「広島ブログ」

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2020年9月28日 (月)

平和大通りの供木運動の樹木

平和大通りがつくられた時、緑豊かな大通りをつくるために取り組まれたのが「供木運動」だったことは、このブログでも紹介したことがあります。しかし、供木運動によって植えられた樹木がどの木なのかは不明だと勝手に思い込んでいたのですが、広島市が発行する「市政と市民」の8月1日号の「中区版」に「平和大通りの木に会いに行こう」のタイトルで下のような記事が掲載されていました。そこには、私が不明だと思っていた供木運動の樹木の一部が紹介されています。

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 ちょっとびっくりです。「不明だ」と思っていた樹木が特定されているのです。しかも寄付者の名前まで書かれています。しばらくほったらかしにしていたのですが、来月3日に「かき船問題を考える会」の呼びかけで「平和大通りを歩く会」を開催することになりましたので、詳しく調べてみようと思い、先日、問合せ先となっている中区役所の「区政調整課」に電話を入れました。「確かにこの課が作成したものですが、供木運動の樹木の情報は、市の緑政課から得たものですから、詳しいことはそちらに聞いてください」との返答です。

「市民と市政」を手に市の緑政課を訪ねました。対応していただいたのは、緑政課花と緑の施策係のKさんです。Kさんの名刺には「技師」と書かれています。専門職のようです。「市政と市民」の「区報なか」を示し「供木運動の樹木を記した資料があったら、見せていただけませんか」とお願いしたところ「確かに調査はしたのですが、絶対的な特定ができていないものですから、お見せすることができないのですが」さらに「区報なかでは、寄付者が特定されていますが、ここまで特定するのは・・・」との答えです。「どうして見させていただけないのですか。ちょっと課内で相談して下さい。」とお願いし、その日は帰宅しました。

その後、電話があり「先日の件ですが、やはり資料を直接提供できないことになりました。ただお越しいただければ、口頭での説明ならできます」とのことです。再び緑政課を訪ねました。やはり資料の提供はできないということでしたが、Kさんから丁寧な説明がありました。

「1957年(昭和32年)から1958年にかけて行われた供木運動で贈られた木は、全部で9,578本。比治山やお城にも植えられたので、平和大通りに植えられたのは、約6、000本です。2015年(平成27年)に実施した調査で、ほぼ間違いなく供木運動の樹木だと確認できたのは208本、おそらくと思われる樹木は360本ぐらいです。調査方法は、1962年(昭和37年)の航空写真に写っている樹木をもとに、現在もあるかどうかで調べました。供木運動当時の植樹台帳はあるのですが、ブロックごとにしか記載されていないため、なかなか特定が難しいのです。」との説明です。そして「先日言われていた白神社前から、田中町交差点までには、20本ほどあります。」と言いながら、その20本の位置を記した地図を広げ、「これは私が作成したものですが」と断りながら、その地図を見せてくれました。無理を言って、この図だけ写真を撮らせてもらいました。

昨日、この図面を手に現地を訪れて、確認しながら写した写真を紹介します。

最初は、「区報なか」でも紹介されているANAホテル前の2本のメタセコイヤです。

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東隣のクリスタルビルの前のブロックには、クスノキ8本がまとまって残っています。

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供木運動の樹木よりも大きく育っている樹木もたくさんあり、見分けるのはなかなか難しい作業ですが、図面には木の種類が書かれていますので、何とかこれはと思う樹木を写してきました。「移動演劇さくら隊受難碑」が建つ並木通り入口の西側緑地帯です。右端が、この範囲で唯一の杉の木です。

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そのすぐ左側奥に見える木も供木運動の樹木ケヤキですが、その左側に写っている大きなクスノキは、供木運動の樹木ではありません。ちょっと不思議な気がします。

ところで、どういう理由かわかりませんが、20本のうち北側の緑地帯に16本、南側の緑地帯に4本と圧倒的に北側に多くの樹木が現存しています。下の右側の木が、南側で現存するケヤキです。

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供木運動の樹木のクスノキの1本に「名札」が付けられ、そこに「QRコード」がありましたので検索したところ、「クスノキの説明」が詳しく記載されているのですが、供木運動の情報は全くありませんでした。

Kさんの話では「1978年(昭和53年)の調査で、活着率は55%だったようです」とのことでしたので、現存している樹木は貴重なものです。せっかくの調査したのですから、それを活かして、何らかの形で「供木運動の樹木」だということが分かるような表示をぜひつけてほしいものだと思います。

いのちとうとし

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2020年9月25日 (金)

今、上関原発をめぐる状況は!

埋め立てをしなければ建設できない上関原発、このことは何度もブログなどを含め発信していますが、山口県知事が予定地の海の埋め立て免許の延長を許可して7月で1年になりました。

 中国電力は昨年11月から、その前提になる海底の活断層の有無を探るボーリング調査の準備に入る予定でしたが、地元の反対派の人たちを中心にした抗議行動で出来ない状況になっています。昨年末、中国電力は冬場の海は荒れるということで、この春まで延期するとしていました。 

 そして今年の春になった時点で、こんどは掘削用の機械を運ぶ大型台船が確保できないとして、10月以降に再延期するとしました。やがて10月ですが、中電からは何の発表もありません。何もないまま延長が許可されて、1年2か月を超えるのです。元をただせば、中国電力が免許の申請をしたのは2008年ですから、10年以上も前のことなのです。

 免許を許可した山口県知事を含めた幹部といわれる連中の発言、まさに上関町民を含め、県民のことをまったく考えもしていない無責任そのものです。新聞記事からその発言をチェックしてみました。

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 ◎知事

「中電に何らかの考えがあると思う。あらためて話があるのでは」

 ◎県商工労働部担当者

「再延期の報告後、中電から新たに入った情報はない」

 ◎県の幹部

「反対派が現場で行動を起こし続けるうちは堂々巡りが続くだろう」

 ◎県の幹部

「福島の事故後、原発を新増設する大義はもはや薄れている。中電側も国が何らかの判断を下すのを待っているのではないか」

 

まさにノー天気、無責任、他人事極まりないというか、県民のことを考えて県政を担っているのかと、怒りがこみ上げてきます。この度の埋め立て免許での、工事を終わらせなければならない期限は2023年1月です。残り2年5か月です。

これに対して中電の上関事務所の広報部長は「タイトな状況だが、期間内に完了できるよう鋭意取り組む」と。これまた無責任の極みですし、まさにこれは犯罪です。

中電さん、あと2年5か月で埋め立てが完了すると本気で思っているのですか。いつも言うのですが、とりあえずいったん埋め立て免許を取り消して失効させることで、上関の町民の人たちを安心させてあげることではないでしょうか。海を埋め立てた後になって、「あれはやる必要が無かった」で、海が元に戻るわけがないのですよ。さっさと計画を撤回することですよ。

コロナ禍により4年に一度開催される上関町祝島の伝統行事「神舞(かんまい)」は、来年に延期されました。祝島で毎週月曜日に行われている「島内デモ」も現在は中止されているそうです。そして島での緊急時の医療体制の問題、高齢の方が多いということで、不要不急の来島は遠慮して欲しいという連絡も入っています。

しかし暗い話しだけではありません。休校していた小学校に、来年春には8人の新入生が入るそうです。

木原省治

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2020年9月22日 (火)

三原地区、府中地区の19の日行動

戦争法が強行採決された5周年の19日には、県内各地で街頭行動が取り組まれました。その内、三原地区と府中地区での行動報告が届きましたので、添付された写真とともに掲載します。

三原地区の19の日行動

最初は、三原の藤本講治さんから送られた報告です。


安全保障関連法案が参議院本会議で強行採決されて丸5年目を迎えた919日,夕刻,三原駅前において「戦争法強行からまる5年 戦争法は許さない!忘れない!19日行動」を25人が参加して実施しました。

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街頭行動の冒頭,事務局から「私たちは忘れていません。919日を!」と本日の行動の意義と三原市民行動の取り組み経過などを述べた後,市民運動に軸足を置いて活動している市議会議員安藤志保さんなど6人の弁士が78か月にわたる安倍政権の暴走政治を指摘。「憲法違反の戦争法は廃止を」,「改憲発議を止めよう」,「今こそ安倍政治からの転換を」「戦争こそ最大の人権侵害」 ,「憲法の理念を守り続けよう」などと訴えました。

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また,今回の街宣活動には「議員インターンシップ」の受け入れで2人の広島大学の学生がマイクを持って,「化学兵器の脅威」「安保法に対する考え」について若者の新鮮な意見を述べました。

5周年という節目の行動,そして菅政権の発足,新たな自公政権下で戦争させない運動を進めていく「心合せ」ができた街頭行動でした。


 

府中地区の19の日行動

次は、府中の小川敏男さんから送られた報告です。府中では、毎月、上下町Aコープ前と府中天満屋店前の2か所で実施されています。今回の参加者は、上下、府中とも10名の参加だったようです。小川さんの報告は、街宣での訴えが届けられました。全文紹介します。


今月19日は戦争法と言われています安保法制が自民党と公明党によって強行採決されて5年目になります。この安保法制の問題点はこの安保法制と同時進行で行われた政治をみれば分かって頂けると思います。

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上下町Aコープ前

例えば日本のコロナ対策が進まないのは、この間の病院や保健所を縮小したしっぺ返しだと言われています。諸外国と日本の医療を比べた場合、PCR検査がドイツに比べて日本は17分の1であることや、集中治療室の数は人口10万人当たりドイツは29床、日本は約7床しかありません。

また、地域の公衆衛生の拠点である保健所は約30年前の1991年には全国で852カ所ありましたが2019年には472カ所と半分になっています。人員も34,000人から28,000人と6,000人も削減されています。未知の感染症にヒト、モノ、カネの備えをしてこなかったことがわかります。

安倍前首相の新型コロナ対策が不十分なことやアベノマスクにより、国民の怒りは頂点に達し、安倍首相は病気を理由に辞任せざる得ない状況に追い込まれました(828日に退陣表明をしました)。

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府中天満屋前

にもかかわらず、菅(スガ)新首相は安倍前首相を継承して、新型コロナ感染症対策に力を入れると言っていますが、これまでの延長なら収束は難しく、生活苦の国民が増えるばかりです。平時に豊かな生活、ゆとりある医療と教育に力を入れないと災害時にしっぺ返しが来るのです。

教育と福祉の施設が充実していればしているほど、教育と福祉にたずさわる人が多ければ多いほどまちは住みやすくなります。行革の名のもとに福祉や教育の現場を切り捨てるほどバカげたことはありません。こうしたゆとりある医療と教育に力を入れることこそが新型コロナ対策でもあります。

戦争のできる国を目指した安倍首相を継承する菅新首相は間違っております。今こそ「戦争のできる国を目指す政治ではなくて」、「この世界から戦争をなくすことに努力する政治」に変えるときです。戦争法の廃止に向けて一緒に頑張りましょう。


藤本さん、小川さん、ありがとうございました。県内各地での頑張りを共有し、これからも一緒に訴えつづけましょう。

いのちとうとし

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2020年9月18日 (金)

フェンスの中に隠れた大田洋子文学碑

広島県原水禁の事務局に行く道すがら、ちょっと気になる景色が目に入りました。

中央公園の芝生広場の芝がかられてむき出しになっているのです。周囲は、白いフェンスで囲まれています。中央公園は、新しく作られるサッカースタジアム建設予定地になっていますので、もう工事が始まったのかなと思う一方で「確かいま開催中の9月議会にサッカースタジアム建設のための予算が提案されたはずなのに?」との思いがよぎりました。

気にはなったのですが、会議に行く途中でしたので、その日は現場を通り過ぎるだけにしました。そして数日後、改めて現場を訪れました。

中央公園の西側半分が、フェンスだけでなく、網で囲われた個所もありますので、全体を見ることができます。緑でおおわれていた小高い広場は、土がむき出しになっています。片隅には、無残に切り倒された樹木が積み上がっています。真ん中の大きなクスノキだけが残っています。

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公園の真ん中あたりを南北に横切る歩道附近に看板が立っています。近づいてみると「サッカースタジアム建設に伴う埋蔵文化財発掘調査実施のお知らせ」と書かれているのが目に入ります。業務委託期間は、「2020年7月1日から2022年3月31日まで(予定)」となっており、その下に注意書きとして「*仮囲い設置工事を2020年8月3日からはじめます。」書かれています。この「お知らせ」によって、この工事は「サッカースタジアムの本体工事」を前にした「埋蔵文化財発掘調査」のため、そしてフェンスは、一月ほど前から設置されたことが分かりました。

「まさか?」と思った予算との関係は、一応理解でしました。それにしても、樹木が簡単に切り倒されていることには、腹が立ちます。

自転車で行っていましたので、フェンスの周囲をめぐることにしました。気になっていることがあったからです。それは、小高い丘の西側に広がる樹木の林の中にあった「大田洋子の文学碑がどうなっているのだろうか」ということです。この辺りにあったはずだと思える場所を探したのですが、なかなか見つかりません。囲われたフェンスには、数メートルおきに網上の窓が明けられていますので、そこから中をのぞいてみました。すっかり周囲の樹木は切り取られていますが、四國五郎がデザインし15個の大小の自然石で作られた文学碑のみが、そのまま残っています。

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小さな金網越しの写真です。そう思って探さなければ、フェンスの中ですから簡単に見つけることはできませんし、見ることも容易ではありません。

何故こんなことになっているのか、これからどうなるのか気になりましたので、広島市役所を訪ねました。担当者とのやり取りです。

「文学碑は、現在の場所からそのまま移動しないのですか?」答えは「埋蔵文化財の調査中は、あのフェンスの中で、移動させながら作業をすることにしています。」。さらに「そうすると調査中は、ずっとフェンスの中ですね?」「その通りです。きちんとした場所が決まっていないものですから」。何となく腑に落ちないのですが、次の質問です。「ところで、サッカースタジアムは、この碑のどの辺りになりますか?」「サッカースタジアムが建つと、この場所と重なることになります。」「それでは、移動することになりますよね?もう場所は決まっているのですか」「確かに移動することになります。でも場所はまだ決まっていませんが、今フェンスの西側に残っている木立の中のどこかを考えています。」一応、今回の広島市とのやり取りは、これで終わりです。

次への移動場所も決めないで「工事優先」だからと「埋蔵文化財発掘調査」が始まったことなど、どうも納得いかないことや、「大田洋子文学碑」設置には、広島県原水禁の常任理事を長く務められた原爆詩人の栗原貞子さんが、深くかかわっておられたことを思い出しましたので、少し最近の動きを調べることにしました。

その結果は、明日報告します。

いのちとうとし

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2020年9月13日 (日)

碑めぐり案内が復活しました

毎月10日と25日に「原発問題の特集」記事を書いていただいている木原省治さんから、コロナ禍で途絶えていた「碑めぐり案内」が久しぶりに再開できた様子を知らせる番外編が、写真とともに届きました。


 9月9日、待ちに待っていた修学旅行生への碑めぐり案内を行いました。スケジュール表を調べてみると2月19日以来です。コロナ禍で広島への修学旅行が中止になり、原爆資料館も閉館になっていたので本当に久しぶりという感じでした。

 この度案内をしたのは三重県四日市市の中学校、それでもコロナを心配してとても対策をしておられました。資料館の見学も、入場者の人数制限が行われているので普通なら全員が入るのですが、分散して行うということでした。

本来なら約130人の生徒たちが資料館見学の後は、みんな揃って宮島での宿泊となるのでしたが、もう1泊広島市内に泊まり10日に資料館見学となっていたのでした。

 そこまでして広島に来てくれたというのが、最大の喜びというか感激でした。僕の自己紹介をしたときに、そういう気持ちが高ぶってきて少し声が上ずった感じになりました。

案内役も生徒4~5人に一人というように分けられました。一グループの人数が少ないだけ、やり易かったという感じではありましたし、平和公園内内にはまだ修学旅行生の姿は無く、案内も余裕を持って出来るという状況でした。

 コロナ禍の中で、修学旅行生らのバスが停車するスペースにはほとんどバスを見られなかったのですが、それでも4~5台は停まっていたでしょうか。

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 少し涼しくなっていて、空気がカラッとした感じではありましたが、マスクをしているので、生徒たちも汗を流しながらで頑張りました。僕が担当したグループは5人だったのですが、一生懸命に聞いてくれて「しおり」にメモしていました。時間は1時間と短く、案内には1時間30分は欲しいのです。生徒たちも「短すぎ」と話してくれました。これは僕を喜ばせようとした忖度があったのかも知れませんが、単純に喜びました。

 学校からは「案内コースはガイドさんに任せます」と聞いていましたが、「韓国人慰霊碑」と「原爆の子の像」は入れて欲しいとリクエストされていました。このように自らの希望を言われるのがとても嬉しいのです。

 1時間という時間はあっという間にやってきましたが、最後に「大きくなって、また広島に来ることがあったら、中学校の修学旅行で広島に来た時に案内のおじさん話してくれたなあーと思い出してくれたら嬉しい」と話したら、大きくうなずいてくれました。

 広島修学旅行は少しづつ復活しているようですが、平和公園の中を多くの生徒たちが「しおり」を持ちながら、ワイワイと行き来している光景が早く戻ってほしいものです。

木原省治


木原さん、ようやく復活した修学旅行のの様子が伝わる嬉しい便り、ありがとうございました。

いのちとうとし

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2020年9月12日 (土)

「1945年8月9日 鶴見橋のたもとで」

私の父は、14歳の時に今のマツダスタジアムがある辺りで被爆しました。

ピカッと光った後に、近くの防空壕に走り込んだ父は間一髪で助かりました。

8月6日原爆投下直後から8日は、同じ職場の仲間を泊まりがけで探索したそうです。

 

8月9日の朝からは、近所の元気な者で行方不明の人を探しに行くことになりました。

父は、朝、4時に起きて、広島駅から出る市電の軌道を西へたどって、十日市、横川、己斐の方まで、探しに行きました。

「両側を見ながら探そうとしたけど、右も左も焼死体が転がっとった。何ぶんにも悪臭で口をふさぎながら探索して歩いたんじゃ。」と言っていました。でも、行方不明の人は全然見つけることができなかったそうです。

そして、父は、この探索の帰りに、鶴見橋のたもとにあった公衆便所に立ち寄りました。

そこで、父は、晩年までいつまでも心に染みついて忘れることのできなかった光景を見ました。

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「便所の入り口にあったたたみ一帖くらいの防火用水に、これ以上積もれない程の焼死体があったんじゃ。」

「便所の中も天井まで人がびっしり詰まっとった。どうしてこがあになったんか不思議でやれん。」

「仕方がないけえ、裏の土手から小便をしたけど、可哀想で可哀想で泣きじゃくりながらじゃったけえ、ちょぼちょぼしか出んかったんじゃ。」

父は、この話をする度に涙をいっぱいためて話をしてくれました。

 

そんな父も、3か月前にあの世に旅立ちました。亡くなるまでの10年間は特にたくさん原爆や戦争の話をしてくれました。父の場合は、話す度に少しずつ少しずつつらさがはがれ落ちていったように思っています。

あの世で、早くに生き別れた大切な人たちと75年ぶりに再会できているといいなと思います。

(のまは)

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2020年9月 7日 (月)

やはり元は「川内村原爆精霊供養塔」でした。

8月29日の「誓願寺の佐東町原爆精霊供養塔」(http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2020/08/post-82fb8e.html)で紹介した誓願寺にある「原爆精霊供養塔」が最初に建立された時は、「川内村」の供養塔として建てられたことが、確認できました。

このブログで何度か登場した「広島戦後の復興史」の著者の西井麻里奈さんに、先日ブログで紹介した「現在『佐東町原爆精霊供養塔』は、誓願寺から三滝に移転し、平和公園にある『義勇隊の碑』が建立されるまでは、ずっと『佐東町』ではなく『川内村原爆精霊供養塔』だった」という私の推論をメールで送りました。

数日後、西井さんから次のようなメールが返ってきました。

「誓願寺に行かれたとのことです。廣瀬さんとは本が出たときに電話でご挨拶をしたのみで、お会いできておりません。本来ならば、長年のご協力に直接お礼に出向くべきところでした。お元気だったようで、うれしく思います。

『佐東町』のこと、ご指摘をありがとうございました。この部分がへこんでいるのはそういうことかと思うと同時に、もっと写真をよく見ておくべきだったと思いました。

この碑が中島町時代の再建誓願寺の敷地内にあったころの写真を改めて確認しましたが、『安佐郡川内村』となっています。(この写真、元も不鮮明なのですが、拙著にも掲載したものはさらに小さくて見えにくいですね…)

字の感じもつかみにくいですが、『原爆精霊供養塔』の文字のスタイルと似ているように思います。

『佐東町』の文字がお父様のものということも納得ができます。この碑には一度だけ、坂山さん・廣瀬さんとご一緒に訪れました。

この下に、最初の木碑を建設したときに埋めていた名簿があるのかもしれない、という話題になり、そのことばかり頭に残っていました。」

メールの中に記載されている「写真」が、下の写真です。

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本に掲載されている写真をスマホで写していますので、不鮮明ですが、よく見れば、私が先日、誓願寺を訪れて映した「原爆精霊供養塔」と形や刻まれた文字は同じものだということが分かります。

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西井さんに、改めて手元の写真を再確認していただいた結果現在「佐東町」となっているところに以前は、「安佐郡川内村」と刻まれていたことが再確認でしました。これで、私が推論した「もともと『安佐郡川内村』と刻まれていた」ことが証明されました。

ところで、西井さんのメールに書かれている「最初の木碑」が次の写真です。

Photo_20200906103401

この写真も西井さんの本からの転写ですので、かなりひずんでしまいました。ところで写真に写っている右後ろに立つ碑は、原爆で亡くなられた誓願寺の住職の供養塔です。ですから、この場所が被爆時に誓願寺があった場所に間違いありません。

西井さんがメールで「話題となった」名簿は、この木碑の「供養塔」が建立された時に埋められた「犠牲者の名簿」のことですが、5年後に「石碑」に替わった時にも埋められたのか、そして今どうなっているのかは不明のようです。

前回も書きましたが、1963年に誓願寺本堂が三滝に移転するのに伴い、この「石碑」も三滝の墓地に移転することになったのです。

もともと木碑の建立場所に誓願寺が選ばれたのは、「川内の義勇隊が亡くなった場所の近くで供養したい」との思いが理由ですから、「石碑」が三滝墓苑に移転することは、木碑を誓願寺に建立した意味(亡くなった場所の近くで供養する)を失わせることになったのです。そのため、川内地区の人たちの努力によって1964年に現在の平和公園内に新たな供養碑「義勇隊の碑」が完成することになったわけです。そして今度は、名簿を地下に埋めるのではなく、裏面に犠牲者の名前が刻まれることになったようです。

広島平和祈念資料館の「平和記念公園マップ」に掲載された「義勇隊の碑」の説明では、「建立年月日 1964年(昭和39年)8月6日」だけでなく、三滝墓苑に「原爆精霊供養塔がある」ことも記載されています。しかし、そこには誓願寺とのかかわりは出てきません。これまで私もフィールドワークでは、この「平和公園マップ」を参考にしていましたので、「義勇隊の碑」について「この碑は1964年に建立されました」と紹介し「木碑」のことや「原爆精霊供養塔」のことには、触れたことがありません。しかし「木碑建立」からの経緯を知ることができましたので、「義勇隊の碑」には「1946年からの前史」があり、「遺族の人たちの特に強い思いがあって、この場所に建立された」ことを紹介しなければならないと思っています。

いのちとうとし

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2020年9月 5日 (土)

ヒロシマとベトナム(その16) 被爆75周年 ―ヒロシマとベトナム戦争- を考える〔Ⅲ〕

非人道的な枯葉剤(ダイオキシン)散布

私が初めて枯葉剤被害児と出会ったのはベトちゃん・ドクちゃんの分離手術が報道されてから3年後、1991年でした。北爆の痕跡を残した大きなクレーターや破壊された橋脚が残り、まちには戦傷者やストリートチルドレンが溢れていたハノイでのことでした。その時の衝撃は「ヒロシマとベトナム」(その1)に書きましたが、以降幾度も「ホアビン村」(枯葉剤児施設)や病院、枯葉剤被害者団体(VAVA)や被害児者宅を訪れています。

右の写真は1998年にベトちゃんとドクちゃんが分離手術を受け、過ごしていたホーチミン市にあるツーヅー病院を訪れたときのものです。枯葉剤(ダイオキシン)の影響により、生を受けることなく亡くなった数多くの嬰児が安置されていました。

1998

この写真を見ただけで、アメリカ軍が10年間もジャングルと散在する村々の上空から枯葉剤(ダイオキシン)を撒き続けたことが、いかに非人道的なものか分かると思います。

多様な形で現れる人体への影響

青酸カリの1,000倍を持つというダイオキシンの毒性については、前号(85日)で述べましたが。その人体への影響は、奇形児、子宮外妊娠、早産、流産、死産、胞状奇胎、新生児死亡などの生殖障害として現れています。

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生殖障害の中でも注目されるのは先天奇形で、奇形にはベトちゃん・ドクちゃんの例にある結合性双生児の他、無脳症、手足の奇形、目などの感覚器官の無形成や奇形、口蓋裂などがあります。

その他、枯葉剤(ダイオキシン)による人体への影響は多くの器官や機能に及び、循環器や呼吸器障害、癌など極めて多様です。

最も枯葉剤被害児の多いタイビン省

480万人以上もの人々が被曝し、100万人以上に何らかの傷害や疾病があると言われていますが、最も被害児者が多いのがハノイ近郊のタイビン省です。ベトナム戦争中、北部地域から激戦地帯の中部地域に派遣された多くの若者が大量の枯葉剤を浴び、帰国後の偏頭痛や倦怠感などの健康不調になり、また結婚・出産により世代を超えた障害が続いているのです。

2012年に中国新聞の同行取材を得ながらタイビン省枯葉剤被害者団体(VAVA)を訪れたときの状況を紹介します。ハン会長(写真左)は、「1968年、ベトナム中部クアンナム省とラオス国境付近で枯葉剤を浴びた。子どもには影響が出なかったが、孫が2人死んだ。娘の子どもは死産(奇形)だった。第二世代に障害が出なくても第三世代に出てくる。」と世代を超えた被害について強調されました。

2012年当時のタイビン省の人口は182万人(2019年:194万2千人)、うち被害者はベトナムで最も多い3万3千人。その内訳は第1世代(直接被曝者)が2万4千人、第2世代(子)が8千人、第3世代(孫)が1千人、第4世代(ひ孫)は今のところ1人と言うことでした。その後、第3世代、第4世代への影響がどうなっているのか気にかかります。

身体・健康への影響では第一世代は癌が最も多く、第2世代に現れている特徴的な被害は下表です。

手足の奇形

8.2%

知的障害

2.0%

精神疾患

8.2%

手足の障害

4.3%

皮膚障害

6.1%

言語障害

4.9%

骨血液癌

1.6%

視覚障害

3.3%

歩行障害

8.8%

関節障害

7.6%

心臓障害

3.0%

神経障害

9.2%

指障害(合着、6本など)

8.6%

口唇口蓋裂

3.7%

白血病

0.8%

激戦地クアンチの状況

 私たち一般社団法人広島ベトナム平和友好協会(HVPF)が2009年以来、毎年「訪問団」を派遣しているクアンチ省は、旧南北国境線が敷かれたベトナム戦争の最激戦地であり、枯葉剤被害者もタイビン省に次ぎ多い地域です。枯葉剤の直接被曝による人や土地・森林への影響、不発弾など負の遺産を抱えるクアンチ省は、「ベトナムで最も貧しい地域の一つ」と言われています。

「3万人の被害者は、貧しいクアンチの中でも最も貧困な状況で生活に追われています。植物状態の被害者も260人おり、その家族は仕事に就くことすら困難」と、リ・キム・トゥ被害者の会会長は訴えています。

2012

上の写真はグエン・ルク・タンくんです。17歳ですが体重は僅か12kg、腕と足は細く立つことも、ものを持つこともできません。肺の病気で吐血し、最近退院したばかりというタンくんは、うつろに目を向けますが会話はできません。

軍隊時代に強い枯葉剤を浴びて身体が弱い父親(41歳)は、65キロ離れたフエでタクシーのドライバーをしており、母親は2歳のときに家を出たきりとのことです。老いた祖母が政府の援助月36万ドンと息子の仕送り10万ドン余りとで50万ドン(注1)ほど暮らしているとのことでした。(注1)1万ドンが約50円ですので2,500円。

「コロナ禍」でチャリティー・コンサート中止

2001年に初めて東広島市で「枯葉剤被害児救援のためのベトナム民族アンサンブル・チャリティーコンサート」を開催、以降、今日まで県内12市町・22会場でのコンサート通じ、タイビン省の枯葉剤被害児のためのリハビリセンター建設をはじめとする支援を続けています。

「被爆75周年」を迎えた今年は、「ベトナム戦争集結45周年」でもありました。そこで、10月に東広島市だけでなく、広島ベトナム協会や日本ベトナム友好協会広島県支部などのご協力をいただき、広島市と福山市での開催も予定していました。しかし残念ながら「コロナ禍」で中止し、来年以降の開催を目指すことにしました。

次号(10月5日)では、枯葉剤被害児などに対する支援活動について述べたいと思います。

(2020年9月5日、あかたつ)

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2020年8月30日 (日)

誓願寺訪問記

今日のブログは、広島無償化裁判を支援する会が呼びかけ、昨日午後3時から予定されていた朝鮮学園への高校無償化を実現させるための「「公正な判決および無償化適用を求める街頭行動」の報告をする予定でしたが、諸般の事情により急遽中止となりましたので、こちらも急きょ「誓願寺訪問記」に変更しました。

誓願寺は、1590年に毛利輝元によって、材木町(現在の平和公園の原爆資料館附近)に開基され、1945年原爆によって焼失し、その後一度は中島新町(ご住職の話によれば、現在トヨタカローラ広島があるところ)に移転しましたが、1963年5月3日に現在の広島市西区三滝本町へ再建されました。

これから紹介する誓願寺にまつわる話は、誓願寺の廣瀬隆慶住職からお聞きしたことです。

1963年に三滝に再建する際、準隆前住職がこだわられたことが三つあったそうです。

一つは、山門です。境内入り口には、立派な山門が建っています。JR三滝駅から三滝寺や墓苑に上がっていくとき、この山門の前で道が二手に分かれますので、真正面に見えます。

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被爆前の誓願寺には、高さ13メートル、幅9メートルもある壮大な大門があり、「広島っ子は、大きなもののたとえに『誓願寺の門のように』とよくいった」というエピソードがあったようです。ですから、再建に当たっては、山門はきちんとしたものを建てなければならないというのが、前住職の強い思いで、今の立派な山門がつくられたそうです。

二つは、本堂と庫裏の間に作られている池です。かつての誓願寺は、約1万6000平方メートルという広島でも一、二を競うほどの大きさの境内を持ち、そこには瓢箪池があり、沢山の亀が泳ぎ、境内にあった無徳幼稚園の子どもたちの遊び場、そして市民の憩いの場でした。

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瓢箪池を再現するのが願いだったようです。しかし、移転後の境内は小さくなり、往時の大きさを再現することはできず、今は小さな池となりましたが、静かなたたずまいを見せています。池には、沢山のハスが植わっています。

三つめは、被爆前の誓願寺にあった茶室を作ることです。残念ながら、今回の訪問では、この茶室は見学することはできませんでしたが、今も現存しているそうです。

誓願寺のホームページでも、「山門、池、茶室が僅かに往時の誓願寺を忍ばせている」と紹介されています。

私が気になったのは、「この境内には、被爆時のものは何かないのか」ということでした。昨日紹介した「佐東町原爆精霊供養塔」の建つ墓地へ移動の前、住職から二つのものを案内していただきました。

一つは、本堂上り口右側に置かれている水盤石(手水鉢)です。天明3年(1783)2月と刻印されています。

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原爆の影響で、後側の左右の角が、両方とも欠けています。実は、今回の訪問には同行者がありました。被爆者の森川高明さんです。森川さんは、被爆した年の6月まで、無徳幼稚園に通っていたそうです。帰宅後、私が映した上の写真を送ったところ「手水鉢は、私にとって75年振りの再会でウルウルでした。大切にします。」と返事が返ってきました。

もう一つは、本堂の中に保管されている「釣灯篭」です。

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この「釣灯籠」は高さ30cmの鋳物製で、さび付いています。戦前お寺の本堂の四方に掛けてあったものの一つです。原爆投下から5日後にこの付近を訪れた佐伯区石内の窪田さんが、誓願寺境内で拾い、持ち帰って自宅の軒下に吊されていたのですが、被爆後50年目の1995年にお寺に届けられてものです。ところどころが欠け、長年軒下に吊るされていたためでしょうか錆が噴出しています。今はケースに入れられ大切に保管されています。

誓願寺は、他にも歴史的なものが沢山ありますが、原爆と関わる境内の紹介は終わりです。境内ではありませんが、誓願寺を訪れた時にはもう一カ所行ってほしい場所があります。

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本堂裏の山手にある誓願寺の墓地に建つ原爆犠牲者の無縁仏をまつる供養塔です。「佐東町原爆精霊供養塔」と同じ段にあります。もちろん被爆してはいませんが、ぜひお参りをしてほしいと思います。

境内には大きなイチョウの木もありますので、秋にはもう一度訪れてみたいと思う誓願寺です。

いのちとうとし

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2020年8月29日 (土)

誓願寺の佐東町原爆精霊供養塔

三滝の誓願寺を訪れようと思ったのは、西井麻里奈さんの「広島復興の戦後史」を読んだからです。この本の「第2章死者の都市 -移動する墓碑の軌跡」には、誓願寺が材木町(現在の平和公園)から、三滝に移動する経緯が詳しく記載されています。

旧川内村の義勇隊犠牲者の供養塔は、1946年に材木町の誓願寺跡に木柱の供養塔が建立されたのが最初です。この場所が選ばれたのは「義勇隊で動員された人々が亡くなった場所に近かった」からです。その後、誓願寺の土地の移転によって、紆余曲折はありますが、この供養塔も市が建設した三滝墓苑に移ることになります。

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この経緯が記載された「広島復興の戦後史」を読み進んでいくと、「元は『川内村原爆犠牲者供養塔』であったものが、木碑では限界があるということで、誓願寺の前住職廣瀬準隆さんの協力によって新しい石碑『佐東町原爆精霊供養塔』が、当時お寺のあった中島町に建立されました。その後、お寺が手狭になり三滝墓苑近くの現在地に移転するとともに、この『佐東町原爆精霊供養塔』も移転した」ことが分かります。

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これを読みながら、私にはどうしても理解のできないことが出てきました。それは、もともと「川内村」の犠牲者の供養塔だったのになぜ「佐東町」になったのかです。「広島復興の戦後史」の中にもその理由は書かれていません。川内地区温井にある浄行寺の坂山住職にも電話で問い合わせたのですが、「その経緯はよくわかりません」とのことでした。

いつごろ、なぜ名称が変わったのか、その経緯を解明するのは難しいとは思いながらも、一度誓願寺でお話を聞こうと、盆明けの先日、あらかじめ電話でお願いし、誓願寺を訪れました。快く応対していただいたのは、住職の廣瀬隆慶さんです。

予想されたことでしたが、廣瀬住職の話では「父の前住職準隆の時代のことですので、父からは何も聞かされておらず、その経緯はわからない」とのことでした。その他にもいろいろなお話を聞いた後、廣瀬住職の案内で、三滝墓苑にある「佐東町原爆精霊供養塔」を訪ねました。少し坂道を上るので、車での移動です。

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墓苑に入り供養塔の前に立つ、新たな事実を見つけることができました。上の写真をよく見てほしいのですが、「原爆精霊供養塔」の文字とその下の「佐東町」の文字では、明らかに書体が違っています。写真では見にくいのですが、「佐東町」の文字が彫られている部分は、なぜか表面が削られ溝のようにへこんでいます。「佐東町」の文字は、少し時間がたってから刻まれたことが想像できます。

この私の指摘に、廣瀬隆慶住職も「初めて気づきました」とのことです。そして「佐東町」の文字を見て「これは間違いなく父が書いた字です」と明言されました。

ここからは、私の推測です。この「原爆精霊供養塔」には、建立時は「川内村」と刻まれていたはずです。1963年に三滝墓苑に移転した時もまだ「川内村」だったはずです。それ他の墓石が、三滝墓苑に移った後も、「原爆精霊供養塔」だけはお寺に残り、供養が続けられていたからです。川内村の人たちにとって、三滝墓苑への移転は、義勇隊の犠牲者が亡くなった場所近くでの供養が継続できなくなったことを意味しました。だから遺族たちの強い思いから、旧材木町付近である平和公園の現在地に旧川内地区の「義勇隊の碑」が1964年に建立されたのです。これにより三滝墓苑に移された「原爆精霊供養塔」は、川内村の人たちにとっては役割を終えることになったのです。しかし、誓願寺前住職準隆さんの配慮で、佐東町の供養塔として新たな役割を果たすことになったと思われます。

三滝墓苑にある「佐東町原爆精霊供養塔」には、何故か建立時期が刻まれていませんので建立時期が特定できません。しかし誓願寺でいただいた「区報あさみなみ」のコピーには、「川内の人たちの休憩所であったことから、同寺へ昭和26年に建立。」と明記されています。これによれば、誓願寺が中島町に仮本殿を再建された1951年にこの石碑の「原爆精霊供養塔」は建立されていたことになります。この「区報」が発行されたのは、建立時から34年後の1985年ですから、当時はまだ建立に関わった人たちがたくさん生存されていたはずですから、かなり正確な情報だといえます。また1951年は、誓願寺の仮本堂が再建された年と同じ年です。そうであれば、今「佐東町原爆精霊供養塔」と呼ばれている碑は、絶対に「川内村の碑」であったことは間違いありません。その最も大きな理由は、「佐東町」という地名は、1955年7月1日に川内、緑井、八木の三村が対等合併して生まれた町に使われているからです。

これで疑問がひとつ、ようやく解けました。

誓願寺の訪問では、いろいろなことを知ることができました。それは、また別の機会に報告したいと思います。

いのちとうとし

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