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2020年7月12日 (日)

少し理解が深まった「原爆でなくなった大手町国民学校」の理由

6月29日のブログで紹介した「原爆でなくなった大手町国民学校」の真の原因を知りたいと、その後も調べていたのですが、関係する資料を見つけることができませんでした。ところが、たまたまといってよいでしょう、「閉校となった理由」の一つが想像できる出会いがありました。

既にこのブログでも紹介しましたが、「被爆75周年原水禁大会」は、オンライン企画で実施することになっています。その企画の一つとして広島の実相に学ぶ「フィールドワーク」をYouTubeで流すことになり、その撮影が5日、6日に行われました。8月5日から流れることになっていますのでぜひ見てほしいと思いますが、その一つに「袋町小学校平和資料館」があります。

「出会いがあった」のは、事前に撮影許可を申請するため袋町小学校を訪れた時のことです。

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校長室で申請書を書きながら、対応していただいた福田忠且校長先生に「被爆前にあった大手町国民学校は戦後再開されることなく閉校となり、袋町小学校に併合されたようですが、何かそのことに関する資料がこの学校にありませんか?」と尋ねたところ、「袋町尋常小学校から大手町尋常小学校が分かれたことが書かれた資料はあるのですが、被爆後の大手町国民学校に関する資料は残っていなのです。ただ、当時の袋町小学校のことを書いた冊子がありますので、読まれるようでしたらお貸ししますよ」と書棚から「袋町地区社会福祉協議会」が昭和57(1982)年7月1日に発刊した「ふくろまち」を取り出し、手渡していただきました。会話の中で、校長先生からその中味の一部を紹介されていましたので、帰宅し早速開いてみました。「袋町小学校のうつりかわり」の中に、次のように書かれています。原文のまま紹介します。

「原爆が落とされて、人気のない学区内で、学校再開の努力はすぐに始められました。奇跡的に助かった先生たちは、数日後傷ついた身体にむちうって、児童をさがし歩き、学校再開に努力しましたが、ふたたび病気になりました。秋から二十一年春にかけて、疎開から帰った先生たちが、『学校がはじまります』というはり紙をして歩いたり、町内のたてなおしに努力する人たちが、明治橋から基町あたりまで子どもをさがして歩きましたが、なかなか集まらず、たいへん苦労しました。十五名の児童がそろわなければ、学校が始められなかったのです。

昭和二十一年五月一日、ようやく西校舎の三階で授業が再開されることになりました(これ以前は、電話局で袋町十名、幟町二十名あまりで授業が始められている。)。焼け残りの板に墨を塗った黒板、鉄骨でがたがたの床、石炭箱という教室に、三十七名の児童で始められました。もちろん学用品はほとんどありません。

こうして昭和二十二年四月、校名は『広島市立袋町小学校』となり、現在につながる新しい教育が始まりました。」

この文章には、大手町国民学校のことは出てきませんが、当時の学校再開(特に爆心地に近いほど)が、どんなに困難だったかを知ることができます。袋町小学校は、爆心地から460mの距離ですから、校区内もコンクリート造りの建物を除けばほとんど全滅といってよいほどの被害が出ています。学校再開のために、「はり紙」をだしたり、明治橋から基町とい広い範囲で子どもをさがして歩いたことが、記載されています。明治橋は、大手町国民学校の校区内の南のはずれです。校区外でも探など子どもを集めることに苦労された様子がわかります。それでも袋町国民学校は、地域や教職員のみなさんの努力があったことはもちろんですが、1棟ですが、コンクリート造りの西校舎が残っており、使える校舎があったことが、学校が再開できた大きな力となったように思います。

当時「十五名の児童が揃わなければ、学校が再開できなかった」ことや袋町国民学校が三十七名での再開されたことも初めて知りました。

こうしたこと積み重ねると「大手町国民学校が再開できなかった」理由が、少しですが理解できたような気がします。

ところで「ふくろまち」には引用した文章につづいてこんな記述がありました。

「しかし、物不足、食料不足は続き、人の骨がでてくるといわれ校庭に、さつまいもやかぼちゃを植えて、食料にしていました。」

太字にしたのは私ですが、改めて原爆の実相を知ることになりました。

いのちとうとし

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2020年7月 7日 (火)

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「国民学校原爆犠牲教師と子どもの碑」慰霊祭(このブログで5月16日に紹介されています)。昨年の8月4日午前7時過ぎ、私は平和大通りで交通案内の看板を持って立っていました。

 

すぐそばに、広島市立第一高等女学校の慰霊碑があります(この碑のことも、このブログで1月26日に紹介されています)。

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―1945年8月6日、建物疎開中の1,2年生541人、教職員7人、他の動員先含めて676人が被爆死。真ん中のモンペ姿の少女が持っている箱には、1948年当時、GHQの検閲のため「原爆」の2文字が使用出来ず、やむなく原子力のエネルギー公式である、E=MCが刻まれています―

この慰霊碑から、手押し車の高齢の女性がこちらに近寄り話しかけてこらました。そして、「6日は人が多いから、毎年今日参らせてもらっとるんよ。昔はこの辺に、友だちや、いとこたちと一緒に買い物に来とったんよ。でもみんな原爆でなくなってしまった。私は軍国少女だったから、まさか日本が負けるとは全然思ってなかったんよ。本当に教育が大切よ!」と、教育の重要性を強調され、立ち去られました。

 

今、学校現場で「仕方ない」と言う声を聞きます。それは本当に「仕方ない」のでしょうか。誰かがたたかい続けなければ、子どもたちの大切な人や楽しい時間を奪い、悲劇は繰り返されるのではないでしょうか。

何十年も前の話ですが、中学時代の先生が、「私が正しいと言っても、100%信じてはだめ。本当に正しいかどうか、自分で判断できる人になってほしい」と言ってくれた、この言葉が今でもずっと心に残っています。    

F&M

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2020年7月 6日 (月)

ヒロシマとベトナム(その15) 被爆75周年 ―ヒロシマとベトナム戦争- を考える〔Ⅱ〕

「枯葉剤被害者の日」 8月10日

枯葉剤といえば、多くの人が“ベトちゃん・ドクちゃん”を思い起こすのではないでしょうか。残念ながら“ベトちゃん”は2007年10月、26歳の若さで亡くなりました。弟のグエン・ドクさん(39歳)は入退院を繰り返しながらも活発な活動を展開されています。私も1998年に初めて出逢い今日まで交流を続けています。これらについてはまたの機会に報告します。

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HVPFの招きで初めて広島を訪れたグエン・ドクさん。(2016年10月)

アメリカ軍がベトナムで最初の枯葉剤攻撃を行ったのは1961年8月10日、ベトナム共和国軍のマークをつけたアメリカ軍機がラオスとカンボジアの国境に接するベトナム中部高原のコントゥム省での実験散布でした。

この8月10日は「枯葉剤被害者の日」(祭日)として定められています。日本の「8月6日」と同趣旨です。

アメリカ軍が最初に枯葉剤を散布したコントゥム省こそ、“ベトちゃん・ドクちゃん”の生誕地なのです。(下地図の真ん中国境付近の緑色の丸印)農業を営んでいた二人の母親は直接枯葉剤を浴びたのではなく、戦争が終結する一年前に移住し、汚染された井戸水を飲んでいたということです。

以降、「ランチハンド作戦」と名付けられた軍事作戦が、1971年1月10日の最後の散布まで10年間にわたり繰り返されました。

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1961年~1971年におけるベトナム共和国への枯葉剤空中散布(赤色)。アメリカ合衆国陸軍省資料より。(「ウィキペデア」フリー百科事典より)

その間に散布された散布薬液総量は9万1,000㌧、散布面積は240万㌶を越します。結果、480万人以上もの人々が被曝し、100万人以上に何らかの障害・疾病をもたらしていると言われています。正確な人数は把握されていません。

南ベトナムの耕地全体の5%以上と森林の12%、海辺のマングローブ樹林の40%以上が枯死しました。中国地方全域にほぼ相当するほどの地表に、くまなく、そして繰り返し・繰り返し「毒薬」ダイオキシンを浴びせたのです。そのダイオキシンが今なお地中に潜み、食物連鎖を通して人々の健康と生命を脅かし、破壊し続けています

 日本にも枯葉剤作戦が準備されていた

もう一つ、枯葉剤に関し意外と知られていない事実を、2005年8月15日付けの新聞「農業」に掲載された中村梧郎さんの取材記事をもとに紹介します。中村梧郎さんは、ベトナムでの枯葉剤被害を記録し続ける報道写真家で『母は枯葉剤を浴びた』やグラフィックレポート『戦争の枯葉剤』などで著名な方です。

アメリカは第2次世界大戦末期、日本への枯葉剤作戦を準備していました。アメリカ軍のプロジェクトチームは当時、「原子爆弾」と「枯葉剤」の両方を開発していました。そして1945年に原爆、枯葉剤作戦とも準備を完了し、原爆を搭載したエノラゲイとボックスカーはテニアン島へ、B29を改造した「枯葉剤散布機」をグアムに集結させていました。

 戦争末期の日本は大変な食料危機に陥っており、大都市周辺の米や野菜の産地を全滅させれば、何10万何百万の餓死者が出るという作戦で、8月の原爆投下でも日本が降伏しなければ11月に枯葉剤作戦を決行することになっていました。8月15日、日本の無条件降伏で枯葉剤はそのままストックされ、ノウハウも含めてベトナムで使われたのです。

 

 今号から幾度かにわたり、「被爆75周年 ―ヒロシマとベトナム戦争-を考える」シリーズを書き進めたいと思っています。月一度のペースで、今回を含め12月までの6回程度と考えています。次号(8月5日)は、枯葉剤(ダイオキシン)の毒性と人体や自然環境への影響について考えてみたいと思います。

(あかたつ)

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2020年7月 5日 (日)

ヒロシマとベトナム(その14) 被爆75周年 ―ヒロシマとベトナム戦争- を考える〔Ⅰ〕

ベトナムは去る4月30日に「解放統一45周年」を迎え、ヒロシマはまもなく「被爆75周年」を迎えます。

1945年8月6日・8月9日とヒロシマ・ナガサキは究極の無差別大量殺戮兵器である核兵器の被害を受け、75年経た今日なお「殺戮」(遅れた被爆死)は続いています。1975年4月30日の「サイゴン解放」によって、ベトナムは長く続いた植民地支配を脱し、民族の解放と統一を遂げました。

そのベトナムは近年著しく発展を遂げ、「ASEAN諸国のリーダー」と呼ばれるようになりました。しかし、ベトナム戦争中にアメリカ軍が散布した史上最大の化学兵器、猛毒ダイオキシンを含む枯葉剤による深刻な被害をはじめ、ベトナム戦争の残した傷跡は大きく、今なお人々の健康と生命を脅かし国土を蝕み続けています。

ともに、「戦争の世紀」と言われる20世紀の象徴的かつ究極的な戦争被害です。

「被爆75周年」と「ベトナム解放統一45周年」を迎え、ベトナム戦争とその被害、とりわけ枯葉剤被害を通して、「ヒロシマとベトナム」について考えてみたいと思います。

 1975年4月30日 「サイゴン解放」(ベトナム戦争終結)

私たちの年代は、45年前の「サイゴン陥落」を伝えるニュース映像が鮮明に蘇りますが、若い人たちの中にはベトナム戦争がどのような戦争であったのか知らない人が多いと思います。

1975年4月30日について、ベトナムの中学3年生の教科書には次のように書かれています。「4月30日10時45分、わが戦車が独立会堂に直進しサイゴンの中央政府職員全員を捕らえた。ベトナム共和国大統領ズォン・ヴァン・ミンは無条件降伏を宣言しなければならなかった。同日11時30分、革命の旗が大統領府の上に翻り、歴史的なホーチミン作戦の全面勝利を知らせた。」と。

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写真:南ベトナム大統領府に最初に突入した2台の戦車のうち先頭の中国製T59式戦車(390号)。2台目はソ連製T54B式(843号)、2台とも国宝にっています。

ベトナム戦争について広辞苑には「1960年~1975年、北ベトナム・南ベトナム解放民族戦線とアメリカ・南ベトナム政府との戦争」と書かれていますが、先ほどのベトナムの教科書には「抗米救国戦争の勝利は、21年にわたるアメリカに抵抗する戦争と1945年の「8月革命」から30年にわたる民族解放・祖国防衛戦争を終結させ、わが国における帝国主義の統治を終わらせた。これを基礎に人民民主主義民族革命を全国で完遂させ、国土を統一した。」と記述されています。

ベトナム戦争の性格と「サイゴン解放」の歴史的な意義が端的に表現されていると思います。

大国、列強の植民地支配に抗し続けたベトナムの歴史

その「サイゴン解放」、すなわち「民族解放・祖国防衛戦争の勝利」の深く重い歴史的な意義は、ベトナムの大国と列強支配に抗する長い闘いの歴史にあります。ベトナムは紀元前111年、前漢の武帝時代から938年の「白藤江の戦い」で勝利するまでの1000年にわたり中国に支配されていました。その後、中国の介入を受けながらも約1000年のあいだ独立王朝時代が続きました。

しかし、1858年のフランス軍の侵攻によりベトナム・カンボジア・ラオスを含むインドシナ半島が「仏領インドシナ」として植民地化されます。フランスはイギリスなど他の列強とともにインドやアジアの植民地化を狙い、ベトナムにも17世紀初頭から宣教師を送っていました。1763年にインドにおける権益をイギリスと争う「カーナティック戦争」で破れ、その後、ベトナムへの侵攻を本格的に企図します。1847年の「ダナン砲撃」などを経ながら1858年に本格的な侵攻を始め、1861年までにベトナム全土を植民地化しました。

その後、フランスの植民地支配は、ベトナムの人たちが「日本とフランスの二重の軛(くびき)」と呼ぶ1940年から1945年までの日本軍の仏印侵攻・統治期間も続きます。実効的な支配権は日本軍が持っていました。日本の敗戦間近の1945年3月9日、日本軍は「仏印武力処理(明号作戦)」と呼ばれる軍事作戦でフランス軍をベトナムから撃退しインドシナ半島の支配権を完全に掌握しました。

その後1945年8月15日の日本の無条件降伏に伴い、フランスが再び介入を始めます。一方、抗仏・抗日闘争を戦っていたホーチミンは日本軍を武装解除し、9月2日にハノイでベトナム民主共和国の「独立宣言を発します。そしてフランスとの「抗仏戦争(第1次シンドシナ戦争)」を展開し、1954年5月の「ディエンビエンフーの戦い」でフランス軍を撃破しました。

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1966年にピュリツァー賞を受賞した沢田恭一の「安全への逃避」。沢田恭一は1970年10月、カンボジアで取材中に襲撃され亡くなりました。

1954年のフランス軍敗退後、アメリカが軍事介入を始めます。南北の分断固定化を図り、南ベトナムにゴ・ジン・ジェム政権を傀儡擁立して軍事顧問団を送り込み、ピーク時54万3千人もの軍隊を送り、5万8千人の戦死者を出したベトナム戦争が1975年4月30日まで21年間続いたのです。

ベトナムの人々は1847年のフランスのダナン砲撃に始まった侵攻と植民地支配から1975年4月30日までの、実に130年にも及ぶ長く苦難の民族解放闘争の末に、ベトナム全土の解放統一という悲願を成就させたのです。

少し長くなりましたので、続きは明日報告します。

(あかたつ)

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2020年7月 3日 (金)

被爆建物ですか?

リニューアルされたレストハウスのことが、やはり気になります。本当に「被爆建物ですか?」

朝、リニューアルを担当した観光政策部へ電話を入れました。

「あの外壁は、被爆時と同じですか?」「1929年に建設されて以降、被爆時までに壁の塗り替えがあったのかどうか、資料が全く存在しないので、被爆時の壁が特定できないのです。」どうも、被爆時と同じではないようです。

次の質問は、「外観を建設当時の状況にしたということですが、正面入り口の左右の窓は、建物の外にある説明版に付けられた写真では、二本の柱はないですよね。どうして、この柱は取り除かなかったのですか?」「文化庁から、基本的には『被爆建物として改修するように』と言われていましたので、そこを大切にと思い、改修前にあった二本の柱は残すようにしたのです。」

だんだんと話が見えなくなってきます。文化庁からは、被爆建物としてきちんと残すようにと指示されたようですが、平和公園を訪れた人たちに一番目に付く、外観の色やつくりには、どうもその指示が反映されなかって様に思えます。

何とも納得のいかない説明でしたが、電話での話ですので、昨日のブログで指摘したいくつかの気づきを伝えて、とりあえず終わりにしました。

午後、ピースボランティアの皆さんと話す機会がありましたので、ちょっと尋ねてみました。「リニューアルされたレストハウス、外観を見ただけではとても被爆建物とは思えないのですが、どう説明されますか?」答えは様々です。「この建物の歴史、経過を話すしかないですよね」「まだ見ていないので、これから帰りにみようと思います。」「・・・・」無言。

あの建物を見て、自信を持って「被爆建物です」といえる人が、何人おられるでしょうか。

そんな中で、ある被爆者が「昨日の毎日新聞には厳しいことが書いていたよ」と教えてくれました。すぐ図書館に行き、7月1日付毎日新聞の記事を見つけました。「被爆『爪痕』まで改修」。これが見出しです。記事は前半でリニューアルされたレストハウスの様子を紹介し、後半で、関わりのある二人の意見が載っています。一人は、映画「この世界の片隅に」の片淵監督。その中には、「窓の柵の形が違っており、十分な学術調査がされていないのでは」と書かれています。私が感じたことと同じです。片淵監督は、その前に「映画では、すぐ身近にある被爆建物を訪れてもらう目的もあって大正呉服店を描いた。その目的が破壊されて残念でならない」と厳しく指摘されています。記事には、「原爆資料館の学芸員から『原爆の爪痕が消えてしまう』との声が上がり、設計変更したが、大部分は覆われた。」とも書かれています。

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帰宅して「広報ひろしま市民と市政 7月1日号」を読むと、なぜこんな問題が起きたのかがはっきりしてきました。「市民と市政」読んでおられると思いますが、見出しはこうです。「装いも新たに 憩いの場オープン」リードではさらにはっきりします。「被爆建物としての歴史を受け継ぎながらも、大正呉服店だった頃のようなモダンな外観となっています。」ゴシックの文字の「歴史を受け継ぎながらも」という言葉に象徴されていると思います。「被爆建物」が主語ではないのです。さらに言えば、被爆時は大正呉服店ではなく燃料会館でした。被爆50周年に発刊された「ヒロシマの被爆建物は語る」でも「燃料会館」として紹介されています。

どうしてこんなことが起こるのか、原因ははっきりしています。平和公園の中にある唯一の被爆建物の改修でありながら、担当する部署が「平和推進」ではなく「観光政策部おもてなし担当」になっているからです。

最近の広島市行政には、そういうことが多すぎます。私がかかわってきた「かき船問題」もそうです。世界遺産原爆ドームのバッファゾーン内の問題であるにもかかわらず、平和推進は置き去りのままでした。3月のこのブログに書いた「平和大通りのにぎわいづくり」も同様です。「平和大通り」の景観を変えるのであれば、当然に平和担当が1枚も2枚も深くかかわるのが当然だと思うのですが、これも観光政策部のみの担当です。縦割りではなく、横断的な組織が絶対に必要です。

毎日新聞の記事の最後には、「市おもてなし担当は『ただ、元のコンクリート面は保存しており、変更はできる。みなさんに意見を聴きながら、より良い保存・展示方法を考えていきたい』としていた」と書かれています。9億円余りもかけて行った改修工事、簡単にそんなことができるのですか?なぜ、平和公園内にある貴重な被爆建物を改修するのに、工事始まる前に皆さんの意見を聴かなかったのですか?と厳しく問いたいと思います。

いのちとうとし

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2020年7月 2日 (木)

ニューアルオープンしたレストハウスに行ってきました

マスコミ報道につられてということではありませんが、昨日リニューアルオープンした「レストハウス」に行ってきました。

第一印象は、「ずいぶんと綺麗になったな」「これが被爆建物?」です。車道を超えて、写真を一枚、正面入り口からの全景をとりました。

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建物のすぐ西に説明版があります。写真では、右側街灯の左横にクロっぽく映っています。そこに使われている写真は、被爆前の建物を映したものです。その写真と建物を見比べると、玄関入口両脇にあるアーチ型の窓に、被爆前にはなかった柱のようなものが2本見えます。その時には、「えー、耐震構造にするために変えたのかな」と思ったのですが、帰宅して中国新聞15面の「特集」を掲載された「改修前のレストハウス」の写真にも2本の柱が映っています。今回の改修で加えられてものでないことが分かりました。しかし、「外観は建設当時に近い姿に復元」といわれていましたので、地震対策で仕方のないことだったかも知れませんが、内側に工夫するとかして、外観は当時に近い姿にできなかったのかなと率直に感じました。

西側の壁面を写真に収めようと場所を移動し、壁に近づいてみました。スマホを構えながらよく見ると、西側壁面の真ん中あたりに白っぽく色が違う部分があります。

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よく見ると、積み上げられた石の中には、ひびが入っている石もあります。被爆前の外壁ではないか?

気になるものですから、レストハウス内の案内所に行き「被爆前の壁が使われている部分がありますか」と訊ねました。すぐには答えが返ってきませんでしたが、手元にある文書を開いて調べてくださいました。その文書の中の1枚にこう書かれています。

「建設当時の外壁 外壁の一部については、建設当時の外装材をそのまま使用しています。①建設時の人造石(外壁の西面の一部)②建設当時のスクラッチタイル(外面の北面・西面の一部)」

これで理解できました。私が、気になった外壁の部分には、建設当時の外装材が使われていたのです。残念ながら、スクラッチタイルの方は、沢山あり過ぎるのと遠目で、どのタイルかは確認できませんでした。建設当時の外装材が使われている部分は、誰でもすぐ見つけ易いような説明があった方が良いと思います。とここまで書いてちょっと疑問が出てきました。「大正屋呉服店」として建てられたこの建物、その後被爆までは外装は変更されなかったのだろうかということです。というのも私の関心事は、建設当時というよりも被爆時の壁だったかどうかですので。今のところ、それを知るすべはありません。

地下室に移動しました。

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地下室に入るのは、リニューアル前も含めて、今回が初めてです。入り口から、他の部分とは違う雰囲気を感じます。柱や壁面など被爆時に近い状態を生かして展示されているからでしょう。壁面の一部を利用して、爆心地から170メートルという近距離にありながら、この地下室にいてただ一人助かった野村英三さんの体験が、本人の日記や絵、戦後の写真などで紹介されています。

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この展示板の左隅に「竣工時の地下室の平面図」がありますが、残念なことにその方向が現在の間取りと右に90度ずれていますので、例えば部屋の真ん中にある柱が「平面図のどの柱か?」を見つけることが簡単にできません。平面図があるのですから、現在の展示室にある柱が、平面図のどの柱なのかをわかり易く表示すれば、見た印象が違うように感じました。しかし、ゆっくり見たい部屋です。

その後3階に移動し、旧中島地区に関する展示場を見て回りました。

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ジオラマなども設置され、見やすい展示になっています。新たに展示が予定(本年度完成予定が、コロナ禍で次年度になる)されている「平和公園に眠る中島地区の地下遺構」とこの展示が連動すれば、より効果的になるのではないかと思います。

階を移動する途中にも、被爆当時の階段や「天井裏の鉄筋コンクリートの梁」などもガラス越しに見えるように展示されています。せっかくに貴重な展示物ですが、ちょっと気を付けないと見逃がしてしまいそうです。

最後に2階の休憩・喫茶ホールを覗いてみました。一部屋は無料の休憩所になっていますし、喫茶ホールもかなりの席が用意されています。レストハウスが、まさにレストハウスとして機能できるスペースといえます。無料休憩所では、初日でしたが、何組か話を聞いている風景も見ることができました。

駆け足でしたが、レストハウスの見学を終えました。最後にふたたび案内所を訪れ「この施設のパンフレットはないですか」と訊ねたのですが、まだ作られていないようです。資料・展示室としての役割が大きくなった「レストハウス」ですから、パンフレットはどうしても必要だと思います。

いのちとうとし

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2020年6月29日 (月)

原爆で廃校となった大手町国民学校

わが家の東隣に建つNTTドコモビル(広島市役所の真向かい)の敷地の南西角に黒い御影石で作られた石柱が建っています。表には、「大手町小学校 国民学校跡地記念碑」と刻まれ、裏側には「慰霊 原爆死没者教職員並びに同窓生」と記載されています。側面には「昭和六十年二月吉日建立 教職員・同窓生一同」と刻まれています。

これらからわかることは、この場所に「大手町国民学校があった」こと、そしてここで原爆による犠牲者が出ており、それを追悼するため、被爆40周年の昭和60年(1985年)に建立されたということです。

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 私がここの引っ越してきたのは、NTTドコモビルが建つ前でしたが、同じ場所でこの碑を見た記憶があります。その時は、「あーここに大手町国民学校というのがあったのだ」というぐらいで、それ以上のこと(被爆のことも含めて)を考えたことはありませんでした。

ところが最近、神崎小学校や千田小学校そして天満小学校を訪ね、それぞれの学校の被爆時のことを調べるうちに、「大手町国民学校跡地記念碑」という言葉が気になってきました。、「なぜ跡地なのだろうか」と。そこで少し調べてみました。

最初に調べたのは、いつものように「広島原爆戦災誌」です。それによると「最後の本校児童在籍者数は、男536人、女546人計1,082人である。」と書かれています。教職員は、39人だったようですが、「最後の」という言葉が気になります。次に出てくるのが「学童疎開実施状況」で、集団疎開が202人、縁故疎開が378人となっています。集団疎開先は、「山内川北村、高村」となっています。庄原市の友人に確認したところ、旧庄原市域内であることが分かりました。学校に残った児童のうち45人が、建物疎開作業に従事することになり、被爆時、学校では引率の先生1名と児童14,5人が校内で被爆しています。他の子どもたちや教職員は、ほとんど家庭内か登校途中で被爆したと思われます。児童の被災状況は、死亡35人、行方不明16人連絡不能165人という人数が、被爆時調査で上がっています。校舎の被害状況は、「全壊全焼」です。

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大手町国民学校の焼け跡。門柱には「大手町国民学校仮事務所」との看板

「広島原爆戦災誌」には、「被爆後の混乱」として次のようなことが書かれています。「大手町国民学校区域の惨害は、あまりにもひどかった。区域内は一軒の例外もなく建物はすべて焼きつくされた。それだけに、人的被害も徹底的なものであった。生き残った人ひとりとして、区域内にいるものはなく、みんな区域外に逃げていった。」さらに焼け跡に肉親や縁故を探す人があったが「そのような幾日かが過ぎても学校を訪ねる人が無かったことは、惨禍の甚大さを物語るもので、他地域にはない現象であった。」

長い引用になってしまいましたが、それには理由があります。

調べていて気付いたのですが、「広島原爆戦災誌」には、35の公立国民学校の被災状況が書かれていますが、その中で戦後廃校となったのは「大手町国民学校」ただ1校なのです。

大手町国民学校は、爆心地から1.1km距離に建っていました。爆心地からより近い学校は、本川(爆心地から0.35km)、袋町国民学校(0.6km)があります。1.1kmの距離には、袋町、中島、広瀬町国民学校があります。

なのに「なぜ大手町国民学校だけが廃校になったのだろう」と、その理由が知りたくなりました。手持ちの資料だけでなく、広島中央図書館にも行って調べてみたのですが、はっきりと「廃校の理由」が記載された資料は見つけることはできませんでした。ただ「広島公立学校沿革史」の「大手町国民学校」の項には「昭和20年9月 依然として区域内に帰住するものほとんどいない」と記載され、「昭和21年3月 学校閉鎖」と記述されています。この記述と先に「広島原爆戦災誌」から引用した被爆時の校区の被害状況と合わせて考えると、元の住民の帰還がほとんど望めなかったことが「廃校」となった主要な原因のように思われます。

不思議なことに、大手町国民学校より近距離で被爆した本川国民学校や袋町国民学校は、廃校になっていません。それは、当時市内の学校では珍しい鉄筋コンクリート校舎だったため、建物が残ったことが大きな要因となり存続できたと思われます。ところで、この袋町国民学校の沿革史には「昭和21年2月1日大手町国民学校の事務所を校内に設置」と記載されていますので、大手町国民学校は廃校のあと、袋町国民学校に引き継がれたようです。多くの国民学校が、その年の9月に入ると順次再開されていくなかで、大手町国民学校だけが、被爆後一度も再開されることなく廃校となってしまったのです。

公立の国民学校で廃校となったのは、大手町国民学校だけですが、戦前にあった民間の国民学校2校(済美国民学校、光道国民学校)は、いずれもその年に廃校となっています。この2校のことも改めて調べてみたいと思っています。

いのちとうとし

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2020年6月25日 (木)

新型コロナウイルスと原発避難計画

5年前の2015年、島根原発が事故を起こした時に避難者を受け入れることになっている広島・岡山の両県の避難先になっている市町村に、「原子力災害時における広域避難に関する協定」についてのアンケートを行いました。

アンケートは、主に避難先の状況など19項目を訊ねました。その中で避難所の一人当たりのスペースを問いました。回答は大半が2平方メートル、広いところでも3平方メートルという回答になっています。当然ですが2平方メートルとは1メートル×2メートルという数字です。

僕が眠る布団は横1メートル、縦1.9メートルですから、だいたいその広さだと思います。一人当たりの広さですから、家族が4人だとしたら8平方メートルとなるのでしょうか。プライバシー保護の対策については、ほとんどが無回答でしたが、ほんの少しですが段ボールで仕切るというのがありました。まあーそんな内容です。

新型コロナウイルス感染症の発生で、人と人との間隔を2メートル以上保つという「ソーシャル・ディスタンス(社会的な距離)」が言われています。人間自身の縦横幅は考えないにしても、一人あたり左右前後を考えれば4×4で16平方メートルが必要ということになるのではと思うのですが。

島根県では福島原発事故の発生によって、これまでの地域防災計画を修正し、広域避難計画を策定しました。その実効性を向上させるために、避難先である広島や岡山県との間で防災協定(正式には「原子力災害時等における広域避難に関する協定」)を締結しました。また、避難車両を確保するため中国5県のバス協会やタクシー協会とも協定を結んでいます。

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ちなみに広島県では、橋でつながっていない大崎上島町を除く22の市町に約17万1千人の避難者を受け入れることになっています。避難される人は、島根原発から30㌔圏内に住んでいる松江・出雲・雲南の人たちです。とりあえず、この人たちが何処に集合し、どこで放射能を測定し、どうやって避難するかということは決められています。しかし避難所の運営マニュアルが出来ているのは広島県では6市町という状況です。

たぶん島根県民から出されたと思われる新型コロナウイルスに関連した質問に対し、5月18日付けで島根県が次のように回答しています。

原子力災害が発生しているときに、新型コロナウイルスや同様の感染症がまん延した場合は、

1、避難の際に避難者の健康状態の確認を行うことの徹底

2、避難者が十分なスペースを取れるよう間仕切り(段ボール製品)の確保

3、ホテル、旅館等の民間施設の活用

など、感染症対策に万全を期す必要があります。

また回答の後半部には「あらかじめ定めた避難先以外の地域への広域避難を含め、可能な限り多くの避難所を確保することも検討していく必要があると考えています。」としているのです。

こういう島根県の見解を広島県の担当者は「知らない」と答えました。知らないことを怒ろうとは思いませんが、この防災協定の見直しは当然なされる必要があると思っています。そして基本は、原発を止めることです。

木原省治

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2020年6月23日 (火)

6月のブルーベリー農園その3(東広島市豊栄町)

今年の夏至は6月21日。日没は19時30分頃になる。いつものように安芸区の自宅から週末の2日間は東広島市豊栄町にあるブルーベリー農園で手入れの作業を行う。5時には作業をやめて後片付けをして帰るがまだ太陽が出ていて農作業は十分にできるが仕方なし。農園の近所の親戚の男性に時間のある時に農園の草刈りをお願いしているが、21日は私たちが帰るころにやってきて草刈り機のエンジン音を響かせる。きっと作業しやすいだろうなと思ってしまう。そう、まだ空には青空と夏の雲が広がっている。

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6月20日(土)。

①庭の池の花ショウブが開花。

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②里山のブルーベリー園には膝ほどに雑草が伸びアザミのあちこちに咲いているが、

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③草刈り機で除草。

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④もう一方で農業用ため池のタケノコの除去にいくが入り口の里山の溝が枯れ枝と泥がたまり数か所せき止められて、前日、前々日と降った雨水が山道に流れだしている。見たときに手入れをする精神で約100mにわたってこれらを取り除き、ついでに大小の石を石で溝から出して流れをよくした。作業しながらよく見ると山道側の溝は石でしっかり組まれていてびくともしていない。大したもんだと感心する。

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⑤畑の富有柿。親指の先ほどの青い実がついている。

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6月21日(日)

①一番上の畑は2区画になっていて、親戚から譲り受けた畑に早生と中生のブルーベリーを植えている。今年木が少し大きくなり実もそこそこなっているので防鳥ネットを張ることにした。

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②里山にある早生のブルーベリー園にも防鳥ネットを張っている。そろそろ色づいてきて先週も摘み取ったが甘みがなくすっぱくて初物としての季節感を楽しんだだけ。21日現在まだ甘みが乗っていないので来入半ばまでつみとりはお預け。

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③防鳥ネットを張った後に施肥の作業。一番上の畑に鶏糞を1本の木に3つかみほど撒いて回った。

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④夕方5時過ぎ私たちが帰るころ親戚の男性の援農で草刈りが始まる。日没までまだ2時間もある。暑くもなく寒くもなく作業しやすい時間帯。

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⑤農園から歩いて数分のところのため池に毎年コウホネの黄色い花が咲くので見に行く。

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6月22日(月)朝。自宅のベランダの庭に咲くネジバナ。すこしずつ増えているのがうれしい。

 2020年6月23日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2020年6月19日 (金)

切明千枝子さんの被爆体験を聞きました

昨日のブログで紹介したように今年の75周年原水禁世界大会はオンライン中心の大会となりますが、その他にも「被爆体験から学ぼう」ということでの企画があります。その一つは、原水禁国民会議が毎月発行する「News Paper」やYouTubeによって被爆体験を紹介することです。一昨日の被爆75周年原水禁世界大会実行委員会結成総会に来広した原水禁国民会議北村事務局長、橋本さんは、昨日被爆者の切明千枝子さんからの、被爆体験の聞き取りを行いました。広島県原水禁からも渡辺事務局長など3名が同行しました。

切明さんの聞き取りは、昨日の午前中原爆資料館会議室で実施しました。少人数で、しかも間近で聞くお話には、切明さんの思いがひしひしと感じられ、貴重な時間となりました。

切明さんについては、今年2月16日のブログ「切明千枝子『ヒロシマを生き抜いて』」(http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2020/02/post-55db9c.html)で一度紹介しています。そしてこれまでにも何度か聞く機会がありましたが、じっくりと時間をとっての聞き取りは初めてでしたので、学ぶことの多いお話でした。切明さんのお話は、前半は、いつものように軍国少女だった戦中の体験です。そして8月6日の自らの被爆体験、第2県女の学生たちの被爆の実相、1時間の時間を短く感じる被爆体験です。10分間の休憩の後は、いくつかの質問に答えていただきました。

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切明さんの被爆体験は、様々なところで紹介されていますので、このブログでは体験談以外で私の印象に残ったお話を紹介します。

「自らが被爆体験を語ろうと思われたのは?」の問いに、切明さんの答えは「一つは、無くなっていった同級生や下級生の無念の思いを伝えたいと思ったことです。もう一つは、子どもや孫の可愛い顔を見ていると、この子たちに、同じ体験をさせてはならないと強く思ったからです。」それにつづけて切明さんは「被爆者だった私たち夫婦は子どもを産まない約束をして結婚しました。しかし、ある時、私たちがいつもかかっているお医者さんから(この方も被爆者ですが)『あなたたちは、子どもを産まないのですか、産めないのですか、どちらです?』と問われ自分たちの考えを伝えた時『あんたら何を言っとるんだ。障害を持っている人に対する差別意識があるからそんなことを言うんだ。障害があろうがあるまいが同じ気持ちで接するのが人間じゃろうが』と厳しくしかられました。その時、命をつなぐことの大切さを学びました」と自分の苦い経験も教えてくださったことです。

「子どもたちへのメッセージは?」との問いには「子どもの時に受けた印象は、生涯強く残ります。今私の体験を聞いてくれる多くは県外の子どもです。本当に熱心ですが、市内の学校の平和教育が弱くなっているように思います。体験をきちんと聞かせなければいけないのではないでしょうか。聞いてくれた子どもたちの反応は、手紙や文集などによって返ってきますが、素晴らしいものがありますよ」と広島の現状を憂う答えが返ってきました。

もう一つは、切明さんと旧陸軍被服支廠とのかかわりです。自宅が近所だったこと、お母さんが働いておられたので何度も訪れたことなどなど聞いたことがありますが、原爆投下後一番に被災者として避難した人が切明さんのおばあさんだったことを初めて知りました。もう少し詳しく聞けばもっと新しい話が聞けそうです。何時か機会があればと思います。前日ちょっと悪かった体調をおした長時間お話を聞かせて下さった切明千枝子さん、ありがとうございました。きっと全国の仲間の心を動かす力になると思います。

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昼食を終えた頃から激しい雨が降り始めましたが、残された時間でフィールドワークの下調べを行いました。広島城の被爆樹木や師団司令部後、大本営跡を巡り、袋町小学校被爆資料館の見学、旧陸軍被服支廠、宇品線跡などを駆け足で巡り、二人は予定通り午後3時前の新幹線で帰途につきました。今回の下調べを活かし、被爆の実相と加害の歴史を学ぶフィールドワークの収録を進める予定です。

いのちとうとし

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