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旅行・地域

2020年3月22日 (日)

「赤レンガ倉庫は語り継ぐ―旧広島陸軍被服支廠被爆証言集―」

今日は、一昨日引用した「旧被服支廠の保全を願う懇談会」が発刊した「赤レンガ倉庫は語り継ぐ―旧広島陸軍被服支廠被爆証言集―」を紹介したいと思います。

昨年12月に広島県が「被服支廠の1棟保存、2棟解体」の方針を明らかにして以来、陸軍被服支廠への関心が高まり、保存を求める声が大きくなりました。まさに時宜を得た発刊になりましたが、読んでみるとかなり以前から準備されていたことが分かります。

本は、同懇談会の中西巌代表の「はじめに」につづき「第1部 一人一人の『倉庫も記録』」で、「被爆証言」が載っています。峠三吉の「倉庫の記録」とともに、有名な「峠三吉日記」も8月4日から糸崎の日赤病院に入院する8月20日までの全文が掲載されています。この日記で峠三吉は、近所の河内さんの従妹を探して被服廠のコンクリート大倉庫(日記中の表現)にたどり着き、構内で見たすさまじい光景を8月8日の日記に詳しく書いています。「心を定めて収容所たる会場に足を踏み入れたる時の光景は終生忘れ得ず、また忘るべからざるものなりき」と。

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第2部は、「甦る旧広島陸軍被服支廠」です。一昨日広島第一県女とのかかわりとして少し紹介しましたが、被爆前の「被服支廠」の様子が詳しく掲載されています。その中には、建築家橋本秀夫さんが「被服支廠」についてまとめられた「建物詳細」「関連業者」などの貴重な資料が掲載されています。元となった「橋本秀夫の仕事ぶり : 建築家橋本秀夫遺稿集」が、市立図書館にあることが分かりました。しかし3月29日までサービスが休止され、予約以外の本は貸し出しができないということですので、すぐに貸し出しができません。とりあえず予約を入れておきまし。た。

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橋本秀夫さんが作図された被服支廠構内図

この第2部には、この他にも以前紹介した被爆者切明千枝子さんが、「自らが被服支廠内の保育所に通ったこと」など近所に住んでいて体験した思い出を克明につづっています。

昨年12月に広島県の方針が発表されて以降、様々な動きや声が上がりましたが、その中で「被爆の歴史」と共に、これまではあまり聞くことがなかった「加害の歴史」という言葉が、多くの人から指摘されるようになりました。この第2部は、「加害の歴史」を考えることになる構成となっています。

第3部は、資料編です。ここには、2013年12月に「旧被服支廠の保全を願う懇談会」発足に向けた初めての講演会が開催されて以降の取り組みや経過が「活動報告」として詳細に記載されています。同懇談会が早くから「被服支廠保存」のために活動されていたことが分かります。その他にも「被服支廠年表」や1992年以降の「旧被服支廠赤レンガ倉庫」を巡る広島市や広島県の動向もきちんとまとめられています。

この本には、古い写真(戦前という意味だけでなく、戦後の貴重なものも)が、ふんだんに使われていますので、それを見ることができるという意味でも貴重な資料です。

多くの人に読んでほしい本ですが、会員配布とのことですので、手に入れようと思えが、会員になる必要があります。

最後に「おわりにかえて 地味な建物だからこそ」を書かれた山野上純夫さんのことについてもう一度触れたいと思います。この文章の中では、山野上さんと被服支廠の関係について「昭和19年6月から20年1月までの半年間、旧制中学校の3年生だった私は、戦時下の通年動員として『広島陸軍被服支廠』の輸送班箱打勤務した」と赤レンガ倉庫で働いた時の様子を記載されています。「1月以降は?」と疑問が湧きます。その答えが、「ふるさと暦」に書かれています。その1月に「戦争に勝つためには科学教育の振興が必要」として全国の3つ(東京、金沢、広島)の高等師範学校付属中学校に特別科学許育研究学校(略称・科学学級)が新設され、山野上さんはその学級の一人に選ばれ、広島高等師範学校付属中学校(現在の広大跡にあった)に戻り、そこで被爆することになります。学業を放棄させられて動員作業に行くのも、学校に戻るのも「すべて戦争のため」に進められたことがわかります。

それが戦争だということを痛感させられます。

いのちとうとし

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2020年3月19日 (木)

原爆犠牲者 追憶之碑 廣島第一縣女

広島市議会予算特別委員会傍聴記-その2に掲載した「原爆犠牲者 追憶之碑 廣島第一縣女」がなぜここに建っているのかを調べてみました。

碑の前にある「説明板」を紹介します。

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原爆犠牲者 追憶之碑 廣島第一縣女

 広島県立高等女学校は1901(明治34)年に設立を許可され、1902(明治35)年旧下中町のこの地に開校されました。1941(昭和16)年広島県立第一高等女学校(略称広島第一県女)と改称されました。現在は広島県立皆実高等高校です。

1945(昭和20)年8月6日の[米軍による]原爆投下によって爆心地から600mにあった校舎は倒壊焼失し301名(教職員20名、学徒動員で建物疎開作業に従事していた1年生223名を含む生徒281名)の尊い命が犠牲となりました。

被爆10年の1955(昭和30)年に御霊を慰めるため「広島第一県女原爆犠牲者追憶之碑」が当時の職員・遺族・同窓生によって建立されました。この碑には県女の校章と哀悼歌の一節が刻まれています。石柱は被爆した門柱の内の一本です。ハート型の千羽鶴掛けは県女の校章をもとにしています。

御霊に哀悼を捧げ、悠久の平和を祈ります。

被爆70年にあたり改修再整備 2015(平成27)年8月 

広島県立皆実高等学校、同窓会南有朋会


 私の頭の中には、広島第一県女の生徒が学徒動員による建物疎開で犠牲になった土橋付近がという地名があったものですから、「なぜこの地に?」という疑問があったのですが、この説明版をきちんと読めばすぐにわかることでした。この場所に、学校があったのです。同窓会が作成したアーカイブス(同会のホームページから見ることができます)には、「県女跡地」が、上空から移した現地の写真に枠囲いで示されています。残念ながら許可を得ていませんので、それを使用することはできません。現在の中町で、南北は平和大通りの車道の中心からクリスタルビルの裏通りまで、東西はクリスタルビルの西端から三井ガーデンホテルの西側までです。広い範囲です。

当時の学校の配置図によれば、正門は東側にあります。少し位置は違うかもしれませんが、正門跡付近に「追憶之碑」が建てられたようです。当時の門柱もモニュメントとして残されています。門柱の前の石には「この位置は、旧廣島第一縣女の正門付近に当りこの石柱は原爆当時の門柱4本の中の一である」と説明文が刻まれています。

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これを読めば「原爆犠牲者 追憶之碑 廣島第一懸女」にとって、ここがいかに大切な場所であり、ここでなければならなかった意味が理解できます。

同窓会事務局に問い合わせの電話をかけた時、「平和大通りのにぎわいづくり」について少し話したのですが、「えっ」と少しびっくりされたような反応でした。

その他にも、説明板によって、いくつかのことを知ることができました。

その一つが、犠牲者数です。碑の後ろ側には、犠牲者の名前が刻み込まれた銘板があります。「追悼之碑」の左側には「昭和20年8月6日遭難 職員校長共20名 生徒277名及同窓生」と、犠牲者が297名だったことが刻まれています。ところが、2015年の改修再整備時に設置された説明版には、「301名(教職員20名、生徒281名)」と記されています。どういう経過で、4名(いずれも生徒)の新しい名前が明らかになったのか、その事情が知りたくなります。いつか同窓会事務所を訪ねて調べてみたいと思います。

二つ目は「哀悼歌」です。「一節が刻まれています」とあり、「追憶之碑」の裏側に刻まれています。

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この「哀悼歌」は、一周忌に向けて「原爆犠牲者への哀惜と鎮魂の祈り」をこめて作ることになり、全校生徒から募集し、3年生の岸谷敞子(44期)の詩が選ばれ、岡本真 一郎教諭が作曲され「一周忌にあたる1946(昭和21)年8月6日、一周忌の法会で霊前に捧げた。」そうです。この碑に刻まれているのは歌詞の3番です。

三つめは、門柱です。説明版には、当時の正門前の写真が付けてあります。

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現在モニュメントとして建っている門柱前の石に刻まれている説明どおり、4本の門柱が建っています。手前の門柱には「広島女子専門学校」と書かれています。同校は、1928(昭和3)年に設立されてから1935(昭和10)年に宇品に移転するまで、広島第一県女の校内にあったようです。当然のことですがモニュメントは、後ろ側の門柱が使われています。

そして「説明版」では触れられていませんが、広島第一県女の再建です。当初は、分散して授業が行われていたようですが、本格的な学校再開時(1946年1月)の授業場として陸軍被服支廠のレンガ倉庫が使われています。その後広島市の都市復興計画によって、校地の大部分が平和大通りになることになったため旧校地への復帰ができなくなり、旧陸軍被服支廠跡での学校再建となったようです。そして、友邦高等学校を経て、1949(昭和24)年、現在の県立広島皆実高等学校へと引き継がれました。陸軍被服支廠との深いつながりを感じました。

いのちとうとし

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2020年3月 8日 (日)

千田町一丁目町民慰霊碑・ふりかえりの塔

鷹野橋交差点の南側緑地帯に、1977年8月に千田町一丁目町内会のみなさんが建立された「千田町一丁目町民慰霊碑・ふりかえりの塔」が建っています。

「ふりかえりの塔」の周りは、町内会の皆さんのお世話だと思いますが、いつもきれいに整備され、先日訪れた時には、水仙のつぼみもが大きく膨らんでいました。

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訪ねたことのある方はご承知だと思いますが「ふりかえりの塔」の左側には碑文を刻んだ石が配置されています。少し長いのですが引用します。

「ピカ…ドン  崩れた家々は たき火のように燃え拡がり はりの下敷きとなって あちら、こちらで助けを求める悲痛な叫び 迫りくる日の海の前に 人の力は あせれど弱い  「逃げて早く逃げて…」と叫ぶ いとしい人の声もとだえた今 後ろ髪を引かれ 振り返ってはころび 火の粉を浴びながら また 振り返る 偲い残り あの日あの時を 再び繰り返してはならない」

わが家の近くですのでよく見かけていたのですが、改めて訪ねてみようと思ったきっかけがあります。それは、べつのことで調べたいことがあり、「『ヒロシマ・ナガサキを考える』の復刻版」(東京在住の詩人・石川逸子さんが1982年から2011年5月まで100号を発行)をめくっていたところ、46号(1993年発行)に掲載された「兵隊たちが歩いた町」と題する西本宗一(むねはる)さんの被爆体験記が目に留まったからです。

西本さんが当時住んでいたのは千田町一丁目で、広島高等師範学校付属中学校の正門前(現在の旧広大跡地にある正門)だったそうです。「電車道のすぐそばで、夜になるとその電車道をよく戦車隊、自動車隊、騎兵隊、軍靴の音高く歩兵隊らが軍歌を歌いながら宇品に向けて行進し、宇品港からアジア各地に出港していました。軍刀を下げた将校に敬礼して、返礼してもらっては得意がるような子ども時代でした。とにかく兵隊の姿が目立つ町でした。」当時の軍都廣島の様子が浮かびます。

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この後、西本さんの証言は被爆体験へと移ります。家族は5人。原爆の爆風によって倒れた家の下敷きに。「母は全身、血に染まっていました。姉の頭は見えました。がれきの中に閉じ込められていて、・・・いくら呼びかけても反応がありません。」通りすがりの学生や消防団なども助けようとしてくれたのですが「これはだめだ、と言って立ち去りました。」「母は血を流しながら放心したみたいに座込んでいました。やがて風が強くなって、日が迫り、火の粉が飛んできます。熱いんです。私は、逃げようと母に言いました。日赤病院に逃げるということは、日頃よく教えられていましたから、私は母の手をひぱって、日赤病院の地下室に逃げました。途中のことは何も覚えておりませんが、母が何度も立ち止まり、振り返っては手を合わせていた姿だけは鮮明に覚えています。私と助け出せない姉・妹の間で母はつらかっただろうと思います。」

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このあと、西本さんは「『ふりかえりの塔」の碑文」を紹介し、「今年(1992年)の夏、初めてその碑文を私は見たのですが、千田町一丁目にはわが家と同じような体験をした人がたくさんいることを、改めて知りました。」

西本さんの証言は、その後被爆体験だけでなく戦争の告発と続きます。全文紹介したいのですが、今日はここで終わりにします。広島中央図書館も所蔵していますので、関心のある人はぜひそちらで読んでみてください。

「ふりかえりの塔」はこれまでも何度も訪れ、その度に「碑文」を目にしていましたが、西本宗一さんの被爆体験記を読んだ後で訪れた今回は、その時の情景を具体的に想像することができるとともに、碑を建立した人たちの決して忘れることのできないあの日への思いを知ることができました。

いのちとうとし

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2020年3月 6日 (金)

縮景園のこも外し―啓蟄の日

二十四節気の一つ「啓蟄」の昨日(5日)、縮景園では風物詩となっている「松のこも外し」が行われました。

先月縮景園を訪れた時、庭師さんからこの日午前9時から「こも外し」が始まることを教わっていましたので、ちょっと寒さを感じる朝になりましたが、私も自転車に乗って駆け付けました。午前9時ちょうどに、正門が開き入園です。中に入るとすでにマスコミ各社のカメラがスタンバイしています。

開園を待っていたかのように5人の庭師さんの手によって、入口に近い松から手際よくこも外しが始まりました。

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ドンドンと作業が進みます。外し終ったこもは、足元に丁寧にたたんで置かれます。以前は、外したこもの中に毛虫がいたこともあったようですが、最近は防虫剤での駆除も進み、こもの中に「クモを見ること」がほんのたまにいるぐらいで、他の虫を見ることは全くないようです。

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それを別の庭師さんが、リヤカーで集めて回ります。

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ここでも庭師さんに尋ねました。「どこで焼くのですか?」「ずっと以前は、ここで焼いたのですが、今は市の焼却場に運んでそこで焼きます」とのこと。

今回外されたこもは、昨年秋の「霜降の日」(10月24日)に行われた「こも巻き」で巻かれたものです。

私がどうしても写真に撮りたかった松が二本ありました。一本は、縮景園の一番奥の小山にある「原爆慰霊碑」横の松。早めに移動し、待っていました。

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二本目は、広島市の被爆樹木リストの登録されている被爆した松のこも外しです。慰霊碑からすぐ近くですので、急いで移動しました。着くとすぐに別の庭師さんの手で作業が始まりました。

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「この松は大きいですね」と声をかけると「縮景園の松の中では一番の大木です。」との答え。この松は、園路から少し高いところに植わっていますので、「イチョウの木には、爆心地方向に傷がありますが、松はどうですか」と尋ねると「この松には傷のようなものは全くないですよ。元気に育っています。」と教えてくださいました。

私が関心を持った松には、マスコミのみなさんはまったく関心がなかったようで、カメラを向ける人は誰もいませんでした。

ちょうどこの松のこも外しが終わったころ午前10時になりました。「休憩」の声で庭師さんたちの作業が中断しました。「1時間で休憩ですか」と尋ねたら「私たちは、毎朝午前7時から庭の手入れを始めています。3時間たったので休憩ですよ」。こも外しの作業は、「開園を待って午前9時からスタート」したのです。私のこも外し見学は、ここで終わりにしましたが、せっかくですのでもう少し園内を巡ってみました。

満開ともいえる桜の木が見えます。先月見つけた「河津桜」とは違う桜で「大寒桜」という種類だそうです。

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花弁は、中輪での一重咲き、色は淡紅色です。やや下向きの花びらですが、きれいに咲いていました。

広島地方気象台が「桜の開花」を告げるための標準木のつぼみは、目を凝らしてよく見ると「つぼみの先っぽにピンク色が見えるかな」という感じで、まだまだ固く、もう少し開花には時間がかかるようです。

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2020年3月 3日 (火)

山口で春を見つける―大殿ひなさんぽ

今日、3月3日は「おひな祭り」です。山口で見つけた春の訪れとおひなさま巡りの話です。

義父の33回忌の法要を営むため山口に帰郷しました。法要は、3月1日の午前10時から、山口の古刹・龍福寺で営みました。15分余りの読経で法要は終りましたので、お墓参りの前に、お寺の周りで、春を探しました。

龍福寺は、弘治3年(1557年)に毛利隆元によって、陶氏の謀反によって自刃に追い込まれた大内義隆を供養するための菩提寺として、大内館跡に建立された寺です。

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国の重要文化財に指定されている本堂の屋根は、現在のお寺では珍しくなった檜皮葺の屋根。本堂前の庭には、ウメやツバキなどの花が咲いています。その中でひときわ色の濃い花が目につきます。緋寒桜です。

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お寺の方から「裏の墓地には、一本の木に白とピンクの花をつける梅の木がありますよ。」と教えていただき、墓地に足を運びます。2本あるようですが、直ぐ見つけることができました。その名も「源平梅」です。

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1360年頃、山口に居館を移した大内弘世は、京都を模して町づくりを行ったといわれています。今も神社や地名などにその面影が残っています。「八坂神社」「上竪小路」「「錦小路」などなど。龍福寺のすぐそばの「大殿大路」もその一つです。大内文化だけでなく明治維新の面影を残す町並みが続くこの通りを中心に2月15日から1か月間「大殿ひなさんぽ」のイベントが開催されています。少し回ってみることにしました。

この地域では、古民家を活用して若い人たちが、モノ作りを始めています。その一つ、着物リメイクを中心とするショップ兼アトリエ「アトリエa.p.r」のひな飾りです。ミシンが目を引きます。

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3月1日には、「ひなさんぽDay」としていろいろな企画が準備されていましたが、ここでも新型コロナウイルスの影響で、すべて中止となったそうです。龍福寺参道を使った「アトリエa.p.r」ファッションショーも予定されていたようです。参道の風景だけですが写真撮りました。

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実施されればよい雰囲気だったことが想像できます。

その後一の坂川まで足を延ばし、醤油屋などの軒先を眺めて歩きました。少し歩き疲れて、大殿大路の古民家を改造した和菓子屋さんに入り「ぜんざい」を食べました。甘さ控えめの美味しい「ぜんざい」でした。

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食べ終えて、お店を通り抜け裏口から外に出ました。そこは、龍福寺を取り囲むように作られた大内館の跡を残す公園になっています。ここには、戦後市営住宅が建っており、妻の実家もその一軒でした。発掘調査で現れた「石組溝」が展示されている場所が、ちょうどわが家がったと思われる場所です。

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今回巡り歩いたこの地域は、妻と義妹が子どものころ遊びまわった場所だったようです。二人には、懐かしい散歩となりました。

いのちとうとし

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2020年3月 2日 (月)

広島市のにぎわいづくりと平和大通り―その3 市民の声を大切に

先月28日に「平和大通りのにぎわいづくり」に関わる広島市の予算を紹介しましたが、今日は、そこから私なりに見えてきた疑問や問題点を考えます。

その第1は、「Park-PFI制度」という市民には耳慣れない言葉についてです。

「PFI」とは、「Private Finance Initiative:プライベート・ファイナンス・イニシアティブ」の略で、内閣府のホームページでは「公共施設等の建設、維持管理、運営等を民間の資金、経営能力及び技術的能力を活用して行う新しい手法です。」「PFIの導入により、国や地方公共団体の事業コストの削減、より質の高い公共サービスの提供を目指します。」としています。1997年に法が施行され、2000年代の初めの国会でも多用された言葉です。

予算書では、「Park」という言葉が加わっています。調べてみると「Park-PFI制度」は、国土交通省が定めた制度で「2017年(平成29年)の都市公園法改正により新たに設けられた、飲食店、売店等の公園利用者の利便の向上に資する公募対象公園施設の設置と、当該施設から生ずる収益を活用してその周辺の園路、広場等の一般の公園利用者が利用できる特定公園施設の整備・改修等を一体的に行う者を、公募により選定する『公募設置管理制度』のこと。」ということだそうです。

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広島市議会・経済観光環境委員会

 さらに国土交通省は、制度ができた背景として「公園施設の老朽化が進行し、その魅力を十分発揮できていない都市公園も散見されている。人口減少が進み、地方公共団体の財政制約等も深刻化する中で、公園施設を適切に更新し、都市公園の質を向上させること」と説明しています。本来の目的は、「公園の老朽化対策」だったようです。

ここで「平和大通りは、老朽化した公園?」「平和大通りに飲食店、売店を作るの?」という疑問がまず湧きます。

そして第2の疑問は、予算書がいう「道路となっている緑地部分を都市公園として位置付けるため、都市公園台帳を作成」し、道路を公園に変えるということです。道路である平和大通りをそんなに簡単に、公園に変えることができるのか。変えてよいのかということです。これは、疑問というより問題点といった方が良いと思います。

私なりの疑問点をとりあえず二つほどあげましたが、基本的には25日のブログで指摘したように「そもそも」という問題があります。もちろん「平和大通りを活用したにぎわいが必要」という意見もあると思います。ここで指摘しておきたいことは、考え方に違いがあるとき、これらの意見をどのように調和させるのか、そのためにどのように市民の声が反映されるのかということです。

この点に関して私には苦い体験があります。元安橋下流に移設された「カキ船」の問題です。計画が進められている段階では、全く市民に知らされておらず、私たちがこの移転計画の詳細を知ったのは、全ての手続きが終わり、計画が具体化した後でした。決定された後では、たとえその経過に問題があったとしても、どんなに市民が反対の声を上げても、計画を変えることはほとんど不可能です。ですから、基本計画を策定する段階から、市民の声を反映することができるシステムが絶対に必要です。

もう一つは、「平和行政」部門のかかわりです。これも「カキ船」問題を取り組んで分かったことがあります。「世界遺産原爆ドームのバッファゾーン」に関わる問題であったにもかかわらず、観光部門での論議が中心となり、市の平和担当のかかわりが非常に弱かったことということです。この経緯から予測されることは、「平和大通りのにぎわいづくり」も「観光の振興」事業として予算化されていますから、当然その「経済観光」担当が中心になって計画が進むことになるということです。25日のブログでも指摘しましたが、「平和大通り」は、平和の取り組みと深く結びついた場所です。計画策定の初めから、きちんと「平和担当」もかかわって進めることは当然のことのはずです。しかし「かき船」問題の経緯を考えると、果たしてそうなるのかと危惧せざるを得ません。

この問題は、これからがスタートです。このブログを読んで、一人でも多く関心を持っていただければと思います。

市議会が開催中です。26日に「経済観光環境委員会」が開催されましたので、傍聴に行きました。しかしこの日は、「補正予算」の審議する委員会でした。来年度予算は、今日から始まる予算特別委員会(全議員参加)で審議されます。10日、11日が「経済観光環境」関係となっていますので、もしこの問題が取り上げられるとすれば、この日になります。市議会の議論がどうなるのか注視したいと思います。

いのちとうとし

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2020年2月25日 (火)

広島市のにぎわいづくりと平和大通り

先日(20日)、NHK広島の午後6時10分から始まる「お好みワイド」を見ていて気になったことがありました。

番組は、広島市の来年度予算についての解説の2回目でした。「活力にあふれにぎわいのあるまちづくり」の解説でしたが、その中で八丁堀など中心街と共に「平和大通りのにぎわいづくり」が取り上げられていました。

私がそのニュースを見ていた違和感を持ったのは「平和大通りのにぎわいづくり」の解説の後に流れた、街頭での市民インタビューの内容です。きちんと覚えているわけではありませんので少し違うかもしれませんが、インタビューに登場した3人の市民は、いずれも賛成の立場からの声でした。「近くに子どもが遊べる身近な公園ができればよいと思います」などだったと記憶しています。

最初の感想は、「どうして賛成の声だけなの?」ということです。そのことにつながるのですが、次に感じたことが大事なことです。「平和大通り」の歴史や意味、現在の状況については、インタビューは勿論ですが、解説の中でも全く触れられなかったことです。NHKには、疑問の声として電話をしました。

ニュースの解説で図示もされていた平和大通りの「にぎわいあるまち」の対象地域は、「鶴見橋の西詰から平和大橋の東詰め」の間です。

やはり、疑問はつのります。ちょっと待ってください、と言いたくなります。

その理由の第一は、「鶴見橋の西詰から田中町交差点」の間には、全国各都道府県の被爆者組織から贈られた樹木が植えられた「被爆者の森」があります。

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「被爆の森」の大切さについては、このブログ(昨年9月6日)でも紹介していますので、もう一度読んでみてください。もし計画が進められるとしたら、この大切な「被爆者の森」はどうなっていくのでしょうか。今回の方針を作成するとき、この「被爆者の森」の存在は、充分に検討されたのでしょうか。この場所を指定したのは、広島市だったはずです。

第2は、「移動演劇さくら隊の殉難の碑」「広島市医師会原爆殉職碑」「瞑想(ラ・パンセ)像」「県立広島第一高等女学校原爆犠牲者追悼の碑」などの慰霊碑の存在です。

第3は、平和大通りに育つ、木々です。

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広島市自身が、「供木運動説明版」を設置したように、平和大通りに生える多くの樹木は、1956年から57年にかけて、広島市が県内各自治体に供木を呼び掛け、それにこたえて各自治体から贈られた樹木や苗木が植えられ、今の緑豊かな平和大通りとなった歴史があります。このことも「被爆の森」を紹介したブログに書いています。多くの県民の思いがこもった木々です。これらの樹木をどうするのか?広島市だけで、判断してよいのでしょうか。被爆直後「75年は草木も生えない」とも言われた広島の復興の象徴でもあります。

今回対象となる地域には、こうした大きな歴史が刻まれています。

NHKのニュースでは、私が見た限り、こうした側面からの報道は全くありませんでした。

「地域の活性化」という政策を否定するものではありませんが、少なくとも「平和大通り」については、もっと慎重な議論が必要だと思うのは私だけでしょうか。

ところで、広島市の来年度予算では、どうなっているのか調べてみました。ちょっと疑問を感じる中味でした。そのことについて明日報告します。

いのちとうとし

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2020年2月23日 (日)

広島地方気象台の標本木

昨日のブログで、広島地方気象台の標準木のことに触れましたが、今日はその続きです。昨日のブログでは「植物季節観測用標本木」という言葉と「標準木」という言葉の両方を使ってしまったのですが、気象台のホームページでは「標本木」となっています。このホームページには、「生物季節観測」として「植物季節観測」と「動物季節観測」のリストがあります。「動物季節観測」には、ヒバリやウグイスなど植物と同じく13種類の名前があげられ、「初鳴き」や「初見」の日が、発表の対象となっています。今年はまだ、どの動物も観測されていません。

「植物季節観測」の上がっている植物について、もう少し詳しく知りたいことがあり広島地方気象台に電話を掛けました。そこで得た知識です。

「生物季節観測」の植物として13種類が掲載されていますが、そのうち11種類が縮景園にあります。そのうちで「正・副」の「標本木」があるのは、サクラ(ソメイヨシノ)、ウメの他にツバキとサルスベリがあります。開花日を決める木は、もちろん「正」の木です。

ウメの標本木は、写真ではちょっと見にくいのですが、同じ場所に植わっています。

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今年のウメの開花日は、2月3日になっており、気象台によれば「平年より3日早く、昨年より4日遅い」そうです。暖冬といわれた今年の冬ですが、ウメの開花は、そんなに早くなかったようです。

さてサクラの標本木です。「正」と「副」の木は、場所が少し離れています。「正」は、縮景園入口を入って少し進んだ左側にあるトイレの横にあります。

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「副」は、入り口を入って同じように進んだ右側、ソテツなどがある広場に植わっています。

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「正」の周辺は工事中でしたので、つぼみは「副」しか写真に撮れませんでしたが、まだまだ固いつぼみでした。

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縮景園を巡っている時、「観光ボランティア」の案内の声が耳に入りました。「桜の『正』の標本木は、中区江波山から気象台が移るとき、『同じ環境にある木』を探して、この木と決められてそうです」。ちょっと疑問に思っていましたので、気象台の方に聞いてみました。「標準木は、どういう方法で決められたのですか?」答えは明確でした。「江波山気象台の時代の『標準木』と同じ日に花が開花する木を探し、その木を『標準木』としました」。

もう一つ訊ねてみました。「なぜ『正』と『副』があるのですか」。「いろいろな気象条件で、枯れたり折れたりすることがありますので、その時のためにあらかじめ『副』を決めているのですよ」

ところで広島地方気象台が、中区江波南の江波山から現在地の中区上八丁堀(合同庁舎の中)に移転したのは、1987年(昭和62年)12月22日です。上八丁堀の気象台にも「植物季節観測」の対象となっている標本木(木ではないので『標本木』とは言わないと思います)がありあす。それはバス通りから見えるところにある百葉箱など気象観測機器の下に敷き詰められた「シバ」です。「シバ」は、「開花」ではなく「発芽」です。縮景園以外で観測されているものは、この他に「タンポポ」があります。「タンポポ」は、中央公園の「カンサイタンポポ」が観察対象となっているようです。

ちょっとだけ物知りになったような気がします。

いのちとうとし

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2020年2月18日 (火)

千田小学校の被爆樹木などを訪ねて―その4

昨日のつづきです。

校庭東側に広がるグリーン地帯を探し回っている時です。一つだけ少し新しい「碑」が目に入りました。碑の表面には「記念植樹 若潮千通会」と刻まれています。植樹を記念して建てられたものですが、「若潮千通会」とは?

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裏側に回るとその意味がよく分かります。「若潮千通会」とは「元船舶通信隊特別幹部候補生隊」のOB会組織のようです。建立は、「昭和46年8月6日」です。

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すぐにピンときました。原爆投下時、千田国民学校の駐屯していた部隊に違いないと。帰宅して、広島市発行の「広島原爆戦災誌第4巻」の「千田国民学校」の被爆状況を記載したページを開きました。「やはり」です。「校舎の使用状況」には、「当時、校舎の一部は軍隊に貸与されており、その状況については次の通りである。部隊名 暁部隊(本体は比治山電信隊)、人員 約350名で、その他に教官・世話兵約50人、構成 中等学校3年生の卒業生を特別幹部候補生として養成、用務 戦艦(大和)の要員として待機させていた。」とあります。

「特別幹部候補生」ですから、「碑」の裏面に記載された部隊名に間違いありません。「広島原爆戦災誌」に記載されている事項に興味が湧きます。一つは「比治山電信隊」の文字です。この部隊は、本来比治山の南側に兵営を持つ部隊です。そうです、このブログでも紹介したことがありますが、現在NTT比治山データビルが建っている場所です。

もう一つの驚きは「用務」に記載されている「大和の要員として」の文字です。戦艦大和は、1945年4月5日に出撃命令が下り翌4月6日の15時20分に出撃し、沖縄に行く途中で4月7日の14時23分に米軍の攻撃を受け沈没しています。この事実は伏せられていたのでしょう、沈没した後も「大和の要員として待機」させられていたのですから。「戦災誌」によれば、当時駐屯していた兵隊は、8月6日の朝朝礼のため運動場に出ていたため、直接被爆して全身やけどを負ったものが多くいたそうです。

一方、千田国民学校の生徒は、雑魚場町の疎開地後片付けに出動中で、高等科50人全員が被爆し、ほとんどのものが死亡したようです。「戦災誌」では、即死者40人、行方不明者10人となっています。

注目してほしいことは、被爆の被害ではありません。幟町国民学校のところでも紹介したのですが、市内の多くの国民学校が当たり前のように「軍隊によって使用」されていたことです。「平和」であるべき子どもたちの学び舎が、軍事施設になってしまった戦争。中学1,2年生が建物疎開などの動員で大きな犠牲となったことは、多く語られてきました。しかし学校に軍隊が駐屯していた事実は、どれだけ知られているのでしょうか。忘れてはいけない事実のように思います。

いのちとうとし

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2020年2月17日 (月)

千田小学校の被爆樹木などを訪ねて―その3

1月27日のブログのつづきです。これまで2回は、千田小学校の被爆樹木を紹介しましたが、今回は、その他の被爆物についてです。

最大の被爆遺構は、旧講堂の焼け残った鉄骨の骨組みです。

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現在でも鉄骨が、大飼育館として活用されています。説明版にはこう書かれています。「この場所にあった講堂は、昭和20年8月6日に被爆し、焼け落ちましたが、その行動の鉄骨を利用して昭和32年5月6日に大飼育館として開館しました。」戦後、この学校の校庭を整備する際の写真にもこの鉄骨の骨組みが写っています。

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被爆後12年経って、活用されたことが分かります。東側の道路からもよく見ることができます。千田小学校では、最も大きな被爆遺構です。

次に、校庭南側にある「国旗掲揚台」です。

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写真をよく見ると、前面に装飾が施されているのが分かります。被爆時は、東門のすぐそばにあったようですが、戦後の学校整備によって現在地に移されたようです。「掲揚台」の裏に、そんな経緯を期した銅板がはめ込まれています。「昭和15年10月1日宮本數男氏からご寄贈いただき、東門前に設置されていたものを、給食調理室改築にともなって、ここに拡張移転したものである 昭和59年3月1日 広島市立千田小学校」

ここには、被爆物であることは記載されていませんが、最初の設置月日が記載されていますので、被爆物であることが分かります。案内していただいた組谷さんの話では、ポールは、東京オリンピックの際に新調されたとのことです。

移転前この掲揚台があった東門は、現在は裏門になっていますが、そのまま残されています。この東門を入ってすぐのところに、以前紹介したことのある「平野橋欄干」や「車回し土台石」などがありますが、欄干は東門のすぐ東隣、土台石は、広島工業専門学校(のちの広島大学工学部)にあったものが、移築されたようです。

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千田小学校50年史には、この他にも多くの被爆石などがリストアップされています。例えば、南門門柱です。現場に行ってみると南側には、現在2つの門があり、どちらの門か判然としませんが、予測では東側と思われます。50年史によれば、「元電鉄分工場門柱」とありますから、学校の南隣にある広島電鉄にあったものと思われますが、「分工場」という表現が、何を指すのか不明です。この南門に関しては、「南門門柱の付属壁」も、リストで「学区焼き残り石」と記載されていますが、どの石がそうなのか確認はできませんでした。

その他にも「南側土手長石」、旧場所「電鉄付近電車通りの側溝石」、「大飼育館前土手長石」、旧場所「県立工業学校築石」など、興味深いものがありますが、被爆樹木と違って説明する表示板が付けられていませんので、特定するのが難しい状況になっています。

組谷さんの説明によれば「被爆樹木以外の被爆物については、現在それを証明するような資料が学校に保管されていない」とのことでした。

戦後、何度か学校内で拡張や移転などが行われたようですので、特定することがより困難になっているように思われます。ただ、先人たちの深い思いで、こうした被爆物が学校外からも集められたことを考えると、被爆75周年を機に再調査されることが望まれます。

ところで、校庭内を調べている時思いがけない「碑」に出会うことになりました。明日報告します。

いのちとうとし

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