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文化・芸術

2019年9月16日 (月)

「ジュノー博士、第三の戦士」上映会

昨日午後2時から原爆資料館東館地下1階「メモリアルホール」で、スイス人医師マルセル・ジュノー博士の軌跡をたどる映画「ジュノー博士、第三の戦士」の上映会がありました。主催は、同映画上映実行委員会となっていますが、実質的には在日スイス大使館が企画した上映会でした。ちなみに今年は、日本とスイスは、国交を樹立して155周年を迎えるという深い関係にあるます。

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広島にとっては恩人ともいえるジュノー博士への関心の高さを示すかのように上映会には、会場の定員312人の席がほぼ満席となる盛況ぶりでした。上映会は最初にあいさつが続きます。ジャン=フランソワ・パロ在日本スイス大使、続いてジュノー博士の息子ブノワ・ジュノーさん。「父は負傷者や犠牲者を救助するためには、いかなる手段をも使い、やり遂げる人だった」と語るとともに、「1979年に広島県医師会が建立した『マルセル・ジュノー博士祈念碑』の除幕式に参加するため初めて広島を訪れた時、原爆は悲惨なできごとであり、二度と起こしてはならないと思い、使用に反対してきました。」を訴えられました。

そして映画監督、脚本家と続き、いよいよ映画のスタートです。

映画の内容は、「広島、1945年9月8日。原爆投下の直後、ICRCの駐日首席代表として15トンの医薬品を携えて、破壊状態にあった広島に駆けつけ、自ら苦しんでいる被爆者の治療にあたり、救護活動に尽くしたジュノー博士はどのような人物だったのか、その軌跡をたどりながら、その精神を受け継ぎ、2017年コンゴ民主共和国で戦火からの救出にあたっているICRCアジア大洋州事業局長のクリスティン・チポラ氏の活動を紹介し、人道活動の大切さ」を訴えるもので、全体としてジュノー博士の足跡をたどりながら、国際赤十字の人道主義の精神を紹介することを中心に構成されていました。もちろん広島での活躍も登場はしますが。

上映会の最後は、知人の被爆者青木賢さんの被爆証言。15分という短い時間でしたが、良くまとまった内容でした。証言内容はまたの機会に書きたいと思います。

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上映会終了後、平和公園内の「マルセル・ジュノー博士記念碑」と袋町小学校平和資料館横にある「マルセル・ジュノー広場」を訪ねました。「記念碑」の裏には、「無数の叫びが あなたの助けを求めている M.ジュノー著『第三の兵士』より」というジュノー博士の言葉が刻まれています。映画を見た後には、その言葉の意味が重く伝わってきました。

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「マルセル・ジュノー広場」には、博士の肖像が入った直径約五十センチのレリーフが石垣に埋め込められ、功績をまとめた解説板があります。そこには「(前略)当時、救護所の一つであり、1日100人あまりの診療が行われていた袋町国民学校(現在の当校)においても、博士は被爆者の治療にあたられた。広島の恩人であるジュノー博士の生誕100年にあたり、その人道的・献身的な行為に心から感謝し、この広場をジュノー広場と命名するとともに、末永く広島市民に語り継がれていくことを祈念する。2004年10月2日」と書かれています。映画によれば、ジュノー博士は、市内10数か所に設置された救護所で活動されたようですので、ここもその1ケ所だったようです。入り口に「マルセル・ジュノー広場」と書かれた石碑が立っています。石碑には「レリーフが収められている石垣は、広島城外堀の石垣」ということも記されています。

いのちとうとし

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2019年8月29日 (木)

広島朝鮮歌舞団公演-成功裡に再スタート

一昨日午後6時30分から「広島朝鮮歌舞団公演」がアステールプラザで開催されました。私も、朝被協の金鎮湖さんから「妻がぜひ参加してほしいといっていますので」という電話をいただき、久しぶりの広島朝鮮歌舞団の公演に参加しました。

広島朝鮮歌舞団は、1967年に結成され、最大時には16名も団員がいたという歴史を持っていましたが、様々な事情で一昨年以来その活動を停止していたようです。しかし、これまで歌舞団で活躍してきた多くのOGなどが声を上げ、その努力が実り今回4名の団員がそろい、再スタートを切ることになり、今回の初公演となったのです。そのことを電話で聞きましたので、私も喜んで参加しました。

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当日配布されたプログラムにも書かれていますが、広島朝鮮歌舞団は「朝鮮の音楽と舞踊を学び、同胞たちには故郷の香りと夢と希望を与え続ける」存在でした。と同時に、私たち日本人との友好親善を深めるための大きな役割を果たしてきました。

私が、広島朝鮮歌舞団と最初に出会ったのは、1973年です。毎年夏に行われる今も続いている「青年女性平和友好祭」の会場でした。その歌や民族楽器の演奏、踊りは、初めて目にする舞台でしたので、そのあでやかな民族衣装とともに、出演者の絶えない笑顔は、忘れられない強い印象として残りました。その後は、平和友好祭だけでなく、朝鮮総連の行事等で見る機会が増えましたが、何時も変わらず参加者の大きな拍手を浴びる光景は忘れることができません。こんな体験を持っていましたので、「広島朝鮮歌舞団」が活動を停止したと聞いた時には、在日朝鮮人の人たちは、さぞがっかりされたことだろうなと想像していましたので、今回の再スタートは、私にとってもうれしいニュースでした。

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公演の中ほどで、最も若い団員黄玲実さんの語りがありました。ハングルでの語りでしたので、私には理解できなかったのですが、会場で配布された「プログラムの解説」には、日本文が付けられていますので、一部紹介します。タイトルは「私が行く道」です。

「ああ、ついに来た今日のこの日/私が行く道、青春をかける価値ある/広島朝鮮歌舞団    ・・・私が卒業を迎えた高校3年生の昨年/人生の歩む道を選択する進路の道で/どれだけ悩みと涙を流したことだろうか/(略) 幼いころからの夢/朝鮮舞踊で自分を生かせる夢/10歳から学んだ朝鮮舞踊/初級部から舞踊部で学び、研究所で習い/正月の平壌での舞台に立ち/高校から平壌大の舞踊課で/修練した幸せな3年間、そして/両親が注いでくれた愛と経済的な負担/  だから舞踊で愛国事業に寄与したい/恩恵と配慮に応えたい/この道を選ぶことになんの迷いもなかった/  だが/広島朝鮮歌舞団に団員がいない/団員がいないこの現実は/私の夢を叶うことができない絶望感だけ/(略)人生を選ぶ分かれ道で/私が選んだこの道の後悔しない/「私はできる、やる」/この信念だけが強くなる/  芸術の力で今で受けた/愛と恩と拝領に感謝し/民族教育で培われた自負心を胸に秘め/私の人生の主人公になる/この道を進むだけ広島朝鮮歌舞団/」

今回の公演は、この王さんの思いが伝わる本当に良い舞台でした。写真撮影禁止ですから、舞台をお見せできないのが残念です。

最後は、広島朝鮮歌舞団再スタートの中心的役割を果たされた朴美英さん(金鎮湖さんのパートナー)のあいさつ。「皆さんのご支援で今日を迎えることができました。これからも文化芸術の偉大な力を信じて技量の向上を続けていきますので、ご支援をよろしくお願いします。」

広島朝鮮歌舞団の再スタートを喜ぶ人たちの大きな拍手に包まれてフィナーレを迎えました。これからも、厳しい道が予測されますが、プログラムに書かれた「新しい響き」をつくり、多くの人々に感動を与え続ける広島朝鮮歌舞団の活躍を祈るばかりです。

いのととうとし

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2019年8月27日 (火)

三良坂平和公園、平和美術館を訪れて

先日、庄原での用事の帰り道、少し帰り道を変更して、三次市三良坂町にある三良坂平和美術館を訪ねました。同美術館が建っている三良坂平和公園には、私の知っている人たちの作品も多数ありますが、まず美術館の展覧会へと足を運びました。

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展覧会は、「柿手と4人のなかま」のタイトルで開催されていた33回平和展の最終日でした。三良坂平和美術館は1986年に三良坂町が行った非核平和自治体宣言を記念し、地域文化への貢献を目的に1991年6月に開館しました。その時から、三良坂町出身で反戦画家の柿手春三の作品が常設展として展示されています。今回の展覧会は、柿手春三の作品とともに、この柿手春三に三次高等女学校(現三次高)で学んだ画家熊谷睦子さんが、ほかに3人の女性画家に呼び掛けて、作品78点を集めた展示となっていました。独特の画風で平和を訴える書き手作品を見ることができました。

美術館を出ると、三良坂平和公園に設置された様々なモニュメントが目に入ります。2年ぶりに訪れましたので、ゆっくりと見て回りました。その一部を紹介します。

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最初の目に飛び込んだのは、美術館の外壁を飾っている大壁画です。タイトルは「翔べ永遠に」です。この作品は、被爆50年の1995年に画家の吉野誠さんの指導で、平和と人権を大切にしようと当時の三良坂町民150人が力を合わせて完成したものです。壁画を飾っているハトや人間は、吉野さんが考案したアルミ板を切り取って作ったものです。

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そういえば、美術館の事務所にも吉野さんから送られてきたという作品が何点も並んでいました。昆虫をかたどったカラーの作品もあります。コカ・コーラの空カンなどがうまく利用されています。

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この壁面から目を反対側に転ずると、ここにも私たちの運動とかかわりの深い人の作品が目に入ります。メインは、1994年8月に建立された「原爆・戦争犠牲者追悼 非核・平和を願う 母と子――わたす像」という大きなモニュメントですが、その横の自然石には、このモニュメントを題材とした栗原貞子さんの詩「母と子 わたす像」を刻んだモニュメントもあります。

「インド砂岩の白い裸像の母は/白い裸像の子どもに/何を渡そうとしているのだろう//夕暮れの平和公園の広場には/白い灯篭がいく百も置かれ/五濁の世を清らかに照らしている/像の前に集まった人々は/母が子どもに わたそうとする願いを/胸に燃やして手をとりあっている//ここ 平和公園の白い灯篭の灯は/いまも絶えない世界の戦火を/しずめようとする祈りの灯/裸像の母が 子どもにわたそうとするもの//わたすの像よ/世界中の母と子にわたしてください/わたしたちの願いを」

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この平和公園では、合併後も三次市が主催し毎年8月に平和のつどいが開催され、灯篭が並べられるそうです。ちなみに今年は、8月3日に開催され、約千基の灯篭が並んだようです。三良坂の皆さんの反核・反戦・平和への強い思いを再認識した三良坂平和公園探訪となりました。

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2019年8月23日 (金)

「シベリヤ」それとも「シベリア」―「香月泰男・シベリア・シリーズを観る」のつづき

14日のブログのつづきです。

当日ブログの原稿を書くため、「香月泰男展覧会図録」など関連する本が何冊かあったはずと書棚を懸命に探したのですが、その時には見つけることができませんでした。原水禁大会などの資料を整理しようということで、書棚の入れ替えをしていたら、今日になって2冊、見つけることができました。一冊は、1994年に山口県三隅町(現在は長門市)にある香月泰男美術館が発行した「シベリヤ・シリーズへの原点展画集 私のシベリヤ」です。

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この図録は、1994年に同美術館が、香月泰男の没後20周年の節目の年に開催した「シベリヤシリーズの原点展」を記念し刊行したものです。私の手元にある図録は、発行年が2001年、第3版となっていますので、展覧会後も好評で版を重ねたようです。しかし、香月泰夫美術館のホームページのショップには、この図録は紹介されていませんから、今は絶版かもしれません。図録を見ていると「ちょっと気になることがあります」といっても大したことではありませんが。確か私が訪れた山口県立美術館の展覧会名は「シベリア・シリーズ」となっていました。ところがこの図録では、「シベリヤ・シリーズ」となっています。いつから「ヤ」が「ア」となったのでしょうか。

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もう一冊手元にある「山口県立美術館監修」で中国新聞社が2004年に発行した本のタイトルは「香月泰男シベリア画文集」となっていますので、今は「シベリア」ということになっているのでしょう。と思ったのですが、香月泰男美術館のホームページを開くと、依然として「シベリヤ・シリーズ」となっています。そういえば、わが家でも父の抑留の話が出た時の地名は「シベリヤ」でしたから、香月泰男もきっと「シベリヤ」といっておられただろうと想像できます。そう思いながら図録を読み進んでいくと、終わりの方に収められた「香月泰男のことば」として、これまで出版された本から引用されている文章は、やはりすべて「シベリヤ」となっています。美術館は、香月泰男が生前使っていた「シベリヤ」という呼び方を大切にされているということがよくわかります。

この図録を見ているともう一つの疑問がわきました。香月泰夫美術館の略年譜を見ていると「1974年3月香月泰男死去 同年11月 シベリヤ・シリーズ山口県に寄贈」となっています。ところが、1994年に第1版が発行されたこの図録に掲載された「シベリヤ・シリーズ作品」一覧では、57作品中51作品が「山口県立美術館蔵」となっていますが、「黒い太陽」「鷹」「避難民」「アムール」「涅槃」「渚〈ナホトカ〉」の6点は、なぜか所蔵先が記載されていません。ここにはどんな経緯があったのでしょうか。当然のことですが、中国新聞社発行の「香月泰男シベリア画文集」には、あえて所蔵先は記載されていません。

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本の内容も少し紹介しておきます。香月泰男美術館発行の「私のシベリヤ」は、「原点展画集」の名のとおり、作品の原点となった「素描」や「オブジェ」「版画」「油彩」などの関連作品が153点掲載されています。「シベリヤ・シリーズ」の作成の過程がよくわかります。その意味でも貴重な図録だと思います。私にとってもっと貴重に思えることは、展覧会にも付けられていた香月泰男の「自筆解説文」が、全文掲載されていることです。(もちろん中国新聞社版にもありますが)私が、展覧会に行って、絵とともに感動したのは、この「自筆解説文」でした。この解説文こそが、私が、私の家族のかつての旧満州時代や父の抑留生活のことを思い出させることになったのですから。やはり私にとっては、「シベリア」ではなく「シベリヤ」なのです。

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2019年8月22日 (木)

アーサー・ビナードさんの紙芝居「ちっちゃいこえ」

アーサー・ビナードが、丸木位里・俊夫妻作の「原爆の図」をもとに7年がかりで制作し、5月に完成したといわれる紙芝居「ちっちゃいこえ」をこの一月の間に2度見る(というか聞くというか)機会がありました。

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最初の出会いは、広島市中央図書館の企画展「ヒロシマの記憶を伝える ~町と人々の暮らし~」の関連イベントとして7月21日に開催された「ヒロシマの記憶を伝えること」の会場でした。もう1回は、8月6日にHANWAが主催した⌈8.6ヒロシマ国際対話集会 反核の夕2019」の特別公演として演じられた時です。幸いなことにいずれも、アーサー・ビナードさんの語りによる公演でしたので、「たかが紙芝居、されど紙芝居」、ググッと引き込まれる思いで見ました。

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7月21日の会場では、「写真お断り」といわれていましたが、8月6日にはその断りがなかったものですから、つい映してしまいました。公演のためには、写さないほうが良かったのですが。アーサーさん、すみません。

この紙芝居「ちっちゃいこえ」については、「なぜ丸木夫妻の原爆の図なのか」など制作に至る過程や思いについて、アーサーさんがいろいろの場所や紙面を通じて語っておられますので、ぜひそれらを読んでほしいと思いますが、特に印象深いことを少し引用させてもらいます。「原爆というのは核分裂の連鎖反応が起こされ、ピカァァァと破壊力が放たれるけど、それで終わるわけではない。放射線を浴び、放射性物質を吸い込んだり飲み込んだりした生命体は、そのダメージを一生背負い続けなくてはいけない。そこを紙芝居で伝えないと『原爆の図』を踏まえて語る資格はない。そう考えるようになったのです。」そして森滝春子さんとの対談では、丸木俊さんが作成した絵本「ひろしまのピカ」について触れながら「絵本は、広島の人びとがどういう体験をしたかを描いているけれど、ウラン鉱山から始まり黒い雨、残留放射能、死の灰、原子炉、劣化ウラン弾まで延々と続く核被害を描いていないでしょ。核被害の本質を子どもたちに手渡しているわけではない。でも、その本質を『原爆の図』は抱えもっている。」アーサーさんは、核被害の本質をこの紙芝居で表そうとしたのです。

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私も何度か、「原爆の図」は見ているのですが、あの絵がこんな形で「紙芝居」になるとは想像もできませんでした。

最後に紙芝居を見たのは何時だったかなと思いだそうとしましたが、思い出すことができません。それほど長い間紙芝居を見る機会はありませんでしたが、アーサー・ビナードさんの語りによるこの紙芝居を見て、紙芝居の新たな力を感ずることができました。そして何より、電気を使わずに演ずることができるのは魅力ですね。語り手のそれなりの技量が必要でしょうが。紙芝居といえば、どうしても子どもたちのものと考えがちですが、この紙芝居は大人にこそ見て欲しいと思います。

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2019年8月20日 (火)

高校生が描いたヒロシマ原爆の絵画展

今年の夏、多くのマスコミが取り上げた広島市立基町高校性が描いた「ヒロシマ原爆の絵画展」が、広島国際会議場地下2階中会議場コスモスで開催されています。会期は、21日までです。私は、昨日行ってきました。

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会場に着いたのは、午後2時過ぎでしたが、多くの参観者がいました。ざっと数えると25人を超えているようです。みんな熱心に見ておられます。その中に、絵に添えられたキャプションを熱心に読んでおられる人の姿が目に入りました。

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一度体験談をお聞きした安楽寺の前住職で被爆者の登世岡浩治さんです。登世岡さんが、見終えられたところで声をおかけしました。「登世岡さん、どう感じられましたか」と問いかけると、返って来た言葉が、「今晩は眠れそうにありません。あの皮膚の垂れ下がった姿を描いた絵を見て、当時を思い出しました。今晩は、きっといろんな体験が、次々に浮かんでくるに違いありません。」でした。そして「だから、私は今でも資料館には入ったことがないんですよ」と続きます。登世岡さんの体験談を聞いた時の「思い出すことが余りにつらく恐ろしい。だから、被爆から約50年間黙して語らずでした」という話を思い出しました。

さらに続きます。「実は、今年7月にこの基町高校から依頼を受け、全校生徒の前で被爆体験を証言したんです。この学校で取り組んでおられる『原爆絵画』のことを知っていましたので、話を始める前に『この中で、原爆の絵を描いている人がいたら、手をあげてください』といったら、後ろの方で数人の手があがりました。そこでさらにこう言いました。『被爆の体験を継承し、平和を訴えるためにがんばっているこの人たちに大きな拍手をしてあげてください』と。生徒さんみんなが大きな拍手をしてくれました。そして『私は、まだ見たことがありませんが、今度機会があったらぜひ見たいと思います』といったのです。ですから、今日はどうしてもこの会場に来なければと思い来たのです」と。そんな出会いがあったから、本当なら見たくないこの「ヒロシマ原爆の絵画展」に来ておられたのです。そして人一倍熱心に見ておられたのです。

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不思議な出会いを感じながら、私もゆっくりと見て回りました。何人かの知り合いの被爆者の名前が、見えます。そして、テレビで取り上げられた作品もあります。絵の横には、絵のタイトルと「絵がかられ情景」さらに「生徒のコメント」「被爆体験証言者のコメント」が書かれた説明文が添えられています。「人が黒くなっている想像できず、色を作って塗るのに抵抗を覚えた。・・・」どんなに大変な作業だったか作者の苦労のあとがうかがえます。「とてもイメージの湧きにくい場面だったと思います。絶望して死ぬ人など普通では一生見ないでしょうね。」被爆者のコメントです。

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ずーと見ていくと会場の真ん中に据え付けられた立て看板に目が止まりました。それは、絵画とは別に9月完成を目指して「原爆の絵本・紙芝居製作」が進んでいるということを掲示した内容でした。おどろいたことに、その証言者が旧知の小倉圭子さんだったのです。すでに何枚かの絵が出来上がっているようです。「原爆の絵本・紙芝居」が完成するのが楽しみです。小倉さんが、基町高校のこの企画に協力していることを初めて知りました。もう一度展示されている絵画をよく見ると、小倉さんの証言をもとにした絵画が2枚ありました。

本当ならば絵画の感想を書かなければなりませんが、ここでも人との出会いを感じましたので、そのことを中心にした報告になってしまいました。

今日、明日の二日間しかありませんが、ぜひ多くの人に見ていただきたい「絵画展」です。

いのととうとし

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2019年8月19日 (月)

フランシスコ・サビエルと山口

先日、山口に帰郷した際、少し寂しくなったアーケード街を歩いていたら下の写真の銅板を目にしましました。これまでにも歩いていた道でしたが気づいたのは初めてです。

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画が刻まれた真ん中の銅板は、布教の様子が描かれています。左右の銅板には、説明文が書かれています。向かって右側の銅板には、フロイスの日本史の一部「(前略)山口のわれらの教会の正面に、釈迦を拝む本國寺という法華宗の僧院がある。異教徒たちには我らの四句節にあたる彼岸という時期があるが、年間のその時期になると、おびただしい数の聴聞者が寺院を訪れて喜捨を行い、その他の寺院にも参詣する。(略)」が記載されています。

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後ろを振り返ると、本國寺の門柱が目に入ります。本堂は、シダレザクラの並木道を入ったぞっと奥にあります。

ところが、向かって左側の銅板には、「大道寺について」というタイトルが付けられ「大道寺とは、天文21年(西暦1552年)、大内義長が山口にいたキリスト教宣教師に対して、協会の設立を許可した書状に記された寺院(協会)の名前である大道寺があった場所については、2つの説が知られる。ひとつは金古曽町にあるサビエル公園付近で、もうひとつがここ道場門前の本國寺付近である。」と記載されています。かつて私の兄(キリスト教徒)が、山口を訪れた時に、ぜひ訪ねてみたいということで一緒にサビエル公園を訪れたことがありますので、ここ「本圀寺」付近という説は今回初めて知りました。サビエルは、日本国内の様々なところで「布教の許可」を与えられたようですが、「常設の教会設置」が許可されたのは、日本国内ではこの山口が最初でした。ちなみにこの場所は、当時大内館があったとされる場所(現在は龍福寺の境内)からは、サビエル公園は、東に600メートル、本國寺は、南西に1.2キロの場所です。距離的には、サビエル公園は、大内館から近すぎるように思いますが、果たしてどちらが?

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翌日家族とともに「サビエル公園」を訪れました。公園から少し離れた場所に立つ門柱は何か古めかしさを感じます。この門柱は、「ビエル公園」になっています。

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公園に入ると、真ん中にサビエル像をはめ込んだ高さ10メートルの「聖サビエル祈念碑」が建っています。見上げるような大きさです。公園の右手には、「サビエル記念公園」の由来が書かれて看板があります。そこには「明治22年(1889年)フランス人アマトリウス・ビリヨン神父は、山口におけるサビエルの遺跡について探求し、現在の公園の地をその跡と考え、有志の協力で土地を買い求めました。」とその由来が記載され、大正15年(1926年)にサビエル記念碑が建立されたことも書かれています。さらに、この説明版を読むと、「教会設置」の許可が出たのは、サビエルが山口を去った後の天文20年(1551年)9月、弟子のトルレスに与えられたことが分かります。「聖サビエル記念碑」を挟んだ反対側には、許可を与えた書状を銅板にしたものが碑として建立されています。しかし、今この公園には訪れる人も少ないのかちょっとさびれた感じがしました。

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ところで、山口でサビエルといえば「サビエル記念聖堂」が思い浮かびます。妻の実家のマンションからもその尖塔が見えます。1991年の火災で全焼した後、1998年に再建されたものです。これをめぐっては様々な意見がありました。消失前の聖堂が建っていた時期に憩いの場として何度も訪れていたというわが家の家族には、今も不人気です。さてみなさんは?

いのちとうとし

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2019年8月16日 (金)

木内みどりの朗読「絵本 おこりじそう」―原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい

  毎年、敗戦記念日の8月15日に開催される「原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい」が、今年は台風の接近で危ぶまれましたが、無事広島市ひとまちブラザで開催されました。私も、今年の企画のメインとなっている俳優の木内みどりさんの「絵本 おこりじぞう」の朗読を聞くため参加しました。

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主催者の一人である広島文学資料保全の会代表・土屋時子さんの司会で始まった今年の「市民のつどい」は、最初に四國五郎さんの長男・四國光さんの「四國五郎が『おこりじぞう』に込めた思い」と題しての講演でした。「子どもの時から絵描きになることしか考えていなかった」という四國さん話。そして三つの戦争体験「戦争、シベリア、弟の原爆死」が紹介されました。四國さんも香月泰夫と同じようにシベリア抑留を体験していますので、先日の展覧会のことがたぶってきます。こんな短い間に二つのシベリア体験を聞くことになるとは思いませんでした。そして帰国後の広島での活動が非常にわかり易く話されました。この中で私の印象に強く残っている話は、四國五郎さんが光さんに繰り返し言っていたといわれる「つまらんことで怒るな。世の中には悪い奴はいろいろいるが、本当に悪い奴というのがいて、それは戦争を起こす奴だ。これはけた違いに悪い奴。だからつまらんことで怒らずに、戦争を起こす奴に本気で怒れ」という言葉が紹介されてことです。まさに8月15日のふさわしい、そしてこの日だからこそ改めて思い起こさなければならない言葉として伝わってきました。「父の価値観の背骨だった」と光さんは語ります。もちろん、帰国後知る弟の被爆死、峠三吉さんとの出会いなどなど感銘を受ける話が続きました。その中で、もう一つ印象の残ったのは、NHKが中心となって取り組んだ「市民が描いた原爆の絵」プロジェクトに参加されていたということです。光さんは、この「市民が描いた原爆の絵」を高く評価しています。

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光さんのあとは、いよいよ木内みどりさんの「絵本 おこりじぞう」の朗読です。やはり迫力があります。訴える力があります。木内さんの「絵本 おこりじぞう」の朗読は、今回が9回目。木内さんがこの本の朗読を始めようとしたきっかけは、友人がこの本を広島のおみやげとして買って帰ってくれたこと。そしてかつて訪れた丸木美術館で原爆の図を見た時、絵の力をすごく感じ、その丸木美術館で「四國五郎展」が開催されるのを知り、「ぜひその展覧会で朗読をさせてくれ」とお願いし、初めての朗読が実現したそうです。その朗読は、絵本そのものを読むのではなく、聞く人にも絵を見てもらいたいとの思いから、展覧会で展示されていた原画をスライド化させて、それを上映しながらの朗読会となったのです。

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そして「全身全霊で読みたい」という自分の思いが、観客に届いたという実感を得ることができたので、継続してやり始めたことになりました。木内さんの朗読の意味をこう呼びかけました。「自分で声を出して読んでみてください。その声を聞くと、ただ絵本を読む時と違うものを感じることができます。自分の体をとおすことで、記憶の継承ができるのではないかと思っています」と、体験を持たない私たちに対する示唆を与える話で今日のつどいが終了しました。

いのちとうとし

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2019年8月14日 (水)

香月泰夫のシベリアシリーズ展を観る

12日、13日と妻の実家がある山口に墓掃除のため、帰郷しました。街を歩いているといたるところに「香月泰夫シベリアシリーズ展」のポスターが張り出されていました。

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山口県立美術館開館40周年記念コレクション特別展として、7月23日からスタートし、8月18日まで開催されています。このシベリアシリーズは、全部で55点ありますが、すべて山口県立美術館が所蔵しています。同美術館が所蔵しているといっても、全作品が一挙に展示されるのは、8年ぶりとのことです。ちょうどよい巡り会わせとなりましたので、さっそく美術館を訪れました。入場料のシニア料金600円(大人は800円)を支払い、展示場へと歩を進めます。

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展示会場は、Ⅰ.応召―戦地の香月泰夫、Ⅱ.敗戦、そしてシベリアへ、Ⅲ.セーヤ収容所、Ⅳ.チェルノゴルスク収容所、Ⅴ.復員―日本海をめざして、Ⅵ.〈私の〉シベリアの6章で構成されています。展示場に入って、まずびっくりしたのは、並んでいる作品が、私の想像を超える大きさだったことです。入り口に置いてあった「出品目録」を見ると、ほとんどが100cmを超えています。

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特に大きい作品は「涅槃」で、130.3cm×194.3cmあります。最も小さな作品「湿地」でも72.9cm×49.9cmですから、作品の大きさが分かると思います。この大きさだけでも圧倒されますが、一枚一枚丁寧にキャプションを読みながら、進んでいきました。キャプションには、こんな経歴が書かれています。「香月泰夫は、1911年生まれ。32歳という遅い年齢で1943年に召集を受け、満州へ配属となり、奉天(現在の瀋陽)で終戦を迎え、進駐してきたソ連軍によってシベリアに抑留され、1年9カ月ほど過酷な労働に従事した後、1947年4月に解放され帰国しています。」キャプションを読む進むうちに、何とも言えない思いに駆られてきました。それは、私の父親がたどった道でもあったからです。父は、家族とともに満州・奉天で魚屋を営んでいましたが、終戦もまじかになった1945年7月25日(と聞いていますが)にすでに40歳を超えていたにもかかわらず、現地召集を受け兵役に就き、そのわずかな時間にもかかわらず、香月と同じようにシベリアへの抑留の道を歩んだのです。厳しい抑留生活に耐え、香月と同じように1947年に帰国しています。残念なことですが、当時の様子を生前父から聞くことはありませんでしたので、父も同じような体験をしたのだろうなと思いながら、全作品をじっくりと見ました。

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さらに香月泰夫のシベリアシリーズには、満州に住んでいた日本人が貨車で運ばれる様子を描いた「避難民」という一枚がありますが、それを観ながら、今度は残された私の家族(母と子ども5人)もこんな様子だったのだろうかと想像せずにはいられませんでした。これまでもいくつもの展覧会を見に来ていましたが、こんな思いをしながら見た展覧会は、今回が初めてです。そんなことから、最初から見直し、結局2度観ることになりました。

この展覧会をぜひ多くの人に見てほしいという気持ちですが、残りの期間は後わずかです。本物を見るのが一番ですが、「シベリアシリーズ」については、何冊かの出版物で紹介されていますので、ぜひそちらを読んでみてください。

いのちとうとし

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2019年8月13日 (火)

長崎くんち

8月7日原水禁世界大会長崎大会の開会総会の終了後、いつものようにちゃんぽんを食べに永楽苑に行きました。もちろんちゃんぽんを美味しく食べましたが、今回は意外なこと遭遇しました。

お店の向かい側の公園に多くの人が集っています。何が始まるのだろうと尋ねると、10月7日8日9日の三日間開催される「長崎くんち」のための練習が今から始まるということでした。踊町は長崎市内に全部で59カ町あり、全町が7つの組に区分けされ、奉納踊りを出す当番は、7年に一度回ってくるとのことでした。この地域、江戸町は今年が当番ということで、そのための練習が行われる日にたまたまめぐり合わせてようです。

そろいの濃紺のTシャツに身を包み、頭にはねじり鉢巻き姿の男性陣。そしてその周りには、オレンジのTシャツを着た子どもたち。

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       7年前の江戸町の奉納踊り

公園の隅に作られた倉庫❓から、江戸町の山車(と呼ぶのかどうかは不確か)オランダ船が、引き出されていました。大人の男性が曳く「オランダ船」は、お囃子を奏でる小学校3年生から6年生までの子どもたちを乗せると、直ぐに別の場所に移動し始めました。もっと広い場所で練習するそうです。

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このオランダ船とは別に、船上が花で飾られた小さな船もありました。この山車は、小学校2年生から幼稚園の年長組の子どもたちによって運行されます。指導されている大人の方に話を聞きました。「小さな子どもたちなので、まだまだ力が足りません。今は、筋力をつける訓練です。」

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そうするうちに、子どもたちの何人かが、大人を力いっぱい押し始めました。子どもたちの筋力を確かめながら、船のどの位置に配置するか決めておられるようです。

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ようやく両側4人づつの配置が決まり、いよいよ船の引き回しの練習です。なかなか回り始めないのですが、旗振り役の指示に従いながら、精一杯の力を出し、何とか回り始めました。途中でストップする場面もありましたが、何とか360度の回転を終えました。指導する大人の顔にもほっとした表情が現れます。子どもたちの頑張りに、ちょっと拍手です。お盆までは、週2回の練習ですが、盆明けからは連日練習するそうです。

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7年前の江戸町の子どもの奉納踊り

きっとこの子どもたちも、10月7日からの本番には多くの観客から大きな拍手がもらえるようになるのだと思います。とにかく、7年に1度しか回って来ないのですから子どもたちにとっても、一生忘れられない思い出になることでしょう。

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翌日、原水禁大会の行事が終わった後の時間で、踊りが奉納される諏訪神社を訪ねてみました。数年前、テレビの番組で「長崎くんち」の勇壮な様子を見たことがあったのですが、現地を訪れたのは初めてでした。奉納が終わると、山車は急な石段を下り、街に繰り出すそうです。ここで出会った人に聞くと「江戸町、あーオランダ船ですね」とすぐに返ってきました。長崎市内の人は、誰もが「長崎くんち」のことはよく知っているなと思いました。それにしても、長崎には古い町名がたくさん残ってます。これも「長崎くんち」と関係があるのでしょうか。

いのととうとし

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