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旅行・地域

2020年1月 2日 (木)

元日の平和公園

被爆75周年、新しい年が始まりました。今年初めての探訪として平和公園を訪れました。元日に平和公園を訪れたのは、初めてのことです。

午前10時頃、平和公園に着くとすでに多くの人が訪れています。年末もそうでしたが、資料館の入り口でも外国からの訪問者の姿が、目につきます。そんな様子を見ながら、慰霊碑へと進みました。下の写真は、改めて夕方撮りに行ったものです。

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思いがけない人に出会いました。若い時一緒に青年部運動などを行ってきた知人のTさんです。「おめでとうございます」のあいさつを交わしながら、話してみると「父が、被爆当時暁部隊に所属し、比治山で直接被爆した」「ちょうどトイレにいて、閃光を直接浴びることはなかったので、何とか無事だった」「その後、市内の片づけなどに従事し、9月になって除隊し、千葉に帰郷。その10月10日後に私は生まれたのです」とのこと。お父さんは、人間魚雷回天に搭乗する予定だったそうです。長い付き合いですが、初めて聞く話です。さらに知人の話にびっくり。「毎年元日に慰霊碑に参拝し、般若心経をあげている」とのこと。「それなら供養塔の方が良いのでは」と二人で、供養塔に足を運びました。

平和公園を歩きながら「父の名前は、慰霊碑の死没者名簿の中にあるだろうか」「市役所に訪ねればすぐ分かるはずだよ」の会話。それならと国立広島原爆死没者追悼平和祈念館へ移動し、遺影コーナーを紹介しました。Tさんは、何度かここは訪れたことがあるようですが、このコーナーを訪れるのは初めてとのことでした。意外と知られていないのにびっくりです。「遺影を登録すれば、いつでも見れるよ」と話し、ここでTさんと別れ、私は原爆ドームへ移動。

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ここも多くの外国人が見かけます。自撮りをする何人かの外国人に、本人のスマホで写真を撮ってあげました。特に二人連れは大喜びです。

そろそろ帰ろうかなと思っている時、今日から国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の2020年度の企画展「時を超えた兄弟の対話」(昨年12月24日のブログで紹介)が、始まったことを思い出し、再び追悼平和祈念館へ移動しました。地下1階に設けられた企画展のコーナーは、立ち見者が出るほどの盛況です。撮影禁止ですので、その様子を紹介できないのが残念です。

叶館長の姿を見かけましたので、新年のあいさつ。「外国人は、30分のビデオが終わるまで本当に熱心に見ていただいています。12月30日31日は休館にしているのですが、もし開けておれば、きっと沢山の人に見ていただけたと思うのですが、休みなしは・・・」と館長の話。この企画展は、いつも盛況のようです。特に外国人にとって。

館長からも新しい話を聞くことができました。「館長、四國直登さんの日記には、市民が描いた原爆の絵で描かれているNHK前の黒焦げの親子の死体の話は出てこないのですかね。」という私の問いに思いがけない答えが返ってきました。「あの情景は出てこないのですが、新潟の被爆者の体験記に、直登さんの様子が書かれているんですよ。その体験記は、この館の資料のなかにあります。」体験記の閲覧室に展示されていました。この詳細は、改めて紹介したいと思います。

僅か2時間ほどの平和公園探訪でしたが、今年もまた新たな出会いや発見を体験するスタートになりました。

いのちとうとし

 

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2019年12月29日 (日)

広島電鉄火力発電所と平野橋

 「まぼろしの運河平田屋川」のフィールドワークのことを今月2度にわたって、このブログで紹介しましたが、ここでも気になっていたことがあります。

一つは、広島電鉄の火力発電所のことです。当時の景色を知りたくて写真を探しました。広島市が被爆50周年に発刊した「未来への記録 ヒロシマの被爆建造物は語る」で、「広島電鉄千田町変電所」として紹介された中に、当時の写真が掲載されています。下の写真です。

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写真の手前に、燃料の石炭を船で搬入するために利用された竹屋川もがはっきりと映っています。1912年(大正元年)に開業したようです。大きな煙突が目を引きます。しかし老朽化し、1934年(昭和9年)に廃止となり、千田町変電所となりました。

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ですから被爆直後の写真には、当然のことですが、煙突は見当たりません。竹屋川も埋められたのか、すでに道路となっているようです。

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原爆の被害を乗り越え、現在も建築当時と同じレンガ造りの姿を見せています。ただ変わったのは、右側の建物が白くなっていることだけです。

もう一つは、千田小学校にあった「平野橋」が写った写真です。この写真は、1990年(平成2年)に発刊された「広島市立学校沿革史」の中で見つけることができました。

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「1924年(大正13年)創立当時」の文字が書かれています。現在の千田小学校は、西側が正門ですが、当時は竹屋川に面した東側が正門だったようです。橋の親柱(写真では一番手前)は、形も文字(見にくいが)も現在、千田小学校に保存されているもの(12月20日のブログに載せた写真)とは違っています。その後何度か架け替えがあったのでしょうか。

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しかし、こうして調べることでフィールドワークの中身を少し深めることができました。

ところで、この写真を探すためにいろいろな出版物を見たのですが、「千田小学校50年史」という本に貴重な情報がありました。1974年(昭和49年)7月現在の千田小学校にある「被爆した樹木、石、その他で本校に残存するもの」の一覧表が載せられているのです。先のブログにも書きましたように、ここに被爆樹木があること(広島市の被爆樹木リストでは4本)は知っていましたが、こんなにたくさん(一覧表には30個が掲示)の被爆物があるとは思いませんでした。一覧表の中には、他の場所から移されたものが多くありますので、こうしたものが貴重なものだと関心を持つ人がおられたのだと想像できます。

フィールドワークは、「まぼろしの運河平田屋川」を訪ねるものでしたので、当然のことですがこの時には、原爆被害の問題に触れることはありませんでした。しかし、今回の調査で千田小学校には被爆樹木以外にも被爆に関するものがあることが分かりましたので、この一覧表をもとに、どれだけ現存しているか調べてみたいと思います。

その結果は、またこのブログで報告します。

いのちとうとし

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2019年12月28日 (土)

中沢啓治さんの被爆場所 旧神崎小学校(神崎国民学校)の場所は?

11月24日に開催された「漫画家中沢啓治さんの足跡を訪ねる」フィールドワーク(その様子はこのブログで紹介しましたが)に参加した時から、ずっと気になっていたことがあります。

それは、旧神崎小学校(神崎国民学校)があった場所です。フィールドワークの時には、国道二号線と江波線電車通り交差点の南東角にある広島銀行支店が建っている位置ではないかと思われると説明を受けました。フィールドワーク終了後も、あの場所で間違いないだろうかと気になっていましたので、手元にある古い地図の復刻版などを取り出して、調べてきましたが、なかなか特定できませんでした。

一昨日、何か資料はないかと広島原爆資料館東館の地下1階にある情報資料室を訪ねました。そこで、縮尺もはっきりした被爆前、被爆後の舟入地区の地図の情報を得ることができました。下の地図がそれです。上段が戦前、下段が戦後の地図です。

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拡大(図をクリックすると拡大する)して見ないとわかりにくいと思いますが、この地図で旧神崎小学校(神崎国民学校)が現在のどの位置にあったのかを確認することができます。ものさしで距離を測りながら、調べてみました。結論は、国道2号線にはかかっておらず、フィールドワークで説明を受けたように国道2号線の北端から北(広銀支店方向)方向に、立っていたと確認できます。

現在の街の様子から特定するのが、なかなか難しいのは、上の地図を見ていただければわかりますが、広島市は戦後の街づくりの過程で、大幅な道路などの区画整理が行われ、戦前とは大きく異なってしまっているということです。

ところで旧神崎小学校の位置を調べているうちに、旧神崎小学校の校舎配置図も見つけることができました。下の図面です。

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この図面、下側が北方向ですので、中沢啓治さんが登校時に利用していた裏門(上記図では右側)が、西側電車通りに面していたことが分かります。

中沢さんが、神崎国民学校の裏門で被爆した時の様子が、中沢さん自身の文章で次のように書かれています。

「人間の生き死にの運はまったく紙一重の差で決まるものだ。私はこの日、いつものように校門を潜っていたら、この世から消えていただろう。この日私は、校門を潜る寸前に同級生の生徒の母親に呼びとめられ『さっき空襲警報があったから、今日の授業は本校でするの、それともお寺でするの』と聞かれた。当時低学年は、爆弾攻撃を受け避難できなくなったら危険なので、本校と寺を交互に使って勉強をしていた。私は、校門の厚さ30センチ位のコンクリートの塀に寄りそい、『先生に聞いてみんと判らん』とその母親に答え、フッと空を見上げた。(略)私の1メートル前に立って、私と同じようにB29を見上げていた同級生の母親は、全身真黒に焦げ・・・」(中沢啓治著「『ヒロシマ』の空白 中沢家始末記より」1987年刊)

気になっていたことが、年末になってようやく一つ解決できました。

いのちとうとし

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2019年12月23日 (月)

「お餅つき」に行ってきました。

年末のこの時期、私の高校時代の同級生石田さんが東広島で運営している障害者の作業所「桑の木福祉園」で「餅つき」が行われます。今年も、22日に実施されましので、私も前日の夜から泊まり込んで参加しました。

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この作業所は、東広島市黒瀬と熊野に近い山間に夏には蛍を見ることのできる田園風景が広がる場所にあり、珍しく農業を中心とした作業所です。上の写真の真ん中に白っぽく映っているのが作業所です。

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餅つきの最初にすることは、もち米を蒸したり様々なことに使うことになる火起こしです。3つのかまどが据えられます。

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昨日から水に漬けたもち米が、準備されています。もちろん準備されたもち米は、この作業所で収穫されたものです。

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もち米も蒸しあがり、いよいよ餅つきの始まりです。最初は、こねてもち米を固めていきます。Dsc_4827

いよいよ餅つきの始まりです。私鉄芸陽バスからの応援団が、力からを発揮してくれました。

臼は二つあります。今年は雨の心配もあり、農機具が収めれている倉庫を使いました。Dsc_4814

つき上がったもちは、待ち受ける女性陣によって、小さく切り取り丸めていきます。最初の二臼は、餡入りのもちです。この餡入りのもちは、作業の途中で全員にふるまわれます。Dsc_4829  三臼目からは、それぞれが持ち帰る平もちです。

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全ての餅がつき上がると、裏山で捕れた猪肉入りのお雑煮がふるまわれます。

朝8時半ごろから始まった今日の餅つきも、合計19臼の餅がつき上がり、今年も無事に終了しました。心配された雨は、餅つきの間は降ることもなく、全ての片づけが終わったころポツリぽつりと落ち始めました。Dsc_4831

最後に私は、石田宅の裏にあるゆずを採取し、お餅や野菜などをお土産に帰宅の途に就きました。帰宅するとすぐに正月のお雑煮用に冷凍保存しました。

いのちとうとし

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2019年12月20日 (金)

まぼろしの運河 平田屋川―並木通りのルーツを求めて―その3

「まぼろしの運河 平田屋川―並木通りのルーツを求めて」のフィールドワークも今回が最終回です。

八丁堀から発した「平田屋川」は、鷹野橋まで、真っすぐに南進してきました。ここから、急の方向を転じて南東方向に流れを変えます。そして、運河というより、南に広がった三角州の間を流れる川の様相を呈してきます。このあたりから、川の名前も現在も地名として残る「竹屋川」に変わります。

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江戸時代の竹屋川の流路は、現在の東千田公園、千田小学校の裏手を通る街路だったようです。河幅も広くなっています。その街路から住宅街を超えて一本東に走る街路が土手道だったようです。ちょうどこの付近で、縮景園から発した流川が竹屋川に合流しています。そこには樋門が設けられ、その樋門を守護するための稲荷神社が設けられていたようです。

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この稲荷神社は、今もほぼ同じ場所に建立されています。

ここまでが江戸時代のことですが、私たちのフィールドワークはさらに続きました。

明治の初年になって「平野開」が拓かれて(干拓によって広がったと思われる)竹屋川は、さらに現在の御幸橋西詰め下流まで伸び、京橋川と合流することになります。

「平野開」が拓かれたことで、竹屋川に橋がかけられたのが、平野橋です。もちろん現在は、この橋はありません。フィールドワークでは、この橋の痕跡として、千田小学校東門の内側に「平野橋」の門柱が残されています。それが下の写真です。

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大正13年(1924年)に「平野橋」の西側に千田小学校が開校し、当時はこちら側が正門だったようで、その名残として現在の校内に門柱が移築され残されているそうです。千田小学校には、被爆樹木も多く、何度も訪れていますが、この「門柱」のことを聞いたのは初めてです。

さらに少し下ったところに被爆建物であるレンガ造りの「広電変電所」(現在は事務所として使用)がありますが、この建物も平田屋川の延長である「竹屋川」と深いかかわりがあることを知りました。

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もともとこの建物は、ちょうどそばを流れる「竹屋川」(写真の道路部分)を使って、石炭の輸送ができたことから、火力発電所として建設されたものです。昭和9年(1934年)に老朽化し、変電所になったとのことです。この歴史も初めて聞く話でした。

フィールドワークで最後に訪れたのは、御幸橋です。御幸橋は、明治18年(1885年)に完成するのですが、当初は竹屋川と京橋川の二つの河をまたぐ形になっていたとのことです。

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平田屋川(竹屋川も含む)は、昭和30年代に埋めたけられていますので、現在の橋幅となっていますが、被爆当時とは少し長さも短くなったようです。

ここで、「まぼろしの運河 平田屋川―並木通りのルーツを求めて」のフィールドワークは終了しました。

この3回のシリーズは、当日配布された資料をもとに書いてきましたが、私自身の感想を多く含んでいますので、当然のことですが誤りもあると思います。全ての文責は私にあります。

いのちとうとし

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2019年12月18日 (水)

「まぼろしの運河 平田屋川―並木通りのルーツを求めて」―その2

「まぼろしの運河 平田屋川―並木通りのルーツを求めて」のフィールドワークのつづきです。

下図を見てください。

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広島城の外堀に接続した中の棚橋から平田屋川は、南に下っていますが、平田屋橋(現在の本通り)までは、川幅が少し狭くなっています。幅は約6mだったと説明されました。はっきりとした理由はよくわかりませんが、この付近は町屋の中心部として町づくりが進められていたからのようです。当時川があった部分は、完全に埋め立てられ商店が軒を連ねていますので、その面影を全く想像することはできません。

平田屋橋の南側からは、川幅が14間=27.58mに広がり、南に延びていきます。この川幅は、現在の街では、東岸は、並木通りの歩道の東端、西岸は、袋町公演の東端です。

フィールドワークは、その川幅を確認するため、袋町公園に移動しました。公園の東端は、少し高くなっています。ここが、「西側の川土手の痕跡」ではないかとの解説です。ただ、図面ではそこまで広がっていないようにも見えますが。

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上の写真ではちょっと見にくいのですが、公園の東端と隣接する建物の敷地との間に段差があるのが確認できます。河土手の痕跡らしいものが確認できるのは、ここだけのようです。さらに南に平和通りまで移動しました。平和通りの南端辺りに中橋が、架かっていたそうです。中橋は、平田屋橋と鷹野橋(後で訪れる)の間にあったことからその名がつけられています。

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この橋の東詰めの辻には、地蔵がまつられていましたが、その地蔵は平和大通りの緑地帯に移され、今も鎮座しています。この地蔵が、「じぞう通り」の名前のルーツになっています。

フィールドワークでは、このあたりで「東寺町」や「雑魚場町」の由来などの説明がありました。東寺町には、幕末に11の寺がありましたが、現在でも金龍禅寺など6つの寺が残っています。この付近では、現在の禅林寺の敷地の東端が、おおよそ平田屋川の西岸と推定されるようです。雑魚場町は、被爆体験記にもよく出てくる地名ですが、「平田屋川」はちょっと意外ですが、「市民の描いた原爆の図」で検索しても出てこない名称です。広島市民の記憶からも忘れられた川のように思えます。

この付近まで来たときに疑問がわいたのは、開削当時(毛利の時代)の平田屋川の南端はどこだったのだろうかということです。残念ながら、フィールドワークの時、この大事なことを聞きそびれてしまいました。当たり前のことですが、古地図はかなりアバウトですので町の中心部分は確定できても、このあたりを確定するのは難しいと思われます。

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さらに南に下ります。次は、駅前通りと地蔵通りが交差する地点での解説です。この付近に「鷹野橋」が架かっていました。「鷹野橋」といえば、現在では大手町5丁目にある「タカノ橋商店街」が思い起こされるので、ちょっと不思議な気がします。しかし、説明を聞いて納得です。「西堂川(現在の電車通り)にも『鷹野橋』が掛けられていましたので、商店街の名称は、そちらに由来します。」さらに「広島はデルタ地帯ですので、南の方に土地が広がり、現在の国泰寺町一帯に藩主の鷹狩場があったことから、両方の橋に「タカノ橋」と付けられてようです。」

広島城下は三角州ですので、その後も南側に土地が広がっていきますので、「平田屋川」もさらに延長されます。その後の様子は、次回に報告します。

いのちとうとし

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2019年12月16日 (月)

まぼろしの運河 平田屋川―並木通りのルーツを求めて

並木通りが、かつて川だったことをどれぐらいの人がご存知でしょうか。私は、以前に「西国街道を訪ねるフィールドワーク」に参加した時、「平田屋川」という川があったことを知りました。その時には、西国街道(現在の本通り)に「平田屋橋」がかかっていたこと、現在の中の棚通りには「中の棚橋」があったと説明を受けていましたが、「平田屋川の流れ」については説明がなく、何となく「並木通りを流れていたのだな」というぐらいの知識しか持っていませんでした。

今回、「広報ひろしま 市民と市政」で、広島市郷土資料館が「2019年度ひろしま郷土史講座 まぼろしの運河 平田屋川―並木通りのルーツを求めて」のフィールドワークの参加者を募集していることを知り、応募することにしました。幸いにして「参加OK」の返信はがきが返ってきましたので、夫婦で参加することになりました。

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集合場所のアリスガーデンには、募集人員と同じ20人の参加者が時間通りに集合。参加者のほとんどは、私たちと同じ、中高齢者がほとんどです。

広島郷土資料館の担当者からフィールドワークに必要な資料が配布され、特に道路を歩くので他の歩行者や車などへの注意などの説明を受けて、さっそく最初の地点、中の棚橋の跡へ移動開始です。今回の解説者は、本田さんです。

年末の土曜日ということもあり、本通は多くの人でにぎわっていました。中の棚橋の跡は、電車通りから一本南の中の棚通りの東側入り口、ちょうど福屋百貨店側から入ってすぐのところです。足元を見ると「中の棚橋跡」の表示があります。

まず、「平田屋川とは」の解説です。本田さんは、最初に「これから説明することは、ほとんど配布した資料に記載していますので、後でぜひ目を通してください」とのことでしたので、筆記を取らず安心して耳を傾けました。少し長くなりますが、配布された資料から引用して、「平田屋川」を紹介したいと思います。

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「平田屋川とは 天正19年(1589)に始まった広島築城時、建築資材を海から運ぶために開削された運河である。同時に西堂川も設けられている(現在の鯉城通り:紙屋町交差点から南に延びる電車通り)。工事を行ったのは、吉川広家。平田屋川の名は、広島城下町商人『平田屋惣右衛門』に由来する。海から城下中心部に物資を輸送することができたほか、排水路として大きな役割を果たしていた。そのため、近代に入って大正元年「1912」に西堂川が完全に埋めれられたのに対して、平田屋川は大正4年(1915)に川幅が3分の1程度になったものの残されている。しかし昭和30年代に残りも埋め立てられ、その姿を消した。」

並木通りには、昭和30年代まで、川が流れていたのです。実は、自宅から歩いて集合場所に向かっている時、並木通りでたまたま出会った広島生れの友人に「平田屋川フィールドワークに行く」ことを話したら、「ここに川があったことを自分も記憶しているよ」といわれました。私が、本格的に広島に来たのは、昭和40年代に入ってからですから、全く「川の風景」を想像することはできませんが、広島の人の記憶の中に残っている川なんだなということが分かります。

ところで平田屋川は、私の出身地島根とも深いかかわりがあります。この平田屋川を開削した「平田屋惣右衛門」の平田屋は、出雲平田(島根県出雲市)の出身で、宍道湖と近かった平田の町に水路を建設し町づくりを進めた経験があったため、その技術を広島の町づくりに生かそうと毛利氏が招いた人物なのです。この説明が今回は無かったのが、島根県出身者としてはちょっと残念でした。

フィールドワークはスタートしたばかりですが、その後の様子は、明日以降に報告します。

いのちとうとし

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2019年12月 5日 (木)

ヒロシマとベトナム(その7)

前回と前々回、ベトナムのフランスからの独立戦争に加わり戦死した福山市出身の石井卓雄陸軍少佐について触れました。在ホーチミン総領事館の河上総領事(福山市出身)から、「陸上自衛隊第14旅団(善通寺市)の資料館に石井少佐の石碑が展示してある」とお聞きし、先日、行ってきました。

午前7時、西条を出発し本四連絡橋を渡り善通寺へ。9時半、冬時雨の駐屯地正門に到着。

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真っ直ぐに伸びたたカイズカイブキ並木の奥に、目指す1898年に建てられたという古びた建物、資料館があります。2階の奥まった一室の隅に石井卓雄陸軍少佐の遺影とサイゴン(現ホーチミン)から移されたという「石碑」が展示してありました。

「石井卓雄氏の履歴」には、明治8年(1919年)12月3日、福山市北吉津町で出生とありました。幾つかの軍歴の後、「昭和20年(1945年)、第55師団参謀部付きとして終戦処理に当たり、9月越南独立軍に身を投じてベトナム独立に挺身し、昭和25年5月20日戦死」と記されていました。※内の西暦は筆者が付しました。

「ベトナム民主共和国」建国当初から抗仏戦争に加わった石井卓雄少佐

終戦時25歳の「当時、最年少の佐官であった」石井少佐が、なぜ、越南独立軍に参加したのかは「説明文」には書かれていません。朝日新聞社初代ハノイ支局長を務めた井川一久さんは『ベトナム独立戦争参加日本人の事跡に基づく日越のあり方に関する研究』(2005年10月、東京財団研究報告書)に、「いささか乱暴に分類すれば、ベトミンに参加した日本人は、ほぼ次のような類型に分けられよう」として、「成り行き・義理人情型」、「状況追随・諦念型」、「過程的理念構築型」、「自覚的参加型」をあげ、「日本敗戦直後(しばしばしそれ以前からも)からベトナム独立に奉仕したいとの意志ないし情熱を持ち、自発的にベトミンに加わった人々。・・・・井川・石井少佐はその典型である。」と書かれています。

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石井少佐の真意は知る由もありませんが、ホーチミンが主導したベトナム民主共和国建国当初から越南独立軍(ベトミン)に加わり、南部メコンデルタ地域でベトミンの訓練や戦術指導の後、中部クアンガイ省に設立されたクアンガイ軍政学校の教官を務め、南部メンコデルタでフランス軍と交戦中に戦死したと伝えられています。

私が専務理事を務める一般社団法人広島ベトナム平和友好協会が10年余り交流を続けているベトナム中部のまち、クアンチ省もクアンガイ省から近く、転戦する石井少佐の足跡があるとの情報もあり、引き続き調べてみたいと思います。

「石碑」に込められた感恩(カムオン)の心

石井少佐の戦死は、 ベトナム独立同盟軍(ベトミン)がフランス軍を破り、フランスによるインドシナの植民地支配を終わらせるきっかけとなった1954年5月のディエンビエンフーの戦いから遡ること4年のことですが、この戦いの勝利への道を含め石井卓雄少佐たちが残した功績がいかに大きかったか「石碑」から窺えます。

「石井卓雄先生之霊魂稚鋻」碑の由来の説明には、「この碑は、大東亜戦争の終戦前後を通し、故石井卓雄氏の指導を受けた、グエン・バン・タン氏他有志が故石井卓雄氏の遺徳を偲び、その偉業を顕彰されんと作成持参されたものである。なお碑文は安岡正篤先生の原文を翻訳したものである。」と記されていました。

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 説明文を紹介します。


「石井卓雄先生の霊魂を稚鋻(ご高覧の意)意味とする。

「死は富士山よりも重く有り」の言あり。

この言、実に石井卓雄先生往生(死して世を去るの意)の意味とする。

先生は扶桑(日本の意)民族の戦闘精神を有するとともに、英雄烈士の熱血を有す。

故に、太平洋戦後において、先生は、なお、ベトナムに駐留するを堅く決し、ベトナム志士と肩を並べ、

ベトナムの独立を勝ち取ることに努力する。

この種み重なる犠牲の精神といささかも自利の心なきことは、これ、先生の人類、同胞に対する仁の心に基づくものにして、ベトナム人民の外来の侵略を抗拒(こばむ意)するを幇す。

数載(数年の意)の奮闘を経て、ついに瘁つきて死す。

先生は己の世を離れ甚だ久しいといえども留めのこされた豊功偉業は、多数のベトナム同志をして、永く去思(徳望を忍ぶ意)を懐かしむ。

先生は、世を逝りて19年なり。その形は滅したと、いえども、(「深刻」は前後の意味から訳さぬ方が良いと思いますので、省略しました。)

その季節は、なお磅礴(満み広がるの意)として、ベトナム人士の潜んだ意識の内に留在し、先生に対する感謝の情と崇高な尊敬を永く懐く。

ベトナム首都1969年5月20日

ベトナム諸同士が特に碑を立て、敬を示すとともに仰敬の文字を刻み、碑をかりて先生の崇高な功徳を記念す。

阮文靑 莊文一及び同人(同志の意)尊立


 石井少佐の人柄を偲ばせる逸話が井川一久氏のまとめた「研究報告書」に納められています。「彼(石井少佐)らは、ベトナム潜入直後、メコンデルタで離隊した召集兵を帰隊させるための説得活動も行ったという。敗戦後に他国の独立戦争に加わるのは死を覚悟した職業軍人の任務であって、家族に責任を負う一般召集兵は早々に帰国すべきであるとの、いかにも陸士出身者らしい確信が窺える」と。その後、石井少佐はクアンガイ省に向かい軍政学校の教官に就いたのです。

父とヒロシマとの意外な関わり

 資料館を訪れ、「石碑」の由来と石井少佐に寄せられたベトナム人民の思慕を知ることができました。しかし、サイゴン(現ホーチミン)のどこに立てられていたのか。終戦時に所属していた第55師団の基幹部隊である第11師団が編成された善通寺の14旅団の資料館に「石碑」が移されたのは頷けるにしても、何時、どのような経緯で善通寺に移されたのかなど、説明に当たってくれた旅団の三等陸曹の女性広報官に尋ねましたが「分からない」とのことでした。それらの疑問点については調べて貰い、後日の連絡を約し善通寺を後にしました。

帰路は、父が16歳で入った予科練・松山海軍航空隊のあった松山経由「しまなみ海道」を選びました。現在、91歳の父は岡山の施設で過ごしています。父の戦争体験(予科練)とその後の人生、そして意外にもヒロシマとの関わりについて、次回書いてみたいと思います。

(21019年12月4日 あかたつ)

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2019年11月11日 (月)

「防災省」設置案

事前の防災対策

 

「防衛省 ⇒ 防災省」そして「自衛隊 ⇒ 災害救助隊」という表現が分り易いので、これを何度も使っていますが、「防災省 (仮称)」設置の目的は、災害発生後の対応と同時に、災害による被害をできるだけ少なくするように、防災のための施策を全国的にまとめて一元化し、こうした施策を事前に施行することにあります。それは、災害の種類によってそれぞれ違います。豪雨による洪水と、地震に対する事前の対応を比べれば、その違いは明らかです。防災省では、その全てについて対応策を策定・実行しなくてはなりません。

現在でもそれなりの「計画」はあり、実行するだけという段階のものもありますが、何度も強調しますが、自然災害による被害が大きいこと、それを軽減することを国家的事業の最優先事項の一つにしなくてはならないと、私たちが覚悟を決めて、政治を動かして行かなくてはなりません。

そのために、たまたま分り易いパワーポイントの資料を国交省が作ってくれていますので、それを使いながら説明したいと思います。

 

[防災省の仕事内容]  

  1. 自然災害による被害を最小限に抑えるため、まずは事実の認識・把握のための基礎資料が必要です。災害がどの程度の頻度で起きるのかを統計的に推定し、安全度を加えた上で、河川、山林、道路や鉄道、その他の建造物等について、例えば、数百年に一度の頻度で起きる災害による被害を一定のレベル以下に抑えるよう、規制を設け、計画を立てた上で、目標をクリアする。既に計画のできている分野については、「災害優先」という立場、そして個人の「被害」という立場を前面に出し、再検証を行う。
  2. 台風や大雨、地震等について、どの程度の被害が生じるのかという予測はなされているが、被害の規模や財政的な損害等、天文学的な数字になっている場合もあり、十分な対策が取られているとは言えない。災害対策を日本という国家の最優先事項として、緊急20カ年計画を策定し、前半の10年間にはその中でも特に急がなくてはならないものを取り上げる。
  3. 災害についての正確なハザードマップを作成・改訂し、危険箇所に住む人々には個別の面接を行い避難の必要性や具体的な避難経路も含めた避難可能な知識を伝達する。避難「命令」が可能になるような法的整備も行い、発令等についても全国的に知見を共有して、避難が遅れることのないようにする。避難訓練も定期的に様々な想定の下行う。

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国土交通省による総合治水対策の概念図

 

《解説》

 ①.治水計画としては、国土交通省の立てた計画はあるものの、世界各国と比較すると大幅に低いレベルでの目標設定になっているため、特に近年に頻発している大雨の対策としては、不十分。具体的に数字を見ながら、緊急性を共有したい。

 ②.まずは次のグラフを御覧頂きたい。治水による安全度がどのくらいのレベルかを国際比較したものである。

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  ③.オランダと言えば、海面より国土が低いことで知られている。小学校の教科書で、堤防から水が漏れていることに気付いたハンス少年が、水漏れを止めるために献身的な努力をした感動的な物語を覚えている方も多いはずだ。そのオランダは、一万年に一度の水害に対応出来るような治水工事を1985年には終えている。日本に状況が似ているフランスでも、100年に一度の水害対策ができている。

   ④.でも日本の場合、その半分以下の30年から40年に一度の水害対策が目標になっていて、それも達成率は60パーセントほどだ。この統計が取られた2004年から14年経っているが、ウイキペディアでも同じ数字を使っている。前にも書いたように、事故ばかり起している役に立たないオスプレイを買う財源を防災費に回すだけでかなりの対策が可能になる。

    http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/blog/2018/07/6-8da6.html

 ⑤.日本の治水対策の中では、100年に一度の災害に対応することがあたかも理想的であるかのような目標設定が行われているが、もう少しレベルをアップすること、そして達成率を向上させるために財源を確保することが焦眉の課題だ。

 ⑥.地震については、建物の耐震性を高める必要が確認され、耐震性を持つ建造物が全体の9割ほどになっている点も評価すべきである。しかし、この「耐震性」で、建物にそれほど甚大な損傷が生じないのは、震度5レベルの地震なのである。政府が30年以内に起きる確率が80%だと言っている南海トラフ地震では、それを大幅に上回るはずだ。その被害額は土木学会の見積もりでは1400兆円(日本の国家予算は約37兆円)、死亡者は国の想定で32万人~33万人。立命館大学の高橋学教授の推定では47万人を超える。「それにもかかわらず。国、都府県、市町村の動きは極めて鈍く、今回の大阪北部地震を教訓に早急な対策が必要だろう。(高橋教授のコメント)」

 ⑦.子どもたちにも避難訓練をさせた北朝鮮からのミサイル攻撃で、何人の犠牲者が出ると安倍内閣が予測したのかは明らかにされていないが、まさか47万人を超えてはいなかったはずだ。そして、実際に攻撃がある確率をどの程度に見込んでいたのだろうか。80%以上ではないだろう。もしそれ以上なら、それは、明日にでも戦争が始まる可能性があり、単に「避難訓練」で対応できる話ではない。

 ⑧.30年以内に80%、そして死者数は47万ということは、あれほど大騒ぎをした北朝鮮の核やミサイルを桁違いに大きくした話なのだ。災害対策こそ、安倍政権挙げて今すぐ対応しなくてはならない案件なのではないだろうか。

 ⑨.こうした対応をすぐ実行に移せる組織として「防災省」が緊急に必要なのである。

以下、次回に続きます。

[2018/7/24 イライザ]

[加筆・訂正2019/11/10]

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2019年11月10日 (日)

碑めぐり案内で教わること

 11月のこの時期にも広島市の平和公園には全国各地からやって来た修学旅行生や、特に外国人の人たちの姿を多く見受けます。僕は修学旅行生に碑めぐり案内の案内役を年に10回ぐらいはやるでしょうか。

小学生から高校生まで、一度は通信制の高校生にも案内をしたことがあります。どの児童・生徒さんもとても可愛いです。こちら側が知らないことを教わることもたくさんあります。そして質問を受けたときに答えられないと落ち込みます。

これまで1~2回答えられないのがありましたが、帰宅してホームページなどで調べて、次からは「抜かりなく」とするのです。

そして前以っての準備で必ずやることは、その学校のホームページを視てどんな学校かを知っておくのです。10月は栃木県の今市市の高校生に案内しました。この学校のマスコットキャラクターは、「そんとくん」です。何の意味か分かりますか?二宮尊徳が亡くなったところとされています。あの薪を背負って、本を読みながら歩いている、僕ら世代の人なら通っていた小学校には、必ずといっていいほど在った銅像の人です。

最近は「歩きスマホ」の問題もあり、座っている二宮尊徳になったそうですがね。今市市が二宮尊徳とのつながりがあることは、知りませんでした。

 

そして11月3日は、千葉県銚子市の高校生に案内をしました。千葉県といえば台風19号や大雨で大きな被害を受けたところで、修学旅行に来られるのだろうかと心配していましたが、銚子市の方は大きな被害はなかったようです。  

大雨被害のお見舞いと昨年は広島県でも大きな被害があったことを話しました。そして「今年はサンマが少ないそうだねー」と話しました。

たぶん今年最後になるだろうと思われる碑めぐり案内は、来週の滋賀県のこれは小学生です。

さて多くでる質問ですが、大きな傾向としては学校の雰囲気で活発なのとそうでないのとの違いがあります。中学生は目立つのは避けたいという意識が強いのか質問が余り出ません。そういう意味では小学生はそれなりに出ます。

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小学生からの質問でもっとも多いもの、それは「平和の灯」の火は、雨が降っても消えないのか?中学生からもよく聞かれる質問です。面白いですね。

3日の高校生からは次の二つの質問がでました。皆さん答えられますか。

①平和の鐘の表面に書かれている字は何語か?

②原爆ドームは、当時何に使われていたのか?

さあー如何でしょうか?

そして慰霊碑の前などで記念写真を撮るのですが、教師から「ここは原爆で亡くなった人の碑だからVサインはしないように」という指導がされたことがあります。

写真を撮る人が、「さあーピース」と言ってシャッターを押していましたので、僕は「広島ではヒロシマー、ナガサキーと言う、キーのところで笑顔になるよ」と言ったらみんながそうしてくれました。そしたら同じ案内役の友人が「こういうのを教えるのは、この人だけよー」と話し、その場が大爆笑となりました。

木原省治

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