「広島ブログ」

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文化・芸術

2020年6月 7日 (日)

被服支廠に想いを寄せて

広島市南区出汐にある旧広島陸軍被服支廠は、昨年12月に解体案が出され、議論を呼んだ被爆建物です。安全対策などの問題もありますが、被爆の実相を伝える生証人として、一部保存と言わず、全棟保存するべきだと思います。

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思えばこの被爆建物との最初の出会いは、小学6年生の時、教室で担任の机の後ろに平和教育教材「ヒロシマ平和カレンダー」が何気に掛けられてあり、なんとなく勝手に触ってどんどんページをめくっていたら、突き当たりました。爆風でひん曲がった鉄製扉はインパクトが絶大で、しばらくカレンダーをつかんだまま眺めていました。ちなみに当時のクラスの担任は、特に平和教育をするというわけでなく、一人佇んで見入っている私を奇異な目で見ていたと思います。

その後、高校は広島皆実高校へ進学すると、学校のすぐ隣に建っているのを発見しました。まさかあの時のカレンダーで見たものが、高校の真横にあるとは・・・。最初は驚愕しましたが、毎日高校へ通っている内に、そこにあるのが当たり前になり、風景となっていきました。

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いつまでも当たり前に建っているのだと思い込み、高校を卒業しました。そのまま年月が流れ、ここに来て解体・一部保存と、このような大きな動きになるとは、当時思ってもみませんでした。何としても全棟保存に向けてほしいと思います。

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平和カレンダーは子ども向けの平和教育教材としてお勧め教材です。広島県教育用品(株)発行・販売で、現在私はこの会社の関連組織に勤務していますが、なぜか気になってカレンダーをずっと一人で見入っていたのも、何か幼き日の自分が将来を感じ取った運命的なものを感じます。

http://www.hipe.jp/calender/calenderindex.html

Mumei

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2020年5月29日 (金)

「平和と愛(友情)のシンボル プラタナスの碑」-天満小学校の原爆の絵第6号碑

私が訪ねた「原爆の絵碑」の中で、最も感動を受けた絵碑が、この第6号碑です。

これまで訪ねた絵碑は、外から見える場所に設置されていましたので、天満小学校を訪れた時も、ぐるっと学校の周囲の道路を一周したのですが、どこにも見つけることができません。もう一度回ってみたのですが、やはり見つかりません。学校の正門横に取り付けられたインターホンで、名前を名乗った後「ここに設置された原爆の絵碑はどこにありますか」「体育館の横の校庭にありますよ。プラタナスの木のところです」「入らせてもらっても良いですか」「どうぞ」。校庭に設置されていたのですから、外で見つけられないのは当然です。許可を得ましたので、正門横の通用口を開けて校庭に入りました。体育館横の大きなプラタナスの木をすぐに見つけることができました。

3本のプラタナスの手前に「原爆の絵第6号碑」が設定されています。このプラタナスは、被爆樹木です。

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この絵碑には「平和と愛(友情)のシンボル プラタナスの碑」というタイトルが付けられ、「説明文」が付けられています。知りたいことがすべて理解できますので、全文を紹介します。

「プラタナスは天満小学校の『平和と愛(友情)』のシンボルとして大切に保存されています。春になると芽吹き、プラタナスの風が、子どもたちを温かく、優しく包んでくれます。夏に葉を茂らせ、子どもたちに涼しい木陰をつくってくれます。

 このプラタナスは、1931(昭和6)年に植えられたものです。広島市に原爆が落とされた1945(昭和20)年8月6日8時15分、爆心地から西北西1.2km離れた天満小学校の校庭で被爆し、幹に大きな『うろ』ができました。しかし、今もしっかりと生きつづけ、子どもたちや地域の人々の歴史を語り続けています。

2004(平成16)年11月21日」

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「原爆で燃える天満町」という原爆の絵が右上にあります。他の絵碑と比べると少し小さいように思えます。作者は、第1号碑と同じ木村秀男さんです。昨日のブログの訂正が必要になりました。木村さんの絵の下には、被爆時の「壊れた天満橋」の写真があります。「広島女学院中・高等学校」の絵碑にだけ使われているといってしまった被爆後の写真がここでも使われていました。

この絵碑の特徴は、何といっても子どもたちが描いた4枚のプラタナスの絵です。

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そしてこの碑には、天満小学校児童会が作詞した「プラタナスの風」が刻まれています。さらに台座の側面には、「碑建立協力者・団体」の名前が刻まれています。ざっと数えても500人を超える個人の名前がありあす。そして町内会などの34の団体名も刻まれています。地域の人たちの被爆樹木プラタナスへの強い思いが、伝わってきます。

何よりも感動を覚えるのは、被爆の傷を残しながらも「すくっ」と大きく葉を茂らせて立っている3本の被爆樹木プラタナスの姿です。この木に会えただけでも、ここを訪れた甲斐がありました。

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実は、今回ここを2度訪れました。一度は、4月7日です。ようやく若葉が出た頃です。

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その時、「毎年、5月の連休中に一気に葉が大きくなりますよ」と教えていただきましたので、一週間前、改めてプラタナスに会いに行きました。説明文のとおり「涼しい木陰」を作るほどに大きな葉を茂らせていました。

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両日とも学校は休校中で、子どもたちの姿を見ることはできませんでした。

校門を出ての帰り道、改めて「プラタナス」が学校のシンボルとなっていることを知ることになりました。地域のみなさんも見ることのできる掲示板に貼りだされた「学校だより」の名称が「プラタナス」となっています。

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ぜひ訪ねてほしい場所です。

いのちとうとし

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2020年5月28日 (木)

広島女学院中・高等学校に設置された原爆の絵第5号碑

広島女学院中・高等学校に設置された「原爆の絵碑第5号碑」は、白島線の電車通りと城南通りの交差点の北東の歩道に面して設置されています。

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この原爆の絵碑は、よく見ると広島女学院中・高等学校の塀の一部として設置されていますので、学校側の協力が大きかったことが感じられます。

この絵碑には、他の原爆の絵碑とは違う点が、三つほどありました。一つは、被爆絵と共に被爆直後の写真2枚が取り付けられています。さらに添付した写真では少し見にくいのですが、2枚の被爆後の写真の間にクロスが刻まれています。広島女学院だからでしょうか?

三つめは、モニュメントの中に折鶴が供えられるようにポールも取り付けられていることです。現在は、学校が休校中ですが、普段は放課後に生徒たちが、この碑はもとより周辺の道路を清掃する姿をよく見ます。

モニュメントには、原爆の絵が7枚並べられています。すべて森本順子さんの絵本「わたしのヒロシマ」に出てくる絵です。絵の下には、森本さんの詩も刻まれています。 

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森本順子さんは、当時13歳で広島女学院高等女学校に在学、三篠町の自宅で被爆し家屋の下敷きになったのですが、助かりました。絵碑の左隅には「森本順子 広島女学院高等学校2回(1950年)卒」とありますから、被爆時は高等女学校の1年生だったと思われます。最近たまたま入手した「広島女学院百年史」(1991年発行)には当時の様子が次のように書かれています。「本校でも前日の8月5日、高女の1,2年生全員が、指定された雑魚場町の疎開作業現場に出動したが、作業量と人数を勘案した結果、翌6日からは1・2年生の約半数ずつが出動させることにした。・・・残りの者は自宅で休んでいた」「雑魚場町は、きわめて犠牲は甚大で生徒・教師の生存者はほとんどいない」と。

森本順子さんは、自宅待機組で命が助かった一人だったのです。大阪の中学校で美術教師をした後、1982年にオーストラリア・シドニーに移住し、2017年に亡くなられるまで同国で証言活動などを続けられました。絵本「私のヒロシマ」は、1987年に友への慰霊の気持ちも込めて被爆体験や広島の惨状、そして復興の様子が描かれています。翌年の8月に日本でも出版されました。

話は戻りますが、気になったのは2枚の被爆直後の写真です。

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上の写真は、左側の「専門学校の廃墟」です。

専門学校の学生は、東洋工業に学徒動員されていましたが、たまたまこの日は、1年生全員144名が登校していたため、ここで被爆することになりました。ここは、爆心地から1.2kmです。

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この写真は、右側の「高等女学校の廃墟」です。

高等女学校の一部は、広島鉄道局審査課に貸与されており、そこで事務作業をしていた生徒約40人が、ここで被爆しました。

二つの校舎は、現在の広島女学院中・高等学校がる場所に建っていましたので、2枚の写真は、被爆の惨状が残るこの場所の写真ということになります。

当時は、高等女学校の校舎が電車通り側に、専門学校の校舎がその東側に建っていたそうです。写真は、どちらの方向から移したものかはっきりとわかりませんが、後ろに映った山の景色などから想像すると、南側から写したように思えます。そうだとすると、写真の配置は左右入れ替えたほうが校舎の位置関係がわかり易いように思います。

「広島女学院百年史」によれば、被爆後は、牛田国民学校を使って学校が再開され、1946年2月に牛田に仮校舎が完成し、移転します。そして、1947年になると被爆時に学校があった上流川町(現上幟町)に校舎が完成し、8月6日、まさに原爆記念の日落成式を迎え、現在の広島女学院中・高等学校へと至っています。「専門学校」は、牛田の仮校舎に残り、1949年に広島女学院大学として開学し、現在に至っているようです。

いのちとうとし

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2020年5月27日 (水)

原爆の絵第4号碑は、原爆体験に根ざした平和教育を進めた森下弘さんの絵と書 -日本福音ルーテル広島教会

フジグラン広島前の「原爆の絵第8号碑」の除幕式に参加した後、最初に訪れた原爆の絵碑は、この第4号碑でした。この第4号碑は、第8号のある場所から東約300mの平和大通りに面した場所にある日本福音ルーテル広島教会(広島市中区鶴見町2-12)に設置されています。

この建物、1階は保育園になっていますので、教会は外に付けられた階段を上がった2階にあります。

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1階の階段入口には、教会名の看板の下に「雲上の平和祈念 原爆の絵碑NO.4」の表示板が付けてあります。

階段を上った踊り場の左手に「原爆の絵第4号碑」が設置されています。ここに立つと「雲上の」という意味が何となく納得できます。このモニュメントは、真ん中の1枚は書、左右の2枚は被爆時の絵で構成され、台座はどこかの建物で使われていたと思われる古材が資料されています。

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この3枚とも、昨日も紹介した被爆教師として、また書道家として活躍されている森下弘(ひろむ)さんの作品です。真ん中の一枚は、森下さんの詩「ヒロシマの顔(抄)」が、自身の書によって表現されています。

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 左右の2枚は、森下さん自身が目にされた鶴見橋西詰(爆心地から1.5キロ)の被爆直後の様子が描かれています。

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左の絵の下部には「閃光、熱戦  瞬間、私たち70名は巨大な溶鉱炉にすっぽりと投げ込まれた。そして、爆風が・・・  (鶴見橋西詰、爆心から1.5km)」と記入されています。

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右側の絵の下部にはやや長めの「8月6日、8時15分/爆心から1.5km鶴見橋西詰で家屋疎開作業前。/私たち広島一中三年生(14歳)70名は、整列して(北向きに)作業上の注意を聞いていた。/爆発!巨大な溶鉱炉にすっぽりと投げこまれた感じ。/とっさに伏せたが、すでに顔、手、首、足を火傷。/皮膚がたれ下った。/そして、爆風がサーッとその瞬間、一緒にいた70名が、一人以外はどうなったか知らない。/後日の話で、アンケートで地上にたたきつけられた者、数米吹きとばされた者、気を失った者、みんなが将棋倒しに圧しかぶさって、息がつまりそうだったと言う者/火傷馬が暴れていて怖かったと言う者・・・さまざま。/想像して描いてみた。」と記入されています。この文を読むと、台座に古材が使われている意味が理解できます。家屋疎開作業を連想させたかったのでしょう。

森下さんは、絵が収蔵されている資料館の「作者の説明」で「東洋工業(学徒動員)から、八月六日は、再動員の形で、疎開作業現場に出動していた。」もし学徒動員先の東洋工業で8月6日を迎えていたら?続けて「昭和四十九年、級友たちにアンケートし、また集まりを持って、その折の状況をくわしく聞いた。それを基に(2)を描いてみた。」と書かれています。文中の(2)は右の絵のことですが、級友たちの被爆体験が積み重なったもののように思えます。

モニュメントに付された「場所は、この付近だったと思われます。」の説明で、この馬車への設置の意味も理解できます。と記されています。この台座が載っている柱は、ここでも広島電鉄の被爆石が使われています。

この書と絵の作者である森下さんは、その後結核を患いながら24歳で広島大学を卒業、高校や大学の書道教師への道を進まれました。内向きだった森下さんだったようですが、1963年の長女の誕生、翌64年に米国人の平和活動家バーバラ・レイノルズさんが提唱した「世界平和巡礼」に参加したことが大きな転機となり、原爆体験を語りながら、平和教育を進めてこられました。

「被爆の絵第4号碑」の解説はこれで終わりですが、もう一言付け加えます。この場所を訪れる機会があったら、ぜひ教会の内部にも訪れてほしいいうことです。

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祭壇正面のキリストのブロンズ像

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左右の壁面に垂れ下がる布

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入り口の取っ手のブロンズ

この他にも階段付近や踊り場などに何点もの作品が取り付けられています。それらはいずれも私の35年来の知人、静岡在中の作家望月通陽(みちあき)さんの作品だからです。

いのちとうとし

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2020年5月22日 (金)

西応寺の「原爆の絵碑」第1号

被爆者が描いた原爆の絵をもとにして作られた「原爆の絵碑」は、全部で10号まで設置されています。そのいくつかは、以前にも訪ねたことがあったのですが、フジグランの第8号碑の除幕式に参加したことを機会に、改めて中区、西区に設置された8つの碑(残りの二つは、安佐南区に設置)を訪ねてみました。

その報告ですが、今回は、平和公園からすぐ近くにある西応寺(中区中島町)の入り口に、最初に設置された第1号碑です。

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木村秀男さんが描かれた「広島市天満町福島川土手の『原爆投下直前の図』(左側)と『原爆投下後の図』」の2枚が並んでします。台座は、広島電鉄から提供を受けた被爆石が使われています。私が、ドイツの「ポツダム・ヒロシマ・ナガサキ広場」に作られたモニュメントとして送った被爆石と同じ広電の路面電車の敷石だと思われます。

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絵をもう少し詳しくみてみたいと思います。この絵を描いた木村さんの被爆時の年齢は12歳です。木村さんの絵は、原爆資料館の平和データベースに全部で20枚が登録されています。そのうち「天満町福島川土手」を描いたものが、5枚あります。その中には、この絵とほとんど同じ様子を描いた絵がありますが、よく見ると細部に少し違い(子どもたちの向き、橋が描かれているかなど)があることが分かります。「原爆の絵碑」に使われている絵は、この碑のために後に描かれたものだと考えられます。

左側の「投下直後の図」には、右横に「広島市立草津国民学校高等科1・2年生 男女167名」と書かれているだけですが、原爆資料館のデータベースには「建物疎開作業に向かう途中で被爆し、助けを求める草津国民学校の生徒たち」と解説されています。二つを読むと「子どもたちは作業中ではなく、移動中に被爆した」ことが理解できます。

「草津国民学校の生徒たちは、どこの建物疎開作業に向かっていたのか」が気になり、今回も広島原爆戦災誌で調べてみました。「教職員4人に引率された男女生徒167人が、作業現場の小網町(土橋)に向かう観音町付近で全員が被爆し、約71人の生徒が重軽症を負った」となっています。草津国民学校は、爆心地から4.7キロの距離ですから、子どもたちの作業現場は、直線距離でも約4キロ先にあり、その距離を徒歩で向かっていたようです。

これを調べて改めて絵をよく見ると、子どもたちは半そでの夏服姿で描かれていますが、左側の絵では先頭に二人、右側の絵には真ん中やや上側に一人、長袖の国民服姿の引率の先生も描かれているのが分かりました。福島川土手で被爆した子どもたちには、即死者はいなかったようですが、直接作業現場に向かった2人の生徒が即死しています。

この第1号碑の上部には、他では見ない長文の説明版があります。説明版の右側は、「世界がヒロシマを忘れた時、再びあの日が繰り返される。」というタイトル書きの下に「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」の会長だった小説家・脚本家の早坂暁の「あの日を見つめて下さい」というあいさつ文と2002年8月3日と日付の入った「返す会について」の説明文が記載されています。

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説明版の左側には、この絵の作者である木村秀男さんの詩「生き地獄」が書かれています。

空を見上げれば、B29爆撃機/白い飛行機雲が輪を描く/ピカー、ピカーと光る/閃光・大音響・熱線・爆風/黒煙と黒い雨/火の海、屍の川/火の中の人間/煙の中の人間/水の中の人間/熱い、熱い、火が迫ってくる/真っ黒に煤けた人間/皮膚も肉も焼けただれて/ぶらさがり、ふくれあがり、/あー助けて、助けてと叫ぶ/あー水を、水を下さい、水を―息絶える/この世の生き地獄だ/二度と繰り返させないぞ、来世は/

 この詩の最後には「木村秀男2004年1月記」と記されています。これによって、この説明版は、「原爆の絵第1号碑」が設置された2002年8月3日にはなかったものが、後に設置されたものであることが分かります。なぜ後に設置されることになったのか、またこの碑だけどうしてなのか、はっきりとした理由はわかりません。

私の勝手な想像ですが、他の「原爆の絵碑」と比べて、平和公園に最も近い場所(平和大通りを挟んですぐといってよい近さ)にあること、西応寺は、原爆詩人峠三吉のお墓のあること、そして当時3軒南側に平和会館(広島県被団協の事務所:現在は大手町に移転)があり、ここを訪ねる人も多かったため、説明版が設置されたのではないかと思います。

この後、峠三吉のお墓参りをしたのですが、その様子は次回報告します。

いのちとうとし

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2020年5月21日 (木)

新型コロナウイルス断想・その10 ――創造的な「Stay Home」のために――

新型コロナウイルス断想・その10

――創造的な「Stay Home」のために――

 

休業要請や自粛が解除されつつはありますが、まだまだ外に出る機会は少ないようですし、家にいる時間の長いことには変わりありません。その折角の時間を「創造的」に使うための提案です。

とは言え、人間誰でも自己中心的ですので、この提案も御多分に漏れません。お許し頂ければ幸いです。

  • 折角、このブログをお読み頂いていますので、その楽しみをもっと長く続けるために、「コメント」を書いてみましょう。書くことで、ブログの内容が良く分るようになるはずです。
  • コメントを送るときに、実は小さなテストがあります。「送信」ボタンを押した後、スパム防止のために、見え難い数字を読み取って、正しい数字をインプットするのですが、コメントを送る度に、眼の検査ができるのです。毎日少しでも視力が改善しているのを確認できますし、悪くなっていたら、眼科に行きましょう。

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  • コメントを頂いた方の中から、いくつかのジャンルについての「賞」を差し上げます。「短いコメント賞」とか「ユーモア賞」、「勉強になりました賞」等、感動に従っての名前を付けます。「賞品」が付くかもしれません。
  • 興が乗ったら、短いエッセイを書いて下さい。送り先は、コメントを頂ければお教えします。写真や、和歌、俳句も歓迎です。
  • リクエストや質問等もお願いします。

   私は今、昔、アメリカで集めたLPレコードを引っ張り出して聴いています。もう少し良い環境で聞けたらとも考えて、環境を整えるためにどのくらい投資すべきか、迷ってもいます。良いアドバイスを頂ければ幸いです。

 [2020/5/21 イライザ]

 

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コメント

当方、普通の機器しか、持っていません。スピーカーだけ、増やして、いました。でも、たった1セットの高級スピーカーに、負けているかも、知れません。お金を、かけたくない、いいえ、先立つものが、、、ないのです。昔から,オーディオの音質は、、金額に、比例は、するとか、、、、。当方、そういう、凝り性では、なてく、ほどほどと、いうものです。車に、マークレビンソン仕様。いい音が、しています。別の車は、後席の、ヘッドレストの、後ろに、スピーカーが、あります。トランク全体を、使って、響かせて、います。後者の方が、好みです。前者の、マークレビンソンも、トランクで、鳴っていますが、後者ほど、スピーカー径が、大きくありません。あの有名な三橋達也さん。壁にスピーカーを、埋める、と、いうものでした。と。オーデオの、本を出している同級生が、います。当方、理論は、ありません、感覚的な、自分の、好みだけです。当方は、とりあえず、スピーカーを、増やす、と。30年間、そこで、止まって,います。大小スピーカーボックス、片側、数個ずつ。配線を、枝分かれ、させています。アンプ、安価です。3セット、あちこちに。環境というのは、オーデオルームと、いう、ことですか。それとも 、機器、機材も、ですか。当方、ながら族なので、音質には、うといです。       Jerry Keller   here COMES SUMMER.  イライザ様のアメリカ高校時代、こんなカンジだったのかなぁ、と。好きな歌の一曲です。昭和40年代ドーナツ盤,50年代、LPです。   今、youtubeです。

コメント有り難う御座いました。

まずは、「コメントをお願いします」に応えて下さった最初のコメントですので、「最初のコメント賞」です。有難う御座います。

賞品は、「Architektur aus Papier」です。グリーティング・カードなのですが、二つ折りのカードを開くと、中に、3次元の建物が現れるようになっています。建物は、ベルリンの中心部にあるコンサートホール広場の三つの建物です。

送り先をコメントとしてお送り下さい。これは公表しません。

私はLPを聞くので固定した場所での再生装置です。まずはスピーカー、そしてあとはレコードプレーヤーかなと思っています。

最高の音響機器は脳だと思います。ウォークマンが発売されるまではスコアを持ち歩いて自然の中で音楽を楽しんでいましたが、音楽好きの知人にはオーディオに家が建つほどのお金をかけた挙げ句、ラジカセに落ち着いたという人もいました。どんな高級オーディオも脳が行う補正にはかないません。

そして今現在、最も聴いている音源は先のコメントでも書かれていたYouTubeです。戦前の名演から、最近のコロナ禍で公開されている自宅での珍しい演奏まで、際限なく楽しめています。

と言うものの、毎年2−3回はスピーカー・ヘッドホン・イヤホンを買い替えている私で、最近はネットオークションのおかげで買った金額より高く売れる場合も珍しくなく、安いセルフ・サブスクリプションですが、それはそれで音楽を楽しむこととは別の趣味になっています。

「工場長」様

コメント有り難う御座いました。

残念なことに、最高の音響機器の中にも優劣があるようで、私はそこそこの外部機器に頼らざるを得ない状況です。特別定額給付金の一部をそれに充てることも検討中です。

それと、最近は私もYouTubeを良く利用するようになりましたが、色々と面白い発見があって、何時まで経っても人間ってあまり進歩していないんだなー、と思うことも再々です。



「工場長」様 

大切なことを忘れていました。いつも楽しくためになるコメントを有難う御座います。「賞」を差し上げます、と約束しましたので、「いつもコメント有難う賞」です。

賞品は、Architktur aus Papierで、二つ折りのカードを開けると現れる建物はドイツの国会議事堂です。

youtubeを、ご覧に、なるということで。総理大臣の、車列の走行、箱乗り他です。何で、品の無い走りなのでしょうか。警護車に、赤色灯装備ですが。白バイの、パトカーの先導で、緊急走行した方が、周囲にも、わかって、いいと思うのですが。外国の元首の、それのように、交通遮断までは、望みませんが・・・。ニンジン棒を、振って、身体を、乗り出して、強引に、割り込みです。赤色灯を、回せば、一般車は、譲るのに.まぁ、品の無い走り方です。見ている、こちらの方が、恥ずかしくなります。警護車が、右に、左にと、車線変更の、繰り返しです。それについて、合理的な、理由が、見い出せません。パトカーが、いたら、総理大臣の車の横に並ぶ者は、いません。センチュリーでしたが、一台は、カーテン有り、もう、一台は、カーテン無し。両方カーテン有りにすれば、いいものを。どちらの車に、総理大臣が、乗車しているか、わからないように、することが、セキュリティ対策だと、思います。一体何をやってんでしょうか。抜けてます.佐々淳行さん、曰く。最悪の事態から、警備を、考えろ、と。緊急走行でなくても、警護車は、赤色灯を、回せと、なります。一般車に、急ブレーキなんか、させては、いけないのに。強引な割込み、これだけで、OUTです。

「山下」様

勉強になるコメント有り難う御座いました。総理の車列をYouTubeで見ました。

それで思い出したのが、ボストンで遭遇した「Hells Angels」の車列です。大型のモーターサイクルが複数台、高速への入口を封鎖して他の車を制圧して、我が物顔に高速を独占するやり方はピッタリ一緒です。

もう一つ、昔、土井さんが党首として外国に出掛けるために成田に向っていたときは、パトカーに先導されていました。御指摘のように、その方が安全だし、周りの人たちも協力し易いと思いました。

2020年4月 9日 (木)

「被爆75年・あの日を忘れない」藤登弘朗水彩画展始まる

 平和への祈りを込めて「被爆建物・樹木・地蔵」を描いた水彩画60点が展示された「被爆75年・あの日を忘れない」と題する藤登弘朗さんの水彩画展が、昨日4月8日から旧日銀広島支店の1階で始まりました。

私は、作者の藤登さんから3月初めに案内のハガキをいただいていましたので、初日の昨日、会場を訪れました。

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私と藤登さんの最初の出会いは、確か2008年だったと記憶していますが、私が「広島で初めての『東京大空襲写真展』」を開催するため、旧日銀広島支店の使用申し込みに広島市役所を訪れた時です。藤登さんも同じ時期に「水彩画展」の会場申し込みに来ておられました。私が「東京大空襲展は、どうしても3月10日を中心に開催したいと思いますので、何とかご協力いただけませんか」とお願いしたところ、快諾をいただき、私が希望する日時で開催することができました。そして藤登さんの水彩画展は、一週間ずらしての開催となりました。

東京大空襲展を開催するなら3月10日を中心にと思っていましたので、この快諾は本当にうれしかったことを今でも覚えています。ですからその後何度か開催された藤登さんの展覧会には、必ず会場を訪れました。また藤登さんからは、作品集を送っていただきました。

今回の展覧会は、この2~3年の間に描かれた作品60点が展示されています。会場に入って最初の目に飛び込むのは、被爆地蔵が描かれた作品です。被爆地蔵は、20点が展示されています。

このブログで昨年紹介したお寺の名前がいくつかあります。その一つに、先月末、満開のシダレザクラを見に訪れた普門寺の地蔵もあります。桜を見に訪れた時には、気づかなかったお地蔵さんです。

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帰宅途中、普門寺によってみました。大小二つの地蔵が建っています。展示されていた絵に描かれたのは小さい方(画集には、大きい方も描かれている)ですが、大きい方には、肩のあたりに大きな傷が見えます。

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ちょうどお寺の奥様が、境内に落下した桜の花びらを掃き集めておられましたので、少しお話を聞きました。「そうです、このお地蔵さんが、被爆したものです。大きい方をよく見てください。首から上と胴体の部分の石の色が違うでしょ。被爆後、首から上はどこに飛んで行ったのか行方不明のままでしたので、後から首から上を作り直して乗せているのですよ」今日も不思議な縁を感じました。

話を藤登さんの展覧会に戻します。藤登さんは、お地蔵さんを描くきっかけを話してくださいました。「ある日、西平塚の興善寺の前を歩いている時、境内から小学生がたくさん出てきました。お寺の方にどうしたのですかと訊ねたら、『被爆した地蔵を見に来たのですよ』と教えられました。それを機会に、被爆地蔵を描くようになったのですよ」と。描かれた地蔵さんは、いずれも傷を負っています。

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 この絵は、画集から転載した興善寺の被爆地蔵

その後、清水顕さんの写真集「地蔵の記憶」を頼りに被爆地蔵巡りが始まったそうです。

展覧会場では、お地蔵さんの絵につづくのは、被爆建物を描いた絵20点です。その中には、昨年末から保存をめぐって話題となっている「旧陸軍被服支廠」を描いた絵4点があります。左側の3点は、今年に入って描かれたものですので、今回展示されている作品の中では、最も新しく描かれて作品です。

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被爆樹木も展示されています。中でも天満小学校にある「プラタナス」が目を引きます。というのは、一昨日現地を訪れて、見てきたばかりだからです。特徴が良く描かれています。

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その他にも昨年被爆樹木めぐりで訪れた木も描かれています。

私が会場を訪れた時、二人の女性が藤登さんの説明を聞きながら絵を見ていました。二人は被爆二世とのことで、機会があれば市内の被爆に関するものを巡っているそうです。「この展覧会で新しい出会いを多く体験しましたので、現地で本物を見ようと思っています」と話してくれました。

藤登さんの作品は、すでに4冊の画集(「被爆建物は今」「生き続ける被爆樹木」「慰霊碑」「被爆地蔵」)として発刊されていますが、残念ながら在庫はないそうです。

展覧会は、12日までの会期です。こうした時期(新型コロナウイルスで外出自粛が言われている)ですが、一人でも多く訪れていただき、藤登さんの作品と一緒「平和への思い」を考える機会になればと思います。

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2020年4月 8日 (水)

「原爆の絵8号碑」の除幕式

3日午前11時、フジグラン広島(中区宝町)で「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」が制作した「原爆の絵8号碑」の移設除幕式が行われました。

事前の中国新聞報道で、今回移設された「8号碑」は、原広司さんの絵が焼き付けられていることを知り、除幕式に参列することにしました。

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全員の黙とうで始まった式は、最初に主催者お二人のあいさつです。一人は、「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」会長の岡村信秀さん。岡村さんは、県生活協同組合連合会の理事長でもありますので、「ヒバクシャ国際署名」の活動などを通じて旧知の方です。

もう一人は、今回の「絵碑」の設置場所を提供された株式会社フジ代表取締役会長兼CEOの尾崎英雄さん。

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尾崎さんのあいさつは、「昨年の春から初夏にかけて、広島県から場所提供の打診がありました。近くに世界的なホテルも建設されるので、世界の人々にこの絵碑を見ていただく機会となり、核兵器廃絶に繋がればとの思いで、協力することにしました。」さらに「少し長くなるのですが」と前置きし、「被爆者が描いた原爆の絵を街角に返す会」の初代会長であった小説家・脚本家の早坂暁さんが、株式会社フジの本社がある松山市の隣北条町(現在は松山市に合併)の出身であることを紹介しながら、早坂さんと原爆のかかわりについて話されました。「生家が遍路みちに面した大きな商家で、幼少より遍路に接してきたこと、また、遍路に置き去りにされ、生家が引き取って『妹』春子として育った少女が、広島で原爆に遭い死亡したと思われる。その春子さんを探しに広島に来た早坂さんは、春子さんを見つけることはできなかったが広島の惨状を目の当たりにした。そのことがあったため、この会の会長を引き受けたのだと思います。」この話を聞きながら、確かNHKで放映されたなと思い、帰宅後調べてみました。早坂さんが亡くなられて(2017年12月16日)翌年の夏、「花へんろ 特別編『春子の人形』」として放映されていました。

主催者のあいさつの後、学校法人広島山陽学園専務理事石丸仁土さん、原画制作者米田勁草さんの二人の来賓を加えた4人による除幕が行われました。

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爆心地から490メートルにあった山口銀行広島支店外壁に使われていた被爆石を台座に、縦70センチ横1メートルの黒御影石に焼き付けられた3枚の絵の陶板がはめ込まれた「原爆の絵碑」が登場しました。

その後、来賓のあいさつ。最初は石丸さんです。「8号碑が移設されたこの場所は、1966年まで山陽学園山陽高校の校地であった。1945年の原爆投下で校舎は焼失した。教職員と生徒が505人死亡した」とこの場所との縁を紹介。次に米田さんのあいさつです。自分自身は、学童疎開で旧加計町安野の正覚寺にいて被爆を免れたことを話しながら、「被爆者ではないが、忘れることはできない。被爆者の犠牲の上に今の広島があることを忘れてはならない。この絵にカンナを描いたのは、がれきの中から芽を出した初めて最初に見つけたのがカンナだったからです。復興の象徴として描きました。」と絵への思いを語られました。米田さんの絵には、父米田栄作さんの詩「路傍のみどり」の抜粋が添えられています。

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「原爆の絵8号碑」には、3枚の絵が焼き付けられていますが、うち左右の2枚が原さんの絵、真ん中が米田さんの絵です。

原広司さんの絵は、原爆投下の翌日7日に入市し目にした光景が描かれています。左側は、11時40分富士見町。

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キャプションにはこう書かれています。「『水をくれ―』「水をくれ―」と私に言った。学校から帰る際、先生から『水を飲ませたら死ぬ』と注意があった。私はその場を逃げるように足早に行った。手を合わす姿が今も忘れられない」

右側は、12時10分宝町。

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こちらのキャプションは「死体の上に焼けたトタンがかぶせてあった。付近に収容されない死体が多く放置されていた。なんたる光景であろうか。1日前までは戦時下であっても家族があり、元気に生きていたのに…」

40分ほどで、除幕式は終わりました。

「原爆の絵8号碑」の移転までの経緯や、他の「原爆の絵碑」(全部で10枚)のことや台座の被爆石のこと、山陽高校のことなどについて調べてみましたので、改めて紹介したいと思います。

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2020年3月30日 (月)

遺稿集「橋本秀夫の仕事ぶり」

今日は、22日のブログ「赤レンガ倉庫は語り継ぐ―旧広島陸軍被服支廠被爆証言集―」で紹介した「建築家橋本秀夫遺構集『橋本秀夫の仕事ぶり』」の入手顛末記です。

どんな本なのか興味が湧き、ブログを書いた後すぐに広島市立図書館の蔵書検索で探しました。中区図書館が蔵書していることが分かりました。しかし現在広島市立図書館は、新型コロナウイルス対策で、全館閉館中で、貸し出しはインターネット予約のみですので、予約を行いました。私の受け取り館は、中区図書館ですので、すぐに「予約確保」の返信がありましたので、早速本を受け取りに行きました。

手にしてびっくりです。300ページを超える分厚い本です。さらに開いてみて、またびっくりです。「赤レンガ倉庫は語り継ぐ」に引用された「蘇る旧陸軍被服支廠 保存と文化」はもちろんですが、広島城、旧レンガ建物、「旧広島水上警察署」などの郷土史と文化財の第1部論文集につづいて、第2部「砲台めぐり」と、自らが現地を訪ねて測量などを行って調べた結果がまとめられています。しかも手書きの図面や写真がふんだんに盛り込まれています。一人でここまで、それにしてもよく訪ね歩かれたものだと感心します。

興味津々です。最初の登場する「広島城」は、昭和18年から広島城天守閣実測を始められたことが分かります。後で、次女の河野さんから聞いた話ですが、この橋本秀夫さんが残された資料が、広島城橋御門の復元にずいぶんと役に立ったそうです。凄い資料の連続ですが、私が興味を持ったのは、第2部の「砲台めぐり」です。日清戦争に勝利後、ロシアとの戦いに備えて、全国各地に要塞が築かれたのですが、芸予、広島湾にも要塞が構築されました。橋本先生は、その広島湾に作られた全部の要塞について調べておられるのです。私もそのいくつかを訪ねています。宮島にある「鷹の巣砲台」大柿町の「三高山砲台」呉市警固屋の「高烏砲台」竹原市の「大久野島堡塁砲台」などです。三高山砲台は、この本の写真よりもずいぶんと綺麗になっていますので、橋本さんの仕事が後押ししたと思われます。

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2018年4月に訪れた三高砲台

もう少し前にこの本を知っていたらと思うとともに、この本を片手にもう一度訪ねてみたい思いに駆られます。

本の紹介が長くなりました。今日書くべきは、入手の顛末でした。「砲台めぐり」を見つけ、これはどうしても入手したいと思い、本の名前をキーにネットで検索しました。ヒットしたひとつに、広島県立広島工業高等学校同窓会がありました。問い合わせの電話をかけたのですが、「在庫はありません」とのことで、ここでは見つけることができませんでした。ただこの電話をかけたおかげで、同窓会事務所を訪れることができたのですから、決して無駄ではありませんでした。

次に連絡をしたのが、本の奥付に記載された「問い合わせ先」です。木原さんという方が応対してくださいました。「ここには在庫がありません。確か、遺族の方が何分か持っておられるはずですので、連絡を取ってみます」という返事を聞き、いったん電話を切りました。すぐに連絡の電話が入り、「次女の河野さんがお持ちでした」と連絡先を教えて下しました。すぐに河野さんに電話を入れました。「お分けできますよ」との返事。その日のうちに自宅を訪れ、ついに「遺稿集『橋本秀夫の仕事ぶり』」が私の手に入りました。突然の訪問でしたが、河野さんからは、先に紹介した広島城復元の話や橋本秀夫ご夫妻の在りし日のことなど、貴重な話を沢山聞かせていただきました。

河野さんの自宅を持してから訪ねたのが県工同窓会事務所です。ここでの話は、大部分をすでにブログに書きましたが、一つだけ書き忘れたことがあります。それは、同窓会事務所の隣の部屋にあった建物の模型群です。

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広島城橋御門の模型 後に広島城の模型がある

この模型は、いずれも橋本さんが残された図面をもとにして、県工の在校生たちが作ったものだそうです。

またここでも繋がりの不思議を体験しました。

訊ね訊ねて入手できた本ですので、大切に活用したいと思います。

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2020年3月24日 (火)

千田小学校の被爆石の由来

22日のブログで紹介しました「橋本秀夫の仕事ぶり : 建築家橋本秀夫遺稿集」を入手できないかと探し回っている中で得た、新たな情報です。

入手できる方法を見つけようとネットで検索していたら、広島県立広島工業高等学校(以下「県工」という)同窓会の名前が出てきました。すぐに電話を掛けたのですが、今日の話はその顛末です。

電話口に出られた吉森先生(学校の講師を務めながら、同窓会事務局の仕事もされている)、「橋本秀夫さんは、元は県工の卒業生でもあり建築家の先生でした。私も机を並べて仕事をしていました」と教えていただいたのですが、肝心の本は、すでに品切れでここでは入手することはできませんでした。しかし、電話口の吉森さんから、陸軍被服支廠についての新しい情報を得ることができました。詳しく知りたかったので「午後に同窓会事務所を訪問する」ことを約束し電話を切りました。

午後2時過ぎに訪れた県工同窓会事務所は、陸軍被服支廠の北側の延長線上に建つ2階建ての建物です。2階にある事務所からは、被服支廠の全体が見渡せますので、早速、ベランダに出て写真を撮りました。しかし午後の日差しでせいで、日陰となりあまり映りはよくありません。気の毒に思われたのでしょうか、吉森さんが「この写真はどうですか」と県工同窓会が映した空中写真を提供して下しました。下の写真です。普通では撮れないアングルです。

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その後、椅子に座込んでの話が弾みました。話の中で、私が「千田小学校に被爆石として県立工業学校(県工の前身)時代の『車回し入口土台石』があるのですが、ご存知ですか」と尋ねたところ、「えー、初めて聞く話です。本当ですか」との答え。私のスマホに、その被爆石の写真がありましたのでそれをお見せすると、「待ってくださいよ。ここには古い写真が何枚もあります。その中に映っているものがあるはずです」と書棚を探してくださいました。

ありました。一枚は、昭和初期の千田町の県立広島工業学校の玄関の写真です。車回し入口に二本の柱がきちんと映っています。

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「この土台部分だと思います」吉森さんの話です。この写真では、見分けにくいのですが、柱は3本がL型になっています。千田小学校にある被爆石の一番上部の石も、3つの穴がL字型になっています。

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次にもう一枚の写真出てきました。被爆後、昭和25年(1950年)に映された正門の写真です。バックに、車寄せ入り口の土台石だけ残ったままで映っています。一番下のレンガ部分を除いて千田小学校に移築されたと思われます。

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千田小学校の被爆石「車回し入口の土台石」は、間違いなくかつての県立工業学校にあったものだと思います。千田小学校を訪れた時には、「どこでどんな風に使われていた」のか不明でしたが、うれしい解明です。ちなみに県立工業学校は、現在の県立図書館などが建っている場所にありました。正門は本川沿いの西側に面し、校内の北寄りにあったようですので、ちょうど県立図書館が建っている場所の西側道路沿いにあたります。「学校の古い歴史に関心を持つ友人がいますので、ぜひ一緒に千田小学校を訪ねたいです」との吉森さんの話でした。今回使用した写真は、いずれも使用許可をいただいています。

ところで「橋本秀夫の仕事ぶり : 建築家橋本秀夫遺稿集」ですが、いろいろ尋ねてついに入手することができました。その顛末と本の内容については、後日報告します。

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