」といわれていましたので、地震対策で仕方のないことだったかも知れませんが、内側に工夫するとかして、外観は当時に近い姿にできなかったのかなと率直に感じました。

西側の壁面を写真に収めようと場所を移動し、壁に近づいてみました。スマホを構えながらよく見ると、西側壁面の真ん中あたりに白っぽく色が違う部分があります。

Dsc_6405

よく見ると、積み上げられた石の中には、ひびが入っている石もあります。被爆前の外壁ではないか?

気になるものですから、レストハウス内の案内所に行き「被爆前の壁が使われている部分がありますか」と訊ねました。すぐには答えが返ってきませんでしたが、手元にある文書を開いて調べてくださいました。その文書の中の1枚にこう書かれています。

「建設当時の外壁 外壁の一部については、建設当時の外装材をそのまま使用しています。①建設時の人造石(外壁の西面の一部)②建設当時のスクラッチタイル(外面の北面・西面の一部)」

これで理解できました。私が、気になった外壁の部分には、建設当時の外装材が使われていたのです。残念ながら、スクラッチタイルの方は、沢山あり過ぎるのと遠目で、どのタイルかは確認できませんでした。建設当時の外装材が使われている部分は、誰でもすぐ見つけ易いような説明があった方が良いと思います。とここまで書いてちょっと疑問が出てきました。「大正屋呉服店」として建てられたこの建物、その後被爆までは外装は変更されなかったのだろうかということです。というのも私の関心事は、建設当時というよりも被爆時の壁だったかどうかですので。今のところ、それを知るすべはありません。

地下室に移動しました。

Dsc_6412  

地下室に入るのは、リニューアル前も含めて、今回が初めてです。入り口から、他の部分とは違う雰囲気を感じます。柱や壁面など被爆時に近い状態を生かして展示されているからでしょう。壁面の一部を利用して、爆心地から170メートルという近距離にありながら、この地下室にいてただ一人助かった野村英三さんの体験が、本人の日記や絵、戦後の写真などで紹介されています。

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この展示板の左隅に「竣工時の地下室の平面図」がありますが、残念なことにその方向が現在の間取りと右に90度ずれていますので、例えば部屋の真ん中にある柱が「平面図のどの柱か?」を見つけることが簡単にできません。平面図があるのですから、現在の展示室にある柱が、平面図のどの柱なのかをわかり易く表示すれば、見た印象が違うように感じました。しかし、ゆっくり見たい部屋です。

その後3階に移動し、旧中島地区に関する展示場を見て回りました。

Dsc_6418

ジオラマなども設置され、見やすい展示になっています。新たに展示が予定(本年度完成予定が、コロナ禍で次年度になる)されている「平和公園に眠る中島地区の地下遺構」とこの展示が連動すれば、より効果的になるのではないかと思います。

階を移動する途中にも、被爆当時の階段や「天井裏の鉄筋コンクリートの梁」などもガラス越しに見えるように展示されています。せっかくに貴重な展示物ですが、ちょっと気を付けないと見逃がしてしまいそうです。

最後に2階の休憩・喫茶ホールを覗いてみました。一部屋は無料の休憩所になっていますし、喫茶ホールもかなりの席が用意されています。レストハウスが、まさにレストハウスとして機能できるスペースといえます。無料休憩所では、初日でしたが、何組か話を聞いている風景も見ることができました。

駆け足でしたが、レストハウスの見学を終えました。最後にふたたび案内所を訪れ「この施設のパンフレットはないですか」と訊ねたのですが、まだ作られていないようです。資料・展示室としての役割が大きくなった「レストハウス」ですから、パンフレットはどうしても必要だと思います。

いのちとうとし

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