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旅行・地域

2021年1月 3日 (日)

違和感を感ずるオリヅルタワーからの映像

元日に平和公園を訪れ、対岸から原爆ドームを見た時、その右横に写るオリヅルタワーを見て、思い出したことがあります。

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昨年放送されたある番組を思い出しました。その番組は、11月30日に放送されたNHK広島放送局と広島テレビが今年何回か行ったコラボ放送の最後の回「被爆75年ヒロシマの記憶を伝える」です。

夕方5時台と6時台との2回に分けMHKで言えば「お好みワイド広島」の特別編として放送されたこの番組は、いくつかの被爆建物を訪ね、広島を考える内容でした。

「わたしもこの番組を見た」というひとも多いと思います。この時取り上げられた被爆建物は、現在広島市郷土資料館として活用されている旧陸軍糧秣支廠、宇品線もちょっとだけ映像が流れます。そして陸軍被服支廠、現在原爆ドームと呼ばれている産業奨励館、平和公園内にある改修工事を終えたレストハウス(当時の大正屋呉服店)、被爆建物ではありませんが、平和公園の下に眠る当時の街並みや暮らしです。

被爆建物の紹介には、初めて知ることも多く非常に参考になりました。例えば、「産業奨励館は、4角形に建てられているのではなく、正面と裏面は、カーブした状態で建設された。前を流れる元安川に綺麗な顔を見せるためにそういう設計がされた。後ろ(川と反対側)に廻って良く見るとそれを知ることができますよ」いう案内役の高田真さん(アーキウォーク広島代表)の話や原爆資料館の下から出土し保管されている被爆遺物の紹介などなどです。

資料館下から出た被爆遺物として映し出された「炭化したふすまの取っ手」を見た時、現在進んでいる平和公園の地下遺構保存予定地の貧弱な遺構が思い出され、本当にこの場所でよいのかと、考えさせられました。

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番組全体は、解説もわかり易く、参考になる古い映像や写真も多く使われており、豊富な内容だったと思います。2回に分けて放送されたすべてを録画して大切に保存しています。

私が、違和感を持ったのは、ライブ中継の会場としてオリヅルタワーの屋上が使用されていたことです。もともとオリヅルタワーそのものに疑問を持っていますが、そのことは別にしてです。

原爆ドームを消化する映像が流れる前に、オリヅルタワーの屋上に4人が並んでいる映像が映されました。

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すぐに画面が振られて「原爆ドーム」を上から眺める映像に画面が変わりました。

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この画面を観て、どう感じますか。私が感じたことは、上からの視線は、原爆を投下したエノラゲイに通じる視線ではないのかということです。アメリカ軍が映したといわれる原爆投下後のきのこ雲が沸き上がっている写真は、間違いなく原爆を投下した側からの視線です。そこには、地上で起きている生き地獄の景色を見出すことはできません。大事なことは、上からの目線ではなく、人々の目線の中で何が起きていたのか、その事実に向き合うことだとわたしは思っています。原爆の惨禍を伝える原爆ドームを上から眺めることは、私にとってはどうしても原爆を投下した側からの視線を感じてしまうのです。そう思うのは私だけでしょうか。

この違和感を持ったのは、今回だけではありません。これまでにもオリヅルタワー屋上からの映像を見る度に感じてきたことです。原爆ドームを上から眺め、そして平和公園を俯瞰できる映像ですから、メディとしては、使いたい場所でしょうが、ちょっと考えて欲しいことのように思います。

いのちとうとし

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2020年12月22日 (火)

今年最後の三原地区と府中地区の19の日行動

三原の藤本講治さんと府中の小川敏男さんから、それぞれの地区で実施された2020年の最後となる「19の日行動」の様子が写真とともに届きました。


三原地区

不戦を誓い合った12.8。そして今年最後の「19日」行動となった12月19日,20人の参加者が「戦争させない」・「9条壊すな」・「止めよう改憲」・「経済よりもコロナ対策を」・「敵基地攻撃能力の保有は憲法違反」・「政治を変えよう」などプラカードを掲げてスタンディング。

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 高木武子三原市議ら6人がマイクを握り、「戦争は人の命を奪い,すべてを破壊する。子どもや孫たちの時代に二度とこのような悲惨な歴史を繰り返してはならない。」・「コロナ禍の中で今,政治がしなければならないことは,国民の命とくらしを守ることが最大の課題である」などと訴えました。来年もともにがんばりましょう! 

 

府中地区

時間は上下町のAコープ前が午後3時から、天満屋府中店前が午後430分からはじめていずれもリレートークとスタンディングを30分間行いました。上下町は雪(みぞれ)だったので傘をさして行いました。Aコープの駐車場には雪が残っていました。

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私が訴えたのは、次のような内容です。

75歳以上の人の病院での窓口負担に新しく2割負担が新設と報道されているが、これは新設ではなく1割負担が2割負担になるということ。これによって2割に該当する人は月平均約3000円(年平均34000円)の負担増になる。

・防衛省は過去最大の防衛費54000億円を計上し、8年連続の増加。厳しい家庭の経済状況の中でなぜ防衛費だけ増やす必要があるのか。防衛費を増額するよりコロナ対策に予算は使われるべきだ。

・中国新聞の時事川柳に、「我慢せよ言った総理が我慢せず」と載っていた。結局、コロナ禍の中で困難にあえいでいる国民の生活など見向きもせず、菅首相は連日大勢の人数で忘年会。こうした菅首相の政治姿勢が第3波のコロナにつながった。

・安倍元首相を引き継ぎ菅首相が進める戦争の出来る国は、老後に不安を与え、若者に不安を与え、さらにコロナ対策に不安を与えている。戦争の出来る国ではなく、国民の生活が一番の政治に変えるべき。やっぱり安保法制には反対する以外道はない。

今年最後の行動だったので、最後に石岡真由海さんが「今年はコロナ禍の中大変な一年でした。でも2020年はこんな年だったよねと言える日がきっとくるはずです。コロナに負けずにがんばりましょう。

一年間場所を提供していただきありがとうございました。市民の皆さんにお礼を言って、安保法制がなくなるまでがんばります。皆さん良いお年をお迎えください。」とあいさつして行動を終えました。

反応はいつもながら車の中から手を振ってくださったり頭を下げたりしてくださいます。多くは「なにしょうるんじゃろ」「おーやりょうる」と車から見て通られますが。


藤本さん、小川さん、いつも情報を寄せていただきありがとうございます。両地区が毎月粘り強く行動されている様子がよくわかります。国民の命を軽視する菅政権を終わらせるため、来年も引き続き取り組みを強めましょう。

いのちとうとし

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2020年12月19日 (土)

宇品線のモニュメントを訪ねてー余話その3   被服支廠、兵器支廠の引き込み線

今日もまた、11月29日の「宇品線のモニュメントを訪ねてーその3」のその後の調査報告です。この時私は、真ん中ほどに「1939年(昭和14年)当時の駅名の記載がないのは、やはり軍関係の施設があったからだと思えます。兵器支廠、被服支廠の両軍事工場からの物資の積み出し駅として使われていたはずです。」と記述しました。

少し時間が経って「兵器支廠、被服支廠からの物資の積み出しは一般駅からではなく、それぞれの支廠に引き込み線があり、そこから積み出されたはずだ」という、こんな当たり前のことにようやく気付き、当時の様子を記した資料はないかと、調べてみました。

わが家にある資料で簡単に見つけることができました。広島市郷土資料館が、「平成25年(20104年)度広島市郷土資料館企画展」として実施した「陸軍の三廠―宇品線沿線の軍需施設―」で発行した「展示解説パンフレット」に、当時の三廠(宇品陸軍糧秣支廠、広島陸軍兵器支廠、広島陸軍被服支廠)の建物配置図が、掲載されていました。

ここでは、兵器支廠と被服支廠の建物配置図を紹介します。

まず比治山の東側にあった広島陸軍兵器支廠です。このパンフレットには、大正10年(1921年)頃の兵器支廠内建物配置図(アジア資料センター作成)が、掲載されています。全体図です。

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宇品線とかかわりのある部分を拡大しました。

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この図の左側に走る宇品線に沿う形で、物資積み下ろし用の引き込み線があるのがはっきりとわかります。かなり長い「積卸場」が、はっきりと描かれています。この「積卸場」に向けて縦横にトロッコの線路(図では、「軽便軌道」となっている)が敷かれているのがわかります。ここから、大量の兵器や弾薬が積みだされ、修理の兵器が降ろされたのです。鉄道こそが重要な役割を担ったのです。このパンフレットには、「コラム陸軍兵器支廠大爆発」が囲み記事として掲載されていますが、この大爆発は、地図と同じ年の大正10年(1921年)8月8日だったそうです。「この事故により、近隣住民は避難に追われたり、飛散した弾丸や破片で家屋が破損ており、市民に与えた影響が強かったため、すぐに火薬庫の移転が叫ばれ始めました。」と紹介しています。その後「火薬庫移転」を求める署名活動も行われたそうですが、その結末は、また別の機会に紹介したいと思います。

次は、今全棟の保存を求めて運動が起こっている広島陸軍被服支廠です。この解説パンフレットには、以前にこのブログで紹介した橋本秀夫さんが作図された被服支廠構内図が、使われています。まず全体図です。

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宇品線とかかわりのある部分を拡大しました。

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よく見ると、この図には、「比治山駅」が明示され、そこから被服支廠の引き込み線が敷かれ、2本のプラットホームを経て、再び宇品線に繋がっていることが、わかります。兵器支廠と同じように被服支廠の各建物を結ぶようにトロッコの線路が敷かれ、2本のプラットホームで積卸されたものが、各工場に運搬され、倉庫(被爆建物として現存しているもの)に保管され積み出しが行われていたことがわかります。

全体図の右上には、兵器支廠の引き込み線も描かれ、そこには「兵器支廠上大河駅」と駅名まで記載されています。

この二つの支廠の引き込み線を見ていくだけでも、宇品線が戦争と深いかかわりを持っていたことが、よくわかります。逆に言えば、宇品線があったからこそ、その沿線に軍需施設が建設されたと言ってよいと思います。

兵器支廠の前身である「比治山兵器庫」が設置されたのは1907年(明治40年)です。

被服支廠の前身である戦地から返ってきた還送被服品の洗濯工場「陸軍被服支廠広島派出所」の建設が決定したのは日露戦争中の1905年(明治38年)1月、翌年11月に完成、そして1907年(明治40年)10月9日に「広島陸軍被服支廠」に昇格します。その後、両支廠とも拡大に拡大を続け、被爆、終戦を迎えることになります。軍都廣島の発展とともに宇品線の役割もますます大きくなっていたのです。

いのちとうとし

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2020年12月14日 (月)

宇品線のモニュメントを訪ねてー余話

11月22日から5回にわたって「宇品線のモニュメントを訪ねて」を掲載しましたが、今日はその余話です。

その一つは、「その1」で紹介した「平和橋」についてです。紹介した「平和橋」の写真は、現在の橋を写したものでした。台風被害に遭った古い鉄橋が、人道橋となり、その橋に付けられた名前が、「平和橋」だったことを紹介しました。

当時の様子を知りたいと資料をさがしたところ、1985年3月広島市企画調整局文化担当が編集し、広島都市生活研究会が発行した「河岸の戦後史 猿猴川」の中に1972年(昭和47年)3月に写した写真が掲載されていました。段原側から蟹屋方面を写しています。

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写真の説明文として次のように書かれています。「広島駅から上大河駅までの通勤列車の最後の便。左の平和橋は、宇品線の花崗岩のレンガ積みの鉄橋を利用して、昭和23年に作られた木造ミニ橋でスタートした。」

この説明文では、歩道橋の完成は、昭和23年(1948年)となっています。私は、「宇品線のモニュメントを訪ねて―その1」(11月22日掲載)で「1954年9月の台風」としていますので、改めて調べてみました。どの資料を調べて書いたのか今思い出せないのですが、「1954年」は、私の大きな誤りでした。

調べてみると、この鉄橋が壊れたのは、1945年9月17日に広島市を襲った枕崎台風によるもので、その後10m下流に新鉄橋が作られ宇品線は復活、1948年になって、役割を失った旧橋の橋脚を利用して幅1.5mの歩道橋「平和橋」が架けられたというのが正しいことがわかりました。

戦後は、建物やお店などの名前に「平和」が付けらることが多くあったといわれていますが、この橋に「平和橋」と名称がつけられたのもそうした風潮の一環だったと思われます。ちなみに平和大通りに架かる「平和大橋」が完成したのは1952年です。

もう一つは、宇品線の完成です。宇品線が、わずか17日間という短い期間で完成したことは、これもすでに「宇品線のモニュメントを訪ねて―その1」で紹介しました。いくら軍の命令とはいえ、あまりにもの速さに驚かされます。

「宇品線のモニュメントを訪ねて」を書くにあたり、手元にある安芸書房によって復刻された広島市の古い地図を開いてみることがありました。その一枚に「明治38年大新版 実地踏測廣島市街全図」があります。明治38年(1905年)は、宇品線が全線開通してから11年後です。その地図の「宇品線」が走る部分をコピーしました。

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「17日間の突貫工事で完成」が、なるほどとうなずける地図です。宇品線は、起点である広島駅から東に延びた後、急に右に曲がり、猿猴川を渡ると途中一カ所でゆるく左にカーブしてはいますが、ほぼ一直線に南進しています。「なるほど」という理由は、この線路の左右を見るとよくわかります。家が立て込んでいる今では全く想像することもできませんが、大きく右にカーブした後、線路が進む左右は全て田んぼのマークがついています。3分の2ほど進むと、地図では大河通と記載された土手の横を進んでいます。広島駅を出てすぐの愛宕町、荒神町では一部家の立ち退きが必要だったかもしれませんが、その他の場所では、軍命令ですから、土地の借り上げも簡単だったはずです。後は、土砂を投入し嵩上げさえすれば、一応の線路敷は、出来たと思われます。必要なのは、どれだけ多くの作業員を確保するかです。これも軍の命令ですから、確実に確保でき、作業を一気に進んだと思われます。もちろんほとんどが田んぼや干拓地ですから、軟弱地盤をどう強化するかが大変だったと想像できますが。少し難工事だったのは、先に述べた猿猴川に橋梁を家ける工事だったと思われます。

こうして完成し、日清戦争遂行に活用された宇品線ですが、仮設で作られた線路ですので、戦争が終結した翌年1896年(明治29年)12月から本施設工事が行われ、1897年(明治30年)4月に完成し、5月1日から1日8往復の営業運転が開始されました。この時、猿猴川に架かる橋梁の橋台が、石積みになったといわれていますので、仮設時は、木造であったことが想像できます。

次回の余話は、11月29日に紹介した「モニュメントMAP」の三つの駅名(上大河、被服支廠前、比治山)の調査結果を報告します。

いのちとうとし

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2020年12月 7日 (月)

やっと実現した第23代高校生平和大使の広島研修

第23代高校生平和大使の広島研修が、5日、6日の二日間、広島市内で開催されました。

今年の高校生平和大使は、コロナ感染拡大の影響を受け、各都道府県での選考も遅くなり、例年6月に行われていた結団式も開催できずに来ました。もちろん、8月に実施していた高校生平和大使の最も大切な行事、1万人署名活動で集めた署名を届けるための国連欧州本部訪問も、今のところ実現の見通しが立っていません。

こうした厳しい状況が続いてきましたが、高校生平和大使のどうしても一堂に会して、交流したいとの強い思いが実り、4回も延期を繰り返してきましたが、ようやく「広島研修」ということで実現したものです。

今年の高校生平和大使は、全国で500名余りの応募の中から、28名が選ばれました。今年初めて兵庫県で、高校生平和大使が誕生しました。これで全国16都道府県へと広がりました。

今回の広島研修には、広島県の高校生平和大使3名(梶原百恵さん・福山市立福山高校、柚木優里奈さん・広島大学付属高校、楠康生さん・修道高校)など、28名中26名が参加しました。欠席となった長崎の代表2名は、長崎県教育委員会が「部活による県外の高校との交流は禁止」するとの通達を出したため、参加できなかったそうです。ただ、長崎県からは、県独自の活動として「ハワイ」と「韓国」への派遣平和大使となっている2名が参加しましたので、参加者は合計28名でした。

開会前に、参加者全員で記念写真の撮影です。

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第1日目の研修は、予定の午後1時半きっかりに、第21代高校生平和大使の下久保理子さんの司会で、スタートしました。最初は、小早川健高校生平和大使派遣委員会代表世話人のあいさつです。研修の最初は「被爆者のお話し」を聞きます。「被爆者のお話」は、元資料館館長の原田浩さんです。自らの被爆体験のみならず、被爆後今日までの核兵器をめぐる動き、運動などが紹介されました。次に、高校生平和大使OP・第18代の井上つぐみさんの話です。井上さんの話は、高校生平和大使としての自らの体験、特にジュネーブ・国連欧州本訪問の様子が、当時の写真をふんだんに入れたパワーポイントを使いながら、詳しく語られました。国連欧州本訪問の実現が難しい第23代高校生平和大使が、どんな思いで聞いていたのかなと複雑な気持ちで、この話を聞きました。長崎から参加し、2018年と、19年にノルウェーに派遣された中村涼香さん、第21代の山西咲和さんからは、高校生平和大使の任期を終えた後も、活動を続けていること、高校生平和大使終了後の活動の受け皿として、きちんとプラットホームを用意していることの報告と一緒に活動を続けようとの呼びかけがありました。

この3人の話しで、高校生平和大使後も多くの人が、現役の平和大使の活動をサポートし、それぞれが工夫をしながら、継続して活動を続けていることを知ることができたと思います。

休憩をはさんで、高校生平和大使派遣委員会共同代表在間秀和弁護士の「高校生平和大使に期待する」、同じく共同代表の平野伸人さんの「高校生平和大使の歴史と役割」の講話がありましたが、詳細は省略します。

私がこの広島研修に参加して感動したのは、この後始まった各県の活動報告です。語りたいことが沢山あったのでしょう。予定の時間をオーバーしましたが、豊富な内容でした。同行した各県のサポーターのみなさんも登壇します。 

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昨年までの結団式は、高校生平和大使に選ばれた直後に開催されていましたので、一人ひとりの発表は、「選ばれてこんなことをしたい」という「決意表明」でした。しかし、今年は違いました。一番遅く選ばれた人でも、すでに3カ月余りが経過していますので、それぞれが工夫をしながら署名活動を取り組んできた経験が、次々と発表されます。コロナ禍で、街頭署名ができなかった人も多かったようです。でも、「地域の平和集会に参加して呼びかけた」「自分の学校内で呼びかけた」「母校の中学校に出かけ、お願いした校長先生のおかげで、署名が広がった」などなど困難な中でも多様に取り組んでいることが次々と報告されました。さらに、新潟県、奈良県の大使は、「空襲被害のことも学び、その追悼式で署名を呼びかけました」と、地元の戦争被害と向き合ってきたことも報告されました。静岡の大使からは「焼津に高校生ビキニ事件研究会を作り、身近な核被害の問題を取り組むことなしました」、東京の大使は「ユーチューブでナガサキオンライン修学旅行を企画しました」との報告もありました。長崎で、オンラインでの署名を集めるために作られた「QRコード」を活用して署名を集めたという報告が、複数の県からありました。もっと時間があれば、と思わされる貴重な報告の連続でした。

一日目はこれで終わりです。残念ながら夕食をとりながらの交流会は、中止です。

二日目は、午前8時15分に平和公園・資料館前に集合し、まず慰霊碑への黙祷です。

ここで、三組に分かれて、広島の被爆二世の案内で、平和公園のフィールドワークを実施しました。

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そして最後は、あらかじめ予約していた広島平和祈念資料館見学で、今回の「広島研修」が終了しました。第23代高校生平和大使にとっては、待ちに待った全員が一堂に会する場だったと思います。それを象徴するように、すべての日程が終了後、これからも連絡を取り合って活動を続けようと、携帯番号などを交換している姿が印象的でした。

いのちとうとし

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2020年12月 6日 (日)

宇品線のモニュメントを訪ねてーその5

今日は、最後の宇品線モニュメント「宇品駅」です。

パークゴルフ場の南端を過ぎると宇品線は、大きく右(西方向)にカーブします。私が、このブログを書くために参考にした広島市郷土資料館発行(2018年刊)の「宇品港 広島の海の玄関の物語」には、ちょうどこのあたりから北方向に延びる宇品線の様子を写した写真がありました。

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線路が堤防の内側に作られ大きくカーブしている様子がよくわかります。写真をよく見ると陸軍被服支廠の建物が映っています。その奥に写っている小高い山が、比治山です。同じような場所から私も写真を撮りました。

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頭上に東西に延びる高速道路が通っています。このあたりから高速道路は、旧宇品線の跡の上に作られているように思えます。その高速道路の下に作られた道路を西に進みます。高速道路の宇品インターチェンジ入口交差点の南西角に目指す「宇品駅」モニュメントがあります。ここのモニュメントは、プラットホームと広島陸軍糧秣支廠倉庫の壁の一部、同倉庫の写真がついた原爆被災説明版で構成されています。

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当時日本一長かったといわれた宇品駅のプラットホーム(貨物ホーム:560m)は、高速道路建設工事が始まる前までこのモニュメントの場所よりやや北側に東西に長く伸びて残っていたのですが、今はまさにモニュメントとしてほんの一部が残されているだけです。宇品駅の貨物ホームが、560mもの長さがあったのは、山陽線を走ってきた貨物列車をそのまま横付けして一挙に荷役作業が行えるようにするためです。

広島陸軍糧秣支廠の倉庫も、軍需品を大量に送り出す宇品港にはどうしても必要な建物だったのです。このモニュメントのすぐ南隣は、宇品中央公園です。ここは戦前、戦時における軍隊・物資等の船舶輸送を指揮統率した「陸軍運輸部船舶司令部」があった場所ですから、宇品駅モニュメントともに、戦前に宇品線がどんな役割を果たしてきたのかを、私たちに教えています。

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宇品中央公園には、陸軍運輸部船舶司令部跡を示すモニュメント以外に、「そうらも みなともよははれて」の歌詞が刻まれた唱歌「港」の歌碑や、「宇品凱旋館建立記念碑」などが建っています。一つ気になった碑があります。公園の南東角に建つ「平和の礎」碑です。表面には「ありし日に 君と遊びし 砂の浜 ここに建つなり 平和の 祈り」の文字が刻まれています。

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裏に廻ってみました。裏面にはこう刻まれています。

「先の大戦の後においても、強制抑留された本県出身の多くは この地宇品港から出港した この軌跡をここに刻み 世界の恒久平和と宇品港が国際平和港として発展することを祈念してこの碑を建立する  平成6年12月吉日 全国強制抑留者協会広島県支部」

この文章の後、戦後の抑留者の人数が刻まれた銅板も取り付けてあります。残念ながら、この文章には宇品港から出港した兵士による侵略戦争の様子は、全く触れられていません。ただ、抑留された兵士たちが、軍港宇品から送りだされたことを読み取ることはできると思います。私の父も、宇品港から出兵したのではありませんが、シベリアに抑留された一人ですので、この碑が、ちょっと気になりました。

宇品中央公園を後にし、道路を南にわたり宇品波止場公園に行きました。この公園は、港を管理する広島県が管理する公園です。ここを訪れた時は、最初のみるのは「陸軍桟橋跡」です。長く伸びた桟橋に、やや西に傾いた太陽の光があたっていました。

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 桟橋を進むと、一部ですが当時の石組が残されています。

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この桟橋、現在は「六管桟橋」と呼ばれているようですが、この桟橋の歴史を刻んだ説明版があったのですが、ずいぶん汚くなっており読みにくいのですが、「この桟橋は、戦時中多くの兵士を送り出した一方、多数の遺骨の無言の帰国をむかえ」たことが、古い写真とともに書かれています。

他にも「陸軍桟橋跡記念歌碑」や「海と島の博覧会」のシンボルタワーなどがありますが、これらの紹介は、今回は省略します。

陸軍桟橋(現「六管桟橋」)を見て、今回の宇品線モニュメントめぐりを終わりにしようと思い引き返そうとすると、この公園の入り口付近(「陸軍桟橋跡記念歌碑」のすぐ隣)に設置された宇品線のモニュメントが目に入りました。

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このモニュメントは、宇品駅の切り替え用のポイントを中心に構成されています。レールが上に曲げられているのは、宇品線の終点を意味しているのでしょうか。

ようやく宇品線のモニュメントを訪ねる散策は、終点に着きました。

いのちとうとし

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2020年12月 3日 (木)

宇品線のモニュメントを訪ねてーその4

今日は、黄金山通りから南にある「宇品線のモニュメント」を紹介します。

「線路モニュメント」を見た後、広島南警察署前交差点を渡ると、右手に「たんな」と書かれた駅表示板を見つけることができます。丹那駅を示すモニュメントです。

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広島駅からの距離は、3.8キロです。1904年に新設されたときは、200mほど南だったようですが、この駅は1919年に廃止となりましたが、同名の「丹那駅」が、1930年に新たにこの位置に設置され、1966年に上大河駅以南の旅客業務が廃止になった時、この駅も廃止となります。

この駅表示板には、かつての「丹那駅舎」の写真が付けられています。

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「丹那駅」のモニュメントと次の「下丹那駅」のモニュメントの間の宇品線の跡には、「ポッポ宇品線花と農の会」が管理する花壇が並んでします。かつては、このあたりの線路跡にはタチアオイが植えら、季節には見事の花を咲かせていました。しかし、その後だんだんと雑草が生い茂るようになり、地元からの整備を望む声が上がるようになったそうです。この声を受け広島市は、この土地を所有している国に要望し、広島市が委託管理することになり、10年前(平成22年)公園整備が進められました。もともと宇品線は開通時、干拓堤防(現在は海岸通り道路)の内側(西側)に、堤防土手よりも低く線路敷きが作られていました。しかし、この公園整備では、線路跡に嵩上げの盛り土が入れられましたので、当時の線路跡の面影を見ることはできません。整備された公園の花壇は、線路をデザインして作られています。以上は、南区役所地域おこし推進課に電話をかけて聞いた話です。

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それでも、かつての線路跡をうかがわせることはないかと、西側にある道路に降りてみました。ここから見ると、一番下に当時の土台石、そして嵩上げされなかった部分の線路跡、その上段に花壇部分があります。少しわかり難いのですが、下の写真です。

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さらに痕跡をさがしていますと、こんなブロックを見つけました。

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たまたま見たテレビで知ったのですが、このマークのブロックは、線路と道路などの境界を示すために建っていたものです。

次のモニュメント「下丹那駅」をめざして南進すると、今度は芝生の植わった「パークゴルフ場」が目に入ります。ここも10年前に整備されたものです。花壇があった場所と比べると一段と低くなっています。南区区役所によれば「線路跡は凸凹があったので、少し土を入れて整備しました」とのことですので、線路跡そのものではありませんが、道路より低いところに線路があったことを偲ぶことはできます。

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私が訪れた時にも数人のグループでグランドゴルフを楽しんでおられました。私が訪れた5日後、11月22日(日曜日)に「パークゴルフ場10周年」と銘うった大会が開催されたそうですので、この人たちも参加されたと思います。成績は?

長く伸びるパークゴルフ場のちょうど中間あたりに「しもたんな」と書かれた駅表示板がありました。昭和2年(1927年)に走っていた電車の写真もあります。散歩で通りかかった人が、眺めていました。

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「下丹那」駅は、1934年に「人絹裏」駅として新設されましたが、1937年の国有化に伴い「下丹那」と改称されました。そして1943年10月に休止され、その後復活することはありませんでしたので、戦後には存在しなかった駅です。この駅から広島駅までの距離は、4.7キロです。

最初に付けられた駅名「人絹裏」に興味が湧きましたので、駅名の由来を調べてみました。現在、パークゴルフ場の西側は、マツダ宇品工場西地区の敷地が広がっています。この場所には、1934年(昭和9年)10月に「錦華人絹広島工場」が作られ操業を開始しました。この「錦華人絹広島工場」で働く人たちの通勤者用の駅として、工場の裏門入り口付近に新設されたのが「人絹裏」駅だったのです。その後、この工場は1941年に設立された大和紡績に吸収され、「大和紡績宇品人絹工場」と名称が変わります。そして駅が休止された年の1943年2月には、「陸軍船舶部」に接収されます。1945年8月6日の被爆では、建物の被害が軽微だったため、翌日には3000人から4000人の負傷者が避難し、8月9日には臨時陸軍野戦病院(第1陸軍病院宇品分院)を設置され、約6000人以上が収容されたという記録が残っています。1945年10月に陸軍から返還され再び大和紡績の工場となるのですが、1961年(昭和36年)1月に敷地、建物の大半が松田工業(現マツダ)に売却され、現在(マツダ宇品工場)に至っています。このマツダ宇品工場西地区にあった被爆建物は多くが解体され新しい建物となっていますが、その敷地の真ん中ほどにあった陸軍船舶部の「講堂」だけが今も「被爆建物」として現存しています。後日、工場の西門付近から、少し遠めでしたが写真を撮りました。

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今度の散策では、もう一つの被爆建物を知ることになりました。グランドゴルフをしていた一人からいろいろとお話を聞いたのですが、その中で被爆建物の話が出てきました。その建物は、マツダ宇品工場西地区の敷地(旧宇品線の西側)の東北角(ここだけ塀に囲まれていない)に、並んでいる5棟の平屋住宅です。1棟に5戸の住宅があります。かつてはもっと多くの住宅が建っていたそうです。

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話していただいた方は地元の町内会長でした。「私は戦後ここに住むことになったのですが、この建物は、錦華人絹広島工場の社宅として建てられたものなので、間違いなく被爆しています。」とのことです。現在は、マツダの所有となっていますが、今も三分の一ぐらいが使用されています。

今回も長くなりましたので、今日はここで終わりにし、あと一つ残った終着駅の宇品駅モニュメントは、次回紹介することにします。

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2020年11月29日 (日)

宇品線のモニュメントを訪ねてーその3

寄り道の「広島大学医学部・医学資料館」見学を終え、「モニュメントMAP」を頼りに、「ポッポ広場」をめざし医学資料館西側の真っすぐ南進する道路と進みました。ところが、「モニュメントMAP」をよく見ると、この間に3つの駅名(赤い○囲み)が書かれています。今度は途中下車して、この3つの駅名について考察したいと思います。

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一番北側の駅が、「上大河駅」です。この駅は、「広大医学部」の正門付近にありました。広島駅からは、2.4キロの距離です。この駅が最初に設置されたのは、1932年(昭和7年)9月25日です。当時の駅名は「兵器支廠前停留場」。1937年に芸備鉄道から国有化され、駅名が「兵器支廠前」ではまずいと考えたのでしょうか、「比治山駅」に改称されました。燃料問題などあり、戦時中の1943年から一時休業状態になったようです。そして戦後、1947年に宇品線が旅客線として復活した際、「上大河駅」と改称し、開業したようです。戦後は、兵器支廠の跡に移転してきた県庁などの官庁、その後の広島大学医学部・病院や近隣の学校への通勤・通学のため多くの人たちが利用しました。1972年に宇品線の旅客業務が全面廃止に伴いこの駅も廃止されました。

3つの駅名と書きましたが、調べていくと別々に3つの駅があったようではないのです。駅の位置を変えながら、駅名も変遷していったことがわかります。1930年に最初の駅ができたのは、「広大医学部正門付近」ではなく、300mほど南(現在の2号線のすぐ南辺り)に「被服支廠前停留場場所」の駅名で新設されています。と書くと「兵器支廠前停留場」名は?という疑問が湧きます。わずか300mの距離の間に二つの駅が存在したとはちょっと考えにくいのですが、それぞれの支廠の荷物を積みだすために、別々の駅があったのでしょうか。この問題は解明できていません。戦前の古い地図(昭和14年作成:陸軍運輸部検閲済の印あり)を見ると、「兵器支廠」の南西部が、長く伸びその先端は、「被服支廠」の敷地に隣接していることがわかります。

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この地図の真ん中ほどに宇品線を挟んで、右と左に上下しますが、大きな空白があります。右側が「兵器支廠」、左側が「被服支廠」の敷地です。ちょっと小さくて見えにくいかもしれませんが、その二つの敷地が接するところの宇品線に○印があるのがわかると思います。これが、駅です。ここから宇品線を上にたどると、地図が終わるあたりの宇品線上に○印があり、そこには小さく「女子商」と駅名が書かれています。ところが、先に紹介した○印には、駅名が書かれていません。宇品線を下にたどると次の○印にはきちんと「大河」と駅名が書かれています。1939年(昭和14年)当時の駅名の記載がないのは、やはり軍関係の施設があったからだと思えます。兵器支廠、被服支廠の両軍事工場からの物資の積み出し駅として使われていたはずです。

ところが、昭和15年(1940年)作成(これも、陸軍運輸部の検閲済の印あり)では、当該駅に「被服廠」の駅名が印刷されています。

ところで、先に1937年に「兵器支廠前」から「比治山駅」に改称されたと書きましたが、復刻された戦前の地図を見ても「比治山駅」と記された地図を見つけることはできず、「比治山駅」がどの位置にあったのか今のところで確認できていません。

こう書きながら、自分でも理解できなくなってしましました。いずれにしても、この「大河駅」に関わっては、戦前は駅名も駅の位置も複雑に変遷したのではないかと思うしかありません。今回のブログは、駅の変遷が主題ではありませんので、後できちんと調べて、整理してみたいと思います。

ここで主題である「宇品線のモニュメントを訪ねる」に戻ります。

次に訪ねたモニュメントは、「下大河駅」の後に作られた「ポッポ広場」です。ちょっと見つけるのに苦労しましたが、何人かに訊ねて無事に到着しました。

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 隣接する西旭町集会所の壁に取り付けられたる掲示板には「名前の由来」としてこう書かれています。「下大河駅は、昭和6年(1931年)11月から昭和41年(1966年)12月までの35年間にわたり、通勤・通学などの多くの人たちに利用され、地域の中心としてにぎわいました。平成13年(2001年)12月、この地域の人たちと南区役所が協働で広場をつくりました。地域の人たちは、この地が鉄道の駅だったことを記念し『ポッポ広場』と名付けました。 西旭町町内会・南区役所」

この広場の真ん中にレンガを埋め込み「蒸気機関車」が描かれていたようですが、今ではすっかり薄くなっており、残念ながら「蒸気機関車」を見分けることはできません。

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駅名表示板のようなものはありませんでしたが、掲示板の最後に「お願い ここは、地域のみなさんが一緒につくった『わが町の広場』です。楽しい憩いの場として大切に使いましょう。」と書かれているように地域の人たちの大切な場所となっているようです。この下大河駅から広島駅までの距離は、3.3kmです。

次の訪れたのは、駅ではありませんが、旧宇品線道路と黄金山道路が交差する「広島南所前交差点」の左手前にある「線路モニュメント」です。

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「線路モニュメント」は、宇品線から14.5m東側の広場に、当時の線路、踏切、遮断機、信号機、線路のポイントを手作業で切り替える分岐器、プラットホームなどが一カ所に集めて、作られています。屋外ですので少し傷んだ様子も見受けられますが、大切の保存されており、一見の価値がありです。

実際に自転車で散策した時には、わずかな時間で移動したのですが、ブログの中ではここにたどり着くまでに随分時間がかかってしまいました。次のモニュメントは、海岸通り沿いにある「丹那駅」ですが、ここから南方面は、次回以降にします。

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2020年11月22日 (日)

宇品線のモニュメントを訪ねて

11月14日に紹介した千暁寺からの帰り道、広島市南区役所を訪れました。目的は、南区を紹介するリーフレットなどをさがすためです。3階の地域おこし推進課まで上がると、「南区散策ガイドマップ」や「南区地域学の報告」など10種類を超える資料が、自由に入手できるよう配備されていました。

その中に「宇品線の足跡をたどる モニュメントMAP」がありました。そこには、1986年9月30日の全線が廃止となった宇品線の面影を今に伝えるために作られたモニュメントが紹介されています。

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この地図を頼り「宇品線のモニュメント」を訪ねてみることにしました。そこでは思いがけない人との出会いや新しい発見やもありました。「モニュメントめぐり」にスタートする前に、簡単に宇品線の歴史を紹介します。

よく知られているように宇品線は、1894年(明治27年)8月1日に始まった日清戦争の開戦直後の8月4日に起工され、8月20日までわずか17日間という短い期間で完成しました。区間は、6月10日に開通し山陽鉄道の東京方面からの最終駅であった広島駅から南へ約6kmの宇品港までの路線です。戦争を遂行するための大量の兵員や物資を輸送するために施設されたものです。陸軍省が管轄する軍用鉄道でした。日清戦争やそれ以後の戦争で大きな役割を果たします。日清戦争後は、山陽鉄道宇品線となり、一般営業も行われたようですが、その沿線に兵器廠や被服廠が作られた歴史を見れば、その大きな目的が何だったかははっきりします。戦後は、国鉄の路線として活躍しますが、先に述べたように1986年9月に全線廃止となりました。

散策の最初に訪れたのは、猿猴川左岸です。「モニュメントMAP」にはなかったのですが、かつてここに架かっていた「鉄橋」の痕跡を見つけたかったからです。残念ながら「鉄橋の跡」を示すものは何もありません。「鉄橋があった」と思える場所には、「平和橋」がかかっています。写真の反対側(下流側)の橋脚に「平和橋」の名前が書かれています。この橋を渡り、道路を北に進むと、写真の奥の方に見えるマツダスタジアムに突き当たります。

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「平和大橋」の名前については、後で調べて分かったことがあります。1954年9月の台風で、宇品線の鉄橋の橋脚が傾いたため不通となり、川下側に平行して新しい鉄橋が作られました。通れなくなった古い鉄橋は、板が張られ、人道橋として復活したそうです。その時この人道橋に付けられた名前が「平和橋」だったのです。その名前が、現在の新しい橋にも付けられたのです。

残念ながら「鉄橋」の痕跡を見つけることはできませんでしたが、ここをスタートに宇品方面に向かいました。宇品線跡は、廃線後は道路として使われました。橋の南側で少し、左に曲がりそのまま真っすぐ道路が伸びています。道路の落葉を清掃されている住民に出会いましたので、声をかけました。「この道が宇品線の跡ですね」「そうです。わが家と線路との間(宇品方面に向かって右側)には、溝がありました。今は暗渠になっていますよ。」

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 段原地区の再開発で、多くの道路が付け替えられ広くなっていますが、宇品線の跡の道路は殆どがそのまま残ったようです。その道路をまっすぐに進み、南段原駅付近に作られた公園をめざします。この公園はすぐに見つかりました。正式名称は、段原南第五公園ですが、「宇品線公園」と名付けられ、親しまれています。

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「南段原駅」の駅名表示板があります。隣駅は、広島駅方面が「おおすぐち」宇品方面が「かみおおこう」です。少し文字が薄くなっていますが、読み取ることができます。「モニュメントMAP」では、広島駅方面の隣駅は、「東段原駅」となっていますが、この駅名表示板には、何故か「おおすぐち」と書かれています。

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その理由は、「東段原駅」は、1930年に新設され、1943年10月に廃止となっていますので、戦後には存在しなかった駅だからだと後でわかりました。「南段原駅」は、広島駅からの距離は1.8キロ、1931年に新設されたときの駅名は、「女子商業前停留場」でしたが、1937年に「南段原駅」と改称されました。

この公園には、駅名表示板とともに線路の一部と動輪が設置されていますが、もともとあった駅とは少し場所が違うようですが、公園の別名「宇品線公園」にも表れているように、近所の人たちの宇品線への思いが込められて整備されたことがわかります。

「モニュメントMAP」には書かれていませんが、この公園の南約90メートル進むと宇品線は少し左にカーブします。ちょうどそのあたり、広島南警察署段原交番の裏側に通る道路に面して「惜別宇品線記念碑」が設置されています。

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この記念碑には、「蒸気機関車」の絵と「92年間の健闘に感謝 明治27年(1984)~昭和61年9月30日(1986)」の文字が刻まれています。大きな碑ではありませんので、見つけるのが難しいかもしれませんが、写真で分かるように裏側(西側)に大きな柳の木があります。これを目印にすると見つけやすいと思います。

と、ここまでたどり着くのにずいぶん字数を要してしまいましたので、このつづきは、明後日以降にします。

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2020年11月14日 (土)

被爆建物 宇品の千暁寺

広島市郷土資料館が、先週の土曜日(7日)開催したフィールドワーク「宇品・出島・新旧海岸散策」に応募したのですが、抽選に外れ参加できませんでしたので、当日の資料を手に入れるため同館を訪れました。フィールドワークのコースが書き込まれた資料を見ると、出島を出発したコースの途中に「千暁寺」の名前を見つけました。

懐かしい名前です。かつて社会党の衆議院議員だった大原亨さんの選挙では、必ず最終日に実施されたこのお寺での個人演説会の準備をしたことや大原亨さんの葬儀(199年4月)に参列したことを思い出したからです。千暁寺は、広島市郷土資料館から1.2Kmほど海岸方向に進んだ場所にあります。久しぶりというより20数年ぶりの訪問です。

2階に釣り鐘がぶら下がる大きな山門が目に入ります。釣り鐘は、戦時中に金属拠出され、戦後長く失われていましたが、親鸞聖人生誕800年の1974年(昭和49年)3月に鐘楼門とともに新鋳されています。

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山門の右側に、千暁寺が被爆建物として登録されていることを示すプレートが貼り付けられています。

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このプレートには、「本堂と納骨堂」が被爆したことが記されています。しかし、今は被爆建物として残っているのは、本堂だけです。

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本堂の被爆状況について、広島市原爆戦災誌には、次のように書かれています。

「爆心地から4.3キロメートル。被爆時、住職は檀家の法事に行っていて無事であり、坊守は裏の空き地にて負傷した。原子爆弾の炸裂による爆風で、本堂の屋根が浮き上がり、周囲の壁・建具が落ちたり飛散したりした。庫裡も同じような状況で天井が落下した。被害は全体として半壊程度で、すぐにバラック式の修理をして、被爆死亡者の葬儀その他寺の活動を行った。7日、他の寺で修行していた長男が帰宅し、寺内に殺到した避難者の救護や、死亡者の供養を行った。」

ここには納骨堂については、触れられていませんが、山門を入ってすぐ右側に被爆建物として残りました。1990年4月の大原亨さんの葬儀の時には、確かにこの建物があったことを記憶していますが、今はその建物はなくなり、その位置には石碑が建っています。

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見にくいのですが、石碑の右奥に二つの墓があります。右側が大原亨さん夫妻のお墓です。千暁寺の墓地は、元宇品にあるそうですので、境内にあるお墓は、お寺と深い縁この二基だけのようです。被爆建物の納骨堂は、老朽化が進み雨漏りがするようになり、床や棚の底が抜けるようになったため、2011年3月に安全性確保のため、やむなく取り壊されました。納骨堂に納められていた遺骨の中には、身元不明の遺骨も多かったようで、その遺骨は、西本願寺に移されて供養されているそうです。現在の千暁寺の納骨堂は、本堂の裏手に造られていました。

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私には、千暁寺についてもう一つ知りたかったことがありました。それは、何時の頃のことか、誰から聞いた話か覚えていませんが、「戦時中、外地の戦場から宇品港に帰還した遺骨は、一度この千暁寺に納め供養の法要が営まれ、その後遺族による引き取りを待っていた」という話です。そのことを知りたくて、ちょうど境内の掃除を終え、帰宅されようとした中年の女性の姿を見つけましたので、問いかけてみました。「私はよく知らないのです。ご住職は不在ですが、坊守さんがおられますので、訊ねてみてください」と言いながら、わたしを庫裡に案内し、坊守さんを呼んでいただきました。初めて知ったのですが、「坊守」とは、ご住職の奥さんのことでした。坊守さんから聞いた話です。「詳しいことは、住職に聞いていただきたいのですが、おっしゃる通りです。戦地から帰還した遺骨は、ここで引き取りを持っていました。中には、石や紙切れ一枚の骨箱も多かったと聞いています。このお骨は、納骨堂ではなく、本堂の下に納められていたと聞いています。毎年ていねいに供養していました。はっきりと何時だったかは定かでないのですが、40年ぐらい前だったように聞いていますが、その遺骨は、東京の千鳥ヶ淵の戦没者墓苑に納められたと聞いています。西本願寺では、8月15日とは別に追悼供養を毎年行っています」。帰宅して、千暁寺のホームページを検索すると、1986年(昭和61年)に本堂の修復をしたことが記載されていますので、この時に千鳥ヶ淵に移されたのではないかと推測されます。

しばらく境内を散策した後、千暁寺を後にしました。うかつなことですが、「千暁寺」の名前が、宇品港をひらいた「千田貞暁」に由来することを今回初めて知りました。

千田貞暁は、現在の千暁寺の地に、築港に先立ちその工事に携わる人々の宇品説教場を建設しました。その後1930年(昭和5年)に寺号が公認され「千暁寺」と命名されました。現在の本堂は、1935年(手話10年)に完成しています。千暁寺の前の道路・御幸通りも、宇品港築港工事の時、埋め立て工事の土砂や物資を運ぶ道として工事に先立って作られた新道です。ですから、今も左右の周辺の土地より高くなっています。

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帰り道、少し回り道をして千田廟公園を訪れ、「千田貞暁像」を写してきました。

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宇品にはまだまだ訪ねてみたいところが沢山あります。そして御幸通りの名前の由来や、宇品港築港の様子などなど、また機会があれば改めて報告したいと思います。

いのちとうとし

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