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2019年9月15日 (日)

9月のブルーベリー農園その1(東広島市豊栄町)

農園のブルーベリーの摘みとりも例年だと9月に入っても援農の皆さんがお見えになるのだが、8月31日(土)に計画していた摘みとりも中止せざるを得なくなったほど不作の年となった。9月に入って晴れて暑い日が続くようになったので、ブルーベリーも小粒だが甘さが増してきた。本当にお日様次第のブルーベリーを痛感。

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9月7日(土)。暑さが戻ってきたが雲は初秋の形。

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9月7日(土)。夏中ほったらかしだったジャーマンアイリスの畑の除草を1日(日)に続き行う。手作業で頑張って全部の草を抜く。

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9月8日(日)。かって妻と子ども会の役員をしたこともある友人が妹、姪御さんの3人でブルーベリーの摘みとりに来園。

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すっかり少なくなったブルーベリーの実を探し探し摘み取る。時折吹く風が気持ちいいと言いながら目標のブルーベリーを摘み取ることができた。とれたてのブルーベリーで作ったジュースを飲みながら話に花が咲いた一日だった。

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それでもまだ色づいていない実もあるが、農園全体では数十本でしかないだろう。今日で援農においで頂いた皆さんも お わ り・・・。感謝。

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始まったのは稲刈りと(9月8日)

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初秋のススキや

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イワジャシンや、

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コスモスや、(9月14日)

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ツルボなどの野の花(9月14日)。

お礼のブルーベリーへの施肥や防草シートはがしや草刈りがこれから晩秋までの作業となる。

2019年9月15日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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2019年9月14日 (土)

湯来の森

今月6日、7日のブログで、「平和大通りの供木運動」を簡単に紹介しました。今日はその続きのような話です。

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一昨日、広島市役所を訪ねた帰りに、同じフロアにある自治労広島市労働組合の書記局によりました。畠山書記長と話すうちに「ブログ」のことに話が広がりました。私が「供木運動で寄せられた平和大通り樹木には、どこから贈られたものか、表示がないんですよ」と話したところ、畠山書記長から「中国新聞社の前の方に『湯来の森』の石碑がありますよ」と教えられました。そういえば、何時かあのあたりを歩いたとき「なんでこんなところに『湯来の森』という石碑があるんだろう」と不思議に感じたことを思い出しました。でもその時は、それ以上深く考えることはありませんでした。畠山書記長は続けて「実は、湯来町は山林の多い町でしたので、林業が主要な産業でした。当時、湯来の木材のほとんどは、広島に送られていたんですよ。そんな関係から、当時湯来からもたくさんの苗木が送られたと思いますよ」さらに続いて「確かなことは言えないですが、当時あの場所から南の舟入地区には材木店が多かったと聞いていますから、湯来の木材業者とのかかわりが深いところということで、あの場所(河原町、西平和大橋西詰の平和大通り南側緑地帯)に湯来から送った苗木が植えられたように思います。」と。納得できる話です。湯来からは大きく育てば「森」と呼ばれてもおかしくないほどたくさんの苗木が送られたことが想像でします。この話を聞くと「湯来の森」の石碑が建っている理由が理解できます。

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 昨日改めて、現地を訪ねてみました。立派な石碑が立っています。石碑の裏には、「1958年4月植樹」と刻まれています。61年が経過し、樹木も大きく育ちこんもりと茂っています。

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西側からの写真

まさに「森」に近い形に成長しています。自転車で行っていましたので、少し周りをまわってみましたが、この他に、どこから贈られた木かを示すようなものを見つけることはできませんでした。

広島市が呼びかけた「供木運動」では、約6000本の樹木が届いたと言われていますので、もう少し樹木の出身地が分かればよいなと思いました。

もう一つ余談です。広島県原水禁の元事務局長佐藤次彦さんの話です。「自分の妻のおじいさんは、湯来で木材業を営んでおられてようですが、『昔は、切り出した材木をいかだに組んで広島まで流したものよ』と話しておられたと妻から聞いたことがありますよ」と教えてくれました。広島と湯来、昔からの深い結びつきが、平和大通り緑化にも大きな役割を果たしたと言えます。その湯来町も2005年の合併で今は広島市になっています。

いのちとうとし

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2019年9月13日 (金)

多山恒次郎さんと広島電鉄・・・その時

 9日付のブログの中で、多山恒次郎さんが広島電鉄の社長だったことに触れました。その後「社長はいつごろだったのか」と気になり、いろいろと調べてみました。多山さんは、1945年(昭和20年)3月15日に就任し、1952年(昭和27年)4月26日に退任されたことが分かりました。

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1945年8月6日、原爆が投下された時の広島電鉄の社長です。関心が深まります。当時の様子を調べたいと思い、私鉄広電支部に行き、広島電鉄の社史を借りました。社史は、「開業80年創立50年史」と「開業10周年創立70周年」の2冊があります。そのいずれにも被爆当時のことが、広島電鉄の社報「『輪苑71号』:昭和30年8月5日」(当時専務取締役で後に3代目社長となる伊藤信之さんの原稿)から引用したものが、掲載されています。そこに多山さんの名前が出てきます。全文は長いので多山さんの名前が出ている個所を引用します。「一瞬青い閃光が走ったかと思うと、アッという間もなく、にぶいような轟音がグワンと炸裂した。視界が俄かに暗くなり、(中略)当時の社長多山氏が血にまみれて今の鈴ケ峰開発(株)のある部屋の窓から顔を出しておられる。逃げ場を失った女子職員が二階の洗面所から泣き叫んでいる。(以下略)」この文章で、多山さんが広電本社で被爆されたことが分かります。社史では、多山さんの被爆時の様子はこれしか記載されていません。

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ところが、社史と一緒に出された「被爆電車75年の旅」(ザメディアジョンプレス発行2017年刊)には、血まみれの多山さんがとった行動が、39ページから41ページにかけて次のように記載されています。「次の爆撃を恐れて、庭の防空壕へ向かう者。狂ったように何事か叫び出す者。半壊した社屋を、呆然と眺めている者・・・。だがやがて、防空壕の上に立った多山が叫んだ。『多山は健在である。これくらいのことでヘコたれてはならん。みんな会社再建のために頑張ろう!』その声を聞き、我に返ったのか、軽傷の社員たちは瓦礫の木材やコンクリートを取り除きだした。」さらに本社の悲惨な被爆状況が続いた後、再び多山さんの名前が登場します。「多山恒次郎は、電車復旧の援助を請うため、怪我を押して師団司令部を訪れた。しかし、司令部は他の官公庁ともども壊滅状態。ついで『宇品』の陸軍船舶司令部をたずね、東京電信隊の協力を取り付けた。」伊藤信之さんの原稿や社史には見当たらないこの様子が、どのような経緯で明らかとなったのか、広電本社から爆心地の真反対にあたる師団司令部へはどの道を通って行ったのかなど不明な点はありますが、誰かの証言に基づくものと思われます。これで多山さんの被爆時の行動を知ることができました。広電の被爆について知っているつもりでしたが、また新たな発見です。不思議なつながりを感じます。

今回は詳しく触れませんが、当時「チンチン電車」を運転していた女学生の被爆時の様子は堀川恵子さんの「チンチン電車と女学生」に詳しく書かれていますので、一読をお勧めします。私も一度は読んだ本ですが、これを機会にもう一度読み直してみようと思います。

多山恒次郎さんのことについては、「多山報恩会」のことなど、もう少し調べてみたいことがあります。その結果は、またこのブログで報告したいと思います。

いのちとうとし

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2019年9月12日 (木)

旧廣島護国神社被爆鳥居―その2

今日は、9日のブログにつづき「旧廣島護国神社被爆鳥居台座」がテーマです。広島市青少年センター発行のパンフレットには、台座に取り付けられた銅板の説明文が全文書かれています。

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原爆(昭和20,8,6 あさ、8:15)によって折れた 旧護国神社鳥居(北面)の脚部 昭和46年の公園内を南北に走る下水工事中現位置より北約20mのところで発見した。上記鳥居であることが確認されたのは、佐々木雄一郎氏(市内元宇品写真家)の貴重なフィルムによる。即ち氏は、被爆一ヶ月後からの「ひろしま」を数多く撮影しているがその中にこの鳥居に関したもの3枚があった。館内玄関に展示している。尚これが発掘、設置については、清水建設の協力を得た。 昭和46年12月22日 広島市青年センター」(原文のまま)

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パンフレットにはこの説明文に加えて「この鳥居の台座は、青少年センターの北隣、爆心地から北方向に約370mに位置していた旧護国神社のものです。神社には、3つの鳥居がありました。原爆によって北側の鳥居は北方向に東側の鳥居は西方向に倒れました。この台座は、北側の鳥居の支柱2本のうち、西側のものとされています。」と記載されています。

この二つの説明文を頼りに、もう少し詳しく調べてみたいと思います。パンフレットには、鳥居の台座が設置された前日の中国新聞の記事(昭和46年12月21日付)も掲載されています。そこには注目すべきことが書かれています。「掘り出してから1ヶ月余り、これが台座であることが分からずに放置されていましたが、たまたま鈴木館長(当時の青少年センター館長)が、発掘地点が旧護国神社であったことから関心を持ち、古い写真などを手掛かりにして判明した。」当時の館長鈴木さんの賢明な判断が、この台座を被爆物として残すことになったのです。さらに新聞記事は興味あることを書いています。「写真を撮り続けている写真家、佐々木雄一郎氏の調べでは、この鳥居は、同神社に二つあった鳥居のうちの正面を入って北側に立っていたものらしく、左右どちらの台座か今のところは分からない。」この時点では、北側の鳥居ということは判明していてもどちらかわからないとしているのですが、パンフレットの説明文では、はっきりと「北側の鳥居の支柱2本のうち、西側のもの」としています。いつごろ、どんな経過で西側のものと判明したのか、気になります。その経緯をぜひ知りたいと思いますが、今のところその経緯までたどり着けていません。

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毎日新聞社1977年刊「ヒロシマは生きていた 佐々木雄一郎の記録」より

鳥居の台座の決め手になった佐々木雄一郎さんの写真とともに鳥居の台座を見ると、改めて爆風の威力をまざまざと見せつけられます。と書きながら、気になることがあります。青年センターの西側本川土手に育つ「被爆樹木シダレヤナギ」です。この鳥居の台座と同じ、被爆距離370mの爆心地に最も近い現在地で被爆しています。鳥居が根元からぽっきりと折れるほどの爆風を受けたにもかかわらず、「シダレヤナギ」はどうして生き残ったのかと。やはりこのヤナギも幹が折れたようですが、その後根元から生えた新芽が成長し、いまのような大きな樹木に育ったそうです。生命力のすごさを感じます。

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広島市1995年発行「ヒロシマの被爆建造物は語る」より

先に紹介したパンフレットの中国新聞の記事では「鈴木館長は、掘り出されたままになっている台座を青少年センターに据え付け、同センターを訪れる若者に原爆の悲惨さを知らせたいといっている。」と書いています。ところが鈴木館長の思いが伝わらなかったのか、この鳥居の台座は周りの植え込みの葉陰となり、長く埋もれた存在となっていました。しかし2013年の8月、9月に周りの樹木が伐採され、台座が再び現れ、多くの人が知ることになりました。鈴木館長の思いが、今後もきちんと継承されていくことを願わずにいられません。

いのちとうとし

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2019年9月 9日 (月)

旧廣島護国神社被爆鳥居―その1

自宅で、資料を整理していたら広島市青少年センターが発行した「旧廣島護国神社被爆鳥居台座」というパンフレットが出てきました。広島市青少年センターの前に置かれている下の写真の「鳥居の台座」についての説明が書かれています。

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このパンフレット読みながら「護国神社の鳥居」について興味がわき、調べてみました。

原爆投下の爆心地といわれる島病院の前には、広島市が設置した「原爆被災説明版」があります。その説明版には、解説文とともに被爆後米軍が映した写真もはめ込まれています。

写真は、島病院近くから北の方向を写したものです。よく見ると、その右端の方に白い鳥居を見つけることができます。最初にこの鳥居について調べてみました。

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この鳥居はすくっと建っています。この写真を見た時、ずっと疑問に思っていたことがあります。当時の護国神社はもっと左手奥にあり、正面は東を向いていたはずなのに、なぜこの鳥居は、正面が南向きで立っているのだろうかということです。私が知っている限りでは、故郷出雲では出雲大社をはじめ神社の鳥居は、すべて本殿の正面に立っていましたので、それが普通なのだと考えていました。ですから、島病院前にある写真を見た時、どうしても違和感を持たざるを得なかったのです。

ところが、今回調べてみると、「旧廣島護国神社」には、3本の鳥居があり、そのうち2本は、境内の東側と北側に建っていたようですが、写真に写っているこの鳥居は、少し離れた電車通りの入り口に立っていたものです。他の二つの鳥居が倒壊したのに、なぜかこの鳥居だけ倒壊を免れました。理由は、この鳥居が、爆心地(といわれる島病院)からわずか140mという近距離の位置にあり、原爆の炸裂ともに起こった爆風が、ほぼ真上から直撃する形になり、倒壊を免れたそうです。そのため被爆後もそのままの姿で写真に納まったのです。

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倒壊を免れたこの鳥居はその後、護国神社の移転(1976年・広島城跡の現在地)とともに、広島城の裏門・RCC南側に移設され、現在に至っています。鳥居そのものは倒壊しませんでしたが、裏側(当時の北側)の額は、失われたそうです。

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確かに現在の鳥居の裏側を見ると、額が掛けられていた跡と思われる金具がそのまま残っています。ここで新たな疑問が起こります。真上からの爆風を受けながら、表(南側)の額は残り、裏側(北側)の額だけが失われてしまったのかということです。確かに裏側の額の場合は、裏側が爆心地の方向といることになりますが、鳥居の厚みは50cmしかないのですから、そのぐらいの違いで、影響がそんなにも違うのだろうかということです。これについては、今後調べてみたいと思います。落ちたり落ちなかったりするのだろうかということです。ところで、昨日改めてこの鳥居の立つ現地に行ってみたところ、表の額もなくなっていました。近くにおられた警備員の方に聞いてみると「1カ月ほど前、額の下部の金具が落下したので、今取り外して点検修理中です」とのことでした。

鳥居をよく目を凝らして見ると、RCC側の鳥居の柱の右側に「奉献 昭和9年11月吉日 多山恒次郎 妻千代」と刻まれているのかすかに読み取ることができます。この鳥居は、昭和9年(1934年)は、二葉の里から西練兵場西側に移転した時に献納されたことが分かります。当時は不思議なことではなかったかもしれませんが、個人の寄付にはちょっとびっくりです。この鳥居を献納された多山恒次郎さんご夫妻について調べてみました。多山さんは「広島瓦斯電軌格式会社取締役、鈴ケ峰学園理事長、広島電鉄株式会社社長・会長」などを歴任されるとともに「『むらさき生』という匿名で、貧困な家庭やその他母子等への同情金を送っていた」(いずれも「一般財団法人多山報恩会」のホームページによる)「社会奉仕人」であったそうです。ところで、もう一つ調べたいことがあります。広島護国神社が、全壊した被爆後から現在地への移転までは、小祠で祭祀が続けられていたようですが、この鳥居は、どこに立っていた(保管)のかということです。護国神社の鳥居のことを調べるきっかけとなった青少年センターの「旧廣島護国神社被爆鳥居台座」については、次回(12日)のブログで書きたいと思います。

いのちとうとし

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2019年9月 7日 (土)

平和公園内の寄付樹木―海外からの贈り物

 
昨日のブログで、平和大通りの「供木運動」について、簡単な紹介をしました。私の思いの中では、この「供木運動」で寄せられた樹木は、平和大通りだけでなく、平和公園にも植えられたと思っていましたが、違うようです。「供木運動」で寄せられた樹木は、約6000本と言われていますが、そのほとんどは、平和大通りに植えられたようです。平和公園の緑化によせられた樹木は、「供木運動」が呼びかけられた1957年(昭和32年)に先立つ1954年(昭和29年)に、当時の広島市長が全国の市長に樹木の寄付を呼びかけたことがきっかけとなって寄せられた樹木が植えられたようです。平和公園は、全国から寄せられた樹木、そして平和大通りは県内から寄せられた樹木によって緑化が進んだということになります。

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私が初めて平和公園を訪れたのは、1960年(昭和35年)小学校6年生の時の修学旅行です。古いアルバムには、その時の写真が何枚は貼り付けられています。今も修学旅行生が記念写真ととるのと同じように慰霊碑前での集合写真です。広島市長が樹木の寄付を呼び掛けてから5年経っていますので、少し大きくなっているのが分かります。それでもよく見ると、まだ添え木が残っています。大きな樹木に覆われた今の平和公園の姿は想像できません。

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ところで、平和公園には、国内だけでなく海外から送られた樹木も多く見ることができます。その多くがバラです。平和公園内では、折り鶴のこの像の横と、原爆ドームの南側の2か所にバラ園が作られています。いつも近くを通っているのですが、じっくりと見ることがありませんので、昨日は、このバラ園を見るために平和公園を訪れました。チェコスロバキアから送られたバラを見たかったからです。それには、こんなエピソードがあります。私が青年運動に関わっていた当時(1980年代中頃だったと思います。)、交流のあったチェコスロバキアの青年代表団が、広島を訪問する機会がありました。東京に着いた代表団から、「広島を訪れた時、ぜひ先年チェコスロバキアから送ったバラを見たいので、予定に入れてほしい」という要望が入りました。すぐに広島市役所に問い合わせました。ところが広島市からの返事は「確かに贈られていますが、どの木かはっきりしないのですが」というものでした。最終的には、何とか広島市の努力で、「この木だろう」ということで、広島入りした代表団を案内することができたのですが、当時の管理のずさんさに驚いたものです。

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昨日バラ園を訪れると、当時はなかった名札「語り継ぐ平和の緑」が取り付けられ、そこには「品種、寄付者、寄付年」が書かれていました。そして「寄付の経緯」を知ることができるQRコードが付けられています。チェコスロバキアから送られたバラは、原爆ドーム南側のバラ園に植わっています。ちなみにチェコスロバキアから送られたバラについての経緯をQRコードで検索すると、次のように書かれています。「原爆ドームの設計者、故ヤン・レツル氏の取り持つ縁で、昭和53年(1978年)12月、チェコスロバキアのアロイス・インドラ連邦議会議長が来広の際、市長との間でバラ苗交換の話がまとまりました。広島市からは昭和54年(1979年)2月8日、かがやき、天津乙女(あまつおとめ)など、日本作出のバラ6種類18株をプラハ郊外リディツエバラ園に寄贈しました。このバラ園は、第二次世界大戦中ドイツ軍により、村全体が地上から抹殺され、戦後イギリスの平和運動家の呼びかけで、村の跡地に友好と平和の象徴として作られたものです。 昭和54年11月15日シュトロウガル首相が大平首相を訪問、バラ苗木100本を手渡し、そのうち95本が外務省より11月21日に広島市に届けられました。」かなり詳しく書かれており、ヤン・レツル氏が取り持つ縁なのだということ知ることができます。

広島市のホームページの「寄付樹木一覧」の「更新履歴欄」を見るとほとんどが「新2019.3.22」となっていますので、ここ数年で管理が進んだようです。今後も大切に管理されることが望まれます。

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イギリス政府から送られたバラには「ピース」の名前がついていましたが、つぼみもできていません。まだ秋の開花期に早いようで、咲いていたのは僅かでした。

いのちとうとし

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2019年9月 6日 (金)

「被爆者の森」を知っていますか

平和大通りの東端(田中町交差点から鶴見橋西詰)の両側に、「被爆者の森」があるのをご存知ですか。

先日、平和会館を訪れた時、棚にある「被爆者の森」とタイトルの付いたアルバムが目に入りました。アルバムの最初のページに「広島県被団協理事長坪井直」さんの「『被爆者の森』の現状についての報告」という文章が貼り付けられています。その文章には、「皆様方の核兵器廃絶の願いを結集して造った『被爆者の森』を15年後(1990年建設)の写真に託して現況をお知らせします。」と書かれています。そして、次のページからは、各県から送られた樹木の成長ぶりを写した写真が貼り付けられています。

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この「被爆者の森」は、日本被団協が1990年に、全国各都道府県に住む被爆者に呼び掛け、その人たちの核兵器廃絶と平和への願いをそれぞれの「県の木」に託して、被爆地に一堂に集め、全国、全世界へ発信したいとの思いからつくられたものです。その後、広島市に寄贈され、今は広島市が管理しています。

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そして「被爆者の森」の中ほど北側の緑地帯(ちょうど福山通運の倉庫前)に、「被爆者の森」の碑と並んで、「樹木一覧と位置図」がありますので、それを見れば、簡単に自分の出身県の木を見つけることができます。

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私が、現地に着いて最初に探したのは、出身地島根県の県木「クロマツ」です。あらかじめ位置を調べていましたので、簡単に見つけることができました。平和会館のアルバムの写真(左)と比べるとずいぶんと大きく成長しているのにびっくりしました。すぐそばには、鳥取県の木があります。鳥取県の県木は「ダイセンキャラボク」ですが、植わっている木は「ナシノキ」です。「ダイセンキャラボク」は、低地では育ちませんから「ナシノキ」が代木として選ばれたようです。「ナシ」はいまが取り入れのシーズンですが、残念ながら実は一つも付いていませんでした。

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一番南の沖縄県はどうだろうと探すと何故か「カンヒザクラ」が植えられていました。県木は、「リュウキュウマツ」ですので、これも代木です。当初は、表示がなかったようですが、広島県被団協などの働きかけもあり、現在では「都道府県名、樹木の名称、被団協名」などが記載された表示板が付けられています。これらを含め13道府県の県の木が、気候が適さないなどの理由で、代木となっています。ちなみに広島県の県木である「ヤマモミジ」も、中国地方の他県と同じブロックに植わっています。

最近、「県の被団協が存続できず解散した」というニュースを聞くことが多くなっていますが、今であれば「被爆者の森」は誕生しなかったと思います。ですから、各県被団協から送られた「県の木」によってつくられた「被爆者の森」は、各県に被爆者組織があったことをいつまでも語ってくれる役割も担っているような気がします。

平和大通りの緑化が進んだのは、1956年(昭和31年)から57年に、当時財政難だった広島市の呼びかけに応えた県内市町村の団体や個人の供木運動で寄せられた樹木によってだと言われています。この「供木運動」とともに「被爆者の森」の建設経緯も決して忘れてはならない歴史だと思います。

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2019年9月 5日 (木)

ヒロシマとベトナム(その4)

ベトナム200万人の餓死

先月、ベトナム人が親日的な一つの背景としてフランスからの独立運動を展開したファン・バオ・チャオの「トンズー運動」が、フランス政府と日本政府の弾圧によって危機に陥ったとき、日本人医師、浅羽佐喜太郎が支援したことを紹介しました。「トンズー運動」は失敗しますが民族独立運動の灯は消えず、1945年9月2日のホーチミンよる「独立宣言」につながります。

今回は、「トンズー運動」(1904年~1909年)以降、1945年9月2日の「独立宣言」までの日本の関わりを見たいと思います。

日本は朝鮮半島の植民地支配を始め、1931年の柳条湖事件に始まる満州事変から日中戦争へ、さらに太平洋戦争へと侵略戦争を拡大していきました。10年におよぶ日中戦争で泥沼にはまり、国際的な孤立とともに戦略物資や食料の欠乏をきたしていた日本は、表向き「ヨーロッパ列強からの解放」をうたう「大東亜共栄圏」を掲げ、ヨーロッパでのナチスの華々しい侵攻を好機とばかりに、石油や鉱物などの資源、米やトウモロコシなどの食料の確保を狙いフランス、イギリス、オランダなどの植民地に侵攻しました。

戦略物資を求めた日本軍侵攻

ベトナムへの侵攻は、1941年12月8日のハワイ真珠湾攻撃とイギリス領マレー半島攻撃が始まる一年余り前の1940年9月に北部のハノイ、翌年7月に南部のサイゴン(現在のホーチミン)に始まりました。

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日本軍によるベトナム支配は、日本が敗戦を迎える1945年8月15日まで続きました。この間に、200万人以上といわれる餓死者を出したことは、日本ではあまり知られていません。しかし、一方で「餓死者数が多すぎる」「政治的プロパガンダだ」、「原因は日本軍とは関係ない」「ベトナムは年中飢饉」などの異論・反論は意外と熱心に繰り返されています。

早乙女勝元さんの『ベトナム“200万人”餓死者の記録』(大月書店、1995年)を今回あらためて読み直しました。早乙女さんは、天候不順による凶作が続いたことも原因の一つだが、米の生産量が減ったにもかかわらず「強制買付量」は増え、食料米を補ってきたトウモロコシなどの雑穀も日本軍が買い占め、加えてジュート、チョマ、落花生、胡麻など繊維性・油性作物栽培の強要が飢饉を深刻にしたこと。また、連合軍の爆撃や戦闘で南部のメコン地帯から北部への輸送が途絶したことによる、と詳細なデータや証言を基に述べています。

今回、驚いたことは200万人の餓死者を出した1945年の上半期、ベトナムには餓死せずともすむ充分な米が日本軍の手にあったという事実です。下の表は、1941年度から1944年度までにインドシナ(ベトナム)から三井物産を通して日本に送られた米の量の統計です。日本からの「要求目標量」と輸送権を独占した三井物産の「買付実績量」、そして「日本に送られた量」を表しています。

 

1941年度

1942年度

1943年度

1944度

日本からの要求総量

700,000トン

1,074,000トン

1,125,904トン

900,000トン

三井物産の買取実績

585,000トン

973,908トン

1,023,471トン

498,525トン

日本に輸送された量

562,600トン

973,100トン

662,100トン

38,400トン

注目すべきは1944年度です。凶作で「買取実績」は目標の55%余りですが、制海権も制空権もなく輸送自体ができない状況のもと、日本に送られた量はその7.7%に過ぎません。すなわち、凶作で飢饉に苦しむベトナム人から「強制的に買い取った」米の92%余りは残っています。現地軍のための調達米は含まれていませんので、飢饉で餓死しているベトナムの人々の前に実に大量の米があったということです。なぜ? 米を配給(返す)しなかったのか! 問うだけ、むなしいのかも知れません。それが侵略であり、戦争なのだと思います。

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今回、読み直し、表にして見て、あらためて戦争の本質、事実に触れた気持ちです。

早乙女さんは第6章「誰に責任が?」の最後にこう書かれています。「これは南京大虐殺のように、日本軍が血まみれの日本刀を振りかざしての虐殺行為とは異なる。しかし南京大虐殺の数倍にもおよぶ間接的な恐怖地獄であり、そもそもの元をたどれば、タイルオン村で家族9人を餓死させたファン・スンさんが憤怒の声でまくし立てたように、「こっちが来てくれと言ったわけじゃないのに、向こうから勝手に押しかけてきた」という侵略に非があるのは誰の目にも明かである。日本人にとっては、忘れてはならない歴史の一ページであり、いつまでも心に刻まなければならないはずの重い負債である」と。

ヒロシマとベトナム、類似性と相違性

ヒロシマとベトナム、核兵器と化学兵器という大量無差別に殺傷し、後障害を含め幾世代にもわたって身体と心を蝕み、生命を奪い続けるという非人道的な兵器による戦争被害を受けました。そこに「核も化学兵器も、そして戦争もNO!」という共通の願い、友好と連帯の絆があります。

しかし、同時に私たち日本人は、ヒロシマは加害の日本であり廣島でもあったことを決して忘れてはならないと思います。栗原貞子さんの「ヒロシマというとき、ああ ヒロシマと やさしく返ってくるだろうか」という問い、「そのためには 捨てたはずの武器を 本当に捨てねばならない」との誓いを心に刻みながら、今年も10月の「第14次HVPF平和友好ベトナム訪問団」の準備を進めています。

2019年9月4日、あかたつ

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2019年9月 3日 (火)

広島市シェアサイクル・ぴーすくる

最近、街中で赤い電動自転車を見かけるようになりました。昨日も、自宅前の道路を5台の赤い自転車が通り過ぎました。乗っている人は、小さな自転車が少し窮屈そうに見える外国からの観光客のようです。

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この自転車は、広島市が「自転車を活用した観光振興や地域活性化を図る取組として、国内外の観光客等の来訪者が観光施設等を快適に巡ること」を目的に、2015年2月22日に供用を開始した「広島市シェアサイクル・ぴーすくる」です。この事業は、調べてみてびっくりしたのですが、NTTドコモが、受託して運用しています。

私が最初の目にしたのは、資料館東館南側の自転車置き場に設置されたサイクルポートでした。その後、当初の目的である観光振興や地域の活性化に加えて、市民の日常生活の移動手段としても利用されるようになり、昨年からは商業施設などにもサイクルポートが新設され、現在(7月末)では66か所に増えている(といっても、ほとんどが市の中心部と広島駅周辺ですが)そうです。そうですというのは、この情報はいずれも広島市のホームページから情報を得ているからです。

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そういえば、最近は旅行者とは思えない市民が利用している姿もよく見かけるようになりました。外国人の利用者を見かけた時一緒にいた新聞記者も「私も時々利用しますよ。便利ですから」といっていましたので、市民生活の一部としても活躍するようになっているようです。

私が、最初にこうしたレンタサイクルを見たのは、2017年に中国を訪問した時です。同じ色(黄色とオレンジ)に塗られた自転車が、道路上に多数放置(と思える状態で)されている現場を見た時はびっくりしたものです。この写真は、整理員がいてきちんと整理している場所です。

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日本と中国、どちらが最初にこの事業を始めたのかわかりませんが、いま中国では、このシェアサイクル事業が、曲がり角に来ていると言われています。昨年5月時点で、全国で3000万台を超え、利用者も17年末には2億人にもなりました。ちょっと気の遠くなるような数字で利用されていますが、問題も発生しています。最初に問題になったのが、不法な放置自転車が大量に発生し、その対策費が増大したことです。次に問題になったのは、車両のメンテナンスです。シェア自転車は24時間、365日、街頭で雨ざらしに置かれていますので、故障することも多いようです。このうち、放置自転車の問題は、日本ではサイクルポートで借り、サイクルポートに返すことになっていますので、あまり問題は発生しないと思われます。しかし、車両メンテナンスの問題は、広島市内の自転車も同じように雨ざらしの状態で、駐輪させてありますので、これからこの問題が課題になってくるはずです。

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そしてもう一つ人件費がかかると思われるのは、アンバランスな配置となったサイクルポートの自転車をどう適正に、それぞれに配置するかです。ちょうど中区図書館を訪れた時、トラックで自転車を移動させているところに出くわしました。台数が中国のように多くはないとはいえ、サイクルポート数が増えれば増えるほど、これもなかなか大変な作業のように思われます。

広島市内は、橋を渡るとき少し坂道を上ることになりますが、そんなに苦になるほどではありませんので、私も市内はほとんど、自転車で移動しています。観光客が、手軽に移動手段としてさらに利用されるようになれば良いなと思います。

いのちとうとし

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2019年8月31日 (土)

8月のブルーベリー農園(東広島市豊栄町)その2

天候不順。8月の後半は秋雨前線がやってきて雨の日、薄曇りの日が続きブルーベリーも不安定で、甘さが増ざす、雨による水分過多で実が破れ提灯のように割れるものも多く、楽しい摘みとりも今一つ気分が高揚しないひびが続いた。そして、収穫も今年は極端に少なく8月25日の日曜日にボランティアによる援農の摘み取り作業が行われてからはもう熟れた実がないという農園はじまって以来の短い収穫期間となった。

その結果安芸の郷へのブルーベリーの納品も半減し、生食の予約注文をお断りしないといけない事態になってしまった。農園は標高約400mの所にあり朝夕の寒暖差が大きくおいしい実が取れるのだが、自然の気候に左右される農業は、人の思惑をせせら笑う気まぐれさんに思える。

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8月23日(金)色づいた実を摘み取った後の赤い実は、秋雨前線の影響でこれ以降はほとんど色づくことがむつかしいと思われる。

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子どもたちの夏の過ごし方の一つに農園のブルーベリーの摘み取りがある。ある友人の娘と孫が東京から帰郷ししばらく滞在しているのでその合間に農園にやってきた。その友人の姪の家族も合流して農園はファミリー交流の場にもなる。8月25日(日)。

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とにかく飽きることなく動き遊ぶ。8月25日(日)。

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8月18日(日)。農園は全部で5か所に分かれている。小高いところにある里山には東西2か所ある。写真は西側の農園。お盆前からしばらく摘み取りをしていないので実がよく熟れている。午後から農園の友人、知人、安芸の郷の職員の皆さんが一斉に摘み取り援農に入る。

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8月25日(日)。1週間後、同じ場所に摘み取り援農に来られた安芸の郷にボランティアに来ていただいている矢野民生委員、農園の友人のみなさん。ほとんどの実を摘み取ることができた。もうない状態に。

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8月25日(日)。帰り支度。ブルーベリーの摘み取りの際に足裏につくブルーベリーの実を水で洗い落す。

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農園のブルーベリーの伸びた枝を採取して夏の挿し木をする目的で広島大学の大学院生が8月24日、25日に来園。彼は来春卒業後農業に就く計画で、ブルーベリー栽培もその一つにしており、夏の挿し木も試みて苗木の確保を行う計画だそうで、申し出を快く受けた。今年の冬にも採取した穂木は挿し木で順調に育っているそうで、畑も小さいが2か所借りることができたと話していた。8月24日(土)

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8月24日(土)。農園近くの里山の中にある墓にお盆明けの片付けにいくと、墓標に座るアマガエルに出会う。

秋の気配。

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1.ハギの花。8月23日(水)

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 2.ドングリ。8月23日(水)

ブルーベリーを熟れさすお日様がほしい。9月に入るともうこのあたりの田んぼの稲刈りが始まる。それやこれやで日差しよ戻れ。

2019年8月31日

社会福祉法人安芸の郷 理事長 遊川和良

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