「広島ブログ」

2021年1月
          1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28 29 30
31            

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

文化・芸術

2021年1月 2日 (土)

2021年元日の平和公園

私のブログは、今年も平和公園の風景からスタートです。

今年の元日は、午前8時15分を平和公園で迎えようと、厳しい寒さの中朝8時自宅を出発しました。

平和大橋の欄干と歩道は、うっすらとですが雪化粧しています。

20210101_075535

慰霊碑前の芝生広場は、真っ白になっていました。慰霊碑の上にも雪が少し残っています。

慰霊碑前の人は、2人ほどです。時間が昨年よりは早いとはいえ、全くの様変わりです。平和公園に到着すると最初に慰霊碑に向かって参拝です。

頭を垂ながら、今年の課題はと考えます。第1は、1月22日の核兵器禁止条約の発効を受けての、私たちの運動のあり様です。第2は、絶対に忘れてはならない東京電力福島第1原発爆発事故からちょうど、10周年の節目の年をむかえます。「いまだ福島は終わっていない」ことを忘れず、脱原発と被害者救済の課題を前進させることです。こんなことを頭に浮かべながら、参拝を終えました。

原爆ドームの方に移動しようとするとちょうどビルの谷間から日が昇り始めます。

20210101_080324

元安川の対岸から補強工事中の原爆ドームを眺めます。相生橋には、まだ雪が残っています。ちょうどこのあたりに来た時、世界に向けて「ノーモアヒロシマ」を強く訴える「平和の時計塔」のチャイムが鳴り始めました。

供養塔もわずかですが、雪が残っています。

20210101_082048

昨年も新たの遺骨が加わったとのこと。名前の分かっている人の遺骨が遺族のもとに帰るのは何時のことでしょうか。そしても身元が不明の7万体ともいわれる遺骨が、安らかに眠ることのできる日は何時になるだろうかとの思いが巡ります。

いったん自宅へ帰ろうと資料館まで戻ると入り口には、1月17日までの休館を知らせる立看板が立てられ、その前の机には、持ち帰り自由の「ヒロシマの原爆被害の概要」をまとめたパンフレットが置かれています。

今のコロナ感染の状況で、本当に18日からは開館できるのだろうかと不安になります。昨年秋の一時期、参観者が入り口で列を作っている様子を何度も目にしましたので、本当にいつから再開するのがベターなのかと考えさせられます。

20210101_150814

資料館南側に設置された「地球平和監視時計」を改めて確認します。原爆が投下されてから27,452日、最後の核実験から688日が過ぎたことを示しています。被爆後75年、多くの被爆者がいのちを失っていったことに思いがはせます。そして、688日の日数が、このまま一日ずつ確かに刻まれ、再び0に戻ることがないようにと願わずにはいられません。

20210101_082743

いったん自宅に帰り、午後1時前、再び平和公園をめざします。午後1時から慰霊碑横で予定されている被爆ピアノの演奏会「これからも記憶を継ぐ」を聞くためです。被爆2世のピアノ調律師矢川光則さんとその支援者でつくる「ひろしま被爆ピアノ友の会」が企画したコンサートです。矢川さんは、平和公園のアオギリ前で何度かコンサートをされたようですが、慰霊碑前での演奏会は、今回が初めてです。

並んだ被爆ピアノは2台です。下の写真の手前が、1.8キロの地点で被爆した「ミサコのピアノ」、奥が2.6キロで被爆した「カズコのピアノ」です。2台一緒の演奏会も初めてとのことです。

20210101_125859

演奏会は、揮毫鳥生春葉さん、横笛鼓谷義幸さんによる書のパフォーマンスで始まりました。書き上がった文字は音楽会のタイトル「これからも記憶を継ぐ」です。

  20210101_130909

書が立てかけられます。その書の後ろで演奏が始まりました。ピアノとシャンソウの谷本総一郎さんです。

20210101_134059

川島浩一さん、勝山由唯さんのピアノの連弾です。もちろん被爆ピアノの演奏会での連弾は初めてのことです。師弟関係のお二人、息があっています。

20210101_140036

最後は、名古屋から来られたまほろば遊さんです。まほろばさんは、元宝塚歌劇団で活躍し、現在はシンガーソングライターとして活躍中とのこと。最初に、矢川さんの被爆ピアノによる活動に感動し、自分で作られた絵本「旅するピカドンピアノ」の朗読です。もちろん得意の歌唱もあります。

20210101_142801

歌い終えて「原爆で亡くなった方々、そして戦争で亡くなった方々への祈りの気持ちと、その皆さんの想いを伝えていきますね…という決意、今生きている人たちが平和でありますようにと願いを込めて朗読と歌を歌いました」とあいさつ。感動です。

屋外での2時間の演奏会でしたので、まほろばさんが出演する時間には、ずいぶんと観客が少なくなっていたのが残念でした。

様々な思いをそれぞれの形で、平和のための活動をつづける人たちに出会えた今年の元日の平和公園でした。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2020年12月24日 (木)

藤登弘朗さんの水彩画「被服支廠」

先日、わが家に宅配便が届きました。品名には「ガクブチ(絵)」と書かれています。早速紐をほどきました。ご依頼主の欄には、藤登弘朗さんの名前が書いてあります。

包み紙を開けると段ボール箱が出てきました。段ボール箱の蓋を開くと、きちんと額装された「被服支廠」を描いた水彩画が、入っています。

Photo_20201223172201

添えられた手紙には、「いつも何かとお世話になっています。この一年間被服支廠の保存を願って過ごしてきました。小さな作品ですが、ご笑納くださればうれしく思います。」と書かれています。

ご笑納どころか、ありがたく拝受することにし、お礼の手紙を返送することにしました。

藤登弘朗さんと私の出会いや関わりについては、47日のブログ「『被爆75年・あの日を忘れない』藤登弘朗水彩画展始まる」(http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2020/04/post-3f9136.html)で、詳しく紹介していますのでここでは省略しますが、12~3年のお付き合いになります。

藤登さんが描かれた「被服支廠」の水彩画については、1週間ほど前の12月15日付の中国新聞で「被服支廠 水彩で描く 広島の藤登さんが30点」として紹介されています。その記事を読み「藤登さん、今度は被服支廠でがんばっておられるな。『4月に予定されている個展開催のときにはぜひ案内してください』と連絡を取らなければ」と思ったばかりのところに届きましたので、本当にびっくりしました。

記事にはこう書かれています。

「アマチュア画家の藤登弘郎さん(84)=広島市安芸区=が、保存活用を巡り議論が続く『旧陸軍被服支廠(ししょう)』(南区)の水彩画を約30点仕上げた。県内最大級の被爆建物と向き合い、犠牲者に思いを寄せる。来年4月に開く個展で披露する。

 赤れんがの重厚な外観や、爆風で曲がってさびた鉄扉―。被爆直後に被災者が収容され、多くの人が亡くなった室内も描いている。昨年末、4棟のうち3棟を保有する県が『2棟解体、1棟外観保存』の原案を発表したのを機に、年明けから絵筆を握った。

倉庫群の周辺を歩き、被爆証言や新聞記事を読み込むなどしてイメージを膨らませた。『建物の前に立つと、犠牲者への弔いの気持ちが湧く』。原爆を耐え、年月を経たれんがの質感を出そうと、色使いも工夫を重ねたという。」

10月に開催された「ヒロシマ平和絵画展」にも、他の作家たちの作品に交じって、藤登さんが描かれた「被服支廠」の水彩画が何点かあったことを思い出します。

仕上がった約30点のうちの貴重な1点を送っていただいたのですから、大切に飾らなければならないと思います。

大詰めを迎えている「被服支廠」の保存問題、藤登さんの「世界的に貴重な建物。壊せば全てが無になる。存在を広め、全棟保存へつなげたい」との思いが、実を結ぶことを願わずにはいられません。「全棟保存」は、もちろん私たちの強い願いでもありますが。

なお来年の藤登弘朗さんの個展「旧陸軍被服支廠から原爆の悲惨さを」は、4月21日から「旧日本銀行広島支店」で開催されることになっています。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2020年12月20日 (日)

原水禁国民会議の被爆75周年記念事業「高校生『平和』の作文コンクール」の最優秀賞作品「本気なのか~『黒い雨』控訴を思う~」

原水禁国民会議は、被爆75周年記念事業として、「高校生『平和』の作文コンクール」を実施しました。

公募のテーマは「~戦争のない、飢餓も貧困もない、差別もいじめもない社会、『平和」な社会を作っていくためには、一人ひとりの命が大切にされるために、何が必要なのでしょうか。今を生きている私たちひとり一人の思いを、言葉にしてみませんか。~』でした。

B119d13408766a25db7a9c957e28f789538x3911

沢山の応募の中から、最優秀賞に2作品が選ばれました。その内の1作品は、福山市の盈進高等学校の酒見知花さんの「本気なのか~『黒い雨』控訴を思う~」でした。少し遅くなりましたが、その全文を紹介します。


 「『まどうてくれ。』これは、ふるさとや家族そして身も心も元通りにして欲しいという被爆者の悲痛な叫び」(二〇一五年広島平和宣言)

 八月十二日、広島への原爆投下直後に降った放射性物質を含んだ「黒い雨」を巡り、国の援護対象区域外にいた原告八十四人全員を被爆者と認めた広島地裁判決に対して、広島県と広島市、訴訟に参加する国が控訴した。厚労相は、「十分な科学的知見に基づいていない判決だ」と理由を述べた上で、援護対象区域について「拡大を視野に入れ検証する」と方針を示した。県と市は、被爆者健康手帳の交付を直接担当するために被告の立場だが、これまでもずっと対象拡大を求めており、国に控訴断念を要望してきた。だが、区域拡大も検討するとの国の回答を得て、最終的に控訴を受け入れたという。被爆七十五年。提訴から五年。原告の老いは進み、すでに十六人が亡くなった。どうして控訴か。なぜいま救済しないのか。

 原告の一人、石井隆志さん(八十三)は、十五歳の頃、背中の皮膚に炎症が起き、筋肉が隆起。切断する手術を三度受けた。大人になってもいつも体がだるく入退院を繰り返した。妻が家計を支えたが、それが「心苦しく、しんどかった」と語る。(七月三十日『朝日新聞』)

 同じく沖昌子さん(七十九)は、控訴を報道で知り、肩を落として、こう語った。「(勝訴は)ぬか喜びだった。」いま、引き続き裁判に参加するか悩んでいるという(八月十三日『朝日新聞』)。私は彼らの苦悩の人生と控訴に対する無念に、本気に応えなければならないと思う。

 被爆者の切明千枝子さん(九十一)に控訴について尋ねた。彼女の証言集『ヒロシマを生き抜いて』は、私と仲間が聞き取り、文字を起こして出版された。現在、私は、この証言集を英訳し、インターネットで世界に発信しようと準備している。切明さんは言う。

 「控訴に腹を立てている。『黒い雨』を浴びた知人も悲しんでいる。戦争や原爆の本当の恐ろしさを知らない行政の方には、被爆者の声が通らないのか。これ以上、被爆者が増えてほしくないと思っているのか。情けない。」

 私は中学一年から、真夏にも厳冬にも、一人の市民として市民の中に入り、核廃絶の署名活動の環に加わっている。昨年春、広島市などの援助も受けて、ニューヨーク国連本部で、被爆証言を中心に、英語でヒロシマ・ナガサキの反戦反核の魂を世界に訴えた。NPT第三回準備委員会に際して開かれた「ユースフォーラム」でのことだった。切明さんの平和への願いも盛り込んだ。

 私は、「核と人類は共存できない」と訴え続けた森瀧市郎を尊敬し、娘の森滝春子さんの生きざまに共感する。父と共に核実験に抗議する座り込みをしてきた彼女は、父の背中を追い、ヒロシマ・ナガサキの被害のみならず、フクシマを忘れず、ウラン鉱山で放射能を浴び、健康障がいに苦しむ人々など、世界中の核被害の実態を世に問うている。そんな彼女はいつもこう言う。「一人の人間の力は弱い。だから、人種も性別も年齢も関係なく、国境を超え、みんなで力を合せよう。」私はこの視点に学び、国連でのスピーチのテーマを「連帯」とした。スピーチ後、オーストラリアの三十代の男性が熱を込めてこう発言した。「君たちと一緒に行動したい。」連帯の環の広がりを肌で感じ、うれしくて身震いした。

 今年の広島平和宣言は、「連帯」がテーマだった。広島市長は、政府に対して、核兵器禁止条約への署名と批准を求め、世界が「被爆地ヒロシマの心に共感し『連帯』するよう訴えていただきたい」と述べた。でも私は、「連帯」を求めるなら、「被爆地ヒロシマ・ナガサキの心に共感し」と言ってほしかった。

 地元紙『中国新聞』は控訴に対して、「なぜ国は幅広く救済を決断しないのか。本気で救う気があるとは到底思えない」と主張した。(八月十三日社説)。でも私は、広島市も、本気で救う気があるとは到底思えない、と感じる。どうしてか。それは「連帯」と言いながら「福島」に言及しない平和宣言に疑問を感じているからだ。世界平和は、身近な人との連帯なくして実現し得ないと思う。隣の席でいじめられている人を見過ごして、平和や人権の確立を叫ぶ者を誰が信じようか。長崎平和宣言には今年もまた、「福島を応援する」という一文があった。だが、広島平和宣言には二〇一三年を最後に、「福島」の文字はない。

 私は被爆地で生まれ育った者として、「もう誰にも自分と同じ思いをさせてはならない」という被爆者の復讐と敵対を超えた素朴で崇高な思想を最も大事にしている。それを受け継ぎ、先人たちが築いた礎に学ぶ義務があると考えている私の行動基準は常に、この思想と「まどうてくれ」の悲痛な叫び声である。「人類生存のために核廃絶を成し遂げる。」本気なのか。私はあなたに、そうして自分に問う。

(この文章は、クラブの仲間と「黒い雨」問題に関する新聞などを読み込み、話し合った内容です。部長として私がまとめただけです)


〈編集者注〉酒見知花さんは、盈進高校の「ヒューマンライツ部」に所属しています。ヒューマンライツ部は、「手と手から」をテーマに、「中高生として地域や国際社会の平和と人権の環を広げるために貢献する」(サブテーマ)ための様々な活動(ハンセン病問題から学ぶ学習、「核廃絶!ヒロシマ・中高生による署名キャンペーン」など)を行っています。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

 

2020年11月 3日 (火)

「広島大学旧理学部1号館~未来へ受け継ぐ記憶~」展

広島市が主催し、広島大学が共催する「被爆75周年特別企画 広島大学旧理学部1号館~未来へ受け継ぐ記憶~」展が、1日から旧日銀広島支店で始まりました。私も初日に行ってきました。

展示は、10のコーナーに分かれており、次の10の項目で組み立てられています。

「①広島大学旧理学部1号館(広島文理科大学本館)の沿革 ②被爆前の広島文理科大学 ③原爆による被害(10枚の写真) ④市民が描いた原爆の絵(15枚)なぜが馬の絵が目立ちます ⑤広島文理科大学ゆかりの人物1 三村剛昂(よしたか)(1944年同大理論物理学研究所の初代所長) ⑥広島文理科大学ゆかりの人物2 橋本初次郎(被爆当時、研究室の焼失を防いだ広島文理科大学生) ⑦カタカナのヒロシマ ⑧ヒロシマの地質学に挑む理学部地質学教室の調査 ⑨ヒロシマの医学に挑む 広島大学原爆放射線医学研究所所蔵資料から ・「ヒロシマ」に挑む広島の医師たち 原爆投下直後からの活動 ・原医研と爆心地復元調査 ・被爆者の医療研究と被爆資料の収集 ⑩ヒロシマピースツーリズムで巡る被爆建物」

この他にも被爆した弁当箱など現物も展示されています。

入口すぐ左には、広島文理科大学や東千田町に関する被爆体験証言映像の上映や証言パネルの展示がされ、11月3日(火、祝)、11月7日(土)、11月8日(日)の14時及び15時から、国立広島原爆死没者追悼平和祈念館の朗読ボランティアによる被爆体験記朗読会が、実施されます。

会場内は、撮影が禁止されており、展示物を紹介する印刷物も配布されていませんので、細かな紹介は残念ながらできません。タイトルだけはメモを取りましたので、雰囲気だけでも感じてほしいと思い、紹介をしました。

Img034_20201102141001

ところで、上の展示会の案内チラシの最初には次のように書かれています。「広島の『知の拠点』再生プロゼクトにより、『知の拠点』にふさわしい保存・活用に向けて検討が進められている被爆建物」

そうです、この「広島大学旧理学部1号館」は、貴重な被爆建物です。

被爆によって、外部を残して延焼したようですが、復興過程においては絶対的に研究・教育施設が不足した時期にあった中で、校舎として存在し続けてきた歴史を持っています。しかし、1985年頃からタイルが壁面から剥離するようになり、特に北面が激しく、頭上注意の看板と防護ネットによって対処したと言われています。そして1991年9月に理学部が東広島に移転し、大学の建物としての役割を終え、保存を前提とし跡地利用計画が検討されてきました。しかし、今もなお方針は固まっていません。既に使われなくなって29年という年月が経ち、老朽化は一層進んでいます。

20201101_124455

昨年末以来、同じ被爆建物である旧陸軍被服支廠の保存を求める市民の関心が大きくなっています。松井広島市長も「全棟保存を求める」と発言されました。この発言を聞いた時、改めてこの広島大学旧理学部のことを思い出し「広島市がやるべきことは、旧陸軍被服支廠をどう保存するのかも大切だが、この広島大学旧理学部の被爆建物をどうするのか、どう保存するのかの結論を早急に出すことだ」と強く感じました。

旧広島大学跡地は切り売りされ、周囲にはどんと新しい建物が建っています。タワーマンションも建ちました。幸いにして建物の北側のひろばは残っています。わたしが現地を訪れた日は好天に恵まれた日曜日でしたので、多くの家族連れや友人同士と思える人たちが、この広場を憩いの場として活用していました。

「被爆75周年特別企画 広島大学旧理学部1号館~未来へ受け継ぐ記憶~」展を観ながら、「広島市は、早急に被爆建物広島大学旧理学部の保存活用方針を立てる必要がある」ことを改めて痛感しました。

この展示会は、今月12日(木)まで開催されていますので、ぜひ訪れていただき、被爆建物の保存を考える機会になればと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2020年10月21日 (水)

「今でしょ!」・その2 ――「SUGA」政権は「本気」――

「今でしょ!」・その2

――「SUGA」政権は「本気」――

 

学術会議の会員任命拒否という暴挙についての考察を始めましたが、前回はその動機を取り上げました。今回はその続きで、菅政権が「本気」で言論弾圧に取り組んでいることを俎上に載せます。少し長くなりますが、お付き合い下さい。

前回は、菅政権が学術会議いじめを端緒に言論弾圧に乗り出した二つの「動機」を例示しました。今回は、菅政権が、言論弾圧に「本気」で取り組んでいることを、荒っぽい証拠になりはしますが、証拠とともに明らかにしたいと思います。

まず、前回示した動機の内の②、つまり、防衛装備庁が軍事研究を強力に推進するために「安全保障技術研究推進制度」を作ったにも関わらず、その制度に反対した学術会議への対抗策として、菅政権があからさまに言論弾圧を始めた辺りを中心に振り返りましょう。

① 最初はお金です。理工科系の研究にはお金が掛ります。(数学の一部など、例外はあります。) バブル時代は例外だったのかもしれませんが、研究補助費は限られています。「二番目では駄目なのか」という蓮舫議員の言葉が有名になりましたが、二番目から一番目になるためには、通常、とてつもない資金が必要になるのです。

  いや、それ以前の問題として、研究費そのものが危機的状況にあるのです。文科省が作成した、このグラフを御覧下さい。

Photo_20201020212101

政府負担がほぼ横ばい状態なのです。そんな中、前回指摘したように防衛装備庁が大学の研究者たちに、「軍事研究をすれば資金は潤沢にありますよ」、と呼び掛ければ結果は火を見るより明らかです。

➁ 憲法9条改正や軍事研究に反対する日本学術会議の存在がハッキリ射程に入ったのは、前回も指摘したように2017年に同会議が「軍事研究反対声明」をまとめて、いわば「全研究者」を代表して政府の方針に盾を突いた時でした。

  その直後の秋、当時の大西隆会長は、新たに選任される105名の名簿を事前に政府側に説明するよう求められ、それに従ったとのことです。これは、学術会議法第三条、すなわち「第三条  日本学術会議は、独立して左の職務を行う」ならびに第七条、「2  会員は、第十七条の規定による推薦に基づいて、内閣総理大臣が任命する」、そしてそれらが依拠する憲法23条、「学問の自由は、これを保障する」違反です。

  当然、この時点で学術会議会長は事実を公開して、国民的問題として政府に対峙すべきだったのですが、なぜかそのような行動にはつながりませんでした。結果として、政府がこれらの法的枠組みを無視し続け、有名無実にする土壌を提供してしまったのではないでしょうか。

③ 任命の対象となる学術会議推薦名簿の事前提出がすんなりできてしまったのですから、権力側の次の一手は、実際に任命「権」を行使して学術会議のメンバーを選び、権力支配を徹底させることになります。しかし、その前に、それなりの批判があることを前提に、次の「内部文書」

ダウンロード - e5ada6e8a193e4bc9ae8adb0e381abe381a4e38184e381a6e381aee58685e983a8e69687e69bb8.pdf

を内閣府が作りました。2018年です。学術会議法の7条が、名実ともに総理大臣の任命権を正当化しているという内容です。学問の自由や学術会議の独立性を蔑ろにしていることも大問題ですが、こうした原理・原則が民主主義を続けるため、いや人類の生存を確実にするために必要不可欠であることへの配慮などは微塵も感じられません。しかし、「権力者の言い分は正しい」という命題に忠実に従う姿勢は歴然としています。

  その内容は論理的に破綻しているのですが、それは問題ではありません。文書のあることが重要ですし、後で触れますが、菅総理大臣の意志を貫くための道具として立派に役立つからです。

④ 今回の、6名を任命拒否するという暴挙は、こうした準備を整えつつ、機の熟するのを狙っていた菅総理が、その機が来たと判断した上でのことだと考えるのが自然でしょう。

④ 人事だけに絞って学術会議を屈服させるというのも一つのやり方ですが、菅政権は学術会議の組織・資金・そして存在そのものの見直しまで同時進行させています。それも、「ブラックな霞が関をホワイトにする」という謳い文句の「行政改革」の一環としての見直しなのです。もちろん、それには目的があります。私たちの守備範囲が増えますし、言葉による対抗策に頼る私たちにとって、より多くの文字数が必要になるため、悪くすると焦点がぼやけてしまって、大きな対抗勢力をまとめることが難しくなる可能性が大きいからです。

 という具合に進行しているのですが、正に用意周到、マスコミを操作し世論も誘導しながら「学術」などという言葉とは縁の遠い多くの市民の無関心さに乗じているのです。ジョージ・オーウエルの『1984年』に描かれた世界実現を目指していてもおかしくはありません。

Orwell03big-brother

「ビッグ・ブラザー」が実現してしまえば、かつてのナチスのように、勝手気儘な施策を展開すれば良いのですが、現在はそこにまでは至っていませんので、それなりの説明が求められ、受け答えをしなくてはなりません。菅総理は「総合的、俯瞰的」視点からという説明しかしていないのですが、これでは何の答にもなっていない上に、仮に、このような表現に意味があるとすると、拒絶された6人が実際に任命されると「総合的、俯瞰的」という条件が満たされなくなることを示さなくてはなりません。

しかし、そのような論理的な議論をする積りは全くないのが、現政権そして前の安倍政権の特徴です。それは、論理的な議論をしようとする相手に対する「必勝法」が存在するからなのです。詳しくは、野崎昭弘先生の名著『詭弁論理学』(中公新書) をお読み頂きたいのですが、それは「強弁です」。とにかく自分の言い分を、相手を無視してでも言い続けることに尽きるのです。つまり、「黒は白だ」と言い続ければ、最後には「合理性」を掲げる相手であっても (いや、「だからこそ」と続けた方がより良い説明だと思いますが―――) 屈服させることができるのです。

そして、「言い続ける」言葉として「空集合」を選べば、それは何も言わないことになります。ずっと答弁を拒否するのも、「強弁」の一形態なのです。

 それも含めて、内閣府の作った「内部文書」を根拠に、「総理には任命権がある」と言い続ければ政権側が勝つのです。時間が稼げれば、アメリカ大統領選挙があり、コロナの状況も変わるでしょう。実際に開催されるかどうかはまだ不確定ではも、東京オリンピックも大きな話題です。そして来年の今頃は衆議院選挙一色になるでしょう。マスコミ的には「学術会議」の旬は過ぎ去っているでしょう。さらに、時間が経過することで「任命拒否」は既成事実になって行きます。3年経てば、任期が6年であるにせよ、その前の任期の会員たちの任命についての是非が問題視されるかどうか、心許ない状況になるでしょう。

しかし、それだけではないのです。「強弁」という手法は、目の前にいる相手には通用するのですが、マスコミを通して、より多くの「大衆」を騙すためには他の方法も必要になります。それは、多くのコマーシャルで使われているように、「イメージ」を通して、言葉を超えたメッセージを伝えることです。

そのために菅政権が使っている「イメージ」はかなり巧妙です。今、行政改革の目玉として大宣伝を行っているのは、ハンコの追放です。「面倒臭いハンコや、押印は止めましょう」に賛成する市民は圧倒的多数でしょう。そのイメージが「行政改革」なのですから、それと「学術会議」をだぶらせて世論操作をすれば、その効果は言うまでもないでしょう。「面倒臭い、無用の長物である学術会議などいりません。ハンコと同じです。」と言われて、内容も分らないまま、賛成する人が増える結果になってしまう可能性があるのです。

押印が日常的に要求されている社会は沢山あります。しかし、学問の自由や表現の自由が蔑ろにされる社会は、人類史上でようやく私たちの自体、あるいはそれに使い的に勝ち取ることのできた貴重な存在です。それを混同させることで、基本的人権を制限しようとする権力側の意図を見抜かなくてはなりません。

実際には、学術会議を廃止するのではなく、「罪一等を減じて」存続は許すが、規模を縮小して経費を削り、人員も減らした上で、「専門家会議」と同じように政権の忖度に終始する組織に衣替えさせるくらいの狡さは当然、持ち合わせているでしょう。「醜い」知恵だとしか考えられませんが、そんな目標を達成しようとしている「SUGA」内閣とは、「Super UGly Administration」 (訳は、「超醜い政権」) の略だと考えるのが相応しいように思えるのですが、如何でしょうか。

こうした動きに対して私たちのできることは何なのでしょうか。学術会議を「忖度会議」にまで劣化させないためにも、「憲法23条 学問の自由は、これを保障する」や「第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない」の意味をもう一度噛み締めて、理解を深め、その理解をより多くの人たちに広げる努力をする必要があるのでないかと思います。

そんな努力の意味を、ナチスの犠牲になり、『1984年』を自ら体験したドイツの哲学者、ノーマン・ニーメラーは、次のような詩に託しています。

 

ナチスが最初共産主義者を攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は共産主義者ではなかったから

社会民主主義者が牢獄に入れられたとき、私は声をあげなかった 私は社会民主主義者ではなかったから

彼らが労働組合員たちを攻撃したとき、私は声をあげなかった 私は労働組合員ではなかったから

そして、彼らが私を攻撃したとき 私のために声をあげる者は、誰一人残っていなかった

 

そうです。任命拒否された6人の一人ではなくても、学者ではなくても、学問とは縁がないと思っていても、政治に興味がなくても、一人では何もできないと思っていても、行動するのは「今」なのです。

[2020/10/21 イライザ]

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2020年10月20日 (火)

ヒロシマ平和絵画展―被爆75年 あの日から今 そして未来へヒロシマの心をつなぐ

旧日銀広島支店で、24日までの会期で「広島平和絵画展」が開催されています。私も、このブログで紹介したことがある藤登弘朗さんから、案内状が届いており、昨日足を運びました。

この絵画展は、「多くの画家たちが“ヒロシマ”をテーマに作品を制作し、平和を願い核廃絶を訴えてきました。被爆75年を機に、本企画の趣旨に賛同する広島市在住のプロとアマチュアの作家が‟ヒロシマ”をテーマにした作品を持ち寄り、絵画展を開催しました。この開催を通して平和と核廃絶への思いを共有し、さらに創作活動を高め合い“ヒロシマの心”を未来につなぐことができればと考えております。」(「ごあいさつ」から引用)との趣旨で、14名の作家が賛同し、今年初めて開催されたものです。

20201019_115656

会場には、全部で52枚の絵画と6個のオブジェが展示されています。入ってすぐのフロアーには、小品が並んでします。そこですぐの目に飛び込むのは、吉野誠さんのアルミを使ったオブジェです。吉野さんの作品との久しぶりの出会いです。

20201019_115318

真ん中ほどに「被爆アオギリの前で被爆ピアノの演奏」と題した作品があります。右横にこの被爆アオギリとゆかりの深い沼田鈴子さんの写真が、簡単な被爆状況の紹介文と共に立てかけられています。

一渡り見終えて、奥の展示場に移動します。入り口に受付が設けられています。検温を受け、出品目録を受け取ります。受付には、私に案内状を送っていただいた藤登さんが、座っておられました。

この展示場には、いただいた作品目録に掲載された作品が並んでします。100号を超える作品が何枚もあります。このフロアーで最初の目に付いたのは、久保田辰男さんの水彩画3枚です。被爆樹木が描かれています。私も訪ねたことのある被爆樹木ばかりです。その一枚「被爆樹木ナツミカン(光明院)」です。

20201019_114112

そのすぐ横に藤登さんの水彩画が並んでします。ずっと進むと、私の知人西村不加止さんの作品2点「希 NOZOMI」「複 ヒロシマ2011」(下の写真)が並んでいます。

20201019_115801

西村さんの絵画展には何度か行ったことがありますが、ここでも足を止めてゆっくりと見ます。そのすぐそばに、吉野誠さんらしいタイトルの油絵2枚があります。さらに進むと、見たことのある絵が目に飛び込んできました。

20201019_114547  

4月8日のブログ「『原爆の絵8号碑』の除幕式」(http://kokoro2016.cocolog-nifty.com/shinkokoro/2020/04/post-affde8.html)で紹介した米田勁草さんの絵の原画「広島不虚―ひろしまむなしからずー」です。

今回の「広島平和絵画展」を最初に呼びかけられたのが、米田勁草さんだったそうです。そのことは、昨日(10月19日)の中国新聞1面の「天風録」に書かれていました。

ところで今回の絵画展には、旧陸軍被服を取り上げた作品が、5点もありました。下は、寺本三省さんの作品です。

20201019_114429

出品目録に並んでいる作品は、31点ですので、同じ題材の作品が5点もあるということは、旧陸軍被服支廠への関心の高さを表しているように思えました。原爆投下機エノラゲイを取り上げた野尻純三さんの「広島・長崎の涙」には、珍しく「アメリカB29爆撃機(通称エノラゲイ)」と題する解説文雅楽の下に取り付けられていました。

今日の受付当番は、西村さんですので、私は今日もう一度行くことにしています。この「ヒロシマ平和絵画展」は、24日まで開催されています。ぜひ行ってみてください。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2020年10月 5日 (月)

ヒロシマとベトナム(その17) 被爆75周年 ―ヒロシマとベトナム戦争- を考える〔Ⅳ〕

枯葉剤被害児の支援活動

私たちの枯葉剤被害児の支援活動は、1996年からIFCC国際友好文化センター(注1)がベトナム青年国際開発センター(CYDECO)と協力して取り組んだ「枯葉剤被害者支援プログラム」の一環として、1998年に因島市・呉市・庄原市で開催した「枯葉剤被害児救援のためのベトナム民族アンサンブル・チャリティー・コンサート」に始まります。

Img_4234

2001年の東広島公演

以来、広島県内12市町で22回のチャリティー・コンサートを重ねてきました。今年は、福山市、東広島市(2カ所)で、計3回のコンサートを予定していましたが、コロナのため中止することになりました。

コンサートの収益金は、ハノイのリハビリ施設「ホアビンビレッジ」、タイビン省子供救護委員会、タイニン省衛生局、クァンリー省政府などに支援金として贈られました。2001年から5カ年の日越協働プロジェクトが進められ、20042月にタイビン省で枯葉剤被被害者リハビリ施設(下の写真)が開所しました。

Img_2182

現在も、毎年10数カ所で開催されるチャリティー・コンサートの収益金がベトナム各省政府や枯葉剤被害者団体(VAVA)、施設への支援として贈られています。

しかし、前号でも報告しましたように、枯葉剤被害児者リハビリ施設や社会復帰のための職業訓練施設は極めて少なく、被害児者とその家族の多くが貧困下に暮らしています。引き続き、支援活動を継続してゆかなければと考えています。

「被爆75周年」と「ベトナム解放統一45周年」の今年は、予定していた広島県内3会場でのチャリティー・コンサートを中止しましたが、コロナ感染状況を見極めつつ来年秋の開催を目指しています。

(注)IFCCは従来の代表団交流や観光のみというスタイルを超え、希望し興味を持ち趣旨に賛同する誰でもが参加できる国際交流を目指して1988年に設立されたもので、私も設立当初から理事を務めています。

少数民族の子どもたちへの奨学支援

ベトナム戦争の激戦地、旧南北軍事境界線のクアンチ省は、今なお枯葉剤や不発弾による被害が続く「ベトナムで最も貧しい」といわれる省です。中でもラオス国境の急峻な山岳地帯に暮らすパコ族、ヴァンキュウ族、キン族、タオイ族など少数民族はとても貧しく、子どもたちの多くは能力も意欲もありながら就学できない状態にあります。

ベトナムの学制は小学校5年、中学校4年、高等学校3年、大学4年で日本と同じ期間学びます。高校進学率は74.3%、大学進学率は28.3%ですが、少数民族は高校15~20%、大学4~5%です。ベトナム政府も教育に力を入れていますが、まだまだ少数民族の多くの子どもたちは意欲と能力を持ちながらも中高等教育の機会に恵まれていません。

その子どもたちの“夢と希望、そして可能性”を叶えるための「ささやかな支援」として、2009年以来、奨学支援を続けています。

Img_8120

今日まで220名の子どもたちを支援し、そのうち160名が卒業しています。下表は一昨年までの卒業生140名の進路です。57.2%が国公立大学に進み、専門学校まで含めると3分の2が進学しています。既に教師や医師として、建築や土木の専門家として、また村のオフィスでリーダとして働いている卒業生もいます。


 


国立大


公立大


専門校


就 職


家事自営


不 明


合 計


男子


18







49


女子


51





20



91


合計


69


11


10


10


27


13


140


49.3%


7.9%


7.1%


7.1%


19.3%


9.3%


100.0%

私たちのささやかな支援が、子どもたちの可能性の扉を開き、余りにも多くの負の遺産を抱えたクアンチの復興・発展に役立っています。

現在、今年入学した「第12期奨学生」を支援する20名の「第12期サポーター」の募集を行っています。

「コロナ禍」もあり、例年以上にサポーター登録に苦労しています。ご理解いただき支援の輪に加わっていただければ幸いです。支援額は年間18,000(月額1,500円)を卒業までの3カ年、計54,000円です。詳しくはakatatu@d4.dion.ne.jpにお問い合わせください。

(2020年10月5日、あかたつ)

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2020年9月19日 (土)

フェンスの中に隠れた大田洋子文学碑-つづき

昨日のつづきです。

調べた結果と言っても、すでに多くの人が承知のことですが、少しふりかえってみたいと思います。

このサッカースタジアルの建設場所は、当初中央公園の東半分に広がる自由広場でした。これが、現在予定されている「芝生広場」に変更されたのは、今年に入ってからです。

「平和記念公園など周辺の観光施設へのアクセスや、広場隣に住む基町地区の住民からの要望を考慮した」ことが理由とされていますが、最も大きな理由は「広場東寄りは、地中に広島城の出入り口だった『西御門(にしのごもん)』などの跡が残っている可能性があり、発掘調査などのために建設スケジュールが大幅に延びる」ことだったようです。「広島城の重要な遺跡がある」ことは、昨年末から今年にかけての「自由広場」での掘削調査で、判明したことのようですが、これらは事前の資料調査でもわかっていたはずです。あまりにも杜撰な調査によって計画が進められてきたことが分かります。その結果として「芝生広場」への変更となったようです。

そこで問題になるのが、「芝生広場」の西側にある大田洋子文学碑をどうするかということです。

Dsc_4241

昨日紹介したように、今までのところ広島市は具体的な移動場所を決めていないとのことです。決めていないというか、決めることができないでいるといった方が良いと思いますが。

ここで問題になるのは、「大田洋子文学碑の移設がどうしても必要だ」というのであれば、なぜ今回の「発掘調査」作業開始前に、きちんと移設場所決め、移設を完了させなかったかということです。そして、事前に関係する人を探して、きちんと説明し、了解を求める努力をするべきだったはずです。残念ながらそのような努力がされた形跡は見当たりません。

そのことは、広島文学資料保全の会が、8月31日に広島市長に提出した「大田洋子『文学碑』についての要望」で明らかになっています。この碑を建立した「大田洋子文学碑建立委員会」は現在存在しませんので、誰に説明するのかという難しい問題はあると思いますが。工事を急ぐあまり、こうしたことがおろそかになってよいはずはありません。

この碑が、この地に建立されたのは「大田洋子が、たびたび広島に帰省し、原爆スラムとよばれた実妹・中川一枝宅を訪ね、『夕凪の街と人びと』の舞台とした」というゆかりの場所であり、多くの人たちの努力によって建立された経緯を考えればおさらです。

Photo_20200918163001

除幕式の時写された大田洋子文学碑

私の記憶では、当初この碑は、空鞘橋屋橋東詰め北側に建立された(1978年)のですが、1992年に広島市と重慶市との友好都市提携5周年を記念し「中国式庭園・渝華園(中国庭園)渝華園(中国庭園)渝華園(中国庭園)渝華園(ゆかえん)」が建設されることになり、現在の場所に移動しています。今度の移動は2回目ということになります。

不思議なことがあるものです。この原稿を書いている途中で、紙屋町シャレオで開催されている「第22回古本まつり」(20日まで)をのぞいたところ、平台に積まれた本の中に、1978年9月に発刊された「大田洋子文学碑建立記念誌」を見つけました。

Photo_20200918163002

すでに手元にあるような気もしましたが、これも縁かなと、すぐに購入しました。

この「記念誌」の最初のページに建立委員会代表お二人の名前による「御礼」のあいさつが掲載されています。その代表の一人が、栗原貞子さんですから、昨日のブログに書いた「栗原さんが深くかかわった」どころか、その中心だったことがはっきりしました。さらにこの「御礼」の文章からは、募金を呼びかけたわずか四カ月余りの間に「目標額300万円」を超える「365万円」の募金が集まったことが分かります。「記念誌」の最後には「募金協賛・御芳名録」が掲載されていますが、ざっと数えて900を超える個人・団体の名前が書かれていますので、多くの人たちが深い関心を持っていたこともわかります。さらに「碑の建立場所につきましては、大田洋子ゆかりの地であり、新たに整備されました広島市中央公園の、希望しました地を市から与えられました。」とも記されています。

そして「記念誌」に書かれた「経過報告」には、この碑の所有が今どうなっているのかが書かれています。「建立予定地として、最初から市立図書館周辺の地を求めることにし、関係当局の理解ある協力を得て、整地完了前の中央公園の一隅に設計どおりの地が決定しました。なお碑建設以後は、公園施設設置許可をおこなった広島市に寄附、碑および附帯する工作等はすべて市当局の管理に帰属します。」と。

これを読むと「現在の管理者(所有者)は広島市」ということになります。だからと言って建立者の意思を無視してよいということにはならないと思います。

建立者が、設置場所として中央公園を選んだ思いを尊重して、サッカースタジアム建設工事を待たずに、一日も早く新たな移設場所を決め、フェンスの外に移動することを望まずにいられません。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2020年8月16日 (日)

原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい

島文学資料保全の会・広島花幻忌の会・四國五郎追悼の会が共催し、2002年から毎年8月15日に開催されてきた「8・15のつどい」が、今年も昨日開催されました。

8月6日が過ぎるとすべての活動が休止したような状況に置かれる広島で、終戦記念日(と言われている)の8月15日に「ヒロシマの意味を問い直す」ための企画です。

主催者には、「広島は、原爆で多くの市民が犠牲となった都市ですが、同時に、大陸にむけての軍事都市であったことを忘れてはならない」という強い思いがあります。

昨年は、台風が接近通過する中、新幹線はもとより市内電車・バスなど交通機関が全面ストップするという悪条件でしたが、主催者の強い思いで挙行されました。前日から広島入りをしておられた俳優の木内みどりさんによる「おこりじぞう」の朗読・対談が行われました。私は、会場が近いということもあり、参加をしました。

今年は、初めて屋外に会場が設けられました。「全棟の保存・活用」が大きな課題となっている旧陸軍被服支廠です。

一日で最も暑い午後2時半からのスタートでした。テントはあるものの被服支廠の建物の影はまだ届かず、暑さが身に沁みます。

土屋時子さんの司会で始まった「つどい」のオープニングは、花幻忌の会の大学生、高校生による原民喜の詩朗読。原爆小景から「日ノクレチカク」「コレガ人間ナノデス」そして「永遠のみどり」の三編です。

Dsc_6715

次に朝鮮半島の伝統的民族打楽器「チャンゴ」の演奏です。鎮魂の思いを込めての演奏は、私の友人でもある裵学泰さんです。民族衣装に身を包んだ裵さんの演奏にはいつも感動を覚えます。後で「タイトルは?」と聞くと「この日のため自分で作った曲だから、特にタイトルは付けていません」とのことでした。

Dsc_6724  

つづいて、四國五郎さんの「わが青春の記録」に掲載された「就職」の朗読。朗読者は西田勝彦さん。初めて知ったのですが、四國五郎さんは、15歳から召集を受けるまでの約5年間、この陸軍被服支廠で働いていたということです。当時、廠内誌に特技を生かし、挿絵をたくさん書いていたことが紹介されました。

続いて、今田洋二さんによるバリトンの独唱です。四國五郎さんが、亡くなった弟さんへの鎮魂の思いを込めて作詞したとされる「奪われたもの」と「灯ろう流し」の2曲です。いずれも作曲は、今田さんの歌のピアノ伴奏を務められる山下雅春さんです。

Dsc_6730

心にしみる歌声でした。

次は、栗原貞子さんの詩「ヒロシマというとき」の朗読です。朗読者は、NHKの杉浦圭子さん。読み終えて杉浦さんは「この詩は、1972年5月、沖縄が返還された時に作られた詩です。栗原さんには生前に一度だけ会いました。ある集会でのことです。そこで栗原さんは、『戦争遂行者の強者だけを追及するだけではなく自分の加害者の側面を考えてきた』と話されたことが印象に残っています」と栗原さんとの出会いを紹介されました。栗原貞子さんの詩は、今日の企画にふさわしい詩だと思います。

Dsc_6732

さらに詩の朗読が続きました。被爆者林幸子さん作詞「ヒロシマの空」です。朗読者はお孫さんの中山涼子さん。

Dsc_6734

次に峠三吉の「倉庫の記録」の朗読です。どうしてもこの場所ではこの詩の朗読を逃すことはできません。朗読者は、2017年12月に原爆詩人峠三吉の半生を題材にした市民劇「河」を演じたメンバーです。

そしてこのメンバーによって、峠三吉の原爆詩集の「序」「ちちをかえせ ははをかえせ/としよりをかえせ/こどもをかえせ/へいわをかえせ わたしにつながる/にんげんをかえせ/にんげんの にんげんのよのあるかぎり/くずれぬへいわを/へいわをかえせ」が高らかに詠われて、「原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい」は終了しました。

途中から暑さで頭も少しぼーっとしながらのメモ・記憶ですので、間違いがあるかもしれません。

この「つどい」は、2002年以来、昨年までは袋町の市民交流プラザで開催されていましたが、今年は「広島の原点 旧陸軍・被服支廠の全棟保存・活用を考える」ということで、この会場が選ばれました。この夏一番とも思える暑さでしたが、そんな思いを共有する人たち約100人が集まりました。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2020年8月13日 (木)

せこへいART MUSEUM美術館―せかいのこどものへいわの美術館

日銀広島支店で開催されている「せこへいART MUSEUM美術館」(せこへい美術館)に行ってきました。「せこへい美術館」は、世界の子どもの平和のための美術展です。

会場に入るとすぐ左手に「貝の標本」が展示されています。

Dsc_6703

米軍基地埋立てが強行される辺野古に隣接する大浦湾で上原一路(ひろ)さんと諒さん姉妹が採取した貝殻です。中には、絶滅危惧9種も含まれています。

「この貝殻を拾った頃は、まだ良かった。(略)土砂投入の為の護岸工事が終わって、海が囲われてしまいました。その中いいる貝や生き物たちはきっと沖縄県民と同じ、苦しい厳しい環境の中で必死で生きています。(略)どうかこの貝殻の言わんとしていることを感じてほしいです。」2年前に書かれてお父さんのメッセージが添えられていました。

この美術館のメインは、1階フロアーに広がる「BODY MAP」です。

Dsc_6676

畳1畳台の紙に自分の体の輪郭を型取って、生まれ故郷、将来のビジョン、身体で感じる苦しみや希望、支えなどをマッピングして、1枚の絵がつくられます。2002年に南アフリカでエイズと共に生きる女性たちの間で始まったものだそうです。

世界各地で実践されていますが、今回日本で初めてワークショップが実施され、その作品が展示されています。

1階には、世界の子どもたちが描いた絵が展示されています。イラク、カンボジア、マダガスカル、カザフスタン。

Dsc_6697

マダガスカルの子どもの絵は初めて見ました。

その横に、2階からつるされた大きな絵があります。パレスチナの子どもたちの作品です。

Dsc_6701

「希望の街」とタイトルが付けられ「パレスチナと日本の子どもたちが道と道をつないだ」と解説されています。パレスチナから送られてきた絵に日本の子どもたちが自分たちの絵を加えて作品にしたようです。どの絵が、パレスチナの子どもの絵かははっきりとわかりませんが、真ん中のグリーンの絵や、その右上の赤い十字のマークがある絵など少し大きめの絵がそうではないかと想像できます。

3階には、日本の子どもたちの作品が並んでします。

3階の最後の展示室には、私にこの展覧会の案内状を送っていただいた原仲裕三さんの作品が展示されていました。

原仲さんの作品は、案内状に同封されたはがき(あて先は、旧日本銀行広島支店)

Img014

に受け取り手の思いが描かれた返信はがきを並べたものです。

Dsc_6694

原仲さんは、この手法をよく使われています。

この文章でお分かりと思いますが、原仲さんは、子どもではありません。高等学校の美術の先生です。私が、このブログで紹介したことのある「原爆の絵碑」の台座をデザインされています。

このように、この美術館には、子どもたちの運動を支援する大人の作品もいくつが展示されているようです。

「せこへい美術館」の会期は、16日までです。16日は、午後3時で閉館となりますが、それ以外の日は午後6時まで開館しています。

会場の作品を見て、子どもたちの平和への思いを受け止めてほしいと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

より以前の記事一覧