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2021年3月29日 (月)

長崎の原爆犠牲者数は?―長崎市へ質問状を送付

このブログでも何度かとりあげた「長崎の原爆犠牲者数」について、一昨日長崎市に質問状を送付しました。長崎市から「問い合わせ」を受け付けたと連絡がありましたので、質問状の前文を省略し、質問部分のみを紹介します。

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① 1976年に広島・長崎市の連名で出された「核兵器の廃絶と全面軍縮のために-国連事務総長への要請」では、1945年末までの原爆による死亡者数として「長崎は、約7万人(誤差±1万人)」としています。

 さらに長崎市が1991年に岩波書店から発行された「ナガサキは語りつぐ 長崎原爆戦災誌」では、「ともあれ、長崎市では、人口調査などの数値から、死者7万余とする説を公式に採用している。」(P.105第2段落)と明記されています。

長崎市が「死者7万余を公式に採用」としているにもかかわらず、「原爆被爆者援護事業概要」では、「73,884人」を使われているのでしょうか。

もし長崎市の公式見解が変更されたのであれば、その時期と理由を教えてください。

② この疑問を質すのは、「残念ながら原爆被害の実数は特定できていない(事業概要でも「正確な死傷者を調査することは困難であった。」)」と考えているからです。にもかかわらず、「死者 7万3884人」と一ケタまでの人数を記載することになれば、この数字を読む人に、犠牲者数がきちんと調査が行われているという誤解を与えることになるのではないかと危惧するからです。この点については、どうお考えでしょうか。

こうしたことを私が考えるのは、そもそも広島、長崎の原爆犠牲について、国がきちんとした調査を行っていないことを問題にしてきたからです。当然のことですが、原爆被害の悲惨さから、残念なことですが、当時の被害の実態は、つかみきれないと思っているからです。

③ 確かに長崎市がいわれる「長崎市原爆資料保存委員会の昭和25年7月発表の報告」には間違いなく「73,884人」という数字が記載されています。ただ、この報告でも「死者のうち、1万7358人は、原爆直後死体検視済みのものである」と書かれており、「73,884人」の具体的根拠は、明記されていません。「長崎市原爆資料保存委員会の昭和25年7月発表の報告」の数字は、当時の住民数に爆心地からの被爆距離による被害率をかけて出されてものに過ぎないのではないでしょうか。もしその他に「73,884人」の具体的根拠(名前が明らかなど)があれば教えてください。

④ 付言すれば、長崎市、長崎県の「原爆被爆者援護事業概要」には、長崎と広島の被害の比較表が掲載されていますが、その比較表では、広島の「人的被災 死者数」は「118,661人」と一ケタまで明示され、出典として「人的被害 S.21.8.10 広島市調査を採用」と書かれています。

しかし、広島市は、広島原爆資料館とともに、1945年末までの死没者数は「14万人±1万人」(国連報告もこの数字)としていますので、私が、広島市に対し「長崎市の『原爆被爆者援護事業概要』に「死者数、118,661人」と記載されていることを指摘したところ、広島市の担当者は、その事実を承知したおらず、その後貴市に電話で「修正」を要請し、その結果「来年から修正する」ことになったと広島市の担当者から報告を受けています。

なお、ご承知のように長崎県の「原爆被爆者援護事業概要」にも、「73,884人」の数字が使われていますので、貴市の回答によって、長崎県にも問い合わせたいと思っています。

以上お尋ねしたいことは4項目ですが、なぜ私がこの数字にこだわるのかと言えば、重ねて言うようですが、一ケタまでの原爆犠牲死者数を記載することは、逆の意味で原爆被害の実態を誤って(きちんと調査ができず正確な人数を把握できないにもかかわらず、あたかも正しく把握しているかのごとくと)伝えることになるのではないか」という問題意識を持っているからです。さらに指摘すれば貴市は「今日の通説になっている」とされていますが、「通説」になったのは、貴市がずっとこの数字を使われ続けてきたからではないでしょうか。

貴市も広島市と同じように、「原爆被爆者動態調査」が行われていると思いますが、広島市においては犠牲者の14万人±1万人のうち、この動態調査で名前が明らかになっている人数は、89,030人(2020年3月末現在)のみです。

私も当然、実態を正確にするため、すべての犠牲者の名前が明らかにされるべきだと考えていますし、その努力を続けるべきだと思っています。しかし、どれだけ努力をしてもその正確な実態を明らかにできないのが原爆被害だというふうに考え、学習会などでは説明してきました。

こうした様々な思いから、あえて今回の質問を行うことにしました。


いのちとうとし

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2021年3月27日 (土)

「厳しい過疎化の現実」

私は、広島市内での単身赴任生活が今年で15年目となる。実家は県北で島根県の県境に近い場所にある。週末はできるだけ帰省しているが、今の時期は積雪の時期も終わり、まだ寒いので田畑の草も伸びず、私にとっては「良い」季節である。

間もなく、稲作の時期が始まる。4月初めには、地域総出で田圃の用水路を整備する。堆積した砂をかき上げて流れを良くする水田づくりの準備だ。

 地区の集落の戸数は次第に減少し、現在11戸となった。そのうち、常時居住しているのは9戸。2戸は普段は空き家で、地域の行事などがあれば帰省して参加されている。一人暮らしはないが、80歳を超えた高齢者夫婦の世帯もある。近年は過疎化に伴い耕作放棄地が目立ち始めた。区画整理事業により広く整備された田圃でも後継ぎがいないため放置されている。

 

人の手が入らなくなった山林や田畑には雑草が生い茂り、野生動物のすみかとなる。私の地区では猪による被害が大きい。

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中央に延びるのは猪の獣道

 以前は田圃の周辺に電気柵を張っていたが、それでは防ぎきれなくなり、最近は鉄製の柵を張り巡らせた。しかし、それでも猪は柵の下を掘り起こし、時には突き破って田圃に侵入する。

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猪によって掘り返された道路法面

 猪に入られると、稲が倒されて収穫ができなくなる。また、畔(あぜ)を掘り返して破壊する。そうなると人力ではどうにもならず、建設業者に依頼して補修工事をすることになる。稲作による収入をはるかに超える費用が必要となっている。昨秋には夜間に走行中、猪と衝突して自動車が壊れた。急に道路わきから飛びだしてきて、跳ね飛ばしたというより,側面にぶつかってこられたという感じであった。避けようがない。

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朝起きてびっくり!畑の作物は全滅

 子どものころから、母や祖母の仕事の手伝いをしながら農作業を見てきた。その母たちも亡くなった今、今度は私が主になってやっていく番となっている。わずかな面積の稲作では収支勘定は全く元が取れないが、それでも可能な限り農業は続けたいと思う。農業は、単に米や野菜を作るだけが目的ではない。水田に水を張ることで土地の保水力を高め、ダム機能、洪水調整の役割を果たす。田畑を管理することで、土地の荒廃を防げる。とは言え、相変わらずの単身赴任で、たまの週末の休みだけでは十分な時間が取れず、稲作づくりは成り立たない。もうしばらくは近所の方々に手助けをいただきながらの農業である。

 近い将来、今の仕事を終えた後は、余暇を農業に使いたい。それが、私の今の夢の一つである。私の代では何とか稲作りをしているが、子どもの代にはどうも望むべくもない。あまり先のことは考えず、自分のできる範囲でやるしかない。

 

私の好きなテレビ番組に「ポツンと一軒家」というのがある。人里離れた辺境の地で暮らす人々を紹介する番組である。紹介をされる人のほとんどが高齢者である。離れて暮らす家族や地域の住民の助けも借りながら、決して便利とは言えない生活ではあるが、しかし自立した生き方をしている。その姿に共感しているのであろう。私自身、歳を取ったら通院はそうするか、日常の買い物はどうしようかなどと今から考えてしまうが、やはり故郷に住み続けると思う。

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もうすぐ桜の季節(昨年春の風景)

 広島県ではちょうど今、各地で自治体選挙が行われている。4月には参議院広島選挙区の再選挙も行われる。これまでの町村合併による役場機能の再編・縮小、学校統廃合、郵政民営化等々は地域の「拠点」をなくし、過疎化に拍車をかけた。産業の都市への集中、効率優先、効率化を推し進めた結果が果たして住民にしあわせをもたらしているのか、だれのための幸せか。立候補者の政策をしっかり聞いて、党利・党略、私利・私欲にとらわれない候補者を選びたい。

<農家の息子>

<編集後記>原文の雰囲気を活かすため、そのままの文体でアップしました。

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2021年3月20日 (土)

ベトナムの歴史(その1)ベトナムってどんな国?

「ヒロシマとベトナム」、201964日に初めて寄稿して以来、37日で26回を数えました。月初め(5日)の「ヒロシマとベトナム」に加え、20日にベトナムの歴史を紹介しながら日本との関わりを紹介する「ベトナムの歴史」を寄稿させていただくことになりました。

1回目は「ベトナムってどんな国?」と題し、簡単にベトナムを紹介します。

国名:ベトナム社会主義共和国。日本の西南西~南西の範囲に位置し、東京から首都ハノイまで3,660km、広島から3,012kmの距離にあるS字型(「天秤棒に似ている」)の細長い国です。中国、ラオス、カンボジアと国境を接し、南北1,650km、東西幅600kmで最も狭い部分は僅か50kmもありません。

面積:32万9,241km2(日本の面積の87.6%)に、約86%を占めるキン族(ベト族)のほか、53の少数民族が暮らす多民族国家です。

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人口:2020年のベトナム統計総局資料によると9,762万人、平均年齢は31歳と若く、2026年には1億人を突破すると言われています。

宗教:大乗仏教(12.2)、カトリッ(6.8%)、カオダイ教(4.8)、プロテスタント(1.5)、ホアハオ教(1.4%)、残りの73.2%は無宗教(伝統宗教43%、無宗教30%)と言われています。(2014年・ベトナム政府調査)

※伝統宗教:自分たちの先祖や土地神、地域の英雄などに祈りや感謝を捧げる信仰。

通貨:ドンで、日本の1円が≒0.0047円に相当します。初めてベトナムを訪れた人で、誰もが驚くのが「バイクの洪水」と買い物などをするときの支払いです。「856万ドン」と言われて、“びっくり!”! でも、日本円で≒4232円です。

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経済:20年余り7%前後の経済成長を続け、2019年は+7.02%の成長、GDP額は6,037兆3,000億ドン(2,603億米ドル、約28兆円)です。「コロナ禍」の2020年は前年の7.02%から大きく下がったものの、先進国が軒並みマイナスに陥った中でも+2.91%を記録し、国際通貨基金(IMF)は2021年の経済成長率を+6.5%と予測しています。

2019年のベトナム国民一人当たりのGDPは2,715米㌦(1㌦:108.66円≒29万5,012円)です。ちなみに同じ年の日本の国民一人当たりのGDPは4万791ドル(同≒443万2,350円)です。

 (注)1986年以降、価格の自由化、国際分業型産業構造、生産性の向上を主な柱とするドイモイ施策(刷新)が進められ、

政体:社会主義共和国でベトナム共産党が唯一の合法政党です。1月末に開かれた第13回共産党大会でグエン・フー・チョン(Nguyễn Phú Trọng) 書記長が3選されました。

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国家元首兼書記長 グエン・フー・チョン

国家元首、首相、国会議長をはじめ他の要職は5月に開会が予定されている次期国会で決定されます。

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フック首相

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ガン議長

日本に住むベトナム人は2020年6月時点で42万415人、ベトナムに住む日本人は2019年10月時点で2万3,148人です。10年前ベトナムを訪れた日本人は35万9千人余りでしたが、2019年には95万2千人余へと2.7倍に増えています。同じ2019年に日本を訪れたベトナム人は前年比27.3%増の49万5千人でした。

身近になりつつある「アジアで最も緊密な国」をご紹介する旅、次回は「Viet Nam(越南)」というベトナムの国名の由来とベトナム語表記法の歴史について紹介したいと思います。

(2021年3月20日、あかたつ)

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2021年2月25日 (木)

島根原発が立地する松江市の市議会議員選挙

 原子力規制委員会による島根原発2号機の規制基準適合性審査の「合格」が、今年中に出るのではないかといわれる中、4月11日告示、18日投票の予定で松江市長選挙と市議会議員選挙が行われます。

この大事な市議会議員選挙に、「島根原発増設反対運動」の声を届けるために立候補を予定されている芦原康江さんに松江市が抱える課題を聞きました。

 芦原さんが原発に反対したキッカケは?

 高校生の頃だったと思います。新聞に小さな記事で「鹿島(かしま)町(現・松江市鹿島町)、に原発が建設される」というのを見つけました。原子力という言葉に、広島に投下された原子爆弾のことがダブり、漠然とした原子力に対する不安感を感じました。その後、2号機増設問題が起こった時、子どもが3~4歳頃だったと思いますが、久米三四郎さんの講演を聞きました。久米さんの話しを聞いたのが大きなキッカケとなりました。

 今年は原子力規制委員会による審査で、2号機が「合格」になるという報道がされていますが、改めてそのあたりの状況を教えてください。

福島原発事故発生から2年が経った13年12月に、中国電力は「規制基準適合審査(再稼働)申請」を行いました。7年以上が経過し、大きな問題点の審査は、ほぼ終えたとされています。私の予想では、4月の市長と市議会議員選挙が終われば5月頃に「合格」が出るのではないかと思っています。でも延びる可能性はあります。

原子力規制委員会は自らも言ってますが、規制基準に合格したからといって、その原発の安全を保証するものではないとしています。

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島根原発の問題点は何でしょうか?

原発共通の問題点は別にして、島根県の三瓶山・鳥取県大山の火山噴火による影響の問題、地震の問題、津波の問題があります。昨年12月に大阪地裁で関西電力に対し、大飯原発の基準地震動の「ばらつき」問題で、設置許可を取り消す判決が出ましたが、このことは島根原発でも共通して抱えている問題です。

また大きな問題は避難のことです。島根原発から30キロ圏内には約46万人の人が住んでいます。この人たちは島根県西部、鳥取県東部に、そして岡山県や広島県に避難することになりますが、立地上の困難さ、コロナ禍、気象条件などを考えれば実効性のある避難は不可能だと思います。避難計画は原子力規制委員会の審査の対象ではないと逃げられるでしょうが、今後は30キロ内自治体はもとより、避難先の自治体に「再稼働を容認しないで」という声を届けることだと考えます。

そのために、米子・境港・雲南市などで住民投票条例の制定に向けての活動が準備されています。

市民の原発に対する気持ちはどうでしょうか?

原発に対する不安感はあります。しかしどこの立地自治体でも同様だと思いますが、原発関連の仕事に就いている人が多く、特に原発の在る鹿島町ではその傾向が強くあります。でも公けには言わなくても、一対一で話せば原発への不安を語る人はいます。

 

松江市は、全国で唯一の県庁所在地に原発が立地するという自治体です。隣の県の市議会議員選挙ですが、「島根原発再稼働反対」を訴える私たちにとって、関心を持たなければならない選挙です。

木原省治

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2021年2月24日 (水)

「軍都と被爆の証人 広島城」散策

コロナが若干落ち着いたかのように見えた昨年の10月のある日、通りかかった広島城を散策しました。天守閣はもともと見学するつもりはなかったのですが、Go Toの関係か人列ができていました。

2017年11月に原水禁学校のフィールドワークで訪れて以来の散策でした。入口から御門橋を渡り二の丸付近に被爆樹木の一つユーカリは今も生き残っています。

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 今回は旧大本営跡と防空作戦室跡周辺を再訪しました。

大本営が置かれる前に歩兵、砲兵、工兵等で構成された第五師団が広島に置かれ、対外戦争への準備のため港や鉄道の整備が着々とおこなわれ軍都広島として位置付けられました。大本営は言うまでもなく日清戦争時、1年半東京から広島に移され明治天皇も広島に入り、戦争の指揮を執り臨時の首都機能を有していました。

2021年度ヒロシマ平和カレンダーでは、6月に掲載があります。 http://www.hipe.jp/

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 防空作戦室は、戦争で学徒動員された比治山高等女学校の女学生たちが働いており、原爆投下により司令部の外にいた70名近くの女学生と先生が亡くなり、半分地下に建てられた防空作戦室に当時当番で居た岡ヨシエさんたちが、原爆投下により元の位置より2m飛ばされ、23分意識を失われた後に助かり、軍事専用電話を使って「広島全滅」の第一報を初めて広島市外に伝えられた場所です。天井の高さは約3mほどで、今でも四つの部屋が比較的良好に遺存されています。

「炎のなかに原爆で逝った級友の25回忌によせて」という体験集には、被爆時の様子が生々しく伝えられています。被爆直後、女学生たちは、親の顔も浮かんでこないほど必死で被爆者の治療に当たられていました。国のために教育され職場でいつでも死ぬ覚悟ができた様子が記されています。

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 防空作戦室はこの写真の石垣の向こう側辺りにあります。

この写真を撮りながら、岡さんたちが原爆投下直後、壕の土手に駆け上がり、瓦礫の街と化した残酷な様子を目にしたとされる場所なのだろうかと勝手に想像しました。

当時は3班に分かれ90名近くが作業に従事されていました。本来は学業に専念できた女学生が、時の政治状況で戦争にかり出され、死と向き合わなければならない、これほど人の尊厳を無視した時代があってはなりません。

このようなことは現在でも似たようなケースがあり、朝鮮学校の無償化裁判で、子どもたちが本来の学業とは別に裁判で争わなければならない部分と重なります。

 広島城の天守閣は原爆の爆風で倒壊し、1958年に再建され今に至っています。現在では、耐震化の問題が浮上し鉄筋コンクリートでの建て替えに対し、木造建築で再建すべきという意見もあるようです。

私はそのことよりも、広島城に来られる観光客に、意外と知られていない軍都広島と被爆当時のこのような出来事の目を向け、学習の場として訪れていただきたいと思います。その意味では、先に全国の新聞社で紹介された2021年度ヒロシマ平和カレンダー「軍都だった廣島」の購入を希望される関東、東北の方々が多くおられることに嬉しく思いました。

なぜ広島に原爆が投下されたのか、広島が軍都として果たしてきた役割と加害の部分を知ってほしいと思います。

安佐南区 輝き

<編集後記>20日の「学徒動員と原爆被爆その2-鳥取県の動員実態」で、「その3」は24日に紹介すると告知していましたが、沢山の原稿が届きましたので、3月2日に延期しました。

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2021年2月21日 (日)

世界における広島の役割 ――広島市の平和推進条例は世界の期待に応える義務があります――

世界における広島の役割

――広島市の平和推進条例は世界の期待に応える義務があります――

 

広島市議会が検討している「広島市平和の推進に関する条例(仮称)」について、216日の本欄では、15日に原水禁が市議会議長に提出した「意見と要望」を全文掲載しました。またその際に口頭で行った補足の要望や議長の反応等については、217日に金子代表委員からの報告がありました。

 念のため、意見募集についての市議会サイトのURLを貼り付けます。条例の素案は、そこから入ることができます。

 https://www.city.hiroshima.lg.jp/site/gikai/199719.html

 今回は改めて、世界という舞台上で「広島市平和の推進に関する条例(仮称)」がどんな役割を果すのか、特に世界からどのような期待を持たれているのかという視点からこの条例素案を取り上げたいと思います。厳しい内容になりますが、それは、世界において広島の占める重要性の反映ですので、御理解頂ければと思います。

まず、女性蔑視発言で世界中から批判された、森喜朗元組織委員会会長の発言を考えましょう。この発言が世界的に注目されたのは、オリンピックが世界的に重要なイベントだからですし、東京開催も同様に関心の的になっているからです。仮にこの発言が、日本国内でもあまり名の知られていない、保守的で小さな町のボランティア団体会長の発言だったとすれば、その町で良く読ませている地方紙でさえ、報道しなかったのではないでしょうか。

 広島が世界的な存在であることは、例えば、広島への原爆投下が、AP通信社による「20世紀の最大のニュース100選」のトップとして選ばれていることからも分ります。仮にオリンピックと比べたとして、広島が同じくらい、あるいはそれ以上の位置付けになる可能性は、クロアチアのビオグラード・ナ・モルという都市の市民たちが広島に寄せる思いだけからも容易に推測できます。

 

(以下、『ヒロシマ市長』(秋葉忠利著・朝日新聞出版)131ページから引用)

 「ここでは、もう一つの(平和市長会議)副会長都市、クロアチアのビオグラード・ナ・モル市のユニークな活動だけ取り上げておきたい。「海に面した白い町」という意味の美しい街で、人口は約六〇〇〇人。古くから、アドリア海に面した観光地として知られているが、クロアチア紛争の際には、セルビア軍による攻撃でかなりの被害をこうむった。その体験から、戦争を繰り返さないこと、とくに核兵器の廃絶のためには熱心な都市になった。「観光」と「平和」が自然に結びついたよい例だろう。広島や長崎についてもいろいろと勉強し、中でも「原爆の子の像」のモデルとなった佐々木禎子さんと折り鶴の物語に、多くの子どもたちが感動したそうだ。この気持を表現するためにビオグラード・ナ・モル市のイヴァン・クネッツ市長は、折り鶴の碑を建てることにした。鉄製の五メートルほどの美しい碑である。

その除幕式では、市内のすべての子どもたちが折った折り鶴をこの碑の前に捧げることを計画した。子どもたちに鶴の折り方を教えたのは学校の先生だが、子どもたちは家に帰ってからも鶴を折る練習をしたらしい。子どもたちの練習を助けるためにお父さんやお母さんたちも鶴の折り方を習った。その結果、ビオグラード・ナ・モル市のすべての市民が鶴を折れるようになった。そう報告してくれたのは同市の国際・平和担当のヤスミンカ・バリョさんだった。」

 

一つの都市の子どもたち、その気持ちを汲んだ市長、学校の先生、そして保護者達全市民を巻き込んだこのような活動を可能にする力を「広島」は持っているのです。比較することが適切ではないかもしれませんが、オリンピックを凌駕していると考えることも可能なのではないでしょうか。

 ですから、ビオグラード・ナ・モル市の市民は広島市の「平和推進条例」に高い関心を持つはずです。それだけではなく、今や加盟都市が1万に近付いている平和首長会議の他のメンバー都市やその市民たちも同じように注目するでしょう。

 一例を挙げると、アメリカのマサチューセッツ州ケンブリッジ市には、予算を付けた「平和委員会」があります。元々は、「核軍縮と平和教育のための委員会」でしたが、発展的に今の名前になりました。この委員会は、具体的な活動内容まで条例で決め、市民ボランティアから委員が選ばれています。そしてこの委員会の人事については市長にアドバイスをすること、逆に諮問を受けることなども仕事の一部になっています。世界的には他の都市でも同じような条例を作っていますので、広島の条例に対する関心は非常に高いはずです。

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ケンブリッジ市平和委員会の行事の一つ

 なぜならこの条例は、被爆後の75年以上の歴史の中で「世界の広島」において初めて作られる「平和推進」についての条例だからです。文書化されることに注目すると、文書として広島市が公式にまとめている、毎年86日の「平和宣言」の総まとめとしての役割を果すことになります。70年以上の「平和宣言」には、被爆者や市民、そして広島に心を寄せる世界中の人々の思いが込められています。その全てを条例の中に詳しく再現することは不可能ですが、その理想や精神は、条例の前文として格調高く述べられてしかるべきなのではないでしょうか。

 さらに重要なのは、「平和宣言」の持つ意味が如何に大きいものだったにしろ、「平和宣言」には法的拘束力がないという点です。森発言も法的拘束力を持たない、組織委員会の一人の役員の言葉です。仮に法的拘束力を持つ文書に、同じ内容が盛り込まれていたとしたら、その意味は全く異なっていたはずです。

この観点からも、「広島市平和の推進に関する条例(仮称)」の素案を考える必要があるのではないでしょうか。まず、「広島市平和の推進に関する条例(仮称)」では、原水禁の「意見と要望」が指摘しているように、中心になっているのが、市民が行政に協力する義務と、表現の自由に抵触する可能性の高い「厳粛」つまり「自粛」なのです。

 条例素案の欠陥を是正するだけではなく、人類史的な立場、世界的立場からもお手本にしたいと言われるような内容にできないものでしょうか。全市民は勿論のこと、詩人や文学者も含めて、平和と広島に関心を持つ広島以外の識者や市民にも加わって貰うことで、「お手本」を作ることは今からでも遅くはないはずです。

[2021/2/21 イライザ]

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2021年2月20日 (土)

学徒動員と原爆被爆その2-鳥取県の動員実態

島根県から呉の海軍工廠への動員実態が、ほぼ把握できたことから、次に調べてみようと思ったのは、「呉海軍工廠への学徒動員の実態はどうだったのか」ということです。

島根県の実態が、島根県立図書館の協力で明らかになりましたので、全体像を調べるため広島県立図書館を訪ねました。いろいろな資料をあたっていただいたのですが、学徒動員で呉海軍工廠へ動員された学校や生徒数に関する全体像を示す資料を見つけることはできませんでした。後日のことになりますが、別の件で原爆資料館の資料室を訪ねた時、「ひょっとすると呉にある大和ミュージアムにあるかもしれないですね」とアドバイスを受け、大和ミュージアムに問い合わせたのですが、「当館には動員数についての資料は所蔵しておりません。」との返事が返ってきました。重ねて「学徒動員に関する資料はどんなものがありますか」と問い合わせたところ、「呉海軍工廠への動員に関する資料は、当館では学徒動員の様子を描いた絵画や、手記、当時使用していた鉢巻きがございます。」とのメールが送られてきました。呉市の市史編さん室にも問い合わせましたが、「動員の受け手である呉海軍工廠側の記録は所蔵していません。」との回答でした。学徒動員の実態は、当然記録されていたはずですが、結局、呉海軍工廠に学徒動員された人たちの記録は現存しないということです。終戦時、軍は大量の文書類を焼却したといわれていますので、その中に含まれていたとしか考えられません。「記録が残されていない」ことに疑問を感じますが、今日はこのことが主題ではありませんので、先に進みます。

県立図書館を訪れた時のことに戻ります。ここでも、全体像を示す資料は見つかりませんでしたが、一つの貴重な資料に出会うことが出来ました。その資料には、「鳥取県の動員実態」が書かれていました。

資料は「『4人の‟勤労動員学徒“日記』~呉海軍工廠・広海軍工廠から」のタイトルが付けられ、発行者として「鳥取敬愛高等学校社会部」と書かれています。

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鳥取敬愛高校は、鳥取市内にある私立の高等学校です。このパンフレットは、鳥取敬愛高校社会部の平成19年(2007年)の活動報告が、A4判で130ページ余りにまとめられています。主な内容は、4人(うち2人は呉海軍工廠へ、残りの2人は広海軍工廠へ)の学徒動員日記とそれをもとに調査して明らかになったことです。

豊富な内容ですが、その終わりの方に鳥取県から呉海軍工廠に派遣された学徒動員の人数が書かれています。それは、昭和19年(1944年)9月21日付日本海新聞の記事を書き写したしたもので「学園挙げて勤労動員 広島県へ二千余名出動」(原文は、旧漢字)とのタイトルで、広島県に動員される学校ごとの人数が書かれています。17の学校名と学校ごとに人数が書かれおり、合計すると2400名になります。この人数は、島根県の人数を上回っていますが、その理由は定かではありませんが、島根の今市高等女学校に陸軍被服支廠の学校工場ができたことなどが原因だったのでしょうか。それにしても島根、鳥取の両県あわせると4000名を超えることになります。びっくりする人数です。また、この新聞記事には、「県内出動」として県内に動員された学校名とそれぞれの人数も記載されています。こちらは、12校3473人となっています。両方に名前がある学校が6校あります。

鳥取敬愛高等学校の前身は、「鳥取高等家政女学校」ですが、この学校からは、呉に338名が動員されていますが、このパンフレットで取り上げているのは、別の学校・米子工業学校の動員者です。自分の学校のことは、前年に調査しているようですが、その資料は、県立図書館には存在しませんでしたので、どん内容か確認することが出来ませんでしたので、後日学校に電話をかけて問い合わせました。

このパンフレットに引用された日本海新聞の記事で、鳥取県からの学徒動員の実態を把握することが出来ましたが、パンフレットには、もう一つ「米子工業学校生の入市被爆」に関する貴重な調査報告が記されていました。

その内容は、電話でお聞きしたことや他の被爆体験記と共に次回(24日)紹介することにします。最後に、このパンフレットの「おわりに」に書かれていた次の文章を紹介し、今日の報告を終わります。

「鳥取県からは大勢の学徒が動員されたにもかかわらず、鳥取県にも呉市にも資料が残っていません。終戦直後に軍関係に資料が焼却処分されたからです。」

いのちとうとし

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2021年2月19日 (金)

学徒動員と原爆被爆その1-島根県の動員実態

島根県から呉に学徒動員され被爆した人たちのことを詳しく知りたいと思い、島根県立図書館に「島根学徒報国隊の動員の全体状況を記したものはないですか」と調査依頼をしました。数日後、詳しい情報を記したメールが返ってきました。一つにまとめられた資料はなく、当時の新聞や各学校の「学校史」等を丹念に調べていただいたことがわかります。島根県立図書館から提供を受けた情報をもとに、「島根学徒報国隊」について紹介します。

島根県でも、1944年(昭和19年)118日に出された「緊急学徒勤労動員方策要綱」、同年2月25日の「決戦非常措置要綱」により、県下の各旧制中学校・高等女学校から、県内外の工場に生徒が動員されました。そのうち、呉市の海軍工廠に派遣された生徒たちを「島根学徒報国隊」と呼んでいたようです。呉への動員が決まったのは、1944年(昭和19年)927日の中等学校校長会議です。そして、島根を出発したのは、それからわずか一週間後の10月5日と7日に分かれて出発しています。決定から派遣まで、非常に短期間ですので、生徒や家族にとって、準備などが大変だったことが想像できます。出発時の任期は、翌年1945年2月末までとなっていましたが、実際には多くの生徒が、終戦時まで呉に動員されたままだったようです。

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呉海軍工廠廣支廠

「松江北高等学校百年史」には、出発時の様子が「出雲部の動員学徒は一〇月五日夜、伯備線経由の臨時列車で、県外通年動員学徒の第一陣として呉方面に向った」「松江中学四年生の学徒報国隊は、呉市広町の第一一海軍航空廠に配属を割当られた」と記載されています。

問題は、島根から何人が動員されたかということです。「『島根新聞』昭和199292面」には、「島根学徒報国隊」の各学校から派遣された生徒数が記載されています。それによれば、松江、隠岐、そして津和野までの全県の13校から約1500人の生徒が動員されたことがわかります。私が以前このブログに書いた大社中学校からも130人が動員されています。

ところが、この13校の中には、島根県からの学徒動員のことを調べるきっかけとなった「益田高等女学校」の名前が入っていません。派遣時期が異なっていたのかもしれません。改めて、島根県立図書館に「益田高等女学校のことの記録はありませんか」と問い合わせたところ、「益田高等学校百年史」に次のような記載がありましたと回答がありました。「『四年生は二クラスで一一三名、(中略)残り約一〇〇人が島根学徒報国隊として呉に向かった。引率は交代で五名の教師が当たっている。(中略)動員期間は『県の指令では三ヶ月となっていたが、実際は五ヶ月以上』に及んだし、卒業後も「女子挺身隊」として勤め続けたようである。」

島県立図書館からの情報によれば、島根新聞に記載された学校以外に、益田高等女学校だけでなく今市裁縫女学校や島根師範学校の高史に「呉への学徒動員があった」ことの記載があるようです。このことから、島根県から1600人を超える生徒たちが、「島根学徒報国隊」の名によって、呉市の海軍工廠には動員されていたことが確認できました。

次に知りたいこと(最も知りたいことですが)は、この「島根学徒報国隊」の生徒たちのうち何人が被爆したのかという被爆者の問題です。

島根新聞によれば、この学徒動員の対象学年は、4年生だったと書かれています。当時の旧制中学(旧制中学校、高等女学校、実業高校)は、5年生だったようですので、任期となっていた翌年(1945年)2月を過ぎても、そのまま動員が続いたことが想像できます。ただ島根県立図書館のメールには、「出雲商業高校史」によればということで「著者は昭和20620日に出雲へ帰っており、呉空襲や原爆について詳しいことは書かれていません。」という情報も記載されていましたので、動員されていた全生徒が、終戦の日まで呉で作業に従事していたかどうかは、はっきりしません。終戦時に何人の学徒動員の生徒が、呉海軍工廠に残っていたのかの資料をさがしているのですが、まだ見つけることが出来ていません。

しかし、後日紹介する「被爆体験記」によれば多くの生徒たちが、呉で終戦を迎え、広島駅を経由した帰郷したことがわかります。やはり、これが島根県に入市被爆者が多い原因だと思われます。

呉の海軍工廠への学徒動員の実態を調べていると、隣の鳥取県からも学徒動員によって多くの生徒が、呉に動員されていることがわかりました。明日は、その実態を紹介します。

いのちとうとし

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2021年2月14日 (日)

善応寺(ぜんのうじ)

鳥居とお寺の関係が気になり、翌日(7日)再び善応寺を訪ねました。

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私が訪ねた時、運よく和尚(おしょう)さん(臨済宗の呼び方)が帰ってこられたところでした。「本堂の中を見せていただくことはできませんか」とお願いしたところ、「鍵を持ってきますからちょっと待ってください」と、こころよく本堂に入らせていただきました。

本堂に入ると、鳥居とお寺の謎が解けました。本堂の中、右側には御本尊の十一面観世音菩薩像、左側には稲荷大明神が並んでお祀りされていました。

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お寺の本堂に入って、初めて体験する形式です。江戸時代には、神仏融合のお寺が多くあったと聞いていましたが、明治初期の「神仏分離」「廃仏毀釈」運動によって、こうしたお寺は無くなったと思っていましたので、ちょっとびっくりです。

ここで善応寺(善能寺)について、「新広島八十八カ所霊場巡拝のご案内」のホームページを引用しながら紹介したいと思います。「如意山善応寺」は、臨済宗のお寺で、新広島八十八カ所霊場巡拝第71番の札所になっています。慶長九年(1609年)福島正則の信仰によって「禅応寺」の名前で開山しました。その後寛政十年(1798年)に、伏見稲荷大社の分霊によって、鍛冶稲荷神社が祀られました。そして寺名が善応寺と改名されました。明治初期の「神仏分離」「廃仏毀釈」運動と無住時代が続いたため、廃寺同然になったようですが、昭和10年(1935年)に新しい和尚さんを迎え再建されましたが、10年後に原爆にあい、本堂は壊滅、和尚さんも爆死されました。戦後は、昭和24年(1949年)頃から再建の話が起こり、昭和27年(1952年)7月に再建されました。鍛冶稲荷神社があったために、その関係者の尽力が大きく、いち早く本堂が再建されたといわれています。

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もう一度本堂内の様子に戻ります。左側の稲荷大明神側の上に、額に入れた古文書が架けられています。全文を解読することはとてもできないのですが、寛政10年に出された「鍛冶大明神安鎮」の許可状のだということがわかります。先に紹介した年号がこれで証明できます。本堂内の稲荷大明神側には、御幣を掲げた祭壇があり、その奥には、ガラス戸があるだけで、ご神体らしきものは見当たりません。しかし、このガラス戸の裏、本堂の外に稲荷神社の社が建っていますので、ご神体はそこにまつられているようです。祭礼の際には、このガラス窓が明けられるのだと思います。本堂を出て裏側に廻って撮った写真です。

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本堂では、もう一つ大切なものを目にしました。本堂内右側壁には、毎年12月8日に行われる吹子(ふいご)祭の写真が架けられていますが、それに並んで少し古い町内会の集合写真がかかっています。

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写真には手書きで「皇紀二千六百一年 謹賀新年 左官町婦人常会創立」と書かれ、かっぽう着姿の女性たちが60名余りが映っています。最前列には、子どもの姿もあり、前列には男性の姿もあります。皇紀二千六百一年は、西暦では1941年ですから、広島に原爆が投下される4年8カ月前の貴重な写真です。どういう経過をたどってこの写真が残っていたのか、これも知りたいことです。と同時に、この写真を見ながら、「ここに映っている人は、全て左官町町内会の人たち。このうち何人の人が、原爆の犠牲にならずに生き残ることができたのだろうか」ということを考えました。その一方で、「このうちの何人のお名前が、犠牲者芳名に刻まれているだろうかと」いうことも気になりました。できる事なら写真の一人ひとりのお名前を調べ、犠牲者芳名と照合することが出来ればと強く思います。本堂の中に入れていただいたおかげで、貴重な写真に巡り合うことができました。

こんなことを考えながら、一つ気になることができました。それは、昨日紹介した「原爆供養塔」の建立が1951年であるのに、このお寺の再建は、1952年となっていることです。既にお寺の再建が決まっていたため、「原爆供養塔」が、その前の年に建立されたのでしょうか。このあたり事情を和尚さんに聞いたのですが「私は生まれた頃のことですので、わからないのですよ」との返事でした。「左官町婦人常会」の写真のことも同じ返事でした。残念ながら詳しいことを知ることはできませんでした。

昨日紹介できなかったのですが、善応寺は、被爆時にこの地にあったお寺ですので、境内には被爆した墓石などが沢山あります。「鍛冶稲荷神社」の額がかかった鳥居も「明治3510月」の文字が刻まれていますので被爆しています。

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墓石などは、「原爆供養塔」から左側に塀に沿うようにしてずらっと並んでいます。途中で折れたと思われるもの、台は欠け、「石ハネ現象」の墓もあります。

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善応寺は、原爆遺構や慰霊碑を紹介した本でも、掲載されていないものが多くありますが、一度はぜひ訪ねてほしい場所だと思いました

いのちとうとし

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2021年2月13日 (土)

左官町周辺縁故者原爆精霊供養塔

今月6日(土)、土橋方面に出かけた帰り道、電車通りより1本南側の通りを歩きながら紙屋町へ移動しました。しばらく歩いて本川小学校の手前まで来た時、道路の左側に立つ赤い鳥居が目に入りました。「こんなところに神社があったかな」と思いながら、境内に入りました。鳥居の奥には、しめ縄が架けられて善応寺の本堂があります。善応寺については明日のブログで詳しく紹介しますが、今日は、この善応寺の境内で見つけた「原爆精霊供養塔」の話です。

境内の右手(境内の東側)に、「原爆供養塔」と刻まれた御影石の碑が建っています。

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碑の右側面には、「為7回忌追善菩提 昭和26年8月6日建立」と刻まれていますので、この碑が1951年に建立されたことがわかります。被爆6周年の8月6日ですので、原爆の慰霊碑としては、早い時期の建立と言えます。左右には、原爆犠牲者269名の名が刻み込まれた銘板があります。右側の銘板の右端には、「左官町周辺並縁故者原爆犠牲者御芳名」と刻まれていますので、この碑を紹介した本には「左官町周辺縁故者原爆精霊供養塔」の名で紹介され、碑建立の経緯を「被災後帰町した人や縁故の人たちが、せめて亡くなった人たちを弔いたいという気持ちから浄財を出し合った。貧しい懐からの支出である」(宅和純著「ヒロシマの碑」1996年刊)「一切のものを失った町民には資金は負担で、集まった金を少しずつ何回にも分けて支払ったという」(黒川万千代編「原爆の碑 広島の心」1982年刊)と書かいています。

今は「左官町」という地名はありませんので、まず左官町に位置を紹介します。見えにくいかもしれませんが、下図で赤い四角で囲っています。

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本川小学校のすぐ西側で、現在の中区本川1丁目の電車通りから2本南側の通り、西側は十日市交差点の1本東側の通りまでの区域になります。碑を紹介した本にでは、善応寺の位置を「爆心地から西へ約200メートル」と紹介していますが、実際には「西へ約500メートル」の位置です。左官町の西端までは、約670メートルあります。

左官町の原爆被害状況を知るため「広島原爆戦災誌2」を調べてみました。「第4節 本川地区」に記載された15の町内会の一つです。被爆直前の建物戸数、世帯数、住民数は、本川地区の合計数だけで、町内会毎の数は記載されていませんので、左官町にどれぐらいの人が住んでいたのかは、不明です。ただ、その後に記載された町ごとの被害状況によれば、左官町は、「家屋被害 全壊約99% 半壊8% 人的被害 即死者約91% 負傷者 約4% 無傷の者 約5%」の被害があったことがわかります。ほぼ壊滅的と言って被害状況です。

「原爆供養塔」の左右の銘板に刻まれた原爆犠牲者269名の名前をたどっていくと、いくつか解明しなければと思うことが出てきます。

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一つは、この名前が刻まれたのは何時かということです。もし「原爆供養塔」の建立と同時に銘板も作られたとしたら、まだ混乱していたであろうと想像できる被爆6年後のこの時期に、これだけの犠牲者の名前をどうやって調べることができたのだろうかということです。もともとの住民数が不明なのですから、269人が多いのか少ないのか分からないので、評価するのは難しいことですが、爆心地から500~700メートルという近距離で壊滅的被害を受けた地区ですので、余計にそれを感じます。ただ丹念な調査が行われただろうということは「東組」「西組」など組ごとに名前が整理されていることからもわかります。

原爆戦災誌を読むと、戦後の復興期にこの地に移りすんだ人は、必ずしも旧住民だけだったのではないことがわかりますから、余計にそう感じます。

二つ目は、刻まれた名前は、必ずしも住民の名前だけではないことがわかります。だからでしょうか、不思議な記載があります。例えば「水利工業所内」として7名の名前が刻まれています。この工場の関係者が生存されていたのでしょう。「西組」には、「原田清蔵方」として3名の名前の他に「他2名」(2かどうかははっきりしないが)という記載もあります。

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この「○○方」という記載は、他にも6件見つけることができます。その中には、「高木松次郎方」として3名の名前と「他店員5名」という記載もあります。さらに不思議なのは「信者」として10名の名前が刻まれていることです。何を意味しているのでしょうか。

左官町は東隣町の加治屋町と共に鉄工所が多かったといわれていますので、住民以外にも工場で働いていた人にも多くの犠牲があったと思われます。「他○○名」は、工場などで働いていた人たちのような気がします。だからこの碑に「周辺縁故者」という文字が刻まれたのでしょうか。

もう少し詳しく調べてみたい気になります。

「原爆精霊供養塔」では、今も8月6日には慰霊祭が続いているそうです。それを証明するように「令和2年8月6日」と書かれた卒塔婆が、立てかけられていました。

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明日は、善応寺のことを中心にもう少し話を続けたいと思います。

いのちとうとし

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