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文化・芸術

2019年11月18日 (月)

「国際フェスタ2019」に行きました。

昨日、毎年この時期に国際会議場を主会場として開催される「国際フェスタ」に行ってきました。20回目ということですので、秋葉市長の時代に始まった行事のようです。

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今年は、20回という節目とともに「広島国際会議場開館30周年記念」ということで、例年になく「ひらこう世界のとびら であおう世界のなかま」のタイトルにふさわしい企画が多数準備されていました。会場の様子を写真と共に紹介します。

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国際会議場に着いてすぐに目に入ったのが、平和大通りに設けられた「ひろしま国際村~世界の屋台」のテントが立ち並び、美味しいにおいが漂っています。

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国際会議場入り口前の屋外ステージでは、例年のとおり世界の国々の舞踊が演じられています。私がついた時は、「メキシコ民族舞踊」の最中でした。

国際会議場に入ると沢山のコーナーが準備されています。最初に行ったのは、「広島から世界へ!姉妹・友好都市の旅」のコーナーです。ボルゴグラードはマトリョーシカの絵付け、大邱はハングルでの名札づくりなどなど参加型の企画が用意されています。現在広島市の姉妹都市は、ほかに重慶やホノルルなど計6都市です。

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私は、カナダ・モントリオール市のフェルトを使ってのオーナメントづくりに参加し、トナカイを作りました。次にすぐ隣で行われていたある中国帰還者による中国式組み紐づくりのコーナーへ移動、昨年も挑戦しましたがなかなかうまくいきません。

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同じ部屋には、市民団体等の活動紹介コーナーありました。「ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクト」も出展していましたので、現在のセミパラチンスクの状況を聞くことができました。原水禁大会に代表を呼んだことを思い出します。

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向かい側の部屋では、「地球ひろば」が設けられており、アフリカ発祥で中近東や東南アジアで行われているという「マンカラ」などの外国のゲーム遊びや中国茶の試飲、民族衣装の試着、写真での紹介があります。私は、中国からの留学生が接待する中国茶を楽しみました。

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国際協力バザーでは、各国の民芸品が販売されています。

今年は、記念の年ということで例年は会場となっていなかったフィニックスホールも使用され、午前中に野口健さん(アルピニスト)のトークショウが行われ、午後2時からは6グループが参加する「世界の音楽と舞踊」も演じられました。私もちょっと覗いてみました。インドネシア・バリ島の伝統音楽ガムランと舞踊、続いて広島韓国伝統芸術院による「韓国楽器による演奏と舞踊」、次に広島朝鮮学園中高級部舞踊部、民族楽器部による「統一アリラン」の演奏と踊りが繰り広げられました。大きな拍手です。残念ですが、主催者の要請によりこの写真はブログにアップできません。この舞台を見ながら「朝鮮学園が無償化から排除されている」人は、この中で何人ぐらい居られるのかなとつい思ってしまいます。

他にも「平和のため」「日本文化体験コーナー」「学びのコーナー」など多数の企画が準備されていましたが、全てを回ることはできませんでしたが、楽しい時間を過ごすことができました。この企画が、さらに国際交流の輪を広げる契機となればと思いながら会場を後にしました。

いのちとうとし

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2019年11月13日 (水)

「叫ぶ芸術」ポウター展に行ってきました

先月30日のこのブログで紹介した「『叫ぶ芸術』ポスター展」に行ってきました。今回の会場は、おりづるタワービル10階にある「エソール広島」。「このビルは、入り口が自動ロックになっているので、「1001」を呼んであけてもらってから入ってください」と教えられていたのですが、ちょうど昼休み休憩の時間で出かける人があり、入り口が空いていましたので、そのままエレベーターで10階へと移動しました。

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10階でエレベーターを降りるとすぐ目の前が「エソール広島」の事務所。中に入るとすぐにポスターが目に入ります。展示されているポスターは、16枚ほど。きちんと数えていませんでしたが、後で主催者の人に聞くと、この前の会期の会場(袋町の「ひと・まちプラザ」)より狭いため、半数の展示になってしまったとのことでした。

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ポスターの横には、1枚づつ三井マリ子さんの少し長めの解説がついています。この解説があったため、私にも「ポスターが訴えている意味」を理解することができました。いずれも興味あるポスターでしたが、その中でも「えっ」と思わされたのが、下のポスターです。

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タイトルは「新ドル札の顔となる19世紀のモーゼ」(アメリカ)です。解説を読むと「アメリカ・メリーランド生まれの奴隷ハリエット・タブマンは、1849年、奴隷制のないフィラディルフィアへの逃亡に成功した。」と、「その後家族や親族縁者60人余りを逃亡させた」さらに「南部の州では『奴隷逃亡法』が制定される中で、脱出させた奴隷は11年間に300人以上といわれ、ハリエットは、『モーゼ』と呼ばれるようになった」と記載されています。私が興味を持ったのはその後です。「今年(筆者注:2016年のこと)4月、ハリエット・タブマンが新20ドル札の顔に選ばれたニュースが世界に流れた。」とあります。その後の解説には「アフリカ系アメリカ人が紙幣の顔をなるのは初」とあり、面白いのは、「女性参政権獲得100年」となる2020年を記念して新20ドル紙幣の顔に「女性を採用せよ」と女性たちが大運動を起こした実現させたとのことです。そしてさらにすごいのは、それを受けアメリカ財務省が60万人以上のアンケートの結果、ハリエット・ダブマンサンを選んだということです。公平ですね。今「首相の桜を見る会」への後援会招待をめぐって論争が起きている国とは大きく違うようです。

もう一つのびっくりは、この文章を読む限り、アメリカ紙幣に女性の顔が登場するのは初めてのようです。日本で紙幣に女性が採用されたのは、これまでに2件あります。明治時代に神功皇后の肖像が使われたことがあるようですが、これはとりあえず置くとして、戦後には2004年11月に発行された5000円札に樋口一葉が使われています。紙幣に関する限り女性の登用は、日本が早かったようです。ところでこの5000円札、2024年には新紙幣が発行される予定ですが、今度も女性の津田梅子の肖像が使われることになっています。

他のポスターについても興味ある解説があります。17日までの会期になっていますので、ぜひ一度行ってみてください。

ただ、広島県男女参画財団という公的性格を持つ「エソール広島」がちょっと入りにくい環境にあるのは、驚きでした。フロアーには、100名ちょっとの集会場もありますが、このセキュリティーではなかなか利用しづらいなと感じました。

いのちとうとし

 

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2019年11月12日 (火)

「金剛山歌劇団2019年広島公演」開催

「金剛山歌劇団2019年広島公演」が、昨晩午後6時半から広島アステールプラザで開催されました。今年も昨年に続き、日朝連帯広島県民の会や広島県平和運動センターで構成する実行委員会は、「広島朝鮮学園支援チャリティコンサート」として名刺広告や入場券販売などの取り組みを行いました。

会場には、在日朝鮮人の皆さんが家族ぐるみで参加されている姿が多く見受けられましたが、ここ数年日本人参加者の姿も多く見受けられるようになりました。初めて金剛山歌劇団の公演を見たという日本人参加者は、「ただ素晴らしいの一言です。初めて見ましたが、感動しました。」と感想を述べていました。公演を見た人は、一様に強い印象を受けたようです。こうしたことを通じて日朝友好の輪が広がることを期待したいと思います。

オープニング前に、広島朝鮮学園の子どもたちによる民族楽器の演奏と群舞が演じられました。かわいらしい子どもたちが、懸命に演奏し踊る姿に大きな拍手が寄せられました。映像をお届けできないのが残念です。

いよいよ金剛山歌劇団のメンバーによる公演です。毎年新しい趣向を凝らした内容で観客の期待に応える演舞が繰り広げられますが、今年は「アリランの春―われらの願い夢列車に乗せて」がテーマで、歌と踊りを中心に、例年のとおり2部構成となっていました。例年に比べると民族楽器などの演奏がほとんどなかったの残念でした。

演目を紹介します。

第1部は、群舞「平和への翼」、混成重唱「栄あれ我が祖国よ」、群舞「地下金剛」(初めて聞くような感じのタイトルです)、男声重唱「故郷に春が来た」(長く歌い続けられているようです)、重舞「幸多かれ豊漁の海」、最後が群舞「華麗なる名勝三千里」でした。オープニングが「平和の翼」となっている構成に金剛山歌劇団の思いが伝わってくるような気がしました。

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第2部は、群舞「希望の鼓動」で始まり、恒例のチャンセナブ独奏「アリランの春」、男声独唱「まなざし」、女性三重唱「コッミレアリラン~花いっぱいの未来へ~」(統一への希望のアリランとして新たに歌われた)、混成重唱「夢列車に乗って」、デュエット「ハナーひとつー」、民謡メドレー「①牡丹峰②船を漕げ③統一アリラン」、そしてこれも恒例の民族舞踊「農楽舞」(今年もまた違うアレンジでの構成です)、フィナーレは合唱「三千里を虹色にそめる統一の夢」です。時には、会場も一緒に手拍子を打っての歌声など、舞台と会場が一体となった公演でした。

こうした演目を並べてみると気付かれたことがあると思います。全体を通して流れているテーマは「統一」ということです。昨年、歴史的な米朝首脳会談の実現した朝鮮半島をめぐる情勢の中で、在日朝鮮人の人たちにとって「統一」への願いがどれほど強いものが改めて感じられた公演でした。

混成重唱「夢列車に乗って」は、すべての歌詞を覚えていませんが、「玄界灘を渡り、プサンからソウルへ、そして夢のピョンヤンへ」さらに「シベリアからヨーロッパへと夢の列車は走る」という内容でした。この歌詞を聞きながら、「決して『夢列車』ではなく、一日も早く実際の列車として走らせなければ。そしてその一番列車に乗りたいな」という思いを強くしました。そんな思いを感じたのは私一人だったでしょうか

いのちとうとし

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2019年11月 6日 (水)

音楽の花束―秋―広響名曲コンサート

広島交響楽団の「音楽の花束―秋―広響名曲コンサート」が、4日広島国際会議場フェニックスホールでありました。

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今回のコンサートの指揮者は、広響終身名誉指揮者の秋山和慶さん。ゲスト奏者は、今年のチャイコフスキー国際コンクールで第4位を受賞したバイオリニストの金川真由美さん。

演奏の評価をする能力はありませんので、演奏曲を紹介します。幕開けは、ウェーバーの歌劇「オベロン」序曲、続いて金川真由美さんが登場し、チャイコフスキーの「ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品35」がダイナミックにそして繊細に演奏されました。

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ところで、当日配布されたパンフレットによれば、金川さんが使用したヴァイオリンは「17世紀後半製作のぺトラス・グァルネリウス」で、ドイツ演奏財家財団のドイツ国家楽器基金から貸与されたものだそうです。私の少ない知識では、ヴァイオリンの名器といえば、ストラディヴァリウスの名前しか浮かばないのですが、ぺトラス・グァルネリウスも同じように非常に人気の高い名器のようです。

15分間の休憩の後、ドヴォルザークの交響曲第8番ト長調作品88が熱演されました。充分に堪能できた2時間のコンサートでした。

「音楽の花束」のコンサートでは、その名にちなみエントランスロビーやステージ上に花と緑の空間が演出されています。これも楽しみの一つです。ロビーでは、クイズ用紙が配布され、それに答えると演奏会終了後、花のプレゼントと交換できます。配布されるクイズ用紙にも限りがありますので、毎回少し早めに会場に行くことにしています。今回もゲットできました。クイズは、「パンジーを国花としている国は?」「秋に行われる市民コンサートの名称は?」でした。答えは「ポーランド」と「威風堂々クラシックin Hiroshima」です。今回の花のプレゼントは、パンジーでした。ポーランドの国花パンジーが選ばれたのは、広響が今年8月、日本・ポーランド国交樹立100周年を記念し、ポーランドで平和コンサートを開催したからだと思います。

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エントランスロビーでは、もう一つの企画が準備されていました。コサージュ作りコーナーです。机の上には7~8種類の小さな切り花が用意され、そのうち3種類を選んで好みのコサージュを作ります。出来上がったコサージュを胸に付け、コンサート会場に入る姿が目につきます。

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会場に入ると今回もステージ上の左右には、大きな生花が飾られていました。

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公演会終了後には、クイズ用紙と交換で、プレゼントのパンジーの苗ポットをいただき、帰宅しました。今回も楽団員のメッセージ付きです。

いのちとうとし

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2019年11月 4日 (月)

「秋の散策」―浅野氏入城400年記念コース

毎年秋のこの時期に開催される広島市観光ボランティアガイド協会主催の「秋の散策」が、今年は11月2日に開催されました。昨年の「西国街道めぐり」には一人で参加しましたが、今回は夫婦で参加しました。

今年の「秋の散策」は、「浅野氏入城400年記念コース」と銘うち、広島城と縮景園をめぐるコースが設定されていました。

集合場所は、広島城大手門前。しかし、菊花展の最中ですので混雑を避けるため、少し西側の広島城南側広場に集合しスタートです。40人を超える参加者で、6~7人でのグループ分け。私たちは第1班で6名、ガイドは、ボランティア協会会長の持永義孝さんでした。

最初の案内は、広島城天守閣が最もきれいに映る場所を紹介。RCCの塔や周りの住宅が写らないスポット。集合場所のすぐそばにある圓鍔勝三作「花の精」の北側のお堀沿いです。

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確かに私の腕でもきれいに撮れました。天気が良く、堀の水面には天守閣が写っています。

いよいよ広島城の案内ですが、今日は回った道順の紹介と初めて知ったことを記載します。大手門をくぐり、二の丸へ。多門櫓の由来、太鼓櫓の時を告げる太鼓などなどの説明。残念ながら広島城では、今は時を告げる太鼓は打たれていませんが、今も太鼓を鳴らして時を告げているのは彦根城だけとのこと。

本丸へ移動です。二の丸から本丸へ移動するとき通る中御門跡で石垣の組み方の解説。

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2枚を比べて石組みの違いが分かりますか。左側の写真では、石の側面が揃っていますが、右側の写真では、石の長い方が右・左と交互に組まれています。こちらが新しい時代のものです。広島城を築いた毛利輝元は、石垣づくりの集団・穴太衆(あのうしゅう)に頼らず、自力で築いたと言われています。それが左側の石垣です。

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石垣の中にちょっと珍しい石がありました。よく見ると牡蠣殻がついています。瀬戸内海から石を運んだことがよくわかります。この石のことは初めて知りました。

いよいよ本丸です。鬼側のこと、破風のつくりなどなどの解説。

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ここでは、持永さん持参の「被爆前まであったといわれる大天守閣と東小天守を結ぶ渡櫓が写った写真」での解説。戦前はこの渡櫓から天守閣に登るようになっていたようです。帰宅して「財団法人広島市文化財団広島城」が発刊した「広島城壊滅―原爆被害の実態」を見ると、そこに上の写真が掲載されていました。今は天守閣のみですので、この姿を見ることはできません。

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本丸の東北角に、壊れかけた石垣があります。広島大学も三浦教授の説によると、浅野の前の城主だった福島正則が、自らの潔白を証明するために壊した跡だと言われています。しかし諸説があるようです。私が知りたかった「福島正紀はどこの石垣を修理したのか」ということは、残念ながらわからないとのことでした。

ここで広島城は終わりです。最後に向かったのは、縮景園です。

縮景園では、抹茶とお菓子が用意されていました。茶店で一休みした後、持永さんの解説を聞きながら園内を散策。途中で、予定の午後4時になり「先の散策」は終了しました。

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最後の集合場所へ移動する途中に、菰巻きされた松が並んでいましたので、一枚パチリ。

観光ボランティアガイドの皆さんありがとうございました。来年も楽しみにしています。

自宅を出発して帰宅するまでの歩数は13,314歩でした。

いのちとうとし

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2019年10月30日 (水)

「叫ぶ芸術」ポスター展のご案内

I女性会議(あいじょせいかいぎ)中央本部発行の「 I女のしんぶん」に掲載されている「叫ぶ芸術」ポスター展が開催されます。

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上の図が、ポスター展の案内です。クリックして見てください。拡大します。

世界の女性政策を研究している三井マリ子さんが長年にわたって収集してきたポスターは、どれも、それぞれの国で、女性解放運動や男女平等推進の広報に使われたものです。

「あらゆる労働分野に女性の進出を」「女は娼婦でも女中でもない」「女性議員を増やそう」「DVの泣き寝入りをやめよう」

ユーモアも取り入れながら訴える発信力に、胸を打たれたり、思わずクスッとしたり・・・ぜひ会場におでかけしてみてください。(無料です)

 

広島会場

★11月3日(日)~6日(水)

合人社ウェンディひと・まちプラザ 1Fロビー

(広島市中区袋町6-36)

★11月9日(土)~17日(日)

広島県男女共同参画財団エソール広島

(広島市中区大手町1-2-1 おりづるタワー10F)

福山会場

★11月23日(土・休)12時~11月24日(日)17時

リム ふくやま 4F 特設会場

(福山市西町1-1-1 エフピコRIM)

 

・主   催   I女性会議広島県本部

・問い合わせ    080-1913₋3557

 

ポスターの内容は、下記のアドレスからもご覧いただけます。

† I女性会議中央本部  † I女のしんぶん「叫ぶ芸術」joseikaigi.com/pg154.html

(Y.M)

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2019年10月27日 (日)

重慶の日

昨日、重慶の日実行委員会が主催する「重慶の日」の行事が、広島市留学生会館(東区荒神町)で開催されました。今年で19回目ということだそうですが、私は初めて参加しました。会場では、重慶市や中国を紹介するパネルの展示、中国切り絵のコーナー、中国茶の体験などの様々な企画が準備されていました。

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私が会場に到着した時には、ステージで日中友好協会広島支部のみなさんによる太極拳が披露されていました。

その後、重慶市がある中国四川省に伝わる伝統演劇・川劇「変面」が、同コンテストで一等賞を獲得したことのある「変面」継承者の江玉(こう ぎょく)さんによって演じられました。この「変面」の技は、男性のみに継承されていたそうですが、2000年代に入り、女性にも許されるようになったそうです。江さんは、現在神戸の大学に留学中で、日本各地で「変面」の出演をつうじて、日中友好の懸け橋となるよう活動を続けているということでした。

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「変面」は、文字通り踊りながら顔に被った面を次々と早変わりで変えていく演技です。数えることはできませんでしたが、10回ぐらいの早変わりがあったと思います。その速さにはただただ驚くばかりでした。パンダを模した面もあるなど伝統的なものと現代のものが織り交ぜられていました。

スケジュールの最後は、パンダの絵などの景品がそろった抽選会がありましたが、残念ながら当たりませんでした。

広島市と重慶市は、1986年(昭和61年)10月23日に姉妹都市提携協定を調印し、その後の交流が続いているようですが、「重慶の日」の行事は、その一環として取り組まれているようです。

私が参加しようと思ったのは、以前から重慶には関心を持っていたからです。これまでに中国を10回以上訪問していますが、重慶は一度も訪れたいことがありません。重慶を訪れたいと思っていた最大の理由は、日中戦争で日本軍によって「そこの住む市民を目標に設定して『士気の征服』をめざす無差別爆撃」が3年間で200回以上も続いた地ですので、その被害の実相を現地で知りたかったからです。

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日本軍による「重慶爆撃」は、東京空襲に先立つ無差別都市爆撃の先例でもあり、その意味では、市民への無差別の最たるものといえる「広島への原爆投下」につながるものがあると言えます。

無差別攻撃を受けた重慶市民の被害がどうであったのか、自分の目で確かめたいという思いは、今も私の中にあります。

「重慶の日」の行事に参加してみようと出かけて行ったのも、そんな思いがあったからです。しかしちょっと残念だったのは、「重慶爆撃」についての展示などを目にすることはなかったことです(私が見逃しただけかもしれませんが)。私の知る限りではっきりとそのことに触れたのは「変面」を披露した江玉さんが、演舞のあとに行った「重慶を紹介するパワーポイント」の一枚でした。

もちろん近代的に変身する重慶の街を知ることも大切ですが、広島と重慶を結ぶものは戦争によって多くの市民が犠牲になったという事実だということも決して忘れてはならないように思います。

そんな思いを新たにした「重慶の日」でした。

いのちとうとし

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2019年9月27日 (金)

白島に建つ原爆文学者ゆかりの碑

22日、23日のブログで紹介した「原民喜」のお墓を真ん中に挟む位置に二人の原爆文学者ゆかりの碑があります。当日そこも訪ねていますので、今日はその二つの碑を紹介したいと思います。

北方向に200mちょっと離れた白島九軒町にある宝勝院の墓地の一角に、土台を除き縦約90センチ、横約120センチの「大田洋子被爆の地」という碑があります。

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大田洋子は、原爆が投下された1945年1月に東京から広島に移転し、8月6日にはこの白島九軒町の妹中川一枝宅で被爆しています。大田洋子の著書「屍の街」には、こう書かれています。「私は、母や妹たちの住んでいる、白島九軒町の家にいた。(略)私たちも、母と妹と、妹の赤ん坊と女ばかり4人住んでいた。」と。ここが大田洋子の被爆地なのです。ところで、この碑は、被爆65周年の平成22年(2010年)7月に建立されているのですが、この地に作られた経緯を、当時の中国新聞は「宝勝院の前住職国分良徳さん(81)が29日、寺の南側にある墓所に文学碑を建立した。同作品(「屍の街」のこと)に国分さん家族の被爆体験が盛り込まれていたのがきっかけという。16歳だった国分さんは寺で被爆。母と妹、弟が下敷きになって死亡した。大田洋子は当時隣の家で被爆しており、『屍の街』には『寺では夫人と赤ん坊と五つの男の子の三人が、下敷きになつて死んだという』と、国分さん一家の状況に触れた文章がある。国分さんは、自分が大田さんにそのことを話した記憶があるといい、この記述に気付いて建立を思い立った。」と報じています。

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碑銘には、「屍の街」の上記の部分が刻まれていますが、碑文では「五つの男の子」の部分が実際の「七つの女の子」に訂正されています。

ところで「屍の街」には、妹との興味深い会話の場面があります。「『お姉さんはよくご覧になれるわね。私は立ち止まって見たりできませんわ。』妹は私をとがめる様子であった。私は答えた。『人間の眼と作家の眼とふたつの眼で見ているの。』『書けますか、そんなこと』『いつかわ書かなくてはならなね、これを見た作家の責任だもの。』」と。その強い思いが、自らの被爆体験を克明に記録した発表されたのです。

市内には、もう一つ大田洋子の碑があります。基町市営アパートの南側にある中央公園の西側木立の中に立つ「大田洋子文学碑」ですが、今日は、写真での紹介だけにしておきます。ここでもちょっとした発見(私なりのですが)がありましたが、また機会があれば紹介したいと思います。

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もう一つは、原民喜の墓から南に100m余り離れた日本郵便株式会社中国支社(旧中国郵政局)の敷地に作られた栗原貞子さん作「生ましめんかな」の詩がはめ込まれたモニュメントです。

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このモニュメントは、中区千田町にあった旧貯金局が取り壊される際、被爆屋上タイルを保存するために作られたものです。旧貯金局の地下室の情景を詠んだといわれる栗原貞子さんの詩と一体のものとして作成されてようです。「生ましめんかな」は広く知られている詩ですので、ここでは紹介しません。

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ところで、このモニュメントの周囲には、「慰霊碑」や旧広島逓信局の被爆石段などがあります。興味深いのは、旧貯金局のモニュメントの横に、「被爆アオギリ二世」が植えられていることです。平和公園の資料館北側に植えられている「被爆アオギリ」は、もともとこの場所で被爆し、1973年4月に庁舎改善などが行われた時、被爆の生き証人として広島市に寄贈され、平和公園内に移植されたものです。ここに植わっている「被爆アオギリ二世」は、被爆50周年の年「1995年」、子どもの代になって里帰りしたようです。

ところで、この旧中国郵政局の敷地には、逓信病院がありました(今も同じ場所にあるのですが)。この逓信病院の原爆投下翌日の情景がことが、先に紹介した大田洋子の「屍の街」の「これを見た作家の責任だもの。」のすぐ後に「死体は累々としていた。どの人も病院の方に向かっていた。」と続き、かなり詳しく書かれています。モニュメントの立つこの場所を大田洋子が歩いたことが分かります。何か不思議なもを感じます。

いのちとうとし

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2019年9月23日 (月)

原民喜の墓

今日は、昨日のつづき原家のお墓についてです。「原民喜の墓」ではなく「原家のお墓」と書いたのは、この墓は原民喜の他の親族も埋葬されていることが分かったからです。そのことには、後で少し詳しく書きます。昨日も書いたように「原家のお墓」は、東白島町の円光寺の墓所にあります。南側の境界の塀に沿って北向きに並ぶ墓の一番東側で、墓所の東南の角です。

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原家の墓は、北向きの一番東側にあるため、墓の正面に北向きの通路が伸びています。墓所にはびっしりとお墓が建ち、通路も狭くなっていますので、他家のお墓を正面から撮影するのに一苦労するのですが、原家のお墓は、正面から全体をきちんと映すことができました。

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お墓の向かって右側の側面に、物故者の名前が刻まれています。他のお墓と同じように亡くなった順に右から名前があります。一番右側に原民喜の妻「貞恵」の名前があり「昭和十九年九月二八日没 三十四才」と刻まれています。ここには享年「三十四才」となっていますが、昨年岩波新書として発刊された梯久美子さんの著書「原民喜」の中では、「享年三十三」となっています。数え年と満年齢の違いだと思われます。その左には、昨日のブログで触れた「文彦」の名前があり「昭和二十年八月六日没 享年七才」と刻まれています。陸軍偕行社が運営していた済美小学校の一年生だったそうです。改めて、昨日引用した「夏の花」に書かれた、悲惨な姿が思い起こされます。その左に「民喜」の名前があり「昭和三六年三月十三日没 四十六才」と刻まれています。その左に「邦彦」の名前があり「昭和五十年十月二十五日没 四十三才」と刻まれています。墓碑の次に刻まれている「守夫 昭和五十三年六月三日没 七十五才」は、お父さんではないかと思われます(文生さんに聞けばよかったのですが)ので、邦彦さんも、被爆直後の死は免れたものの早い死といわなければならないと思いました。墓碑の最後には、文彦さん、邦彦さんたちのお母さんと思われる「良子 平成十年六月十七日没 八十八才」が刻まれていました。ご冥福をお祈りいたします

原家のお墓には、この墓碑の下の墓石の左右両面に文字が刻まれています。隣お墓と近すぎてその場では読みにくかったのですが、写真を撮り、帰宅して拡大してみるとようやく判別できました。

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向かって右側は、原民喜の「碑銘」と題された短い詩が刻まれています。

遠き日の石に刻み

             砂に影おち

崩れ墜つ 天地のまなか  

一輪の花の幻

この詩は、原民喜が作家遠藤周作に宛てた遺書の裏面に記載されていたそうです。原爆ドーム横の「原民喜の碑」にも、この詩が刻まれています。

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向かって左側は、写真を撮るのが難しかったです。ここには7月26日のこのブログ「『星は見ている』の初版に『読後感』が掲載された経緯」で少し紹介した「ゆうかりの友」の冒頭に掲載されている原邦彦作「ゆうかりの友」という短い詩が刻まれています。

ゆうかりのもとに つどいし友よ

ゆうかりのもとで ちりし友よ

その面影は 今も変わらず

寄り道のような形で訪ねた「原家のお墓」でしたが、文生さんとの出会いもあり、原民喜と原家の人たちが少し身近に感じられるようになったお墓参りでした。

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遊川さんが送ってくれた今日のお花は、彼岸花です。今日のブログにぴったりだと思います。

いのちとうとし

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2019年9月22日 (日)

原民喜の墓前での不思議な出会い

台風の到来前にと思い20日の午前中、白島地区の被爆樹木を訪ねて回りました。その途中、以前から訪ねたいと思っていた原民喜の墓がある東白島町の円光寺に寄りました。バス通りから墓地に入るとびっしりと墓が立ち並んでおり、どこにあるのかすぐにはわかりません。ちょうど墓参りのご夫妻がおられたので、「原民喜の墓をご存知ですか」と尋ねると「墓所の右手の一番奥のところですよ」と親切に教えていただきました。教えていただいた通りに進むと、ちょうど原民喜の墓と思える墓前で、お花をあげてお参りされている人が見えます。近づくとやはり、原民喜の墓でした。「失礼ですが、原家の方ですか」とお尋ねすると「そうです。原家のものです。お彼岸が近いので、墓参りに来ていたところです」との返事が返ってきました。

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さらに「私は、原ふみおといいます。私は、昭和22年生れですが、父が『この子は、文彦の生まれ変わりだ』といって、文彦の文に生まれるという字を付けて『文生』と付けてくれたそうです。」と話してくださいました。びっくりです。そんなゆかりのある人に偶然にもお会いするとは。「文彦」は、原民喜の「夏の花」にも重要人物として登場する民喜の甥ですから、びっくりするのは当然です。「夏の花」(1988年刊、岩波文庫より)のその場面を少し長いのですが引用します。被爆翌日のことです。

「馬車は次兄の一家族と私と妹を乗せて、東照宮下から饒津神社に出た。馬車が白島から泉邸の方へ来掛かった時のことである。西練兵場の空き地に、見憶えのある、黄色の、半ずぼんの死体を、次兄はちらりと見つけた。そして彼は馬車を降りて行った。嫂も私もつづいて馬車を離れ、そこへ集まった。見覚えのあるずぼんに、まぎれもないバンドを締めている。死体は、甥の文彦であった。上着は無く、胸のあたりに拳大の腫れ腫物がありものがあり、そこから液体が流れている。真黒くなった顔に、白い歯が微かに見え、投出した両手の指は固く、内側に握りしめ、爪が喰その側に中学生の屍体が一つ。それからまた離れたところに、若い女の死体がひとつ、いずれ、ある姿勢のまま硬直していた。次兄は文彦の詰めを剥ぎ、バンドを形見にとり、名札を付けて、そこを立ち去った。涙も乾きはてた遭遇であった。」

ここに登場する次兄こそが、文生さんのお父さんです。文生さんのお兄さんたちの名前には、「彦」(文彦、邦彦、時彦)の字が使われていますから、被爆後に生まれた文生さんには、文彦さんを原爆でなくした父親の思いが込められた名前が付けられたのです。

原水禁大会で「夏の花のフィールドワーク」を行ったことなど話しているうちに「あなたは、金子さんですよね」と言われ、再びびっくりです。選挙のたびに応援していただいたようで、私のことをよく知っておられたのです。だから初対面の私に、自分の名前の由来を話しいただけたのだと思います。その後は、私も遠慮を忘れて、本通のお店があった場所(原家の住居)など、いろんなこと教えていただきました。「お彼岸の中日23日は台風の影響で来られないと思い、今日お墓参りに来たのです」とのこと。もし、ここを訪れる時間が少しでもずれておれば、またが近づくという予報がなければ無かった出会いです。7月に、初めて原邦彦さんゆかりの広島一中の追悼式(7月30日のブログで紹介)に参加したことといい、この日の文生さんとの出会いといい、不思議な縁を感じます。

原文生さんのおかげで、私も線香の火が消えないうちにお墓に手を合わせることができました。

明日のブログでは、原家のお墓について紹介したいと思います。

いのちとうとし

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