「広島ブログ」

2020年9月
    1 2 3 4 5
6 7 8 9 10 11 12
13 14 15 16 17 18 19
20 21 22 23 24 25 26
27 28 29 30      

最近のトラックバック

無料ブログはココログ

文化・芸術

2020年9月19日 (土)

フェンスの中に隠れた大田洋子文学碑-つづき

昨日のつづきです。

調べた結果と言っても、すでに多くの人が承知のことですが、少しふりかえってみたいと思います。

このサッカースタジアルの建設場所は、当初中央公園の東半分に広がる自由広場でした。これが、現在予定されている「芝生広場」に変更されたのは、今年に入ってからです。

「平和記念公園など周辺の観光施設へのアクセスや、広場隣に住む基町地区の住民からの要望を考慮した」ことが理由とされていますが、最も大きな理由は「広場東寄りは、地中に広島城の出入り口だった『西御門(にしのごもん)』などの跡が残っている可能性があり、発掘調査などのために建設スケジュールが大幅に延びる」ことだったようです。「広島城の重要な遺跡がある」ことは、昨年末から今年にかけての「自由広場」での掘削調査で、判明したことのようですが、これらは事前の資料調査でもわかっていたはずです。あまりにも杜撰な調査によって計画が進められてきたことが分かります。その結果として「芝生広場」への変更となったようです。

そこで問題になるのが、「芝生広場」の西側にある大田洋子文学碑をどうするかということです。

Dsc_4241

昨日紹介したように、今までのところ広島市は具体的な移動場所を決めていないとのことです。決めていないというか、決めることができないでいるといった方が良いと思いますが。

ここで問題になるのは、「大田洋子文学碑の移設がどうしても必要だ」というのであれば、なぜ今回の「発掘調査」作業開始前に、きちんと移設場所決め、移設を完了させなかったかということです。そして、事前に関係する人を探して、きちんと説明し、了解を求める努力をするべきだったはずです。残念ながらそのような努力がされた形跡は見当たりません。

そのことは、広島文学資料保全の会が、8月31日に広島市長に提出した「大田洋子『文学碑』についての要望」で明らかになっています。この碑を建立した「大田洋子文学碑建立委員会」は現在存在しませんので、誰に説明するのかという難しい問題はあると思いますが。工事を急ぐあまり、こうしたことがおろそかになってよいはずはありません。

この碑が、この地に建立されたのは「大田洋子が、たびたび広島に帰省し、原爆スラムとよばれた実妹・中川一枝宅を訪ね、『夕凪の街と人びと』の舞台とした」というゆかりの場所であり、多くの人たちの努力によって建立された経緯を考えればおさらです。

Photo_20200918163001

除幕式の時写された大田洋子文学碑

私の記憶では、当初この碑は、空鞘橋屋橋東詰め北側に建立された(1978年)のですが、1992年に広島市と重慶市との友好都市提携5周年を記念し「中国式庭園・渝華園(中国庭園)渝華園(中国庭園)渝華園(中国庭園)渝華園(ゆかえん)」が建設されることになり、現在の場所に移動しています。今度の移動は2回目ということになります。

不思議なことがあるものです。この原稿を書いている途中で、紙屋町シャレオで開催されている「第22回古本まつり」(20日まで)をのぞいたところ、平台に積まれた本の中に、1978年9月に発刊された「大田洋子文学碑建立記念誌」を見つけました。

Photo_20200918163002

すでに手元にあるような気もしましたが、これも縁かなと、すぐに購入しました。

この「記念誌」の最初のページに建立委員会代表お二人の名前による「御礼」のあいさつが掲載されています。その代表の一人が、栗原貞子さんですから、昨日のブログに書いた「栗原さんが深くかかわった」どころか、その中心だったことがはっきりしました。さらにこの「御礼」の文章からは、募金を呼びかけたわずか四カ月余りの間に「目標額300万円」を超える「365万円」の募金が集まったことが分かります。「記念誌」の最後には「募金協賛・御芳名録」が掲載されていますが、ざっと数えて900を超える個人・団体の名前が書かれていますので、多くの人たちが深い関心を持っていたこともわかります。さらに「碑の建立場所につきましては、大田洋子ゆかりの地であり、新たに整備されました広島市中央公園の、希望しました地を市から与えられました。」とも記されています。

そして「記念誌」に書かれた「経過報告」には、この碑の所有が今どうなっているのかが書かれています。「建立予定地として、最初から市立図書館周辺の地を求めることにし、関係当局の理解ある協力を得て、整地完了前の中央公園の一隅に設計どおりの地が決定しました。なお碑建設以後は、公園施設設置許可をおこなった広島市に寄附、碑および附帯する工作等はすべて市当局の管理に帰属します。」と。

これを読むと「現在の管理者(所有者)は広島市」ということになります。だからと言って建立者の意思を無視してよいということにはならないと思います。

建立者が、設置場所として中央公園を選んだ思いを尊重して、サッカースタジアム建設工事を待たずに、一日も早く新たな移設場所を決め、フェンスの外に移動することを望まずにいられません。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2020年8月16日 (日)

原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい

島文学資料保全の会・広島花幻忌の会・四國五郎追悼の会が共催し、2002年から毎年8月15日に開催されてきた「8・15のつどい」が、今年も昨日開催されました。

8月6日が過ぎるとすべての活動が休止したような状況に置かれる広島で、終戦記念日(と言われている)の8月15日に「ヒロシマの意味を問い直す」ための企画です。

主催者には、「広島は、原爆で多くの市民が犠牲となった都市ですが、同時に、大陸にむけての軍事都市であったことを忘れてはならない」という強い思いがあります。

昨年は、台風が接近通過する中、新幹線はもとより市内電車・バスなど交通機関が全面ストップするという悪条件でしたが、主催者の強い思いで挙行されました。前日から広島入りをしておられた俳優の木内みどりさんによる「おこりじぞう」の朗読・対談が行われました。私は、会場が近いということもあり、参加をしました。

今年は、初めて屋外に会場が設けられました。「全棟の保存・活用」が大きな課題となっている旧陸軍被服支廠です。

一日で最も暑い午後2時半からのスタートでした。テントはあるものの被服支廠の建物の影はまだ届かず、暑さが身に沁みます。

土屋時子さんの司会で始まった「つどい」のオープニングは、花幻忌の会の大学生、高校生による原民喜の詩朗読。原爆小景から「日ノクレチカク」「コレガ人間ナノデス」そして「永遠のみどり」の三編です。

Dsc_6715

次に朝鮮半島の伝統的民族打楽器「チャンゴ」の演奏です。鎮魂の思いを込めての演奏は、私の友人でもある裵学泰さんです。民族衣装に身を包んだ裵さんの演奏にはいつも感動を覚えます。後で「タイトルは?」と聞くと「この日のため自分で作った曲だから、特にタイトルは付けていません」とのことでした。

Dsc_6724  

つづいて、四國五郎さんの「わが青春の記録」に掲載された「就職」の朗読。朗読者は西田勝彦さん。初めて知ったのですが、四國五郎さんは、15歳から召集を受けるまでの約5年間、この陸軍被服支廠で働いていたということです。当時、廠内誌に特技を生かし、挿絵をたくさん書いていたことが紹介されました。

続いて、今田洋二さんによるバリトンの独唱です。四國五郎さんが、亡くなった弟さんへの鎮魂の思いを込めて作詞したとされる「奪われたもの」と「灯ろう流し」の2曲です。いずれも作曲は、今田さんの歌のピアノ伴奏を務められる山下雅春さんです。

Dsc_6730

心にしみる歌声でした。

次は、栗原貞子さんの詩「ヒロシマというとき」の朗読です。朗読者は、NHKの杉浦圭子さん。読み終えて杉浦さんは「この詩は、1972年5月、沖縄が返還された時に作られた詩です。栗原さんには生前に一度だけ会いました。ある集会でのことです。そこで栗原さんは、『戦争遂行者の強者だけを追及するだけではなく自分の加害者の側面を考えてきた』と話されたことが印象に残っています」と栗原さんとの出会いを紹介されました。栗原貞子さんの詩は、今日の企画にふさわしい詩だと思います。

Dsc_6732

さらに詩の朗読が続きました。被爆者林幸子さん作詞「ヒロシマの空」です。朗読者はお孫さんの中山涼子さん。

Dsc_6734

次に峠三吉の「倉庫の記録」の朗読です。どうしてもこの場所ではこの詩の朗読を逃すことはできません。朗読者は、2017年12月に原爆詩人峠三吉の半生を題材にした市民劇「河」を演じたメンバーです。

そしてこのメンバーによって、峠三吉の原爆詩集の「序」「ちちをかえせ ははをかえせ/としよりをかえせ/こどもをかえせ/へいわをかえせ わたしにつながる/にんげんをかえせ/にんげんの にんげんのよのあるかぎり/くずれぬへいわを/へいわをかえせ」が高らかに詠われて、「原爆・反戦詩を朗読する市民のつどい」は終了しました。

途中から暑さで頭も少しぼーっとしながらのメモ・記憶ですので、間違いがあるかもしれません。

この「つどい」は、2002年以来、昨年までは袋町の市民交流プラザで開催されていましたが、今年は「広島の原点 旧陸軍・被服支廠の全棟保存・活用を考える」ということで、この会場が選ばれました。この夏一番とも思える暑さでしたが、そんな思いを共有する人たち約100人が集まりました。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2020年8月13日 (木)

せこへいART MUSEUM美術館―せかいのこどものへいわの美術館

日銀広島支店で開催されている「せこへいART MUSEUM美術館」(せこへい美術館)に行ってきました。「せこへい美術館」は、世界の子どもの平和のための美術展です。

会場に入るとすぐ左手に「貝の標本」が展示されています。

Dsc_6703

米軍基地埋立てが強行される辺野古に隣接する大浦湾で上原一路(ひろ)さんと諒さん姉妹が採取した貝殻です。中には、絶滅危惧9種も含まれています。

「この貝殻を拾った頃は、まだ良かった。(略)土砂投入の為の護岸工事が終わって、海が囲われてしまいました。その中いいる貝や生き物たちはきっと沖縄県民と同じ、苦しい厳しい環境の中で必死で生きています。(略)どうかこの貝殻の言わんとしていることを感じてほしいです。」2年前に書かれてお父さんのメッセージが添えられていました。

この美術館のメインは、1階フロアーに広がる「BODY MAP」です。

Dsc_6676

畳1畳台の紙に自分の体の輪郭を型取って、生まれ故郷、将来のビジョン、身体で感じる苦しみや希望、支えなどをマッピングして、1枚の絵がつくられます。2002年に南アフリカでエイズと共に生きる女性たちの間で始まったものだそうです。

世界各地で実践されていますが、今回日本で初めてワークショップが実施され、その作品が展示されています。

1階には、世界の子どもたちが描いた絵が展示されています。イラク、カンボジア、マダガスカル、カザフスタン。

Dsc_6697

マダガスカルの子どもの絵は初めて見ました。

その横に、2階からつるされた大きな絵があります。パレスチナの子どもたちの作品です。

Dsc_6701

「希望の街」とタイトルが付けられ「パレスチナと日本の子どもたちが道と道をつないだ」と解説されています。パレスチナから送られてきた絵に日本の子どもたちが自分たちの絵を加えて作品にしたようです。どの絵が、パレスチナの子どもの絵かははっきりとわかりませんが、真ん中のグリーンの絵や、その右上の赤い十字のマークがある絵など少し大きめの絵がそうではないかと想像できます。

3階には、日本の子どもたちの作品が並んでします。

3階の最後の展示室には、私にこの展覧会の案内状を送っていただいた原仲裕三さんの作品が展示されていました。

原仲さんの作品は、案内状に同封されたはがき(あて先は、旧日本銀行広島支店)

Img014

に受け取り手の思いが描かれた返信はがきを並べたものです。

Dsc_6694

原仲さんは、この手法をよく使われています。

この文章でお分かりと思いますが、原仲さんは、子どもではありません。高等学校の美術の先生です。私が、このブログで紹介したことのある「原爆の絵碑」の台座をデザインされています。

このように、この美術館には、子どもたちの運動を支援する大人の作品もいくつが展示されているようです。

「せこへい美術館」の会期は、16日までです。16日は、午後3時で閉館となりますが、それ以外の日は午後6時まで開館しています。

会場の作品を見て、子どもたちの平和への思いを受け止めてほしいと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2020年6月 7日 (日)

被服支廠に想いを寄せて

広島市南区出汐にある旧広島陸軍被服支廠は、昨年12月に解体案が出され、議論を呼んだ被爆建物です。安全対策などの問題もありますが、被爆の実相を伝える生証人として、一部保存と言わず、全棟保存するべきだと思います。

1_20200604163301

思えばこの被爆建物との最初の出会いは、小学6年生の時、教室で担任の机の後ろに平和教育教材「ヒロシマ平和カレンダー」が何気に掛けられてあり、なんとなく勝手に触ってどんどんページをめくっていたら、突き当たりました。爆風でひん曲がった鉄製扉はインパクトが絶大で、しばらくカレンダーをつかんだまま眺めていました。ちなみに当時のクラスの担任は、特に平和教育をするというわけでなく、一人佇んで見入っている私を奇異な目で見ていたと思います。

その後、高校は広島皆実高校へ進学すると、学校のすぐ隣に建っているのを発見しました。まさかあの時のカレンダーで見たものが、高校の真横にあるとは・・・。最初は驚愕しましたが、毎日高校へ通っている内に、そこにあるのが当たり前になり、風景となっていきました。

2_20200604163301

いつまでも当たり前に建っているのだと思い込み、高校を卒業しました。そのまま年月が流れ、ここに来て解体・一部保存と、このような大きな動きになるとは、当時思ってもみませんでした。何としても全棟保存に向けてほしいと思います。

3_20200604163301

平和カレンダーは子ども向けの平和教育教材としてお勧め教材です。広島県教育用品(株)発行・販売で、現在私はこの会社の関連組織に勤務していますが、なぜか気になってカレンダーをずっと一人で見入っていたのも、何か幼き日の自分が将来を感じ取った運命的なものを感じます。

http://www.hipe.jp/calender/calenderindex.html

Mumei

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2020年5月29日 (金)

「平和と愛(友情)のシンボル プラタナスの碑」-天満小学校の原爆の絵第6号碑

私が訪ねた「原爆の絵碑」の中で、最も感動を受けた絵碑が、この第6号碑です。

これまで訪ねた絵碑は、外から見える場所に設置されていましたので、天満小学校を訪れた時も、ぐるっと学校の周囲の道路を一周したのですが、どこにも見つけることができません。もう一度回ってみたのですが、やはり見つかりません。学校の正門横に取り付けられたインターホンで、名前を名乗った後「ここに設置された原爆の絵碑はどこにありますか」「体育館の横の校庭にありますよ。プラタナスの木のところです」「入らせてもらっても良いですか」「どうぞ」。校庭に設置されていたのですから、外で見つけられないのは当然です。許可を得ましたので、正門横の通用口を開けて校庭に入りました。体育館横の大きなプラタナスの木をすぐに見つけることができました。

3本のプラタナスの手前に「原爆の絵第6号碑」が設定されています。このプラタナスは、被爆樹木です。

Dsc_5983

この絵碑には「平和と愛(友情)のシンボル プラタナスの碑」というタイトルが付けられ、「説明文」が付けられています。知りたいことがすべて理解できますので、全文を紹介します。

「プラタナスは天満小学校の『平和と愛(友情)』のシンボルとして大切に保存されています。春になると芽吹き、プラタナスの風が、子どもたちを温かく、優しく包んでくれます。夏に葉を茂らせ、子どもたちに涼しい木陰をつくってくれます。

 このプラタナスは、1931(昭和6)年に植えられたものです。広島市に原爆が落とされた1945(昭和20)年8月6日8時15分、爆心地から西北西1.2km離れた天満小学校の校庭で被爆し、幹に大きな『うろ』ができました。しかし、今もしっかりと生きつづけ、子どもたちや地域の人々の歴史を語り続けています。

2004(平成16)年11月21日」

Dsc_5978

「原爆で燃える天満町」という原爆の絵が右上にあります。他の絵碑と比べると少し小さいように思えます。作者は、第1号碑と同じ木村秀男さんです。昨日のブログの訂正が必要になりました。木村さんの絵の下には、被爆時の「壊れた天満橋」の写真があります。「広島女学院中・高等学校」の絵碑にだけ使われているといってしまった被爆後の写真がここでも使われていました。

この絵碑の特徴は、何といっても子どもたちが描いた4枚のプラタナスの絵です。

Dsc_5979

そしてこの碑には、天満小学校児童会が作詞した「プラタナスの風」が刻まれています。さらに台座の側面には、「碑建立協力者・団体」の名前が刻まれています。ざっと数えても500人を超える個人の名前がありあす。そして町内会などの34の団体名も刻まれています。地域の人たちの被爆樹木プラタナスへの強い思いが、伝わってきます。

何よりも感動を覚えるのは、被爆の傷を残しながらも「すくっ」と大きく葉を茂らせて立っている3本の被爆樹木プラタナスの姿です。この木に会えただけでも、ここを訪れた甲斐がありました。

Dsc_6118

実は、今回ここを2度訪れました。一度は、4月7日です。ようやく若葉が出た頃です。

Dsc_5984

その時、「毎年、5月の連休中に一気に葉が大きくなりますよ」と教えていただきましたので、一週間前、改めてプラタナスに会いに行きました。説明文のとおり「涼しい木陰」を作るほどに大きな葉を茂らせていました。

Dsc_6113

両日とも学校は休校中で、子どもたちの姿を見ることはできませんでした。

校門を出ての帰り道、改めて「プラタナス」が学校のシンボルとなっていることを知ることになりました。地域のみなさんも見ることのできる掲示板に貼りだされた「学校だより」の名称が「プラタナス」となっています。

Dsc_6112

ぜひ訪ねてほしい場所です。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2020年5月28日 (木)

広島女学院中・高等学校に設置された原爆の絵第5号碑

広島女学院中・高等学校に設置された「原爆の絵碑第5号碑」は、白島線の電車通りと城南通りの交差点の北東の歩道に面して設置されています。

Dsc_6135  

この原爆の絵碑は、よく見ると広島女学院中・高等学校の塀の一部として設置されていますので、学校側の協力が大きかったことが感じられます。

この絵碑には、他の原爆の絵碑とは違う点が、三つほどありました。一つは、被爆絵と共に被爆直後の写真2枚が取り付けられています。さらに添付した写真では少し見にくいのですが、2枚の被爆後の写真の間にクロスが刻まれています。広島女学院だからでしょうか?

三つめは、モニュメントの中に折鶴が供えられるようにポールも取り付けられていることです。現在は、学校が休校中ですが、普段は放課後に生徒たちが、この碑はもとより周辺の道路を清掃する姿をよく見ます。

モニュメントには、原爆の絵が7枚並べられています。すべて森本順子さんの絵本「わたしのヒロシマ」に出てくる絵です。絵の下には、森本さんの詩も刻まれています。 

Dsc_6144

森本順子さんは、当時13歳で広島女学院高等女学校に在学、三篠町の自宅で被爆し家屋の下敷きになったのですが、助かりました。絵碑の左隅には「森本順子 広島女学院高等学校2回(1950年)卒」とありますから、被爆時は高等女学校の1年生だったと思われます。最近たまたま入手した「広島女学院百年史」(1991年発行)には当時の様子が次のように書かれています。「本校でも前日の8月5日、高女の1,2年生全員が、指定された雑魚場町の疎開作業現場に出動したが、作業量と人数を勘案した結果、翌6日からは1・2年生の約半数ずつが出動させることにした。・・・残りの者は自宅で休んでいた」「雑魚場町は、きわめて犠牲は甚大で生徒・教師の生存者はほとんどいない」と。

森本順子さんは、自宅待機組で命が助かった一人だったのです。大阪の中学校で美術教師をした後、1982年にオーストラリア・シドニーに移住し、2017年に亡くなられるまで同国で証言活動などを続けられました。絵本「私のヒロシマ」は、1987年に友への慰霊の気持ちも込めて被爆体験や広島の惨状、そして復興の様子が描かれています。翌年の8月に日本でも出版されました。

話は戻りますが、気になったのは2枚の被爆直後の写真です。

Dsc_6017

上の写真は、左側の「専門学校の廃墟」です。

専門学校の学生は、東洋工業に学徒動員されていましたが、たまたまこの日は、1年生全員144名が登校していたため、ここで被爆することになりました。ここは、爆心地から1.2kmです。

Dsc_6018

この写真は、右側の「高等女学校の廃墟」です。

高等女学校の一部は、広島鉄道局審査課に貸与されており、そこで事務作業をしていた生徒約40人が、ここで被爆しました。

二つの校舎は、現在の広島女学院中・高等学校がる場所に建っていましたので、2枚の写真は、被爆の惨状が残るこの場所の写真ということになります。

当時は、高等女学校の校舎が電車通り側に、専門学校の校舎がその東側に建っていたそうです。写真は、どちらの方向から移したものかはっきりとわかりませんが、後ろに映った山の景色などから想像すると、南側から写したように思えます。そうだとすると、写真の配置は左右入れ替えたほうが校舎の位置関係がわかり易いように思います。

「広島女学院百年史」によれば、被爆後は、牛田国民学校を使って学校が再開され、1946年2月に牛田に仮校舎が完成し、移転します。そして、1947年になると被爆時に学校があった上流川町(現上幟町)に校舎が完成し、8月6日、まさに原爆記念の日落成式を迎え、現在の広島女学院中・高等学校へと至っています。「専門学校」は、牛田の仮校舎に残り、1949年に広島女学院大学として開学し、現在に至っているようです。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2020年5月27日 (水)

原爆の絵第4号碑は、原爆体験に根ざした平和教育を進めた森下弘さんの絵と書 -日本福音ルーテル広島教会

フジグラン広島前の「原爆の絵第8号碑」の除幕式に参加した後、最初に訪れた原爆の絵碑は、この第4号碑でした。この第4号碑は、第8号のある場所から東約300mの平和大通りに面した場所にある日本福音ルーテル広島教会(広島市中区鶴見町2-12)に設置されています。

この建物、1階は保育園になっていますので、教会は外に付けられた階段を上がった2階にあります。

Dsc_5933

1階の階段入口には、教会名の看板の下に「雲上の平和祈念 原爆の絵碑NO.4」の表示板が付けてあります。

階段を上った踊り場の左手に「原爆の絵第4号碑」が設置されています。ここに立つと「雲上の」という意味が何となく納得できます。このモニュメントは、真ん中の1枚は書、左右の2枚は被爆時の絵で構成され、台座はどこかの建物で使われていたと思われる古材が資料されています。

Dsc_5918

この3枚とも、昨日も紹介した被爆教師として、また書道家として活躍されている森下弘(ひろむ)さんの作品です。真ん中の一枚は、森下さんの詩「ヒロシマの顔(抄)」が、自身の書によって表現されています。

  Photo_20200526111601

 左右の2枚は、森下さん自身が目にされた鶴見橋西詰(爆心地から1.5キロ)の被爆直後の様子が描かれています。

Dsc_5920

左の絵の下部には「閃光、熱戦  瞬間、私たち70名は巨大な溶鉱炉にすっぽりと投げ込まれた。そして、爆風が・・・  (鶴見橋西詰、爆心から1.5km)」と記入されています。

 Dsc_5921

右側の絵の下部にはやや長めの「8月6日、8時15分/爆心から1.5km鶴見橋西詰で家屋疎開作業前。/私たち広島一中三年生(14歳)70名は、整列して(北向きに)作業上の注意を聞いていた。/爆発!巨大な溶鉱炉にすっぽりと投げこまれた感じ。/とっさに伏せたが、すでに顔、手、首、足を火傷。/皮膚がたれ下った。/そして、爆風がサーッとその瞬間、一緒にいた70名が、一人以外はどうなったか知らない。/後日の話で、アンケートで地上にたたきつけられた者、数米吹きとばされた者、気を失った者、みんなが将棋倒しに圧しかぶさって、息がつまりそうだったと言う者/火傷馬が暴れていて怖かったと言う者・・・さまざま。/想像して描いてみた。」と記入されています。この文を読むと、台座に古材が使われている意味が理解できます。家屋疎開作業を連想させたかったのでしょう。

森下さんは、絵が収蔵されている資料館の「作者の説明」で「東洋工業(学徒動員)から、八月六日は、再動員の形で、疎開作業現場に出動していた。」もし学徒動員先の東洋工業で8月6日を迎えていたら?続けて「昭和四十九年、級友たちにアンケートし、また集まりを持って、その折の状況をくわしく聞いた。それを基に(2)を描いてみた。」と書かれています。文中の(2)は右の絵のことですが、級友たちの被爆体験が積み重なったもののように思えます。

モニュメントに付された「場所は、この付近だったと思われます。」の説明で、この馬車への設置の意味も理解できます。と記されています。この台座が載っている柱は、ここでも広島電鉄の被爆石が使われています。

この書と絵の作者である森下さんは、その後結核を患いながら24歳で広島大学を卒業、高校や大学の書道教師への道を進まれました。内向きだった森下さんだったようですが、1963年の長女の誕生、翌64年に米国人の平和活動家バーバラ・レイノルズさんが提唱した「世界平和巡礼」に参加したことが大きな転機となり、原爆体験を語りながら、平和教育を進めてこられました。

「被爆の絵第4号碑」の解説はこれで終わりですが、もう一言付け加えます。この場所を訪れる機会があったら、ぜひ教会の内部にも訪れてほしいいうことです。

Dsc_5924

祭壇正面のキリストのブロンズ像

Dsc_5923  

左右の壁面に垂れ下がる布

Dsc_5928

入り口の取っ手のブロンズ

この他にも階段付近や踊り場などに何点もの作品が取り付けられています。それらはいずれも私の35年来の知人、静岡在中の作家望月通陽(みちあき)さんの作品だからです。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2020年5月22日 (金)

西応寺の「原爆の絵碑」第1号

被爆者が描いた原爆の絵をもとにして作られた「原爆の絵碑」は、全部で10号まで設置されています。そのいくつかは、以前にも訪ねたことがあったのですが、フジグランの第8号碑の除幕式に参加したことを機会に、改めて中区、西区に設置された8つの碑(残りの二つは、安佐南区に設置)を訪ねてみました。

その報告ですが、今回は、平和公園からすぐ近くにある西応寺(中区中島町)の入り口に、最初に設置された第1号碑です。

Dsc_5951

木村秀男さんが描かれた「広島市天満町福島川土手の『原爆投下直前の図』(左側)と『原爆投下後の図』」の2枚が並んでします。台座は、広島電鉄から提供を受けた被爆石が使われています。私が、ドイツの「ポツダム・ヒロシマ・ナガサキ広場」に作られたモニュメントとして送った被爆石と同じ広電の路面電車の敷石だと思われます。

Dsc_5945

絵をもう少し詳しくみてみたいと思います。この絵を描いた木村さんの被爆時の年齢は12歳です。木村さんの絵は、原爆資料館の平和データベースに全部で20枚が登録されています。そのうち「天満町福島川土手」を描いたものが、5枚あります。その中には、この絵とほとんど同じ様子を描いた絵がありますが、よく見ると細部に少し違い(子どもたちの向き、橋が描かれているかなど)があることが分かります。「原爆の絵碑」に使われている絵は、この碑のために後に描かれたものだと考えられます。

左側の「投下直後の図」には、右横に「広島市立草津国民学校高等科1・2年生 男女167名」と書かれているだけですが、原爆資料館のデータベースには「建物疎開作業に向かう途中で被爆し、助けを求める草津国民学校の生徒たち」と解説されています。二つを読むと「子どもたちは作業中ではなく、移動中に被爆した」ことが理解できます。

「草津国民学校の生徒たちは、どこの建物疎開作業に向かっていたのか」が気になり、今回も広島原爆戦災誌で調べてみました。「教職員4人に引率された男女生徒167人が、作業現場の小網町(土橋)に向かう観音町付近で全員が被爆し、約71人の生徒が重軽症を負った」となっています。草津国民学校は、爆心地から4.7キロの距離ですから、子どもたちの作業現場は、直線距離でも約4キロ先にあり、その距離を徒歩で向かっていたようです。

これを調べて改めて絵をよく見ると、子どもたちは半そでの夏服姿で描かれていますが、左側の絵では先頭に二人、右側の絵には真ん中やや上側に一人、長袖の国民服姿の引率の先生も描かれているのが分かりました。福島川土手で被爆した子どもたちには、即死者はいなかったようですが、直接作業現場に向かった2人の生徒が即死しています。

この第1号碑の上部には、他では見ない長文の説明版があります。説明版の右側は、「世界がヒロシマを忘れた時、再びあの日が繰り返される。」というタイトル書きの下に「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」の会長だった小説家・脚本家の早坂暁の「あの日を見つめて下さい」というあいさつ文と2002年8月3日と日付の入った「返す会について」の説明文が記載されています。

Dsc_5950  

説明版の左側には、この絵の作者である木村秀男さんの詩「生き地獄」が書かれています。

空を見上げれば、B29爆撃機/白い飛行機雲が輪を描く/ピカー、ピカーと光る/閃光・大音響・熱線・爆風/黒煙と黒い雨/火の海、屍の川/火の中の人間/煙の中の人間/水の中の人間/熱い、熱い、火が迫ってくる/真っ黒に煤けた人間/皮膚も肉も焼けただれて/ぶらさがり、ふくれあがり、/あー助けて、助けてと叫ぶ/あー水を、水を下さい、水を―息絶える/この世の生き地獄だ/二度と繰り返させないぞ、来世は/

 この詩の最後には「木村秀男2004年1月記」と記されています。これによって、この説明版は、「原爆の絵第1号碑」が設置された2002年8月3日にはなかったものが、後に設置されたものであることが分かります。なぜ後に設置されることになったのか、またこの碑だけどうしてなのか、はっきりとした理由はわかりません。

私の勝手な想像ですが、他の「原爆の絵碑」と比べて、平和公園に最も近い場所(平和大通りを挟んですぐといってよい近さ)にあること、西応寺は、原爆詩人峠三吉のお墓のあること、そして当時3軒南側に平和会館(広島県被団協の事務所:現在は大手町に移転)があり、ここを訪ねる人も多かったため、説明版が設置されたのではないかと思います。

この後、峠三吉のお墓参りをしたのですが、その様子は次回報告します。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

2020年5月21日 (木)

新型コロナウイルス断想・その10 ――創造的な「Stay Home」のために――

新型コロナウイルス断想・その10

――創造的な「Stay Home」のために――

 

休業要請や自粛が解除されつつはありますが、まだまだ外に出る機会は少ないようですし、家にいる時間の長いことには変わりありません。その折角の時間を「創造的」に使うための提案です。

とは言え、人間誰でも自己中心的ですので、この提案も御多分に漏れません。お許し頂ければ幸いです。

  • 折角、このブログをお読み頂いていますので、その楽しみをもっと長く続けるために、「コメント」を書いてみましょう。書くことで、ブログの内容が良く分るようになるはずです。
  • コメントを送るときに、実は小さなテストがあります。「送信」ボタンを押した後、スパム防止のために、見え難い数字を読み取って、正しい数字をインプットするのですが、コメントを送る度に、眼の検査ができるのです。毎日少しでも視力が改善しているのを確認できますし、悪くなっていたら、眼科に行きましょう。

3_20200521001201

 

  • コメントを頂いた方の中から、いくつかのジャンルについての「賞」を差し上げます。「短いコメント賞」とか「ユーモア賞」、「勉強になりました賞」等、感動に従っての名前を付けます。「賞品」が付くかもしれません。
  • 興が乗ったら、短いエッセイを書いて下さい。送り先は、コメントを頂ければお教えします。写真や、和歌、俳句も歓迎です。
  • リクエストや質問等もお願いします。

   私は今、昔、アメリカで集めたLPレコードを引っ張り出して聴いています。もう少し良い環境で聞けたらとも考えて、環境を整えるためにどのくらい投資すべきか、迷ってもいます。良いアドバイスを頂ければ幸いです。

 [2020/5/21 イライザ]

 

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

コメント

当方、普通の機器しか、持っていません。スピーカーだけ、増やして、いました。でも、たった1セットの高級スピーカーに、負けているかも、知れません。お金を、かけたくない、いいえ、先立つものが、、、ないのです。昔から,オーディオの音質は、、金額に、比例は、するとか、、、、。当方、そういう、凝り性では、なてく、ほどほどと、いうものです。車に、マークレビンソン仕様。いい音が、しています。別の車は、後席の、ヘッドレストの、後ろに、スピーカーが、あります。トランク全体を、使って、響かせて、います。後者の方が、好みです。前者の、マークレビンソンも、トランクで、鳴っていますが、後者ほど、スピーカー径が、大きくありません。あの有名な三橋達也さん。壁にスピーカーを、埋める、と、いうものでした。と。オーデオの、本を出している同級生が、います。当方、理論は、ありません、感覚的な、自分の、好みだけです。当方は、とりあえず、スピーカーを、増やす、と。30年間、そこで、止まって,います。大小スピーカーボックス、片側、数個ずつ。配線を、枝分かれ、させています。アンプ、安価です。3セット、あちこちに。環境というのは、オーデオルームと、いう、ことですか。それとも 、機器、機材も、ですか。当方、ながら族なので、音質には、うといです。       Jerry Keller   here COMES SUMMER.  イライザ様のアメリカ高校時代、こんなカンジだったのかなぁ、と。好きな歌の一曲です。昭和40年代ドーナツ盤,50年代、LPです。   今、youtubeです。

コメント有り難う御座いました。

まずは、「コメントをお願いします」に応えて下さった最初のコメントですので、「最初のコメント賞」です。有難う御座います。

賞品は、「Architektur aus Papier」です。グリーティング・カードなのですが、二つ折りのカードを開くと、中に、3次元の建物が現れるようになっています。建物は、ベルリンの中心部にあるコンサートホール広場の三つの建物です。

送り先をコメントとしてお送り下さい。これは公表しません。

私はLPを聞くので固定した場所での再生装置です。まずはスピーカー、そしてあとはレコードプレーヤーかなと思っています。

最高の音響機器は脳だと思います。ウォークマンが発売されるまではスコアを持ち歩いて自然の中で音楽を楽しんでいましたが、音楽好きの知人にはオーディオに家が建つほどのお金をかけた挙げ句、ラジカセに落ち着いたという人もいました。どんな高級オーディオも脳が行う補正にはかないません。

そして今現在、最も聴いている音源は先のコメントでも書かれていたYouTubeです。戦前の名演から、最近のコロナ禍で公開されている自宅での珍しい演奏まで、際限なく楽しめています。

と言うものの、毎年2−3回はスピーカー・ヘッドホン・イヤホンを買い替えている私で、最近はネットオークションのおかげで買った金額より高く売れる場合も珍しくなく、安いセルフ・サブスクリプションですが、それはそれで音楽を楽しむこととは別の趣味になっています。

「工場長」様

コメント有り難う御座いました。

残念なことに、最高の音響機器の中にも優劣があるようで、私はそこそこの外部機器に頼らざるを得ない状況です。特別定額給付金の一部をそれに充てることも検討中です。

それと、最近は私もYouTubeを良く利用するようになりましたが、色々と面白い発見があって、何時まで経っても人間ってあまり進歩していないんだなー、と思うことも再々です。



「工場長」様 

大切なことを忘れていました。いつも楽しくためになるコメントを有難う御座います。「賞」を差し上げます、と約束しましたので、「いつもコメント有難う賞」です。

賞品は、Architktur aus Papierで、二つ折りのカードを開けると現れる建物はドイツの国会議事堂です。

youtubeを、ご覧に、なるということで。総理大臣の、車列の走行、箱乗り他です。何で、品の無い走りなのでしょうか。警護車に、赤色灯装備ですが。白バイの、パトカーの先導で、緊急走行した方が、周囲にも、わかって、いいと思うのですが。外国の元首の、それのように、交通遮断までは、望みませんが・・・。ニンジン棒を、振って、身体を、乗り出して、強引に、割り込みです。赤色灯を、回せば、一般車は、譲るのに.まぁ、品の無い走り方です。見ている、こちらの方が、恥ずかしくなります。警護車が、右に、左にと、車線変更の、繰り返しです。それについて、合理的な、理由が、見い出せません。パトカーが、いたら、総理大臣の車の横に並ぶ者は、いません。センチュリーでしたが、一台は、カーテン有り、もう、一台は、カーテン無し。両方カーテン有りにすれば、いいものを。どちらの車に、総理大臣が、乗車しているか、わからないように、することが、セキュリティ対策だと、思います。一体何をやってんでしょうか。抜けてます.佐々淳行さん、曰く。最悪の事態から、警備を、考えろ、と。緊急走行でなくても、警護車は、赤色灯を、回せと、なります。一般車に、急ブレーキなんか、させては、いけないのに。強引な割込み、これだけで、OUTです。

「山下」様

勉強になるコメント有り難う御座いました。総理の車列をYouTubeで見ました。

それで思い出したのが、ボストンで遭遇した「Hells Angels」の車列です。大型のモーターサイクルが複数台、高速への入口を封鎖して他の車を制圧して、我が物顔に高速を独占するやり方はピッタリ一緒です。

もう一つ、昔、土井さんが党首として外国に出掛けるために成田に向っていたときは、パトカーに先導されていました。御指摘のように、その方が安全だし、周りの人たちも協力し易いと思いました。

2020年4月 9日 (木)

「被爆75年・あの日を忘れない」藤登弘朗水彩画展始まる

 平和への祈りを込めて「被爆建物・樹木・地蔵」を描いた水彩画60点が展示された「被爆75年・あの日を忘れない」と題する藤登弘朗さんの水彩画展が、昨日4月8日から旧日銀広島支店の1階で始まりました。

私は、作者の藤登さんから3月初めに案内のハガキをいただいていましたので、初日の昨日、会場を訪れました。

Dsc_6040  

私と藤登さんの最初の出会いは、確か2008年だったと記憶していますが、私が「広島で初めての『東京大空襲写真展』」を開催するため、旧日銀広島支店の使用申し込みに広島市役所を訪れた時です。藤登さんも同じ時期に「水彩画展」の会場申し込みに来ておられました。私が「東京大空襲展は、どうしても3月10日を中心に開催したいと思いますので、何とかご協力いただけませんか」とお願いしたところ、快諾をいただき、私が希望する日時で開催することができました。そして藤登さんの水彩画展は、一週間ずらしての開催となりました。

東京大空襲展を開催するなら3月10日を中心にと思っていましたので、この快諾は本当にうれしかったことを今でも覚えています。ですからその後何度か開催された藤登さんの展覧会には、必ず会場を訪れました。また藤登さんからは、作品集を送っていただきました。

今回の展覧会は、この2~3年の間に描かれた作品60点が展示されています。会場に入って最初の目に飛び込むのは、被爆地蔵が描かれた作品です。被爆地蔵は、20点が展示されています。

このブログで昨年紹介したお寺の名前がいくつかあります。その一つに、先月末、満開のシダレザクラを見に訪れた普門寺の地蔵もあります。桜を見に訪れた時には、気づかなかったお地蔵さんです。

Dsc_6046

帰宅途中、普門寺によってみました。大小二つの地蔵が建っています。展示されていた絵に描かれたのは小さい方(画集には、大きい方も描かれている)ですが、大きい方には、肩のあたりに大きな傷が見えます。

Dsc_6057

ちょうどお寺の奥様が、境内に落下した桜の花びらを掃き集めておられましたので、少しお話を聞きました。「そうです、このお地蔵さんが、被爆したものです。大きい方をよく見てください。首から上と胴体の部分の石の色が違うでしょ。被爆後、首から上はどこに飛んで行ったのか行方不明のままでしたので、後から首から上を作り直して乗せているのですよ」今日も不思議な縁を感じました。

話を藤登さんの展覧会に戻します。藤登さんは、お地蔵さんを描くきっかけを話してくださいました。「ある日、西平塚の興善寺の前を歩いている時、境内から小学生がたくさん出てきました。お寺の方にどうしたのですかと訊ねたら、『被爆した地蔵を見に来たのですよ』と教えられました。それを機会に、被爆地蔵を描くようになったのですよ」と。描かれた地蔵さんは、いずれも傷を負っています。

Img002_20200408180301

 この絵は、画集から転載した興善寺の被爆地蔵

その後、清水顕さんの写真集「地蔵の記憶」を頼りに被爆地蔵巡りが始まったそうです。

展覧会場では、お地蔵さんの絵につづくのは、被爆建物を描いた絵20点です。その中には、昨年末から保存をめぐって話題となっている「旧陸軍被服支廠」を描いた絵4点があります。左側の3点は、今年に入って描かれたものですので、今回展示されている作品の中では、最も新しく描かれて作品です。

Dsc_6050

被爆樹木も展示されています。中でも天満小学校にある「プラタナス」が目を引きます。というのは、一昨日現地を訪れて、見てきたばかりだからです。特徴が良く描かれています。

Dsc_6051

Dsc_5991

その他にも昨年被爆樹木めぐりで訪れた木も描かれています。

私が会場を訪れた時、二人の女性が藤登さんの説明を聞きながら絵を見ていました。二人は被爆二世とのことで、機会があれば市内の被爆に関するものを巡っているそうです。「この展覧会で新しい出会いを多く体験しましたので、現地で本物を見ようと思っています」と話してくれました。

藤登さんの作品は、すでに4冊の画集(「被爆建物は今」「生き続ける被爆樹木」「慰霊碑」「被爆地蔵」)として発刊されていますが、残念ながら在庫はないそうです。

展覧会は、12日までの会期です。こうした時期(新型コロナウイルスで外出自粛が言われている)ですが、一人でも多く訪れていただき、藤登さんの作品と一緒「平和への思い」を考える機会になればと思います。

いのちとうとし

[お願い]
この文章の下にある《広島ブログ》というバナーを一日一度クリックして下さい。
広島ブログ

広島ブログ

 

より以前の記事一覧